昔読んだ本を、再び手に取ることを‥最近、始めた。
以前、画家マリー・ローランサンについて、何かに書いたことがある。
〇〇な女シリーズのうち、一番哀しいのは「忘れられた女」である、と私も…思っていた。
マリーが書いた詩を、堀口大學が訳している。
「鎮静剤」
マリー・ローランサン
堀口大學 訳
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
マリーが、一生を通して愛した詩人アポリネールが、自分を「忘れて」他の女性と結婚してしまったこと、そしてその死。
知らせをもらって、彼女がすぐに書いたのが、この詩である。
実は、マリーは知らない。
アポリエールが亡くなる時に枕元にあった絵は、マリーが描いたものであったことを。名画「アポリネールと友人達」とともに、彼は逝ったのだ。
忘れられていなかったことを知っていたら、この詩は違ったものになったであろう。
この詩は、多くの女性たちに共感された。
私もまた、恋を失い、泣き暮らす日々に、この詩を思う一人だった。
しかし、だ!
今になって、思う。
本当に、忘れられることは哀しいのだろうか?
人間に与えられた神からのプレゼントは、「忘れる」ことではなかったか。
年を取って忘れっぽくなることを、皆ネガティブにとらえるけれど、これが意外と楽しい。
砂糖菓子のように、ほわほわした世界を生きることができるから。
だいたいのことは、それほど大騒ぎをすることじゃない。
執着することが人間の業であるなら、忘れることによって、少しずつ心は解放されていく。未来に向かって一歩、また一歩とゆっくり歩み出せるはず。
ものごとだけではなく、その存在すらも忘れていく、忘れられていくことは、もしかするととても自然なことかもしれないと思った。
何かふとした瞬間に、まばたきをするちょっとの間だけ、思い出してもらえれば…それでいいな。
忘れることが、まるで春風が頬を撫でるように吹いていくのであるなら、忘れられた女はみじめな存在などではない。
赦しと慈しみを与える、崇高な女神である。どこが哀れであろうか。
そう考えると、アポリエールとマリーが「忘れられない」思いを抱えながら死んでいったのは、とても気の毒なことに思える。結晶化してしまうと、心は解き放たれないまま‥だからである。
そして、忘れられることを哀しいと思うあなたには、まだ人生で達成していないことがおそらく、ある。
いつか、それらを叶えたら、忘れられてもいいと思えるのかもしれない。
年を取るっていい。
2025年3月6日
今日も、仕事の合間に別の本を読み返している執務室にて。
あ、新刊は4月22日発売予定(三笠書房)。まだゲラ校正中。









