1.諭旨解雇に応じるのか?
「使用者が労働者に退職を勧告し、労働者に退職願を提出させたうえで解雇する」ことを「諭旨解雇」といいます。解雇せず、退職扱いにすることを「諭旨退職」といいます(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、第3版、令5〕606頁参照)。
非違行為を犯したとして、使用者側から諭旨解雇を予告された場合、労働者は、
① 受け入れて退職願いを出す、
② 退職願いは出さず、争う、
のいずれかの方針を選択することになります。
諭旨解雇を受け入れて退職願いを提出する場合、実務上は、退職金の全部ないし一部が支給されるのが通例です。
他方、退職願いを出さないと、大抵の場合、懲戒解雇されます。懲戒解雇の効力と退職金の支給/不支給が結びつけられている例は多く、懲戒解雇されると、大抵の場合、退職金は支給されません。
そのため、諭旨解雇を告知された場合に、受け入れるか/争うのかは、かなり厳しい判断になります。懲戒解雇の効力を争って勝ち切れるのかの予想は、それほど正確にできるものではないからです。
こうした観点から、諭旨解雇されて、争い、そして敗訴した裁判例をデータとしてストックしておくことには重要な意味があるのですが、近時公刊された判例集に、参考になる裁判例が掲載されていました。東京地判令6.9.12労働経済判例速報2575-13 労働判例ジャーナル156-48国立大学法人東京大学事件です。
2.国立大学法人東京大学事件
本件で被告になったのは、東京大学を設置する国立大学法人です。
原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、東京大学大学院C研究科(本件研究科)の教授として稼働していた方です。
原告の方は、前任の教授が定年退職をしたことを受け、平成28年3月に博士課程を満期退学した学生(昭和9年生まれ D氏)の博士論文執筆の指導を引き継ぐことになりました。D氏は満期退学後も博士論文の執筆を継続していたと認定されていました。
このような状況のもと、F講師に対し、複数回にわたってD氏の博士論文の一部の下書きをするよう指示又は依頼した行為が懲戒事由に該当するとして、諭旨解雇を告知されました。原告の方が退職届を提出しなかったところ、解雇されてしまったため、その効力を争い、懲戒処分の無効確認や定年時までの未払賃金等を求める訴えを提起したのが本件です。地位確認請求がないのは、係争中に定年退職日を迎えてしまったからです。下書きの指示や依頼には複数の行為が掲げられていますが、例えば、次のようなメールを送ったことだとされています。
(問題となったメールの一例)
「80過ぎていらっしゃるようなので、名古屋まで行くのは大変だと思います。恐れ入りますが、お手柔らかに、具体的に、もう起案いただいて、本人とメールか電話で質問に答えるということのようが良いように思います。義理堅い方ですから、無理しても名古屋まで行くかもしれませんが。お話しした通り、大腸癌で、7箇所切除手術を昨年していて、まだ3つ残っているそうです。おそらく死ぬまでそれは抱えていかれるようですが、長くてあと数年というところでしょう。目をつぶって通したいと思っていますので、学術論文の体裁と、アップデート、できなければ、時代を区切る、例えば、技能実習制度改革までとか、来春には新たな入管法で労働ビザもできるということで、本人も焦っているので。その辺は、残された課題として、メインは、フィリピン人エンターテーナーの搾取をめぐる入管、法務省と業者の癒着をめぐる行政の課題を、どう現代に生かすかという視点で。」
「書くことは書いているので、あとは、如何に学術性を付加して、オリジナリティを出せるか。」
「12月3日にリサーチ・コロキアムという中間報告会をします。そこで通せば、春にはファイナル、そして、来年度中にはなんとか博士論文審査という流れで、遠慮なく、切り貼りして、目をつぶって出しても非難されない程度、オリジナルな情報など持っている方ですので、自分史として定性的なものでまとめればいいと思います。」
原告の方は、
「論文の一部の下書きをするよう指示又は依頼した事実はなく、当然、原告には論文の単著者性を侵害する意図はなかったし、F講師もD氏も原告の意図をそのように誤解した事実はない。」
などと主張しましたが、裁判所は、次のとおり述べて、解雇は有効だと判示しました。
(裁判所の判断)
「D氏は、平成30年10月8日、原告に対し、修正を終えたとする博士論文・・・を提出したが、前記・・・の原告の指摘はほとんど反映されていなかった。そこで、原告は、リサーチ・コロキアムの日程(同年12月3日)を調整するとともに、D氏の論文執筆を手伝う者を探し、最終的に、前提事実・・・のとおり、F講師が上記手伝いに当たることとなった。」
(中略)
「D氏は、F講師の説明する『レジリエンス』論を十分に理解することができなかったものの、F講師による改訂を概ね反映した論文原稿(・・・『レジリエンス』論に関する記載部分は、F氏が挿入して改訂したままのもので、文章として未完成な状態である。)と、リサーチ・コロキアム用のレジュメ(・・・『レジリエンス』論について研究の目的や意義について言及するなどしたもので、文章として未完成な部分はない。)を完成させた。」
「D氏は、F講師に対し、『指導料』として100万円を支払った。」
(中略)
「F講師は、平成30年12月12日、原告から同日に受けた本件研究科の助教採用の面接の結果が良くなかったことを伝えられ、その後、D氏の博士論文について話をしている際、F講師が原告に対し、『書きません。』と述べる場面があった。また、F講師は、同日、原告との話の内容をメモソフトに入力してまとめ(以下『本件メモ』という。)、その内容には、別紙・・・の各記載が含まれている(『Dさん』はD氏のことを指す。)。・・・」
「D氏は、その後、博士論文の執筆を続け、F講師も手伝いに当たった。平成31年1月15日には、D氏がF講師に対し、博士論文の第2章(統計から見る『外国人労働者』)を書いてくれるよう依頼したが、F講師は引受けなかった。F講師の手伝いは、同年2月頃までで終了した。その後、D氏は、「指導料」として追加で25万円を支払った。・・・」
「D氏は、平成31年3月30日、リサーチ・コロキアムを踏まえた博士論文を完成させたとして原告に提出した。」
(中略)
「D氏は、P助教の指導等も受けて博士論文の完成を目指したが、ファイナル・コロキアムの実施に至らないまま、後記(5)イの調査(代筆の調査 括弧内筆者)が開始された。」
(中略)
「D氏は、約5年間費やしても、博士論文の理論的枠組みを考え付くことができなかっただけでなく、具体的な指摘を踏まえた情報の更新といった基本的な作業でさえ、約半年かけても完了できておらず、独力では博士論文を完成させることは困難な状況であった。」
「上記のような状況の下で、D氏が博士論文の執筆を次の段階に進め、さらには完成に至るためには、現実的には、情報の更新の要否の判断、情報の収集から理論的枠組みの構築とその文章化までを全面的に支援し、かつ、D氏がこれを自分のものとして理解するまでこれをD氏に説明する者が必要な状況にあったといわざるを得ず、原告もこのことを十分に認識していたと認めることができる(原告自身、認知能力に疑問も感じるなどと述べてD氏の能力に疑問がある趣旨の供述をしている・・・。」
「そうすると、F講師が、原告と同様に修正すべき点について助言するとともに、実際の作業の補助(調査の補助やD氏の口述を論文の体裁に整えるといった作業等)を行ったとしても、D氏の博士論文の執筆が進展したとは考え難く、原告がF講師に求めていた役割は、D氏がD氏なりに完成させた論文について、必要な情報収集をして情報を更新するとともに、D氏自身での執筆は困難であった理論的枠組みを考案すること、すなわち論文の一部を下書きすることであったというべきである。」
(中略)
「本件各対象行為は、博士論文の一部を、博士の学位を取得しようとする者以外の者に下書きさせようとしたものであって、博士論文の著者を誤認させ、博士の学位の審査過程を歪め、東京大学の学位一般に対する信頼を低下させるものというべきである。また、学位認定は大学の基本的な作用の一つであり、これに対する信頼は大学に対する信頼の重要な部分を占める。そうすると、本件各対象行為により、東京大学の名誉や信用は傷つけられ、その程度は重大であったといえる。」
「原告は、原告には論文の単著者性を侵害する意図はなかったし、F講師もD氏も原告の意図をそのように誤解した事実はない旨主張する。しかしながら、仮に、原告に論文の単著者性を侵害する積極的な意図まではなかったとしても、本件メモの内容・・・に照らせば、F講師は、原告の本件発言とその他のやり取りを併せて、原告はF講師に博士論文の下書きをすることを求めており、D氏には書かせる気がないと結論付けている。D氏も、認定事実・・・のとおり、原告が下書きをしてもらうよう勧めていると認識している。そうすると、本件各対象行為は、論文の単著者性が侵害される結果を招くおそれが高いものであったというべきある。よって、原告の上記主張を採用することはできない。」
「以上からすれば、本件各対象行為は、『大学の名誉又は信用を著しく傷つけた場合』に当たるといえ、懲戒事由に該当すると認められる。」
(中略)
「原告としては、E元教授から引き継いだD氏の博士論文の執筆指導について、うまくいかずに困っていたことはうかがわれるものの、原告は、D氏の論文を完成させる方向での相談はしていても、指導が不可能であるといった相談をした形跡はない。そうすると、指導の困難性やこれについての被告の体制について、原告のために考慮すべき事情があるとはいえない。また、他に原告に有利に考慮すべき重要な事情は見当たらない。」
「他方で、一部でも他者による執筆を依頼したことがある教員が大学に残留することは、大学が他者による執筆を許容していると受け取られるおそれがある。」
「以上によれば、本件対象行為について、諭旨解雇処分としたことが、客観的に合理的な理由を欠くということはできず、社会通念に照らし、重きに過ぎるということもできない。」
3.高齢の学生に花を捧げるような形で軽く考えていたのではないか?
大学教員の方に関係する事件は割と多く扱っている方だと思いますが、単位認定や学位認定を歪める行為に対しては、近時、厳しく咎められる傾向があるように思います。
対象となる学生が80歳を超えており、学位を使ってどこかに就職することが予測される状況ではなかったからか、甘くみたのではないかと推測されますが、裁判所は厳しい判断を行いました。
本件は大学教員の方の労働事件を取り扱うにあたり、また、諭旨解雇に応じるのか否かを見極める素材として、実務上参考になります。