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2015年9月の2件の記事

2015年9月17日 (木)

歴史っつーのは

“世にも奇妙な物語” だな こりゃ。

そいつが「二畳くらいのクソ狭い部屋」 か 「自由の荒野」 なのか、何なのか、何であろうが、

人によるんじゃね?

よく知らんけど。

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2015年9月11日 (金)

コメントで質問があったので、最近まで自分のことを考察・分析したことをまとめてみるいい機会なので、記事にしてみようと思った

>ご自分がスキゾイドになられた原因について、どうお考えですか?

質問の答えになるかどうか分かりませんが、長い文章になりそうなので、記事にすることにしました。

スキゾイドになった原因と思われる今までの人生の中での、出来事を思い出して並べてみると、

物心つく前後から、まわりには一緒に遊ぶような、だいたい同じ年代の子供がいなかった。だからそういう存在があるということ自体、無かったし、一人で遊ぶことが当たり前だと思っていた。
もちろん僕はそれで満足してたと思う。
両親は共働きで、いちおうウチの婆さまが(昼間は)おもりとして、ついていたけどそんなのおかまいなしに遊んでたと思う。
田舎だったので、田んぼのあぜ道や、川の土手などいろんなところに行くだけで、楽しかったと思う。墓場にも行って遊んだけど、婆さまが後に言うには怖かったという。まぁ、昔の人だから墓場なんぞは、畏れの対象だったんだろう。
もちろん遊んでたのは昼間の間だけだったが。
さすがに夜の墓場は、怖かったし、夜外で遊びに行くようなことはしなかったけど。でも昼間は古くていい感じの石がいっぱいあったし、僕にとっては怖いよりも面白いところだった。
田舎の夜は、光がほとんどなくて、どこも真っ暗闇で、とても怖かった。家の中ですら怖い感じがした。
楽しみも怖さも、いろいろ教えられたのは、そういう「自然」や「風景」などだった。
「人」から学んだことは、何も無かったような気がする。というか「人」というのをはっきりと「認識」してたのかも怪しかった。
「人」よりも、「自然」や「風景」などに興味を持ち、もしかしたら「愛着」みたいなモノも感じてたと思う。

幼いころは、それで充分だったし、これからもそれでいいと思っていた、と思う。

だけど、そうもいかなくなった。
幼稚園に行くような歳になって、初めて「人間関係」というモノを知った。
より詳しく言うと「人間関係というモノ」が、もしかして、いろいろ「厄介」なモノなんじゃないか? ということをなんとなく考え始め、思うようになったのもこの頃だ、と、思う。
とにかく、いままでのように、“「人」を「考慮」しなくてもいい”というワケにはいかなくなった、じゃないと「トラブル」に巻き込まれるっぽいことも、思わければならなくなった、じゃないと、「遊べない」ということも、なんとなく感じ始めた頃だったと思う。

小学校に上がった頃も、心のどこかに「人なるモノ」を「意識」しながらも、だいたいは幼いころと同じような「感覚」をもって、日々過ごしてた。
もちろんそんな「感覚」のままだから、「人」との「トラブル」も幾度も生じてたと思う。
僕もバカじゃないから、学年が上がるにつれて「トラブル」を避けるやり方もすこしずつうまくできるようになっていった。
まぁ、そういうことを「考慮」するってことは、このときから
“「人」=「トラブルをもたらすモノ」=「避けるモノ」”
という、構図が心のどこかに、「なんとなく」の形でもう発生していたんだと思う。
他の子供がしてるようなことと「同じ」ようなこともしてたし、普通に遊んでもいたし、それが楽しかったと思うし、それで充分だった、と思ってもいた。
だけど、もしかしたら、もうこの頃からすでに心のどこかで「なんか苦しい」感じが、あったと思う。
いずれにしろ、幼いころとは「ちょっと違う」だろうことは、分かってたかもしれないし、ときどき風邪で学校を休むことが、嬉しくもあった。

中学・高校になると、“「人」=「トラブル」”という「感じ」が強く大きく感じるようになり、思えばこの頃から、「ときどき学校をサボる」ことを学び、するようになっていった。もちろん進級できるくらいには出席日数は維持していた。
小学のときよりも、「友達と遊ぶ」ことから離れつつあり、そこで僕は“「自然」「風景」を見たり、感じる”コトに立ち返った。幼いころのように。
そしてそれはとても楽しく、イイ感じを、感じていた。

「人」よりも「自然」、というよりは「風景」が“イイ感じ”だと再確認した。
もちろん「人」なしで。

こう、思い返してみると、もうこの頃からすでに、「スキゾイド」であったのかも知れない。
ただ、この当時はそれが「変」なこととは感じなかったし、僕自身も「普通の人間」だと当然思っていた。
自分が「特別」だとも「変」だとも、微塵も感じなかったし、「普通」だと思うのは当然だった。

その後の人生でも「変わった」とはまるで感じなかったし、大学時代や後のニート時代で、いくつかの「人」「トラブル」を経験しつつも、自分は「普段」通りだと思っていた。
と言っても、大学三年時に引き込もるようになったし、それで、研究室の先生に勧められて、大学付きの「カウンセリング」を受けていたが。
はたから見れば、この頃の僕は「変」だったんだろう。なんか同期の人たちがまるで「病人」を扱うような接し方をしてたし、「同情」みたいなこともかけられた。
それでも僕は自分を「普通」だと思っていたし、なぜまわりの「人」がそういう接し方をしてくるのが、まるで分からなかった。
それを、うっすら分かったのは、ずっと後、精神科に通うようになってからしばらくしてだった。
精神科に通うのも、親にきつく言われたからだったし、その時は「なぜ自分がそんなとこに行かなきゃならないのか」分からなかった。
もちろん「僕は普通の人間」の思いだった。

病院に通ってもそうだったし、先生に「スキゾイド」と診断された時も「???」だった。

今では、「スキゾイド」ということにある程度は納得している。だけど今だにピンとこない。いま文章を打っているこの時も。

なぜ、僕は「スキゾイド」と診断されたのか?
「人」よりも、「風景」に「イイ感じ」を感じるのが、そんなに「変」か?

「スキゾイド」を意識し始めて、自分と他人を比べてみるようになって、「普通の人間」が、「人」を一番に思うのが「普通」だというのも(ようやく)分かった。

ただ、僕は「風景」を感じるのを邪魔されたくないだけだ。
ただ、「人」や「コミュニティ」などが、それをするのに、僕にとっては「障害」だっただけだ。
「トラブル」をなるべく避けて「人」を避けているだけだ。

それがなぜ「スキゾイド」になる?

幼いころに感じていた、「イイ感じ」を感じていたいだけだ。
それだけのことで、「普通の人間」じゃないのはなぜだ?

僕が「普通の人間」と違うのは、全部納得しちゃいないが、まぁ分かったよ。

自分がスキゾイドになった原因?
たぶんいろいろあるんだろうが、それはたぶん「人」よりも「自然」「風景」がずっと自分に近かっただけだ。
もちろん「人」もいただろう。田舎といっても、ウチの婆さまがおもりをしてたし、周りにも人がいた。
だけど、幼い僕には「人」はよく感じられなかったし、感じようという興味もなかった。
「自然」「風景」に近づいていたいだけだ。

それがもし「一番の原因」だとするなら、人間はそれだけで「スキゾイド」になるようなモンなのか?

「人」=「トラブル」という“障害物”を避けて、「風景」に行くのがおかしいか?
僕は自分を今でも「普通」だと思うし、それが他の多くの人が思う「普通」と違うのはまぁ分かる。
けどいまいち「納得」してない。

長くなったが、自分がスキゾイドになった原因なんて、
僕にも“正直よく分からない”んだ。

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