欲望するものたちの末裔
縄文人は どうだったのだろうか?
とはいえ、数多の生物を絶滅させてきたものたちの末裔ではある。
一概に信用することはできない。
人間ほど、欲望が不完全な、それゆえその欲望に際限がない生物は他にない。
人間に近い生物、猿などにもその兆候は見られるが。
「普通の人間」はその「欲望」により、神経症になるのである。
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コメント
「スキゾイドを考察したい」だって欲望じゃないの?
投稿: 読者 | 2011年6月25日 (土) 22時27分
まぁ、欲望のひとつではあるけど、厳密には違う。
といってもどう違うかは説明するのが難しいが。
なんていったらいいのかな。
たとえば、「普通の人間」には、欲望には底知れぬ「愛」がついてまわるが、
それ以外の人間には、その欲望に「愛」がない。
と言えるだろうか。
「スキゾイドを考察したい」だって、「普通の人」には「愛」となりえるだろうが、僕のは違う、となる。
ヴェール心理療法の人が言うには、「スキゾイドは「与える」よりも「摂る」」と言っていたが、「普通の人」がその欲望に(愛などを)「与える」が含まれるとするならば、
一般的(「大多数の普通の人が決めている)に言われている「欲望」とはそのようなものを指す。
しかし、(愛などを)「与え」ないで「摂る」ような僕みたいなスキゾイドの「欲望」は、一般的な意味からの「欲望」とは違う、となる。
投稿: おまきん | 2011年6月26日 (日) 08時07分
しかし、大まかにくくれば「スキゾイドを考察したい」も欲望の一種とはなるだろうな。
この記事で、問題になるのが、「普通の人」の欲望には際限がないということ。
僕の観測から、それは「愛」があるせいだと思っている。
「人類みな兄弟」という言葉があるように「人類愛」という「愛」がある。「人類みな」だから、その欲望は人類すべてに適用しようとする。
あまつさえ、人間以外の生物にも適用しようとする。
大航海時代とかいって、世界を支配しようとしたのはその典型だろう。
そうやって、さまざまな生物を絶滅させてきたし、ほかの人間のいる場所も征服してきた。
放っておいたら、そのうち宇宙まで征服しようとするだろうな。
まぁ、「普通の人」いがいの人間だって、まったくもって「愛」がないわけじゃないだろうから、「欲望」が断たれると「うつ」にかかったりはするだろうな。
また、「普通の人」いがいの人間の「愛」も「普通の人」のそれと同じとは限らないだろうが。
投稿: おまきん | 2011年6月26日 (日) 08時59分
某所のコピペ
>>人間は、一端、対象をあきらめた後に愛が据えられるという意味がはっきりとする。
>となると、相手の言葉を、我慢して落とし所として使わなきゃならない状況っていうのも、一種の「愛」ってことになる。
>僕からするとその「愛」はイヤな感じのするモノなんだよな。
投稿: おまきん | 2011年6月26日 (日) 18時50分
>「イヤなかんじのするモノ」が「愛」なら、「愛情」は「イヤなかんじのするモノ」をなすりつけあって喜んでいる人間関係。
投稿: おまきん | 2011年6月26日 (日) 18時55分