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2011年6月の2件の記事

2011年6月21日 (火)

欲望するものたちの末裔

縄文人は どうだったのだろうか?
とはいえ、数多の生物を絶滅させてきたものたちの末裔ではある。

一概に信用することはできない。


人間ほど、欲望が不完全な、それゆえその欲望に際限がない生物は他にない。

人間に近い生物、猿などにもその兆候は見られるが。

「普通の人間」はその「欲望」により、神経症になるのである。

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2011年6月 6日 (月)

うつのしくみ

日頃、「普通の人」を観察していると、いつも、思うことがある。

「普通の人」は欲望に際限がない  と。

それは、わかった。
ではなぜ、「普通の人」は欲望に際限がないのか?

今回は、その解に独自に至った仮定義を記しておこうと思う。

結論から言うと、人の「こころ」には、穴があいているからだ。
その穴は、何も無く、「無」である。意味や価値など何も存在しない、「空間」である。僕は本来その「こころの穴」を「空」と呼んでいるが、「普通の人」には「無」のほうがしっくりくるであろう。
その「こころの穴」つまり「無」というのは、僕が以前言っていた「ただ、そうであるだけの世界」なのだ。
というのも、普段「普通の人」は、「意味」や「価値」が何物にも付随した世界を生きている。

「意味」とは、「普通の人」が生きていくうえで、その生きることを推し進める、いわば「アクセル」のようなものだ。
そして、「価値」とは、「普通の人」が生きていくうえで必要不可欠な「燃料」である。

ときどき、「意味」がない(と、自身が判断している)ことでもやろうとする人もいるが、それは「アクセル」を踏まないで車を動かしているようなものだ。つまり「価値」を見出しているということ。アクセルを踏まなくてもエンジンは点けられる。
また、このような時でも、「本当に意味はないのか?」と言われれば、そうではない。彼らは「意味が無い」ことに「意味」を見出しているのだ。実態はアクセルをほんの少し踏んでいるのである。

ではなぜ、「意味」や「価値」をもって、車を走らせようとするのか? 生きていこうとするのか?

それは、「普通の人」が「こころの穴」=「無」に耐えられないからだ。彼らにとってそこは「死」の領域であるからだ。
そこから逃れるために必死で自動的にあらゆるものに「意味」や「価値」を付随させるのだ。


しかし、「こころの穴」はけっして無くならない。
なぜなら、「こころの穴」とは人が「人間らしく」ある以前の「胚」という「肉の塊」という「モノ」であった、名残だからだ。

まぁ、たぶん「胚」以前の「モノ」なのかもしれんが、一応そう言っておく。

とにかく「人」が「モノ」である、つまり「こころ」が無い「物体」である状態がいまだ、成長してもどこかにあるということだ。 それは無くならない。

その状態は、「人間らしい」人から見れば、「生」とはまるで逆方向、「死」だからだ。
もっと厳密にいえば、「生きる」も「死ぬ」もない、「無」である。
もっともっと言えば、「意味」も「価値」も全くない「無」だ。 それは「虚無主義者」が言うような「意味」や「価値」が付随した「無」ではない。


そんな「こころの穴」を埋めようと、「普通の人」は「欲望」というモノを求める。「意味」や「価値」を欲望する。

しかし、「こころの穴」は「無」なので、どんなに「欲望」を求めても、「無」に帰す。
底の空いたバケツに水を貯めようとするようなものだ。
そうやって、どんどん「欲望」する。次から次へと。そうやって、欲望は飽くことなく、際限なくどんどん生じていく。

「意味」や「価値」が「こころの穴」を埋められると信じているのだろう。

そうして、日々を過ごしていくうちに、「普通の人」はいつしか「こころ」に穴が開いていることを忘れていく。いや、正確には「自覚」していなくなる。
なぜなら、どんなに意識が忘れても、「こころの穴」は無くならないから。だから、いつまでも欲望は生じ続ける。

これが、「欲望には際限がない」ということだ。
「際限ない欲望」は、「こころの穴」を忘れさせる「麻薬」のようでもある。

人は、「普通の人」はそうやって、「ヒーロー」を「ヒロイン」を夢み、いつか「理想」を「欲望」するのである。


しかし、あるとき「普通の人」は、「理想」を砕かれる、つまり「理想」が到達不可能だということに気付かされることがある。
「人」によってか、「運」によってか、はたまた「現実」によってか。

そうしていくうちに、かつて求めた「理想」は、「欲望の最上級」は、その規模をだんだん縮小していく。
そして、同じように「欲望」も少しづつ「抑圧」されていく。

そうしてついに、「欲望」を止められる。
そのとき人は、「麻薬」切れを起こす。
とたんに、いままで忘れていた「こころの穴」を思い出す。「意味」も「価値」もない、「ソコ」を見てしまう。まなざしてしまう。でも、そこには何も無い。
「生」を、「意味」や「価値」で彩られてきた「普通の人」は、「無」に驚愕する。そして「生」を実感できなくなる。

そして、目の前に突然現れた(実際は最初からあったのだが)「こころの穴」に囚われていく。
「こころの穴」に「無」に耐えられない人は、とうとう身も心もその活動を止めてしまう。

そして、ときどき「欲望」が再起動するときには、まるで「餓鬼」のように、その際限ない「飢餓」が以前にもまして、輪をかけて、周囲の何もかもをむさぼるのである。
過剰に他罰的になるのはそのせいだ。

「他罰」は「こころの穴」を過剰に忘れようとするあまり、「欲望」が止まらない状態であり、
「自罰」は「こころの穴」に囚われるあまり、「欲望」という麻薬が切れた状態である。


これが「うつ」のしくみだと、僕は現時点で仮定義する。


「普通の人」は、「ただ、そうであるだけの世界」を、「意味」も「価値」も無い世界を生きていけないのである。

「普通の人」は、「ただ、そうであるだけの世界」に気付いた時、「うつ」になるのだ。

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