必要のないもの
スキゾイドの僕にとって、必要のないものとは、
正常人の「文化」を理解すること。 だ。
以前、統合失調症者は正常人になれる「才能」がない、みたいなことを言った。
だけどそれは、スキゾイドも同様だった。
そもそも、正常人の「文化」を理解する「才能」がない。
たしかに、スキゾイドひいてはひきこもりも、どうしようもなく正常人と関わらなきゃいけない場合もあるだろう。
しかし、関わるにつれ、正常人の「文化」に対して疑問が湧いてくることもあるだろう。
なぜなら、スキゾイドには無い、正常人のみが持つルール・テクニックを暗に強要されるから。
しかし、スキゾイドにはそのルール・テクニックの原理がわからない。
そんなものデフォルトで持ってないのだから。
まぁ、利口な個体なら、うわべだけでも器用に理解してある程度は使いこなせるのであろうが・・・。
だが、不器用な個体はそうもいかない。
「わからないまま始まり、わからないまま終わる。」
こんなことが立て続けに起こったら、そりゃあ混乱するだろう。
だから、ある個体はこのような日常生活をスムーズにするために、正常人の「文化」の原理を知ろうとするだろう。
・・・僕がそうだ。
しかし、そんなものは無駄である。
なぜなら、理解できないから。
「知る」ことはできる。 だけど「知ったところでどうにもならない」。
「剛体術」と同じ。
正常人の「文化」は、それがデフォルトで自動運転する正常人にしか扱えないのである。
このことを知った僕は、もう正常人の「文化」を知ることを諦めた。
要は、一番いい方法は、正常人となるべく関わらないことだったのだ。
つまりは、
自分が「正常人」か「異邦人」か、
「器用な個体」か「不器用な個体」かを早くに知ることが重要だったのだ。
まず、「自分」 である。
追記
かといって、
疑問を感じ、ルールを無視して、質問し、自問自答して、仮定義する。
という身体反応は、抑えられない気がする。
結局これも「知ったところでどうにもならない」。
「正常人となるべく関わらないこと」がベターだと知っていても。
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コメント
おまきんさんって引きこもりらしいから正常人との接触って家族くらいしかなさそうな気がする。
だとすれば、ネットをやめれば「どうしようもなく正常人と関わらなきゃいけない」が家族程度に抑えられそうですね。
ブログ、メモ帳なりオフラインで書けば正常人との接触せざる得ない可能性をもっと減らせそう。
なぜメモ帳やワードではなく、オンライン上にあるブログを?
最初は閲覧者の少ないサーバーでブログをはじめようとしていたが云々、のような内容の記事(うろ覚え)を読んだような記憶があるけど、閲覧者が少なからず存在しているであろうブログを始めたのは、閲覧者が必要だったからなのでしょうか?
投稿: まんきお | 2011年4月22日 (金) 21時05分
>ネットをやめれば「どうしようもなく正常人と関わらなきゃいけない」が家族程度に抑えられそうですね。
そうでもないです。
実際には、火災報知機を調べに来る人。漏電を調べに来る人。新聞料金を取りに来る人。宅急便など、家族がいないときどうしても関わらざるを得ない時があります。
まぁ、たいがいは居留守を使ってますが。
>なぜメモ帳やワードではなく、オンライン上にあるブログを?
ワードっていう手もあったんですが、ワードの場合、なんか打ちづらいし、字がなんか見にくかったので、たまたま見たココログのテキストがとても見やすかったので、ブログにしました。
また、記事の管理もしやすかったので。
オンラインとかは、オフラインにするやり方が分からなかったので。
コメントとかが多ければ、なんとかしてコメント欄削除とかの方法を学習するのですが、ココにコメントする人がすごく少ないので、別に放っておいてもいいかなと思った次第です。
>閲覧者が少なからず存在しているであろうブログを始めたのは、閲覧者が必要だったからなのでしょうか?
ブログには、アクセス解析ができます。
これを見ることで、ココをどのような目的で身に来るのか?
何に関心を持ってるのかがわかります。
それは、ひいては、現在総人口が少ないであろう「スキゾイド」に対する人間の認知度を調べることができます。
認知度が広まれば、実生活でも、診察やデイケアでぞんざいに扱われることも少なくなるだろうという思惑です。
そうなれば、デイケアに行っても、統失やうつ向けのプログラムなんかに巻き込まれる必要も無かったんですが。
また、たまにコメントする人がいれば、その質問に答えることは、自分が自身の性質を再確認したり、気付くのにも役立ちます。
また、正常人たちの動向をみて、それを観察・分析するにも役立ちます。
といっても、自分がその原理をどれほど理解できるのかが疑問ですが。
その意味では、閲覧者は必要です。
まぁ、データとして、という意味ですが。
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 07時34分
ちなみに、僕がネットにかかわるのは、現実に比べて「粒子的作用」をあまり感じないからです。
また、場所によってはこの作用もさらに少ない場所もあり、自分でそれを見つけられます。
濃い場所は簡単に避けられますし。
否応も無く、濃い「粒子的作用」の場に巻き込まれる現実よりかは楽です。
データを取るのには都合のいい場所です。
また、ひまつぶしにもなります。
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 08時06分
はじめまして。
私はこちらのブログに「スキゾイド」で検索してきましたが、その後もアクセスしています。
響く文章や、惹かれるものがあるブログは閲覧してしまいます。こちらも、その一つです。
私は自分の行動が他人に何らかの影響を与える(その逆も然り)と、またやってしまった、と苦しく思いがちです。
今回コメントしたことも、きっと後悔するのだろうな、と思いつつ。
投稿: ino | 2011年4月23日 (土) 08時25分
>私は自分の行動が他人に何らかの影響を与える(その逆も然り)と、またやってしまった、と苦しく思いがちです。
なぜ、ご自身がそう思うのか?
という、こころの原理については知っていますか?
僕の場合も似て?(非なる?)ところはあるでしょうが、いちおう考察は完了しました。
あなたの場合はどうでしょうか?
>今回コメントしたことも、きっと後悔するのだろうな、と思いつつ。
あなたの、その思いがどこから来るのか?
また、その原理はどういうモノでしょうか?
いや、あなたのような考え(多分同じか?)をする人が、2chのスキゾスレにときどきいるものですから、それがどういう原理か知りたいな、と思ったのです。
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 09時56分
>自分の行動が他人に何らかの影響を与える(その逆も然り)
これは、もしかしたら考察が必要になるコトなのかもしれない。
DSM-4にもある、
“自分も相手も「変わる」ことを恐れる”
にも似て。
いままでは、もしかしたら自分に当てはまらないのでは?
なんのことだ?
と、思っていたが、
いや、もしかしたら「粒子的作用」がそうなのかもしれない。
いや、
実際に、物理的に自分も相手にも、触れる、触れられることを、僕は避けている。
いや、これは対人恐怖症の領域なのだろうか?
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 10時35分
お返事ありがとうございます。
私が影響を与えあうのを避けたい理由をひと言でいえば、つながりがこわいからです。
こちらの人と関わると、一見関係のないような別のところの人とつながっていることが度々ありました。私は矛盾の多い、心の汚い人間なので、人を傷つけてしまうこともあります。違う場所で自分でまいた種が重荷になり、後ろめたさで住む世界に逃げ場がなくなっていくのです。
水面に指先をつけるような、一瞬の接触であれば、どちらも傷つかずに済みますし、心も平穏なままです。
一人の時間が全く寂しくなく、むしろ有意義なことも基本にあるのですが…。
少しずれた答えをしてしまったかもしれません。あまり参考にならなかったかもしれませんね。長文失礼しました…。
投稿: ino | 2011年4月23日 (土) 15時17分
>一見関係のないような別のところの人とつながっている
これは、複雑系の因果みたいな感じがする。
この辺のところは、もっと追究する必要があるかも。
もしかしたら、スキゾイドに何らかの関係があるような。
>心の汚い人間
>違う場所で自分でまいた種が重荷になり
これも、2chでたまに見る現象か。
やはり、こう思うこころの原理の、またその先の原理を考察する必要があるかも。
対人恐怖チックだが、または近親する異なる領域かも知れない。
この辺の分析が難しいな。この辺の分離ができれば、スキゾの領域の輪郭も見えてくるような気がする。
しかし、難しいな。
対人恐怖と、スキゾを分離して判別するのは。
この辺の判別は、精神科医は一体どうやってるんだ?
なるほど。
返答ありがとうございました。
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 21時57分
・人を見ていないが、ぶつかってしまうことによって、結果、経験上どうしても人を見なきゃならん状況になった。
・どうにも人をつい見てしまうが、避けようとしてぶつかって、やはり意識・無意識的に人を見てしまう。
仮に、前者がスキゾイドだとすると、後者は対人恐怖症ってところか?
しかし、これだと前者の最後と、後者の最初(どうしても人を見る・どうにも人を見る)が近親するような気がする。
これでも、分離できないか?
いや、どちらも最初だけを比べると異なってくる。前者は「人を見ていない」つまり意識していない。
しかし、後者は初めから「人を見ている」。
人を「人間」として本質的に見ていない。
これがスキゾイドかも知れない。
しかし、人の「人間」なるものが「実生活」の邪魔をする。結果的に「人間」と関わらなきゃならないのだがそれが理解できないから混乱し、「人を避ける」ようになる。と、いったところか?
これなら、僕にも当てはまる。というか、これは僕自体の分析からの考察になる。
しかし、そうなると、対人恐怖の「初めから人を見る」のは何なんだ?
初めから人を「人間」として見る。それは観察上分かる。しかしそれが「神経症」的に「恐怖」になるのはなぜだ?
いや、「恐怖」だけなら分かるか。「実生活」の障害になるのだから。しかし、ココのところをどう捉えているのかで違うのかも知れない。そうなると「恐怖」の感じもまた異なるのかも。
ココがもしかしたらスキゾと対人恐怖の違いかもしれない。
投稿: おまきん | 2011年4月23日 (土) 22時51分