元一は、長年の迷夢から覚めたように、教会に駆け込んだという。
その日の説教は、平岩喧保師の「神はその独子をわれらに賜ふほどにわれらを愛し給へり」であった。
説教は感動的なものだった。
「私はすつかり神の僕となつて二月四日、美山師の手で受洗した」(『兜町から』)
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昭和八年、満州事変以来の好況にのり、事業は、いよいよ強固となっていた。懸案であった、本宅の建築を元一は、決断した。普請の差配は、弟の芳雄が買って出てくれた。
岩崎家の本邸建築の際にも売らなかったという、薩摩杉をはじめとして、銘木を、芳雄は棟梁を連れて買い占めに行った。
今日は五千円、明日は二万円と、毎日、金をもっていって、材料代は、当時の金で六十万円ほどになったそうな。現在の貨幣価値に置き換えると、約百二十億円ぐらいだろうか。
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愛弟、芳雄は、昭和二十年の秋、中支で客死した。
戦争の末期、大陸に渡り、匪賊に囚えられて、各地を転々と引き回された後、戦争が終わり、ようやく帰国の機会が巡ってきたが、不幸にも虜囚の儘、病没したのだった。
その場には、肉親はおろか、一人の日本人も居合わせなかったという。
終戦の翌年、元一は、懇意にしていた、スウェーデンの宣教師、ベンズ師から、間接的にその最後を伝えられたという。
芳雄は、器用な男で、本邸を建てた時にも、屋根職人といっしょに働いてみたり、印刷会社をはじめたり、いろいろな事業に手を出した。
責任の薄い次男坊だったから、算盤は留守がちだったが、憎めない、気持のいい子だった。
『週刊現代』2013年3月30日号より