第26回 遠山元一(その二) 病気に苦しみ人の弱さを実感― 大儲けする陰で「教会」に駆け込んだ

福田 和也

 元一は、長年の迷夢から覚めたように、教会に駆け込んだという。

 その日の説教は、平岩喧保師の「神はその独子をわれらに賜ふほどにわれらを愛し給へり」であった。

 説教は感動的なものだった。

私はすつかり神の僕となつて二月四日、美山師の手で受洗した」(『兜町から』)

 昭和八年、満州事変以来の好況にのり、事業は、いよいよ強固となっていた。懸案であった、本宅の建築を元一は、決断した。普請の差配は、弟の芳雄が買って出てくれた。

 岩崎家の本邸建築の際にも売らなかったという、薩摩杉をはじめとして、銘木を、芳雄は棟梁を連れて買い占めに行った。

 今日は五千円、明日は二万円と、毎日、金をもっていって、材料代は、当時の金で六十万円ほどになったそうな。現在の貨幣価値に置き換えると、約百二十億円ぐらいだろうか。

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 愛弟、芳雄は、昭和二十年の秋、中支で客死した。

 戦争の末期、大陸に渡り、匪賊に囚えられて、各地を転々と引き回された後、戦争が終わり、ようやく帰国の機会が巡ってきたが、不幸にも虜囚の儘、病没したのだった。

 その場には、肉親はおろか、一人の日本人も居合わせなかったという。

 終戦の翌年、元一は、懇意にしていた、スウェーデンの宣教師、ベンズ師から、間接的にその最後を伝えられたという。

 芳雄は、器用な男で、本邸を建てた時にも、屋根職人といっしょに働いてみたり、印刷会社をはじめたり、いろいろな事業に手を出した。

 責任の薄い次男坊だったから、算盤は留守がちだったが、憎めない、気持のいい子だった。

『週刊現代』2013年3月30日号より

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