実際のところ、この奥さんは、とてもよく出来た、優しい人なので、深酒をしたぐらいで怒ったりするような人ではないのだが、平沢は勝手に怖がって、逃げ回っている。その有様もまた、好人物ならでは、という味があった。
平沢は病弱の元一のために、自由勤務の固定給なしで儲けを折半、という好条件を出してくれた。
丁度、第一次世界大戦の好景気の時期で、月に三千円から五千円は、稼げた。
奥さんは、几帳面な人で、毎月、月末に元一を招いて勘定を検め、床の間に坐らせて酒肴を出して、御苦労様、と犒ってくれる。
元一は、酒が呑めなかったが、毎月、実によい気持で仕事をする事が出来た。
勝った負けたの非情の巷に、礼儀を弁え、信義を護り、情誼に厚い市井の人情に触れた事は、大きな財産であった。
数年後、平沢は元一に「もう君は独立した方がいいのではないか」と勧めてくれた。
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鎌倉で療養していた元一の母と妹・静子は、いつの間にか、メソジスト教会の美山貫一牧師の元に出入りするようになっていた。
元一は、さして関心をもっていなかったが、二人が教会に通う事については、特に干渉する事はしなかった。
「私はすっかり神の僕となって・・・・・・」
大正二年の一月、元一は、人影まばらな鎌倉海岸を歩きながら、人の世の儘ならなさを噛みしめていた。
弟二人は、まだ郷里に居り、父は老衰し、親戚はほとんどが没落してしまった……。
今、こうして寂しく海岸にたち、切羽つまった現実と差し向かいになると、つくづく自分という人間の頼りなさが沁みてきた。
人は弱い、非力である、という想念が体中に充満してくるようだった。
神に縋りたい・・・・・・。