スキゾイドの一般的な特徴として、ときどき例えられるのが「ヤマアラシのジレンマ」だ。
僕もすべて理解してるワケじゃないが、
「ヤマアラシのジレンマ」とは、スキゾイド者は他者に近づきたいが、互いに針を持つために傷つくのを恐れて近づけない。
とか、そういう感じだったと思う。
この「ヤマアラシのジレンマ」は、スキゾイドには当てはまらないんじゃないかと以前の僕は考えていた。
しかし、最近では、ある意味間違っているが、ある意味合っている。
と、思っている。
2chでは、たびたびスキゾイドは“愛”の欠陥とか言われているようだが、それは自分にも思い当るところがある。実際、僕は”愛”というものが何なのかよく解らない。
しかし、同時にスキゾイドが求めるもの、引き寄せられるモノも“愛”であると僕は考える。
ここからは、スキゾイドである自身を分析しての考察だが、
僕は「中島みゆき」や「さんぼますたー」が好き?(あるいは引き寄せられている)なのだ。
その理由は、ひとえに両者が、一般的に言うところの「汚らしい愛」を謳っているからだ。
この「汚らしい愛」は人を傷つけ、または殺すようなものだ。
時に、暴力的で、時に、どろどろした“沼”であり、到底世にゴロゴロころがっている清く美しい“愛”なんかではない。
だが、そういうモノに限って惹かれてしまう。
それが、「汚らしい愛」こそが、世にゴロゴロある「ニセモノの愛」なんかじゃなく、「本当の愛」だと、うすうす解っているからだ。
おそらく、そこに向かうことこそが、「汚らしい本当の愛」と接触することこそが、スキゾの「寛解」となるのであろう。
しかし、「本当の愛」とはその性質ゆえ、人を傷つけるモノだ。
その様はまさに「ヤマアラシの針」である。
その、あまりにも強烈な「粒子的作用」のため、触れる者に多大な「因果的影響」とダメージを与える。
それは当然ながら、「自身を覆う心の膜」が薄いスキゾには、「死」をも伴う危険なモノとなりうる。
ゆえに、“愛”に近づきたくとも近づけない「ジレンマ」が生じる。
それに接触することは「寛解」をもたらすかも知れないが、また、「死」をももたらす行為であるからだ。
だから、惹かれていると知りつつも、遠ざかるしかないのだ。
それは、「二つの粒子が接触し、大爆発が起き、そして宇宙が消滅してしまう」かのごとく。
だからこそ、避けようとする。
「人」を。
いや、「本当の愛」を。
「人」はたいがいの場合、「偽の愛」を他人にも自身にも吹聴する。
そうやって「社会」を維持するからだ。しかし、同時に「本当の愛」の因子も持つ。
それは、しばしば「社会」をも崩壊せしむる可能性を秘めているため、一般的には、「人」はそれを隠し、無意識のうちに無かったものとする。
だが、ごくまれに、「本当の愛」が何かのきっかけで表出することがある。
そのときに、「何か」が起きるのだ。
「事件」が。
そして「大爆発」が。
もし、スキゾに「ヤマアラシのジレンマ」があるとすれば、それは正確には「人」ではなく、「本当の愛」を恐れての故である。
“愛”と接触することで「爆発」そして「消滅」する。
まるで、星と星が互いの引力によって引き寄せられるように、惹かれていく。
しかし、「消滅」を、いや「大爆発」を恐れて、それを避けようとする。「爆発」に耐えうるだけの「精神の保護膜」の強度が無いからだ。
それがたぶん「寛解」の要因であると知りながらも近づけない。
「消滅」は「死」となる。
「死ぬべき時が来た」スキゾには、ある意味それは「救い」になるかも知れないが、
その一歩手前で留まるたいていのスキゾにとっては「境界線」であり「臨界点」である。
スキゾが“愛”と接触し、「寛解」はたぶんするだろうが、同時に「死」も降りかかると思う。
これを超えて、生き残ったスキゾがもしいるとすれば、歴史上いったいどれほどいたのか?
もし、スキゾが「寛解」して、なお「生きて」いる者いれば、見てみたい気もする。
ちなみに、「偽の愛」とは何なのか?
自分にとって、都合のいいような「人間」にするために、あの手、この手で他者を「変えようとする」傲慢な行為であり、これがたいがいの場合、「愛だよ」とか言ってウソをつかれる。
こういったモノはたいがい「偽の愛」だ。
それは“愛”じゃない。
僕は、こういったモノも気持ち悪いと感じるので、避ける。
なので、結果的にたいがいの「人間」全般を避けることになる。
つけ加えると、
「寛解」とは、(僕の解釈では)「ふつうの人」になることである。
それとも「死」んで、「ふつうの人」になるのか?
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