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2011年1月の8件の記事

2011年1月30日 (日)

スカスカの世界

僕の夢では、人物がスカスカだ。
現実と違って。

「粒子的作用」が発生しない。

ポリゴンの中身が無いように。


それでいい。

夢の世界のモノにまで、「粒子的作用」があったら、たまらない。
もし、そうなったら、眠ることまで怖くなる。

幸い、まだそうなっていない。


だから、僕の夢の世界は広くなる。

ウェイストランドよりも遥かに広い。
具体的な地図も作れる。


もうひとつの世界。
僕は「眠る」ことを、“向こう”の世界から「呼ばれる」と言い換える。


もうひとつの世界。
そこでは「粒子的作用」は発生しない。

それが、どんなに地獄的風景でも。
どんなに、恐怖的風景でも。


だって、スカスカだから。

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2011年1月28日 (金)

愛は やまあらし

スキゾイドの一般的な特徴として、ときどき例えられるのが「ヤマアラシのジレンマ」だ。

僕もすべて理解してるワケじゃないが、
「ヤマアラシのジレンマ」とは、スキゾイド者は他者に近づきたいが、互いに針を持つために傷つくのを恐れて近づけない。

とか、そういう感じだったと思う。


この「ヤマアラシのジレンマ」は、スキゾイドには当てはまらないんじゃないかと以前の僕は考えていた。

しかし、最近では、ある意味間違っているが、ある意味合っている。
と、思っている。


2chでは、たびたびスキゾイドは“愛”の欠陥とか言われているようだが、それは自分にも思い当るところがある。実際、僕は”愛”というものが何なのかよく解らない。

しかし、同時にスキゾイドが求めるもの、引き寄せられるモノも“愛”であると僕は考える。


ここからは、スキゾイドである自身を分析しての考察だが、
僕は「中島みゆき」や「さんぼますたー」が好き?(あるいは引き寄せられている)なのだ。
その理由は、ひとえに両者が、一般的に言うところの「汚らしい愛」を謳っているからだ。

この「汚らしい愛」は人を傷つけ、または殺すようなものだ。
時に、暴力的で、時に、どろどろした“沼”であり、到底世にゴロゴロころがっている清く美しい“愛”なんかではない。

だが、そういうモノに限って惹かれてしまう。
それが、「汚らしい愛」こそが、世にゴロゴロある「ニセモノの愛」なんかじゃなく、「本当の愛」だと、うすうす解っているからだ。

おそらく、そこに向かうことこそが、「汚らしい本当の愛」と接触することこそが、スキゾの「寛解」となるのであろう。
しかし、「本当の愛」とはその性質ゆえ、人を傷つけるモノだ。
その様はまさに「ヤマアラシの針」である。
その、あまりにも強烈な「粒子的作用」のため、触れる者に多大な「因果的影響」とダメージを与える。

それは当然ながら、「自身を覆う心の膜」が薄いスキゾには、「死」をも伴う危険なモノとなりうる。

ゆえに、“愛”に近づきたくとも近づけない「ジレンマ」が生じる。
それに接触することは「寛解」をもたらすかも知れないが、また、「死」をももたらす行為であるからだ。

だから、惹かれていると知りつつも、遠ざかるしかないのだ。
それは、「二つの粒子が接触し、大爆発が起き、そして宇宙が消滅してしまう」かのごとく。
だからこそ、避けようとする。
「人」を。
いや、「本当の愛」を。


「人」はたいがいの場合、「偽の愛」を他人にも自身にも吹聴する。
そうやって「社会」を維持するからだ。しかし、同時に「本当の愛」の因子も持つ。
それは、しばしば「社会」をも崩壊せしむる可能性を秘めているため、一般的には、「人」はそれを隠し、無意識のうちに無かったものとする。
だが、ごくまれに、「本当の愛」が何かのきっかけで表出することがある。
そのときに、「何か」が起きるのだ。
「事件」が。
そして「大爆発」が。


もし、スキゾに「ヤマアラシのジレンマ」があるとすれば、それは正確には「人」ではなく、「本当の愛」を恐れての故である。

“愛”と接触することで「爆発」そして「消滅」する。
まるで、星と星が互いの引力によって引き寄せられるように、惹かれていく。
しかし、「消滅」を、いや「大爆発」を恐れて、それを避けようとする。「爆発」に耐えうるだけの「精神の保護膜」の強度が無いからだ。
それがたぶん「寛解」の要因であると知りながらも近づけない。

「消滅」は「死」となる。


「死ぬべき時が来た」スキゾには、ある意味それは「救い」になるかも知れないが、
その一歩手前で留まるたいていのスキゾにとっては「境界線」であり「臨界点」である。

スキゾが“愛”と接触し、「寛解」はたぶんするだろうが、同時に「死」も降りかかると思う。
これを超えて、生き残ったスキゾがもしいるとすれば、歴史上いったいどれほどいたのか?

もし、スキゾが「寛解」して、なお「生きて」いる者いれば、見てみたい気もする。


ちなみに、「偽の愛」とは何なのか?
自分にとって、都合のいいような「人間」にするために、あの手、この手で他者を「変えようとする」傲慢な行為であり、これがたいがいの場合、「愛だよ」とか言ってウソをつかれる。
こういったモノはたいがい「偽の愛」だ。
それは“愛”じゃない。

僕は、こういったモノも気持ち悪いと感じるので、避ける。
なので、結果的にたいがいの「人間」全般を避けることになる。


つけ加えると、
「寛解」とは、(僕の解釈では)「ふつうの人」になることである。

それとも「死」んで、「ふつうの人」になるのか?

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2011年1月25日 (火)

人の終わりの選択肢

人間の社会に拘泥する気はない。


そんなものに縛られているから  自分を制限させられる。


だから人の世界は 人間以外のモノが排除されている。


そこには“霊”がなく、“奇縁”もない。


人間がいなくても、世界は存在する。


だから 人よ “滅亡”も人類の未来の選択肢の一つだ。



“人の縁”がなくなった世界を 見てみたいと思わないか?

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空に向かうこと

空に向かう。


意義も何もないところへ  “地縛”も“呪縛”もないところへ


ただ、そうであるだけの ところへ


“無”でもなく  すべてを空に。

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2011年1月18日 (火)

ひきこもりの日

窓から陽の光が射す。

横たわると身が焦げる。

ベランダに出ると、海と空が青い。


良くもないが、悪くもない。


ただ、そうである事実だけの日。


人というモノを除けば、世界もそんなに悪い気もしない。

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2011年1月17日 (月)

2つ以上の物質が存在する ただそれだけで発生する何か粒子的な作用

これはスキゾイドに限ったことではないかもしれない。


物や人、または場所が相互にただ存在するだけで、なにかしらの作用が発生する、と思う。

普段、何気なく生活していれば全く気付かないだろうが、ふと何かに気付く瞬間がある。
テーブルの上に置かれたペン、壁につりさげられているカレンダー、部屋に置かれた家具、そしてその“場”そのもの。
そのようなものに何かしらの“モノ”を感じる時がある。

なにかモヤモヤとした違和感を。

特に、人の場合はそれを強く感じる。
なにか、こう、ただ存在するというだけで発生する粒子的な作用が。

それが人の場合、すべからく嫌な気分にさせられる。
なにか居心地の悪いざわざわ感がする。

これが人じゃなく“場”(人を考慮しない)であれば、なにかいい感じのする“場”もあれば、悪い感じのする“場”もあるし、何も感じない時もあったりで、その印象はバラバラなのだが。

だけど人は何かが違う。
もちろん、その“もやもや感”のスケールはごく特定の“場”に比べては小さいものだが、そのほぼ絶え間なく感じる“違和感”には何かがあるんじゃないかと思う。


人は何もしなくてもただ存在するだけで、何かを発していると思う。
それは“言葉”と言えるかもしれないが正確には言葉じゃない。

顔だ。

目だ。

いや、その根底にあるのはたぶん“脳”だ。

おそらく人は”脳”から「何か粒子的なモノ」を発生させているのだ。

同じ生物でも、動物ではこうはならない。
確かに似たようなおもむきはあろうが、人間ほどではない。

人間の脳だけが特別で「何か粒子的なモノ」を発しているのだ。


僕が人間を避けるとしたらおそらくそれが原因であろう。
この「何か粒子的なモノ」は”因果”とも“集合的無意識”ともとれる、と思う。

それは人を人たらしめるものかもしれないが、それが僕にとっては何よりもつよい違和感となって、もやもや感となる。

ぼくはそれを避けたいのだ。
「2つ以上の物質が存在する ただそれだけで発生する何か粒子的な作用」を。

僕は、“因果”を“集合的無意識”をまたはそれ以外のなにか粒子的な作用を。


“場”に関してはまだいい。
人よりも「粒子的な作用」のスケールははるかに大きいが、嫌な“場”もあれば良い“場”もある。
嫌な“場”は2度とそこに行かなければ良い話だし(後遺症は残るが)、なにより選べる。
まぁ、この“場”に縛られてその地に留まるのが“地縛”なのだが。


“人”の場合は最悪だ。
どこにでもいるうえに、誰もがその脳から「粒子」を発する。
関わらずとも、互いに相互し合って、常に何かしらの作用が発生する。
言葉ではなくとも、言葉ではない言葉も発生し、それが“呪”となる。
これに、ひいては“人”に縛られるのが“呪縛”だ。

“地縛”も“呪縛”もつまるところ“縛”なのだが、その発生頻度と分布率、それによる濃度は“呪縛”のほうが上だ。

まぁ、“地縛”も“呪縛”も相互作用しあっているのだが、僕にとっては“呪縛”はすべからく嫌な感じしかしない。
まぁ、人の世では“呪縛”とは情とも愛とも言われるものなんだろうが・・・


いや、まぁ、とにかく人の脳には何かしら、他の生物・物とは一線を画す「何か嫌な粒子的な作用」を発生するなにか装置が備わってるのだろうという話だ。


まぁ、「2つ以上の物質が存在する ただそれだけで発生する何か粒子的な作用」とはなにも人だけが発するものではないのだが、
とにかく僕は人由来のこの現象が特に嫌いなのだ。避けたいのだ。

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2011年1月 2日 (日)

治療不可能!?スキゾイド

アホなコメント者と、「スキゾイドを治す」でググってきたマヌケがいたため、くぎを刺しておく。

このブログは他人のために書いていない。
あくまで、スキゾイドと診断された自分を分析してその考察をまとめたものだ。(他にスキゾイドの人間を知らないため)
日常生活で、他にスキゾイドなヤツと知り合える機会なんてねーよ。
デイケアでは、自分の病歴なんか明かす奴なんていなかったし、たとえ同じ症状の奴がいても僕から他人に接することなんてしねーっつんだ。

だから他のスキゾイド者なんて知ったことか。
第一ひきこもりしてんだぞ。なのになんでわざわざ他人やら社会やらを考慮せにゃならんのだ。


それとな、スキゾイドが治るかど-かなんて解るわけねーだろ。
僕だってこの人格(性格?)が普通だと思ってたんだから。
それがいきなり医者に「スキゾイドだ」って診断されて、はじめて世の中では特殊な「人格障害」だってことにされたんだから。

自分で「普通」だと思ってるものを「治す」ってどーゆーことだよってなるさ。

それに医者にも言われたさ。
「いつか何かのきっかけで治るといーね」ってな。

もしスキゾイドという症状?がそーゆーもんだとしたら、治療って無理なんじゃね?
とも思う。


だから知ったこっちゃないんだよ。
他人が、自分が「スキゾイドはどーすればいーの?」なんて。
そんなの日常生活でのすり合わせで、自分を分析・考察して、よりスムーズな生き方を模索していくほかねーだろが。

そんなもん、他人の、僕のブログに期待するな。
第一、僕が分析・考察したことが他のスキゾイドに当てはまるとは必ずしも言えねーじゃねーか。

参考にするとか、バカにするとかは勝手だが、へんな期待や責任をおっかぶせるな。
自分の分析・考察くらい自分でやっとけ。
それでもダメなら他人に聞くとかを勝手にやりゃぁいい。


あと、これは言いたい。
スキゾイドに「救い」はあるなんて思ってない。
少なくとも自分を見る限りは。

だからと言って「絶望」も無い。
そもそも自分の人格が“常態”だと思っている僕に、

「希望」も「絶望」も無い。


希望も絶望も、天国も地獄も、おまえら正常人どもで勝手に共有してろ。

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モータルエナジー

パッチにより、エナジー武器の扱いを変えることを考慮するようになった。

PERK28個バグをするときでも、エナジー武器関連のPERKを取るときはよく考えること。
特に、Meltdownは自分の近くで敵を倒した時に自分も爆発ダメージを食らう。火炎放射器を使いたい場合はよく考慮すること。

ただスコープ付きレーザーライフルで集団で固まっている敵をスナイプで一匹倒すと、おそらく連鎖爆発でまとめて倒せる可能性がある。ただ未確認なので、注意すること。
また、“灰の山”が増えることによる何かしらの弊害が生じる可能性があると思われるので、これを含め、エナジー武器の使用はよく見極めること(灰の山・粘液が増えるとデータ容量が増えるという噂もあるため)。

つーかプラズマキャスター、弾道が見えねーぞ。
非VATSで攻撃するときちゃんと当たるんだろーか?

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