「人の好意を無にするな!」とか言う奴は傲慢な正常人である
登場人物
僕・・・スキゾイドかもしれないココのブロ主。最近まで「漆芸」を学んでいた(学ばされていた)。昔は漆芸に興味はあったが今はほとんど無い。
母・・・正常人。僕が漆芸を学んでるのを見て,漆芸は職人の仕事で社会ではちゃんとした職業だと思い込んでいるアホ。ことあるごとに僕に漆芸を勧めてくる厄介な人。
昨日,母がテレビである漆芸の職人が出ている番組を見ていた。
僕にも観るように勧めてくる。というか半ば強制的だった。
その職人は,僕もちょっと知っている人で,主に都市部で飲食店やお寺の内装(テーブルカウンターや寺の柱や手すりなど)に漆を塗ってきれいに仕上げるのを仕事としている。
その様子がテレビで流れていた。
それを見た母が,
「こうやって需要があるんだから,漆芸も捨てたモンじゃないよ。」と言った。
僕はこう返した。
「いや,でもこういった職人は,営業みたいな人と関わるような仕事もしなきゃならないんだよ。ただ漆を塗るだけならまだしも,僕には営業はできない。」
現状,「職人」と呼ばれている仕事は,ただ物を作ればいいってモノじゃない。
自身の仕事を売り込むために営業みたいな「人との関わり」も重要な仕事になる。昔みたいに頑固にただ物作りをするだけではなくなったのだ。今やその仕事内容はは僕が苦手とする「営業職」となんら変わりは無い。
実際,テレビではその職人が業者と商談みたいな事をして売込みをしている場面も映っていた。
以上のことを踏まえて,僕は説明がてら,このような「漆芸」の仕事は自分に合わないことを説明したつもりだった。
しかし,直後母は機嫌を悪くして,
「別にこういう職人になれと言ってるわけじゃない!(職人に)なるかどうかはアンタが決めること。人から言われたことには「はい,そうですね」と素直に同意しておけばいい!」
「だいたい,人と関わる事だって,そのうち慣れていくものだ。やろうと思えば人間なんだってできる。いちいち文句を言うな!」
と,のたまわれた。
そのうえ,
「こっちは好意で言ってあげてるのだから,それを素直に受け入れるのが人間だ!人の好意は無にするな!」
と,キレられた。
理不尽だ。
僕からしたら,母の「漆芸も捨てたモンじゃないよ。」というセリフは僕に向けられた,「アンタもこういう職人みたくなりなさい。」という母の裏の願望であり,それを押し付けられたように感じられた。
いや,僕が以前漆芸に興味を持って学んでいた経緯もあって,母はそう言ったのだろうが,僕は前々から「職人」という仕事が,僕が「人との関わり」が苦手なことから自分には向いていないことを何度も説明してきた。にもかかわらずちょくちょく「漆芸」を勧めてくる。
母にとっては,「漆芸」=「職人」=「社会にでて仕事をする」なのだ。
しかし,僕にとっては
「漆芸」≠「職人」=「人との関わりを重視する仕事」になる。
僕は「漆芸」自体はそれほど嫌いではない。(好きというほどでもないが)
「漆芸」を習得することで,周囲(他者)から「職人」になることを暗に強要されるのがイヤで避けたいモノなのだ。
事実,母などは「漆芸」=「職人」と考えているので,僕が「漆芸」を習得すれば「職人」になるべきなのが当然だ,と考えるだろう。
上述したように「職人」になれば,「営業」みたいな「人との関わり」をしなきゃならない。
それが出来ないことは,自分の病状のことも含めて前々から説明してきたつもりだ。
だからこそ,
「いや,でもこういった職人は,営業みたいな人と関わるような仕事もしなきゃならないんだよ。ただ漆を塗るだけならまだしも,僕には営業はできない。」
と,説明したつもりだった。
このちゃんとした説明に,キレられて説教みたいな理不尽で返されると,どうもいたたまれなくなる。
僕は以前から説明してきた。
自分の病状について。
「人との関わり」が苦手なことを。(無理矢理やろうとすると体調が悪くなる)
「職人」は「人との関わり」も仕事だと。
そのうえで,上述のようなセリフを言われると,僕の説明を全く聞いていなかったことが分かってやるせなくなる。
まるで,「オマエの病状は単なる気のせいだ」「「人との関わり」ができないオマエなど初めから存在しない」と,言われているかのようだ。
つまり,母は僕の病状?である「スキゾイド性」など「あるわけない」「存在するはず無い」と思い込んでいるのだ。
だから,僕に
「人との関わり」=「当然できる」 → 「職人」=「当然できる」
という人物像をあてはめている。
よく母は,「人間皆同じ」とか「人間やればできる」「自分のような道徳観はみな身に付けられる」といったことをちょくちょく口にする。
これを要約すると,
「人間はつまるところ同じ性質を持っているのだから,自分と同じことが出来るし,自分と同じ道徳観を持っていて然るべきだ。これに当てはまらない人間は存在しない。」
ということになる。
よって,母はこの傾向に反する・当てはまらないタイプの人間を「ありえない」としばしば言う。
母という人間は,僕から見たら典型的な正常人で,社会の規律を重んじる「常識人」だ。
このような「正常人で常識人」は,自分に当てはまることは当然他者にも当てはまって然るべきだ,と思い込んでいるふしがあり,当てはまらない他者に対して非難することがある。
だから,社会の常識も当然,普遍的で正しい誰にでも当てはまる倫理観,とみなしている。
よって,好意(と思い込んでいること)を相手にしてあげると,相手は喜んで感謝して当然という(傲慢な)システムが成り立つ(と思い込んでいる)。
なので,こういう人間の好意に対して同意・喜び・感謝以外の行為で返すと,無条件でキレられる。
そもそも「正常人で常識人」の「好意」とは,「もし自分だったなら,こうしてあげると喜ぶだろう」という自己中的な思い込みから発しているふしがある。
たとえ,「もし自分だったなら」という考えじゃなく,「もし○○さんだったなら~以下同文」という一見相手中心の考えから発しているようなモノでも,所詮自分の頭で考えたイメージの範疇の他者像に過ぎず,それは実際の相手の像とは一致しないこともある。
いずれにしろ,好意を向ける相手(他者)のことを「自分」の範疇でしか想像できないため,それを実在の他者像と思い込んでいる。
このため,自分にとっては「好意」だと思ってやってることが,実は相手にとっては「害悪」だったりしている場合がある。
「よかれと思ってやっていることでも,必ずしも相手に通じるとは限らない」ということである。
この場合,相手にとっては「好意」はただの「迷惑」以外の何者でもない。
この時点で,ソイツの「好意」は普遍的なモノではなくなる。むしろソイツは相手から「悪意なき厄介者」として思われるだろう。
つまり,「好意」とは「人間社会の常識の範囲内でしか通用しない狭量な,余計なお世話の押し付け」に過ぎないのだ。
本来ならば,本当に相手のことを思いやってのことは,100%相手にとって喜ばれるモノであるから,1%でも相手にためにならなければ「好意」とは呼べないのである。
いや,この場合「好意」ではなく「善意」と呼ぶべきであろう。
だから,もし自分の「好意」が相手に嫌がられて,逆ギレして「人の好意を無にするな!」と怒るヤツは,単なる傲慢で自己中な「正常人の常識人」である。
そう,
相手にとって,相手のためにならない・迷惑な「好意」は,「自己中な悪意なき悪意」である。
本当に相手にとって喜ばれるものこそが「善意」であり,自然発生的に「感謝」されるモノである。
だからといって,相手に喜ばれたから「善意」で相手に感謝されても然るべき,などど思わないように。
所詮,人は自己の範疇でしか他者を捉えられないので,「本当に相手にとって~」という発想はできない。よって「思いやり」は存在しないので,偶然自己のうちの他者像と一致したに過ぎないのだから。
「好意」=「受け入れられて当然」は幻想だ。
それにしても正常人ってのはとことんアホだな。
ネットで「人の好意を無にするな」でググってみたら,けっこう「せっかくの好意を無にしやがって許せん」とかの文句が多いな。
「好意」が単なる自己中の思い込みということに気付いていないヤツが多いわ。
こうして比べてみると「正常人」の文化と僕の考えはとてもじゃないが合いそうにない。
やっぱ,「人との関わり」は「害悪」でしかないな。
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