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2010年3月10日 (水)

確信できるか?スキゾイド

アクセス解析で分かったのだが,あいかわらずこのブログには「スキゾイド」でググって来たヤツが多い。

過去30日分の検索ワードでは,「スキゾイド」が38回。
つまり1日にほぼ1人が「スキゾイド」で検索してここに来るということだ。


よくわからんのがココだ。

スキゾイドにかかる人の割合は,比率からいったら相当低いのだとか。
だとしたら,スキゾイドはごく少数しかいないはずだ。

なのになぜ,「スキゾイド」でググるヤツが少なくないいのだろう?

当事者がそれほど増えているのか?
それとも,スキゾイドが流行っているのか?


正直,このブログに来るヤツも,「スキゾイド」でググるヤツも,もっと少ないだろうと思っていた。
それが実際は,ココに来るヤツは1日平均5.4人だとか。いや,この数だって他のブログに比べればずっと少ないのだろうが,僕としては1週間に1人来るか来ないか程度だろうと思ってた。
スキゾイドはメジャーじゃないし,このブログ自体,スキゾイドを擁護するものじゃないし。

しかも,このブログのリピート率は非常に低い。
つまりほとんどが一見さんなのだ。

と,いうことは,毎回同じ人が「スキゾイド」で検索してるわけじゃない。
もっとたくさんの人が「スキゾイド」を探していることになる。


なぜ,これほど「スキゾイド」を探す人が増えているのか?


その解は,DSM-Ⅳにあった。

ココのアクセスでは,「スキゾイド ブログ」で検索するやつもいる。
試しにそのワードでググってみた。
するとあるブログで,スキゾイドについて語っていた。ソイツはDSM-Ⅳの診断基準を挙げて,「自分はこれに当てはまる。だからスキゾイド」とかぬかしていた。

これが原因かもしれない。と思った。

DSM-Ⅳとは,簡単にいえば各種人格障害の診断基準となるマニュアルのようなものらしい。
それによると,スキゾイドの診断基準とは・・・

1.家族を含めて人と親密な関係を持つことを楽しいと思わず,親しい関係を持ちたいと思わない。

2.ほとんどいつも孤立した行動をとる。

3.他人と性体験を持つことにほとんど興味がない。

4.趣味のような喜びを感じる活動にあまり関心がない。

5.親,兄弟姉妹以外に親しい人や信頼できる人がいない。

6.他人の賞賛にも批判にも無関心に見える。

7.よそよそしく冷淡である,感情が平板化しており情緒性がない。

・・・以上の7つの基準のうち,4つ以上当てはまればスキゾイドと判断するらしい。


あほくさい。

誰がこんな基準を考えたのか知らんが,こんなの外見から見た感じの「なんとなく」の印象じゃねーか。

これに当てはまるヤツなんか,正常人でも少なくないと思うぜ。

そしたら世の中の人間の何分の一かは,みーんなスキゾイドじゃねーか。
実際,前述したブログ主なんか「自分はスキゾイド」とか言いながら,その記事のコメントで他人と仲よく「多数派のダベリ」みたいなことしてたしな。

こーゆーヤツが増えてんじゃないの?

「自分はひとりが好き」
「他人と仲よくしたくない」

とかいいながら,特定の自分好みの誰かと親密になったとたん,うって変わって多数派然とするヤツがいるんだよな。
または,一見よそよそしいヤツでもある程度自分が周りから認められたり,打ち解けるようになると,自分から積極的に社会に参入しようとするヤツ。

そーゆー「表面上はスキゾイド」のフリするヤツが増えてんじゃないの?

または,自分が何らかの病気(精神・人格障害)であることに,自負心や「何かを手に入れた感」を得るヤツとか。

言っとくけど,スキゾイドだろうが自閉症だろうが,それで偉くなるわけじゃねーからな。
何か得するわけでもねーし。
何か特別な力を秘めているなんて考えていようものなら,そいつはアホだ。

むしろ,人間社会で生きていくにはハンデでしかない。


どーも,このDSM-Ⅳのせいで,世の中の人間が安易に何らかの病気になりたがる,普通の人間から逸脱した特別な何かになりたがってるように感じる。

つーか,「特別な何かが自分の内にある」と思い込むことを,積極的にしようというのが正常人の正常人たる所以なんだがな。

その企みが心の内に一片でもあるようなら,ソイツは病気でもなんでもない,普通の人間だ。


たぶんそれが「スキゾイド」が注目される原因の一つだと思う。

だとするなら,DSM-Ⅳは正常人が「何か特別な存在になりたがる」欲求を満たすための都合のいい動機づけになることだろう。

そのための意義付けとして,もしこのブログが利用されてるとすれば,かなりウザイ。

僕自身はそれが理由というわけではないが,そーゆー「何かを拠り所にして,まるで水戸黄門の印籠のような権威を振るう」ことに対してまるで興味がないので,「スキゾイドをも手放してしまう」のである。

現実として,僕は「スキゾイド」というモノがよくわからない。そーゆーモノだと思っている。
実際,他のスキゾイド患者と会ったこともないし。
なので,このブログでは,一応自身の症状であるスキゾイドを扱っているが,その根拠とするものは自分自身,つまり僕自身を分析することでスキゾイドなるモノを推測している。

しかし,僕は僕自身がよく分からないので,あくまで暫定的な仮定義として「スキゾイド」を語っているのである。
スキゾイド=僕と確信することはできない。

しかし,もし上述のような,簡単に自身をスキゾイドと確信できるようなヤツラが,本物のスキゾイドだというなら少なくとも僕は違うだろう。



医師には「スキゾイド」と診断された。

でも,疑いが残る。他者のことばで確信できない。

自身の言葉でもたぶん確信できない。

「スキゾイド」を調べもした。

でもいまいち理解できない。

自身をスキゾイドと仮定義したこともあった。

でも,どうもしっくりこない。

結局,自分自身も,スキゾイドも把握できない。

何者をも掌握しきれない。


前任の医師は最後にこう言った。
「いつかなにかのきっかけでスキゾイドが治るといいね」

それを聞いて,「スキゾイドとはめったに治らない症状なのだろうか?」と思った。
僕には「治る・治らない」の基準が今もわからない。そのこと自体がわからない。



「スキゾイド」を探す人たちには解るのだろうか?

確信する者たちには解るのだろうか?

何かにすがっている者たちには解るのだろうか?


少なくとも僕の手は,「確信」という“宝”は持っていない。・・・らしい。

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スキゾイド考」カテゴリの記事

コメント

もしあなたが他の「スキゾイド患者」と出会ったとき、お互いをどう思うのだろうか?
非常に興味深い。

投稿: 人間関係不得手な正常人 | 2010年3月21日 (日) 23時43分

それは,わかりません。

仮に2chのスキゾイド・スレの者たちがスキゾイドだとしても,僕は彼らのコメントに特に強い関心を持つわけでもない。

実際,僕と同じような考えを持つ者がいましたが,やはり何かしらの惹きつけられるモノは感じなかったです。
それは,あそこのどのコメントを見ても同じ。

まぁ,性格的に惹きつけられる・られない,という感覚はあるかもしれませんが,スキゾイド性を共感することは恐らく無いかもしれません。

仮に,今通っているデイケアに(実際居るかどうか分からないが)他のスキゾイド患者が居たとしても,恐らく僕は相手に気付かないのではないでしょうか。

もし,スキゾイド患者に共通な表面上の印象がDSM-Ⅳに準拠するのならば,たぶん僕は実害が及ばない限り,他のスキゾイド患者に対して何らかの作用が発生することは無いのではないかと考えます。

少なくとも「出会い」的な作用は発生しないかと。

恐らく,同じスキゾイド患者でも,個々の置かれている環境やその他の微細な状況の差異により,互いの「心の暗闇にパラシュートで着地するために見つける暫定的な心の着地点」はそれぞれ異なるでしょう。
また,「心の暗闇」でお互いが出会ったとしても,互いを「救いの光」としてみなすことは無いでしょう。
むしろ,「自分に実害を及ぼす敵かもしれない」として互いに距離をとるでしょう。
いずれにしろ,相手がスキゾイドかどうかはこの場合,関係なく,相手が自分に実害を及ぼすモノかどうかが出会うときの作用の基準にはなるでしょう。

しかし,以上の推測はあくまで僕自身の性質を準拠にしてスキゾイドと仮定義した場合のことです。

他者と「出会う」こと(特に,同族と出会うことに)に何らかのプラスイメージが喚起される性質をスキゾイドも持っているとしたら,僕はスキゾイドではないでしょう。

少なくとも僕は「心の暗闇(心の迷い森と言ってもいい)」で同族(スキゾイド)と出会っても,即座に味方とは思えない。相手に対して懐疑的になる。

とすると,互いに出会ったときに最初に喚起される心の向きは「懐疑」ということになる。
それは,もし現実で出会った場合,表面上の感情は「相手に対する疑い」が出てくるでしょう。

その後に,相手を知ろうとして接触しようとするか,または,「出会う」ことで将来発生するであろう「実害」を予測して互いに離れて関わらないようにするかの,どちらかの行動を取るかと思います。

その傾向は,2chのスキゾ・スレの様子からもなんとなく似たような感じを受けます。
少なくともあのスレからは,他のスレのように互いが発した「言葉」がぶつかって何かが作用する様子はほとんど見られない。
どころか,「言葉」の密度自体が薄い気がします。
2chを芥集積場とみる人もいるようですが(僕もそう思う),スキゾ・スレは他のスレよりも捨てられる芥「言葉?」が“薄い?”気がします。

その様子はまさしく「人に対する関心が薄い」ように表面上は見えますが,内面で言えば,もしかしたら彼らは「互いに存在することで発生する何か粒子的な作用」を避けているようにも思えます。

そのため,あのスレはその存在自体も“薄い?”ように見えます。


以上のような推測的観点から,スキゾイド患者が互いに出会ったときどう思うかは,個々人の性質の微細な差異にもよるが,おおむね懐疑的な思いは“薄く”発生するであろうが,互いを避けるために,あえて相手に対して何の思いを喚起させないような「無関心」を装うようになるのではないか,というのが僕の推測です。


まぁ,本当のところは実際に実験してみないと分かりませんが。

投稿: おまきん | 2010年3月22日 (月) 11時29分

なるほど。


誰からも関係性を持たないという意味での究極のニートというのは農業を営み自給自足を行うことだと思うがいかがか。

また、その自給自足生活を共同で行うというのはどうか。
農作業のためのコミュニケーションには心理的コミュニケーションは必要ない。

ニートになるためのスキゾイド同士の共同生活。
これは成立するのだろうか?

投稿: 人間関係が不得手な正常人 | 2010年3月22日 (月) 12時25分

>誰からも関係性を持たないという意味での究極のニートというのは農業を営み自給自足を行うことだと思うがいかがか。

そのような生活形態を選択する者もいると思います。
具体的なところでは,人里離れた山奥のちょっとした土地に畑と小屋を作って,自給自足で孤独(いい意味で)に生活することも可能でしょう。
人という「存在」自体を避けよう(視界にすら入れたくない)とするタイプならば,そのような生活形態の方が良いでしょう。
ただ,今の日本にそのような「人という存在」が全く感じられない土地が残されているかどうかは疑問ですが。

というのも,人がそれほど嫌いじゃない正常人たちは,例え山奥に仙人のようにひとりで生活している人がいたとしても,関わりたがるようで,いずれは他人のほうからその「究極のニート」に接触するようになるでしょう。それはまず避けられないでしょう。
なぜなら,正常人は他者の存在を認識してしまうと「出会い」を自ら誘発してしまうからだと思います。
正常人は「暗闇の迷い森」で出会う他者(人の形をしたモノ)を「救いの光」とみなそうとするからです。その方が彼らにとって都合が良いから。
特に,農村部の人たちはその傾向が強いようです。
僕の田舎は農村部だからなのですが,少なくとも1日に2~3回は人が訪れる。

もし,都市部のコンビニのように機械的な人とのやりとりには問題なくこなせる人ならば,いっそ,都市部のマンション(住宅街の一軒家よりは出会いが薄い,地域性が薄いから)などでひきこもり生活をするほうが良いでしょう。

いずれにしろ,
機械的な人とのやりとりぐらいは耐えられるタイプならば,都市部のほうが,
万一の予想外の他者との接触を覚悟できるタイプならば,人里離れた山奥の農地のほうが,
その「究極のニート」生活をするにはベターじゃないかと思います。


>また、その自給自足生活を共同で行うというのはどうか。

現存の地方や農村部のようなタイプの「人との関わり」に耐えられるならば,それも可能でしょう。


>農作業のためのコミュニケーションには心理的コミュニケーションは必要ない。

僕が農村部にいた頃の記憶では,農村部では「農作業のためのコミュニケーション」以外のコミュニケーションは存在します。
というのも,農村部は地域性が強いため,各家のつながりを強めようとするので,避けようとしても向こうのほうからコミュニケーションを求めてくる。
それを無理に断とうとすれば,周囲との何らかの諍いが発生してしまうようで,それはいずれ「農作業のためのコミュニケーション」にも影響し,自身に実害が及ぶ可能性があります。

それゆえ,農村部の「人とのつながり」の強さを知らない,都市で育った「人との関わりを持ちたくないタイプ」が,理想郷を農村部に求めて,実際の状況に置かれたときに違和感を感じることにはなるでしょう。

ただ,もし今後,農村部が工業的作業のような地域形態に変わるようになれば,「機械的な人とのやりとり」程度で済むようにはなるでしょう。
そうなれば,農作業生活もただの「作業」となる。


>ニートになるためのスキゾイド同士の共同生活。
これは成立するのだろうか?

互いの実生活を保つためだけの「機械的な人との関わり」状態が維持できれば,それも成立すると推測します。

ただ,スキゾイドのなかには対人恐怖症も併発しているタイプもいるらしいので,それが強いタイプだと,「機械的な人との関わり」どころか,「人の形をした存在」すら避けるようになるでしょうし,その場合は共同生活は難しくなると思います。

投稿: おまきん | 2010年3月22日 (月) 20時05分

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