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2010年3月の4件の記事

2010年3月25日 (木)

ンボマスター

普段,ウザイ,ウザイ言ってる僕だが,世間でウザイと言われる「サンボマスター」をついつい聞いてしまう。

それは「好き」ってことかどーかは分からんが,やっぱりついつい聞いてしまう。

「好き」 「嫌い」
はっきりと言えないモノだ。
僕ははっきりと断定しきれない。


しかし,僕はこー思う。
好きか嫌いか分からんが,“つい”やってしまうモノがある。
僕はそーいうモノにはあまり逆らわないようにしている。


それにしても,「サンボマスター」の言うところの「愛」は,正常人が使う“自己愛らぶらぶあいらびゅ~”とは違う気がする。

彼らの「愛」はなぜかウザくない。

正常人の「愛」はウザイけど。

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2010年3月12日 (金)

一つ前の記事を書いた自分について

なんつーか,こいつウゼーな。
自分自身のことなのにな。

いや,数時間前の自分がこんなにウザイと思わなかったわ。
思わなかったっつーか,今そーゆー気持ちが大きくなったっつーか。

いったいこいつ何言ってんだって感じ。
テメーがスキゾイドかそうじゃないかなんてどーでもいーだろーが,ウザイ。
何をそんなにスキゾイドに拘ってんだか?

いやまーいーや,テメーが何に拘ってよーが。
今の僕にはどーでもいー事だ。
数時間前の自分のことなのにな。

なんか自分で自分のことをどーでもよく見れるって,何なんだろーな?
まぁ,どーでもいいけど。

それにしても一眠りする前と後の自分って,こんなに違くなるもんなのか?
前の記事書いて,一眠りしたらなんかどーでもよくなった。

つーか,他の過去の記事もなんかウザイ。
ということは,過去の自分も今の自分からすればウザイ奴ってことだ。
僕にとっては ウザイ→どーでもいい ってなる。

まぁいいや。
そのウザイ記事をどうにかする気も起きないし。

今後の自分ももしかしたらウザイ記事を書くかも知らんが,それはそのときの自分によるしな。1秒後の自分の心持ちがどーなってるかなんて保障できねーっつうの。

またそれは,過去の自分の記事もしかり。今まで自分が言ってきたことなんて保障できねーよ。
なんせ過去の自分は,今の自分と違うような気がするんだから。


いやも~字打つのもめんどくせーわ。
今日はココで終了。

なんかもう,いろいろ ウザし。

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暫定的な仮定義

どうも2chのスキゾスレはコミュニティとは違うみたいだ。

どっちかっつうと,スキゾイドというワケワカランものを暫定的に仮定義するための場?みたいなもんで,そうすることによって彼らが,自分がパラシュートで落ちる暗闇に何かしら暫定的な着地点を見つける・・・,といった感じだろうか?

最近,スキゾイドなんてどうでもいいとかぬかしてる自分ですら,今現在スキゾイドに対して探りを入れて,暫定的な着地点を見つけようとしてんだから,それに今更気付くなんてつくづくアホだ。


「暫定的な仮定義」。
それは「確信」とは程遠い。

ただそのままでは,どうしようもないので,真っ暗闇でとりあえずの明かりをつけたいのだ。
ここでやっかいなのは,明かりをつけることで,他の何者か知れない「危険?」に自身が察知されるかもしれないという恐れもある。
この明かりは自分の着地点を見つけることができるが,同時に敵?に狙われる危険もはらんでいる。
一安心といきたいだろうが,そうも言えない。

このもやもやしたのが,「暫定的な仮定義」。
こういう感じはたぶん「確信」のような全てをまぶしく照らし,敵?の眼をも眩まして退散させるようなモノではない。
うっすらとした頼りない明かり。

まぁ,そういうのは僕にもある。
実際こうやって,スキゾイドについてなんやかんや言ってろのがそうなんだろう。
でも,安心を確信できない。

他の人や,医者などが言うスキゾイド像を当てはめて,「これが自分だ!」と誇るかのようにまるで最強の武器を手に入れた感じには,僕は到底なれない。

というか自分自身で仮定義しても違和感は残る。
「これは本当にエクスカリバーか?」
「エクスカリパー(perの方ね)じゃないのか?」

というか,この暗闇に最強の武器があるなんてなぜか思えない。


いままで,スキゾイドなんてどうでもいいと思ってきたが,それは僕には最後までできないことらしい。
暗闇を暗闇のままで良しとして,死ぬのも構わずにそのままでいることなんてできない。

怖い。怖い。
「スキゾイドなんてどうでもいい」なんてのは,怖さを紛らわす言い訳に過ぎない。
暫定的でも良いから仮定義してしまう。もちろん疑い心が強いからそう簡単にはできないが,そういう方向に自分でも気付かないうちに向かっている。

むしろ,「どうでもいい」なんて言い訳しながらも「スキゾイド」について語ろうとする僕は,相当の臆病者だ。

僕自身が臆病者なのは,これは強く感じることができる。


アホだ。自分アホだ。
本当は無いかもしれないと思っているのに,最強の武器を探そうとする自分。
全然見つからないくせに。

最強の武器も,太陽のごとき明かりも無い。と強く思う。思えてしまう。これは自分でもどうしようもない。

思えば,僕は子どもの頃からそうだった。
周りのみんなが太陽を,最強の武器を振りかざす。
当然自分の内にもあると思い込んで探した。でも見つからなかった。だから見た目だけでも似たような太陽を,最強の武器を振りかざした。

でも一概に成功とは言えず,多分みんなには僕の持っているものがニセモノと分かってたんだろう。
一時期だが,小・中学校ではつまはじきにされた。特に中学では顕著だった。
高校ではいじめられはしないものの,一時期パシリだった。

ずっと,最強の武器を探していた。でもそんなの無いという思いは強かった。
だから,いつも暫定的な仮定義の明かりを,武器を手にした。
そのたびにそれこそが自分だと思い込もうとしたが,うまくいかなかった。

本当は分かっていた。
自分が中腰で,その場から動けず,いつも暫定的な仮の明かりを探していると。

最近になって,探すのを止めたフリをした。
でもこれでもダメらしい。
何かあるとすぐグラついた


やはり僕には暫定的な仮定義は必要なのだ。
たとえそれが太陽のごとき,「恒久の確信」ではないにしても。
そのうち消えてしまう弱い明かりだとしても。
最強の武器は無いと思っていても。

正直,僕は他者というのが怖い。
ソイツが恒久の味方だという保障がどこにもないからだ。

だから僕は,他者とのコミュニケーションを避ける。
たとえコミュニケーション要素はない,2chのようなその要素がない場だとしても,そこに人の気配,何か動くかもしれない(どう動くか解らない)モノの気配でもしようものならそれを忌避してしまう。

僕は何かが作用する粒子のような作用でもダメらしい。
さすがに,日常生活に必要な行為は大丈夫だとしても,自分に予感的に何か害を及ぼすだろう人,モノ,それによって発生する事柄はダメだ。

とくに人とそれに関する事柄は,完全予感的に不安要素だ。
なので,正直どんな理由であれ,このブログにコメントがつかないことはホッとする。


そういえば,スキゾイドについて「愛」というものが出たのだが,正直「愛」が何なのか解らなくて困った。これについては確信はおろか,暫定的な定義すらよくできていないのだ。
なので,これが出たとき正直どう思えばいいのか困った。

恐らくだが,この「愛」こそが太陽の明かりであり,最強の武器なのだろう。
だって,コレまだ全然その痕跡すら見つけられないもの。
いや,もしかしたらもうすでに見つけてるのかもしれないが,恐らく僕がそれを「愛」だと認識できていないのでは?


だとすると,こういう精神面で「愛」イコール?太陽の明かり・最強の武器が無いorはっきりと認識できない人っつーのは,もしかして人間社会で不利なんじゃないの?


あれ?
と,するとどーしたらいいんだろ?

やっぱ,暫定的な仮定義を続けるしかないの?



追記
結局,僕がスキゾイドか違うかなんて分かりませんでした。
だからって自分は普通だ・・・とは言えないような気がするし。でも普通だと思ってるし。

スキゾイドってつまるところ何なんスかね?

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2010年3月10日 (水)

確信できるか?スキゾイド

アクセス解析で分かったのだが,あいかわらずこのブログには「スキゾイド」でググって来たヤツが多い。

過去30日分の検索ワードでは,「スキゾイド」が38回。
つまり1日にほぼ1人が「スキゾイド」で検索してここに来るということだ。


よくわからんのがココだ。

スキゾイドにかかる人の割合は,比率からいったら相当低いのだとか。
だとしたら,スキゾイドはごく少数しかいないはずだ。

なのになぜ,「スキゾイド」でググるヤツが少なくないいのだろう?

当事者がそれほど増えているのか?
それとも,スキゾイドが流行っているのか?


正直,このブログに来るヤツも,「スキゾイド」でググるヤツも,もっと少ないだろうと思っていた。
それが実際は,ココに来るヤツは1日平均5.4人だとか。いや,この数だって他のブログに比べればずっと少ないのだろうが,僕としては1週間に1人来るか来ないか程度だろうと思ってた。
スキゾイドはメジャーじゃないし,このブログ自体,スキゾイドを擁護するものじゃないし。

しかも,このブログのリピート率は非常に低い。
つまりほとんどが一見さんなのだ。

と,いうことは,毎回同じ人が「スキゾイド」で検索してるわけじゃない。
もっとたくさんの人が「スキゾイド」を探していることになる。


なぜ,これほど「スキゾイド」を探す人が増えているのか?


その解は,DSM-Ⅳにあった。

ココのアクセスでは,「スキゾイド ブログ」で検索するやつもいる。
試しにそのワードでググってみた。
するとあるブログで,スキゾイドについて語っていた。ソイツはDSM-Ⅳの診断基準を挙げて,「自分はこれに当てはまる。だからスキゾイド」とかぬかしていた。

これが原因かもしれない。と思った。

DSM-Ⅳとは,簡単にいえば各種人格障害の診断基準となるマニュアルのようなものらしい。
それによると,スキゾイドの診断基準とは・・・

1.家族を含めて人と親密な関係を持つことを楽しいと思わず,親しい関係を持ちたいと思わない。

2.ほとんどいつも孤立した行動をとる。

3.他人と性体験を持つことにほとんど興味がない。

4.趣味のような喜びを感じる活動にあまり関心がない。

5.親,兄弟姉妹以外に親しい人や信頼できる人がいない。

6.他人の賞賛にも批判にも無関心に見える。

7.よそよそしく冷淡である,感情が平板化しており情緒性がない。

・・・以上の7つの基準のうち,4つ以上当てはまればスキゾイドと判断するらしい。


あほくさい。

誰がこんな基準を考えたのか知らんが,こんなの外見から見た感じの「なんとなく」の印象じゃねーか。

これに当てはまるヤツなんか,正常人でも少なくないと思うぜ。

そしたら世の中の人間の何分の一かは,みーんなスキゾイドじゃねーか。
実際,前述したブログ主なんか「自分はスキゾイド」とか言いながら,その記事のコメントで他人と仲よく「多数派のダベリ」みたいなことしてたしな。

こーゆーヤツが増えてんじゃないの?

「自分はひとりが好き」
「他人と仲よくしたくない」

とかいいながら,特定の自分好みの誰かと親密になったとたん,うって変わって多数派然とするヤツがいるんだよな。
または,一見よそよそしいヤツでもある程度自分が周りから認められたり,打ち解けるようになると,自分から積極的に社会に参入しようとするヤツ。

そーゆー「表面上はスキゾイド」のフリするヤツが増えてんじゃないの?

または,自分が何らかの病気(精神・人格障害)であることに,自負心や「何かを手に入れた感」を得るヤツとか。

言っとくけど,スキゾイドだろうが自閉症だろうが,それで偉くなるわけじゃねーからな。
何か得するわけでもねーし。
何か特別な力を秘めているなんて考えていようものなら,そいつはアホだ。

むしろ,人間社会で生きていくにはハンデでしかない。


どーも,このDSM-Ⅳのせいで,世の中の人間が安易に何らかの病気になりたがる,普通の人間から逸脱した特別な何かになりたがってるように感じる。

つーか,「特別な何かが自分の内にある」と思い込むことを,積極的にしようというのが正常人の正常人たる所以なんだがな。

その企みが心の内に一片でもあるようなら,ソイツは病気でもなんでもない,普通の人間だ。


たぶんそれが「スキゾイド」が注目される原因の一つだと思う。

だとするなら,DSM-Ⅳは正常人が「何か特別な存在になりたがる」欲求を満たすための都合のいい動機づけになることだろう。

そのための意義付けとして,もしこのブログが利用されてるとすれば,かなりウザイ。

僕自身はそれが理由というわけではないが,そーゆー「何かを拠り所にして,まるで水戸黄門の印籠のような権威を振るう」ことに対してまるで興味がないので,「スキゾイドをも手放してしまう」のである。

現実として,僕は「スキゾイド」というモノがよくわからない。そーゆーモノだと思っている。
実際,他のスキゾイド患者と会ったこともないし。
なので,このブログでは,一応自身の症状であるスキゾイドを扱っているが,その根拠とするものは自分自身,つまり僕自身を分析することでスキゾイドなるモノを推測している。

しかし,僕は僕自身がよく分からないので,あくまで暫定的な仮定義として「スキゾイド」を語っているのである。
スキゾイド=僕と確信することはできない。

しかし,もし上述のような,簡単に自身をスキゾイドと確信できるようなヤツラが,本物のスキゾイドだというなら少なくとも僕は違うだろう。



医師には「スキゾイド」と診断された。

でも,疑いが残る。他者のことばで確信できない。

自身の言葉でもたぶん確信できない。

「スキゾイド」を調べもした。

でもいまいち理解できない。

自身をスキゾイドと仮定義したこともあった。

でも,どうもしっくりこない。

結局,自分自身も,スキゾイドも把握できない。

何者をも掌握しきれない。


前任の医師は最後にこう言った。
「いつかなにかのきっかけでスキゾイドが治るといいね」

それを聞いて,「スキゾイドとはめったに治らない症状なのだろうか?」と思った。
僕には「治る・治らない」の基準が今もわからない。そのこと自体がわからない。



「スキゾイド」を探す人たちには解るのだろうか?

確信する者たちには解るのだろうか?

何かにすがっている者たちには解るのだろうか?


少なくとも僕の手は,「確信」という“宝”は持っていない。・・・らしい。

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