アクセス解析で分かったのだが,あいかわらずこのブログには「スキゾイド」でググって来たヤツが多い。
過去30日分の検索ワードでは,「スキゾイド」が38回。
つまり1日にほぼ1人が「スキゾイド」で検索してここに来るということだ。
よくわからんのがココだ。
スキゾイドにかかる人の割合は,比率からいったら相当低いのだとか。
だとしたら,スキゾイドはごく少数しかいないはずだ。
なのになぜ,「スキゾイド」でググるヤツが少なくないいのだろう?
当事者がそれほど増えているのか?
それとも,スキゾイドが流行っているのか?
正直,このブログに来るヤツも,「スキゾイド」でググるヤツも,もっと少ないだろうと思っていた。
それが実際は,ココに来るヤツは1日平均5.4人だとか。いや,この数だって他のブログに比べればずっと少ないのだろうが,僕としては1週間に1人来るか来ないか程度だろうと思ってた。
スキゾイドはメジャーじゃないし,このブログ自体,スキゾイドを擁護するものじゃないし。
しかも,このブログのリピート率は非常に低い。
つまりほとんどが一見さんなのだ。
と,いうことは,毎回同じ人が「スキゾイド」で検索してるわけじゃない。
もっとたくさんの人が「スキゾイド」を探していることになる。
なぜ,これほど「スキゾイド」を探す人が増えているのか?
その解は,DSM-Ⅳにあった。
ココのアクセスでは,「スキゾイド ブログ」で検索するやつもいる。
試しにそのワードでググってみた。
するとあるブログで,スキゾイドについて語っていた。ソイツはDSM-Ⅳの診断基準を挙げて,「自分はこれに当てはまる。だからスキゾイド」とかぬかしていた。
これが原因かもしれない。と思った。
DSM-Ⅳとは,簡単にいえば各種人格障害の診断基準となるマニュアルのようなものらしい。
それによると,スキゾイドの診断基準とは・・・
1.家族を含めて人と親密な関係を持つことを楽しいと思わず,親しい関係を持ちたいと思わない。
2.ほとんどいつも孤立した行動をとる。
3.他人と性体験を持つことにほとんど興味がない。
4.趣味のような喜びを感じる活動にあまり関心がない。
5.親,兄弟姉妹以外に親しい人や信頼できる人がいない。
6.他人の賞賛にも批判にも無関心に見える。
7.よそよそしく冷淡である,感情が平板化しており情緒性がない。
・・・以上の7つの基準のうち,4つ以上当てはまればスキゾイドと判断するらしい。
あほくさい。
誰がこんな基準を考えたのか知らんが,こんなの外見から見た感じの「なんとなく」の印象じゃねーか。
これに当てはまるヤツなんか,正常人でも少なくないと思うぜ。
そしたら世の中の人間の何分の一かは,みーんなスキゾイドじゃねーか。
実際,前述したブログ主なんか「自分はスキゾイド」とか言いながら,その記事のコメントで他人と仲よく「多数派のダベリ」みたいなことしてたしな。
こーゆーヤツが増えてんじゃないの?
「自分はひとりが好き」
「他人と仲よくしたくない」
とかいいながら,特定の自分好みの誰かと親密になったとたん,うって変わって多数派然とするヤツがいるんだよな。
または,一見よそよそしいヤツでもある程度自分が周りから認められたり,打ち解けるようになると,自分から積極的に社会に参入しようとするヤツ。
そーゆー「表面上はスキゾイド」のフリするヤツが増えてんじゃないの?
または,自分が何らかの病気(精神・人格障害)であることに,自負心や「何かを手に入れた感」を得るヤツとか。
言っとくけど,スキゾイドだろうが自閉症だろうが,それで偉くなるわけじゃねーからな。
何か得するわけでもねーし。
何か特別な力を秘めているなんて考えていようものなら,そいつはアホだ。
むしろ,人間社会で生きていくにはハンデでしかない。
どーも,このDSM-Ⅳのせいで,世の中の人間が安易に何らかの病気になりたがる,普通の人間から逸脱した特別な何かになりたがってるように感じる。
つーか,「特別な何かが自分の内にある」と思い込むことを,積極的にしようというのが正常人の正常人たる所以なんだがな。
その企みが心の内に一片でもあるようなら,ソイツは病気でもなんでもない,普通の人間だ。
たぶんそれが「スキゾイド」が注目される原因の一つだと思う。
だとするなら,DSM-Ⅳは正常人が「何か特別な存在になりたがる」欲求を満たすための都合のいい動機づけになることだろう。
そのための意義付けとして,もしこのブログが利用されてるとすれば,かなりウザイ。
僕自身はそれが理由というわけではないが,そーゆー「何かを拠り所にして,まるで水戸黄門の印籠のような権威を振るう」ことに対してまるで興味がないので,「スキゾイドをも手放してしまう」のである。
現実として,僕は「スキゾイド」というモノがよくわからない。そーゆーモノだと思っている。
実際,他のスキゾイド患者と会ったこともないし。
なので,このブログでは,一応自身の症状であるスキゾイドを扱っているが,その根拠とするものは自分自身,つまり僕自身を分析することでスキゾイドなるモノを推測している。
しかし,僕は僕自身がよく分からないので,あくまで暫定的な仮定義として「スキゾイド」を語っているのである。
スキゾイド=僕と確信することはできない。
しかし,もし上述のような,簡単に自身をスキゾイドと確信できるようなヤツラが,本物のスキゾイドだというなら少なくとも僕は違うだろう。
医師には「スキゾイド」と診断された。
でも,疑いが残る。他者のことばで確信できない。
自身の言葉でもたぶん確信できない。
「スキゾイド」を調べもした。
でもいまいち理解できない。
自身をスキゾイドと仮定義したこともあった。
でも,どうもしっくりこない。
結局,自分自身も,スキゾイドも把握できない。
何者をも掌握しきれない。
前任の医師は最後にこう言った。
「いつかなにかのきっかけでスキゾイドが治るといいね」
それを聞いて,「スキゾイドとはめったに治らない症状なのだろうか?」と思った。
僕には「治る・治らない」の基準が今もわからない。そのこと自体がわからない。
「スキゾイド」を探す人たちには解るのだろうか?
確信する者たちには解るのだろうか?
何かにすがっている者たちには解るのだろうか?
少なくとも僕の手は,「確信」という“宝”は持っていない。・・・らしい。
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