ブログを書く | サポート 

ココログ人気記事ランキング

 

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月の3件の記事

2010年2月23日 (火)

ドグー

なぜか,夢に出てきた。

土偶。


つうことは,何らかの興味を持ってるということだ。

土偶に対して。



僕の,土偶への興味は,他者のものと同質だろうか?
それとも違うものか?

そもそも,土偶とは何なのか?

たとえ,太古の昔,土偶を作った当人が「土偶とは~~だ!」と言ったとしても,僕はその事実を受け入れられるだろうか?

きっと,無理だろう。

だからといって,僕が土偶に対して何らかの安易な定義付けをすることもないだろう。

なにしろ,ホントに解らないんだから。


大抵の人は,このなんだか解らない「土偶」に対して,きっと何らかの定義付けをしているだろう。

「古代の祭器である」

「呪術的な意味合いを持つ」

「当時の文化のデザインである」

「焼き物として最も単純で,作りやすかった。ただそれだけの物である」

「単に面白いモノ」


そうやって,何らかの結論を出し,定義づけしてしまうだろう。
それが正常人の性質だ。
彼等は「解らないモノ」を解らないままにしておけない。
何らかの思考を「土偶」に付加し,勝手に心に納める。

まるで,値段のわからないモノに対し,無理矢理値札をつけて勝手にカネを払って持ち去っていくように。

そうまでして,解らないモノを「心の檻」に所有したいか。

まぁ,そうだろうよ。

それが正常人の「抗えない性」なのだから。
それこそが,「世界」の内に「社会」を作り,その「社会」をもって「世界」を手中に収めようとする「種族」の性質なのだから。


僕にとっては,「解らないモノ」は解らないままだ。
一応,それが何なのか,比較,検証,考察することはあるが,やはり「解らないモノ」は「解らないモノ」だ。定義付けられない。
暫定的に「仮の定義」をすることはあるものの,完全には把握していない。
心のどこかで「解らないモノ」に対して把握しようとしても,どうしてもできないのだ。

だからその時点で「把握した」モノでも,それに対する疑問は消えない。
心のどこかで「本当に理解できたのか?」と疑ってしまう。

今まで書いてきた記事もそうだ。

自分の心や思い。スキゾイドや統合失調症,正常人に対する考察。
どれもが仮定のモノだ。断定できない。確信というモノが無い。

だからといって,「解らないモノ」を初めから無かったモノにすることもできない。

何が偽で,何が真実か?
そんな定義自体ができない。
しっかり決められない。


こんな僕の性質は,正常人たちとの間でしばしば摩擦を起こす。

正常人たちは,物事に対して,素早いスピードで定義づけをする。故に物事を「決める」のが早い。さもなくば,「ありえない」モノは初めから無きモノとする。
何事に対しても,確信しやすいのが彼等の性質である。
だから彼等はこの世界で素早く動く。

僕にはこんな能力は無い。

僕の心はテキパキと動けない。

この世の何事も把握できない。

仮にあったとしても,それはほんとに「仮」のモノで,この世でなんとか必要最小限動くための間に合わせの「心の動力」に過ぎない。



今また,土偶は動いている。

土から掘り起こした,現代人によって動かされている。

再び人々の「心の檻」に所有されている。そのために動かされている。

ロマン?  憧れ?  興味?  関心?  権力?  金?

名札が,値札が付けられている。



白日の下に晒されたほうがいいのか?
それとも,土に埋もれたままにしたほうがいいのか?

僕にはその是非が解らない。理解できない。

解らないモノは,そのモノとしておく。
それしかできない。


僕はとりあえず土偶を元の場所に放置しておくことにした。
手に持ちきれなかったから。
土の中にも埋められなかったから。




そういえば,土偶は当時,その一部を意図的に壊されていたのだとか。

何のためだろうか?

もしかしたら,「土偶」という「物事」を「所有」することへの恐れだろうか?

表現→所有→消費(当時?)→?
発掘→展示→消費(現代)→?

は,似ている。
もしかしたら,当時の人々は「消費」の“先”を恐れたのだろうか?



何にせよ,本当のことは解らない。

土偶のことも結局解らない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 3日 (水)

スキゾイドはスキゾイドをも手放す

ためしに2ちゃんねるの「スキゾイド」スレを見てきたが,どうも違和感がある。

おまえら,どうして自分のことをそんなに語れる?

まぁ,僕も自分(スキゾイド)についての考察はしてきたが,このブログで記事を4~5本書いたぐらいで,後はもう書くことが無くなった。

スキゾイド自体にも興味を無くしてしまった。自分の症状だというのに。
他人どころか,自分という人間にも興味が無い。


なのに,2ちゃんでは自称?スキゾイド同士がまるで一つのコミュニティを構成するがごとくコメントしている。

「人間は動物。うまくころがしてやる」とか,
「自分は表面上のつきあいはできる」とか,
「こんな自分はスキゾイドだろうか?」とか,
「~なのがすきぞいど」とか・・・

はっきりいって,どうでもいい内容で,興味を持てない。

そもそも,掲示板でスレッドを立てること自体が,一つのコミュニティを作る行為だと言える。
そんな行為など,僕にとってはまったくどうでもいいことだ。やる気も起こらない。
だから,「あのスレッドによくコメントなんてできるな」と思ってしまう。
おまえら,本当にスキゾイドか? と疑ってしまう。
まぁ,あのスレに本物のスキゾイドがいようがいまいがどうでもいいことだが・・・

ブログの場合は,本人の独り言であることが多いから,そこでスキゾイドが自分のことを語ろうが,特に違和感を感じないが,
掲示板は,不特定多数が寄り集まるため,どうしても社会的な側面を構築してしまう。
そのため,その内容は自身のスキゾイド自慢?だったり,それに対するこきおろしだったりする。
その様子はまるで人と人との会話のように見えてしまう。

人と人との会話を成立させようとする欲望。
僕にはそれが無い。もしあったとしても希薄だ。


だから,スキゾイドが社会を構築できることが不思議でならない。
もし,スキゾイドであってもお互いが社会を構築できるのであれば,もしかしたら僕はスキゾイドじゃないのかもしれない。

まぁ,そのへんのことははっきりとは断定できないが・・・


僕は一応,医者からスキゾイドと診断されたが,だからと言っておんなじスキゾイドであっても他者とは仲よくしようとは思わないし,関わりたいとも思わない。そのテの興味が湧かない。


コメントをするということは一つの欲求だ。他者に対する欲求。
実質的な利害関係が成立しない限り,僕はその欲求が希薄だ。他の場所でコメントすることはあまりしない。

以前は,僕もスキゾイドについて分析しようとして,他でコメントしたこともあったが(他者と会話することでスキゾイドなるモノが解明できるかもしれないと思って),結局スキゾイドなるモノがはっきりと解らなかったので,その気も失せた。

「自分=スキゾイド」という考えが希薄になったとも言えよう。
まぁ,自分がスキゾイドであろうがなかろうがどうでもいいということだ。


結局のところ,僕は「スキゾイド」というモノにもすがることはできなかっという訳だ。

・・・まぁ,医者から見れば,僕はスキゾイドの傾向に当てはまってるのかも知れんが。
診断されてからもう4~5年経つが,未だに障害者手帳の等級は2級のままで,薬も処方される。


それにしても,僕はいつから「何かにすがる欲求」が希薄になったんだろう?
仮に何かにすがっていた時期があったとしても,すぐに手放してしまう。

最近では,ひきこもり生活が多くなったため,現実世界そのものに対しても「すがる欲求」が消えつつある。
そのせいか,一日の大半は睡眠に費やしている。
なんか,ずっと眠っていたほうが,いろいろめんどくさくなくて楽なのだ。
ある美術の講師が言っていたが,「寝るより楽はなかりけり」というのは本当かもしれない。



世界は人を作り,人は社会を作る。そして社会は人をこの世界に留めようとする。

ならば,僕はいつか塵となって,この世界から消えることだろう。

人にも,社会にも,この世界にも「つながりたい」と思えないのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

デイケアでのできごと 3

スキゾイド(僕)と統合失調症者は,合わない。
かかわりあいたくない。

まじウザイ。統失。



昨日,SSTとグループワークに参加してみたんだが,大変だった。

統失のヤツラのなかには沈黙に耐えられないタイプってのがいて,会話が途切れるとなんでもかんでもしゃべり出す。
ほとんど,っつうか全部がどうでもいいような話ばかり。

統失の会話ってのは,一見正常人のとそんなに変わらないんだけど,何っつうか文字通り統合性が欠けてるように感じるのね。

そこは病気の所為なんだからしょうがないんだろうけども,ただやっぱり「心のベクトル」が正常人のと一緒なんだよなぁ。
それがとってもウザイ。

統失ってのは,やっぱりみんな「正常になりたい」と思ってるんだろうなぁ。いやはっきりとは解んねえけど。
正常人として明らかに欠陥品であるのに,それでも「正常になりたい」がために正常人のマネをする人の形をした異邦人。それが統失。

いや,人の形をしてるのに人間(正常人)じゃない,異邦人なのはスキゾイドも同じなんだけど,統失と同じ人種ではない。もっと言うと生物種が違う。


別に統失が「正常になりたい」と思っていようが構わないんだよ。僕は。
正常人によって社会から排除されるのが怖かろうが,それでもなお「正常」にしがみつこうとしようが,そんなこと僕にとってはどうでもいいことだ。


しかし,そのどうでもいい,統失の「正常人のモノマネ」を見せつけられるのは勘弁だ。
統失が集まると,その場は「統失の,正常人による,統失(正常人)のための空気」が支配することになる。

その空気では,統合性が欠如しているとはいえ,正常人と同じベクトルで物事が進む。
そのベクトルとは真逆のベクトルを持つスキゾイドにとっては,その空気自体が合わない。

そのような空気が支配する場に置かれると,僕のなかの「どうでもよさ」が過剰になり,それが「ウザさ」となって,頭が重くなって眠くなってしまう。

どうでもいいオーケストラを聞いてて,あまりのつまらなさについ眠ってしまうように,
統失の醸し出す空気に,僕はつい眠くなってしまう。



まぁ,とにかくスキゾイドと統合失調症者とは相容れないということだ。


今度,デイケアの野外活動で,みんなでバスに乗ってどこかへ行くようだが,僕はアイツ等との団体行動はごめんだね。
不参加決定。

デイケアも,またしばらく休む。
ひきこもって夢の世界に浸ってたほうがはるかにマシ。

担当スタッフ(デイケアに来るように,と僕に言ってくる)には悪いが,いや悪いとも思っちゃないが,とにかくデイケアにはしばらく行かない。

そう決めた。



それにしてもデイケアよー。
スキゾイドをどうにかするのに,ちっとも役に立ってないじゃないかよー。

もっとなんかいい方法考えろよ。

例えば,病気の種類ごとにクラス分けして,プログラム組むとかさー。
統失や“うつ”のヤツらと一緒にされても「心のベクトル」が違うから,ウザくなって眠ってしまうじゃないかよー。



やっぱ,デイケアは「正常になりたい」ヤツが来るべきところなんだろーね。

正常人の世界に違和感を感じながらも,自分は「普通」だと思っているスキゾイドには向かねーわ。デイケアは。

ひきこもり,またはニートで充分だわ。スキゾイドは。



それにしても,統失のヤツらは自分を正常だと思っているのかね?
それとも,「異常」だと自覚してんだろーか?

もし,自分を「異常」だと思いつつも,「正常になりたい」と思ってんなら,アレと同じだね。
ほら,あの「妖怪人間」と。

「妖怪人間」は確か人間になりたがってたんだよね。
「はやく人間になりたーい!」って叫んでたしw



そうだなぁ。
正常人が「人間」だとすれば,

統合失調症者は「妖怪人間」。

スキゾイドは,ちょっとした風にも吹き飛ばされて無くなってしまう「塵」といったところか。


っても僕自身は自分を「普通」だと思ってるんだがね。
むしろ,周りの人間みんなが変なんだと思ってる。

だから,僕からすれば,「正常人」も「統合失調症者」も「うつ」も「その他の精神病・自閉症者」も,みーんな変なヤツらだ。


だから僕はスキゾイドと診断されても,いまいち自覚できてない。



なので,スキゾイド(僕)が「普通」で,その他みんなが「変」。
・・・ってなことにはならないんだろーな。多分。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »