ドグー
なぜか,夢に出てきた。
土偶。
つうことは,何らかの興味を持ってるということだ。
土偶に対して。
僕の,土偶への興味は,他者のものと同質だろうか?
それとも違うものか?
そもそも,土偶とは何なのか?
たとえ,太古の昔,土偶を作った当人が「土偶とは~~だ!」と言ったとしても,僕はその事実を受け入れられるだろうか?
きっと,無理だろう。
だからといって,僕が土偶に対して何らかの安易な定義付けをすることもないだろう。
なにしろ,ホントに解らないんだから。
大抵の人は,このなんだか解らない「土偶」に対して,きっと何らかの定義付けをしているだろう。
「古代の祭器である」
「呪術的な意味合いを持つ」
「当時の文化のデザインである」
「焼き物として最も単純で,作りやすかった。ただそれだけの物である」
「単に面白いモノ」
そうやって,何らかの結論を出し,定義づけしてしまうだろう。
それが正常人の性質だ。
彼等は「解らないモノ」を解らないままにしておけない。
何らかの思考を「土偶」に付加し,勝手に心に納める。
まるで,値段のわからないモノに対し,無理矢理値札をつけて勝手にカネを払って持ち去っていくように。
そうまでして,解らないモノを「心の檻」に所有したいか。
まぁ,そうだろうよ。
それが正常人の「抗えない性」なのだから。
それこそが,「世界」の内に「社会」を作り,その「社会」をもって「世界」を手中に収めようとする「種族」の性質なのだから。
僕にとっては,「解らないモノ」は解らないままだ。
一応,それが何なのか,比較,検証,考察することはあるが,やはり「解らないモノ」は「解らないモノ」だ。定義付けられない。
暫定的に「仮の定義」をすることはあるものの,完全には把握していない。
心のどこかで「解らないモノ」に対して把握しようとしても,どうしてもできないのだ。
だからその時点で「把握した」モノでも,それに対する疑問は消えない。
心のどこかで「本当に理解できたのか?」と疑ってしまう。
今まで書いてきた記事もそうだ。
自分の心や思い。スキゾイドや統合失調症,正常人に対する考察。
どれもが仮定のモノだ。断定できない。確信というモノが無い。
だからといって,「解らないモノ」を初めから無かったモノにすることもできない。
何が偽で,何が真実か?
そんな定義自体ができない。
しっかり決められない。
こんな僕の性質は,正常人たちとの間でしばしば摩擦を起こす。
正常人たちは,物事に対して,素早いスピードで定義づけをする。故に物事を「決める」のが早い。さもなくば,「ありえない」モノは初めから無きモノとする。
何事に対しても,確信しやすいのが彼等の性質である。
だから彼等はこの世界で素早く動く。
僕にはこんな能力は無い。
僕の心はテキパキと動けない。
この世の何事も把握できない。
仮にあったとしても,それはほんとに「仮」のモノで,この世でなんとか必要最小限動くための間に合わせの「心の動力」に過ぎない。
今また,土偶は動いている。
土から掘り起こした,現代人によって動かされている。
再び人々の「心の檻」に所有されている。そのために動かされている。
ロマン? 憧れ? 興味? 関心? 権力? 金?
名札が,値札が付けられている。
白日の下に晒されたほうがいいのか?
それとも,土に埋もれたままにしたほうがいいのか?
僕にはその是非が解らない。理解できない。
解らないモノは,そのモノとしておく。
それしかできない。
僕はとりあえず土偶を元の場所に放置しておくことにした。
手に持ちきれなかったから。
土の中にも埋められなかったから。
そういえば,土偶は当時,その一部を意図的に壊されていたのだとか。
何のためだろうか?
もしかしたら,「土偶」という「物事」を「所有」することへの恐れだろうか?
表現→所有→消費(当時?)→?
発掘→展示→消費(現代)→?
は,似ている。
もしかしたら,当時の人々は「消費」の“先”を恐れたのだろうか?
何にせよ,本当のことは解らない。
土偶のことも結局解らない。
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