非日常に歓喜する人々
政治や社会問題,事件についてあーだこーだ言って文句つけてるブログをよく目にする。
どれも「社会」に深く関わるジャンルだ。
なぜそんなにも,「社会」にモノ申したいのか? その心情がよく理解できない。
これを読んでいる人も知ってるかもしれないが,政治や社会問題,事件をネットで調べるときに,キーワードを入力(例えば事件なら犯人の名前とか)してぐぐるとたいていどこかのブログや2ちゃんねるがトップに出てくる。
それらに行ってみると,たいていが批判や非難,(2ちゃんの場合は)悪口雑言などが書かれている。
特に,事件を起こした犯人の場合はすごい。ニュースで話題性がマックスに達した「犯人」に関しては,2ちゃんねるなどではものすごい量の書き込みがある。それもものすごく速いスピードで瞬く間に1000件に達し,すぐに閲覧できなくなる。
つまりそれほど「関心」があるということだ。
少し前,逃亡していた市橋容疑者が,ニュースで話題になってから捕まるまでのあいだは,ネットでもものすごい量の関連サイトが乱立していた。どの掲示板でもブログでも「犯人」についての情報,批判,非難などがたくさん書き込まれていた。
まるで,大きな「祭り」に狂喜して群がる群衆のように。
僕も「犯人」について調べていたのだが,「犯人」というよりはむしろ,それに群がる「群集」の心理に興味があった。
最近は,インターネットが普及して,これを利用すればたいていのモノに関する情報は容易に得られるようになっている。ネットが苦手で使えない人でも,新聞や週刊誌からでも情報を得られる。とくに女性などは週刊誌を好むらしいが。いずれにしろ,テレビからの情報だけでは満足できないらしい。
しかし,いかにインターネットが普及しようが,週刊誌があろうが,それらから情報を得るには,多少なりとも労力もいるし,お金も使う。
そこまでして「政治」「社会問題」「事件」に関心を払いたいのはいったいなぜだろうか?
「政治」「社会問題」「事件」はそのままでは話題性が乏しいのだが,その伝え方によっては特別人の目を引く奇異なモノへと変わる。
また,それらに元から特別な,多くの人の関心を引くほどの「魅力的な」要素があった場合は,ちょっと情報を加工するだけでも多大な「関心事」になる。
「政治」「社会問題」「事件」とは「社会」の流れとも言える。この流れが「見慣れている」モノであるうちは大した関心事にはならないだろう。
しかし「社会の流れ」が大きくうねったとき,いままで穏やかだった「社会」に荒波が立つ。退屈な「日常」に突如波風がたったごとく。
それは「非日常」と化し,人々はそこに「刺激」を求めるかのように,「関心」をくすぐられ,引き寄せられるようにその「非日常」に群がるのだ。
以前にも言ったが,正常人は精神を守る「防御膜」が厚い。
それは,世界のあらゆるモノが発する「刺激」から自己の精神を守ってくれる。しかし,そのシステムは,「防御膜」が外部からの「刺激」を劣化させることで成り立っている。
例えば,人は目新しいモノには大きな「関心」を寄せるが,それは同時に自分にとって精神的ストレスにもなる。ゆえに,ただちに「劣化」させてその「刺激」に慣れさせなくてはならない。だから,正常人は初めのうちは目新しいものに「関心」を寄せていても,しばらくすれば飽きて(慣れて)しまうのだ。
「飽きる」(「慣れる」)ということはその「刺激」に対して「耐性」ができてしまったということで,それを僕は「劣化」と呼んでいる。
こうすることで,仮に今後似たような「刺激」に見舞われても,人は十分耐えられるようになるのだ。
そうやって,人は「日常」の範囲をどんどん広げていって心の「安全地帯」を拡大してゆくのだ。大人が子どもよりも物事に対して落ち着いた態度でいられるようになるのはそのせいだ。
しかし「防御膜」が厚いため,次第にいろんな「刺激」に対して鈍感にもなってくる。拡大した「日常」の内には目新しい「刺激」は存在せず,その「安心」が「退屈」になっていくこともしばしばある。
「刺激=ストレス」が無い状態は「安心」をもたらすものの,反面「退屈」を生んでしまう。
「退屈」を感じる人は次第に「日常の外=非日常」に刺激を求めるようになる。
そこに目新しい刺激「事件」などが飛び込んでくると,人は「待ってました!」とばかりにその「刺激」に飛びつく。
それこそが「社会」に生じた波風(政治,社会問題,事件)という目新しい「刺激」(=「非日常」)に,人々が「関心」をよせる理由だろう。
しかし,これはあくまで自分の安全が約束された前提での話だ。
つまり,人は「自分は安全な場所にいながら目新しい出来事を見物していたい」のだ。例えるなら「対岸の火事を見物する野次馬」のごとく。
よって自身は「非日常の刺激」は求めてはいるものの,それ自体には巻き込まれたくない。都合よく「刺激」だけを享受していたいのだ。「危険」は排除したいのだ。
それゆえ,人は事件などの当事者以外は,「他人事」でいられるのだ。
それにしても,人はなぜ「退屈」を感じてしまうのか?
なぜ「退屈でも安全なささやかな日常」に満足できないのか?
それは,人が「支配欲」を持つためである。
この欲はとても強く,「他者を征服したい」「もっとお金持ちになりたい」「ぜったい死にたくない」「人の上に立ちたい」「領土を拡大したい」「いろんなモノを集めたい」などの欲がそれに当てはまる。
「征服」「金銭」「安心」「権力」「物欲」もそうだが,「情報」についてもその欲は該当する。
「情報」は知れば知るほど,ひいては自身の精神・肉体・環境の「保身」にもつながる。
「保身」は本能ともいうべき基本的な生物のシステムで,これがいろいろな方向に派生して人の様々な「欲」と連動してそれを満たそうとする。
さきほど,「人は「日常」の範囲をどんどん広げていって心の「安全地帯」を拡大してゆく」と言ったが,それも一連の「保身」から連動する「支配欲」に相当する。
人はそれほどにまで大きな「保身」を持っており,それゆえ様々な「欲」を派生させ,それらを満たそうとするのだ。
まぁ,「保身」の度合いも人それぞれで,強い人もいれば,弱い人もいる。よって「欲」の種類も量も人それぞれだろう。
しかし,僕の見た限りでは「現代」の正常人は,まだまだ「保身」も「欲」も強い人が多い気がする。というより,最近はそれらが「強い人」と「弱い人」がなんとなくカテゴリー分けされてきているような気がする。
例えば,「草食系」というカテゴリーとかも,「保身」「欲」が弱い人の部類に入る気がする。
いずれにせよ,「保身」が心にあるかぎり,「欲」もあるだろう。
である以上,人は「社会」に「非日常」に関心をずっと持ちつづけるだろう。
そして人々は,まるで「祭り」に群がるかのように,「非日常の刺激」を求め,それを享受して歓喜するのだろう。 ・・・良くも悪くも。
しかし,正常人の心理を考察していると,つくづく,スキゾイドとは共通点が少ないことに気付かされる。
マジで,正常人とスキゾイドは互いに断絶して生活したほうが,お互いにとってイイのかもしれないと最近は思ってしまう。
まぁ,実質スキゾイドは正常人の生活的支援が無いと生きていけないのだが・・・
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