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2009年11月の11件の記事

2009年11月27日 (金)

非日常に歓喜する人々

政治や社会問題,事件についてあーだこーだ言って文句つけてるブログをよく目にする。

どれも「社会」に深く関わるジャンルだ。
なぜそんなにも,「社会」にモノ申したいのか? その心情がよく理解できない。


これを読んでいる人も知ってるかもしれないが,政治や社会問題,事件をネットで調べるときに,キーワードを入力(例えば事件なら犯人の名前とか)してぐぐるとたいていどこかのブログや2ちゃんねるがトップに出てくる。
それらに行ってみると,たいていが批判や非難,(2ちゃんの場合は)悪口雑言などが書かれている。

特に,事件を起こした犯人の場合はすごい。ニュースで話題性がマックスに達した「犯人」に関しては,2ちゃんねるなどではものすごい量の書き込みがある。それもものすごく速いスピードで瞬く間に1000件に達し,すぐに閲覧できなくなる。
つまりそれほど「関心」があるということだ。

少し前,逃亡していた市橋容疑者が,ニュースで話題になってから捕まるまでのあいだは,ネットでもものすごい量の関連サイトが乱立していた。どの掲示板でもブログでも「犯人」についての情報,批判,非難などがたくさん書き込まれていた。
まるで,大きな「祭り」に狂喜して群がる群衆のように。
僕も「犯人」について調べていたのだが,「犯人」というよりはむしろ,それに群がる「群集」の心理に興味があった。

最近は,インターネットが普及して,これを利用すればたいていのモノに関する情報は容易に得られるようになっている。ネットが苦手で使えない人でも,新聞や週刊誌からでも情報を得られる。とくに女性などは週刊誌を好むらしいが。いずれにしろ,テレビからの情報だけでは満足できないらしい。
しかし,いかにインターネットが普及しようが,週刊誌があろうが,それらから情報を得るには,多少なりとも労力もいるし,お金も使う。


そこまでして「政治」「社会問題」「事件」に関心を払いたいのはいったいなぜだろうか?

「政治」「社会問題」「事件」はそのままでは話題性が乏しいのだが,その伝え方によっては特別人の目を引く奇異なモノへと変わる。
また,それらに元から特別な,多くの人の関心を引くほどの「魅力的な」要素があった場合は,ちょっと情報を加工するだけでも多大な「関心事」になる。

「政治」「社会問題」「事件」とは「社会」の流れとも言える。この流れが「見慣れている」モノであるうちは大した関心事にはならないだろう。
しかし「社会の流れ」が大きくうねったとき,いままで穏やかだった「社会」に荒波が立つ。退屈な「日常」に突如波風がたったごとく。
それは「非日常」と化し,人々はそこに「刺激」を求めるかのように,「関心」をくすぐられ,引き寄せられるようにその「非日常」に群がるのだ。

以前にも言ったが,正常人は精神を守る「防御膜」が厚い。
それは,世界のあらゆるモノが発する「刺激」から自己の精神を守ってくれる。しかし,そのシステムは,「防御膜」が外部からの「刺激」を劣化させることで成り立っている。
例えば,人は目新しいモノには大きな「関心」を寄せるが,それは同時に自分にとって精神的ストレスにもなる。ゆえに,ただちに「劣化」させてその「刺激」に慣れさせなくてはならない。だから,正常人は初めのうちは目新しいものに「関心」を寄せていても,しばらくすれば飽きて(慣れて)しまうのだ。
「飽きる」(「慣れる」)ということはその「刺激」に対して「耐性」ができてしまったということで,それを僕は「劣化」と呼んでいる。
こうすることで,仮に今後似たような「刺激」に見舞われても,人は十分耐えられるようになるのだ。
そうやって,人は「日常」の範囲をどんどん広げていって心の「安全地帯」を拡大してゆくのだ。大人が子どもよりも物事に対して落ち着いた態度でいられるようになるのはそのせいだ。

しかし「防御膜」が厚いため,次第にいろんな「刺激」に対して鈍感にもなってくる。拡大した「日常」の内には目新しい「刺激」は存在せず,その「安心」が「退屈」になっていくこともしばしばある。
「刺激=ストレス」が無い状態は「安心」をもたらすものの,反面「退屈」を生んでしまう。

「退屈」を感じる人は次第に「日常の外=非日常」に刺激を求めるようになる。
そこに目新しい刺激「事件」などが飛び込んでくると,人は「待ってました!」とばかりにその「刺激」に飛びつく。
それこそが「社会」に生じた波風(政治,社会問題,事件)という目新しい「刺激」(=「非日常」)に,人々が「関心」をよせる理由だろう。

しかし,これはあくまで自分の安全が約束された前提での話だ。
つまり,人は「自分は安全な場所にいながら目新しい出来事を見物していたい」のだ。例えるなら「対岸の火事を見物する野次馬」のごとく。
よって自身は「非日常の刺激」は求めてはいるものの,それ自体には巻き込まれたくない。都合よく「刺激」だけを享受していたいのだ。「危険」は排除したいのだ。
それゆえ,人は事件などの当事者以外は,「他人事」でいられるのだ。


それにしても,人はなぜ「退屈」を感じてしまうのか?
なぜ「退屈でも安全なささやかな日常」に満足できないのか?

それは,人が「支配欲」を持つためである。
この欲はとても強く,「他者を征服したい」「もっとお金持ちになりたい」「ぜったい死にたくない」「人の上に立ちたい」「領土を拡大したい」「いろんなモノを集めたい」などの欲がそれに当てはまる。
「征服」「金銭」「安心」「権力」「物欲」もそうだが,「情報」についてもその欲は該当する。
「情報」は知れば知るほど,ひいては自身の精神・肉体・環境の「保身」にもつながる。
「保身」は本能ともいうべき基本的な生物のシステムで,これがいろいろな方向に派生して人の様々な「欲」と連動してそれを満たそうとする。

さきほど,「人は「日常」の範囲をどんどん広げていって心の「安全地帯」を拡大してゆく」と言ったが,それも一連の「保身」から連動する「支配欲」に相当する。

人はそれほどにまで大きな「保身」を持っており,それゆえ様々な「欲」を派生させ,それらを満たそうとするのだ。

まぁ,「保身」の度合いも人それぞれで,強い人もいれば,弱い人もいる。よって「欲」の種類も量も人それぞれだろう。
しかし,僕の見た限りでは「現代」の正常人は,まだまだ「保身」も「欲」も強い人が多い気がする。というより,最近はそれらが「強い人」と「弱い人」がなんとなくカテゴリー分けされてきているような気がする。
例えば,「草食系」というカテゴリーとかも,「保身」「欲」が弱い人の部類に入る気がする。


いずれにせよ,「保身」が心にあるかぎり,「欲」もあるだろう。
である以上,人は「社会」に「非日常」に関心をずっと持ちつづけるだろう。

そして人々は,まるで「祭り」に群がるかのように,「非日常の刺激」を求め,それを享受して歓喜するのだろう。 ・・・良くも悪くも。




しかし,正常人の心理を考察していると,つくづく,スキゾイドとは共通点が少ないことに気付かされる。

マジで,正常人とスキゾイドは互いに断絶して生活したほうが,お互いにとってイイのかもしれないと最近は思ってしまう。

まぁ,実質スキゾイドは正常人の生活的支援が無いと生きていけないのだが・・・

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2009年11月26日 (木)

芸能人と他者と自己

「好きな芸能人はいますか?」
「芸能人なら誰に似てる?」
「あなたは芸能人の○○に似ている」


・・・こう言われて,違和感を感じることがよくある。

なぜ,他者を認識するのに芸能人が引き合いに出されるのか?

「好きな芸能人」だって?
・・・そんなもんいるわけないだろーが

「芸能人なら誰に似てるか」だと?
・・・そんなの知るかよ

「芸能人の○○に似ている」だぁ~?
・・・知らねぇ~なぁ そんなヤツ

思わずこう返したくなるくらい,どうでもいいダベリだ。 僕にとっては。


今日は,「なぜ人は他者や自分を認識するために,芸能人をダシに使うのか?」を考察してみようと思う。
・・・その前に,先にあげた3つの下らないダベリについて,愚痴をはさみつつ,つっこんでみたい。

まず,
「好きな芸能人はいますか?」 という質問から。
・・・そもそもなぜ最初から「芸能人が好き」という設定ありきなんだ?
この質問は,相手に「好きな芸能人がいる」ことが始めから前提となっている。つまり「あんたも好きな芸能人が当然いるんだろ?」という話し手の思い込みが根拠となった質問である。
「もしかしたら聞き手には好きな芸能人などいないかもしれない」という考えはまるでない。はじめから「誰もが芸能人が好き」だと思い込んでいるのだ。

はっきり言ってこのような思い込みは迷惑だ。
なぜなら,第一に自分が「芸能人好き」だと決めつけられることが不快だ。
第二に「好きな芸能人がいるのは当たり前だろ?」というヘンな常識の押し付け。うんざりする。
第三に「好きな芸能人」バナシで馴れ合おうという魂胆がミエミエで,ウザイ。
以上の理由で,安易に他者とつながりたくない僕はこのテの質問を嫌うのだ。

次に,
「芸能人なら誰に似てる?」 という質問。
そもそも人を,いきなり誰かに似ているモノとして扱うのはいかがだろうか?
その人のことを,「似ている誰かの劣化版」として扱いたいのだろうか?
まぁ,まだよく知らない人を簡易的・暫定的に把握するためには,「知ってる誰かの劣化版」扱いしたほうが簡単なんだろうが,それにしたって把握の仕方が大雑把すぎないか?
たとえその人が芸能人の誰かに似ているとしても,生き方や生活スタイル,考え方まで似ているわけではない。その人が意識的に似せようとしてるならまだしも。
そもそも芸能人だって,たいていの人はテレビなどに映る表層的なほんの一部分しか見ていない。その芸能人の全てを知っているわけでもない。
なのに「似ている」と言われただけで,その芸能人も言われた人も,それらに関わる事象すべてが一緒くたにされてしまって,大雑把にまとめて括られてしまう。

・・・確かに「~に似ている」という言葉は,自分が他者を把握する方法としては,一番手っ取り早く簡単であるが,一方で,その他者を安易に定義づけしてしまって,それが正しいか間違っているかの十分な検討もなされないまま,また,その人の細部を無視したまま,大雑把に括られてしまう。なので,時間が経つにつれて,その人の本質と自分が勝手に決めたイメージとの間でギャップが生じることになる。それが後々の人間関係に悪影響を及ぼす可能性もあるだろう。
そもそも,自分が誰に似てるかなんて,考えたことのない人にはこのテの質問はウザッたく感じるだろう。なぜなら自分にとって他者などどうでもいい思っている人は,いちいち他者を想像しなけりゃならない。その他者と自分との共通点をわざわざ探し出して,結びつける。そして自分と他者(似ているであろう芸能人)を意識した上で,自分の口から「~に似ているって言われる」なんて言わなきゃならないのだ。しかもなにげに謙遜までつけなきゃならんし。こんなめんどくさい行程をいちいち頭の中で,短い時間のなかでやんなきゃならないのだ。
それほど,ウザッたく,めんどくさい質問なのだ。聞かれたほうの精神的負担は大きい。

最後に,
「あなたは芸能人の○○に似ている」
これは,上記の考察と共通する部分が多い。
二つ目の質問と違うのは,「似ている芸能人」を自分で決めるか,他者に決めつけられるかである。前の質問は前者,これは後者にあたる。

この場合は,「似てる」といわれる芸能人が,世間のイメージと自分のイメージがプラスなものならば,たいていの人は悪い気はしないだろう。世間でも自分でもイケメンとか美人とかカワイイなどのプラスイメージだと思われる芸能人に似ていると言われれば,誰だって嬉しいだろう。
ただ,マイナスイメージが付加される芸能人の場合は気分を害するかもしれないが。

しかし,以上のことは正常人にしか当てはまらない。
他者のことなどどうでもいいと思っている人には,たとえ誰に似ていると言われようと,なんとも思わないかもしれない。事実,僕もそうで,「自分と他者を勝手に結びつけられても,所詮はその人の価値観であって,それは自分の生活に何ら影響を及ぼさない。」と思っている。だから,この決めつけの言葉にはなんの感情も抱かない。どうでもいい。
まぁ,このようなどうでもいい言葉を何度も聞かされるとさすがに耳障りになってくるが。


・・・前置きが長くなってしまったが,本題に移りたいと思う。
「なぜ人は他者や自分を認識するために,芸能人をダシに使うのか?」・・・だったな確か。

さて,なぜ人は,他者を知ってる人と結び付けたがるのか?

さっそくその理由を羅列してみよう。
・ 他者を簡易的に簡単に把握するためである。
これは上記の考察でも言ったが,人ははじめて会う人やよく知らない人などを,手っ取り早く定義づけするためであろう。
また,ある程度知っている人でもそこそこ馴れ合えていると感じれる人にもなされる場合がある。この場合はその人をより知っておきたい,さらに定義づけすることでより単純に把握しておきたいというものだ。なるべく不確定要素を排除し,その人のデータを簡略化して圧縮し,コンパクトに解釈しようとする行為だ。

基本的に,人はよく分からないモノや知らないモノに対峙したとき,それに対して積極的にアプローチしない。それに対して恐れを持つからだ。つまり,「わからない,知らない」モノは怖くて扱えないという心理が働く。
しかし,いつまでもそのままにしておくこともできない。「恐れ」はストレスとなり,それを感じ続けている間はずっと精神にダメージを負うからだ。それを克服するためにも,「わからない,知らない」モノを知ろうとする。いや厳密には自分の都合のいいように解釈したがる。

その行為を円滑にする最も手っ取り早い方法が,未知のモノを既存のイメージと結びつけることである。
「わからない,知らない」モノをとりあえず表面上だけ観察して,自分が既に知ってる「何か」と似ていることにする。そうすることで,「似ているということは,このなんだかヨクワカラナイモノも,きっと中身もだいたい同じだろう。」という一種の安心要素が生まれる。「安心」が生まれると心にも余裕が出てくる。すると,その「わからない,知らない」モノに対しても近づいて扱おうとする気にもなってくる。そして,表面上は把握したつもりになる,自らそう思い込むことで「恐怖」を克服しそれを支配するのである。

この行為はなにも人だけに限ったことでもない。モノに対しても行われる。
例えば,包丁とカッター。
どちらも同じ,物を切る道具だ。見た目も形もそんなに変わらない。実際,同じような使い方で同じ結果を導き出せる。つまり,「おなじ使い方で物がおなじように切れる」のだ。
しかし,その特徴は細かいところで違う部分もある。
カッターは,包丁と違って刃を折ることができる。このことを知らないと,もし力任せに使った場合,刃が折れて,その破片が自分に刺さる可能性だってある。包丁ではこうはならない。
単純な例だが,カッターを包丁と同じようなモノだと大雑把に思い込むとこうなる,ということだ。
これと同じように,よく知らない人を同じような行為で支配したと思い込んでいると,思わぬことが起こり得るかもしれない。
・・・話が少し逸れたが,以上とおなじ行為で,人は,他者を芸能人(既に自分が把握している人)と似てることにしたいのだろう。


・ 馴れ合うために世間一般イメージと結びつけて近親する。
ある程度,人を把握できるようになる(思い込みに過ぎないのだが)と,今度は自分の思うとおりのイメージに加工したくなってくる。そうすることで他者を精神的に支配し,自在に扱えるようにしたいのだろう。
と,いうよりもその人と自分を,芸能人をダシにして繋がりたいのだろう。

何度も言ってきているが,正常人は「ひとり」でいることができない。むしろ,より多くの人ともっともっと繋がりたいと考える。
そのために,よく知らない人,もっとよく知りたい人を自分の心の範疇の収めようとする。
「知る」ということは,自分の心の領域を広げることでもあるが,同時に対象をその領域の範疇に収めることでもある。それは,対象を支配することでもある。
また,逆に,相手に自分のことを「知られる」ということは自分が相手に支配されることでもある。
つまり,人と人とが近づくということは,「人とのつながり」でもあり精神の相互支配行為でもある。
正常人はこの馴れ合いとも言うべき行為をしたがる。
「人とのつながり」はお金と同じようになるべく多く持っていたいものなのだ。そうしないと不安でたまらないから。
結果,「芸能人に似ている」と人に言ってしまうのは,自分と(知っている)芸能人と他者を一緒くたにして結びつける行為でもあるのだ。



・・・なんだか,一気に詰め込みすぎてしまって,理由が2つしか考察できなかったが,まぁこんなところだろう。

いずれにしろ,
「好きな芸能人はいますか?」
「芸能人なら誰に似てる?」
「あなたは芸能人の○○に似ている」

なんて,言われたらソイツはあなたと関わりたがっているのだろう。
・・・良くも悪くも。薄くも濃くも。


ったく,自分以外の他者なんてほっときゃいいものを・・・ なんで関わりたがるのか?

つくづく,正常人はわからん生き物だ。

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2009年11月25日 (水)

わたしは ひとりじゃ いられない

人は,自分が直接批判の的にさらされない限りは,何かに所属していたいようだ。
また,他者に対してレッテルを貼って差別したがるようだ。


ブログを始めるにあたって,サービス会社をどこにするかで迷っていた。
au,NIFTYなどいろいろあるが,僕としては,コメントなどがあまりつきにくい静かで,ひとり気ままにできるところを選びたかった。
僕がいままでみた限りでは,NIFTYのココログがなるべくその条件に合っていた。ブログにもよるが,あまりコメントもつかず,荒らしもほとんど見られない。そういう意味では安全に落ち着いてブログができるだろう。

逆にひどかったのが,auONEブログだ。
ここのいくつかのブログを見たが,そこではブログ主同士での非難合戦が繰り広げられていた。自分と相反する主義主張をするブログにわざわざ出向いては,非難・中傷などを書き込む。それをお互い負けじと延々繰り返す。
それだけならまだしも,荒らしや成りすましがウヨウヨしていて,コメント欄は便所の落書きのようなコメントでいっぱいになっている有り様。コメント欄を閉鎖するブログも多数あった。
とにかくこの様な状況では,落ち着いてブログなどできないだろうと思い,比較的状況が穏やかなココログに決めた。

それがよかった。
まだ,ブログを始めて間もないということもあるだろうが,ココログは落ち着いてブログができる。
僕がみょうちくりんな記事を書いても,見に来る人は1日に一人か二人程度で,コメントもつかないので,ゆったりとした気持ちで何も気負うこともなく,気が向いたときだけ好きな記事を書くことができる。
この環境は,ひきこもってひとりでいる状態とあまり変わらない。僕が言うところの「人とのつながり」が無い状態だ。なので,とても居心地がいい。


さて,ここからが本題なのだが,僕が見た当時のauONEブログはひどい有り様だった。
そこで,いくつか気付いたことがある。
たいていのブログ主が多かれ少なかれ政治に関する記事を挙げていることだ。
どこからか情報をいちいち探してきては,それを基に自分の見解を交えて,政治に物申す,という感じだ。
僕の見た限りでは,auONEブログの住人は,支持する政党がたいてい二種類に分けられる。自民党と民主党だ。そこでは,自民派と民主派が対立していた。彼らは互いに自分の支持する政党の正しさを主張しては,敵対する政党を罵倒した呼び名で罵り合っていた。自民なら「自民オタ」「ネトウヨ」など,民主なら「ミンス」というふうに。

主にお互いのブログに出向いてはコメント欄で罵倒合戦が展開されるのだが,たまに,記事として大きく取り上げて相手を非難することもある。そこでは,理論や理屈を介したまっとうな反論はほとんど見られず,感情に任せた理性なき誹謗中傷が横行していた。なかにはブログ主のプライベートまで暴露して難癖をつける程にまで加熱する有り様だった。

では,コメント欄を永久に封鎖して,相手の誹謗中傷記事なんて無視すればいいのだが,それもできないらしい。一時期は封鎖するものの,時間が経つと開放してしまう。そうするとまた,荒らしや非難・中傷に逢い,また閉鎖する。そしてまた開放する,・・・をくり返す。
どうやら,荒らしや非難・中傷は受け付けたくないが,自分の都合のいいコメントは欲しいらしい。
また,コメント欄を封鎖しているブログ主もいるにはいるが,気に入らない相手を非難する記事を挙げたり,相手に非難されて根に持ったことを記事にしてたりする。


ようするに,人と関わってなきゃブログをやる意味が見出せないらしい。
彼らにとっては,政治は高尚なもので,それに関わることで自分の精神的地位を高めたいのだろう。つまり人から尊敬されたいとか,他者よりも高尚な人間だと思い込みたいのだ。その証拠に彼らの書く政治記事は,その情報源がマニアックだ。人が普段目に付かないような情報源をわざわざ探し出して,それがさも正しい情報だと誇示している。

また,自分の政治記事の正当性を示すために,賛同するコメントばかりをのせる傾向もある。批判的なコメントや痛いところを突かれた質問には答えようともしない。都合の悪いコメントは削除することもあるようだ。
どうあっても,自分が正しい価値観を持っている人間だと思い込みたいらしい。


このような人間を僕はヒステリー症者だとみなしている。

彼らの特徴としては・・・
・ 既存の政党や宗教などの団体や象徴に対して信奉にも似た従属意識をもっている。
・ 従属する団体などに対して自己との同一感をもつ。
・ それを正しいものと思い込んでいる。
・ 思想などが相反する団体などに対して過剰なまでのヒステリー的敵対心をもつ。
・ 敵対する者に対して,過剰なまでに執着して攻撃してくる。
・ 自身を正しい価値観の持ち主と信じ込んでいる。
・ 同じ価値観を持つものとは無条件で馴れ合おうとする。
・ 自分の常識から少しでも逸脱したものを放っておけない。
・ しかし,自分が形勢不利だと判断すると,いままでの立場を変えることもある。
・ また,直接攻撃にされされるような立場に立とうとしない。もし,その立場に立ったことを自覚した場合,主義主張を抑えることもある。


以上の点で共通していることがある。
それは「ひとりではいられない。何かとつながっていなければならない。」ということだ。
信奉であれ,敵対であれ,攻撃であれ,馴れ合いであれ,そのどれもが他者なくしては成り立たないということだ。
信奉も,その対象がいなければ依存することができない。
敵対も,相対するものがいなければ自己(それに属するもの)を際立たせることができない。
攻撃も,その行動が起こせないと,立場に従属している実感が薄くなってしまう。
馴れ合いも,相手が誰もいなければ,「自分と同じ考えの人がこれだけいるんだから,自分は正しいんだろう」という実感が持てず,自己の正当性が揺らいでしまうだろう。

そして,なによりそのような自分を「保身」したい。そのためには,何かと,誰かとより多くつながっておけば,ひとりにされることもないだろう。
なぜなら,ひとりは心細いから。ひとりになると,たくさんの危険にさらされるから。ひとりでは自分の主義主張の正しさを保持する自信がないから。


ゆえに,彼らは「ひとり」を恐れる。
団体・象徴にすがり,その常識に従い,敵を攻撃し,時には差別し,馴れ合いを好む。

しかし,この傾向はなにも一部の人間に限ったことでもない。
程度の差はあれ,正常人はこのような傾向を内に秘めているのではないだろうか?
上記のような傾向が全く無いという人のほうが珍しいのではないだろうか?


以上,分析・考察してみたが,スキゾイドはこのような傾向とは無縁なのではないだろうか。その証拠に,僕はいまいちこの正常人の心理にシンパシーを感じない。

まぁ,ひきこもりをやっていると,正常人の感覚が無くなってゆくのか知らんが,「ひとり」が悪いものだという感覚がまったくない。死ぬまでずっとひとりでいい。何かを信奉したり従属するということにも興味が無い。他者を攻撃する気も起きないし,だからといって馴れ合う仲間がほしいとも思わない。

なので,ヒステリー的正常人がこの様な傾向に向きたがるのその気持ちに同情できない。
「こうじゃないか?」という心の向きについては考察できるのだが・・・



わたしは ひとりじゃ いられない

だれでもいいから そばにいて

きれそう くすり たえられない

てきも みかたも どうでもいい

とにかく なにかに すがりたい



すがった足は 鬼の足

すがると同時に 踏み潰される

殴られ 蹴られ 殺されて

それでも 私は かまってもらえる

かまってもらえば しあわせよ

ひとりよりかは ましだから


憎悪も,愛も,信仰も,差別すら,他者がいないと成り立たないならば,正常人というのも難儀な人種ですな。
もっとも,スキゾイドには他者がいないから,その苦労はよくわからないけど。

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2009年11月24日 (火)

説教なんて聞きたくねーよ。

人の常識というのは,時代によって異なるらしい。

特に,自分の幼年・少年時代に感じたことを絶対のモノだと思い込み,正しいと思っているらしい。


今回は,11月22日にフジテレビで放送された「たけしの日本教育白書」をみた感想から,人の心理を考察してみようと思う。

感想としては,「古き良き日本」を誇示し,保守回帰を促す説教番組としか感じなかった。
なにかと目に付くのが,現代の社会・生活スタイルと「古き良き日本」のスタイルを比較し,どちらが良いかを視聴者に問うという番組構成。そこに現代の社会・生活スタイルがいかに味気なく,人間らしさが薄いかを暗に示すような構成。逆に「古き良き日本」がいかに人間味あふれ,人として正しい生き方かを誘導するようなやり方。
いちおう,出演者は「どちらがいいとは言えない」などと,中庸な立場をとっていることを誇示していたが,結局は,視聴者に「古き良き日本」がいかにいいモノかを促すような番組だった。
もともと,「古き良き日本」の時代はちょうどテレビが全国に普及した時代。どの家庭でも家族団欒でテレビをみんな見ていた頃だ。
そんな,テレビ全盛期の時代を,現代にもう一度復活させて,低迷する視聴率を上げようとしたのだろう。そのために,国民をテレビ主体の生活に戻すための“教育”番組なのだろう。おそらく番組側のねらいはそんなところだろう。
まぁ,番組側のねらいなんてどーでもいいのだが,いちおう推察してみるとこんな感じだろう。

さて,「古き良き日本」とはどの時代を指すのだろうか?
出演者をみると,「昔は~だった」とか「自分の子どもの頃は~」などのセリフをいう人が何人かいた。石原良純,地井武男,浜田のヨメ(名前忘れた),原日出子,そしてビートたけしなどが該当する。
彼らの年齢はみな四十代後半から上だ。するとだいたい,約40年前が「古き良き日本」と「現代」の境目だろう。その時期は,ちょうど田中角栄が「日本列島改造計画」を推し進めていた時期と符合する。日本の近代化が一挙に進められ,社会・生活スタイルがその後急変した時期だ。
なので,おそらく田中角栄の「日本列島改造計画」以前の時代こそが「古き良き日本」に該当するだろう。


まぁ,それはさておき,
では彼ら「古き良き日本」世代の人たちは,なぜ「昔は~だった」とか「自分の子どもの頃は~」などのセリフを言うのだろうか?
なぜ,昔を懐かしみ,その時代を「良い」モノとして,若い世代に説教するのか?

それは,彼らが今の時代の「流れ」を理解できないからである。
人が持つ常識や固定観念は,環境の違いこそあれど,おおむねその時代を過ごした幼年・少年期に形成される。なので,その時代の社会・生活スタイルを見て,感じて,体験して育つと,それがあたかも正しいものとして記憶にインプットされる(よっぽど過酷な環境で育った場合は違うかもしれないが・・・)。
よって,大人になっても子ども時代の教育や体験などから植え付けられた常識が,そのまま引き継がれることが多い。なぜなら,正常人は過去(特に子ども時代)に受けた体験は,よっぽどひどいものでない限り,美しい思い出として加工されて記憶に保存されているからだ。いわばプラスのトラウマだ。
トラウマはなにも悪い記憶ばかりが全てではない。良い体験,良い思い出も,トラウマと言えるのではないだろうか。でなければ,事あるごとに思い出さないだろうし,強い記憶となって大人になっても覚えてることもないだろう。

ともあれ,その当時の彼らは,「古き良き日本」の社会・生活スタイルという,大きな一本の「川の流れ」に乗っていたのだ。その川の流れに乗って成長してゆくなかで,いつしかその流れが当然あるべきモノとしてあたりまえの常識だと思うようになったのだ。
あのころのほとんど多くの日本人が,この川の流れに乗っていたのだろう。
となり近所も,友達も,知り合いも,会社の同僚もみんな同じ流れにいる。だから皆同じだと思う。皆同じだと言うことは,それは常識であり,常識は社会で通用するから当たり前に正しい観念だ,というふうにその当時の「流れ」が当たり前に正しいものになっていく。

しかし,「川の流れ」はいつも同じとは限らない。
時代が進むにつれ,何らかのきっかけで川の流れが変わることもあるだろう。また,近くに別の新しい川ができて,その川の流れが主流になることもあるだろう。また,今の川がまた別の川と合流して,その流れが別の川の流れに取り込まれることだってあるだろう。
いろいろケースがあるものの,時代が変わって,もはやかつての主流は,小さな流れの一つに過ぎなくなったとき,人ははじめて「時代が変わった」ことを感じ,「時代に取り残された」と思うようになる。

しかし,どんなに時代が変わり,自分が乗っていた「川の流れ」がどんどん細くなっていっても,人は当時の「トラウマ」がある限り,自分の「流れ」を本流と思い込み,正しいモノだと思い続ける。
すると人は,自分以外の別の「川の流れ」が「間違っている」と感じるようになる。
なぜなら,自分が信じている常識,社会・生活スタイルとあまりにも違っているからだ。その「流れ」が現在,大多数の人が乗っている「本流」であることに我慢できないのだ。
「いままで,自分の常識が正しいんだと思ってきたのに,自分が乗っている川の流れこそが「本流」だったのに,なんでいまごろ「支流」扱いされて単なる「数ある考え方の一つに過ぎない」という風潮にさらされなければならないのか?」という思いにかられて,次第にイライラが募るようになる。

つまり自分が「正しい」と思ってきた常識が,「正しいとは限らな」かったことに我慢ができないのだ。いつまでも,自分が子ども時代に受けた「トラウマ」は正しいんだと思っていたいのだ。
結果,大人たちは「昔は~だった」とか「自分の子どもの頃は~」などと言って,子どもや若者に説教するようになるのだ。まるで自分の「時代」が正しいとでも言うかのごとく,そして今の「時代」が間違いだとでも言うかのごとく・・・

よって,彼ら「古き良き日本」の時代を生きた大人はたいていが「保守化」する。
自分の子ども時代の「トラウマ」をいつまでも正しいと思い込みたいがために。思い出をいつまでもきれいなものにしたいがために。
彼らはいつまでも自分が乗ってきた「川の流れ」を「本流」にしておきたいのだ。そうしないと自分の常識を正しいと思い込めなくなるから。
自分を正しいと思い込んでいないと,アイデンティティが崩壊するから。

そのため,彼らは自分と異なる常識をもった人間を矯正しようとする。自分の常識を相手に植え付けて仲間を増やし,自分の正しさを絶対のものにしようとする。
ともすれば,この行為は他者の「心への侵略行為」でもあるのだが,当の本人たちにはその自覚が無い。なぜなら彼らの「時代の流れ」こそが「本流」で絶対正しいと思い込んでいるからだ。


今の時代は,価値観も考え方も様々で,それゆえ「川の流れ」にも大きさの違いはあれど,いくつもの「支流」があるだろう。そこにはもはや「本流」は存在せず,「普遍的な正しさ」などというものも存在しないだろう。

もちろん,「支流」のなかには「保守」もあるだろう。
しかし,数多くの「支流」が乱立するこの時代で,彼らは果たしていつまで自分が「正しい」と思い込むことができるのであろうか。
彼らは,彼ら以外の「支流」に乗る他者を侵略することで自己の正当性を保つのだから,ある意味,他者に依存していることになる。それは言い換えれば「人とのつながり」を求めているともいえる。


自らが正しくあるために,他者を取り込み,他者を侵略する。

何かを言わずにいられない。ああもう口に出してしまいたい!

「昔は~だった」 「自分の子どもの頃は~」

・・・どーでもいい。
・・・説教なんて聞きたくねーよ。



スキゾイドは地底にいる。

川の流れになどほとんど影響を受けない。
時には地下に,川の水が染み出してくることもあるだろうが・・・

正常人は,川の上で互いに罵り合っている。励ましあっている。
その声は聞こえるものの,地上に出る気はない。

地底人は地底で暮らせればそれでいいのだ。
川の流れなど関係ない。

暇つぶしになら見物しにくることもあるかもね。

そのときには,せいぜい川の上でわめきちらしておくれよ。

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2009年11月18日 (水)

心の糸は いのちの糸

スキゾイドは,「人とのつながり」に息苦しさを感じてしまう。
逆に,
正常人は「人とのつながり」を断たれることに息苦しさを感じるらしい。


今日はスキゾイドではなく,正常人側にスポットをあててみよう。
さて,正常人はしばしば「人とのつながり」を求める傾向にあるようだ。ネットの普及も相まってかその傾向は更に強くなりつつある。

現実世界で十分に得られなかった「人とのつながり」を,補うかのようにネットは機能している。かつては現実が「主」だったが,今ではネットが「主」になりつつある。
現実で「人とのつながり」が充足してればそれでいい,という人もいれば
ネットでも同じくらい「人とのつながり」が満たされないといけないという人もいるだろう。
中には,ネットにばかり重点を置く人もいるだろう。

いずれにしろ,正常人は「人とのつながり」を欲求として持っている。
それが,教育の過程で施された後天的な産物か,はたまた人に本能的に元から備わっているシステムなのかは判らないが・・・

「人とのつながり」はその“濃度”や種類も様々だ。
友情,愛情,性的欲求,単なる話し相手,悩みを相談する相手,同じ感覚を持つもの同士のつながり,運命(?)など・・・
いろいろあり,その心の位置や方向性などにそれぞれ微細な差異はあるだろうが,それらはすべて大まかに一つに括ることができる。

二人以上の人が互いに「人とのつながり」を意識すると,そこには「社会」=「コミュニティ」が発生する。小さな微生物が互いに集まってひとかたまりの群体を形成するがごとく。
その密度や大きさも種類も様々で,しばしば人をその内に取り込もうとすることもあれば,時には排除したりもする。
そうやって,人は社会に参入したり離れたりをくり返し,社会にとっても個人にとっても互いに良い関係を維持できるような「人とのつながり」を形成する。

さて,そこでひとつ問題が浮上する。
もし,人が社会から排除され,「人とのつながり」を断たれたら?
もし,そのまま「人とのつながり」が形成できないまま,ひとり孤独で放置されたら?
そうなった場合,人はどうなるのか?

おそらく,人は孤独の状態に耐えられないだろう。
以前,僕は「人は孤独が続くと,麻薬が切れるがごとく禁断症状がでる。」と言ったがそれと同じように,水中で溺れるがごとく息苦しさを感じ,それを不快と思い,その状態をどうにかしようと,焦り,苛立ち,不安になり,慌てふためく・・・とにかく心は平静でいられなくなるだろう。
「早く誰かとつながっていなければ」
そう思い,他者に対して何かしらのアプローチをするようになるだろう。
しかし,現実ではなかなか簡単に「人とつながる」ことができない。そこで比較的安易に「人とつながれる」ネットに依存するようになる。
ネットは「人とつながる」最後の希望のようなモノで,仮に誰かに拒絶されても,すぐまた別の相手を容易に探すことができる。ブログや掲示板の書き込み,メールでのやりとりが容易である。

ここで,うまいこと「つながれる」相手が見つかればいいが,なかなかうまくいかない場合どうするか?
ネットは「人とのつながり」が容易にできる反面,つながりを断つのも容易である。特に今は,ネットも現実と同様に,「つながる」ことがだんだん難しくなりつつあるようだ。もちろんネットも「人とのつながり」がある以上,「社会」も形成されているだろう。よって社会から排除されることもしばしば経験するだろう。
そうやって誰からも「つながり」を断たれ,「社会」からも排除された場合,人はだんだん自暴自棄になっていくだろう。もしかしたらそのなれの果てが「ネトウヨ」「ネットストーカー」「ネットゲリラ」なのかもしれない。自暴自棄になった人間が,他者から「切り離された」憎悪から攻撃的になる可能性もある。

「憎悪」とは基本的に人に向けられるものである。それが自分自身に向けられることもあろうが,大抵は他者に向けられる。
他者に向けられるということは,その他者に対して何かしらの関わりを求めていることでもある。なぜなら本当に関心がなければ,他者とどんな形であっても関わろうとは思わないからだ。
つまり「憎悪」ゆえの他者への攻撃もまた,「人とのつながり」の欲求に過ぎない。
この理屈で大まかに括れば,憎悪も愛情も友情もそう大差ないことになる。相手に与える「刺激」の種類が違うというだけだ。

よって,他者にとってはどんなに攻撃的な行為であっても,攻撃する当人にとっては「人とのつながり」なのである。

この見識でいくと,あの「秋葉原無差別殺傷事件」も一種の「人とのつながり」の行為であったとも捉えられる。
犯人である加藤智大は,ネットという「人とのつながり」の最後の希望すら断たれて,自暴自棄になった末,最後の最後に「人とのかかわり」を求めて人を攻撃した,とも言える。
そうなると,彼は「誰からもつながりを断たれて,最後には自暴自棄になった哀れな男」と思えなくもない。事実,そう捉えて彼に共感する人も少なくないようだ。
ただ一つ言えるのは,「人とのつながり」の種類によっては人それぞれその行為を好意的に見る人もいれば,不快に思う人もいて,一概に結論づけることができないということだ。

それゆえ,あの事件に対する反応が様々なのは当然のことだ。
僕自身,あの事件をどれか一つの感情で結論づける気もない。個人的には「犯人は哀れだとも思えなくもないが,わざわざ他者に対してあそこまで関わる気が知れない」と思っている。
スキゾイドである僕は,そもそも「人とのつながり」という欲求自体無い(薄い?)ので,それをよく理解できないからだ。
だから,この考察もあくまで「こうなんじゃないか?」というあやふやな推察でしかない。


いずれにしろ,正常人にとっては「人とのつながり」は麻薬のようなもので,それが切れると禁断症状を起こして苦しむらしい。

そういう意味では,正常人というのはある種の病気を抱えているのかもしれない。「ひとりが怖い」という病気。


以上,スキゾイドの僕が正常人の心理を考察してみたが,あまり手ごたえが無い。
やっぱり「人とのつながり」に関心が無い人間には,この考察は無理があったということか。
まぁ今回は,「なんとなくそうなのかもしれないし,そうじゃないかもしれない」という適当な感覚で読んでいただきたい。


心の糸は いのちの糸

切られてしまうと 死んでしまう

だれかの糸と 結びたくて

手にとって ぼくの糸


糸の切れ目が 縁の切れ目

切れて落ちるは 地獄の底か

地獄の沙汰も 金しだい

金の切れ目が 運のつき

同情するなら 金をくれ

この世も あの世も 金しだい


僕は「人とのつながり」よりも,金が欲しい。
ニートを一生続けられるだけの金が。

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2009年11月17日 (火)

デイケアでのできごと

昨日デイケアで,SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)があった。

議題は「うまく断るには?」だった。
「携帯の番号とアドレスを聞かれたとき,どう断ればいいのか?」という話題になった。
僕は,スタッフに聞かれたのでこう答えた。

「「赤外線受信をしよう」と相手に言われたら逃げられないので,とりあえずその場は受ける。あとでソイツを指定着信拒否にすれば,連絡をとらずに済む。」

そしたら,「相手がかわいそう」と非難された。


ウザイ。

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防波堤の外は海 内もまた海

一部の論によれば,スキゾイドは芸術活動に向かう傾向があるらしい。

確かにそうかもしれない。
僕は最近になって絵を描くようになった。この論の例に漏れず。
まぁ,だからといってこの論が全てのスキゾイドに当てはまるかはわからんが。スキゾイドにだって個人差もあれば精神の方向性にも微細な差異があるだろう。

ためしに描き始めてみたのだが,これがまたいただけない。
最初のほうこそ,絵を描くのがとても楽しくて,描く度にうまく表現できるようになっていった。それがまた新たに「描きたい」という欲求につながっていき,どんどん描き続けた。絵のアイデアが次々と自分の内から湧いてきて,題材にも事欠かなかった。

しかし,一ヶ月もするとその行為にも苦痛を感じるようになった。
べつに,アイデアにつまったとか,スランプに陥ったとかではない。
アイデアが湧き過ぎるのだ。
自分の内から次から次へとアイデアが湧きつづけて,頭がいっぱいになり,それらに精神が支配されていくようになった。
「これはイカン。湧いてくるアイデアをとっとと形にして,現実世界に排出しなければ。」そう思い,次から次へと絵を描きつづけなければならなくなった。そうしないとすぐアイデアで頭がいっぱいになり,その窮屈感が息苦しさのような苦痛になるからだ。

個人差にもよるが,普通絵を描く人は3~4日に一品か1週間に一品ぐらい描くだろう。展示会などが近いと,制作を急いで1日に1品くらいの割合にもなろう。まぁ,よっぽど簡単な絵でなければ多くても1日1品が限度だろう。
しかし,僕の場合は多いときは1日に4~5枚も描く。
別に,展示会があるとか締め切りがあるとかではない。なのに,いっぱい描かなくてはならない。描いてアイデアを外に排出しないと,頭がパンクしそうになるからだ。

僕の絵は,写実ではなく空想の産物だ。普段から意識しなくても空想ばかりしてしまうので,空想を描くのは得意だ。
しかしこれがいけなかった。おとなしく写実でも描いていれば,アイデアに急き立てられないでゆっくり絵を描けたのに。
空想はスキゾイドにとっては得意中の得意分野だ。それゆえ,その質,量ともに正常人のはるか上をゆく。その膨大な空想は,「世界」と言ってもいいぐらいの規模にまで拡大している。他のスキゾイドはどうか知らんが,少なくとも僕は1日のうち,半分以上は「空想世界」に囚われている。別に空想がしたくてしてるんじゃない。頭が勝手にしてしまうのだ。これは自分では制御できない。


さて,今回言いたかったことは何かというと・・・
前回の記事で,スキゾイドは「刺激」を外部だけでなく内部からも受けていると言った。
では,「内部からの刺激」とは何か? それは「空想」である。
前回言ったように,スキゾイドは「外部刺激」に対する防御膜が薄い。自分の身に外から怒涛のように刺激の大波が押し寄せてくる。その大波に対抗するだけの防波堤が薄いのだ。正常人は,この防波堤が厚いため,外部刺激の大波にも十分耐えられる。
このため,スキゾイドは正常人とは別の方法で,この刺激の大波に対抗しなければならない。
その画期的な方法が,「波に波をぶつけて打ち消す」ことだ。
つまり,「外部刺激」という大波に,内部から波を発生させて互いにぶつけ合うのだ。こうすることで,「外の波」と「内の波」が衝突し,互いに打ち消しあう。この方法で「外部刺激という大波」に対抗するのだ。
ここで言う「内の波」とは「内部刺激」だ。「内部刺激」は自分の内に,自己の独立した世界,つまり「空想世界」を構成することで,そこから刺激が発生する。

ここで,なぜ「刺激」が発生するのか? という疑問を持つ人もいるだろう。
「世界」は人もモノもすべからく「刺激」を発生させている。普段見慣れているものであれ,目新しいものであれ,人は無意識のうちに「刺激」を受け,何らかの影響を受けている。それが夢や,言い表せない感情なりになって,自己に表出する。
あらゆるものが「刺激」を発生しているなら,「世界」には様々な「刺激」が渦巻き,荒れ狂う大波がそこかしこに発生していることになる。それだけこの世界は人やモノが多すぎるということだ。
しかし,ふだん人はそのことを感じない。
なぜか?
それは大抵の人(正常人)が「刺激」を自分の意のままに取捨選択できるからだ。必要のない刺激は簡単に跳ね返し,都合の良い刺激だけを取り入れることができるからだ。

話が逸れたが,「世界」には「外の世界」と「内の世界」がある。
「外の世界」とはご存知のとおり,「現実」のことだ。「内の世界」とは「空想」「夢」などだ(夢が内部世界に当てはまるかは疑わしいが一応くくっておく)。二つの世界は互いに影響しあいながら人の精神を構成する成分となる。
「外の世界」にも「刺激」があれば,同様に,「内の世界」にも「刺激」がある。それは「波」とも例えられる。

話をさらに戻そう。
先ほど,スキゾイドは「外部刺激」に対して「内部刺激」をぶつけて対抗している,と言った。
しかし,この方法にも問題点がある。
「外部刺激の大波」に対抗するには,「内部刺激」もそれ相応の大波にしなければならない。そのためには,「内の世界」自体を大きく,複雑にしなければならない。
だが,そうやって「内部刺激」を大きくしていくと,今度はその波に自己が翻弄されるというジレンマに陥る。なぜなら,「外」でも「内」でもどちらも波には変わりないからだ。
スキゾイドの場合,たとえ自分が作った世界といえども,その「内の世界=空想」は自分の思うとおりにはならない。よって,そこから発生した「波=刺激」は自分にとってダメージにもなりうる。

結果として,スキゾイドは「外部刺激」と「内部刺激」の双方からダメージを受けるハメになっているのだ。
このことは,自分の内に「世界」がある(空想している)ことに気付かないタイプのスキゾイドには,苦痛はないかもしれない。しかし「内の世界」に気付いた者はいずれその「刺激」に苦痛を感じるようになるだろう。


スキゾイドにはその精神に薄い防御膜しかないと言ったが,もしかしたら,自己の「内の世界」の刺激すらその膜を破って外に漏れ出している可能性がある。
もしかしたら,その様子が「孤立した行動」「無関心」「感情の平板化」などに現れるのかもしれない。


補足
「外の世界」からも「内の世界」からも「波」を受けるということは,そのダメージを感じる「自己」とはいったいどこにいるのか?
もしかしたら,「波」を受ける薄い「防波堤」こそが「自己」かもしれない。


防波堤の外は海 内もまた海

海と海とにはさまれて

波と波とにあらわれて

はざまをひとり ふらふらと 防波堤の上

落ちるはいずこの海の中?

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2009年11月15日 (日)

スキゾイドとひきこもり

外の世界に出ると,あらゆる刺激が自分の内に怒涛のように入ってくる。

だから,外で働いている人たちは他者と関われるのだ。
外部刺激に対する分厚い防御膜を持っているから。
だが,その防御膜も不完全で,それゆえ一部の外部刺激を受け入れてしまうこともある。俗に言う「誰かに影響された」ってヤツだ。
しかし,その“「誰かに影響された」ってヤツ”も,自分の都合のいい刺激だけを選択して受け入れているに過ぎない。
都合の悪い刺激は簡単に跳ね返すことができる。
この行程は無意識のうちに自動的に行われる。

以上が正常人の精神防御システムだが,どう考えてもスキゾイドのよりも優秀だ。

スキゾイドは外部刺激に対する防御膜が正常人よりも薄い。
気を抜くと,刺激をモロに受け,大ダメージを食らってしまう。
このことは,一般的に言われてるスキゾイドのイメージと異なると思う。一般的に言われているのは「スキゾイドは物事に対して無関心だ」というイメージだろう。

あくまで,自己流の解釈だが,このような一般で言われているイメージはスキゾイドの表面上の様子のほんの一部を説明してるに過ぎない。

スキゾイドは外部刺激をバリバリに受けている。
いったん自分の内に入ってきた大量の刺激を必死に外に排出してるのだ。
「穴の開いた舟にどんどん水が浸入してくる。その水を必死にバケツでくみ出して外に捨てている。舟が沈まないように。」というように例えられるだろう。

この行程は意識しないとできない。正常人のように自分の都合の良い刺激だけをうまく選ぶなんて器用なマネをする余裕なんてない。
良い刺激も悪い刺激も,とりあえず全部いったん排出しなけりゃならない。だから意識的にガードを厚くしなければならず,それが結果的に「大抵の物事に無関心」だと見られてしまうのだ。

つまり,スキゾイドの精神防御システムは正常人のモノより不完全だ。しかしそれゆえに意識的に過剰に防御してしまい,それが「無関心」の原因になる。
それゆえ,スキゾイドは正常人よりも精神エネルギーを大量に消耗している。この消耗をなるべく抑えるためには,できるだけ外部からの刺激を減らさなければならない。そのもっとも有効な方法こそ「ひきこもり」なのである。

それゆえ,「ひきこもり」になるスキゾイドも少なくはないだろう。
しかし,スキゾイドの「ひきこもり」は,正常人の「ひきこもり」とは異なる。
スキゾイドは他者との関わりも「刺激=ストレス」なのだが,正常人は特定の人とは仲良くしたいと思っているようだ。

正常人の「ひきこもり」は,外の世界で何か嫌なことがあって,それがトラウマになってひきこもるのだが,決して誰とも関わりたくないわけではない。正常人ゆえに「寂しさ」も感じてしまうのだ。だから心の底では「人と関わりたい」「社会に出たい」と思っている。そのジレンマゆえに「正常人のひきこもり」は苦しんでいるのだ。
このモデルはNHKの「青春リアル」に出演している「キャベツ」という出演者をみればわかるだろう。彼はおそらく典型的な「正常人のひきこもり」だと推察する。
事実「キャベツ」は,番組に出演することを社会参画のきっかけと考えており,就職活動やボランティアに参加して,正常人の健常な社会に戻ることを望んでいるのだ。

では,「スキゾイドのひきこもり」はというと・・・
基本的に,全ての人は「刺激=ストレス」だ。自分も含めて。
それゆえ,「人とのつながり」を好まず,自ら進んで「ひとり」になることが多い。なぜなら全ての「刺激」は排出すべきものだからだ。刺激を排出する行為は多大なエネルギーを消費するため,それを抑えるためにひきこもるのだ。
つまり,「ひきこもり」はスキゾイドにとって,現状最もストレスの少ない環境であるため,「正常人のひきこもり」のようにジレンマで苦しむことはない。
それゆえ,その居心地のよさもあって,自ら進んで「ひきこもり」になるのだ。

だからと言ってスキゾイドを「怠けてる」と断じて,無理に社会に引っ張り出すのは危険だ。
冒頭でも言ったが,スキゾイドは外部刺激に対する防御膜が正常人よりも薄い。
なので,正常人とスキゾイドを同等に扱うのは間違いだ。スキゾイドが不利だからだ。
正常人が「大したことない」と感じる程度の出来事でも,スキゾイドにとっては瀕死に陥るほどの多大なダメージになることがしばしばある。
このことを無視して無理にでも社会に引っ張り出そうとすれば,スキゾイドから思わぬ反撃を食らうだろう。ヘタをすれば殺されることもあるかもしれない。


スキゾイドにとって,社会に出ることは「決死の覚悟」であり,ひきこもることは「生存のための必要な行為」なのだ。


さて,スキゾイドにとって刺激とはなにも外部からだけではなく,内部(自身の内面)からも受けるものだが,それについては後で語ることにしよう。

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2009年11月10日 (火)

スキゾイドの三界

現実世界。空想世界。そして夢の世界。

僕の内に構築されている世界が3つ。
この世界たちは独自のもの。僕以外の人間には認識不可能だ。

また,この世界に無断で侵入してくるモノは,僕の内に巣食う怪物たちに排除される。
ゆえにこの三界で認知できるモノは僕一人,それと僕の内の怪物たち。その他はすべてファンタジー。


幻覚や幻聴はありません。念のため。

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あなたは「NO」で,僕は「YES」。だから僕らは繋がれない。

人は他人の目を気にする。自分が他人にどう思われてるかを常に気にかけている。

なぜか?
それは「他者の目」が社会からの監視だと解っているからだ。この目に見られているうちは社会から逸脱した行為はしないだろう。なぜなら社会から逸脱してしまうと「迫害」を受けることになるからだ。だから社会という安定した環境に居続ける為(自分の保身のため)にも「社会に求められる人」という枠からはみ出さない。
逆に言えば,この「枠」から逸脱しない範疇であればどんな人間にもなっていい。だから多少なりとも個性的な性格の人もいるだろう。いろいろなスキルを持つ人もいるだろう。ただし「社会」からはみ出さない程度にだ。

以上が人が社会の中で生きる上で自分自身に課した「暗黙のルール」なんだと思う。


以上の考察をふまえて,僕はある疑問を呈したい。その疑問とは・・・
では,「人は他人の目を無視して行動していいのか?」ということだ。

その答えはたぶん「YES」だ。
こう言うと,大抵の人は賛同するだろう。しかしそれは「自由」というプラスイメージを意識した故のモノだろう。おそらく,「他人の目を気にして自分が苦しくなるよりは,気にしないで楽になったほうがいい」という想いからくるものだ。

しかし僕はこう呈している。「無視していいか?」と。「無視」だ。聞き間違えるな。
こう言われると最初は賛同していた人も,反対するのではないだろうか?
それは,「無視」という言葉が世間ではマイナスイメージだからだ。
おそらく大抵の人は,最初はこの疑問を「無視していいか?」から「気にしないでいいか?」と脳内で勝手に言葉を置き換えているはずだ。

ここに,「社会の監視カメラ」である「他者の目」を無意識に気にしてしまう「正常人」の思考回路が関わっている。
つまり「正常人」は,社会の許容範囲から明らかに逸脱しない程度の言葉だと判断した場合,それがどんな言葉であろうと最初は否定せず,プラスイメージに受け取ってしまうのだ。つまり,自分に投げかけられた言葉を社会から逸脱しない(自分に都合のいい)モノだと思い込みたいのだ。保身のために。
しかし,その言葉の内に明らかに社会から逸脱した意味が含まれていると気付いたとき,猛烈に反対し,時には非難したりする。

つまり,「気にしない」は社会で許される言葉,「無視する」は許されない言葉に属するだろう。


では,もう一度質問しよう。「人は他人の目を無視して行動していいのか?」

ここまで読んだ人なら,もう「YES」とは言わないだろう。「NO」と言うだろう?
ここに,「正常人」と「スキゾイド」の僕との違いが現れる。僕は最初に「YES」と言ったはずだ。
正常人は「社会」を逸脱できない。良くも悪くも。また,自分のみならず他者にも逸脱しないことを強要する。それこそが「社会の監視」=「他人の目」だ。正常人たちはお互いに目線を他者に向け,ソイツが社会から逸脱してないか監視しあっているのだ。
お互いに社会から逸脱する「自由」を奪い合い,社会に「束縛」させあっている。
それが正常人の言うところの「秩序の維持」であり「社会に貢献」であり「人とのつながり」である。

一方,スキゾイドは「社会」を逸脱してしまうこともある。あくまで結果論だが。
なぜなら,スキゾイドは「社会」なるモノをあまり重要視していない。社会は人に安定を与えるものだが,一方で人を束縛する。大抵の人は「安定」というメリットを重要視するのだが,スキゾイドはどうしても「束縛」というデメリットに目がいってしまい,それを拒絶してしまうからだ。

「束縛」はこうも置き換えられる。
「ポジティブ」「いい人」「積極的」「努力」「リーダーシップ」「良心」「善行」「良好な人間関係」「友情」などなど,そして「愛」。
このようなモノにはまるで興味が向かない。存在そのものが疑わしい。しかし,そんなどうでもいいモノを強要される「社会」に息苦しさを感じてしまう。水中で息ができずに溺れているようなものだ。
だから,スキゾイドは普通に呼吸ができる環境を求める。それがたまたま「社会」から逸脱した環境だったというだけだ。
だから,「人の目を無視して行動する」ことを「YES」と言えるのだ。

しかし,正常人から見ると,スキゾイドのこの様子はしばしば許しがたい行為にも見えるだろう。そのため,両者はしばしば相容れないことがある。

だが,それでいいのだ。「正常人」と「スキゾイド」は相容れる必要は無い。お互いに存在する場所を住み分けたほうがいいのだ。なぜなら,両者はお互いを受け入れることはできない宿命にあるからだ。
「正常人」は社会の範疇にあるモノしか受け入れられないし,「スキゾイド」もまたそんな社会に適応できるほどの能力を持たない。


あなたは「NO」で,僕は「YES」。だから僕らは繋がれない。
だけどそれは悲しいことでも,責められることでもない。
だから同情も非難もいらない。

「社会」には,僕にとって必要の無いモノばかりが溢れている。
でも,どうこうしようという気持ちも起きない。

勝手にすれば?

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2009年11月 1日 (日)

心の侵略者

「人との関わり」を認識してるときこそ,一人でいることの心地よさがわかる。

始めから部屋に一人きりでいるときにはその心地よさは実感できない。そんなときは「何も感じない」か,いわゆる「普通の精神状態」というヤツだ。
「人間社会」と関わって疲れて家に帰る。そのとき初めて誰もいない「家」という空間が心地よく感じられる。普段は「ありがたい」と感じることのない僕でも,この瞬間だけはちょっとだけ「ありがたい」と思う。
何が「ありがたい」かって?
一人になれる空間が自分にはあることが。

たぶん正常人でも「一人になりたい」と思うときがあるだろう。しかしそれは息抜き程度のものだ。たいがいの人はこの「孤独」にいつまでも耐えられない。彼らにとっては「孤独」も長く続くと逆にストレスになる。そのうち「寂しい」と感じるようになるだろう。そうなったとき,人はまた「人との関わり」を求める。それで「正常」なのだ。少なくとも世間では。

結局,正常人は「人間関係」を完全に断ち切ることはできないのだ。彼らにとってはそれは「麻薬」のようなもので,切れると中毒症状を起こす。「寂しい」という言葉は彼ら特有のモノだ。

しかし,「人間関係」が「麻薬」だといっても,それを求める度合いというのは人それぞれだろう。
日常生活に支障が無い程度にバランスよくたしなむ人もいれば,重度の「ジャンキー」だっている。たいていの人は前者に当てはまるだろう。だが,まれに後者だっている。

では,後者の「人間関係を極度に求める」人とはどんなヤツだろうか?


最近,僕が見ているあるブログに「ネットストーカー」なる人が憑いている。
最低1日に1回はブログに来て,一度に大量のコメントを残していく。そのおかげで「最近のコメント」欄はストーカーのHNでいっぱいな有り様だ。

そいつはいつも理論・理屈がまるで無い,馴れ馴れしいダベリのような言葉を投げかけてくる。しかも,そいつ独自のしゃべり口調でしかコメントしないため,意味不明だ。
そのため,ブログ主やほかの閲覧者には気持ち悪がられている。

今まで何人かがそいつに対して「理論・理屈でものを言うように」説得してきたが,一向に聞き入れてもらえなかった。むしろ「私のどこが悪い!?」と逆切れする始末。
しかたなく,ブログ主は「コメント削除」&「コメント承認制」に踏み切った。
まぁ,そうなるまでにソイツをどう扱ったらいいかをさんざん議論したのだが・・・。
一時期は「一方的に疎外するのはよくない」として,様子を見ていたのだが,そいつのストーキングぶりはヒートアップするばかり・・・。
なので,やむなくソイツとの「関係断絶」を決めた。

その間,ソイツとはまるで対話を試みなかったわけではなく,何人かが対話をしてきた。まぁ,まともな返答はあまり期待できなかったが・・・。
それでも,いくつか解ったことがある。(以下その考察)


ネットストーカーについての考察
(この考察はネット上で3人のネットストーカーと対話or観察に基づいた結果である)

彼らは対象に対して,強い「好意」または「悪意」「敵意」を持つ。
こういう感情は誰でも他者に対して感じたことはあるだろう。しかしその度合いは普通人の想像を絶するほど強い。なので実際に彼らと接した人じゃないとその凄まじさはよく解らないだろう。

そして,「好意」であれ「悪意」であれ,対象に過剰に「執着」する。
彼らにとって「執着」とは「人との関わり」を意味する。どんな意思であれ,それは「興味」だと言えよう。なので,こちらが反応することを望んでいるのだ。逆に無反応だったり,関係を断たれることは彼らが最も嫌う行為だ。

ネットストーカーとは「人との関わり」を過剰に求める「侵略者」である。
では彼らは何のためにストーキングをするのか?
それは,無意識に興味を持った対象を「支配」したいからである。かれらはしばしば対象の思想や考え方について憧れを抱いたり,罵倒してくる。つまり相手の思考を自分の意のままに変えたいのだ。言い換えれば「私色に染める」というヤツだ。しかし,この無意識の支配欲求を自覚しておらず,「自分は理性的で知的な人間だ」と思い込んでいる。
また,彼らは自分の中に「客観」を持ち,それは絶対普遍であるとも思い込んでいる。
それは逆に言えば,「自分以外の他者は理性の無い主観しか持たないやつで,そいつらを自分が正さなければいけない」という独善的な「正義」を強要してくることと同じだ。


つまり「人間関係を極度に求める人」とは「他者の心を支配したい侵略者」なのだ。

「人間関係」を好まないスキゾイドにとっては,正反対の人間ともいえよう。
それゆえ,スキゾイドはこのタイプの人間に対して非常に敏感だ。「野生の勘」とでも言おうか?
前の記事でも言ったように,スキゾイドは人間関係で生じる「支配・被支配」のシステムに敏感だ。なので,他者と2~3回対話しただけで,ソイツが「心の侵略者」かそうでないかが即座に解る。

そういう僕もかつて二度ほど,ネット上で誰よりもいち早く「ネットストーカー」を判断したことがある。そしてその判断は正しかった。どちらも今では立派なストーカーとして「連コメ」「荒らし」「成りすまし」「他ブログ主への理屈無き中傷」をしている。


「心の侵略者」に憑かれているブログを見てると,「なまじ「魅力」を持ってると大変な目にあうなぁ」と思ってしまう。
もし,あなたがストーキングされたくなければ,誰に対しても「興味」を持たれない,「魅力」のない人になるべきだ。
人気の無いブログほど,人と関わることから免れるのだから。

しかし,正常人にはむずかしいだろうなぁ・・・。
なんせ,「寂しい」という思いを感じてしまうんだから,ついつい人と関わりたがっちゃうだろうしねぇ・・・。

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