はじめてブログをやってみるが,記事を書かないと表示してくれないようなのでめんどくさいが書いてみることにする。
ブログとは日記のようなものだという。今や誰もがやってることだ。こうやってわざわざ文章を書かないといけない,いちいち労力を使う行為をなぜ人は行うのだろうか?ふと,そんなこと考えてみた。
まぁ,すでに結論は出てるんだけど。答えは簡単。表現とはションベンでありウンコだからだ。いきなり汚い言葉を出してしまったが,事実だからしょうがない。詳しく言うと,人が「表現する」という行為は獣がやるなわばり表示のようなもの。獣は自分の縄張りを示すためにウンチやらシッコやらで臭いをつける。その「場」を独占するためである。
人間にも同じことが言えるのではないだろうか?人間の場合は「場所」というより,「他者の心」を支配するのが目的だろう。実際,世に出てるブログや掲示板などにはどこか,「自分のことを理解してもらいたい」的なニオイがついていて,それをなんとなく感じる人もいるんじゃないだろうか?この「自分のことを理解してもらいたい」という想いは大概の人が抱いてると思う。自分のことを相手が理解してくれたときには大層嬉しく思うことだろう。しかし,逆の立場になったときになぜか嫌な思いをした人もいるのではないだろうか?
まぁ,どれぐらい嫌になるかは,相手をどのぐらい知りたいかの許容量によるが。これ以上は知りたくないという情報はあろう。
ここで重要なのは,「理解して」という想いには「生存するのに必要最低限のささやかな欲求」と「もっと貪欲に他者を支配したい過剰な欲求」の2種類があることだ。
前者はまぁ大概の人が許せるだろう。 しかし後者はどうだろうか。よっぽど懐のひろい人か鈍感な奴じゃないとムリだろう。・・・とはいうものの,後者のほうだって互いに「理解して!」行為をやってる人はたくさんいる。つまり人はこの様な「支配・被支配関係」とも言うべき「心の侵略行為」を互いにやりあっているようだ。お互いにウンコやションベンをなすりつけ合っているのだ。このような性質を「表現」は担ってるところがある。だから人は自分の考えてることを外部に表して誰かに伝えたいんだろう。汚物を排泄するのも,それを他者に投げつけて支配の証明にするのも「快感」だから。
ではなぜ,表現したいものが自分にとって排泄物になるのか?
それは,思考自体がストレスだからであろう。ストレスだから外に出さなければ身体に害になる。ウンチやシッコを我慢するのと同じだ。でもいつか出したくなる。自分の考えたこと,思ったことを知ったことを黙って自分の内にしまっておくのはなかなかできるもんじゃない。なぜなら外部から受けた情報はストレスの元となる。それに対して人は思考する(ストレスを整理するため)。そして表現として表す。(ストレスを別な形で排泄する)つまり,外部から受けた刺激(ストレス)→思考(ストレス)→表現(ストレスの排泄)というプロセスを踏む。
ここで,ただ表現を排泄しただけでは物足りない人もいるだろう。世の中には他者にションベンをひっかけることに快感を得る変態?もいる。この快感はたぶん「征服欲」だろう。だから表現(排泄物=ストレス)を他者に伝えることが快感になるのだろう。でも考えたら大体の人がやってることじゃないか?
たぶん,これが世の中の人の「表現」のプロセスなんだろうな。だからブログが流行るんじないか?
・・・なんてことを考えた。つまりこの世は苦痛と快楽が入り混じっためちゃくちゃな世界なんだろうなぁ。
まぁ,一人でひきこもっていればそんなカオスから逃れられるんだが・・・。
最近のコメント