【まとめ記事】伝説の黒人侍・YASUKEはこうして生まれた: 弥助神話の系譜
昨年の5月にアサシンクリードシャドウズでの弥助の起用が発表されてから、もう10ヶ月が経ちました。
3月についにアサクリが発売され、トーマス・ロックリー氏のYASUKE問題にも再度関心を持つ人が増えました。
しかしながら、ロックリー氏のYASUKEの発生過程を辿るのは非常にややこしく、わかりづらいと思います。
そこで今回は、私が騒動初期からずっと追いかけてきた、YASUKEの偽史の発生過程をできるだけ簡潔に、かつ時系列順にまとめてみました。
ロックリー氏の言っていることには、だいたい元ネタのようなものがあります。それがわかれば、なぜ彼があんな意味不明なことを言ったのかを理解しやすくなるはずです。
海外で広まっている弥助の偽史の生成過程で軸となるのは、以下の2点:
黒人奴隷流行説
仏陀黒人説
付随的に「日本で特権黒人が日本人奴隷を所有できた」だの「弥助大黒天説」だのも生まれています。
これらは弥助の偽史に関わるだけでなく、これらトンデモ説そのものが国際問題にも発展しかねないので、改めて誤解を解いておきたいです。
雑にまとめれば、海外で我々の知らない「日本史」が独り歩きしていて、それをロックリー氏が弥助と融合させ、伝説の黒人侍・YASUKEが誕生したというイメージです。
それぞれの言説には遡りやすいように番号を振っています。詳細を知りたい場合は、それぞれの文章をクリックしていただければ、関連する私の記事に飛びます。
人物名がたくさん出てくるので、今回は敬称なしとさせていただきます。
それでは戦国時代から現在まで、弥助の偽史がどのように発展していったのかを見ていきましょう。
1548年 アルヴァレス: 日本報告
ポルトガル人船長アルヴァレスが、ザビエルに宛てた手紙に以下のように記す。
「もてなす」の部分は、原文を見れば宗教的な「敬意」ではないことがわかります。
1598年 セルケイラ: イエズス会の議事録(第二次破門令議決書)
イエズス会の司教であるルイス・デ・セルケイラが、長崎にて奴隷貿易に関するイエズス会会議を主催。
①の「lascar」は本来インド系の水夫を指しますが、黒人を含む説もあるようです。
1615年 コックス:『イギリス商館長日記』
17世紀初頭の平戸で、イギリス商館長を務めたリチャード・コックスの日記。
Leupp (1995)-①で引用された箇所を見る限り、3人だけが言及されています(コックス日記全体は未確認)。
1616年 コックス: 国王ジェームス1世に宛てた手紙
内容はこちらの論文に引用されている。
1787年 森島中良:『紅毛雑話』
江戸時代の蘭学者、森島中良の書物。仏陀の肌が金色とされる理由を地理的に分析。
1788年 大槻玄沢:『蘭説弁惑』
こちらも蘭学者の書物。
1826年 佐藤成裕:『中陵漫録』
江戸時代の随筆。黒奴について記述。
①オランダ船の黒奴は「咬𠺕吧(ヂャガタラ [= ジャカルタ])国にて買聚めたる天竺地方の諸国の人なり。しかれども、咬𠺕吧、爪哇(ジャワ)の人尤多し」と記述。
②オランダ人によって黒奴が残酷に殺された後について「大勢環坐して掌を合て経を読み、種々の法を納む。其事詳ならざれども、是天竺の仏経の遺風なるべしと云。」と記述。
③とある黒奴が「咬𠺕吧にて銅の竿金一本にて買れて、其銅にて遊女を買て、一夕の間に失て、又此苦を為す。」と、何度も“遊女”につぎ込むためにオランダ船の元で働くことを記述。
藤田(1987)によれば、この時代の「黒坊」は、インドネシアのバタヴィア地方の人々が中心となり、広義にアフリカの黒人が含まれるようになりました。
また、上記①②から、これらの「黒奴」はヒンドゥー教や仏教の影響を受けた、南アジア・東南アジア出身者であることがわかります。
③に関しては、当時は黒奴が遊郭を利用することは固く禁じられており、日本の遊女ではなくジャカルタ現地の娼婦である可能性が高いと私は考えました。
1860年 村垣範正:『遣米使日記』
万延元年遣米使節の副使として出航した村垣は、日本に帰る際にアンゴラに寄港し、以下のように記す。
1987年 藤田みどり:「日本史における「黒坊」の登場―アフリカ往来事始」
東京大学の『比較文學研究』という機関誌に収められている、藤田みどりによる「日本人のアフリカ観」の研究。
①サン・フェリーペ号が日本に漂着し、メキシコへ輸送途中だったと思われる多数の黒人が日本に一時的に滞在したことに言及。人数は『太閣記』によれば二百五十人、『土佐軍記』によれば三百餘人。
②「有馬晴信の陣営に現われた黒坊は砲術の技術者に見えただろうし、肥前名護屋城で踊った黒人たちは第一級のコメディアンとして喜ばれた」と記述。「踊った黒人」に関してはポルトガル人に仕えていた黒人らのこと。
1987年 藤田みどり:「江戸時代における日本人のアフリカ観」
『日本中東学会年報』に収められている、藤田みどりによる「日本人のアフリカ観」の研究。
しかし、先ほども述べたように、この前後の記述を見るに「アフリカの黒人」ではなく「ヒンドゥー教や仏教の影響を受けた東南アジア人」と推測できます。
藤田は「黒人」を表す言葉の指し示す対象が広いことに言及しています。しかし、これを「黒人」と表記してしまうのは、現代人にとって誤解を生みやすく、後に Russell-⑬ にて「アフリカの黒人が遊郭を利用できた」ことの根拠にされてしまいます。
1990年 Clemons: 卒業論文
学部生の卒業論文。当然アクセスできないが、後に紹介する Russell-⑪に引用される。
リンク先は、私が最初に見た彼の「Excluded Presence: Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other」という論文が参照されていますが、どちらの論文にも同じことが書かれてあります。
1991年 Russell:「Race and Reflexivity: The Black Other in Contemporary Japanese Mass Culture」
「日本社会の黒人観」についての論文。
1993年 Japan Times:「Slave called Africa's first Japanese」
南アフリカ大使館の外交官である Mansell Upham によって明らかになった、南アフリカ国立公文書館にある“日本人”の記録に関する記事。
①「Anthony Moor」という名の日本出身の男性が、南アフリカの入植者の、1701年の財産目録に現れると Mansell が発表したと報道。
②後の Mansell 本人のブログによれば、彼の出身は「Japara(インドネシアの地名)」の誤記であり「Japan(日本)」ではないことがわかった。したがって上記①は誤報。
③日本人の母とムーア人の父を持つとされる「Antonio」が、1626年にバタヴィア(現在のジャカルタ)で洗礼を受けたという記録が見つかったとも報道。
④しかし、Mansell 本人のブログによれば、日本人とされる母の名前は「Aeltje(あるちえ)」であり、これは17世紀のオランダでよく使われた女性名である。
後にこれを引用した Russell-⑯ にて黒人と日本人の混血児が世界に広がっていたことが示唆されますが、上記③④の記録は場所がバタヴィアであることから、父親がアフリカの黒人である可能性は低いです。
1995年 Leupp:「Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900」
Leupp は歴史学者でもあるが、こちらは「日本人の黒人観」についての論文。
②「どうやら、このような人物を雇用することは、エリート層にとって一種のステータスシンボルとなっていたようである。」と自身の感想を述べる。
③セルケイラ-①②を引用し「現地の当局が『カフル人や黒人』が日本人の女性を奴隷や妾として手に入れるのを特に禁止していなかったことを示唆している。」と自身の見解(感想)を述べる。
④ Russell-① を「日本人は肌の黒い人々を厳密に区別しておらず、仏陀をはじめとする様々なインドの人物が崇められていた」と批判。
⑦弥助の最後の記録に関しては「『彼は日本人ではない』と明智は述べたという」とのみ言及し、自説に反する光秀の「獣」発言には触れない。
⑧「東アジアではインドの人々は肌が黒く描かれ、達磨大師のような聖人をしばしば黒い肌で表現していた」とする。なお、達磨法師の肌は基本的に黒くは描かれていない。
⑨コックス-②を引用し「仏陀も黒く描かれることがあった」とする。しかし、それは仏像の素材や黒ずみの色であり、日本人が仏陀を黒く描いたというわけではない。
⑩肌の白さ黒さの話をしているにもかかわらず、お歯黒や黒髪が美しいとされたことを持ち出し「黒に肯定的な意味があった」と論点をすり替える。
⑮村垣範正-②を「日本人が長らくこのような未開の人々を崇拝してきたのは何とも馬鹿げたことだと述べた」と誤って引用(実際は「釋迦や阿彌陀」を崇拝するのは馬鹿げていると述べた)。
2008 年 Russell:「The other other: The black presence in the Japanese experience」
『Japan's Minorities: The illusion of homogeneity』という、歴史学についてではない本に収められている「日本人の黒人観」についての論文。Russell 自身も歴史学者ではなく文化人類学者。
黒人奴隷流行説に関するリンク先は、私が最初に見た彼の「Excluded Presence: Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other」という論文が参照されていますが、どちらの論文にも同じことが書かれてあります。
⑥藤田-①を引用して「藤田みどりは一時的に日本に居住していたアフリカ人の数を数百人と推定」とするも、これは黒人奴隷を輸送していたと思われるサン・フェリーペ号が漂着したときの人数であり「居住」はミスリード。
⑧藤田-②の言説を誤読、あるいは曲解して「アフリカ人の中には大名に雇われ、兵士、砲手、太鼓奏者、芸人としてさまざまな役割を果たした者も多くいた」と主張。実際は、砲手以外はポルトガル人に仕えた黒奴の記録。
⑩ Leupp-⑨と同じように、コックス-②を引用して「実際、日本で仏陀は、黒かつアフリカ人として表現されるものもあった」と曲解して主張。
⑪おそらく村垣範正-①②を根拠に「この黒人アフリカ人と仏陀の関連づけは19世紀に入っても続いた」と主張。しかし「この」関連づけというのはそもそもコックスの感想であり、日本人のものではない。インドに行ってもいない村垣のユニークな想像を、当時の日本人の考えとして一般化するべきではない。
⑬上記⑫を受けて「もし日本人が黒人を著しく劣った存在と見なしていたのであれば、彼らに日本人奴隷の所有を認めることはなかっただろう」と論をさらに展開。
⑭藤田-④を引用し、アフリカの黒人も日本の遊郭を使えたと示唆。しかし実際にはこの黒奴はおそらく東南アジア人であり、日本の遊郭の話ですらないと思われる。
⑮ Japan Times-①② を混同して引用し、日本人と黒人の混血児が世界に広がっていた可能性を示唆。しかしJapan Times-①が誤報であるため、それを前提にしたこの推論も誤り。
⑯ Japan Times-② がバタヴィアの記録であったことに言及していない。バタヴィアであれば「ムーア人」がアフリカの黒人を指す可能性は低いが、それを無視して日本人とアフリカ人の混血児が世界に広がっていた可能性を示唆。
2014年 ソウザ:『Escravatura e diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII』
ポルトガル語で書かれた、岡美穂子のご主人であるルシオ・デ・ソウザによる、大航海時代の日本人奴隷に関する著書。
これまで挙げてきた論文は「日本人の黒人観」についての論文であり、歴史学の論文ではありませんでした。
しかし、このソウザの著書は歴史学の本です。Leupp (1995) や Russell (2008) のイデオロギーによって歪められた“歴史”が、歴史学の領域に取り込まれたと言えるのではないでしょうか。
2015年 X氏: 日本語版 Wikipedia に感想を書き込む
日本人と思われる Wikipedia ユーザー、X氏により日本語版 Wikipedia のYASUKEページに以下のような感想が書きこまれる。
2015年9月 Tottoritom: 英語版 Wikipedia の弥助のページに大介入
ロックリー本人だと言われている Wikipedia ユーザー、Tottoritom により、英語版 Wikipedia の弥助のページが大幅に書き換えられる。出典のほとんどがまだ世に出ていないロックリー論文(2016)。
以下の日本語はラム・マイヤーズさんのスクショ中の日本語訳を基にしています。
③「信長は弥助の強さを称質し、普通の人10人分の強さだと評した。信長の甥、おそらく津田澄には、この最初の出会いの際、彼に多額の金銭を与えた。」
⑥「松平はまた、1582年初頭の武田氏に対する遠征から戻った弥助を観察し、彼は信長に大いに気に入られているように見え、「武器持ち」と評されたと述べている。」
⑦「弥助は日本語を多少話せた可能性が高いが、これはヴァリニャーノが教師たちが現地の文化にうまく適応できるように努力したためかもしれない。」
⑧「信長は弥助と話すのを楽しんだからである(信長がポルトガル語を話したという証拠はなく、弥助が古典中国語で意思疎通できた可能性は低い)。」
以下は、Tottoritom が介入する以前から存在していた間違い。
弥助が容姿端麗&身長188cm
尊経閣版が『信長公記』の原型とされる
2015年10月 Tottoritom: 仏陀黒人説を追記
その約1ヶ月後に以下のような追記が行われます。
上記⑫の本来の出典は、おそらく Leupp-⑧⑨⑩ や Russell-⑨⑩ だったと思われます。
2016年2月 ロックリー:「The Story of Yasuke: Nobunaga's African Retainer」
日本大学法学部内の、人文学についての機関誌『桜文論叢』に収められている、ロックリーの弥助に関する論文(通称: ロックリー論文)。
③Stanley の著書を引用して「弥助と同時代の黒人が日本人の奴隷や妾を持っていた」とする。しかし Stanley の著書にそのような記述は見当たらない。
④上記のロックリー-②③の本来の引用元は、Leupp-③ あるいは Russell-⑫ だと思われる。
誤りを全部指摘することはできませんが、以下のリンクから読めます。ぜひ読んでみてください。
https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/pdf/treatise/treatise_91/all.pdf
2016年6月 Tottoritom: Wikipediaの記事の誤りを訂正
2017年 ロックリー:『信長と弥助』
日本語で出版された、ロックリーによる弥助に関する“学術書”。たくさんの疑義が呈されているが、今回は黒人奴隷流行説と仏陀黒人説にのみ焦点を当てる。
② Leupp-? と Russell-? を引用して「この時代の日本人は、黒い肌やアフリカ人に対してとくに否定的なイメージは持っていなかったようだ」と記述。
④アルヴァレス-①を引用し、「日本の人々が『十五海上リーグ[約八キロ]も歩いて黒人を見にきたり、三、四日かけて彼らを歓待したりした』と記録している。」と記述。
⑤引用を書かずに「リチャード・コックスによれば数十年のうちに、数多くのアフリカ人が日本で雇用されるようになっていた。」と記述するが、おそらくここの出典は Leupp-① かソウザ-②。
上記①の「地元の」「アフリカ人」という言葉が、ソウザ③④と被っています。どちらも Leupp の原文にはありません。
ロックリーがポルトガル語を読めないことと、ロックリーとソウザが友人であることを考えると、ロックリーはソウザから直接この主張を聞いたのではないでしょうか。
また、Russell の「The other other: The black presence in the Japanese experience」を引用しているのもソウザ(2014)と同じです。この Russell の論文も、ソウザから直接教えてもらったのではないでしょうか。理由は以下の通り:
Russell は「Excluded Presence: Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other」という論文でも、ほぼ同じことを言っています。
The other other: The black presence in the Japanese experience
「Japan's Minorities: The illusion of homogeneity」という、歴史学ではない本に載っている。Excluded Presence: Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other
2009年に京都大学からインターネット上にアップロードされている。
このような条件下で、ロックリーが偶然ソウザと同じように、後者ではなく前者の論文を見つけたとは考えにくいと私は思います。
いずれにせよ「黒人奴隷流行説」を先に世に出したのはソウザです。英語でそれを発表しているのもソウザです。
「黒人奴隷流行説」に関して、ロックリーにだけ責任追及をするのはフェアではないと私は思います。
2018年 ソウザ:『The Portuguese Slave Trade in Early Modern Japan』
ソウザ②③④⑤と同様のことが英語で記述されています。この著書は酷評されています。
2019年 ロックリー:『African Samurai』
ロックリーがジェフリー・ジラードとの共著で出版した「ノンフィクション小説」。「仏陀黒人説」が「弥助大黒天説」に発展する。
①「仏陀黒人説」を発展させた「弥助大黒天」を3度にわたり言及。当時一般的な大黒天は、すでにまんまるフォームであったことに言及せず。
③日本人が読めばほとんど史実ではないとわかるが、日本史を知らない外国人に「史実に基づいている」「フィクションはほとんどない」と売り込む。
2021年1月 ソウザ&岡:『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』
2017年に出版された『大航海時代の日本人奴隷』の増補新版。ソウザ(2014)を原著とした、日本語で書かれた本。
②岡はXにて上記①はただの誤植だと言い張っていたものの、Xの有象無象によって、原著のソウザ-①の誤りをそのまま引き写しただけだったことが明らかにされてしまう。
③「カフル人を従者にすることは、日本人にとっては『富貴』や『威風』の象徴で、交易に関係する大名たちはこぞってその所有を望んだと思われる。」と記述。
④岡はXの有象無象にこの記述の根拠を問われるも、はっきりと根拠を示せず。察するに、上記①②と同じようにソウザ-④の「南蛮屏風」が根拠だったと思われる。
海外で一人歩きしていた「黒人奴隷流行説」が、ついに日本に逆輸入されました。
岡は「一般書という性格で、「弥助」は付録の一項目に過ぎないので、参照文献の引用史料を見直すほどの手間はかけません」と言います。
そもそも私は「弥助」の研究者ではないし。指摘の部分は全体の分量の100分の1にも満たない箇所で。「器量なり」は研究者によっては、翻刻で「健やかに」との間に読点が入っています。一般書という性格で、「弥助」は付録の一項目に過ぎないので、参照文献の引用史料を見直すほどの手間はかけません
— Mihoko Oka (@mei_gang30266) October 23, 2024
しかし、この本は科研費の研究成果物とされています。我々の貴重な税金がこのように遣われていいのでしょうか。
2021年2月 岡: サイゾーインタビュー
『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』発売にあたって、岡がサイゾーのインタビューを受ける。
Leupp の論文からイメージを膨らませたと言っています。
結局根拠はなかったようですが、いろいろと思うことはあるものの、他のグローバルヒストリアンたちと比べたら誠実だとは感じました。去年8月の時点では。
今では批判者をブロックして好き勝手に妄言を垂れ流していてなんだかなと思います。以下の記事も併せてお読みください:
2024年 アサシンクリードシャドウズ発表&まとめ終了
アサクリシャドウズの発表を機に、弥助に関する偽史が海外で広まっていることが表面化しました。
Netflixでは既にYASUKEがアニメ化されており、ハリウッドでの映画化の話もありました。
欧米のDEI思想が望むように日本の歴史が書き換えられてしまうのは、なんとも言えぬグロテスクさを感じてしまいます。
海外の人々が我々の知らない日本史について話していて最初は困惑しましたが、このように過去を遡って偽史が発生する過程を見ていくと、なぜ彼らが誤解していたのかがわかる気がします。
今回のまとめではそれぞれの主張の要素だけを抽出したので、繋がりがわかりづらいかもしれません。
詳細を知りたい場合は、ぜひリンク先の私の記事を読んでみてください。原文とその日本語訳を併記しています。
コメント
2日本をよく知らない外人が好き勝手に歴史改変してるのマジで笑えないわ。
ここまで長年に渡り捏造されてきていたとは…恐ろしい
自分は近年フランス人(恐らく元アルジェリア移民系)が、フランス語によって書かれた弥助本を何冊も出して(しかもかなり売れて)いる事に眩暈を覚えましたが、そうなるだけの嘘と捏造が大昔から続いていたとは思いもしませんでした
それが害人特有の軽率さと悪辣さであるならまだしも、頭岡氏のような売国奴の老害が出てきているというだけで、日本人として恥と怒りを覚えます