10年会社員だった僕が、「この業界に未来はない」と言われた創業100年の酒屋の「あとつぎ」となった話
「戻るつもりなど、さらさらなかった」
32歳のとき、僕は八方塞がりの精神状態でした。
当時、印刷機メーカーに勤め、会社員として10年働いていました。
頭の片隅には実家の酒屋のことがあったものの、正直なところ戻る気などさらさらありませんでした。
そんな気持ちが揺らいだのは、父が長期入院したときでした。
「戻るのか、戻らないのか」
3年ほど悶々と考えつづけた末、僕は決断しました。
このままフラフラと過ごすのではなく、白黒ハッキリさせようと。
創業100年を迎える実家の酒屋に戻るかどうか、1年かけて本気で考えることにしたのです。
「この業界に未来はない」と言われつづけた日々
その1年のうちに、周りからは口をそろえて、
「酒屋に未来はない」
「この業界に未来はない」
と、言われつづけました。
大型店やネット通販の台頭で、地方の小さな酒屋が生き残るのは難しいというのが大方の見方だったのです。
正直、僕自身も業界のことをよく分かっていませんでした。
だからこそ「周辺の環境が変わったのにも関わらず、なぜうちのお店は毎日シャッターを開けられているのか」という問いを持って、自分の目で調べ、声を聞こうと決意したのです。
まずは会計士に決算書を見てもらい、従業員ひとりひとりと話をしました。調べられることは徹底的に調べました。
すると、やらなければならないことが次々と見えてきました。同時に、今まで見過ごしていた強みも浮かび上がってきたのです。
日々の「あたりまえ」になっていた課題。
これらを改善するポイントが少しずつ明確になってきました。
そして、一見「弱み」に見えることも、掘り起こして磨き上げれば、お客様との信頼関係を築くチャンスになると気づいたのです。
たとえば「専門性」。
僕自身、会社員時代は酒屋にお酒を買いに行くことは、ほとんどありませんでした。
でも酒屋では、お客様が「誕生日のプレゼントには何がいいだろう」と来店された時、一緒に話しながら最適な一本を見つけられる。ワイン、焼酎、日本酒など、お客様の好みや状況に合わせて答えを導き出していける。それは大型店やネットにはない価値だと感じたのです。
以前は専門的な資格は持っていても、お客様の話を「聞く」という姿勢が足りなかった。一方通行のコミュニケーションや上から目線の接客で、「これがダメならお帰りください」というスタンスでは、たくさんの機会を逃していたことに気づいたのです。
また「お酒の管理」にも目を向けました。
「お酒」といっても、「常温保管が適するもの」と「そうでないもの」がある。それを把握したうえで、より良い状態でお客様に味わっていただけるよう、管理方法をより繊細にしていきました。
そして、最も大きな気づきは「作り手との関係性」でした。
最初のうちは「商品」と思っていたものが、年を重ねるうちに「作品」だということに気づいたのです。2つとして同じお酒はない。
お酒とは、人の思いと自然と発酵によって生まれた作品である。
その作り手の思いや背景、「なぜこれができたのか」をお客様に伝えることで、インターネットでは得られない価値を提供できる。
お客様に「こんなお酒知らなかった!」「今まで飲んだことなかったけど、おいしかった!」と感じてもらえるような、良い出会いのお手伝いができる。単に「1500円です、ありがとうございました」で終わるのではなく、お客様に喜んでいただける時間と空間を提供できる。
それこそが小さな酒屋の強みだと確信しました。
「ひとつずつ時間をかけて改善していけば、この酒屋には可能性がある」
僕はそう信じて、簡単な事業計画書をつくりました。
これを従業員ひとりひとりに説明しながら、「今後こういう形でやっていきたい」という思いを伝えて、一緒にやってもらえるかの意思確認をしていったのです。
「余計なことを」と言われた3年間
でも、理想と現実は違いました。
会社員時代に培った経験や知識を活かして事業計画書を用意し、「これでみんなと約束したことを進めていける」と思っていた僕に待っていたのは、厳しい現実でした。
「余計なことをやってくれるな」
「今までこうだったのに、なんでそんなことやるんだ」
という声でした。
たとえば、散らかっていた物を片づけるだけでも反発がありました。
彼らにとっては、これまで築き上げた「あたりまえ」がある。それが無くなっていくのは、僕が想像する以上に難しいことだったのです。
結局、僕の描いた未来図は、3年間ほとんど前に進みませんでした。
まるで、暗いトンネルのなかをさまよっているような気分がつづく日々。。
そんな閉塞感の中で救いになったのは、外部とのつながりでした。
地域のNPO法人の方が、「新しいことを始めるのは大変だよね」と声をかけてくれたり、地元の学生が「面白そうなことをやっていますね」と興味を示してくれたり。最初は小さな交流でしたが、そこから少しずつ輪が広がっていったのです。
地域の飲食店のオーナーが「うちで商品を置かせてほしい」と言ってくれたり、地元の農家の方が「一緒に何かできないか」と相談に来てくれたり。僕の考えを真剣に聞いてくれる人たちとの出会いが、疲弊した心を支えてくれました。
特に心強かったのは、同じように地域で頑張る方々との出会いです。「みしまLINK」という大学生と社会人をつなぐコミュニティで知り合った方々は、僕の悩みに耳を傾け、時にあたたかいアドバイスをくれました。
「周囲の反対があっても、自分の信じる道を進むべきだ」
「小さな成功体験を積み重ねていけば、必ず認めてもらえる日が来る」
そんな言葉が、僕の背中を押してくれました。
外部の人たちとの対話を通じて、僕は客観的な視点を得ることができました。身内だからこそ言いづらい真実や、当事者では気づきにくい可能性に気づかされたのです。
そして少しずつ、小さな成功体験が生まれ始めました。
新しい取り組みが地元メディアに取り上げられたり、お客様から「変わったね」と声をかけてもらえたり。そうした実績が目に見える形で現れ始めると、身内も少しずつ認めてくれるようになっていったのです。
「うまくいくかどうかわからないけど、やってみよう」という僕の挑戦を、最初は批判的だった身内も、徐々に「まあ、やってみなさい」と見守ってくれるようになりました。
外部とのつながりが、家業を変えていくための活路を開いてくれたのです。
ひいおじいさんの夢から生まれた焼酎
転機となったのは、焼酎づくりでした。
調べていくうちに知ったのですが、僕のひいおじいさんは創業後に酒造場を建て、静岡県の裾野で芋焼酎を作ろうとしていたのだそうです。
この手記には、出資者のお名前、原材料のこと、調達記録などが書かれていました。
実際に醸造を立ち上げるところまで至ったものの、酒造免許を取れず、あと一歩のところで頓挫してしまったそうです。
2020年が、ちょうど創業から100年の節目でした。
「ひいおじいさんへの感謝の気持ちを形にしたい」
「原点に立ち返る意味を込めて」
「これからの未来に対する自分への覚悟も決めたい」
「これまで支えてくださった皆様と地域の方々への感謝の気持ち」
を込めて、5年前に焼酎づくりを始めました。
裾野は、実は農産物の宝庫なのです。
寒暖差の影響で良質なサツマイモが採れる土地で、かつては関西の料亭が求めて来ていたほどです。
また、360年ほど前に掘られた「深良用水」は、箱根・芦ノ湖の水を引き込んだ歴史ある水路です。
裾野の地域は、富士山からの恵みの水と、この深良用水の両方の恩恵を受けています。この二つの水源がもたらす清らかな水は、酒造りに欠かせない貴重な資源となっているのです。
創業100周年を迎え、新たな一歩を踏み出すことにちなんで焼酎の名前は「歩」と「新」としました。
「歩」には「みなさんと一緒に成長しながら進んでいきたい」という思い。 「新」には自分の名前「慎」という字と、ひいおじいさんの名前「真一郎」への敬意を込めました。
地域の人々と共に醸成していくもの
現在、この焼酎は少しずつ地域の人たちに知られるようになってきました。
お客様が親戚に送ってくださったり、何かのきっかけで思い出して購入してくださったり。少しずつですが、確実に広がっています。
でも、本当の意味での認知はまだこれからだと思っています。
だからこそ、僕がいちばん大事にしているのは、地元の方々に伝えていくことです。
僕が伝えたいのは、お酒づくりを通した「街への郷土愛」です。
裾野はよく「何もない街」と言われます。
でも、裾野には裾野らしさがあるのです。
この街に走る電車「御殿場線」ひとつとっても歴史があります。
富士山の恵みを受けた水と、360年ほど前に先人たちが箱根の芦ノ湖から引き込んだ「深良用水」の両方の水があり、その水があってこそ育つお米があります。
当時、お米は税金のような役割を果たしており、この富士山麓の地域は深刻な水不足に悩まされていました。いま、私たちが安定してお米を作れ、水の心配なく暮らせているのは、この偉業があったからこそ。
私たちの「あたりまえ」は、決して「あたりまえ」ではなかったのです。
この「あたりまえ」のことを、自然な形で経験してもらえたらうれしいです。
時をかけて醸成していく思い
お酒づくりは30年、50年、100年かけて醸成していくものです。
お酒の成長、自分たちの成長、そしてこの街の子供たちの成長。
お酒づくりを通して、時をいっしょに過ごしていけるような関係を築いていきたい。それは商品のパッケージだけでは伝わらない思いです。
「いい綾の日」というイベントを開催したり、「すその焼酎プロジェクト」のウェブページを作ったりしてきました。少しずつですが、コアなファンが生まれ、いっしょに広めてくれています。
特に「青い新」は大好評でした。
米焼酎にバタフライピーというハーブを漬け込んだスピリッツで、レモンをかけると色が変わるという面白さもあります。これは地元に引っ越してきた方のハーブ農園や、デザインをされている方など、様々な地域の人々との協働から生まれたものです。
「あとつぎ」という選択肢の可能性
今、日本の地方では「あとつぎがいない」という声をよく聞きます。
「田んぼを持っているけど、使い道がない」
「自分たちの代で店を閉める」
そんな声を聞くたびに思うのです。
もし僕のような選択—10年の会社員人生を経て「戻りたい」「やってみたい」と思う人が増えたら、日本の地方はもっと変わるのではないかと。
最初は「週末だけやってみようか」という小さな一歩から始まるかもしれません。
でも、その小さな一歩が、街の未来を変えていくのだと信じています。



コメント
3Noteの記事を読ませていただきました。応援しています!生の現場の情報がしびれます!
みしまや!小さな頃にいつも通っていました(千福が丘)。帰省の折には、立ち寄ります!
慣習を変えることへの反発と江森さんの葛藤が、とても伝わってきました。私には引き継ぐ家業がありませんでしたが、会社員時代に近い感覚を味わっていました。ですが家業を継ぐというのはこういうことなんだなと改めて気付かされました。