安室さんと純黒 02
「ご協力いただけますよね、赤井さん」
「…おまえはだれだ」
男はサンダルをつっかけると迷わずその両頬を引っ張った。
「痛!」
「なんだ本物か。変われば変わるものだな」
「暴力反対ですよ、赤井さん」
とにかく家へ入れなければ表札にない名字を呼び続けるぞという脅しだろう。
可愛いものだなと思いながら、争う道理もないので背中を抱いて迎え入れる。薬を盛ってからめっきり姿を見せなくなったので、彼女のスリッパは薄く埃を被っていた。マグも洗う必要がある。
跪いて靴を脱がせてやったところで、後頭部を鈍器で殴られるような衝撃が走った。比喩でなく本当に、彼女のボストンバッグが首の骨を折りにきている。
「なんだこの荷物は」
「ご心配なく、武器ではなく本です」
ペンは剣より秀でるとか言い出すんじゃないだろうな、と訝しむ声を出したら、ここに置かせてくださいと千鶴は玄関先へ鞄を放った。ライフルでも落ちたような音がして、床が凹むと困るなと思う。あの大女優はなかなかの気迫がある。
「それで、場所はご存知なのでしょうか」
「何処のかね?まったく話が見えないが」
「いつまでも見得張らないでください。敵に回したくない男の1人なんでしょう?」
「…眠っていたのでは?」
「コナンくんから聞きました」
訊き出した、の言い間違いか、聞き間違いだろう。人間の脳は完璧にできていないから、彼女が自分に対してだけ異様にあたりが強いような気がするのも、きっとなにかの勘違いだ。
「助けるんですか、助けないんですか。男ならバシッと決めるべきでは」
「…きみの周りはわりと決断力に乏しい男が多いようだが」
17歳までフリーでいるのがその証だろうと思うのに、端正な顔が間近に迫ると二の句が次げない。胸が苦しいと思ったら胸倉も掴まれている。
「…場所は特定している。だが時間がよくない。もう少し日が落ちてからでないと」
「手遅れになりませんか?」
この縋るような顔を見るのは2度目だなと思ったところで、最悪の新事実を思い知らされる。
同じ傷を抱えているとは夢にも思わなかった。子供だと甘く見ていたのが敗因か。
ずいぶん長く一緒にいたが、どこのだれに妬けばいいのか見当もつかない。
「…残念ながらそうはならない。あの男は悪運が強いからな」
「では作戦を」
あっさり手を離すなり、少女はすたすたとキッチンへ消えた。
急かしたわりに紅茶のひとつでも入れてくれるつもりだろうが、消え入りそうな後ろ姿を見せつけられたら追いかけずにはいられない。
1人になったら泣くのだろうなと思ったとおり、コンロの前で震える背中は抱き締めても抵抗ひとつできなかった。
「…埠頭ですか」
「嫌いかね?」
因縁めいたものを感じる。そう答えた少女は明らかにこちらを気遣っていた。なにをどこまで知っているのか空恐ろしい。
「でも、耳を澄ませているだけなんて」
「それで確実性が17%上がる。文句はあるまい。通信手段はどうする」
もともと何%の勝率で闘うつもりだったのか、賢い女は訊いてこなかった。しかし僅かに膨らんだ頬が「どうせお得意のフェアトレードでしょう」となじってくる。67%なら大した賭けだろう。
「必要ありません。両耳を使いたいのと、あなたに迷惑はかけられない」
「きみが組織に捕まれば、俺はどのみち別の男に射殺されるがね」
「それは成功しているイメージですね」
いいですね続けましょう、と少女がティーカップの音を立てる。恐怖を興奮で補う、ビギナーにありがちな危ない心情だ。
「着いてくるのは勝手だが、まず彼が捕まっている保証はない。罠ということもあるし、そうでなくともきみが危険になれば俺は迷わずあの男を見捨てるぞ」
「さっきまで病院に、子供たちがいたんです。記憶喪失の女性を、知らない刑事さんが連れて行ったと聞きました」
「…それが?」
「ご自分だったらどうするか、もうお考えになったでしょう」
定時連絡が途絶えたらすぐにそうするよう、部下へ指示をするだろう。
現に赤井もバーボンの居所は知らないがキールの所在は特定している。ジンなら一箇所に固めて共食いさせるに違いないから、安室の素性は謎のまま、降谷零は殉職でTHE END。
「それならきみも、俺がどちらを選ぶか考えたわけだな」
「彼に貼りついていれば、2人とも助けてくださると拝察しました」
それはおそらく嫉妬で男を撃ち抜く、とは言わないでおく。もっと名案を思い付いていたし、それにはいまの時間が惜しかった。
「さて、そろそろ着替えて出る時間だが。ひとつ俺と取引といこうじゃないか」
「…お話できることはありません。一般人には情報が降りてこないって、コナンくんも言ってました」
「価値があるのはなにも情報だけとはかぎらない。FBIに入るなら、もう少し勉強が必要だな」
入りませんよとそっぽを向く女は、もう赤井の言いたいことを察している。
甘い言葉で口説くチャンスも与えないとは、女としてはまだ未熟だな。そう言い切る前に背中がソファーへ沈んだ。
「………っ」
重ねてきただけの稚拙な唇の中心へ、下から力尽くで割って入る。実に良い度胸だ。
左手を当てた丸い後頭部は羞恥心で熱を持ち、ぎゅっと瞑った瞳の隙間にはうっすら涙が滲んでいる。
もういいさ俺の負けだ、と優しく肩を叩いてやれば、力の抜けた薄い身体と赤井のそれは簡単に形勢逆転した。
「いまのでスタンドくらいは組み立てててもいい」
「~~~っ!」
「スコープを覗いて引き金を引くまで、きみの身体が持つといいがね」
あとは時間の都合もあるな、と思い出したように言ってやれば、少女は潤んだ瞳に決意を宿してくたりと全身の力を抜いた。
それがたまらなく男を誘うと、いいかげん気付いたほうがいい。
思ったとおり先に1発キールが撃たれた。
向かいの倉庫は屋上まで延々続く外階段で、少し前ならこんなポイントは絶対に選ばなかった。いまは彼女の位置が良く見える。銃声を聞いて跳ねた肩が、ようやく少し落ち着いてくるところ。
胸を抱えて蹲るくらいなら、最初から関わらないこともできたろうに。
こちらとしても奴らが直前に場所を変えたので中に盗聴器を仕掛ける余裕がなかったが、彼女の耳は余すことなくすべてを拾う。自分たちにとって唯一とも言える今回の報酬だ。
千鶴の細腕が僅かに上がる。それは悪いほうの作戦にスイッチする合図で、赤井は手錠に繋がれた想像上の安室透を振りかぶって殴りつける。やはり落としたか、あの間抜け男。女が一人撃たれたくらいで、だれに重ねてヘマをした。
サイレンサーから飛び出た一撃が、まず彼女の指差す南京錠を打ち抜いた。飛んだ金属片の落下音は想定されるリスクの範囲内だが、千鶴はそれを空中で掠め取る。…掠め取る?
あかいさん、と口の動きだけでこちらを叱る少女の指が天を刺した。この俺を急かすのはきみくらいだとすべて片付いたら言ってやりたい。それよりいまのはなんだ。
窓ガラスを突き破って撃ち抜いた照明が、コンクリートの床に当たって派手に弾ける。扉の開く音にスコープから利き目を外すと、もうドアの手前に彼女はいなかった。
暗闇は専売特許だと言っていたが、実際夕日が差し込む倉庫の中は僅かに明るい。あんまり彼女が急かすので、決行時間を早めたせいだ。
血相を変えたウォッカが飛び出してきて、赤井が踏みつぶしてから投げた缶コーヒーの落下音を頼りにバーボンを追っていく。
残りはジンとベルモットか。どちらにも彼女の顔が割れている。サーモスコープへ切り替えて、次の標的に狙いを定めた。ピッキングクリップを愛しい女に拾ってもらった、馬鹿でどうしようもない警視殿。
「…ほう、」
どうやら窮鼠は猫を噛んだらしい。1分待っても銃声は聞こえないし、そのうちジンとベルモットが出てきてポルシェで消えた。
イヤホンの向こうでジェイムズが、「クールキッドがやってくれたぞ」と手を叩く。こっちの子供はクールと程遠い。
「キュラソーを追って東都水族館に向かいます」
『うむ。きみの協力者も労ってやってくれ』
「そうしたいのは山々ですがね」
積み荷の影でなんの因果かぴったり貼りつくサーモグラフィーの大柄なほうは、当分彼女を解放しそうにない。

「…っんの、バカ!!」
「あああ安室さんまだ盗聴器が残っているかも…」
奴らもかなり直前に場所を変えたようだからその可能性は低いとか、そのだぼついた黒いニットにはどう見ても覚えがあるぞとか、そもそもなんでここにいるなんてことはもうどうだっていい。
「殺されるところだったんだぞ!」
「あぶなかったですね…」
もう黙れ。バスケットボールのように顔を掴んで勢い任せに唇へ噛みつくと、声にならない音を上げて腕の中の少女がじたばた暴れる。
よもやそのくらいで解放してもらえる相手だと思っていたわけではあるまいが、最後の語らいが電話ごしの「すみません」になるところだ。こちらの台詞が「愛してる」なんだから、だれがどう訊いたって振られて終わってる。
「さっききみの暖かい手が触れて、どんな思いをしたと思ってる…」
あれの目的は針金の受け渡しであって熱を伝えたかったのではない。そもそもそういう口調でしたっけとモゴモゴ五月蝿い口をもう一度強引に犯すと、鼻にかかった悲鳴が漏れる。
この下手くそすぎるキスは間違いなく本物だ。KIDやベルモットのふざけた変装ではない。
「………千鶴」
「あ、あの安室さん」
「千鶴、千鶴、千鶴…」
まだ呼吸も整わないうちから呼んだ回数「はい」と応える律義さも彼女らしい。
確信するなり気が抜けて、思わずその場へ座り込んだ。
盲目の女子高生をここへ送り込んだクソFBIには後ほど充分報いてやるとして、いまはひとまず怪我をチェックする。
ウェストから滑り込ませた手で下着のホックを外すと、「そんなところ怪我してるわけないじゃないですか!」と0.1秒で一本背負いを食らった。
警察学校の癖で大人しく投げられてから床が畳でないことに気付き、コンクリにしこたま背骨を打ち付ける。
「は、あああ?」
「あ!す、すみません…」
「………いえ。いまので完全に頭が冷えました。毛利先生の娘さんでしたね」
だからこんな無茶をしたのか。もしかして天使の身体で空手も姉に習っていたり、靴から青光りする稲妻を出したりできるのか。
実際の冷却にはまだ少し時間がかかりそうな思考回路はそこで途切れて、軋む背中を慰めながら起き上がったら、すでに彼女はその場にいなかった。
「あの、大丈夫ですか肩…ごめんなさい間に合わなくて」
「え、ええ、ありがとう」
ほらみろキールも若干引いている。
埠頭の隅に捨て置かれていたRX-7を靴裏のスペアキーで開けて千鶴を押し込んだ。
潮風で車体の下は傷んでいるが走行に支障はない。盗聴器も発信機もないことは2周回って確認した。助手席には好きな女が乗っている。今日のツキなら組織も潰せる。
「なぜこんな真似をしたんです。子供の遊びじゃないんですよ」
「ごめんなさい…」
正直もうほとんど怒りのバロメーターは下がっていたし、喫茶店のウェイターを命がけで助けたりはしないだろうなと思うと表情筋も緩んでくる。一点どうしても許せないことがあるので、あとは全部カモフラだ。
「あのクズ野郎になにを唆されたか知りませんが、あなたは本来足手まといなんです。コナン君だってきっと同じことを言いますよ」
「はい、わかってます」
どうやって赤井のくだりを聴取しようかと考えていたら、なぜか小さな名探偵の名前が出る。おい降谷アタマを冷やせニヤけるなと言い聞かせながら、ハンドルに腕を乗せて顔を守る。今触れられたらひとたまりもない。
「見てのとおり僕はピンピンしてますし、あなたに助けていただかなくても今頃ここで休憩してます」
「はい、見えてます」
「あなたはだれがどう見たって守られる側の人間で………は?」
「園子ちゃんの言うとおり、とっても格好良いんですね」
生きている顔を拝めてよかったと優しく頬へ触れられたら、いよいよ二階級昇進が見えてきた。
半信半疑だった。
実の父が母を撃った銃声が、彼女の視界を閉ざすトリガーになっていたのではないか。
盲学校に通っていないのは7歳まで健常者だった娘の回復を家族が信じているからで、生まれつき全盲だと嘘をつくのは無意識に父を庇っている。
国のデータベースで女性のカルテを漁るのはどうしても気が引けたし、見えなければ見えないでそこも愛しいと思っていたから、全て安室の推測だった。今日までは。
「本当の、本当に、見えているんですね」
「はい」
顔を近づけると照れたように俯く。たしかに一昨日まではなかった可愛い仕草。感動のあまり口数が減ったのを、千鶴は何かまた怒らせたと勘違いしたらしい。
必死に「でもまた見えなくなるかもしれませんね」とかわけのわからないことを言ってくる。この顔だけでも好きになってもらえたなら、ずっと見えたままがいい。
「千鶴さん、僕はいま天にも昇る気持ちです」
「冗談でもそういうこと言わないでください」
「キスをしてもいいですか」
「………だめです」
あらたまって訊くなという意味に都合よく解釈して、事件より一足先にそっと幕を降ろす長い瞼を見つめながら丁寧に唇を重ねる。
触れた先から痺れるような、彼女だけの毒に全身を支配されて泣きたくなるし、一度は諦めた快楽に、少し気を抜けば脳まで溺れてしまう。
舌を入れたら思いっきり噛まれたので、加減は学ぶ必要がありそうだが。
「…それ、けっこうヒントでしたよ」
「え?」
「キスをするときは目を閉じるものだって。あなたの好きな史学書には滅多に書かれないでしょうけど。女の子はませてるから、7歳までに見知っていてもおかしくない」
「っもう!まだここにいていいんですか…?部下のかたは?」
「留まることで組織の裏を掻いてますし、幸運にも車が見つかったので時間は稼げました。女神がついているおかげですね」
「…安全運転でお願いします」
「それでは念願の遊園地と水族館まで、月夜のドライブと行きましょうか」
うっかり部下のくだりを拾い忘れたが、あとで風見にヘコヘコさせれば仕事のできる理想の上司だと思い直してもらえるだろう。
「わたしも、行くんですか?観覧車」
「よくあの赤井にべらべら喋らせましたね。Honey Trapなんて言わないでくださいよ」
「専門用語ですか?」
安室さんって本当に潜入捜査官だったんですね、なんて感心した顔をするから、いま僕が引っ掛かってるこれですなんて言えるはずもない。
「風見はいるか」
「キュラソーとゴンドラに乗りました」
「自分で行ったのか…では指揮はだれが?」
さあ、現場判断は敏腕警視の受け売りですからね。
関係者通路に引っ張り込んだ配下の一人がそう揶揄したので、千鶴には部下にナメられるお飾り上司だと思われたかもしれない。減俸決定だ。
「まずこれを着てください」
調達させた青い作業着を言われるがままに羽織った少女の髪を丁寧に結い上げて帽子の中へ隠してやる。
自分も手早く着替えると、もう一度「わたしも行くんですか」と躊躇いがちに確認された。
「知らないところで命を懸けられるより、このほうがマシだと改心しました。いけませんか?」
「…怒ってるんですね」
「なにがあってもお守りしますという宣誓です。俺はあなたの騎士ですから」
一瞬ぽかんとした少女に、まだ一人称だけ変だと指摘されて、いまそこ重要ですかと溜め息が漏れる。この状況でクスクス笑えるってけっこう凄いぞ。わかっているのかいないのか。
「一気に頂上まで登ります。高い所は平気ですか?」
「見たことないからわかりません」
「ふっ…上等です」
ただ握った手さえ離さなければいいなんて、どうして29年も気付かなかったのだろう。おかげでずいぶん大切なものが両手から零れ落ちて行った。街中の恋人たちはこれを知っててやっているなら相当キレる。
「恋人じゃ、ない、ですよ…!」
「あれ、声に出てました?」
無骨な階段の中ほどですでに息も絶え絶えの少女をひょいと抱え上げる。体力0は折り紙付き。最初からこのくらい読んでいる。
おそらく強風で手摺もないうえ床が動く屋外へ連れ出すのはさすがに気が引けて、一つ手前の踊り場で階段へ座らせた。待機のハンドサインを出してから、さすがに伝わらないかと耳元へ口を寄せる。誰だか知らないが、上から先客の足音がしていた。
「いいですか千鶴さん。"自分は公安だ"と名乗る人間が迎えに来たら、"安室透の本名は?"とでも訊ねてください。相手が答えられたら着いて行ってかまいません。そして正解は"降」
「ストップ安室さん。そういうことは、もっとちゃんとしたときに知りたいです。帰ってきてから教えてください」
「………最高の申し出だ」
口調と声音が180度逆転した愛しい音の波を鼓膜へ焼き付け、慣れない運動で疲れ切った細腰を抱いて、唇の端を掠めるようにキスをする。
こんな適当なのが最後の儀式になるわけがないと思えることが安室にとっては重要だった。
思った通りの風速で、外へ出た瞬間に帽子は前方へ吹き飛んだ。その先にいた男の姿に、背筋が粟立つような興奮を覚えて上着も脱ぎ捨てる。
ここで逢ったが百年目、今日こそかならず逃がしはしない。
「来たな、赤井秀一…」
「どうやら上手く逃げ切ったようだな」
「あれがあなたの仕業なら、どうせここへ来ると踏んでましたけど。まさか彼女を迎えに来たとか抜かしませんよね」
「やはり連れてきたのか。あれもよくよく馬鹿が好きらしい」
呆れたような赤井の視線が一瞬安室の背後を辿った。見知った幹部の中へ置き去りにして、心残りがないはずはない。
「訊かせてくれませんか。僕たちを助けた了見を。彼女を危険に晒さなくても、奴らの情報は得られたはずですよね」
「…いいのか?多分きみが一番知りたくないと思うがね。それともわざわざこんなところまで、お喋りに来たのかな」
知りたくないことならすでにさんざん知ってきた。
毛利千鶴がいかに普通の女子高生で、人間としても女としても絶望的なほど危機管理能力に欠け、潜入捜査中の恋人にはこの上なく向かない相手だと言うことも。
それにたぶん彼女の仄かな好意より、自分の溜め込んだ愛情のほうが何百万倍も重くて、今後もずっとそれが千鶴を苦しめるだろうことも。
ベルツリー急行で負わせた火傷の跡が、いまもまだ引き攣れたように10本の指へ薄く残っていることも。
「FBIに手を引けと言いに来たんですよ。千鶴からも、キュラソーからもね」
「キスした程度で恋人面か。きみも若いな安室くん」
「ッおまえ、…ッ」
嫌な想像が脳内を駆け巡って、そのまま右ストレートを繰り出していた。利き手でそれを受け流し、赤井秀一は素早く一歩跳び退る。
逃げる気か、と一歩足を踏み出せば、その体重移動を逆手に取られ急速に背後へ回り込まれた。膝を屈めて襲撃を交わす。
「貴様は千鶴に、なにをした…ッ」
「本人からは"ありがとう"と言われたがね。言ったはずだぞ安室くん、刈るべき相手を見誤るなと」
まあ今は見誤っていないようだがな、と溝色の瞳が薄ら笑いを浮かべた気がして、反吐が出るどころか目の前がチカチカするほど腹が立つ。千鶴はなにも言わなかった。言えなかったんじゃないか。色仕掛けどころではなく、もっと強引に嬲られて。
「必ずおまえを殺してやる!!」
「それで彼女が泣いて喜ぶと思うなら、どうぞご勝手に」
鉄パイプに叩き付けた頭はびくりともしなかった。胸糞悪いニット帽が邪魔だ。背中のライフルバッグも、まず降ろさせないとぶちのめした気になれそうもない。ハンデ背負ってても勝てると言いたいのか、この下衆は。
「おまえが公安へ楠田陸道の銃を渡してきた日、千鶴はどこにいた!」
「あれか。しおらしく泣いて引き留めるのでね、悪いが薬で眠ってもらったよ。結果的にはきみのすぐそばにいたんじゃないか?…ああ、気付かなかったんだな」
「クソ野郎ッ!」
赤井の懐で携帯が光った。一瞬の隙をつき、最悪心中してやるくらいの心境で二重観覧車の合間へ叩きつける。
2階程度の高さから落ちて、たぶん肋骨が1本逝った。あの背負い投げは手加減されていたのかもしれない。この男を殺せるくらいの技を彼女に授けてやろうか。
千鶴が赤井を嫌っていないことは知っている。自分と同じように憎んでほしいとも思わない。
だがこいつは、黒に染まった側の人間だ。自分が駄目で、赤井に許されることがあるのは絶対に認めない。
「さぁ第2ラウンドと行きましょうよ」
久々に気持ち良く決まった一撃が、赤井の顎にヒビを入れた。まだ全然足りない。このまま第3の顔を作ってやる。
「赤井さーん!そこにいるんでしょう!?大変なんだ、力を貸してッ」
劈くような子供の声が、下から突き上げるように赤井を呼んだ。どいつもこいつもFBIを頼るばかり。こいつらが日本のためになにかしてくれたことがあったかと聞きたい。
「奴ら、キュラソーの奪還に失敗したら、爆弾でこの観覧車ごと全てを吹き飛ばすつもりだよ!」
睨み合ったままの赤井が無言のまま小さく首を振る。
「奴らが仕掛けてくる前に、爆弾を解除しておかないと大変なことに…!」
一時休戦のボディランゲージだかナンセンスだぞの合図だかなんだか知らないが、観覧車ごとというのはいただけない。ここには。
「本当か、コナン君」
「安室さん、どうやってここに?!」
「その説明はあとだ!それよりも爆弾はどこに」
まだ信じきってはいない。この賢い坊やなら、大人の喧嘩を止めるための口先八丁はお手の物だろう。
「車軸とホイールの間に、無数に仕掛けられてる。遠隔操作でいつ爆発するかわからないんだ!一刻も早く解除しないとっ」
解除しないと、どうなるか。だれにでもわかることを無意味に説明するから、逆にリアリティが感じられて赤井を振り向いた。今度は偉そうに小さく頷いている。
まるで自分だけが子ども扱いされているような状況はたまらなく不快で、反対側の踊り場から感じる少女の視線も心なしか非難を含んでいた。
「…わかった、FBIとすぐに行く!」
これであなたも満足でしょう。そのかわり、観覧車を出たら覚えていてくださいよ。
消火栓の裏に設置された起爆装置の解除を始めてからも、千鶴の視線はずっと同じ場所から安室を見下ろしていた。
公安以外に着いて行くなとは言ったが、迎えに来るなとは言っていない。赤井が怖くて近寄れないなら気の毒だし、これを解除できないような男だとは1ミリも思わないのなら素直に嬉しい。
応援するような視線が心地良いのでしばらくそのままにしていると、不意に別の可能性へ行き当たった。
「…なぁコナン君。千鶴はもしかして組織よりFBIより、きみが怖いってことはないかな」
「アレレ?どうして急に呼び捨てになってるの?」
ボク子供だからよくわかんないけどそんなの許してないよね、とでも言わんばかりの殺気を放つ少年は、言葉より雄弁に正解を物語っていた。

「このローター音はどこから聞こえる」
安室が解体作業に集中し始めるタイミングを見計らって、赤井秀一は1人の少女を誘拐した。
観覧車の頂上へ連れ出すなり彼女の帽子が飛んで、色素の薄い髪が風に遊ばれる。
揃いの格好というのはなかなか面白くないが、中に着ているタートルネックのニットは脱ぐに脱げなかったのだろうと心中でほくそ笑む。さらに面白いことに、あの男はまだ気付いていない。
「…赤井さんから向かって11時半、38メートルくらい上空だと思います…」
「OK.上出来だ」
それだけ言うと少女が青い顔でぺたんと座り込むので、ああやはり見えているのだなと確信を抱く。聴力も健在でよかった。
「あとは戻っていい。ボウヤに知られたら事だろう?」
「…恐ろしいことを」
家族になんと言って自分の元へ来たのか、想像すると少し笑えた。沖矢昴はしばらく手放せそうにない。現状おそらく安室透より、よほど彼女の親族に信頼されている。
這いずるように下へ戻っていく少女を最後まで見送って、言われた通りの方向へライフルを向ける。
高さも位置もドンピシャだが、なにぶん目標は巨大な鉄の要塞だった。オスプレイの改良種を準備していたとは。地対空ミサイルでもなければアレは撃ち落とせない。
「どこかにウィークポイントがあるはずだ」
こっちのそれは高さと風に相当怯えていたから、自分で安全な場所を見つけるだろう。いまのところ運はこちらに味方している。
しかし不意に破裂音が風に乗って届き、周囲300メートルが完全な闇に染まった。
「…停電か」
あの腑抜けた爆処理担当は、果たしてライトなど持ち合わせているだろうか。

さっきまで監禁されていたのだから携帯すら持っていない。
やたら便利な時計の少年はNOCリストを取り戻すとか言ってお得意の自由行動へ出て久しい。
現場判断は災厄を招くこともあると部下たちに教え直す必要がありそうだ。
「くそ…っ、もう少しだというのに」
こう暗くては作業を続けるのも逆に危険か。いっそ起爆装置も落ちてくれればいいのに、もちろん最新の72時間駆動バッテリー付き。
こうなったらもう雷管も電線も、肉弾戦の後で痺れた両手の感触を頼りに辿るしか術がない。そういう訓練もしておけばよかった。
「あの、安室さん」
うおぁ、と思わず声が出て、のけぞる身体を背後から支えられ、非常に情けない恰好になっている。暗闇なのがせめてもの救い。
「配線、もう頭の中に入ってますか」
「…ふっ、だれに訊いているんですか」
「指示をください。さっき赤井さんに褒められて、どうも罪悪感が…」
少しは俺の恋人らしくなってきたじゃないか、とは口に出さないでおく。
また少し目を離した隙にFBIに手を貸したというのは取調事項が一つ増えたが、襟足に息がかかるほどの距離に胸が詰まるし、なにより絶対の信頼を寄せられていると確信する。
「…失敗したら、一緒に死ぬことになりますよ」
それもいいかもしれないな、なんて思っていただけに、暗闇で的確に頬を抓られたのには驚いた。ちなみにそこはさっき赤井に殴られて歯が折れている。
「しませんよ、あなたに従いますから」
こういう部下が1人は欲しい。さっきまで壊滅的だと思っていたことなどすっぽり頭から抜け落ちて、風見に彼女の爪の垢を煎じて飲ませる方法を模索しながら最初の指示を出した。
パチン、パチンと爪を切るような音が続く。千鶴は安室の示した通り、寸分の疑いもなくニッパーを握っているらしい。
「千鶴さん」
「はい」
「赤井になにをされたんです」
「………なにも、」
是が非でもすべて片付くまで確信に触れる話題は避けるつもりか。
こっちだって電話の告白じゃ物足りなくてうずうずしているのに、三角座りの女子高生はどうしてこうも頑固なんだ。
「本当に?じゃあどうしてアイツは、敵である俺を助けたりしたんだ」
「安室さんまた口調変わってます。それからできれば次の指示を」
ローター音がかなり近い。もうキュラソーを回収するところだろう。
小学生とFBIに任せてはみたが、アレが組織の手に渡ればどのみち降谷零は今日か明日が命日だ。勿体付けられる所以はない。
「心配しなくてもあと2つだ。答えてからでも遅くない」
「何万人人質に取るつもりですか…」
大袈裟だとくつくつ笑って手摺に背を預ける。くだらない喧嘩のせいでどこもかしこもボロボロだ。膝を抱えると肋骨が痛むし、一昨日から一睡もしていない。
あくまで教える気のない安室に痺れを切らし、逆に適当な配線を切りますよと脅してくることも考えた。べつにそれでもかまわない。
一般市民は部下たちが避難させているだろうし、地元警察もいまの一課は話がわかる警部がいると聞く。思うところは多々あれど、きっと協力体制を敷いているだろう。
安室が何年か闇へ潜っている間に、この国はずいぶん平和になっていた。
「俺は死んでるようなものだった」
「…安室さん?」
「亡霊ばかり追いかけて、復讐を三度の飯にして。組織の信頼を得るために、コナン君くらいの子供だって殺したよ」
千鶴がそっと工具を床に置く音がした。そのまま膝立ちになる衣擦れの音。
このまま逃げられても文句は言えない。最後はきっとあの少年が大切なんだと、頭のどこかで理解している。
見上げた空には当然ながら星一つない。毎日想像していた自分の死に場所そのものだ。
きみはずっとこんな世界で生きていたんだな。意味のない瞬きをしながら呟くと、きゅっとシャツの裾をつままれる。
「すまない。最後に見たのが拳銃と血の海で、最初に見たものも同じなんて。もっと綺麗な世界を見せてやりたかった、俺が」
「………いいえ、わたしが最初に見たのは、」
海辺の夕日に照らされる、あなたの綺麗なミルクティー色の髪でした。
初めて彼女から降った口付けは、稚拙で短くて的外れもいいところで、おまけに自分の涙で潮の味がした。
「……1番下に4本伸びるコードの上、雷管に繋がる細い2本」
「ありがとう」
本人からは"ありがとう"?
「…あまり自分を安く見ないでくれ」
1kHzの耳障りな電子音が鳴る世界で、手繰り寄せた希望の光に深く感謝と仕置きのキスをした。
fin.
「…おまえはだれだ」
男はサンダルをつっかけると迷わずその両頬を引っ張った。
「痛!」
「なんだ本物か。変われば変わるものだな」
「暴力反対ですよ、赤井さん」
とにかく家へ入れなければ表札にない名字を呼び続けるぞという脅しだろう。
可愛いものだなと思いながら、争う道理もないので背中を抱いて迎え入れる。薬を盛ってからめっきり姿を見せなくなったので、彼女のスリッパは薄く埃を被っていた。マグも洗う必要がある。
跪いて靴を脱がせてやったところで、後頭部を鈍器で殴られるような衝撃が走った。比喩でなく本当に、彼女のボストンバッグが首の骨を折りにきている。
「なんだこの荷物は」
「ご心配なく、武器ではなく本です」
ペンは剣より秀でるとか言い出すんじゃないだろうな、と訝しむ声を出したら、ここに置かせてくださいと千鶴は玄関先へ鞄を放った。ライフルでも落ちたような音がして、床が凹むと困るなと思う。あの大女優はなかなかの気迫がある。
「それで、場所はご存知なのでしょうか」
「何処のかね?まったく話が見えないが」
「いつまでも見得張らないでください。敵に回したくない男の1人なんでしょう?」
「…眠っていたのでは?」
「コナンくんから聞きました」
訊き出した、の言い間違いか、聞き間違いだろう。人間の脳は完璧にできていないから、彼女が自分に対してだけ異様にあたりが強いような気がするのも、きっとなにかの勘違いだ。
「助けるんですか、助けないんですか。男ならバシッと決めるべきでは」
「…きみの周りはわりと決断力に乏しい男が多いようだが」
17歳までフリーでいるのがその証だろうと思うのに、端正な顔が間近に迫ると二の句が次げない。胸が苦しいと思ったら胸倉も掴まれている。
「…場所は特定している。だが時間がよくない。もう少し日が落ちてからでないと」
「手遅れになりませんか?」
この縋るような顔を見るのは2度目だなと思ったところで、最悪の新事実を思い知らされる。
同じ傷を抱えているとは夢にも思わなかった。子供だと甘く見ていたのが敗因か。
ずいぶん長く一緒にいたが、どこのだれに妬けばいいのか見当もつかない。
「…残念ながらそうはならない。あの男は悪運が強いからな」
「では作戦を」
あっさり手を離すなり、少女はすたすたとキッチンへ消えた。
急かしたわりに紅茶のひとつでも入れてくれるつもりだろうが、消え入りそうな後ろ姿を見せつけられたら追いかけずにはいられない。
1人になったら泣くのだろうなと思ったとおり、コンロの前で震える背中は抱き締めても抵抗ひとつできなかった。
「…埠頭ですか」
「嫌いかね?」
因縁めいたものを感じる。そう答えた少女は明らかにこちらを気遣っていた。なにをどこまで知っているのか空恐ろしい。
「でも、耳を澄ませているだけなんて」
「それで確実性が17%上がる。文句はあるまい。通信手段はどうする」
もともと何%の勝率で闘うつもりだったのか、賢い女は訊いてこなかった。しかし僅かに膨らんだ頬が「どうせお得意のフェアトレードでしょう」となじってくる。67%なら大した賭けだろう。
「必要ありません。両耳を使いたいのと、あなたに迷惑はかけられない」
「きみが組織に捕まれば、俺はどのみち別の男に射殺されるがね」
「それは成功しているイメージですね」
いいですね続けましょう、と少女がティーカップの音を立てる。恐怖を興奮で補う、ビギナーにありがちな危ない心情だ。
「着いてくるのは勝手だが、まず彼が捕まっている保証はない。罠ということもあるし、そうでなくともきみが危険になれば俺は迷わずあの男を見捨てるぞ」
「さっきまで病院に、子供たちがいたんです。記憶喪失の女性を、知らない刑事さんが連れて行ったと聞きました」
「…それが?」
「ご自分だったらどうするか、もうお考えになったでしょう」
定時連絡が途絶えたらすぐにそうするよう、部下へ指示をするだろう。
現に赤井もバーボンの居所は知らないがキールの所在は特定している。ジンなら一箇所に固めて共食いさせるに違いないから、安室の素性は謎のまま、降谷零は殉職でTHE END。
「それならきみも、俺がどちらを選ぶか考えたわけだな」
「彼に貼りついていれば、2人とも助けてくださると拝察しました」
それはおそらく嫉妬で男を撃ち抜く、とは言わないでおく。もっと名案を思い付いていたし、それにはいまの時間が惜しかった。
「さて、そろそろ着替えて出る時間だが。ひとつ俺と取引といこうじゃないか」
「…お話できることはありません。一般人には情報が降りてこないって、コナンくんも言ってました」
「価値があるのはなにも情報だけとはかぎらない。FBIに入るなら、もう少し勉強が必要だな」
入りませんよとそっぽを向く女は、もう赤井の言いたいことを察している。
甘い言葉で口説くチャンスも与えないとは、女としてはまだ未熟だな。そう言い切る前に背中がソファーへ沈んだ。
「………っ」
重ねてきただけの稚拙な唇の中心へ、下から力尽くで割って入る。実に良い度胸だ。
左手を当てた丸い後頭部は羞恥心で熱を持ち、ぎゅっと瞑った瞳の隙間にはうっすら涙が滲んでいる。
もういいさ俺の負けだ、と優しく肩を叩いてやれば、力の抜けた薄い身体と赤井のそれは簡単に形勢逆転した。
「いまのでスタンドくらいは組み立てててもいい」
「~~~っ!」
「スコープを覗いて引き金を引くまで、きみの身体が持つといいがね」
あとは時間の都合もあるな、と思い出したように言ってやれば、少女は潤んだ瞳に決意を宿してくたりと全身の力を抜いた。
それがたまらなく男を誘うと、いいかげん気付いたほうがいい。
思ったとおり先に1発キールが撃たれた。
向かいの倉庫は屋上まで延々続く外階段で、少し前ならこんなポイントは絶対に選ばなかった。いまは彼女の位置が良く見える。銃声を聞いて跳ねた肩が、ようやく少し落ち着いてくるところ。
胸を抱えて蹲るくらいなら、最初から関わらないこともできたろうに。
こちらとしても奴らが直前に場所を変えたので中に盗聴器を仕掛ける余裕がなかったが、彼女の耳は余すことなくすべてを拾う。自分たちにとって唯一とも言える今回の報酬だ。
千鶴の細腕が僅かに上がる。それは悪いほうの作戦にスイッチする合図で、赤井は手錠に繋がれた想像上の安室透を振りかぶって殴りつける。やはり落としたか、あの間抜け男。女が一人撃たれたくらいで、だれに重ねてヘマをした。
サイレンサーから飛び出た一撃が、まず彼女の指差す南京錠を打ち抜いた。飛んだ金属片の落下音は想定されるリスクの範囲内だが、千鶴はそれを空中で掠め取る。…掠め取る?
あかいさん、と口の動きだけでこちらを叱る少女の指が天を刺した。この俺を急かすのはきみくらいだとすべて片付いたら言ってやりたい。それよりいまのはなんだ。
窓ガラスを突き破って撃ち抜いた照明が、コンクリートの床に当たって派手に弾ける。扉の開く音にスコープから利き目を外すと、もうドアの手前に彼女はいなかった。
暗闇は専売特許だと言っていたが、実際夕日が差し込む倉庫の中は僅かに明るい。あんまり彼女が急かすので、決行時間を早めたせいだ。
血相を変えたウォッカが飛び出してきて、赤井が踏みつぶしてから投げた缶コーヒーの落下音を頼りにバーボンを追っていく。
残りはジンとベルモットか。どちらにも彼女の顔が割れている。サーモスコープへ切り替えて、次の標的に狙いを定めた。ピッキングクリップを愛しい女に拾ってもらった、馬鹿でどうしようもない警視殿。
「…ほう、」
どうやら窮鼠は猫を噛んだらしい。1分待っても銃声は聞こえないし、そのうちジンとベルモットが出てきてポルシェで消えた。
イヤホンの向こうでジェイムズが、「クールキッドがやってくれたぞ」と手を叩く。こっちの子供はクールと程遠い。
「キュラソーを追って東都水族館に向かいます」
『うむ。きみの協力者も労ってやってくれ』
「そうしたいのは山々ですがね」
積み荷の影でなんの因果かぴったり貼りつくサーモグラフィーの大柄なほうは、当分彼女を解放しそうにない。
「…っんの、バカ!!」
「あああ安室さんまだ盗聴器が残っているかも…」
奴らもかなり直前に場所を変えたようだからその可能性は低いとか、そのだぼついた黒いニットにはどう見ても覚えがあるぞとか、そもそもなんでここにいるなんてことはもうどうだっていい。
「殺されるところだったんだぞ!」
「あぶなかったですね…」
もう黙れ。バスケットボールのように顔を掴んで勢い任せに唇へ噛みつくと、声にならない音を上げて腕の中の少女がじたばた暴れる。
よもやそのくらいで解放してもらえる相手だと思っていたわけではあるまいが、最後の語らいが電話ごしの「すみません」になるところだ。こちらの台詞が「愛してる」なんだから、だれがどう訊いたって振られて終わってる。
「さっききみの暖かい手が触れて、どんな思いをしたと思ってる…」
あれの目的は針金の受け渡しであって熱を伝えたかったのではない。そもそもそういう口調でしたっけとモゴモゴ五月蝿い口をもう一度強引に犯すと、鼻にかかった悲鳴が漏れる。
この下手くそすぎるキスは間違いなく本物だ。KIDやベルモットのふざけた変装ではない。
「………千鶴」
「あ、あの安室さん」
「千鶴、千鶴、千鶴…」
まだ呼吸も整わないうちから呼んだ回数「はい」と応える律義さも彼女らしい。
確信するなり気が抜けて、思わずその場へ座り込んだ。
盲目の女子高生をここへ送り込んだクソFBIには後ほど充分報いてやるとして、いまはひとまず怪我をチェックする。
ウェストから滑り込ませた手で下着のホックを外すと、「そんなところ怪我してるわけないじゃないですか!」と0.1秒で一本背負いを食らった。
警察学校の癖で大人しく投げられてから床が畳でないことに気付き、コンクリにしこたま背骨を打ち付ける。
「は、あああ?」
「あ!す、すみません…」
「………いえ。いまので完全に頭が冷えました。毛利先生の娘さんでしたね」
だからこんな無茶をしたのか。もしかして天使の身体で空手も姉に習っていたり、靴から青光りする稲妻を出したりできるのか。
実際の冷却にはまだ少し時間がかかりそうな思考回路はそこで途切れて、軋む背中を慰めながら起き上がったら、すでに彼女はその場にいなかった。
「あの、大丈夫ですか肩…ごめんなさい間に合わなくて」
「え、ええ、ありがとう」
ほらみろキールも若干引いている。
埠頭の隅に捨て置かれていたRX-7を靴裏のスペアキーで開けて千鶴を押し込んだ。
潮風で車体の下は傷んでいるが走行に支障はない。盗聴器も発信機もないことは2周回って確認した。助手席には好きな女が乗っている。今日のツキなら組織も潰せる。
「なぜこんな真似をしたんです。子供の遊びじゃないんですよ」
「ごめんなさい…」
正直もうほとんど怒りのバロメーターは下がっていたし、喫茶店のウェイターを命がけで助けたりはしないだろうなと思うと表情筋も緩んでくる。一点どうしても許せないことがあるので、あとは全部カモフラだ。
「あのクズ野郎になにを唆されたか知りませんが、あなたは本来足手まといなんです。コナン君だってきっと同じことを言いますよ」
「はい、わかってます」
どうやって赤井のくだりを聴取しようかと考えていたら、なぜか小さな名探偵の名前が出る。おい降谷アタマを冷やせニヤけるなと言い聞かせながら、ハンドルに腕を乗せて顔を守る。今触れられたらひとたまりもない。
「見てのとおり僕はピンピンしてますし、あなたに助けていただかなくても今頃ここで休憩してます」
「はい、見えてます」
「あなたはだれがどう見たって守られる側の人間で………は?」
「園子ちゃんの言うとおり、とっても格好良いんですね」
生きている顔を拝めてよかったと優しく頬へ触れられたら、いよいよ二階級昇進が見えてきた。
半信半疑だった。
実の父が母を撃った銃声が、彼女の視界を閉ざすトリガーになっていたのではないか。
盲学校に通っていないのは7歳まで健常者だった娘の回復を家族が信じているからで、生まれつき全盲だと嘘をつくのは無意識に父を庇っている。
国のデータベースで女性のカルテを漁るのはどうしても気が引けたし、見えなければ見えないでそこも愛しいと思っていたから、全て安室の推測だった。今日までは。
「本当の、本当に、見えているんですね」
「はい」
顔を近づけると照れたように俯く。たしかに一昨日まではなかった可愛い仕草。感動のあまり口数が減ったのを、千鶴は何かまた怒らせたと勘違いしたらしい。
必死に「でもまた見えなくなるかもしれませんね」とかわけのわからないことを言ってくる。この顔だけでも好きになってもらえたなら、ずっと見えたままがいい。
「千鶴さん、僕はいま天にも昇る気持ちです」
「冗談でもそういうこと言わないでください」
「キスをしてもいいですか」
「………だめです」
あらたまって訊くなという意味に都合よく解釈して、事件より一足先にそっと幕を降ろす長い瞼を見つめながら丁寧に唇を重ねる。
触れた先から痺れるような、彼女だけの毒に全身を支配されて泣きたくなるし、一度は諦めた快楽に、少し気を抜けば脳まで溺れてしまう。
舌を入れたら思いっきり噛まれたので、加減は学ぶ必要がありそうだが。
「…それ、けっこうヒントでしたよ」
「え?」
「キスをするときは目を閉じるものだって。あなたの好きな史学書には滅多に書かれないでしょうけど。女の子はませてるから、7歳までに見知っていてもおかしくない」
「っもう!まだここにいていいんですか…?部下のかたは?」
「留まることで組織の裏を掻いてますし、幸運にも車が見つかったので時間は稼げました。女神がついているおかげですね」
「…安全運転でお願いします」
「それでは念願の遊園地と水族館まで、月夜のドライブと行きましょうか」
うっかり部下のくだりを拾い忘れたが、あとで風見にヘコヘコさせれば仕事のできる理想の上司だと思い直してもらえるだろう。
「わたしも、行くんですか?観覧車」
「よくあの赤井にべらべら喋らせましたね。Honey Trapなんて言わないでくださいよ」
「専門用語ですか?」
安室さんって本当に潜入捜査官だったんですね、なんて感心した顔をするから、いま僕が引っ掛かってるこれですなんて言えるはずもない。
「風見はいるか」
「キュラソーとゴンドラに乗りました」
「自分で行ったのか…では指揮はだれが?」
さあ、現場判断は敏腕警視の受け売りですからね。
関係者通路に引っ張り込んだ配下の一人がそう揶揄したので、千鶴には部下にナメられるお飾り上司だと思われたかもしれない。減俸決定だ。
「まずこれを着てください」
調達させた青い作業着を言われるがままに羽織った少女の髪を丁寧に結い上げて帽子の中へ隠してやる。
自分も手早く着替えると、もう一度「わたしも行くんですか」と躊躇いがちに確認された。
「知らないところで命を懸けられるより、このほうがマシだと改心しました。いけませんか?」
「…怒ってるんですね」
「なにがあってもお守りしますという宣誓です。俺はあなたの騎士ですから」
一瞬ぽかんとした少女に、まだ一人称だけ変だと指摘されて、いまそこ重要ですかと溜め息が漏れる。この状況でクスクス笑えるってけっこう凄いぞ。わかっているのかいないのか。
「一気に頂上まで登ります。高い所は平気ですか?」
「見たことないからわかりません」
「ふっ…上等です」
ただ握った手さえ離さなければいいなんて、どうして29年も気付かなかったのだろう。おかげでずいぶん大切なものが両手から零れ落ちて行った。街中の恋人たちはこれを知っててやっているなら相当キレる。
「恋人じゃ、ない、ですよ…!」
「あれ、声に出てました?」
無骨な階段の中ほどですでに息も絶え絶えの少女をひょいと抱え上げる。体力0は折り紙付き。最初からこのくらい読んでいる。
おそらく強風で手摺もないうえ床が動く屋外へ連れ出すのはさすがに気が引けて、一つ手前の踊り場で階段へ座らせた。待機のハンドサインを出してから、さすがに伝わらないかと耳元へ口を寄せる。誰だか知らないが、上から先客の足音がしていた。
「いいですか千鶴さん。"自分は公安だ"と名乗る人間が迎えに来たら、"安室透の本名は?"とでも訊ねてください。相手が答えられたら着いて行ってかまいません。そして正解は"降」
「ストップ安室さん。そういうことは、もっとちゃんとしたときに知りたいです。帰ってきてから教えてください」
「………最高の申し出だ」
口調と声音が180度逆転した愛しい音の波を鼓膜へ焼き付け、慣れない運動で疲れ切った細腰を抱いて、唇の端を掠めるようにキスをする。
こんな適当なのが最後の儀式になるわけがないと思えることが安室にとっては重要だった。
思った通りの風速で、外へ出た瞬間に帽子は前方へ吹き飛んだ。その先にいた男の姿に、背筋が粟立つような興奮を覚えて上着も脱ぎ捨てる。
ここで逢ったが百年目、今日こそかならず逃がしはしない。
「来たな、赤井秀一…」
「どうやら上手く逃げ切ったようだな」
「あれがあなたの仕業なら、どうせここへ来ると踏んでましたけど。まさか彼女を迎えに来たとか抜かしませんよね」
「やはり連れてきたのか。あれもよくよく馬鹿が好きらしい」
呆れたような赤井の視線が一瞬安室の背後を辿った。見知った幹部の中へ置き去りにして、心残りがないはずはない。
「訊かせてくれませんか。僕たちを助けた了見を。彼女を危険に晒さなくても、奴らの情報は得られたはずですよね」
「…いいのか?多分きみが一番知りたくないと思うがね。それともわざわざこんなところまで、お喋りに来たのかな」
知りたくないことならすでにさんざん知ってきた。
毛利千鶴がいかに普通の女子高生で、人間としても女としても絶望的なほど危機管理能力に欠け、潜入捜査中の恋人にはこの上なく向かない相手だと言うことも。
それにたぶん彼女の仄かな好意より、自分の溜め込んだ愛情のほうが何百万倍も重くて、今後もずっとそれが千鶴を苦しめるだろうことも。
ベルツリー急行で負わせた火傷の跡が、いまもまだ引き攣れたように10本の指へ薄く残っていることも。
「FBIに手を引けと言いに来たんですよ。千鶴からも、キュラソーからもね」
「キスした程度で恋人面か。きみも若いな安室くん」
「ッおまえ、…ッ」
嫌な想像が脳内を駆け巡って、そのまま右ストレートを繰り出していた。利き手でそれを受け流し、赤井秀一は素早く一歩跳び退る。
逃げる気か、と一歩足を踏み出せば、その体重移動を逆手に取られ急速に背後へ回り込まれた。膝を屈めて襲撃を交わす。
「貴様は千鶴に、なにをした…ッ」
「本人からは"ありがとう"と言われたがね。言ったはずだぞ安室くん、刈るべき相手を見誤るなと」
まあ今は見誤っていないようだがな、と溝色の瞳が薄ら笑いを浮かべた気がして、反吐が出るどころか目の前がチカチカするほど腹が立つ。千鶴はなにも言わなかった。言えなかったんじゃないか。色仕掛けどころではなく、もっと強引に嬲られて。
「必ずおまえを殺してやる!!」
「それで彼女が泣いて喜ぶと思うなら、どうぞご勝手に」
鉄パイプに叩き付けた頭はびくりともしなかった。胸糞悪いニット帽が邪魔だ。背中のライフルバッグも、まず降ろさせないとぶちのめした気になれそうもない。ハンデ背負ってても勝てると言いたいのか、この下衆は。
「おまえが公安へ楠田陸道の銃を渡してきた日、千鶴はどこにいた!」
「あれか。しおらしく泣いて引き留めるのでね、悪いが薬で眠ってもらったよ。結果的にはきみのすぐそばにいたんじゃないか?…ああ、気付かなかったんだな」
「クソ野郎ッ!」
赤井の懐で携帯が光った。一瞬の隙をつき、最悪心中してやるくらいの心境で二重観覧車の合間へ叩きつける。
2階程度の高さから落ちて、たぶん肋骨が1本逝った。あの背負い投げは手加減されていたのかもしれない。この男を殺せるくらいの技を彼女に授けてやろうか。
千鶴が赤井を嫌っていないことは知っている。自分と同じように憎んでほしいとも思わない。
だがこいつは、黒に染まった側の人間だ。自分が駄目で、赤井に許されることがあるのは絶対に認めない。
「さぁ第2ラウンドと行きましょうよ」
久々に気持ち良く決まった一撃が、赤井の顎にヒビを入れた。まだ全然足りない。このまま第3の顔を作ってやる。
「赤井さーん!そこにいるんでしょう!?大変なんだ、力を貸してッ」
劈くような子供の声が、下から突き上げるように赤井を呼んだ。どいつもこいつもFBIを頼るばかり。こいつらが日本のためになにかしてくれたことがあったかと聞きたい。
「奴ら、キュラソーの奪還に失敗したら、爆弾でこの観覧車ごと全てを吹き飛ばすつもりだよ!」
睨み合ったままの赤井が無言のまま小さく首を振る。
「奴らが仕掛けてくる前に、爆弾を解除しておかないと大変なことに…!」
一時休戦のボディランゲージだかナンセンスだぞの合図だかなんだか知らないが、観覧車ごとというのはいただけない。ここには。
「本当か、コナン君」
「安室さん、どうやってここに?!」
「その説明はあとだ!それよりも爆弾はどこに」
まだ信じきってはいない。この賢い坊やなら、大人の喧嘩を止めるための口先八丁はお手の物だろう。
「車軸とホイールの間に、無数に仕掛けられてる。遠隔操作でいつ爆発するかわからないんだ!一刻も早く解除しないとっ」
解除しないと、どうなるか。だれにでもわかることを無意味に説明するから、逆にリアリティが感じられて赤井を振り向いた。今度は偉そうに小さく頷いている。
まるで自分だけが子ども扱いされているような状況はたまらなく不快で、反対側の踊り場から感じる少女の視線も心なしか非難を含んでいた。
「…わかった、FBIとすぐに行く!」
これであなたも満足でしょう。そのかわり、観覧車を出たら覚えていてくださいよ。
消火栓の裏に設置された起爆装置の解除を始めてからも、千鶴の視線はずっと同じ場所から安室を見下ろしていた。
公安以外に着いて行くなとは言ったが、迎えに来るなとは言っていない。赤井が怖くて近寄れないなら気の毒だし、これを解除できないような男だとは1ミリも思わないのなら素直に嬉しい。
応援するような視線が心地良いのでしばらくそのままにしていると、不意に別の可能性へ行き当たった。
「…なぁコナン君。千鶴はもしかして組織よりFBIより、きみが怖いってことはないかな」
「アレレ?どうして急に呼び捨てになってるの?」
ボク子供だからよくわかんないけどそんなの許してないよね、とでも言わんばかりの殺気を放つ少年は、言葉より雄弁に正解を物語っていた。
「このローター音はどこから聞こえる」
安室が解体作業に集中し始めるタイミングを見計らって、赤井秀一は1人の少女を誘拐した。
観覧車の頂上へ連れ出すなり彼女の帽子が飛んで、色素の薄い髪が風に遊ばれる。
揃いの格好というのはなかなか面白くないが、中に着ているタートルネックのニットは脱ぐに脱げなかったのだろうと心中でほくそ笑む。さらに面白いことに、あの男はまだ気付いていない。
「…赤井さんから向かって11時半、38メートルくらい上空だと思います…」
「OK.上出来だ」
それだけ言うと少女が青い顔でぺたんと座り込むので、ああやはり見えているのだなと確信を抱く。聴力も健在でよかった。
「あとは戻っていい。ボウヤに知られたら事だろう?」
「…恐ろしいことを」
家族になんと言って自分の元へ来たのか、想像すると少し笑えた。沖矢昴はしばらく手放せそうにない。現状おそらく安室透より、よほど彼女の親族に信頼されている。
這いずるように下へ戻っていく少女を最後まで見送って、言われた通りの方向へライフルを向ける。
高さも位置もドンピシャだが、なにぶん目標は巨大な鉄の要塞だった。オスプレイの改良種を準備していたとは。地対空ミサイルでもなければアレは撃ち落とせない。
「どこかにウィークポイントがあるはずだ」
こっちのそれは高さと風に相当怯えていたから、自分で安全な場所を見つけるだろう。いまのところ運はこちらに味方している。
しかし不意に破裂音が風に乗って届き、周囲300メートルが完全な闇に染まった。
「…停電か」
あの腑抜けた爆処理担当は、果たしてライトなど持ち合わせているだろうか。
さっきまで監禁されていたのだから携帯すら持っていない。
やたら便利な時計の少年はNOCリストを取り戻すとか言ってお得意の自由行動へ出て久しい。
現場判断は災厄を招くこともあると部下たちに教え直す必要がありそうだ。
「くそ…っ、もう少しだというのに」
こう暗くては作業を続けるのも逆に危険か。いっそ起爆装置も落ちてくれればいいのに、もちろん最新の72時間駆動バッテリー付き。
こうなったらもう雷管も電線も、肉弾戦の後で痺れた両手の感触を頼りに辿るしか術がない。そういう訓練もしておけばよかった。
「あの、安室さん」
うおぁ、と思わず声が出て、のけぞる身体を背後から支えられ、非常に情けない恰好になっている。暗闇なのがせめてもの救い。
「配線、もう頭の中に入ってますか」
「…ふっ、だれに訊いているんですか」
「指示をください。さっき赤井さんに褒められて、どうも罪悪感が…」
少しは俺の恋人らしくなってきたじゃないか、とは口に出さないでおく。
また少し目を離した隙にFBIに手を貸したというのは取調事項が一つ増えたが、襟足に息がかかるほどの距離に胸が詰まるし、なにより絶対の信頼を寄せられていると確信する。
「…失敗したら、一緒に死ぬことになりますよ」
それもいいかもしれないな、なんて思っていただけに、暗闇で的確に頬を抓られたのには驚いた。ちなみにそこはさっき赤井に殴られて歯が折れている。
「しませんよ、あなたに従いますから」
こういう部下が1人は欲しい。さっきまで壊滅的だと思っていたことなどすっぽり頭から抜け落ちて、風見に彼女の爪の垢を煎じて飲ませる方法を模索しながら最初の指示を出した。
パチン、パチンと爪を切るような音が続く。千鶴は安室の示した通り、寸分の疑いもなくニッパーを握っているらしい。
「千鶴さん」
「はい」
「赤井になにをされたんです」
「………なにも、」
是が非でもすべて片付くまで確信に触れる話題は避けるつもりか。
こっちだって電話の告白じゃ物足りなくてうずうずしているのに、三角座りの女子高生はどうしてこうも頑固なんだ。
「本当に?じゃあどうしてアイツは、敵である俺を助けたりしたんだ」
「安室さんまた口調変わってます。それからできれば次の指示を」
ローター音がかなり近い。もうキュラソーを回収するところだろう。
小学生とFBIに任せてはみたが、アレが組織の手に渡ればどのみち降谷零は今日か明日が命日だ。勿体付けられる所以はない。
「心配しなくてもあと2つだ。答えてからでも遅くない」
「何万人人質に取るつもりですか…」
大袈裟だとくつくつ笑って手摺に背を預ける。くだらない喧嘩のせいでどこもかしこもボロボロだ。膝を抱えると肋骨が痛むし、一昨日から一睡もしていない。
あくまで教える気のない安室に痺れを切らし、逆に適当な配線を切りますよと脅してくることも考えた。べつにそれでもかまわない。
一般市民は部下たちが避難させているだろうし、地元警察もいまの一課は話がわかる警部がいると聞く。思うところは多々あれど、きっと協力体制を敷いているだろう。
安室が何年か闇へ潜っている間に、この国はずいぶん平和になっていた。
「俺は死んでるようなものだった」
「…安室さん?」
「亡霊ばかり追いかけて、復讐を三度の飯にして。組織の信頼を得るために、コナン君くらいの子供だって殺したよ」
千鶴がそっと工具を床に置く音がした。そのまま膝立ちになる衣擦れの音。
このまま逃げられても文句は言えない。最後はきっとあの少年が大切なんだと、頭のどこかで理解している。
見上げた空には当然ながら星一つない。毎日想像していた自分の死に場所そのものだ。
きみはずっとこんな世界で生きていたんだな。意味のない瞬きをしながら呟くと、きゅっとシャツの裾をつままれる。
「すまない。最後に見たのが拳銃と血の海で、最初に見たものも同じなんて。もっと綺麗な世界を見せてやりたかった、俺が」
「………いいえ、わたしが最初に見たのは、」
海辺の夕日に照らされる、あなたの綺麗なミルクティー色の髪でした。
初めて彼女から降った口付けは、稚拙で短くて的外れもいいところで、おまけに自分の涙で潮の味がした。
「……1番下に4本伸びるコードの上、雷管に繋がる細い2本」
「ありがとう」
本人からは"ありがとう"?
「…あまり自分を安く見ないでくれ」
1kHzの耳障りな電子音が鳴る世界で、手繰り寄せた希望の光に深く感謝と仕置きのキスをした。
fin.