やすまるの人生の履歴書

こんにちは!やすまること、冨宅 康幸(ふけ やすゆき)です。
2022年9月、富山県の上市町で家をもらって家族で移住、テレビや新聞、各メディアに取り上げられました。
その後の2025年1月、突然嫁が子どもを連れて出ていきました

楽しかったあの頃に受けた取材は、もはやデジタルタトゥーのごとく残り、
それならばと開き直って半生を綴ります。

~幼少期~

1991年1月17日、兵庫県尼崎市の病院で生まれる。父30歳(※)母22歳。
当時親が住んでいたのは大阪府箕面市だけど、出生届は大阪府豊中市で出されていた。
ちょうど4年後の誕生日に受ける阪神淡路大震災は、箕面市でくらう。
朝早くからなぜか起きてて、ホットミルクを飲んでいたところ、タンスの上から落ちてきたぬいぐるみが直撃してミルクがこぼれ、泣いていた。
(※当時聞かされていた年齢。あとで変わります。)

96年に弟が生まれる。そのころには豊中市に住んでいて、いつの間にか引っ越していたが、ボロアパートから小ぎれいなマンションに変わった。
00年にはもう1人弟が増え、3人兄弟に。
でも、実は3人とも一緒に住んでたことがほとんどなく、そのあたりも複雑な家庭事情があるのだが、自身が小さかったこともあり、詳細を把握していないのと話が逸れまくるので割愛。

地元の小学校に通うも、たびたび問題を起こし、担任になったことない先生にも認知される程度に有名人。
いわゆるヤンキーとも違い、万引き自慢している同級生から盗品をパクるような姑息なタイプだった。
4年生くらいから塾に通っていて、学年2クラス80人程度の中ではトップクラスの成績を誇るも、こんな奴らと同じ中学には通うものかと受けた国立中学は落ち、近所の私立中学へ通い始める。当時は無名だったが、今では有名な甲子園強豪校・・・の、中等部。

~中学生時代~

以前から夫婦喧嘩の絶えなかった我が家。物にあたるタイプの父親で、ひどいときは弟をかくまいながら机の下に隠れてた。
結局、俺が中学進学のあたりで離婚確定。
離婚のタイミングで同じ市内で引っ越し、なぜか母親の彼氏との同居も始まる。当時は父親の金銭トラブルを理由に離婚したと聞かされ続けていたけど、数年ほど前に父親に当時のこと聞いたら不倫だったらしい。なるほど。

母親は父親に色々騙されたと話していて、金の話もそうだし、結婚後まで名前の読み方(康幸を”やすゆき”ではなく、”こうこう”みたいな感じ)も違い、年齢も干支一回り違っていたらしい。実際は20個上。なんやそれ。

小学校では優秀だった俺も、中学に上がって勉強が遅れてくる。
成績順でクラス分けされていて、公立と違って周りも先生も意識が違い、だんだん焦りを覚えた俺は、2年に上がっても落ちこぼれクラスになるのを恐れ、辞めたいと申し出る。1年生2学期末で中退。母子家庭で経済的事情って言えばそりゃ簡単に辞められるよね。

公立中学に移った俺は、引越しして校区が変わっていたので、小学生の知り合いはそもそもあまりいなかった。
だけどなかなか荒れていた学校で、新任の女性の先生が授業中、他の生徒が話し続けるだけでなく、先生めがけてゴミは飛んでいくわ、着ていた白衣に落書きされる始末。
泣き出して教室を飛び出し、職員室へ行った先生を、連れ戻しに行く女の子ら。お前らさっきまで、話聞かずにしゃべってたくせに。
そもそも職務放棄するような先生辞めちまえ、代わりの先生連れてこいよって思ってた。
そんな荒れた学校、先の見えない漠然とした将来の不安から、3年の中頃から不登校に。ひきこもろうともしたけど、体力は余っていたので、普通に3日で挫折。外に出かけて遊んでた。そのころからインターネットを覚えて、大阪日本橋で、違法コピーDVDの露店を横目に、PCパーツやアニメグッズ漁ってた。

いじめられても、俺は助けないぞ!自分の力で立ち向かわないといけないんだ!さぁ学校へ来い!なんて言う頭のおかしい担任がたまに家にくるけど、無視してその後は一切登校しなかった。その嫌がらせなのか知らないけど、卒業証書は学校に来ないと渡せないとか言い出して、渋々行ったら、校長室で学年の担当教諭全員でプチ卒業式開催。なかなか辛かった。

~高校生時代~

不登校かつ勉強もろくにしてなかったので、なんとなく受けてみた商業高校は不合格。面接のみの通信制の高校へ通い始める。
大学に近い感じで、基本はレポート提出、出席は最も多くて年間12時間。

暇を持て余すので、15歳のうちからアルバイトを始める。某ハンバーガー屋のキッチン。時給がいいからと、早朝のオープンから昼のパートさんへの引継ぎまでの4時間ほど。
6時出勤でもたびたび鍵持ってる先輩が遅刻するので、寝てる店長に電話して叩き起こすくらいにマジメ。遅刻扱いされても嫌だしね。

早生まれなので、16歳になるのが1月。家にあった100ccのバイク乗るために免許を取りに行く、15の夜。50ccは逆にダメって怒られた。危ないもんね。

誕生日に合わせて教習を終わらせ、無事に免許取得。
母親が普段バイク移動してて、新しいバイクに買い替えたので、お下がりにもらったアドレスV100。車は昔から好きで、バイクは興味なかったけど、教習で好きになったCB400。いつかは乗りたいと思いながら、原付に毛が生えた程度のバイクであちこち移動する。通学も。校則は校内禁煙しかないし。

バイクの楽しさを知りだしたら、仕事も変えたくなり、ピザの宅配のバイトを始める。振り返ると人生で一番長く勤めたんじゃないかな。4年くらい。

それである程度お金がたまり、250ccのバイクを買い足す。ホーネット。

あちこち行きたい、せっかくなら誰かと。。。でも、友達いない。
そこで2ちゃんねるのオフ会に参加。毎夜のように集まってる。なんやこの人ら、無職なんかな?って思ってたけど、自分も大概だった。
門限は0時って言われてたけど、日付が変わったら次の門限までまだ時間余裕あるだろってガン無視してたので、朝帰りもしょっちゅう。おっさんらとツーリングしてただけだけど。

遊び方を知ってるおっさんらと一緒にいるのは楽しく、燃料代も飯代も払える程度には小遣いあったし、ひたすら遊びまわってた。ドラレコ普及してたら問題のある走り方ばっかりしてた。
そのうち風圧に耐えかねて乗り換えた。92年式のCBR250RR。よく死ななかったなって思うような運転もたくさんしたし、目の前や、後方から来る車両が真っ赤に光っていることもあった。でも、人生で一度だけ30日の免許停止(講習受けて1日)くらっただけで済んでる。

晴れたら遊びに行き、雨が降ったら出かけるのが嫌。そんな生活してたら学校もあまり行かず、例の出席時間数(最大12時間)が足りず、留年という制度がないので進級。結局4年間通った。

~大学生時代~

高校卒業後の進路、どうしようか悩みながらも、公務員試験を手当たり次第に受けた。市や府の職員。どれも1次試験は無事に合格するも、面接で全部落ちる。コミュ障だからね。

でも民間行くなら、大卒のほうがいいだろうと私立大学受験。ギリギリEランクレベル。無事に合格。
年上や小さな子どもとのコミュニケーションはできても、年齢の近い相手ってのが慣れなかったので、なんとか友人を作るのを目標にしてた。結論から言うと今も付き合いのある友人がいるので、目的は達せられた。

専攻は経済学で、勉強自体は楽しかったし、サークルみたいな部活動(部なので予算が出る)で学生生活自体は順風満帆だった。

2回生(※2年生)の時、例の母親の彼氏とバチバチに揉めた。この世から消してやりたいくらい。母親の10個上、酒もたばこもパチンコもする、派遣社員で金もないデブと、男として魅力は感じない。父親面はしてこないけど、狭い家で顔を見るのも鬱陶しい。

大学入ってからバイトもガソリンスタンドへ変え、プライベートでも仲良くしていた当時の店長に相談。その時に言われて納得したのが、「経済面で支えることはできても、母親も1人の女。”男”にはなれないだろ?」と。
マザコンでもないし、何とかしてアイツを追い出したいと思っていた俺は方針を変え、自分が家を出ていくことにした。
家を出るとなると生活費がかさむし、大学を辞め、就職のために動き始めた。一刻も早く出たかったので、一時的に店長宅に居候もさせてもらった。

そのころに母親の実家のある沖縄に行くことがあって、そこで祖母と母親と姉(叔母)の3人の前で、中退して家を出ていく宣言をした。
普通はそこで経緯を聞いてくれるもんだと思ってたら、なぜか苦労して2人を産んだという祖母の話が始まり、3人が涙していた。俺も話が嚙み合わなさ過ぎて泣けてくる。

~会社員時代①~

高校は4年間、大学は2年中退。学歴も職歴もない俺は、なかなか採用してもらえない。
今思えば、ガソリンスタンドのバイトを続けて、正社員登用目指してもよかった気がするんだけど、なぜか1人で生きていくなら正社員でないとダメだって意識で必死に就活する。

そして、なんとか採用にこぎ着けたレッカー屋は合わずに1ヶ月で辞める。
その後、再び採用されたのが電気工事の会社。社長は中国人だった。
主にパチンコ店の防犯カメラや音響の取り付け。4年間は掃除しかさせてもらえなかったらしい社長の方針のもと、なんでもさせてはくれたので、未経験でも経験は積めた。無資格だったけど。
9時-17時なんて言ってたけど、初日の出勤は23時。休みもバラバラ。
1ヶ月ほど経って、やってられるか!って言ったら、給料が17万から25万に上がる。それならいいかと、とりあえず頑張った。

半年ほど経つと、職長扱いで現場を任される。ベテランだけど目が悪くてLANの配線間違える電工、この道25年と言いながらあれもこれもできない電工、中国人留学生の3人とともに、毎朝大阪から和歌山まで通った。
日本語も英語も通じない留学生が勝手に天井裏までついてきて、ボードぶち抜いて現場監督に怒られたりしながらも、工期を引っ張り倒してなんとか終わった気がする。

年に1度あるかないかと言われた27時間勤務(朝から夕方まで現場行って、そのあと晩から朝まで別現場。実働24時間。)が月1くらいであるし、突然泊まり込みの出張行かされて、晩飯代として1000円もらえるだけだし、3mの脚立の天板に立って作業してた時に眠すぎてふらついてこけそうになるし、死ぬ前にやめようってなって、1年ほどで退職。

~会社員時代②~

しばらくバイトで食いつないだ後、コミュ力を鍛えるきっかけにもなるかと思って営業職へ。
リサイクルショップの買取営業とかかれた求人。採用されて初日、軽バンの横に乗って個人宅へ向かうのに同行する。

気弱そうなおばあちゃんが、玄関でお出迎え。どうみても値段がつかなそうな中古家電が置いてある。上司はそれをみて、「これじゃあ値段つかないので、他になんか買わせてください。指輪とかネックレスとかないですか。」と。
そんなものはない、いやいやなんかあるでしょと押し問答。
そうこうしているうちに、娘だか嫁さんだかが出てきて、「うちは何もありません!お引き取りください!!」ときっぱり断られた。
すると上司は、「ほな、結構ですわ!!!」とめちゃくちゃ大声で、引き戸が壊れるかと思う勢いで開けて出ていく。
やべえぞこの会社。こんなんが許されるのか。面白そうじゃん。

試用期間は3ヶ月、その間は一切ノルマ達成ならずで、事務所でめちゃくちゃ詰められた。でも、開き直って頑張るうちに、4ヶ月目からノルマを達成し、なんだかんだ2年くらい続いた。ノルマ達しないと、長時間勤務なのに手取り20もないからすぐやめようと思っていたのにね。向いてたのかもしれない。

世間でいう”押し買い”の仕事、今までのやり方がどんどん法改正で違法になっていくような仕事が、長く続けられるわけなかったし、将来子供ができたときに言えない仕事だとも思っていたので、ちょうどいい時期に辞められた気がする。

~無職時代~

その後どうするかなーって思いつつも、月50以上稼いでいたので、多少の
余裕はあった。(こういう稼ぎ方すると全然貯まらないというか、無駄に使わされて余裕は多少しかなかった。。。)

少し遡って大学生の頃、バイクで事故をした。
わき道から飛び出してきたクラウンの脇腹にずどん。9:1で向こうが悪いとなって、せっせと通院していた分の保険金がおり、まとまったお金で車を買っていた。でも、首や腰の違和感は今でも残るので、よかったのかと言われるとわからない。初期型のアテンザスポーツ、見た目はセダンのハッチバック。いい車だった。

その車に乗って、車中泊をしながら九州旅行に行くことした。
期限を決めずに行った旅行はめちゃくちゃ楽しかった。各県でのご当地料理を楽しみながら、温泉を回っていく。最高だった。
いつまでに帰らないといけないといった制約がなく、好き勝手動けるのはめちゃくちゃ楽しくて、永遠に続けばいいのにって思いながらも、結局2週間くらいで帰ってきた。結構飽き性なもんで。

~会社員?時代①~

帰ってきたら当然現実が待っているわけで、次の仕事どうしようかなんて考えてたら、前職で先に辞めてた同僚から、関東で家電の配送業立ち上げようと思ってるけど一緒にやらないかとのお誘い。

25年間住んでいた地元を離れ、新天地で働くのも悪くないかと思い、千葉へ引っ越し。その後は配送拠点近くの江戸川区へ引っ越したけどね。

まずは元請け会社でアルバイト入社。冷蔵庫やら洗濯機やらをガンガン運ぶ。狭い住宅街を2tロングのトラックで駆け回る。免許的な制約もあるのでパワーゲートはついていない。ドラムの洗濯機は100kgくらいあるけど、1人で手積み手卸し。まーきつい。
最終的には140kgくらいの冷蔵庫も1人で降ろせるようになっていたけど、腰は死んだ。今もコルセットが手放せない生活が続いてる。

きつい体力仕事、話で聞いてた数字はよかったものの、ふたを開けたら1台の売り上げが月100万程度。そこから2人分の給料払い、経費引いたらいくら残るんだって話で、雇った人もすぐ辞めていくし、結局うまく回らず廃業。

途中で相方が交通事故にあって肩が上がらなくなってから、1人でほとんどこなしてたけど、休みなんてまずなかった。週1日は現場に出ずに書類仕事。無駄に多いけど、それをしないと売り上げにならないし、単価交渉もできないもんだから何も改善されることはなかった。2年ほどで消えた。

~会社員?時代②~

肩が上がらなくなり、まともに現場に出ることができなくなった相方は、地元に帰ったり、他の仕事を捜し歩いてた。らしい。

なぜか岡山県の自動車解体屋の経営者が、高齢で後継ぎを探してるという話を持ってきた。車が好きなのと、スクラップ屋は儲かるけど許認可が難しいと思っていた俺は、次の仕事にと喜んで受けた。

働き始めると、ま、こういう仕事してる人って偏屈が多いもんで、めちゃくちゃ理不尽に怒られた。基本はそこの主人と奥さん、従業員2人で回していたんだけど、主人と奥さんの話が真逆で、言われた通りしてると怒られる。

お前は何もできないな!整備できるって言ってたじゃないか!って言われたけど、自分の車のオイル交換やったりしてますって言っただけで、レクサスにセンチュリーのセルモーターつけろって言われてもよくわからんよ。。。

無資格どうこうじゃなく、普通に違法なやり方を強要するし、現場猫案件多すぎる中、必死で耐えてた。時給1000円のアルバイトとして。

~独身時代①~

手取り20万も無いようなアルバイト。土曜日は普通に仕事で、休みは日祝のみ。メンタルやられまくってもストレス発散するほどのお金もない。
そこで副業として物販を始める。主に中華サイトで買った商品の転売。

それなりに成果はあって、月10万くらいの収入は出てた。より稼げるようにと怪しげなセミナーに参加したり、情報商材買ってみたものの、自分よりもレベルの低い話しかなかった。残念。

そんな中、SNSで見かけた仮想通貨なるもの。当時ビットコインが150万円くらいだった気がする。リップルが次に来るといわれ、20万円分買うと、一気に100万円まで上がった。
調子に乗って次はもっと買うぞと、カードローンの枠もすべてぶちこみ、情弱な俺はそのSNSで話題のコインを買った。おとなしくBTCにしておけばよかったのにね。

最終的に200万円くらいの赤字。つまりは借金が残った。

~独身時代②~

仕事はなかなか成果が出ず、終わりの見えない中、耐えしのぐ日々、借金も抱えてしまった。何も遊び歩いたわけでもなかったのに。

それとは別に、今後のために顔は広げたほうがいいだろうと、色んなオフ会にも参加していた。ある人に岡山で車好きのオフ会を作ろうといわれ、立ち上げることにした。はじめは少しずつ、変なのが来ないようにするべきだと言っていたものの、その人の暴走により手当たり次第に人数が増え、40人くらいの規模になる。もはや収拾がつかないレベルだった。

結局グループ内で、年齢層別に分かれだし、揉め事が増えて解散する羽目になるんだけど、その中にバツイチ子持ちの同い年の女性がいた。
何度か一緒に遊ぶことはあっても、2人キリで会うことはなかった。

その女性、トラブル体質なのか知らないけど、元カレか仕事(夜職)関係か忘れたけど、ストーカーまがいなことをされて困っていると、夜に泣きながら俺のところに電話がくる。
まぁ、他に頼る人がいないからこっちに連絡きたなら、仕方ないかと思いながら、迎えに行って話を聞いた。その後、子どもと2人まとめて我が家で泊めることに。もちろん、その晩は手を出していません。紳士なので。

~結婚生活①~

お察しの人もいると思うけど、先に言うと、その人がのちの嫁。
元旦那のDVを受けて岡山に逃げてきて、昼も夜も働いて子どもを育てながら借金を返していた。
第一印象は明るくサバサバした感じで、話しやすい人だった。
なぜかオフ会の時に近くにいること多いなって思ってたら、元々好意があったらしい。別に悪い気はしてなかった。

独り身のくせに2DKの平屋に住んでたので、転がり込まれても受け入れるキャパがあった。なんとなくの流れでそのまま付き合うことになり、今思うとこの時点から、ずっと2人は一緒に住んでた。

そのころ、仕事のほうはストレスがピークに達していて、夜中に何度も目が覚めて、冷蔵庫の中を漁っては飲み食いすることが多かった。
明らかに異常だと言われたのと、寄り添える人ができたことにより、もう諦めてやめることを決意。なかば逃げるように辞めた。

当時2人とも別々で家を借りていたので、どうせ同居してるならと思い切って結婚。隣町に引っ越した。付き合い始めて半年ぐらいだった。

~結婚生活②~

新たな生活の始まり。とはいえ、いきなりの小学1年生の子持ちのパパ。
なんなら2人とも借金抱えてるし、前途多難なスタートを切る。

単価のいい大型ダンプのバイトを見つけ、とりあえず始めてみた。
待遇もよく、正社員のオファーもあったが、ダンプがない日は土方の手元作業と言われ、難色を示して他の運送屋を探した。

新しい会社は、基本的には製鉄所内のダンプ仕事。
色々な仕事があって単価が異なり、勝手に割り振られるのだが、子どものためにと、土日休みを希望してるといい仕事は回ってこない。
それでも生活費のため必死に働き続ける。

嫁のほうは家具工場で働いていたが、機械で指を詰めた。労災。
見た目は問題ないものの、神経が潰れるという結果に。左手の半分がまともに動かなくなる。

さらには新しく住んだ戸建て賃貸のトラブル。
詳細は公表しないのが示談の条件なので、詳しくはかけないけど、めちゃくちゃ揉めたし、疲れた。結果として引っ越し費用くらいはお金もらえた。

正直岡山県に留まる理由がなかったし、岡山県民にもいい思い出がなく、2人とも関西人なので、関西戻ろうかって話になり、俺の仕事が決まった京都へ。(といっても奈良市の隣町。京都感はまったくなかった。)

~結婚生活③~

わざわざ遠方から面接を受けて、決まった仕事。
引っ越しが落ち着いて、いざ働き始めたら無茶苦茶な内容で初日で辞めた。

続いて始めたトレーラーで鉄筋運ぶ仕事も、自分の運転の下手さを実感して辛くなり辞める。落ち着いたのは、キャリアカーで車運ぶ仕事だった。

嫁のほうは、スクラップ屋での事務仕事を始めていた。
まぁ、職場的にガラの悪い人が多いもので、”先輩が”パワハラを受けてて、横で罵倒されているのを聞いてた嫁のメンタルがやられていく。
だんだんと嫁の様子がおかしくなってくるも、俺自身も忙しかったので、「しんどかったら休みよー。1日2日休んでも大丈夫だから。」くらいしか言ってなかった。

ある日の朝、突然嫁が泣き崩れて、まともな応対ができなくなった。

慌てて仕事を休み、近所のクリニックに行くと門前払い。その場で大きい病院への紹介状を渡された。うつ病だった。
当時はコロナ禍で、待合室に人が間隔をあけてまばらにしかいないのに、この場にはいられないと騒ぐ嫁。医者には即入院を勧められるも、まだ子どもも小さく、一人になりたくないと泣き喚く嫁。仕方がないので処方箋を受け取って、連れて帰ることにした。そこから1ヶ月、状況はほとんど変わらずになかなかキツイ日々が続いた。

毎日働いて帰ってきて、家事をすべてこなす日々。がんばってはいるものの、嫁の収入がなくなった分、どんどん家計は苦しくなる。かといってバイトでもして、土日も全部働けるかというと、何も動けない嫁と低学年の子どもを置いて行くのは厳しい。

それでも、2ヶ月くらい経ったら、徐々に嫁の症状がマシにはなってくる。
それで張りつめていた気が抜けてきたのか、今度は自分がうつ病に。
とはいえ、嫁ほどの症状ではなかったので、なんとか仕事を休みながら今後のことを考える。
どんどん目減りしていく貯金、やはり毎月の家賃負担は大きい。
田舎で安い家(100万円前後くらい)を買い、DIYでもしながら暮らしたい。
そう思いながら家探しするも、なかなかいい物件はなかった。

~移住生活①~

俺自身がうつになる少し前、富山のどこかが0円空き家バンクなるものを始めたとか言ってるニュースを見かけていた。
0円で家をくれるなんて、よっぽど辺鄙な場所なのだろうと思いながらも、価格のインパクトは大きい。たまにチェックしていた。

するとある日、新しい物件が登録されている。
ためしに電話してみると、担当者から「内覧会があるから〇日に来てくれ」と言われる。ド平日に、そんな遠いところにいきなり来いというのか。。。
あれ、2人とも仕事休んでるし、支障ないか。遊びがてら行ってみよう。このー。。。う、うえし?よくわからんけど。上市とか言うところへ。

富山県自体、遊びにも行ったことのない場所。でも、行ってみたらそこまで田舎過ぎて困りそうな場所ということもなく、子どもは歩いて学校へ通える。今まで見てきた格安物件と違ってそのまま住めそうな状態。なんせ、やたらでかい9DKの古民家。2階建ての納屋付き。

めっちゃええやん!って3人で話しながら内覧会は終わる。
抽選とかではなく、元の所有者の気持ち次第で決まるとのことだったが、ご縁をいただけたので、急いで引っ越しの準備した。

同じくらいの時期に、嫁の労災の件で後遺障害の補償としてまとまったお金が入ってくる。
家をもらっても、贈与税や登記費用、引っ越し費用など色々なお金が必要だったので、渡りに船だった。2人分の借金の返済にも充て、完全にリセットされたというか、セカンドライフのはじまりだった。

上市町は、移住者に対する様々な助成金をくれたので、家に関する費用はだいたいキャッシュバックされたので、近隣を見習って、でかいカーポートを建てたりしたし、かねての希望だった風呂のリフォームもした。
(風呂に関しては、半分以上追加で助成金もらうことができた。詳しくは、色んなメディアで取材受けてるので、気になったら調べてみてね。)

~移住生活②~

うつ病の改善にもつながる、環境の変化。心機一転、色んな悩みが同時に解決した気がした。実際のところ嫁がどう思ってたかは、今となってはわからないけど、俺自身はもはや完全に回復していた。

まともな会社に勤めていないだけかもしれないけど、会社がらみでしんどいことばかりだったので、極力会社員やりたくない。。。でもどうしようと考えながら、とりあえずやってた副業の物販を継続しつつ、バイトでもしようかと探していた。

せっかくきた人生初の雪国。やっぱり除雪関係の仕事でもしようかと思い、見つけた高速道の除雪。当時まだ大型特殊とか持っていなかったので、大型免許だけでいけたのは好都合だった。
基本的に期間中は毎晩泊まり込み、家には帰ることができないものの、冬の収入がよみやすく、どうせ遊びにも行きにくいだろうからと嫁と相談して開始した。

春になり、その除雪関係での繋がりや、ご近所付き合いにも力入れていたおかげか、色んな人から仕事をもらえるようになり、1人親方のような便利屋として働き始めた。
収入は以前より減ってはいたものの、家賃を含めて支出が大幅に減っていたので生活できる程度に稼げていた。
また、ひょんなことからヤギ2頭を譲り受け、ご近所ではちょっとした有名人にもなっていた。

2023年7月、新たに子どもが生まれた。2550gの小さな女の子。

落ち着いたらもう1人欲しいねって話はしていたが、なかなか落ち着けなかった。富山に来て、色々リセットされ、住み心地もいい。今が落ち着いてないと言ったら、落ち着くことなんてないも同然だった。
帝王切開なので立ち会うことはできなかったものの、生まれる日がわかってて、その日はずっと待機しながらソワソワしてたのを覚えている。
頭のや足の長さから、十分な体重があると判断されて取り出したら、未熟児ギリギリのサイズで先生もびっくりしたらしい。

最初はおとなしかった下の子も、小さいながらパワフルに育っていく。
上の子の協力のもと、育児をがんばって・・・と言いたいものの、安定しない自営業、家の補修もあったりと、なかなかやることが多かった。
現場仕事が多く危険なので、夜泣き対応は一切任せて、夜に風呂入れたり、ミルクやごはんあげたり、おむつ変える程度しかしてなかった。

そんなこんなで2年目の冬も同じように除雪仕事。帰れたとしても昼間だけなので、冬休みの上の子と嫁ががんばってくれていた。
正月には能登の震災、特に被害はなかったけど、家に俺がいなかったのは不安もあったと思う。
でもその分、まとまった収入が入ったので、春にはディズニーに行ったりもしていた。

子どもも増え、とにかく外でも家でも仕事。嫁には育児に全振りしてもらい、家にいるときは極力家事をこなしていた。
休みは、子どもらと出かける日を無理やり作って確保。
忙しいし、大変だけど充実した毎日だった。

3年目の冬に入り、未だに夜泣きの続く下の子。冬場はどうしてもうつ期に入るという嫁に休みを増やしたり、違う仕事を検討するか打診しても、収入のことを考えて続けたほうがいいという結論にいたり、いつも通り仕事へ行った。

~移住生活α~

2025年1月、今期もたいした雪がないなーって舐めてたら、月末から寒波が来て3日ほど帰れない日が続いた。

2月1日土曜日、久しぶりに家に帰ると、そこには誰もいなかった。

車はあるのに、誰もいない。手紙がおいてあった。
「モラハラに耐えかねて出ていきます。探さないでください。」

誓って手を上げたことはないし、暴言を吐いたこともない。
何度か指摘を受けていたことといえば、声が大きく大阪弁がきつい。
神戸出身の嫁に対して、そこまで気を使っていなかったのは確か。

慌てて電話しようにも、目の前に初期化されたスマホ。
行方不明。。。心中。。。不安に駆られて警察へ駆け込んだ。
土曜日で人が少ない警察署で事情を説明すると、別室に案内された。

「事情は把握しています。3人とも安全な場所にいますが、あなたには連絡先を伝えることができません。本人か第三者かはわかりませんが、連絡をお待ちください。」

嫁の変化には察しが悪かったのに、ここではすぐに察することができた。
前の旦那の時と同じく、DVの支援措置を使って逃げたのだった。

SNSのアカウントも消されていて、一切連絡の取りようがなかった。
月曜日には役場へ赴き、とにかく早く連絡が欲しい旨を伝えたが、知ってるとも知らないとも言われはしなかった。

突然の出来事に対し、理解し始めたら気が狂ってきた。
そのまま首をくくろうかと思うくらい。一生で一番泣いていた。

2日ほど仕事は欠勤していたのだが、1人で家にいてもいいことがないからと呼び戻された。よくも悪くも待機の多い仕事だったので、色んな人に話を聞いてもらって、少しは気が紛れた。

その後の2月は寒波が続き、大雪が降った。
去年の末に子ヤギが産まれ、4頭になっていたヤギたち。当然置いて行かれていた。仕事は無理言ってたまに帰って餌やりをしていた。
ある日帰ると、元々納屋を拡張して屋根を足して広げ、ヤギ小屋として使っていた小屋が、雪の重みに耐えきれず潰れていた。母ヤギとミルクを吸っていたであろう子ヤギ2頭とともに。

こればかりは嫁が在宅でも起こりえた話で、単純に強度のないものを作った俺のミスなんだけど、このタイミングというのが、なんともやるせない気持ちになった。

人もヤギも、父親だけがこの家に残されていたのだった。

その後、面倒見切れないのでヤギは引き取ってもらった。
呪われてるんじゃないかと、2月の終わりには神社で厄払いしてもらった。

~移住生活β~

あれから1ヶ月半、未だに一切連絡は来ません。
たくさんの人に支えられ、この地でそのまま生きていく元気は取り戻しました。特に新天地に移る理由もありません。

3月に入ってわかったこともあり、メンタル的にはだいぶ落ち着いてます。
当初投げやりだった部分で、やりたいことが出てきたので現在進行形の話は、詳細を伏せている部分が多々あります。
全部終わって落ち着いたら更新しようと思ってますが、いつになることやら。。。

ここまで1万2000字越え、最初から最後まで読んでくれた物好きがいるかどうかわかりませんが、感想をもらえるとうれしいです。

仕事の話や、個人的に仲良くしてくれるよ!って方の連絡もお待ちしています!お気軽にどうぞ!

なんなら遊びに来てください。ポツンと一軒家ならぬ、でかい家にポツンと一人です。

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