コーカサスの歴史



[1] コーカサスの地域的及び歴史的概要

(1) 地理概要

 コーカサスあるいはカフカースは黒海とカスピ海に挟まれ、北西から南東に走る大コーカサス山脈とそれとほぼ平行にその南方で
走る小コーカサス山脈を含むコーカサス山脈の発祥地で、大コーカサス山脈は西アジアから南ロシア草原地帯(黒海・カスピ海草原)
を分離する自然の要害であり、西アジアには南コーカサス(ザカフカージェ)、アルメニア高地とアナトリア地域が含まれる。
 カスピ海沿岸に沿って大コーカサス山脈の北と南を結ぶ狭い回廊が形成され、デルベントは歴史的に重要なその要所であった。
 ヨーロッパ最高のエルブルス山(5642m)が大コーカサス山脈の西部に存在する。
 大コーカサス山脈の西端付近にはソチが、東端にはカスピ海に面してバクーがある。
 大コーカサス山脈と小コーカサス山脈はリヒ山脈(スラミ山脈)で結ばれ、その西北には黒海に接してコルキス平原、東南には
カスピ海に接してクル・アラズ低地がある。クル・アラズ低地ではカスピ海からクラ川が流れ、途中で北西へ向かうクラ川と
南西に向かうアラクセス(アラス)川に分かれる。コルキス平原には大コーカサス山脈から黒海にリオニ川が流れる。
 大コーカサス山脈の東端の先にはカスピ海に、根元にバクーのあるアブシェロン半島が突き出ている。
 その北方、ダゲスタンにはテレク川河口付近にアグラハン半島がある。
 アラクセス川はトルコのエルズルム近くに発し、アルメニアの南国境を流れ、アゼルバイジャンに入る。
 小コーカサス山脈とアルメニア高地がトランス(南)コーカサス高地を構成する。最高峰は5137mのアララト山。
 小コーカサス山脈には西にその一部をなすメスヘティ山脈がある。
 南東ではアラス川が小コーカサス山脈をタリシュ山脈と分離し、タリシュ山脈は南東アゼルバイジャンとイラン国境にまたがっている。
 アルメニア高地には3大湖(セヴァン:アルメニア領、ヴァン:トルコ領、ウルミア:イラン領)がある。
 アララト山の東にはアララト峡谷(アラクセス川が形成)があり、これによって西アルメニア(現在の東アルメニアの一部)と
東アルメニア(小コーカサス山脈がある)に分けられる。
 テレク川は北コーカサスの主要な川で、南オセティアの大コーカサス山脈とコフ山脈の合流点付近に発し、北に向かい、湾曲して
東に転じ、チェチェニアとダゲスタンを通ってカスピ海に注ぐ。
 クマ川はカラチャイ・チェルケシアの大コーカサス山脈に発し、北東に流れ、ついで東に転じ、ダゲスタンとカルムキアの境で
カスピ海に注ぐ。
 クバン川はエルブルス山のふもとに発し、アゾフ海(黒海の北東にあり、ケルチ海峡で黒海とつながる)に注ぐ。
 大コーカサス山脈の北方はポントス草原と呼ばれ、古来遊牧民の出入りの激しい地域であった。

 コーカサスは緯度から見ると北緯42度前後(北海道南部相当)でジョージア(サカルトヴェロ)とダゲスタン南部が中心となるが、
地形からは大コーカサス山脈を北限とすると北西から南東に傾いてジョージアからアゼルバイジャンが中心でダゲスタンは
北コーカサスに入ってしまう。

*大コーカサス山脈に対し北コーカサス(シス・コーカサス、露語ではプレト・カフカージェ=前カフカース)と南コーカサス
(トランス・コーカサス、ザカフカージェ=後カフカース)と呼ばれる。








 クラ川とアラス(アラクセス、)川流域

 ジョージアの河川


(2) 現代コーカサスの国々(現代史概要)


(2-1) ジョージア(サカルトヴェロ)

 1917年のロシア革命後、ザカフカーズ・コミサリアートが結成され、ニコライ・チヘイゼによってザカフカース民主連邦共和国
建国された。
 これはジョージア、アルメニアとアゼルバイジャンからなった。(コーカサス総督区の廃止、これは6グベルニヤ(バク
エリザヴェトポルクタイシ、ティフリス、黒海、エリヴァン)、5オブラスチ(バトゥミ、ダゲスタン、カルス、クバン、テレク)、
2オクルク(ザガタルスフミ)から構成された。
 カルス・オブラスチのほとんどは1921年のカルス条約でトルコのものとなった。)
 一方で、オスマンの侵攻があり、これはすぐに分解、1918年5月26日、グルジア民主共和国独立が宣言された。
 北にはクバン人民共和国(1919-1920)と北コーカサス山岳共和国(1917-1921)、南にはオスマン帝国(バトゥミ、
カルス、アルダハンを1918年3月ブレスト・リトヴスク条約で獲得)と第1次アルメニア共和国(1918-1920)、南東には
アゼルバイジャン共和国(1918-1920)があった。
 同年、国境をめぐってジョージア・アルメニア戦争が勃発。
 1918-1920年にジョージアは英国保護下となる。
 1918-1920年にやはり南オセティアの騒乱がおきる。
 1921年、赤軍の侵攻で労働者と農民のソヴィエト政権ができる。。
 1921年、カルス条約でトルコと南コーカサス3国の国境確定。
 1922年、ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国SFSRをアルメニアとジョージアで結成。
 1936年、SFSRは解体し、ジョージア・ソヴィエト社会主義共和国SSRとなる。

 1990年、ジョージア共和国と改名
 1991年4月9日、独立復活。
 1989年に南オセティアの自治区域で衝突が起き、1991-1992年の南オセティア紛争に発展。
 1991年12月22日-1991年1月6日の大統領ズヴィアド・ガムサフルディアに対するクーデター
 1992-1993年にはアブハジア紛争
 1995年、ジョージア国となる。
 2003年、バラ革命でエドゥアルド・シュヴァルナゼ退陣。
 2004年、アジャラ危機
 2008年、ロシア・ジョージア戦争。4月16日、アブハジアと南オセティアの分離主義者とロシア当局の公式的結びつき。



  1897年のコーカサスの民族構成


 ロシア革命前のコーカサス地域 6グベルニヤ(バク、エリザヴェトポル、クタイシ、ティフリス、黒海、エリヴァン)、
5オブラスチ(バトゥミ、ダゲスタン、カルス、クバン、テレク)、2独立オクルク(ザガタル、スフミ)



 
 カルス条約(1921)で確定した国境++++    以前の国境 ++++         赤:トルコ獲得


 ソ連期1957-1991


 紛争地域


アブハジア共和国(アブハジア自治共和国)

 アブハジアは始めはアブハジア・ソヴィエト社会主義共和国(1921-1931)を形成したが、1931年にジョージアSSR内の
自治共和国に格下げ。
 スターリン時代、アブハジア人は抑圧された。スターリン死後、抑圧は緩和された。

 1980年代のソ連分解の始まりでアブハジア人とジョージア人の間で独立への姿勢で緊張が生じた。
 アブハジア人はジョージア独立でアブハジアの自治が消滅することを恐れた。
 1991年5月9日、ジョージアが独立宣言。
 1992年、7月23日、共和国最高評議会のアブハジア派が独立を宣言。
 1992-1993年に大部分がジョージア政府軍の側とアブハズ分離主義者勢力、ソヴィエト・ロシア政府武装勢力と
北コーカシア活動家の間で戦争が起きた。アブハジアに住むジョージア人は主にジョージア政府側で、アブハジアのアルメニア人と
ロシア人は主にアブハジア人を支援、多くがアブハジア側で戦った。
 分離主義者は多くの北コーカサスとコサック活動家と付近のロシア連邦駐留勢力の支援を受けた。
 ジョージア人に対する民族浄化が起きる。
 事実上独立国となる。
 1998年のアブハジア戦争。ジョージア人準軍事組織(白軍ムヘドリオニ森林同胞団)が攻撃。

アジャラ自治共和国

 1614年、オスマンがこの地域を占領。
 1878年、ロシア帝国に渡される。
 1920年、ジョージア民主共和国の一部となる。
 1921年、短期間の衝突後、カルス条約でトルコはこの地域をジョージアに渡す。
 1921年、アジャラ自治SSRができる。

 1991年にはジョージア共和国内自治共和国。
 2004年、アジャラ危機
 2007年、ロシアはバトゥミの軍事基地から撤退。

南オセティア共和国-アラニア国

 ロシア革命後、現代南オセティア地域はジョージア民主共和国の一部となる。
 1918年、シダ・カルトリの土地なしオセティア農民(ボルシェヴィキの影響)とジョージア貴族(メンシェヴキ政府支援)で
衝突(1918-1920)が起きる。
 1922年、南オセティ自治オブラストができる。
 1924年、北オセティ自治オブラストができる。1936年、オセティア自治SSRとなる。
 1989年、ジョージア人とオセティア人に緊張が生じる。
 1988年、南オセティア人民戦線(アデモン・ニハス)ができる。
 1989年、自治オブラストの南オセティア自治SSR転換決定で衝突が拡大。
 この決定がジョージア政府によって取り消される。
 1990年、USSRの一部として完全主権宣言。ジョージア議会が非常事態宣言。
 1991-1992年、南オセティア戦争
 2004年からジョージアの支配回復努力強化で緊張が始まる。
 2008年、ジョージアとロシアの緊張が拡大。
 8月26日、ロシアがアブハジアと南オセティアを別の共和国と認める。
 ジョージアはアブハジアと南オセティアをロシア占領ジョージア地域と主張。


(2-2) アルメニア共和国

 1917年、ザカフカース民主連邦共和国成立するも間もなく解体し、1918年5月、アルメニア共和国成立。
 1918年12月にジョージアと領土紛争が起きる。1919-1920年にはナヒチェヴァン、カラバフ、ザンゲズルを巡って
アゼルバイジャンと領土紛争が起きる。カルスでは南西コーカサス共和国が成立。1920年8月、セーヴル条約成立、
アルメニアが独立国として承認される。
 1920年9月、トルコが失地回復をめざし開戦、トルコ・アルメニア戦争勃発。
 11月に赤軍がアルメニアに進攻、12月にアルメニアSSRが成立し、アルメニア共和国終焉。
 ガレギン・ヌジェがナゴルノ・カラバフとシュニクのアゼルバイジャンSSR併合に反対し、シュニクの自治宣言。
 1921年4月、ダララキャズ、ザンゲズル、山岳アルツァフ地域の山岳アルメニア共和国独立宣言、ヌジェが首相となる。
 7月中旬降伏。ヌジェらはタブリズ亡命。
 1922年3月、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアSSRがザカフカースSFSRとなる。
 カルス条約でアジャラをバトゥミとともに得たが、カルス、アルダハンとウードゥルはトルコへ。
 1936年、アルメニア、アゼルバイジャンとジョージアのSSRに3分割。
 1980年代のゴルバチェフ時代にソヴィエト・アゼルバイジャンとアルメニア人が多数派のナゴルノ・カラバフで緊張が生じる。
 カラバフのアルメニア人はソヴィエト・アルメニアとの統一を要求。
 1990年5月、新アルメニア軍NAAができる。
 まもなくNAAとソヴィエト内務省部隊MVDとの衝突が発生。
 1990年8月23日、領域での主権宣言。アルメニア共和国となる。
 1991年9月21日、公式に独立宣言。12月26日、ソ連崩壊し、アルメニアの独立が認められる。
 1992年初期に、ナゴルノ・カラバフ戦争(1988-1994)が大規模化する。


(2-3) アゼルバイジャン共和国

 ロシア帝国の崩壊でザカフカース民主連邦共和国ができるが、この分解で1918年5月、ムサヴァト党が
アゼルバイジャン民主共和国を宣言。
 アゼルバイジャンという名はいつも隣の現代北西イラン地域を呼ぶのに使用されていた。
 アルメニア・アゼルバイジャン戦争(1918、1920-1922)が起き、オスマン帝国と英国が関与。
 1918年夏、ボルシェヴィキを排除し中央カスピ独裁政権ができ、英国の支援を受ける。
 赤軍の侵攻で1920年4月28日、アゼルバイジャンSSRができる。
 1922年、ザカフカースSFSRができる。
 1936年、ザカフカースSFSRが解体、アゼルバイジャンSSRとなる。
 1945年11月、アゼルバイジャン人民政府がタブリズにできるが西欧の圧力でソ連軍が撤退し、1946年末までにイラン政府が制圧。
 1980年代末、ゴルバチェフ時代のコーカサスは動乱で特徴づけられる。
 まず、ナゴルノ・カラバフ戦争(1988-1994)がアゼルバイジャンSSRの自治地域で発生。
 1990年、アゼルバイジャン共和国となる。
 1991年、ソ連から独立。
 1993年、1994年、1995年とクーデターが起きる。


 紛争地域 茶色:ナゴルノ・カラバフ、橙:アルメニア支配のアゼルバイジャン地域

ナヒチェヴァン自治共和国

 1918年のザカフカース民主連邦共和国の分解でナフチヴァン、ナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル(今のシュニク)とカザフは
新しくできたアルメニア民主共和国とアゼルバイジャン民主共和国で争われる。
 1918年6月、この地域はオスマンに占領される。ムドロス休戦で英国占領となる。
 ジャファルグル・ハン・ナフチヴァンスキがアラス共和国を宣言。アルメニアとアゼルバイジャン人の間でアラス戦争が起きる。
 1920年7月、ボルシェヴィキがこの地域を占領しナフチヴァン自治SSRを宣言。
 1921年、住民投票でアゼルバイジャンSSR内の自治共和国となる。
 1990年1月、ナフチヴァンはソ連からの独立宣言、翌年新しくできたアゼルバイジャン共和国内の自治共和国となる。
 ナゴルノ・カラバフ戦争の影響を受け、1992年以降、カルキはアルメニアに支配される。


アルツァフ共和国(ナゴルノ・カラバフ共和国)

 1918年のザカフカース民主連邦共和国の分解でアルメニア民主共和国とアゼルバイジャン民主共和国で争われる。
 1920年に短期間、戦争が勃発。
 1923年のアゼルバイジャンSSR内のナゴルノ・カラバフ自治・オブラスト形成で紛争は棚上げとなる。
 ソ連崩壊で論争が再発。
 アルメニアとの統一を意図し、山岳カラバフ共和国として独立し、1988年からナゴルノ・カラバフ戦争(-1994)が起きる。
 1991年の住民投票で隣のシャフミアンと独立宣言する。


黄:ソ連時代のナゴルノ・カラバフ自治オブラスト、赤線:1994-2020年の事実上のナゴルノ・カラバフ共和国NKR支配地域。
赤線から外れた黄色縞地域はアゼルバイジャンが支配するがNKRの主張する地域。
緑縞は以前のナゴルノ・カラバフ自治オブラスト外の地域だが、NKRが1994年の戦争後、事実上支配する地域。



<参考> オスマン帝国解体とロシア革命の混乱に伴う、アルメニア国境問題

アルメニア(ハミディエ大虐殺(1894-1896)
 露土戦争(1877-1878)の敗北で、オスマン帝国は弱体化し、スルタン・アブドル・ハミド2世は不幸をキリスト教世界の
敵意が原因考えた。
 帝国東部国境地域は不安定で、クルド人が住民を攻撃。1890-1891年にスルタンはクルド人無法者に半公式的地位を
与え、クルド人を主に、トルコ人、アラブ人、シルカシア人等からなり、国によって武装されたハミディエ連隊(コサックを手本)が
形成された。彼らは自由にアルメニア人を攻撃。
 アルメニア人は社会民主(ヘンチャク)党(1887年)、アルメニア革命連合ARF(ダシュナク、1890年)を結成。
 1892年にメルジフォン、1893年にトカトで反乱が起きた。
 1894年、スルタンはアルメニア人を標的とし始め、サスンで抵抗が起きた。
 これに対しスルタンが軍とクルド人武装グループを使用。1895年、アルメニア人虐殺が発生。

コーカサス戦役(1914年-1918年10月)
 第一次大戦の中東戦線。これで、オスマン帝国は露土戦争(1877-1878)の失地回復を狙った。
 ロシアは始め西アルメニアを占領(1915-1918)。


 1917年9月のロシア支配地域

 しかし、ロシア革命で、1917年までにロシア・コーカサス軍は分解。
 南コーカサスのロシア臨時政府は特別ザカフカース委員会結成。(1917年3月)。
 これは11月、ザカフカース・コミサリアート(1917-1918)となりセジュムを開催。
 エルジンジャン休戦協定(1917年12月)がオスマン帝国と特別ザカフカース委員会で結ばれた。
 ブレスト・リトヴスク条約(1918年3月)がボルシェヴィキ政権と同盟国で結ばれ、トルコにバトゥム、カルス、アルダハンを譲る。
 アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアがこれを拒否し、ザカフカース民主連邦共和国(1918年4月-5月)形成。
 しかし、オスマンの攻勢で、1918年5月、ジョージアが独立宣言(ジョージア民主共和国、1918-1921)、5月、ポティ協定
ドイツとの間で結び保護を得る。アルメニアとアゼルバイジャンも独立。
 オスマンの侵攻で、6月、バトゥム協定が南コーカサス3国とオスマン帝国で結ばれる。
 山岳カラバフ地域はオスマンに抵抗し、1921年、山岳アルメニア共和国を形成。

 
 緑線:現在のジョージア国境、黄色:1921年5月のジョージア                   緑:山岳アルメニア


 1918年6月、ドイツ軍到着。オスマンはジョージア進軍をやめ、アゼルバイジャンとイランに方向転換。
 バクーの戦い(1918年8月-9月)が起きる。オスマン・アゼルバイジャン連合軍と始めはバクー・ソヴィエト(1918年7月)、
ついで英国(1918年2月、エンゼル到着。)、アルメニア人、白軍との戦いが起きる。
 10月、ムドロス休戦協定がオスマン帝国と連合国で結ばれる。

 この間アルメニア大虐殺(1914-1923)が起きる。
 1915年4月24日、コンスタンティノプルのアルメニア人知識人と指導者が追放され、多くはやがて殺された。
 5月29日、強制移住法成立。死の行進と強制収容。現代トルコとイラクとシリア国境に15の強制収容所網。
 トルコ・アルメニア戦争での市民の虐殺。

 ジョージア・アルメニア戦争(1918):ジャヴァヘティとロリを巡って。
 ムドロス休戦協定で、オスマンはブレスト・リトヴスク条約で得たロリ地域とアハルカラキ地区から撤退をせまられ、アルメニアがすぐに、
この地位を支配し、アルメニアとジョージアで小競り合いが、10月から始まり、12月に公然戦闘化。英国が介入し、両国管理となる。

 アルメニア・アゼルバイジャン戦争(1918-1920):カラバフとナヒチェヴァンを巡って。
 ムドロス休戦協定でオスマンがこの地域から去り、カザフ・シャムシャディン、ザンゲズル、ナフチヴァンとカラバフを巡って住民の間で
衝突が発生。衝突は既に1905年に起きていた。1918年3月に、民族・宗教対立がバクーで発生。ムサヴァト党などの汎トルコ主義が
ボルシェヴィキに批判された。
 アルメニア人とムスリム民兵が衝突し、多くのムスリムが追い払われ、地下に潜行。やがてムスリムとソヴィエトが衝突。
 バクー・コミューンはオスマン軍とイスラム軍の攻撃を受ける。
 9月に英国(ドゥンステヴィル)が6週間介入、ほとんどのアルメニア人は一緒に逃げる。
 オスマン軍とアゼルバイジャン人が9月にバクーに入り、3月のムスリム虐殺の報復をする。
 ムドロス休戦協定でトルコ軍が英仏露協商国と交代。アルメニア勢力がナゴルノ・カラバフを占領、英国が前進を阻止。
 ナフチヴァンのアゼルバイジャン人が1918年12月、アラス共和国を宣言。
 1919年5月にアルメニア軍が占領し、アゼルバイジャン・オスマン連合軍との戦いが始まる。8月、休戦。
 1920年3月再開し、赤軍によるナフチェヴァンのソヴィエト化まで続く。
 3月にシュシャで民族衝突が起き、アルメニア人が殺される
 1920年4月、アゼルバイジャンSSR形成。この混乱に乗じ、アルメニア勢力はアゼルバイジャン地域に侵攻。
 1920年、12月、赤軍がイェレヴァンに入る。アルメニア共和国崩壊。アルメニアSSR成立。
 1921年、2月、トビリシがボルシェヴィキ(第11赤軍)に落ちる。グルジアSSR成立。

 モスクワ条約(1920年5月)でグルジア民主共和国(メンシェヴィキ)独立承認。
 セーヴル条約(1920年8月):連合国とオスマン帝国(イスタンブール政府)、国境設定は流産。

トルコ・アルメニア戦争(トルコ独立戦争東部戦線、1920年9月-12月)
 セーヴル条約後のアルメニア共和国とトルコ民族運動の1920年秋の衝突。
 始めのアルメニアの東トルコ占領後、トルコ民族運動軍が反撃、1855年と1878年に、ロシアに失った地域を回復、
その後、ボルシェヴィキがアルメニア占領。10月、トルコがカルス占領、11月、旧アニ占領。それに対しジョージアが中立を破棄。
 12月、ボルシェヴィキがイェレヴァンとエチュミアジンを占領。アルメニア政府がアレクサンドロポル条約調印。
 アレクサンドロポル条約(1920年12月):これでアルメニア政府(既に崩壊)はトルコへの領土の大幅譲渡を認めるが、
ソヴィエト・ロシアはモスクワ条約とカルス条約で対処。
 1920年12月、アルメニアSSR形成。
 赤軍のジョージア侵攻(1921年2月15日-3月17日)、1921年2月、グルジアSSR宣言。
 モスクワ条約(1921年3月):ケマル(トルコ大国民議会、アンカラ政府)とレーニン。このとき、トルコ共和国とソ連は
確立されていなかった。
 スルタン政権はセーヴル条約を結んでいた。モスクワ条約の国境はカルス条約とほぼ同じ。
 カルス条約(1921年10月):アゼルバイジャン、アルメニアとグルジアSSRとトルコ大国民議会。カルス地域と交換で
アジャラ譲渡。
 アゼルバイジャンの保護で自治ナヒチェヴァン・オブラスト形成。
 1922年3月、ザカフカースSFSR形成。
 ローザンヌ条約(1923):セーヴル条約の取り消し。


統計
アルメニア アゼルバイジャン ジョージア
首都 イェレヴァン バクー トビリシ
面積km3 29743 86600 69700
人口(2019) 3018854 9981457 3723500
GDP(2018) $13.302 billion $45.592 billion $17.836 billion
軍事予算(2019) $1.805 billion $625 million $327 million

国旗

         アルメニア                 ジョージア              アゼルバイジャン



  現代ジョージアの行政区域                                   


 現代アゼルバイジャンの行政区域


  現代アルメニアの行政区域

*関係地域

 イラン・アゼルバイジャン
  西アゼルバイジャン、東アゼルバイジャン、アルダビル、ザンジャンの4州。
  アゼルバイジャン人と少数派としてクルド、アルメニア、タト、タリシュ、アッシリア(ネオ・アラム語)、ペルシャ人。

 トルコ・6ヴィライェト(県)西アルメニア
  ヴァン、エルズルム、ハルプト、ビトリス、ディヤルバクル、シヴァスの6ヴィライェト。

 トルコの東アナトリア
  ほとんどの6アルメニア・ヴィライェトを含む。14県からなる。1941年に規定。


 イランの行政区域(州)                                         


 1912年 コンスタンティノプルのアルメニア総主教による


  トルコの東アナトリア


(2-4) 北コーカサス(ロシア)

首都 面積km3 人口(2018年推定)
ダゲスタン共和国 マハチュカラ 50300 3063885
チェチェン共和国 グロズヌイ 17300 1436981
イングーシェティア共和国 マガス 3000 488043
北オセティア-アラニア共和国 ヴラディカフカス 8000 701765
カバルディノ-バルカル共和国 ナリチク 12500 865828
カラチャイ・チェルケス共和国 チェルケスク 14100 466305
アディゲヤ共和国 マイコープ 7600 453376
クラスノダル・クライ クラスノダル 76000 5603240
スタヴロポル・クライ スタヴロポル 66500 2800674


 1917年、(北コーカサス)山岳共和国がテレク・オブラストとダゲスタン・オブラストのほとんどの地域から形成された。
 これは現在のチェチェニヤ、イングーシェティア、北オセティア・アラニア、アブハジア、カバルディノ・バルカリア、ダゲスタンと
スタヴロポル・クライの一部からなった。
 これは1918年3月に内紛で一度崩壊、5月のトルコ軍のバツミ占領で再建、しかし1919年5月、デニーキン軍(南ロシア軍
によって崩壊。
 9月にはイスラム国家の北コーカサス・エミール国が宣言された。これは1920年3月に指導者のウズン・ハッジが死亡し、
間もなく崩壊。
 1921年、赤軍が占領し、山岳自治SSRダゲスタン自治SSRが形成されるが、山岳自治SSRは1924年までに
各オブラストに分割される。

 
山岳共和国                 山岳自治共和国とダゲスタン共和国


 山岳自治SSR、districtがオブラストになる。


紛争
 オセティア・イングーシ紛争

  北オセティアのプリゴロドヌイ地区(北オセティア東部)の東部で1989年から民族紛争が起き、1992年に地域イングーシと
 オセティア人準軍事勢力の間の戦争となる。
  オセティア人多数派は東方正教会で、一方、北コーカサスの他の民族の多くはムスリム。
  内戦期にイングーシが赤軍を支持したためにこの地域は彼らに与えられた。
  1936年にはチェチェン・イングーシASSRが形成された。
  1944年の終戦まじかにイングーシとチェチェン人はナチス協力で非難され、中央アジアとシベリアへ強制移住させられた。
  1957年に、帰還が許され、チェチェン・イングーシ共和国再建。プリゴロドヌイ地区は北オセティアの一部となった。
  1973-1980年にイングーシはプリゴロドヌイ地区のイングーシェティアとの再統一を要求。
  1991年初期のソ連崩壊で緊張が増加。
  1992年10月30日、公然戦闘が勃発。


ダゲスタンと北オセティアに与えられたチェチェン・イングーシ地域
*1944年のチェチェン人の強制移住でアウホフスキー地域はダゲスタンのノヴォラクスキー地域と一部、カズベコフスキー地域に編入。

 第一次チェチェン戦争

  チェチェン共和国とロシア連邦国境地域での武装衝突で、チェチェン・イチケリア共和国(1991-2000)とロシア連邦の間で、
 1994年12月から1996年8月まで起きた。

  1992年、エリツィンは地域自治を大幅に認める法を発行したが、チェチェンとタタリスタンが署名しなかった。
  1994年にはタタリスタンとの妥協がなったが、チェチェンだけが署名しなかった。
  両者が交渉を怠っている間に状況は悪化、大規模衝突に至った。
  1991年9月、チェチェン人民全民族会議の活動家がチェチェン・イングーシASSR最高ソヴィエトを襲撃、ソ連共産党の
 グロズヌイ支部幹部が死亡。
  これでチェチェン・イングーシ・ソ連自治共和国が実質的に崩壊、ソ連からの独立が宣言された。
  1992年にチェチェン・イングーシ自治共和国は2つに分解、その間、イングーシ武装勢力が北オセティアと衝突。
  新しくできたイングーシェティア共和国はロシア連邦に加わったが、チェチェニアは、1993年、チェチェン・イチケリア共和国として
 ロシアから完全独立宣言。
  ロシアは政権(ドゥダイェフ)反対派を支援したが反対派は1994年、クーデタに失敗。ロシアはグロズヌイを襲撃、分離主義者の
 ゲリラ戦にあう。
  1996年、終戦となり、ロシア軍撤退。
  しかし、国内情勢は悪化し、1999年、一部のチェチェン人とアラブ人がダゲスタンに入りロシア軍と戦い、チェチェニヤに撤退。
  またモスクワでも爆破事件を起こした。
  これで第二次チェチェン戦争勃発。

 第二次チェチェン戦争

  1999年10月、ロシア軍がチェチェニアに入った。
  これでチェチェン・イチケリア共和国は終焉し、ロシア支配が復活。
  2000年中期にロシア政府は一定の軍事行動を親ロシア・チェチェン勢力に移転。
  軍事活動は2002年4月に終わり、連邦セキュリティ・サーヴィスFSBついで2003年夏には内務省に移される。
  2009年までにロシアはかなりチェチェン分離主義者の運動を弱体化し、大規模戦闘は終わる。




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