『和辻哲郎全集第十四巻』の解説
主に江戸時代から昭和時代までの間の日本の思想界における、尊皇に関しての解説と、
一方で儒教への極端な偏りや民族主義的な潮流から起こる過ちなどについての反論が記された著作集。
※一部、意味を損なわない程度に読みやすく表記の変更や誤字脱字の修正をさせて頂いています。
さらに詳しくは書籍にて。
引用文(抜粋)の一覧
『和辻哲郎全集第十四巻』 和辻哲郎 著 岩波書店 出版
(一部、法哲学の見方や古文の読み方に誤りの箇所があり。)
和辻哲郎
北畠親房はそのいわゆる(山田孝雄氏が喝破せられたごとく、神皇正統記において皇位継承についての皇統の正閏で)「正路」の思想を徹底して説くことはできなかったのである。もしそれを突き進めれば、後嵯峨天皇以後においては、北朝の系統を正路として説かねばならなかったであろう。
116P
水戸光圀の尊王思想もまた、山鹿素行と同じく、儒教的な士道の立場において〝尊王賤覇の思想〟として起こったのであって、室町時代の皇室尊崇と連絡せるものではないのである。
192P
水戸学派の人々が強調したのは朱子学の〝大義名分説〟であって、わが国固有の道ではなかった。それは水戸光圀の語をもって言えば「春秋通鑑の理致」なのである。元来 大義名分の思想は、君臣の大義・君臣の名分を『春秋』に即して理解したものであるから、シナの周代の「王」と「諸侯」との関係を離れることができない。
192P
江戸時代中期の時期には、江戸時代初期の比較的 豪宕な文化様式が衰え、繊細醇熱の風に所を譲った。これは一方から見れば我が国独特の様式をきわめて顕著に作り出したことを意味するが、他方から見れば鎖国の影響が文化様式の閉鎖性として結実して来たことを意味する。
200P
江戸時代初期においては、時代特有の尊皇思想は儒学者の思想のうちに現われた。しからばそれに次ぐ時期の尊皇思想は、それの当然の発展あるいは醇化であるかというと、決してそうではない。むしろそれは前期の思想の否定において成り立つのである。しかしその否定の精力はどこから出たであろうか。我々はそれを和学の伝統においてではなく、かえって儒学者の古学運動のうちに見いだすのである。
201P
儒教の説いている「大道」や「天の下のことわり」は、何人をもなるほどと思わせるような、いかにももっともらしいものである。しかしそれだけで儒教(に偏りすぎた江戸時代での流行)の権威を認めることはできない。なぜなら、儒教を生みまた儒教を奉じているはずのシナの歴史が、儒教の道理に反する事蹟を数限りなく含んでいるからである。儒者はシナが儒の道によって治まっていたように説くが、それは明らかにうそである。賤しい身分のものが君を殺して帝王になる。夷狄として賤しめている異国人に征服せられてその夷狄に服従する。そういう事蹟はいくらでもある。
215P
シナでは周の代にすでに孝悌仁義より礼楽刑政に至るまでさまざまの行為の仕方が綿密に定められていた。それはいかにも「みやびやか」であった。しかしそれらはすべて人為的であって自然の性情に則したものではない。仁義礼智などと名づけて限定すれば、自然の性情はせまく窮屈になる。礼にしても同様である。人為的に細かく規定すれば、うわべのみ礼に合って内心がそれに伴わないという虚礼を激成する。礼のやかましいシナで、「いやしげなるものの出て、世をうばひ、君をころしまつる」という革命が絶えないのは、そのよき証拠である。
216P
我が国の道は抽象的・人口的な理ではない。従ってそれは理論によってではなく芸術によって表現せられている。賀茂真淵はそれを「古への歌」から見いだそうとした。
218P
人智をもって測り知るべきでないこと(人智では測り得ない境地)は〝規定せずに〟措くほかはない。すなわち教義を作る必要はない。規定せずとも道は実現せられる。
231P
上田秋成はその(天照大御神が四海万国を照らしますと主張するのは排撃する儒意と同じではないかと反駁した)あとにオランダ人の伝えた地球の図を引証し、わが神代史が〝わが民族〟の神話であること、他の民族もそれぞれその神話を有し他に譲らないであろうことを主張している。
240P
ロシアのラクスマンが幸太夫、磯吉を送って根室に来たり、通商互市を求めるという事件が起こった。幕府は初めて事態の重大に気づき、あわてて伊豆相模の沿岸の防備を計画したほどである。この事件を皮切りにロシアの圧迫は文化元年〔1804〕9月のレザノフの来航となり、さらに数年後には千島、カラフトへの侵略となって現れた。林子平の警告は現実となったのである。
247P
尊皇の道は国初以来 綿々として絶えず、日本人の生活の深い根柢となっているものであります。武士たちが自分の直接の主人にのみ気を取られていた時代でも、その心の奥底には尊皇の精神が存していたのであります。それはまれに日本の国家を国外から脅かすような力が現れて来た際に、はっきりと露出しております。
305P
武士出現の経路は大化の改新において樹立せられた土地国有制度の崩壊の過程に相即する。国有制度に伴なう生産の不活発を克服するために、政府は開墾奨励の政策の中に幾分かずつ私有制度を加味したのであったが、その方針は幾度かの動揺を経つつ、ついに開墾田の私有に落ちついて行った。
319P
忠義・忠君が道の根本として力説せられたのはあくまでも〝武家時代の特徴〟であって、それより古くはない。もちろん人間関係における忠(まこと)は太古以来 尊重せられており、統治者に対する忠誠も統治関係あって以来 常に重視せられているが、しかし特定の意義を持った忠君は封建君主と家臣との関係に則したものである。
322P
天皇と国民との関係は、本来、武士の主従関係とは異なっていたのである。
322P
神道国教化の運動は国内において信教の自由の原則を阻害したのみならず、世界に対して帝国主義的な侵略が天皇統治の伝統と必然に連関するかのごとき印象を与えた。これがこの運動の最も大きい罪悪であろう。天皇の神聖性は日本の国民共同体の地盤から生い育ったものであって、他の民族に強要すべきものではない。
328P
記紀の神代史からかくのごとき理論(天御中主神を宇宙主宰の絶対神とし、神の直系たる天皇が万国を支配)を解釈し出すことが既に正気の沙汰ではないのであるが、それを現代の世界に適用し、大東亜経綸の理論となすに至っては、同じ日本人として実に赤面に堪えない。かくのごとき偏狭の徒のゆえに天皇統治の伝統が傷われないことを衷心より祈るものである。
328P
少数の政治運動家がおのれの意志を国民の「総意」の名において振り回し、与論の横車を押すことになると、われわれは不幸な失敗をまたまた繰り返さなくてはならなくなるのである。
329P
天皇統治の伝統の意義を神話だけからくみ出そうとしたのは偏狭な見方であってかえってその意義を誤まるであろう。神話は神話を生み出すような一定の文化段階に即して理解さるべきものである。
330P
委任がなかったとしても、委任なくして統治権を行なった武将たちは、〝違法の行動〟に出たのだというべきである。それを〝違法〟たらしめるのは、天皇を(「天皇主権」ではなく〝統治権をとりまとめる〟元首)とする〝国初以来の不文の法〟である。
378P
〝法(ここでは不文の法ではなく憲法や法律での意味)によって定められている〟がゆえに、(歴代天皇は)将軍を任命する権威を持たれたのではなく、法律をふみにじることをも恐れない武力の掌握者が、その実力にもかかわらずなお認めざるを得ない伝統的権威を持たれていたがゆえに、将軍を任命されたのである。
381P
もし(戦前・戦中に「国体」という言葉で呼ばれた概念が)〝政体という言葉〟で現わされていたならば、いかなる独裁的な権力者もこの概念を悪用したり有力な武器としたりすることはなかったであろう。この悪用の際の標語は、〝国体明徴〟であった。
388P
祭政一致はわが国の古い伝統であるが、しかしそれは厳密にただ天皇に則してのみ言わるべきことであって、天皇の命の下に政治の衝に当たる者がその政治の方針として掲げてよいようなものではない。祭政一致の伝統の下にあっても政治には政治の道がある。政治家がこの道を逸脱して祭政一致を標榜するがごときは、我が国の神聖なる伝統から見ても、非常な越権なのである。
391P