「なんだ、随分と来るのが遅かったな」
面会室のアクリル板越しに、獅童はそう言ってニヤリと笑みを浮かべた。色付き眼鏡は取り上げられ、取り調べ期間中に生えた無精髭によりかつてのような威厳こそ無くなったものの、そこにいるのは哀れにも囚われた罪人とは蓮にも明智にも思えない雰囲気を放っていた。
「俺がこんな落ちぶれた姿になっているのが意外か? 顔にそう書いてある」
「ハッ、良い気味だね。いくら偉ぶっても、今のお前は何も出来ない囚人でしかない」
獅童を挑発し返すように明智がその姿を鼻で笑うが、獅童に堪えた様子は全くない。むしろ、おかしそうにクツクツと笑いを溢してすらいた。
「……何が可笑しい」
その様子に、明智が苛立ったように歯軋りし、噛み締めた歯の隙間から絞り出すように唸る。その姿は隣に座る蓮が思わず冷や汗を浮かべてしまうほど、静かな怒りに満ちたものだった。
「おかしい? ああ、おかしいに決まっている。お前は俺を囚人というが、囚われているのは一体どちらだ?」
そう言った獅童に、明智がガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、テーブルに手をついてアクリル板越しに獅童に詰め寄る。それを見ても、獅童の不敵な笑みは崩れることはなかった。
「怒るのは図星だからだ。お前達こそ囚われている。案外ここは便利でな、座っていても色々と分かることがある。お前達が俺を検挙するために愚民どもに何かしたんだろうということも」
そして何らかの跳ねかえりを受けて今こんな状況になっているということも。
そう告げた獅童の表情は、今のこの世界が異常だということを明確に認知している人間のものだった。
「あなたはこの状況を理解しているの?」
「当然だ。認知訶学を利用して国家転覆を企てた大罪人。だが蓋を開けてみればどうだ? 俺はその認知訶学の第一人者すら手に掛けていないときた。俺が積み上げてきた屍が、俺が踏みにじってきた希望が、全て無かったことになっている。これは一体どういうことだ? 答えは一つしかない、認知訶学だ。愚かな何者かがそうあれと認知訶学を利用したに違いないと考えた。その予想は、俺の呼び掛けに応じてお前達がここに来たことで確信に変わった。あの女検事に囁いておいて良かった。今さらになってお前達が俺に会わなければならない理由は認知訶学しかないんだからな」
獅童は自身が置かれている異常な状況にいち早く気付き、そしてその原因にまで当たりをつけていた。その上で、冴を通じて蓮と明智をここに呼び出すことで、自分の推理が正しいことを確かめたのだ。自分達がまんまと獅童の思い通りに動いたことに、蓮も明智も内心歯噛みする思いだった。無表情を貫いた蓮とは裏腹に、明智は不機嫌そうに唸っていたが。
「そこまで思い通りだっていうのに、この状況を利用して返り咲くところまで頭が回らないんだな」
苛立ちをぶつけるように獅童に向けて嫌味ったらしく告げる明智だったが、それを獅童は歯牙にも掛けず鼻で笑った。
「誰かの掌の上で踊るような間抜けにはなりたくないんでな」
その言葉は、奇しくも明智が丸喜に向けて言ったものと殆ど同じような内容だった。それを明智も感じたらしく、嫌味が不発に終わったことも相まって眉間に刻まれた皺がますます深くなった。
「さて、今の状況を把握するという俺の目的は果たされたわけだが。お前達は俺に何を聞きに来た? 見ての通り、俺は哀れにも囚われの身だ。お前達の助けにはなれそうもない」
大仰な身振りを交えてそう言う獅童は、囚われの身と自分で言っておきながら悲壮感を微塵も感じさせない姿だった。捕らえられていないはずの蓮と明智の方が不自由な身だと感じてしまうほどに。
「……クソが」
「クックック、ああ、その顔が見たかったぞ明智。お前にお似合いの顔だ」
怒りに表情を歪めた明智を煽るように笑う獅童。握りこまれて震えだした明智の拳を、蓮の手が押さえる。
「くだらない口喧嘩をしている時間はない。あなたに聞きたいことは、まず海藤徹のことを覚えているかどうか」
「海藤……?」
蓮が口にした名前に、獅童は口に浮かべていた白々しい笑みを引っ込めて真剣な表情に変わる。
「この世界には徹がいない。認知訶学の力で存在そのものが無かったことになっている。でも、覚えている人も中にはいる。あなたがそうかを、まずは知りたい」
「……この世界には、ということは現実には奴はいるんだな」
「その口ぶりだと忘れてないんだな?」
明智が確認するように問えば、獅童は黙って頷いた。何かを考え込んでいるかのように、先ほどまでの芝居がかった大仰な仕草は鳴りを潜めている。
「……この世界がこのまま続くのなら、奴はどうなる?」
「帰ってこられない。この世界の誰とも、二度と会えなくなる」
「そうか。……奴のことだ、自分が吐いた唾を飲んだりはせんだろうな」
「吐いた唾? どういうこと?」
「知らんならそれで良いさ。くだらん口約束だ。本当に、くだらん……」
蓮の問いに答えることもなく、獅童は何度かくだらん、と口の中で呟く。その様子に痺れを切らした明智が、何かを言おうと口を開いた瞬間、獅童の鋭い視線に貫かれて言葉を失った。
「お前達が俺に会いに来た理由が分かったぞ。この世界を誰もが受け入れたのなら、海藤は二度と戻ってくることはない。それをどうにかするためにお前達はここに来た。誰か一人でも、この世界を否定してくれる人間を求めてな」
結局、獅童は蓮と明智との数少ない会話から事の核心を掴んでしまった。自分が置かれた状況を把握し、限られた情報からその精度を更に高める。その推理力と洞察力は、本人が否定しようとも探偵王子としての明智の父であることを裏付けるもの。
「俺は俺がそうすべきだと思ったから認知訶学の力を振るい、明智を利用した。出た犠牲の全てを踏み台にしてでも、俺が上り詰めるべきだと思ったからだ。無知蒙昧な愚民を統べ、沈み掛けたこの国を導けるのは俺しかいないと思ったからだ。そして地位も、権力も、金も手にしたこの俺にその身一つで真っ向から挑んできた馬鹿がいた。俺が膝を屈したのはその馬鹿に対してだ。気色の悪い箱庭を作り上げてほくそ笑んでいるような奴に俺が負けを認めるわけがない!」
話しながら徐々に口調がヒートアップしていく獅童の姿に、蓮はパレスで出会った獅童のシャドウを思い出す。自分への自信に満ち溢れ、傲慢とまで思えるほどに他者を見下していたその姿が、何故か囚人として目の前にいる獅童と重なって見えた。それは獅童が怪盗団の改心を受けていないことにより、再びパレスが発生しようとしていたからなのか、あるいは丸喜が作り出したこの特殊な状況故かは分からない。しかし、怪盗団の改心によって奪い去られなかった図抜けた傲慢さが、丸喜の作り上げた甘美な幸福の世界に組み入れられることを拒絶しているのは確かだった。
「お前達の聞きたいことは聞けただろう。さっさとこの白痴だらけの世界をどうにかしてこい」
そう言って二人を追い出すように手を振る獅童。
「……言われなくてもそうするさ。相変わらずクソッタレな性根で安心したよ。さっさと元の世界に戻して裁かれてもらう」
そんな獅童を冷たく見下ろす明智が、その言葉と共に踵を返して面会室を出ようとする。
「明智」
しかし、そんな明智を呼び止めたのは他ならぬ獅童。明智はピタリと足を止めると、肩越しに振り替えってジロリと獅童を睨み付けた。言い残したことがあるならさっさと言えとばかりに。
「今の俺の姿を目に焼き付けておくんだな。これはいつかのお前の姿だ。いくら綺麗な嘘で塗り固めても、現実は消えたりしない。塗り重ねた嘘の分だけ、抱えるのに苦労するんだ」
「……言われなくても分かってるさ。俺がクソッタレなことくらい」
「後は海藤に伝えておけ。地獄も案外温い場所だとな。新人議員の時よりよっぽどマシだ」
「現実は消えたりしない、ですか」
芳澤さんは重々しくそう呟いた。
「獅童議員はどうして、自分がやってきたことにああやって向き合えるんでしょう。多くの人の命を奪って、それでも自分が目指したものに手が届かなくて」
「自分の選択だからじゃないかな。奥村社長もそうだったように、自分が選んだこととそれによって得た結果を、自分だけは否定しない。どれだけ苦くとも、その結果を否定するのは、自分自身を裏切ると思えてしまうから」
奥村社長や獅童議員だけじゃない。僕が直接会って話した大人達は皆、自分の選択から目を背けなかった。もしその決断に僕との会話が何かしらの寄与をしていたとするのなら、それは嬉しいことだと思う。
「…………私はそんなに強くなれそうにないです」
「そうかな? 僕は芳澤さんは自分が思うほど弱くなんかないと思うよ」
「え?」
僕の言葉に、芳澤さんがキョトンとした顔で僕と目を合わせる。もちろん、今言ったことは慰めの言葉でもなんでもなく僕の本音だ。
「本当に弱い人が、誰よりも新体操の練習を熱心に続けられるかな。スランプにも負けないで」
「それは……、私がすみれだから」
「本当にそれだけだった? どんなことも、義務感だけで続けられる人は稀じゃないかな。少なくとも、新体操をしているときの芳澤さんは、あの時僕が見た緊張感で張り詰めた重々しい演技をしていた芳澤さんは、充実して見えたよ」
「……そんな、私は」
芳澤さんは何かを言おうと口をパクパクとさせるものの、言葉にならないまま口を閉じる。芳澤さんの両手が僕の右手をまた掴んだ。僅かに痛みを感じるくらいの力で掴まれたけれど、振りほどいたりはしない。
「副会長さんは、海藤さんは、私がどちらを選ぶと思っているんですか?」
かすみか、すみれか。今の芳澤さんは変わってきている。ただ辛く、苦しい現実を直視することから逃げるために芳澤かすみになることを選ぶのではなく、自分がどうしたいかを考えて選ぼうとしているように見えた。
「さっきも言ったけれど、僕は」
「聞きたいんです。あなたが私をどう見ているのかを。聞いた上で、私が自分で選ぶんです」
僕の目を正面から見つめる芳澤さんの瞳に、嘘をついている様子は無かった。その目を見て、もしかしたらと思った。今なら、芳澤さんは本当に自分自身で選べるのかもしれないと。
「……僕は夏休みに見た、繊細で張り詰めた君の演技がずっと心に残っているよ」
「そう、ですか……分かりました。ありがとうございます」
そう言って頭を下げた芳澤さんは玉座から立ち上がると、丸喜先生の方へと顔を向けた。
「丸喜先生も、ありがとうございます」
「お礼はいらないよ、芳澤さんが幸せになれるのなら」
その言葉と共に丸喜先生は曖昧な笑みを浮かべる。僕と一緒に改心した大人達を見てきた丸喜先生は今何を思っているのだろうか。彼の曖昧な笑みからはその内心を伺い知ることは出来ない。
「さて、約束の一週間だ。もうすぐ彼女達がここに乗り込んでくるだろう」
丸喜先生が言うと同時に、部屋に響き渡る警報。それは侵入者の存在を告げるもので、誰が来たかは僕たちにとっては明らかだった。
「丸喜先生、先輩達とは私が正面から決着を付けます。そうしたいんです。私が自分の選択に納得できるように」
ここに乗り込もうとしている蓮達を出迎えようと歩き出した丸喜先生の前に芳澤さんが立つ。その姿は、いつの間にか黒くピッタリとした怪盗服姿に変わっていた。
「……分かった。悔いの無い選択を」
そんな芳澤さんに丸喜先生は何かを言おうと口を開け、けれど思い直したようにそう口にした。本当に言いたかったことを呑み込んだかのように。
「海藤君も、それで良いかな?」
「ええ。僕は蓮と明智君を、いや彼女らだけじゃなく怪盗団、人間を信じていますから」
「結局、君と僕はずっと平行線のままだったね」
「すみません、頑固なもので」
僕と丸喜先生はそう言って互いに呆れたように小さく笑みを浮かべた。それから間を置かず、僕達の正面に位置する大きな扉が音を立てて開かれる。廊下からの光が差し込み、その光を背に二人の人影が僕の視界に映る。
「さて、約束の一週間だ。徹を返してもらおうか」
「芳澤も返してもらう」
蓮と明智君が決意を秘めた目で丸喜先生を見据えていた。