「虚飾に堕した芸術家はその審美眼を取り戻し、僕の現実をいつか覚める虚飾と断じた」
丸喜先生は眩しいものを見るように目を細めてそう呟いた。斑目画伯はあの日僕と交わした何気ない会話を覚えていた。そのことに面映ゆい気持ちになる。そして彼がかつて記者会見で言っていたことの意味を今になって知ることになった。彼が誰に対して恥じないように生きねばならないと言ったのか、それは自惚れでなければ僕に対してなのだろう。
「鴨志田先生だけじゃない、斑目画伯も丸喜先生に救われるだけを良しとしませんでした」
「……そうだね。だけど、君が救えなかった、救おうとしなかった人もいる」
金城潤矢
その名前はある意味予想していたものではあった。僕は誰かを救おうと思って言葉を交わしたつもりはない。結果的に、僕との些細な会話が鴨志田先生や斑目画伯にとって丸喜先生の救いを受け入れないきっかけになったのだとしても、最後にその選択をさせたのは他ならぬその人自身だ。けれど、金城に対しては僕は言葉を交わす機会も、そのつもりも最初から無かった。
「君を責めるわけじゃない。だけど、金城も僕の世界なら救われている。ここでは誰かからお金を脅しとるようなこともなく、自分のコンプレックスを受け入れて真っ当に生きているよ。そしてその世界は、新島さんや他の学生が犠牲になることの無い世界だ。誰かの不必要な悲しみが生まれない世界なんだよ」
そこが僕の、人の出来ることの限界だと言外に述べるように丸喜先生の声は確信に満ちていた。
「僕は誰かを救ったつもりも、救えるなんて思ったつもりもありません」
「君はそう思っていても、事実として君の、他人の言葉に救われることはある。それがカウンセラーとしての僕の仕事でもあったんだ。そして人間ではどうしても成し得ない救いを、僕は実現して見せた」
口調こそ静かなものの、言葉に籠められているのは挑みかかるような気迫。言葉を介して、一緒に彼の創り上げた世界を見ることを通じて、丸喜先生は僕を打ち倒そうとしている。互いに譲れない信念、それを折ろうとしている。
「丸喜先生の世界を否定する論理を、僕は持っていませんよ」
「だとしても、君は僕の世界を認めてはくれないだろう?」
「ええ、最初にも言った通り、僕の信念に反します」
「……それなら、私の為に折れてくれませんか?」
僕と丸喜先生の間に割り込んだその声は、とても弱々しくて、ともすれば聞き逃してしまいそうだった。けれど僕と丸喜先生はどちらも同時にその声の主へと視線を向ける。その先にいる彼女は、視線を下に向けたまま僕達と目を合わせようとはしなかった。
「目を覚ましたんだね、芳澤さん」
「……少し前から、です」
僕の言葉に、芳澤さんは顔ごと視線を横にずらしてそう呟く。少し後ろめたそうにしているのは、盗み聞きしてしまったという負い目があるからだろうか。
「私は、
そう言って顔を上げた芳澤さんは、今にも泣きそうなくらいに表情を歪めていた。そう思うのなら、君が本当に心から選択したのなら、どうしてそんなに辛そうな顔をするんだ。
「だって……! 私がそれを選んだら、副会長さんは……!」
「そうなったとして、僕がその結果を芳澤さんのせいにすることはあり得ない」
僕は玉座に腰かけた芳澤さんと視線を合わせるように腰を屈める。潤んだ彼女の目をじっと見つめれば、彼女の身体が強張った。
「僕が孤独になるのは、僕の選択故だよ。僕と丸喜先生の問題なんだ。だから芳澤さん、君の選択に僕という言い訳をくっ付けちゃいけない。それは芳澤さんの免罪符にはならないんだよ」
「……っ!?」
芳澤さんがかすみとして生きていくことを選んだと言うのなら、その天秤の反対側に僕という余計なものを載せちゃいけない。それは彼女の選択を不当に重たくする。片方の天秤が重たいほど、それでもと選んだもう一方を正しいと思うのだから。
「でも、でも……! 私がかすみでいることを諦めればあなたは元に戻れるじゃないですか! でも、そうしたら私はもう立ち上がれない……」
僕の視線から逃れるように、芳澤さんは顔を手で覆った。僕が何を言ったところで、彼女にとっては僕は自分自身を人質として彼女に選択を迫っているようなものなんだろう。
どう言葉を掛けるべきかを迷い、結局は何も言葉が出てこないまま、僕の手は彼女の頭に置かれた。僕の手が触れると僅かに彼女の身体がびくりと震えたものの、それ以上に拒絶するような反応は返ってこなかった。
「……もし、私が
それどころか、彼女はそう言いながら顔を覆う手を外し、そのまま僕の手を掴んだ。
「副会長さんは……、海藤先輩は、私を支えてくれますか……?」
そして紡がれる言葉は弱々しく、道に迷った子どもが不安げに道行く人に尋ねているときのようで。
「私の名前を、呼んでくれますか……?」
それは多分、彼女が絞り出した救いを求める声なのだと思う。どちらを選ぶべきかに苦しみ、もがく彼女が縋ることの出来る何かを必死に掴もうとしている。
僕がすみれと呼べば、彼女はすみれとして生きることを選ぶのかもしれない。でも、僕は彼女のその選択を肯定してあげることは出来ない。
「……芳澤さん」
彼女の問いを否定するように、僕は彼女の名字を呼んだ。
「自分で選ぶしかないんだ。誰かに自分の存在そのものを委ねちゃいけない。僕が出来ることは選択に向かう君を応援してあげることだけ。隣に立って転びそうなときに少しだけ支えることしか出来ないんだ」
僕が芳澤さんの代わりに選択することは、丸喜先生のやっていることと本質的に同じになってしまう。それは僕自身が許さない。
「だから芳澤さんも一緒に見て欲しい。自分で選んだ人の姿を。その選択の重さを」
鴨志田、斑目の二人を見た蓮の中ではある予感が確信へと変わりつつあった。
「徹と関わった人間はこの世界を受け入れていない」
「……なるほどね、鴨志田も斑目も、改心の直前や直後に徹と会話している。そのことが彼らの認知に大きな影響を与え、この世界でもそれがフックになって違和感に気付けたわけだ」
蓮の考えを聞いた明智は、電話越しにも分かるほどに弾んだ口調で言う。
「痛快だね。皆がこの世界を求めてる? 少なくとも俺達以外にも、この世界にNOを突き付ける人間がいるじゃないか。それも本来ならこの世界を喜んで受け入れてもおかしくないとびっきりのクズ達だ」
「怪盗団の改心も関係してると思う?」
「まず間違いないね。改心で認知に大きな変化が起こったからこそだろうね。じゃなきゃ、徹と関わった人間は皆違和感に気付いてなきゃおかしい。そうじゃないのなら、そこには確実に法則性がある。ま、俺達みたいに徹と深く関わりがあるから、という線も捨てきれないけどね」
あのいけ好かないイグとかいう奴が関わってる可能性だってある。
そう言った明智に、蓮はふと浮かんだ疑問を口にする。あのイグという存在は間違いなく強大な存在だ。今のような異常事態で、あの存在が介入してこないのは何故だろうか。
「さあね。アイツの真意は分からないけど、大方俺達がどう動くのか高みの見物でもしてるんだろうさ。不確定要素はそもそも勘定に入れるべきじゃない。それで、今日は誰に会いに行くつもりなのさ?」
「……春に会いに行ってくる」
「奥村の娘か。なるほどね、それはまた面白いものが見られるかもね」
蓮が口にした名前に、明智がどこか楽しそうな調子で言葉を返した。そんな明智の様子を訝しんだ蓮が問い質すが、明智は行けば分かるとだけ言って答えようとはしなかった。
そしてその日の午後、春からの連絡を受け吉祥寺へと足を運んだ蓮は、空きテナントを前にして熱心に話し込む奥村社長と春の二人を見つけたのだった。
「この時間帯の人通りはまずまず、候補地としては十分だな」
「そうだね。後は土地柄、客層を考えると素材やインテリアは拘った方が良いかも。前に話した地元野菜のメニューを展開して、内装もナチュラルに統一しないと……」
話している途中で春と蓮の目が合い、春が嬉しそうに笑って手招きするので蓮は二人へと近づいていった。
「来てくれたんだ!」
「連絡貰ったから。お仕事?」
「今日はお父様のお手伝い。会社で出す新しい店舗の候補地を視察しに来たの。私が学校で育てた野菜を使ってプレゼンしたメニューなんかも加えてもらう予定で、あなたにもお礼を言いたくて」
そう言う春の表情は、今がとても充実していて楽しいということを見る者全てに伝えるような笑顔だった。
「友人かい?」
そして春と親しげに話す蓮を気にしたように、奥村が春にそう問いかける。それに春は頷くと、手で蓮を示して紹介する。
「そう。同じ学校の後輩で、いつも仲良くさせてもらってるの」
「そうか、挨拶が遅れて失礼したね。春の父、奥村邦和だ。いつも春がお世話になっている」
「よろしくお願いします」
穏やかな表情で笑う奥村に、蓮はそう返してペコリと頭を下げる。自然とそうすべきだと思えるくらいに、奥村からはオーラのようなものを感じていた。
「そういえば、同じ学校といえば彼は知り合いかね? 海藤君は」
次に奥村がごく自然に発した名前に、蓮は目を丸くした。予想はしていたものの、やはり奥村も徹のことを覚えていた。しかし、春はキョトンとした顔で首を傾げている。
「海藤くん……? えーっと、ちょっと分かんない、かなぁ」
「……そうか」
春の答えに、奥村は少しの沈黙の後にそう返す。そして蓮へと視線を移すと、その表情を見て納得したように頷いた。
「まだ返しきれていない恩があるものでね。何かすべきことがあるのなら、いつでも言ってくれたまえ」
「……奥村社長は、覚えてるんですか?」
「もちろんだとも。仕事柄、人の顔と名前はすぐに覚えられるし、忘れたりなどしない。ましてや、彼ならばな。私の心を、そして命を救ってくれたのだから」
「二人とも知ってるの? それにそんな恩人を私が忘れちゃってるなんて……」
蓮と奥村が通じ合っている様子を見て、春はますます首を傾げている。そんな春に向けて奥村は柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
「春ならすぐに思い出すだろう。なんなら、私は春が彼を隣に連れてきて私に紹介してくれるのを楽しみにしているくらいだ」
「お父様!?」
急に突飛なことを言い出した奥村に、春が顔を赤くして素頓狂な声を上げた。一方で蓮は不機嫌そうに目を細めて奥村を見やる。
「おや、やはり競合は多いか」
「これ以上増やされたら困る」
「ビジネスと戦争、そして恋にライバルは付き物だろう?」
胡乱な目をした蓮をからかうような奥村は、しかしすぐにその表情を引き締めて春へと向き直る。
「春、よく聞きなさい。私はとんでもない過ちを犯した。人の心を蔑ろにし、家族すら駒と見なすようになった。だからこそ、春にはそうなって欲しくない。頼りなさい、けれど頼りきってはいけない。上に立つ者は知恵を借りても良いが、最後には自分で舵を取ることが求められる。難しいが、春なら出来ると私は信じている」
「え、お父様……?」
「急に何を言っているのかと思うかもしれないが、覚えていてほしい。私が春に残せるものはそう多くないのだから」
「そんなこと、だって私はお父様を手伝ってそれで一緒にお仕事を……あれ、どうして、何かがおかしい……?」
奥村の畳み掛けるような言葉に混乱しつつ、しかし僅かに生じた違和感に顔を曇らせる春。
「ねえ、私は何を忘れちゃったの……?」
「春なら大丈夫。待ってるから」
そして不安げな表情で蓮へと問う春。それに対して蓮は答えを返すことはなかった。明智に言われた通り、蓮は選択肢を提示した。春に違和感を覚えさせることはしたが、それを突き詰めるのかあるいは見なかったことにするのかは、春自身の手に委ねられた。それで良いのかと目で問いかけてくる奥村に対し、蓮は小さく頷いて返した。
「……私が春を唆すとは疑わないのかね?」
「唆すの?」
「まさか、私はそのような恩知らずではないよ。もしかしたら、君にとってはそう見えていたこともあっただろうがね。今は、自分にすら嘘をつくような不誠実な人間にはとてもじゃないがなれんよ。たとえ目を逸らしたくなるような醜態だったとしても、それが私の歩んだ足跡ならば他ならぬ私だけはそれを否定してはいけないのだよ」
それが、彼との約束だ。
そう言って奥村は静かに笑みを浮かべた。