「鴨志田先生、怪盗団の最初のターゲットであり、君が最初に救った人だったね」
「救ったつもりはありません。僕は鴨志田先生に負けてほしくなかっただけです。逃げようとする自分や、人生の全てを否定される理不尽に」
丸喜先生の言葉に、僕はそう返す。僕が最後に鴨志田先生と交わした他愛ない約束。それは鴨志田先生が丸喜先生の作り出す幸福な世界で立ち止まらず、その歩みを進める源になったのだとするのなら、それは僕にとってとても嬉しいことだ。
「いいや、鴨志田先生は君との約束に救われているんだよ。……僕の救いを夢だと言ってしまえるほどに」
それはとても羨ましくて、そして悔しいことだよ。そう言って丸喜先生は苦笑する。彼にとって、誰もが自身の差し出す救いを求めるという言葉が裏切られた形になるからだ。
「でもね、それでも僕は今の世界が鴨志田先生にとって一番幸せな世界だと言えるよ。この世界じゃ、鴨志田先生は過度のプレッシャーに押し潰されたりはしない。そしてそのストレスの捌け口を生徒に求めることも。少し皮肉屋で、ひねくれた性格ながら優秀な体育教師でいられるんだ」
それが心の底では鴨志田先生の望んでいた世界なんだよ。
鴨志田先生の心にも直接触れたことで、丸喜先生はそれが鴨志田先生の隠された幸福への渇望だと知っている。
「今は君との約束を覚えているかもしれない。けれど、この世界に馴染んでくれさえすれば、その状態こそが幸せだと気付けると僕は思っているよ。鴨志田先生自身も、その周りもね」
周りも、という言葉に僕は少し言葉に詰まる。それは僕自身が鴨志田先生の行いを見てきたから。過酷なシゴキを受け、心も身体もボロボロにされてしまったバレー部員を見た。鴨志田先生のセクハラを嫌だと思いながらも、周囲の圧力によってそれを口にすることが許されないまま心に傷を負ってしまった人もいる。丸喜先生の世界ではそんな被害は無かったことになる。それは被害を受けた当人にとって、何よりの救いになることだろう。
「僕の世界は、最も多くの人を幸せに出来る世界だ」
そう言い切る丸喜先生を、僕は否定する言葉を持たない。彼の言葉は、間違っていないのだから。丸喜先生の救いそのものが僕の信念に反するというたった一点のみで僕は彼の救いを受け入れられていない。
「どうだろう。今の君にとって、まだ僕の救いは受け入れられないものかい?」
そう言った丸喜先生の顔は、穏やかな笑みを浮かべてはいるものの、眼鏡の奥の目は僕に対して挑戦的な光を発していた。自分の言葉に絶対の自信を持っている人の目だ。
本当なら、丸喜先生の言葉を否定できない時点で僕は彼の救いを認めるべきなんだと思う。だけどそれを認めることは出来ない。
「丸喜先生を受け入れることは、僕との約束を覚え、自分の罪と向き合い続けている鴨志田先生への裏切りです」
「その鴨志田先生がもっと幸せになれるのだとしてもかい?」
「犯した罪は消えません。無かったことにしてしまえば、自らが選んだ道を、自分自身を否定してしまう」
「……綺麗事だよ」
「綺麗事です。でも、丸喜先生の世界も綺麗事でしょう?」
今度は丸喜先生が表情を曇らせて俯いてしまう番だった。僕の言葉は丸喜先生の言う通り綺麗事だ。今まさに苦しんでいる誰かがいることから目を逸らして、自分の見えている世界だけで話をしている。僕は玉座で眠ったままの芳澤さんに視線を移す。今は穏やかな顔で眠りについている彼女は、一体どのような夢を見ているのだろう。
「例えば、芳澤さんは本当は新体操よりも別のことに才能があったとしたら。新体操を続けても彼女が苦しむだけだとして、諦めて別の道を探せば大成する道があったとすれば。丸喜先生は、彼女に新体操を諦めさせるんですか?」
「……叶わない夢を見続けるのなら、その方が幸せだと僕は思うよ」
「それなら、彼女が新体操に費やしてきた時間は全てが無駄になりますか?」
そう問いかければ、丸喜先生は押し黙ってしまう。その人がやりたいと思っていたものに対する才能が無かったとして、その夢を叶えるための努力は全てが無駄になるのだろうか。
「努力そのものが尊い、なんて言うつもりはありません。でも、歩んできた道全てが無価値なものだなんて言う権利は、少なくとも本人以外には無いんです」
その道の先で報われなかったとしても、その道を歩き通せず、最後には別の道に行ってしまったとしても、その価値を計る天秤をどちらに傾けるかを選べるのは本人だけだ。
「……それも、君の遠く色褪せた不思議な記憶が言わせるのかい?」
「全てひっくるめて、僕という人間の意思です」
「それなら、君という一人の人間が僕の世界を偽りだと否定するんだね。矛盾を孕み、虚飾に満ちた世界だと」
「平行線、ですね」
そう言えば、丸喜先生は曇らせた顔を緩めて小さく笑った。僕も苦笑する。我ながら頑固だと思う。僕の言葉はそれこそこれまで多くの人と交わしてきたもののまま、何一つ変わっていない。それはともすれば、理想の世界を否定する愚者なのだけど。
「でも、僕は丸喜先生のことは好きですよ」
「相容れない君をこうしてここに閉じ込めているのにかい?」
「実は僕、もっと酷いところに閉じ込められた経験もあったりしますから」
冗談めかして言えば、丸喜先生は今度こそ吹き出して屈託ない笑みを浮かべた。それに釣られて僕も笑う。僕と丸喜先生は今、自身の根幹をなす価値観を剥き出しにしている。そこには当然相容れないところもあるし、互いに許容できないところだってある。けれどそれは現実でも往々にしてあり得ることだ。もしそうだとしても、人は互いにその譲れない一線に触れない領域で仲を深めることが出来る。だから僕は丸喜先生を諦めたくない。
「丸喜先生には、もっと現実で話したいことや教えて欲しいことがあるんです。丸喜先生に人々の願いを叶えるだけのものになって欲しくはありません」
竜司、鴨志田と言葉を交わした次の日、蓮は上野へと足を運んでいた。年初から行われている特別展に祐介が訪れていると耳にしたからだ。
美術館の壁にズラリと並べられた絵画の数々、そこに付けられた作者名はバラバラだ。
そしてひと際多くの人が足を止めて見ている一枚の絵。赤衣を纏った女性が、慈愛に満ちた表情で腕に抱く赤子を見下ろしている絵。その前に、祐介は立っていた。
「ああ、蓮も来てくれたのか」
蓮の姿を見た祐介はそう言って誇らしげに絵を手で示す。
「母さんの絵がようやく評価された。今週いっぱいまでの展示だからな。お前と一緒に見たかったんだ」
愛おし気な目で絵を見つめる祐介の姿は、満ち足りていることを全身で表現しているようだった。
「……俺は幸福な人間だ。この作品に焦がれ、魅了された。いつか日の目を見ることを願ってやまなかった。そしてその願いは、大恩ある師のおかげで叶えられた」
「大恩ある師、というのは?」
蓮はそう口にしつつも、半ば答えが分かっていた。ここが祐介の願った幸福な世界なのだとしたら、彼の口から出てくる答えは一つだけだろう。
「斑目先生だよ。今、あそこでインタビューを受けている」
そう言って祐介が指差した先には、テレビカメラを前にして穏やかに微笑む斑目の姿があった。
「斑目先生! 今回の特別展、大盛況ですね!」
「儂がかつて願っていた理想が叶ったと万感の思いですな」
「この斑目展は先生がずっと開催したいと仰られていましたね。芸術が作者の名ではなく、真にモチーフによって評価される世界」
「その通り。ここに並んでいる作品はそのどれもが言ってしまえば無名の芸術家の手によるもの。儂がこの目で見て、これまでの芸術人生で培った審美眼であらゆるしがらみを無視して多くの人の目に触れるべきだと選び抜いた作品たち。開催にあたっては私財を投じることにもなったが、後悔は全くないですとも」
静かに、しかし熱を籠めて語るリポーターと共に斑目は穏やかながら充実感溢れる表情で壁に掲げられた作品を見て回り、蓮と祐介のもとに辿り着く。
蓮はカメラに映らないように少し後ろに下がれば、斑目は申し訳なさそうに彼女に向かって一礼してから、祐介の背を押してリポーターへと彼を紹介する。
「ちょうど良い、紹介しよう。儂の弟子である喜多川祐介です。不甲斐ない儂を支えてくれた一番弟子。今日の儂がここにあるのは、祐介のお陰です」
「そんな! 母さんを亡くして身寄りの無かった俺を育て、芸術家にしてくれたのは斑目先生です。今日、俺がここにいられるのは斑目先生のお陰なんです!」
「祐介……」
斑目の言葉に頭を振って言い募る祐介。そこには大恩ある師への敬愛が溢れている。かつて、蓮が最初に彼と会った時、斑目が自身の着想を盗んでいることから目を逸らしていたときの祐介と同じかあるいはそれ以上の。
そんな祐介の言葉に、斑目は嬉しそうに笑うでも、気恥ずかしそうにするでもなく、僅かに口の端を震わせて祐介の名を呼ぶだけだった。カメラに背を向け、頭を下げている祐介には見えなかった斑目の顔には、どこか寂しそうな表情が浮かんでいた。
「先生のお陰で母さんの絵が評価されたんです!」
「……サユリ」
祐介がそう言って指した絵を再び眺めた蓮は、無意識にその絵の名前を呟いていた。今、その絵の脇に取り付けられているプレートには全く別の題名が記載されているのに。
「サユリ? この絵はそんな名じゃないが……」
そして祐介が怪訝な表情で蓮にそう返した一方で、斑目の変化は劇的だった。目を大きく見開き、口髭をわなわなと震わせて驚きを露わにしている。その顔を見て、蓮は彼も鴨志田と同じく気付いているのだと悟った。そしてじっと自身を見つめる斑目に向かって、一度だけ小さく頷いて見せた。
「そうか……、やはりそうだったのか……! 儂の目は曇っていなかったのか」
「先生?」
何か納得したように呟きながら何度も頷く斑目に、祐介が気遣わし気にそう声を掛ける。しかし、顔を上げた斑目の顔は先ほどまでの驚きに満ちたものから、芸術の大家と呼ぶに相応しい風格に満ちたものに変わっていた。
「祐介、儂は今からアトリエに戻って絵を描く」
「本当ですか!? 久しぶりに先生の絵を見られるんですね!」
「取材に来ていただいた皆様も申し訳ない。儂は今すぐ、やらねばならんことが出来ました」
「絵を描く、と仰っていましたがもしかして次の個展の作品でしょうか?」
期待に満ちた表情でリポーターがそう問えば、斑目は一瞬だけ考え込むような素振りを見せ、口元に微かな笑みを浮かべて頷いた。
「個展、そうですな。ある意味、個展でしょう」
「おお! 何か着想を得たのですね?」
「着想、というものでは無いのです。ただ、儂は恥じない生き方をせなばならんのですよ」
「恥じない生き方、ですか……?」
斑目の言葉を復唱しながら首を傾げるリポーター。要領を得ない答えだが、斑目はそれに構っていられないとばかりにワクワクとした様子を隠そうともしない祐介へと顔を向けた。
「祐介、お前はとても優秀だ。だからこそ、お前は曇りなき目で儂の絵を見るべきなのだ。虚飾に惑わされず、筆に宿る人間の醜い内面までもをお前なら見通せるはずだ」
「せ、先生?」
斑目の言うことが飲み込めなかった祐介が、先ほどまでとは打って変わって戸惑った様子を見せる。しかし、それを意に介さない、意に介している時間が無いというように斑目は祐介を連れて行こうとする。
「せ、先生! 出来れば次の作品のモチーフだけでも教えて頂けませんか!?」
そんな斑目に食らいつくようにしてリポーターがマイクを向ける。それに班目はピタリと足を止めると、カメラの方へと振り返った。斑目の目尻に僅かに光った涙の粒を、蓮の目が捉えた。
「儂がかつて見た朧げな記憶の中の富士山。人の手が及ばぬ神域にある頂き。されど、そこに至る気持ちを諦めぬ芸術家の魂。名付けるならばそう、『目指す頂』。儂は今こそ、この絵を真に完成させねばならんのです。この一炊の夢が覚めぬうちに」