「芳澤さん……」
玉座のような大きな椅子に座ったまま眠らされている彼女の顔は、少し苦しそうに眉根を寄せていた。
自らにとって辛い現実を再認識してしまった芳澤さんは、丸喜先生の治療を受け入れ、深い眠りの中で再び芳澤かすみとして生きるための準備をしているという。この場に残されたのは僕と彼女だけだった。
「僕の力がどうやって彼女を救うのか見て欲しい。そのことが君の理解を得るのに必要だと僕も思ってる」
その言葉を残して治療の途上にある彼女と僕を引き離すことをしなかったのは、丸喜先生が僕に彼女が生まれ変わる瞬間を見せたいと思ったからだろう。
辛い現実に耐えられず、丸喜先生の手を取ることを選んだ芳澤さん。けれど、夢を見ているであろう彼女はどうして苦しそうな顔をしているのだろうか。
「丸喜先生、芳澤さんはどんな夢を見ているんですか……」
「認知を改変する、幸福になる為の準備だよ」
僕が呟いたその声に、いつの間に現れたのか丸喜先生がそう言って眠る芳澤さんの肩に手を置く。その手を通じて丸喜先生の力が流れ込んでいくかのように、芳澤さんの表情が穏やかなものに変わった。それと対照的に、丸喜先生の顔が曇る。
「彼女がどうなりたいのか、何を幸福と思い、何から目を逸らしたいのか。それを彼女の心から僕が掬い出し、現実にする。その為に、ほんの僅かな間だけ彼女の心が軋む」
だけどその記憶も含めて、次に目覚めたときには消えているよ。そう言って丸喜先生は表情を緩めて彼女から手を離した。
「丸喜先生はこの世界のあらゆる人に対して同じことをし続けるつもりですか?」
「そうなるね。僕は人々の苦しみを吸い上げ、幸福を具現化する」
「その過程で、丸喜先生は皆の苦しみを体験することになるんですね」
「……それが僕の選んだ道だよ。そうすることで、皆が幸せになれるんだ」
丸喜先生が作る誰もが幸福な世界は、誰もが感じる苦しみ、辛さを丸喜先生一人が受け止め続ける世界だ。
「丸喜先生だけが救われない世界ですよ、それは」
「明智君にも言われたけれど僕のこれは自己満足だと言われても仕方ない。世界を巻き込んだ自己満足なんだとしたら、これが報いなんじゃないかな。それにこの自己満足には君も巻き込んでしまっている。報いにしてもまだ足りないとすら思うね」
そう言って丸喜先生は僕を見て笑みを浮かべる。どこか安堵したようにも見えるその笑みは、丸喜先生が自分に与えられる痛みをむしろ喜んで受け入れているようにも思えた。それが僕を巻き込んだことに対する罰だと思っているように。丸喜先生はそれで満足しているのだとしたら、僕はそれに対して否を突き付けることになる。
「止めてください。僕はここに残ることを自分の意思で選びました。そこに丸喜先生が罪悪感を覚える必要は無いです。……何より、自分を罰する言い訳に僕を使うのは止めてください」
「っ!? 君は……」
僕の言葉に丸喜先生が先ほどから一変して、驚きに表情を歪めた。その表情は、自分でも思いもしていなかったところを突かれたと言わんばかりのもの。
「あなたは優れたカウンセラーです。こんな大それたことをしなくとも、心に傷を抱えた人を救うことだって出来る。こんなに自分を犠牲にする方法を採らなくても良かった。でもそうしなかった理由はなんですか。どうして丸喜先生は、自分が生きている理由が無いと卑下するんですか?」
丸喜先生がここまで自分を擲てるのはどうしてだろうと考えていた。そして僕が至った結論は、僕が自分自身をそう思うのと同じように、彼自身も自分にそこまで価値を見出していないんじゃないかというものだった。けれど、丸喜先生がそれに至った経緯は僕には分からない。
「……どうしてそう思うんだい?」
「僕も同じだからです」
僕には不思議な記憶がある。ここでは無いどこか、今ではないいつか、日本に生まれ、生涯を終えた記憶が。色褪せた無声映画のように、切れ切れの断片的な情景だけが残るものだけど、僕は海藤徹として生きるはずだった誰かを圧し潰して生きている。僕にあるのはそうなってしまったことへの罪悪感だ。丸喜先生が時折眼鏡の奥で感情の読めない目を見せるのは、僕が鏡を通して自分を見ているときのそれとよく似ていた。
「そうだとしたら、なおさら君は僕の手を取るべきだ。君の苦しみを、僕なら取り除いてあげられる。その記憶を忘れて、海藤徹として罪悪感なく生きることが出来るんだよ」
「いいえ、僕はそれを望みません。それも含めて、僕はもう僕として生きてしまっています。その傷も、罪悪感も、全てが海藤徹です。イグにも、そう言われました。それを否定した先には、僕はもういません」
丸喜先生が伸ばした手を、僕は首を横に振って否定する。受け入れたいかどうかに関わらず、直面し続けなければいけない問題は存在している。全てを受け入れることは出来なくても、それを抱えて生きていくしかない。
「それが出来るのは君が強いからだ! 皆が皆、そんなに強くいられないと僕は以前にも言った!」
「丸喜先生の優し過ぎる世界は、強くなれる人を生まない世界です」
「弱い人の方が多いんだよ。現実は、皆には残酷過ぎる……」
「ならこれから蓮達と約束した一週間、一緒に見てみましょう。丸喜先生が弱いと思った人が、弱いままでいることを良しとするかを」
丸喜のパレスから脱した蓮と明智は、丸喜との約束通り一週間は認知改変された世界で過ごすことを選んだ。
「丸喜の提案を受け入れたわけじゃない。俺は情報を集める。君は怪盗団の目を覚まさせてやるんだ」
「…………分かった」
「お仲間が本当に幸せになっているとしたら、起こすのが可哀想だと思ってるのかい?」
明智の言葉に少しの間を置いて頷いた蓮の内心を、彼は敏感に察していた。蓮が言葉に詰まっている姿を見て、明智は頭を掻きむしりたくなる気持ちを押さえつつ、口から漏れるため息は堪えられなかった。
「怪盗団はそんなに腑抜けだったのかい? 俺がベットしたのは理不尽な現実にも負けず、立ち上がる人間だったはずだろう」
「でも、双葉は幸せそうだった。惣治郎も」
蓮の脳裏に蘇るのはルブランで楽し気に一色若葉と言葉を交わす双葉と惣治郎の姿。あの幸せな光景を自身の手で打ち壊すことが許されるのか、双葉のパレスに侵入し、彼女が母親である一色若葉を失った時の悲しみや絶望を知ってしまっているだけに、蓮の迷いは深い。
「……だから徹は見捨てるのかい?」
しかし、蓮が仲間の幸せを取れば、その先に待つのはこの世界に居場所を失ってしまった徹との永劫の別れ。明智の言葉がまた蓮の心に重くのしかかる。
「ハァ、君ってやつは意外に抱え込む面倒なタイプなんだな」
「どういうこと?」
黙りこくってしまった蓮を前にして、明智が呆れたようにため息を漏らす。それに首を傾げた蓮の頭に、明智の手が乗せられた。
「君がやることは怪盗団に選択肢を与えることだけだ。本当に奴らがこの生温い世界から抜けたくないと思ったなら、俺達に協力なんかしないだろ。その時は俺が全部ぶっ壊してやるだけなんだから君が気に病むだけ無駄さ。そもそも、奴らがどうなれば幸せなのかとか、それを自分がどうにかするのが怖いだなんて烏滸がましいね。それは丸喜と同じ考え方だよ」
そう言いながら、明智は蓮の頭をぐりぐりと撫で繰り回す。少し乱暴なその手付きはしかし、彼が慣れないながらも蓮を慰めようとしているのが伝わってくるようで、思わず蓮は吹き出してしまっていた。
「なんだよ、人が折角気を遣ってやってるのに失礼な奴だな」
「ごめん。でも、ありがとう。まずは皆と話してみることにする」
「そうしてくれ。俺の方でも情報が纏まったらまた連絡する」
そう言葉を交わしたのが昨日のこと、蓮は次の日、早速行動を開始した。
まだ正月の雰囲気を色濃く残す街に出て、向かった先は秀尽学園。冬休み期間の今は登校している人間もほとんどいないが、熱心な部活動は既に活動を再開していた。
そして蓮の視界に、校門のところで熱心に話し込んでいるジャージ姿が映る。
「おいおいおい! それ、大学からスカウト来たってことじゃん!」
「馬鹿、声でけーって! それにまだ確定してねえしな……」
「でも全国でも上位だったし、全然あり得るんじゃねぇ!?」
興奮した様子の二人の男子に挟まれ、それを窘めながらも嬉しそうに口元が緩んでいるのは特徴的な金髪と、冬でも半袖シャツだけという活動的な服装の竜司だった。
それをじっと見ていた視線に気付かれたのか、竜司が同級生の二人から蓮の方へと視線を向け、二人の目が合う。まさか冬休みに会うとは思っていなかったのか、竜司の目が驚いたように丸くなった。
「蓮! どうしたんだよ、冬休みだってのに」
「少し近くに用事があったから」
本来の目的について言うわけにもいかず、そう濁した蓮を見ていた竜司の同級生二人がニヤニヤと揶揄うような表情に変わっていく。
「もしかして竜司の推薦祝い?」
「ってことはこれからデートかよ、推薦も取って順風満帆じゃねえか。爆発しろ」
「ばっ!? ち、ちっげーよ!」
囃し立てる二人に慌てて否定している竜司の姿は、これまで怪盗団として活動してきた中でもあまり見ることが無い晴れ晴れとしたものだった。鴨志田によって足を壊され、陸上の夢を断たれた竜司。彼が願った幸せは、それを乗り越えて再び陸上の世界に戻ることだった。
「おいおい、冬休みに殊勝だと思ったらサボりかぁ?」
そう思っていた蓮の思考を遮ったのは、今年の春以来、久しく聞いていなかった声。竜司と肩を組んで揶揄っていた男子二人は、その声を聞くと「やべっ」という声と共にそそくさとランニングへと繰り出して行ってしまった。
「……鴨志田」
「先生、を付けろよ。ま、冬休みだからあんまりとやかく言わないけどな」
蓮の言葉にそう返しながら、ウィンドブレーカーに身を包んだ鴨志田が校門の階段を下りて竜司と蓮の前に立つ。
「んだよ、もう陸上部の臨時顧問でもねーだろ」
「そうだけどな。釘を刺しといてくれって顧問の先生から言われたんだよ」
竜司がうげぇと言いたそうに表情を歪めたが、鴨志田はそれに対して呆れたように鼻を鳴らすばかりだった。
「俺だってバレー部の練習抜けて様子見に来てやってんだ。少しは感謝しろ」
「お前のオーバーワークのせいで俺は一回膝壊してんだよ」
「……それについてはいくら謝っても足りないと思ってるさ」
そう言う鴨志田の姿に、蓮はこの世界での鴨志田の願いが何なのか思い至る。
「だから、推薦に浮かれてオーバーワークするなよって言いに来たんだ。お前の足なら大学でコーチが付けばもっと伸びる。練習するなら体力を落とさない程度にしておけよ」
普通の体育教師として、秀尽学園で過ごすこと。自らの罪に向き合い、それを清算し、学園を自らの城として裸の王様になる事無く過ごせる世界。
「……そうかよ」
「腐っても元アスリートだからな。俺のことが気に入らないのは良い。だが、気に入らなくとも必要なら知識だけは取り込んどけ、そうやって利用してやるくらいに思っとけば良い」
その世界はもしかすると、ボタンの掛け違いがいくつか起こっていればそうなっていたのかもしれない。
鴨志田はこれで用事は終わったとばかりに頭を掻くと、バレー部の練習に戻ると階段を上り始める。しかし、その途中で何かを思い出したように立ち止まると、二人の方へと肩越しに振り返った。
「もう一つ、俺からの最後のアドバイスだ。坂本、もし長く走りたいならその猫背止めとけ。普段の姿勢から首や腰に変な負担がかかる。俺は陸上は素人だが、スポーツマンなら基本だぞ」
「お、おう……何だよ急に、気持ち悪いな」
「憎まれ口ばっかり叩きやがって。ま、遺言とでも思っとけ。どうせ夢みたいなもんなんだからな」
「はぁ? さっきから一体何言ってんだよ?」
「分からんならそれで良い。夢が覚めるまでは精々罪滅ぼしでもするさ。……ここじゃ、俺の必殺スパイクを教えてやるって約束も果たせそうに無いしな」
そう言って校舎の中へと消えていく鴨志田を竜司は首を傾げながら見送る。その様子を見ながら、蓮は竜司に向けて口を開く。
「竜司は今、幸せ?」
「へ? お、おう、蓮と一緒に色々頑張って、そんで陸上でも結果出して鴨志田のヤロウにも認めさせて……」
蓮の問いを肯定した竜司だったが、言葉が尻すぼみに小さくなっていき、表情も曇っていく。
「なんだこの違和感……。俺、何か忘れてんのか?」
「……竜司が納得できる選択をして欲しい」
その言葉だけを残し、蓮は難しい顔をして押し黙ってしまった竜司を残して秀尽学園を後にした。