年が明けてから、拭い様の無い違和感が蓮の頭の中に残り続けていた。
モルガナを名乗る端正な顔立ちの青年。彼は確かに怪盗団として蓮と一緒に数々の困難を乗り越えてきたと言う。
双葉と惣治郎が笑顔を浮かべて言葉を交わす、眼鏡を掛けた柔らかな雰囲気の女性、一色若葉。
芳澤に誘われ、初詣に出掛けた。けれど眠る前には誰か他の人にメッセージを送ったようなぼんやりとした記憶が残っていた。けれど蓮のスマホには、彼女が芳澤以外にメッセージを送った履歴は存在しなかった。
怪盗団の面々と初詣に向かった神社で出くわした。皆、晴れ晴れとした笑顔で新年の挨拶を互いに交わした。
そして次の日、ソファで寝息を立てるモルガナを前に、蓮の中で膨れ上がり続ける違和感はついに内心に隠しておけなくなってしまった。
「どうしたんだよ、そんなに泣きそうな顔して……」
屋根裏からルブランの店内へと降りてきた蓮の顔を見た惣治郎の第一声はそれだった。その言葉に、蓮は鼻の奥がツンと熱くなったような気がした。
「お、おい、どうしたってんだよ!?」
「あ、あらあら、大丈夫?」
焦ったような声で惣治郎がカウンターから出て蓮の前に立つ。その様子を見ていた一色若葉も心配そうな表情を浮かべて蓮へと声を掛けた。蓮はそんな二人の顔が何故か滲んで見えて、そこでようやく自分が涙を流していることに気が付いたのだった。
「わ、分からない……。でも、止まらない……」
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、そしてそこから止めどなく悲しみが溢れ、涙となって目から溢れていくような感覚を覚えた。何かがおかしい、何かが足りていないのだ。この世界には、皆が笑顔で、満ち足りているこの世界には、蓮にとって決定的な何かが足りていなかった。
惣治郎が用意してくれた豪華なおせち料理を前に、蓮は大人二人と双葉に慰められていた。後から目が覚めて一階へと降りてきたモルガナが素っ頓狂な声を上げて驚くほど、今の蓮の姿は普段からは想像がつかない弱々しいものだった。そして、ようやく涙が止まる気配を見せ始めた頃、ルブランに来客を告げるベルの音が響く。
「……君はまともなようだね」
そう蓮に声を掛けたのは、苦虫を嚙み潰したような表情の明智。人前に出るときにいつも浮かべている爽やかな笑みは鳴りを潜め、眉間に寄った皺は苛立ちすら感じさせる。
「明智……?」
来客に気付いた双葉がその名を呼べば、貼り付けたような笑みを浮かべて明智は惣治郎達へと向き直る。
「ちょっと雨宮さんに話があるんですけど、良いですか?」
「あー、今はちょっと……」
「良い。私も明智に聞きたいことがある」
後頭部に手をやって躊躇いを見せる惣治郎だったが、蓮は彼の言葉を遮って席を立つ。蓮の中に居座るこの違和感ととてつもない悲しみの正体を、目の前に立つ男は知っているかもしれないと思った。
「ちょっと出ようか」
そう言われて店の外に出た二人は、人気の少ない場所を求めて路地裏を歩く。辿り着いたのは、細い路地の奥にひっそりとあるコインランドリーだった。自分達以外に誰もいないことを確認した明智は、蓮に椅子に座るように勧める。
「どこから聞きたい?」
蓮が腰掛けたのと殆ど同時に、明智はそう切り出した。主語も何も無い問い掛けはしかし、蓮にとってはその意図するところを正確に理解出来るもの。
「何が起こってるの」
「……まずは僕がここに居る理由から話そうか」
その言葉と共に明智が語ったのは、クリスマスイブのあの日、冴について警察へと出頭してからのこと。
精神暴走事件の首謀者であった獅童の立件のため、実行犯として名乗りを上げた明智は、警察で精神暴走の手法や自らの知る被害者、そして獅童の協力者を逮捕する為の証言をしていた。
「でもそれが今日になって突然釈放だ。信じられるかい? 何人も殺してきた殺人犯を無罪放免するような警察がいるんだって」
それだけで明智が今起こっている異常を認識するには十分だった。釈放された彼は、蓮に会うためにルブランを目指す道すがら、ニュースサイトや道行く人の会話から情報収集を行ったという。
「獅童が精神暴走事件の首謀者として拘束されているのは変わりない。だけど、色々とおかしなことが起こってる。まず一つ目は」
「一色若葉」
「……ようやく頭が回り始めたね」
明智の言葉を引き継いで違和感の原因たる人物の名を口にした蓮。そんな彼女に、やっとかと言わんばかりに明智は鼻を鳴らす。
「認知訶学の第一人者。その知識を独占するために、獅童によって葬られた最初の犠牲者だよ。それが何故か生き返っている、いやそもそも『死んでいない』」
「死んでない?」
「どこのニュースサイトにも一色若葉の死を報じるニュースは掲載されていなかったよ。代わりに国の研究施設に所属していることになっていた」
そう言って明智が差し出したスマホの画面には、とある研究施設の職員紹介のページ。そこにはハッキリと一色若葉の名が記されていた。
「だけどもし一色若葉が生きていたんだとしたら、獅童の企みがあそこまで上手くいくわけが無い。認知訶学は一色若葉がパイオニアだ。獅童の採った方法なんてすぐに見抜く。でも怪盗団は存在している。何もかもが矛盾してるんだよ、この世界は」
明智の言葉に蓮は自身のスマホでとあるウェブページを表示する。それは、クラスメイトである三島が怪盗団の知名度を上げるために開設したサイト、怪盗お助けチャンネル。そのページは確かに存在していた。怪盗団に助けを求める掲示板も変わらずにあり、蓮達が今まで依頼を解決してきた形跡も残っていた。
「そして何よりもだ、この世界には決定的におかしいところがある」
「……徹がいない」
「今度はちゃんと気付けたみたいだね」
蓮の言葉に、明智は満足げに頷いた。
「ここに来るまでに徹と連絡を取ろうとした。けどスマホからは連絡先が消え、誰に聞いても海藤徹なんて人物の名前は出て来なかった。考えられるかい? 人一人が生き返っただけじゃない、『いなかった』ことにされたんだよ!」
その言葉と共に明智の拳がコインランドリーの洗濯機に叩きつけられる。ドン、という音の大きさが彼の抱いている怒りの大きさを物語っていた。
「認められるか! 僕の友達が、相棒がいなかったことにされてるなんて。死んだんじゃない、そもそも生まれてすらいないことになってるんだぞ!」
そこまで言って言葉を切った明智は、肩を大きく上下させて息を切らしていた。そして蓮を視線だけで殺さんばかりにギロリと睨みつける。
「君の顔を見た瞬間に分かったよ。君も徹がどこにいるか分かってない。だから取引だ、彼を取り戻してこのイカれた世界を元通りにする。君だって嫌だろう。誰だか分からない奴に徹を掻っ攫われたままだってのは」
「突然連れて来てしまって申し訳ないとは思っているよ」
目を覚ました僕の前には、申し訳なさそうに俯く丸喜先生が立っていた。白一色の部屋に、ポツンと置かれたベッドとサイドテーブル。どこかの病院だろうか。
「ここは僕の認知世界だよ。今の現実に、どんな認知にも繋がれない君が居続けるのは君自身への負担が大きいんだ」
「それは、僕が現実にはもう存在しないことになっているからですか?」
「……」
僕の問い掛けに、丸喜先生は沈痛な面持ちで黙りこくってしまう。認知が現実に影響を及ぼす。そして丸喜先生の「どんな認知にも繋がれない」という言葉。それらを合わせて考えれば、僕はどんな認知にも繋がれず、認知に強く影響を受ける現実ではもう存在しない人間になってしまっているのだろう。
「君にはいくら謝っても足りないと思ってる。だけど、君だけじゃない」
僕だって一緒だ。
丸喜先生はそう言って顔を上げた。
「僕はこの認知世界から皆の願いを叶えるために力を使う。誰もが僕の認知改変の影響を受ける。改変を与える僕という存在は、もう誰にも認知されない。丸喜拓人という人間は、僕の力が現実を完全に覆ってしまった瞬間から存在しなくなる。これが僕の覚悟だよ」
自分を礎として、この世界を救うと言った丸喜先生は、表情こそ冷静さを保っていたものの言葉の節々に抑えきれない熱を孕んでいた。それはどこか、僕に何かを切望しているようにも見えてしまう。
「……自分を犠牲にしたとしても、丸喜先生のやり方を僕が肯定することは出来ませんよ。今の話を聞いて余計にそう思ってしまいました」
「君をこうして巻き込んでしまったからかい?」
「違います。僕が巻き込まれたことよりも、丸喜先生がそうなってしまうことが僕は嫌です」
丸喜先生の言葉が確かなのだとすれば、彼の望みが真に成就してしまった場合、僕と丸喜先生は二人とも現実世界に居場所を失う。それは人間には到底耐えられない地獄だと、僕は思ってしまう。人は他人の際限ない欲望に無防備に晒され続けて平気でいられる程強くない。丸喜先生が成し遂げてしまった先に待つのは、数え切れない無辜の願いに精神を削られ続け、誰かの願いを叶え続けるだけの機械になってしまう未来なんじゃないだろうか。もしそうなってしまうのなら、それは僕にとって受け入れられない選択だ。
「丸喜先生の無制限の献身でしか成り立たない救いは、人の手に余ります」
「それを言えるのは君が強いからだ。弱くて、理不尽な現実に圧し潰されるだけの人を前にして君は救いを取り上げるのかい?」
丸喜先生に返す言葉は喉の奥で固まってしまって声にならなかった。例えば鈴井さんが鴨志田先生によって取り返しのつかない傷を負ったとして、そんな彼女が丸喜先生によって救われたのなら、僕はそれを否定出来るだろうか。正直に言えば、すんなりと頷くことは出来ない。
「僕の力はそんな人たちを救える。君の言葉に勇気づけられた人がいたとしても、それで立ち上がれるのは強い人だ。現実は、そんな人ばかりじゃない」
だからこそ、僕が救ってみせると、丸喜先生は強く言い放った。
「どうか僕の救いを理解して、協力して欲しい。今ここで、君が僕に協力してくれさえすれば僕の世界は完成する」
丸喜先生はその言葉と共に右手を差し出す。その手を取れば、僕は彼のやり方を認め、恐らくは彼と共に人を優しい微睡みの中に沈めるようになるんだろう。
丸喜先生の言う世界はとても優しいものだ。誰もが自分を否定されず、自分の夢を諦める必要が無く、過度な苦痛も無い。正しい努力は報われ、理不尽な現実から目を逸らし続けることが出来るんだろう。きっと、丸喜先生の世界を求める人の方が多いのだと僕も分かっている。けれど、僕は彼の手を取ることは出来なかった。
「……すみません。やっぱり僕はあなたの手を取ることは出来ません。丸喜先生の救いの方が良いと言う人は多いかもしれない。でも、僕は辛い現実を前にしても立ち上がった人たちを知っています。これは正しいとか、間違っているとかじゃない。僕の信念なんです。自分を救うことが出来るのは、自分だけです」
「その通りだ、徹」
僕と丸喜先生しかいないはずの部屋に、僕の言葉を肯定する声が響いた。丸喜先生にとっても予想外であったろうことは彼の表情を見れば分かる。そしてその声の方へと顔を向ければ、そこに立っていたのは、
「……僕?」
鏡を見ればいつも僕を見つめ返してくる人。僕を肯定した声の主は、他ならぬ僕の姿をしていた。
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