今年も残すところ後一日になってしまった今日。僕はというと机の上に開いた参考書の上をぼんやりと眺めているばかりだった。
「返事はしないで。私以外にも徹に気持ちを伝えたい人はいると思うから。でも、私を選んでくれたなら……嬉しいわ」
あの日、真はそう言うと逃げるように帰宅してしまった。残された僕は今日の今日まで、ぐるぐると答えの出ない自問自答を続けているというわけになる。
「まさか、というのは真にも失礼だろうなぁ」
仲が良かった自覚はある。真から信頼を寄せられていたことも。ただ、そういう意味合いだったとまで考えが及んでいなかった。
もしかしたら今までで一番頭を悩ませているんじゃないかと思う一方、クリスマスイブに蓮が言っていた意味はそういうことかとも合点がいった。合点がいったところで悩みが晴れるわけでもないけれど。
こんな状態で勉強なんて手につくはずも無く、僕は傍らに置いてあるスマホを起動する。そこには、蓮からの忘年会のお誘いのメッセージが表示されていた。
「……流石にこの状態じゃ皆と顔を合わせられないかな」
今、真の顔を見てしまうと僕らしくも無い表情を見せることになってしまいそうだ。今だって思い出すだけで顔が熱くなるのを感じているのに。
「僕がそういう思いを抱くなんて考えもしなかったな……」
考え事をすると独り言が多くなってしまう。実際に口に出すことで考えを整理する意味合いもあるのだけど。それ以上に、こうして口に出すことは僕にとって大きな意味を持っている。
「
自分自身に問い掛けるように手を胸に当てる。寝ている間に見る夢のように、僕のアテにならない前世の記憶とやらは風化してしまっている。けれど、それによって確立してしまった僕のアイデンティティは、本当に海藤徹という人間を反映していると言えるのだろうか。もしかしたら僕は秀尽学園に通っていなかったかもしれない。もしかしたら真と会うこともなかったかもしれない。誰もが人生で一度は考えたであろうたらればは、僕にとっては案外重たい問い掛けとなる。
自分が自分じゃ無いような、そこまではいかなくとも僕は他人よりは幾分か自身を客観視出来すぎるきらいがあると自覚している。それは幼少期に歪に確立してしまった僕のアイデンティティによるものだと分かっているけれど、それで改善出来るようなものでもないのも確かだ。
「……そういう意味じゃ、僕はこの世界を一番歪んで認知しているのかもしれないね」
答えが返ってくるはずの無い問い掛けをしてしまうくらいには。そしてそんな中途半端な僕が、誰かの隣に立つことが許されるのだろうかと思ってしまう。
真の口ぶりだと、少なくとも真以外にも同じように僕を想ってくれている人が一人はいるということだ。そのことはとても嬉しいのだけど、同時に重たい気持ちも浮かんできてしまうのだから困ったもの。
そんな風に悶々とした思いを抱えたままで部屋に籠っていても仕方ないと、僕は上着を羽織って家を出ることにする。一人で考え込んでも答えが出る訳でもない。僕は真にどう向き合うべきか、他にも憎からず想ってくれている人にどう答えを示すべきか。クリスマスムードは既に歩き去って行ってしまい、今は年越しの瞬間を心待ちにしている街を歩く。そうしてぼんやりと歩を進めていれば、気が付けば渋谷まで足を伸ばしていた。
「副会長さん?」
そんな僕の背中に聞き覚えのある声。それに振り返ってみれば、目を丸くして僕を見ている芳澤さんと目が合った。
「やあ、芳澤さん」
「えっと、こんな時間にどうしたんです? 先輩が忘年会に来てくれなかったってぼやいてましたよ?」
小走りで寄ってきて僕の隣を歩く芳澤さんがそう言ってイタズラ気な表情で僕の顔を覗き込む。
「もしかして、寝坊しちゃったりしました?」
「まさか。ちょっと用事があって行けなかったんだよね」
そう答えながら、僕は目の前の芳澤さんに強烈な違和感を覚えていた。それは先ほどまで僕の頭の中を支配していた悩みを全て吹き飛ばしてしまう程のもの。
僕が覚えている彼女との最後の会話は、間違ってもこうして軽い会話が出来るような空気を僕達の間にもたらすものじゃなかったはずだ。何より、僕は彼女にもう一度会った時に謝ろうとまで思っていた。それほどまでに、あの時の芳澤さんの剣幕は真に迫るものがあったのだ。けれど今の彼女からは何も感じられない。僕に対する不信や怒り、戸惑いも。あるのは、
目の前の景色が、不自然に揺らいだ気がした。
「……芳澤さん」
「はい?」
「この前はごめんね」
「え?」
僕が口にした謝罪を、芳澤さんはキョトンとした顔で受け止めた。何を言われているのか本気で分からないと言いたげな顔で。
「えっと……、
そう言って首を傾げた芳澤さんは、驚くほど自然だ。そのことが何よりも不自然に感じられるくらいに。
「そういえば、芳澤さんは丸喜先生が専属カウンセラーだったんだよね?」
「はい、そうですけど」
「……最近、丸喜先生には会った?」
「はい! ちょっと落ち込むことがあって、話を聞いてもらいました……。あれ、そのとき何を話したんだっけ……?」
まただ、また視界が揺れた。酷い風邪をひいてしまった時のような。
「でも、丸喜先生と話せてとてもスッキリしたんです!」
そう言って朗らかに笑う彼女の顔は、かつて彼女がそうならないといけないと苦しそうに叫んだ芳澤
芳澤さんと別れてから、僕は視界の揺れが酷くなる一方だった。段々と周囲の声も水の中に潜っているかのようにくぐもって聞こえるようになってくる。
寒気もしない、頭痛も無いのに、ぐるぐると揺れる視界と耳鳴りのような音に堪えかねて僕は花壇に腰を下ろした。
「……大丈夫かい?」
そんな僕の頭上から、その一言だけが随分とクリアに聞こえた。地面に落としていた視線をどうにか上げてみれば、そこにいたのはコートに身を包み、眼鏡をかけた優し気な雰囲気の男性。今まさに、僕が会わないといけないと思っていた人物だ。
「丸喜、先生……」
震えそうになる膝に力を籠めてどうにか立ち上がる。それを見た丸喜先生は表情を心配に曇らせて僕を支えようと手を伸ばしてきたけれど、僕はそれを制した。
「気分が悪いんだね? 無理をしない方がいい」
「……芳澤さんと、会いました」
気遣わし気に僕に声を掛ける丸喜先生にそう告げれば、彼は全てを悟ったような表情に変わる。そして幾分もしないうちにその顔は後ろめたいものを隠すような表情で覆われた。
「そうかい。やっぱり、君だったんだね。安定しそうだった彼女を不安定にしたのは」
「あれが、本当に彼女の救いになるんですか……?」
「なるよ。彼女は本当に芳澤かすみになる。彼女が望んだように、彼女が認知するように、世界が変わっていく。そしてそれは、どんな人でも手に出来る権利になる」
「なにを……?」
丸喜先生が言葉を紡ぐ度、視界がぐるぐると回っていくように思えた。スクランブル交差点の大きな街頭モニターの光が遠くなり、車や人が行きかう雑踏の音も遠ざかっていく。まるで僕が世界から切り離されていくように、僕の前にいる丸喜先生だけが鮮明だった。
「君なら認知しただろう。クリスマスに起こった不思議な現象を」
そう言われて思い至るのは、地面から生えた骨の柱と赤い雨。認知世界が現実に侵食してきた日のこと。
「あの日、僕は力に目覚めたんだ。これまでの僕の研究が実を結んだ、まさに多くの人にとっての救いになれる力に」
そう言った丸喜先生の背後に、何かが見えた気がした。金色に輝く十字架と、そこから生えるエメラルド色の触手。
「今までの僕が出来たことは、患者の認知を操作してトラウマの根源である記憶や認識を変化させてしまうことだけだった。現実は何も変わらず、ふとしたきっかけで認知治療が途切れてしまう不安定なものだったんだ。でも、今は違う」
認知はそのまま世界を書き換える。
丸喜先生はそう言って自信に満ちた笑みを浮かべた。
「君との対話で、そして雨宮さん達との会話で得たインスピレーションのおかげだよ。僕のこの力は、芳澤さんだけじゃない、どうしようもない現実に打ちのめされた人を皆救うことが出来るんだ」
そこまで言って、丸喜先生の顔は先ほどまでとは一転して曇ったものになる。
「だけど、君だけは取り込めなかった。どんな認知にも繋がらない君だけは。このままじゃ君はこの世界から弾き出されてしまう。だから僕は迎えに来た。今こそ君の助けが僕には必要なんだ」
そう言って丸喜先生は僕へと手を差し出した。
「君が来てくれれば、僕の世界は完成する。僕は君に、僕のことを理解して欲しい」
丸喜先生の顔はどこまでも真剣だった。彼が語る突飛な話が全て本当のことなのだと否応なしに理解できてしまう程に。そして僕に起こった変調についても、丸喜先生の言葉で段々と把握できるようになってきた。
「あなたが、認知世界を現実と再び融合、させたんですね?」
どういう力によるものか分からないけれど、芳澤さんに施した催眠療法なんかとは比べ物にならない規模の現実改変が丸喜先生の手で引き起こされようとしている。
そして僕は何故かその現実改変の影響を受けていない。それ故に、僕は自分が見ている世界と丸喜先生によって変えられようとしている世界の乖離に、いわば
「君なら、すぐに推理出来ると思っていたよ」
そう言った丸喜先生はどこか嬉しそうに笑う。その笑みに、どうしてか僕は薄ら寒いものを感じてしまった。
「芳澤さんは、あれで救われたんですか……?」
「……救われたさ。今度こそ、彼女は芳澤かすみとして生きていける」
「それが、他の誰かの願いを踏みにじるものだとしても」
「安心して欲しい。僕の世界は矛盾した願いを
それが出来る力を、僕は手に入れた。そう言う丸喜先生の目には、かつて見たときのような強い光を放つ炎が宿っていた。
丸喜先生の言う世界は、夢のような世界だ。誰もが自分の望みを叶えることが出来る世界。矛盾した願いが、矛盾したまま共存することが出来る世界。けれどそれは、優しい揺り篭の中で見る夢だ。
「人は、目を開けたまま、夢を見続けることなんて、出来ませんよ」
「前にも言ったかな。誰もが君のように強くはあれないよ。だからこそ、僕の世界は皆に望まれる」
丸喜先生の言葉と共に、急に遠かったざわめきが近く聞こえるようになった。
「クリスマスに先輩に告白したら付き合えることになったの!」
「今年は思った以上にボーナスが上がってさ。家族サービスしてやれたよ。反抗期だった息子ともそれ以来話が出来るようになってな」
「ずっと夢だったメジャーデビューがようやく出来そうなんだ!」
誰もが楽し気に、幸せそうに希望を語っていた。それは丸喜先生が選び、その人の認知のままに世界を書き換えた結果。曇った顔の人はそこには誰もいない。皆が希望を持ち、明るい顔をしていた。
「現実から目を逸らし続けることが、本当の救いですか……?」
「目を逸らした先が現実になる。これが僕の提示する
「人は、自分に嘘を吐き続けることなんて出来、ません……。逃げ続けた後に残るのは、受け止めきれなくなるほど重たくなった後悔だけ……、です……」
瞼が重くなり、目の前が暗くなっていく。力を籠めて抑えていた膝の震えが我慢できなくなり、僕はついに膝を折ってしまった。けれど、予想していた冷たい地面にぶつかる衝撃は来なかった。代わりにやって来たのは、温かいものに受け止められる感触。
「なら、君が示してくれ。君が導いた人が、この
そう耳元で囁いた丸喜先生の言葉が、暗闇に落ちていく僕の意識にずっと木霊し続けていた。
Interlude終わり。次回から3学期編、最終章に入ります。