「気付いてるかしら?」
「はい。見えてない人もいるみたいですけど……」
耳に当てたスマホから聞こえるのは、焦りが滲んでいる冴さんの声。赤い雨はまだざあざあと降り続いていて、駅のホームを出て目にした光景は映画のワンシーンかと錯覚してしまいそうなものだった。
「獅童の取り調べを終えて警察署から出たらこれよ。私の周りは誰も気づいていないみたいだし」
「僕の方でも気づいている人の方が少数派に見えますよ」
道行く人は目の前の異様な光景にまるで気付いていないように歩いている。その中には、驚いたように周囲を見回している人もいるけれど、数えるほどの人数しかいないばかりか、そうした人達もやがて気にしなくなったかのように手の中のスマホに視線を落として歩き始めてしまっていた。
「幸い身体が濡れたりといった感じでは無さそうですけど」
「周囲が異常なのか、私達の気が狂ったのかどちらかしらね」
電話の向こうで冴さんがため息を吐くのが聞こえた。
「お疲れですね」
「だから余計に私がおかしくなったのかと思ったのよ」
「第一声は普段の冴さんからは考えられないものでしたからね」
芳澤さんを怒らせてしまった後、赤い雨に気付いた僕はとりあえず渋谷までは戻ろうと電車に乗った。その時からスマホがブルブルと着信を告げているのは分かっていたのだけど、電車の中なので出ることも出来ないまま、電車から降りてかけ直したのだ。ワンコールも鳴らないうちに電話に出た冴さんの最初の取り乱しようは、同じくらい混乱していた僕が冷静になってしまう程のものだった。
「……忘れて欲しいわ。誰だって焦るでしょう」
「はい、僕も混乱してましたから。冴さんと認識がズレていないと分かって安心しました」
「…………何にせよ、この事態は認知訶学が関わっていると見て良いのかしらね」
少し長めの沈黙の後、普段の冷静さを取り戻したのであろう冴さんから出てきた言葉に、僕もハッとする。僕と冴さんが共通して認識しているこの異常事態。そして他の多くの人が気にも留めていないこのおかしな光景は、確かに認知訶学が関わっていてもおかしくはない。
「怪盗団が何かをした?」
「どうでしょう。なんとなくですけど、あまり良い変化には見えないですね」
「……同感よ。彼女達が心配だわ」
スマホを片手にセントラル街を歩きながら、道行く人を観察していく。この雨は服や身体を濡らすことも無ければ、地面に水たまりを作ったりすることも無い。ただし、地面から染み出してくるかのように同じような赤い半透明の水が僅かずつだけど水位を増してきていた。
「ホラーゲームにありがちな気が付いたらこの水に侵食されて化け物になっていたり、なんてことありますかね?」
「怖いことを言わないでちょうだい。車に向かって避難しているところなんだから」
ふと頭に思い浮かんだことを口にすれば、冴さんが不安げに零す。我ながら趣味の悪い想像をしたものだと思うけれど、そんな寒気のするような想像が頭を過るくらいには、今の光景は異様なものだった。
「ところで、明智君とは連絡を取った? 私達と同じように、彼もこの異常を認知している可能性があるわ。それに認知世界について私達よりも知っている彼ならこの事態を何とか出来るかも」
そう言いながら、電話口からは扉を閉じるバタンという音が聞こえてくる。どうやら車への避難は完了したらしい。そして冴さんからの質問に対して、僕は生憎と良い返事が出来そうには無い。
「いえ、雨が降り始めてすぐに電話したんですが、出ませんでした」
この雨が降ってすぐ僕は明智君に電話をしたのだけど、留守電に繋がるばかりで明智君が電話に出ることは無かった。確か今は獅童議員の立件の為に冴さんに協力して取り調べを受けていたと思っていたけれど、今日はたまたま居なかったということなのかもしれない。
「そう、こんな時に一体どうしたのかしら」
「もしかしたら巻き込まれているのかもしれないですね」
「だとしたら私達の方で出来ることはもう無さそうね。とりあえず車をそっちに回すわ。あの子達が無事かも確かめたい」
「分かりました。それじゃあ渋谷駅の方に戻ります」
「ええ、また後で」
そう言って冴さんは電話を切る。僕はスマホをポケットにしまうと踵を返して渋谷駅の方へと歩き始めた。赤い雨は地面に溜まることは無いけれど、小さな波紋を残して地面に消えていく。それがただの物理現象でないことを意味しているようで。
「でも、本当に何が起こって……」
口を衝いて出た疑問は最後まで音になることは無く、途中で止まることになった。地面から突然生えてきた巨大な骨のような何かが目の前を遮り、僕の頭を越えてビルの天辺にまで届かんばかりに聳え立ったからだ。
「え……?」
目の前で起こった光景を脳が処理しきれず、間抜けにも僕は口を開けたまま天を仰ぎ見る。地面から次々と生えた巨大生物の骨のような構造物は、けれど道行く人に物理的な干渉を起こすことは一切無いまま、不気味なお化け屋敷に迷い込んだような景色を現実に顕現させていた。
「冴さん、事故ったりしないよね?」
そしてそんな現実離れした光景を目にした僕の頭は、そんな見当違いな心配をして現実逃避をしているようだった。この光景が認知訶学によるものだとするなら、誰か、あるいは多くの人の認知が現実になったものだとするなら、現実をこのように歪んで認知している個人、もしくは不特定多数がいるということになる。けれど、そんなことが本当にあり得るのだろうか。そんなものに収まらない、もっと異様な何かがこの光景を生み出しているのではないかと思えた。
「怪盗団? ……そういやそんなのもあったな」
「もう誰も興味持ってねえよな、あれ」
「そんなもんよりさ……!」
そして立ち尽くす僕とは正反対に、道行く人々はこの異様な光景に興味など欠片も無いと言わんばかりの様子だ。そんな人々の口から出る怪盗団という言葉はもはや興味の対象ではなく、既に忘れ去られた過去の出来事という扱いだった。
「皆、大丈夫かな……」
その様子に何故か胸の奥にざわざわとしたものが広がっていく心地がして、僕は駅を目指す足を速めた。
「……!」
背後で誰かに呼ばれたような気がして振り向いたけれど、その視線の先には誰もいない。
「蓮……?」
けれど耳に微かに届いた声は、僕の知る彼女のものだったはずだ。
「くそっ、どうなってんだよ!?」
ドクロを模した仮面の奥で、竜司がそう叫んで歯軋りをする。その原因は、今まさに怪盗団の前に聳える金色に輝く杯。
「攻撃しても回復して、その度に輝きを増してる……」
怪盗団の強烈な攻撃を受けてもビクともせず、僅かに付いた傷や焦げも杯の頂に接続した管から何かを吸い上げると見る見るうちに塞がっていく。その異様な様子に、怪盗団の頭脳とも言えるほど分析力に長けた双葉が分析を続けても、打開策を見つけられていない。
「止めろー!」
「聖杯を傷つけないで!」
「俺達の希望に触るな!」
そして怪盗団と聖杯を囲むように並ぶ牢屋から飛ぶのは、怪盗団の行為を止めようとする声。囚われていながら、自らを捕らえる存在に縋ろうとする大衆の姿に、怪盗団の戦意は揺らぐ。
「どうして皆コイツを守ろうとするのよ!」
「何も考えないでいる方が楽だとでも言うつもりか!?」
春と祐介が、周囲の人間に信じられないとばかりに叫ぶが、返って来たのは怪盗団を罵る声。
「帰ってくれ!」
「もう余計なことをするな!」
そしていつしか、大衆は声を揃えて怪盗団に「帰れ」と叫ぶ。その声が響くたび、その音の大きさ故か、はたまた胸に込み上げる言いようのない気持ち悪さ故か、蓮の頭がズキリと痛むような気がした。
「これこそが『怠惰』に堕ちた人間の願い。この輝きは人間に望まれたる存在の証」
そんな怪盗団を嘲るように聖杯の声が響く。
「これが皆の望み? 思考停止して聖杯に導かれることが……?」
「……そんなこと、認めちゃいけない」
信じられないと呟く真に、蓮は痛む頭に表情を顰めながら返す。
「そうだ。ワガハイがなりたいと思ってた『ニンゲン』ってのはそんなんじゃねえ」
蓮に続いて口を開いたのはモルガナ。人から最もかけ離れた姿をしており、人間になりたいと憧れている彼だからこそそれを口にする。
「現実がどんだけ辛くても、変えることを諦めちまったら終わりなんだ! 自分が悪だと言われても、そんなの関係なしに信じたものを諦めないのが、ワガハイのなりたい『ニンゲン』なんだ!」
「おう、そうだ。その通りだよな、モナ!」
力強く言い切ったモルガナにいの一番に賛同の意を示したのは竜司。普段からぶつかり合うことの多かった二人は、その根っこが意外と近しいからこそだったのかもしれない。しかし、そんな彼らの言葉も、悠然と佇む聖杯には何のダメージも与えることは無い。
「もはや人間どもは歪みの顕在化を望んでいる。怠惰は極まり、意思を放棄し、統制されたいと考えている」
その言葉と共に、聖杯がぼんやりと青い光を纏い始める。
「そして我は全ての人間の望みを叶える存在。今こそこの異界に留まらず、現実に神たる存在として君臨しよう」
更に周囲一帯が大きな音を立てて揺れ始めた。
「何が起こってるの!?」
「嫌な予感しかしねえ……」
春と双葉が周囲をキョロキョロと見回す一方で、蓮と真、祐介が怪しげな動きを見せる聖杯に攻撃を加えようと身構えた。
「変なことをする前に止める……!」
「無駄なことを」
蓮がペルソナを再び顕現させようと仮面に手を掛けたところで、聖杯が嘲笑うように呟く。それと同時に皆が目を開けていられない程の光が空間に満ちる。
「今こそ融合の時。怠惰な人間よ、統制の神たる我にその心を差し出すが良い」
誰が叫んでいるかも判別できない轟音と光の奔流の中、不気味に響く聖杯の声。それを最後に、立っていられない程の衝撃が怪盗団に襲い掛かった。
「ぐあっ!」
「きゃあ!?」
「うおっ!?」
そして一瞬の浮遊感の後、怪盗団の面々はよく見慣れた景色の中に放り込まれた。周囲には、突如現れた怪盗団のことなど目にも入っていないという様子で歩く通行人で溢れている。
「ここは……?」
「渋谷?」
立ち上がった杏と蓮が周囲を見渡してそこが見慣れた交差点だと認識する。
「お、おい、服が戻ってんぞ!?」
そして竜司の声に、全員が怪盗服ではなくメメントスに潜る前の私服姿になっていることに気付いた。
「現実に追い返されちまったってワケか」
「だが、あの聖杯が最後に言っていた融合という言葉の意味は……」
モルガナの言葉に、祐介が考え込むように俯く。そうして地面を眺めていた祐介と、周囲をじっと見ていた双葉が同時におかしなことに気付く。
「雨が降ってるのに地面が濡れていないだと……?」
「誰も傘差してない……?」
彼らの視界には確かに雨が降っている。だというのに、地面は濡れていないどころか傘を差して歩いている人間すらいない。まるで、雨など降っていないかのように。
「一体何が……」
そう口にしかけた真の足下から、突如として白く太い骨のような構造物が天目掛けて伸びる。それは一か所だけに留まらず、あちこちの地面から生えて空を覆っていく。その異常な光景に気付いているのは少なくとも怪盗団の周囲では彼らしかいなかった。
「今日すげーいい天気だし、どっかドライブでも行かね?」
「新型のスマホの発表今日だってよ!」
「ええ、はい。社に戻り次第見積もりを作成いたします……」
「どうして誰も気づいてないの……?」
春がそう呟くが、その言葉すら誰の耳にも入っていないかのように雑踏に溶けていく。
「そういや怪盗って結局なんだったの?」
「なつかしー! 一瞬でも信じた俺が馬鹿だったわ」
「良いネタだったよねー」
そして怪盗団のことを過去のものと笑う通行人の声。その言葉がまるで引き金となったかのように、双葉、杏、春が頭を押さえて地面に蹲る。
「な、なに……? 頭が……」
大丈夫かと駆け寄ろうとした竜司の足がもつれて地面に転がる。急に足から力が抜けてしまったのだ。それを不思議に思う暇も無く、更なる驚愕が彼らを襲う。
「う、うあああ!? 手、俺の手!」
竜司の手がボロボロと小さな黒い灰のようなものに崩れ、徐々に透けていく。その変化は竜司に留まらず、怪盗団全員の身に起こっていた。
「俺達に、なにが……」
「やだ、やだ……!」
祐介と春が顔を青くする。そして自身の透けて崩れ落ちていく手を見て絶望の色を深めた。
「うそでしょ……」
「からだが、消える……?」
信じられないと自分の手を見つめる真と、感覚を失っていく自分の手足に起こっている事象が行き着く先を想像してしまった双葉。そんな双葉の言葉に、猫の姿となったモルガナが何かに気付いたように顔を上げた。
「そうか、これが認知世界と現実の融合……」
「ククク……そうとも、私ではない」
モルガナの声に答えるように響いたその声は、怪盗団がメメントス最奥で聞いた聖杯の声。
「貴様たちは、人々の認知から消えようとしているのだ」
「この、声……」
それに気付いたのか、竜司が鉛のように重たい身体を持ち上げ、視線をあちこちに巡らせるものの、声の主を見つけることは出来ない。
「メメントスと現実はひとつになった。ゆえに認知から消えたものは、もう
その言葉が指し示す怪盗団の未来はただ一つ。
「消えるとか、冗談じゃねえぞ……! く……!」
最後まで言い切ることすら許されず、竜司の身体全体が黒い灰となって崩れ去る。
「竜司!?」
それを見て声を上げた杏も竜司の後を追うことになる。
「ここまで、なのか……!」
「いやッ、いや……!」
祐介と双葉の断末魔も途中で掻き消え、その存在が最初から無かったかのように黒い灰に消える。
「モルガナ、私達何を間違えたの……!?」
「ああ、ああ……!」
真と春がモルガナと蓮の前で灰となって消えていく。
「ワガハイのせいなのか……。ワガハイが連れて来たから……!」
目の端に涙を浮かべたモルガナが、まだ辛うじて形を保っている蓮へと視線を向ける。
「作戦、失敗だ。すまな……」
そしてモルガナすらもその姿を保てず、灰となって消える。
「まだ、終わって、ない……」
しかし、最後に残された蓮は何かを探すように必死に周囲を見回していた。認知から消えたものは何処にも存在できない。それが聖杯の言ったメメントスと現実が融合したルールだとすれば、ここで自分達が消えるはずが無いと蓮は信じていた。彼女達には、現実世界で絆を紡いだ相手がいる。ただの取引を越え、強い絆によって結びついた取引相手が。
「とお、る……!」
雑踏の向こう、見慣れた後ろ姿が歩いているのを見た気がした蓮は、そう言って手を伸ばす。届くはずもないか細い声。しかし、声を掛けられた相手が確かに足を止めたのが見えた。
だが、相手が振り返った瞬間、蓮の手は黒い灰となって雑踏に消える。相手と目が合った気がしたのは、蓮の錯覚だったのか。
そのまま彼女の意識は闇に落ちていった。