欲望の実現、高次の自己責任論者

私は鬱で東京での生活が完全に破綻し、ほうぼうのていで、福岡の実家に帰ってきた。家族にも友人にも合わせる顔がない。東京で世話になっていた人たちにも挨拶すらできていない。働けもしなければ、「韻踏み夫」業も飛んだまま。LINEも開けない。社会的に死んだも同前。「花の都大東京」に意気揚々と上京した結果、廃人になって帰ってくることになるとは。冗談にもならない。誰とも会いたくないし、死ぬ以外の選択肢が思い浮かばない。
当時世間では、瑛人の「香水」が流行っていた。なんて貧相なメロディーだろうか、こんな曲が流行っているなんて今は何年代だと訝しがった。しかし、ふと耳にとまったこういう歌詞に私は引き付けられ、思わず涙を流しそうになってしまったものだ。「でも見てよ今の僕を/クズになった僕を」「人に嘘ついて軽蔑されて/涙ひとつもでなくてさ」。今の私の感情そのものではないか。なるほど、この歌手はおそらく私と同様に、本当のクズになった経験があるのだなと思った。
しかし、クズであった時代、苦しさのなかに、いくばくかの快感があったのも事実だ。おそらく、次のような無意識の論理によってである。私はこんなにクズなのに生きている。憎むべき世界のなかに、こんなクズがいまだ存在していること、これはある種の復讐の成就ではないか。別にお望みならエディプス的に言い換えてもよい。親のしつけ、教育を間違ったものだと考えた子は、自らが破滅することで親の間違いを実証し、そのことで復讐を達成する。ともかくクズであったときには、苦痛のなかにどこか甘美さや痛快さがあった。
次のような堕落と甘美も味わった。私が鬱を発症した原因には、師のセクハラ事件に直面したショックも確かにあった。それは、批評家としての私に対してと同時に(それについては一度書いた)、プライベートな面にも影響を与えた。とりわけ、欲望ということに向き合わされた。欲望そのものを排除するように見えたポリコレ道徳が吹き荒れるSNSの画面を見て、私は自分のなかにあるスケベ心を、消すことができるか、消すべきか、どうしたらいいのか、きわめて強い葛藤に苛まれたようだ。その結果、私が取った行動とは、なんとも一見理解不能なことだが、マッチングアプリに登録してセックスをしまくるというものであった。半年間ほどすべてを放り投げて遊び散らかして、ほとんどそれだけしかしない生活を送っていた。もちろん心は荒んでいくいっぽう。別に今もセックス遊びが悪いことだとは一切思っていないが、このときはダッサい良くない遊び方だったなと、恥に思っている。
弱った心をセックスで埋めていた、という解釈が一番に思い浮かぶ。では私はそうして、渇きを癒すために海水を中毒的に飲み続けるというような、自傷的な行為に耽っていたのだろうか。どうやらそれだけではなかったようである。というのも残念ながら、私はこの思う存分クズ化した時期を通過することで、快癒へと向かい、いまでは鬱以前よりも元気いっぱいになってしまったからである。当時は愛されることが怖くて他人から逃げたが、今ではまったく怖くない(いややっぱちょっとは怖い)。
最近自前の分析を通してようやく判明したのだが、この時期の私の脅迫的な行動の裏には、次のような無意識の論理があったようである。恥ずかしくおぞましいので進んで言いたくなるようなことではないが、本当のことだから書く(ごく簡単な精神分析程度に晒されることにさえ耐えられないような者は批評家失格であろう)。SNSでの師へのバッシングにおいて、私は父(先生)が去勢される瞬間を目撃した。このトラウマ的出来事への復讐として、私は自分がマッチングアプリでセックスしまくることで、自分の男根を反復、確認し、心の安定をはかっていたのではないか。私の無意識はおそらくこう叫んでいた。お前らは俺の父を去勢した、でもその子の俺は、権力勾配も利用せず、ハラスメントもなく、同意のもとに、ただ自分の見てくれと口説きだけでセックスをしまくってるぞ!文句ないだろ、ざまあみろ! だいぶやばい精神状況だ。人間の無意識というのはかくもグロくて、キモいものである。そして恐ろしいことに人間は、文字にするとこんなにどうしようもない屁理屈に、いとも簡単にとり憑かれてしまう。
こんな間違った欲望に突き動かされても、人生なんの前進もあるまい、と思うかもしれない。しかし、先ほど言ったように、どうやらそうではなかった。私がこれら決して正しくない無意識に支配されていた時期を通過することではじめて、たしかに快癒へと向かい得たのは、つまりこういう理屈においてであったようだ。
それがいかに醜いものであれ、私は自分の無意識の欲望に忠実に、悔いなく現実において実際に行動した。他人にどう思われようと、とにかく自分の欲望を世界にまっすぐにぶつけた。そのときはじめて、自分や世界の底に触れることができる。自分の欲望と現実を正々堂々正面衝突させることではじめて、ひとは自分と現実をその有限性や偶然性において理解することができる。そのうえでそれを肯定することを学んでいくことができるようになる。説教臭いおっさんが口にしたがる「失敗はたくさんしろ」というのも、こうした意味でなら正しいだろう。安吾「堕落論」も、徹底して堕ちる覚悟を持ってはじめて救済が訪れるかもしぬ、と言っている。逃げろや逃げろ(浅田彰)、そして堕ちろや堕ちろ(安吾)、である。
こうして私は、無意識や欲望といったものが、なんと恐ろしいものかと思い知り、またフロイトへの尊敬を深めた。分かっている人には、「エスあるところにエゴあらしめよ」ってことねと言われるかもしれないが、それを頭でわかっていても(私も当然この言葉くらい知っていた)人間なかなかそう簡単に行くものではないわけで、深い話というのは深いビートと同様に何回でも反復されるべきものだ。フロイトは「自我はエスと現実の間を媒介するにあたって、追従者、便宜主義者、虚言者になるという誘惑に負けてしまうことも多い」(「自我とエス」)と書いている。限界状態になってしまったときにはいっそのこと、自我に嘘をつかせず、むしろ徹底してエスの味方に立たせ、一緒に現実にぶつかっていきなさい、というメッセージを読み取っていいはずだ。そうすることではじめて、現実とエスの両方と、自我はうまくやっていけるようになる。

悩んでいる人が求めているものとは実は、他人からすれば「ほら、それitだよ、そこにあるじゃん」と言いたくなるようなものである。でも人は気づかず、それを自我に生きさせようとしない。それを生きても、死ぬことなどないし、むしろそれこそ唯一の解決策なのに。
なのにそれができないのは、欲望を実現しようとすることは、実は口で言うのよりも何倍も困難なことだからであるだろう。たとえば、非モテ意識に苛まれる人を見ると、私はいつも、次のようなごく初歩的な事実を教えてあげたくなる。自分はモテなくて不幸だと叫んでいる非モテは、その実モテるための行動については一切放棄している。ということは、無意識において彼は、モテることを望んでいないどころか、それに恐れをなしているのである。彼は自分がモテることに耐えられず、自分が非モテであることを望んでいるから、いま非モテであるだけだ。なるべくしてそうなっているだけなのであって、彼の脳内で作り上げられた複雑な悩みや葛藤をよそに、事実というのは実はこうもあっけない。たしかに諸々の要因を挙げることももちろんできるだろうが(顔、年収、コミュ力……)、本質や解決はそんなところになく、最も直接的な原因は彼の無意識がそれを望んでいるからということに尽きる。非モテが辛くて抜け出したいなら、まずは自分が実はいかに非モテであることを望んで生きてきたか、そのことでいかに自分が守られてきたか、これらを認識する以外に解決策はない。
実際、モテることというのは、他人から欲望を向けられることであって、女の欲望というのは、男のそれがキモいのと同じようにキモい。それを受け止める覚悟を持っているような非モテを私は見たことがない。他人(女)に欲望向けたいなら自分(男)も向けられる覚悟を持て、というのを私は自戒するよう最近心掛け始めた。だが、ほとんどの男はそんな覚悟を真に持つことができていない。最近少女マンガを読んでいるのは、ひとつには、男が女に欲望を向けられるとはどういうことかを、あらためて学びたくなったからでもある。私もこれまで、自分に欲望を向けようとした人と出会ったときに、どれほど巧妙に逃げてきたを思い知らされる。それは、自分(男)以外は欲望を持っちゃいけないという無意識のミソジニーの発露ではなかったか。自分も普段は尻軽スケベメンヘラ男でしかないくせに。他人から向けられる欲望にある気持ちよさと気持ち悪さをきちんと見なくてはならない。
かくして、欲望の実現とは、実はハッピーなものではいささかもなく、過酷で試練的なものである。こうした例は様々な局面でも変奏、反復される。愛されたいと言うくせに、愛される覚悟ができていない奴。金稼ぎたいと言うくせに、金持ちになる覚悟ができていない奴。幸福になりたいと言うくせに、幸福になる覚悟ができていない奴。でもそれは理由があることではある。彼らが理想とする愛なり、金なり、幸福なりというのを実際に実現しえて、愛・金・幸福を現実に知ってしまうということは、もうそれ以上嘘も言い訳も逃避もきかなくなるということであって、そう簡単に耐えられるものではないのだ。もしあなたの求めていた理想のものが手に入ったとして、あなたの手の中にあるそれが、理想に描いていたものの何倍もみすぼらしく、大したものでないとわかったら、それはきわめて恐ろしいことであるだろう。しかも残念ながらそれは、他の誰に言われたのでもなく他ならぬあなた自身が望んで手に入れようとしたものであり、かつ実際に手に入れられたそれはフェイクではないまったき現実で動かし難く否定しえないものである。他人への責任転嫁も言い訳も、これは嘘だと否認することもできないようなものなのである。それでも、愛や金や幸福に手を伸ばす覚悟があるかどうか。そのようなレベルで欲望に忠実でありうる人というのは、実際には一握りしかいないだろう。「勝者のメンタリティ」なるものがあるとしたら、それはこういう理屈なのではないだろうか。そこで逃げ出すもよし。だが私はそんな生き方は好まない。
私が、「マニー・パワー・リスペクト」を求めるラッパーたちを擁護するのは、これが理由でもある。彼らは、欲望の現実化を恐れずに進む強き者たちである。欲望を肯定するとは、過酷さに耐えて現実を肯定することであって、それはニーチェ的弱者が最も恐れることであるだろう。真の意味での欲望の実現というのは、だから、主と奴の弁証法に対してオルタナティブな抵抗を試みていると言える。彼らは欲望を満たしていない奴として始める。彼らは主と序列逆転しようとする。だが、真に主になるということは、上で述べたように、実は輝かしいことなどではなく、むしろ味気なく恐ろしいことである。それでもなお、これは自分が望んだことだと引き受けることができるか。そのときに至ってはじめて、主と奴の弁証法から抜け出す欲望の強度があらわれ始めるのではないか。
こうした問題は、もちろん政治においてもしばしば問われなくてはならない。最もわかりやすい例は、リベラルは政権交代をしたいと口では言いながら、それを恐れている、というものだろう(実際そうだと思うよ)。同じようにして、革命やユートピアが現実化してしまうということは、実はきわめて恐ろしいことで、多くはそれを恐れているのである。お利口なニヒリストたちはそのとき、「ほら見たことか、実際はそんなものなのだからはなから革命などと口にするな」と言う。だが、私は欲望を肯定しなければならないと信じるので、厳しい道であっても、多くがそれに耐えられなくとも、むしろ不幸を増大させるとしても、革命やユートピアを欲望すべきだという方向で考える。別に私はそうというだけで、他の人はお好きに。
私は先日、ヒップホップの本質は反復=肯定だという説をチラ見せした(詳細は現在執筆中の単著をお待ちいただきたい)。それは実は、私の趣味である格闘技鑑賞にも通底している。格闘技の本質を表す言葉だなと私が思うのは、「It is what it is」というファイターたちが好んで使うセリフである。結果は結果だ、リングで起こったことがすべてだ、というようなニュアンスである。私が注目するのは、このitの反復性である。リングの上で起こった結果がすべてである。現実itは現実itである。勝ったときにはいいが、負けたときにこの動かしがたい原理はなんと残酷なことであるだろうか。実際、現実に起きたそれit、つまり敗北は、私が意図したことではない。にもかかわらずそれが私であり、もしかすると私は実はそれを欲望していたのかもしれない。こんな理屈は、常人には到底耐えられるものではない。でも、それitこそが私Iであって、それ以外ではない。ファイターはこのことから決して逃げることを許されない存在であり、これを引き受ける者こそファイターだということなのだろう。私の手を離れた結果=それitこそが実は私Iなのであって、それ以外では決してありえない。このことを飲み込むこと。このように、ファイターはitの反復のうちに、itとIを肯定する。ドゥルーズが論じているブスケの「傷」もそういうことだろう。傷=itこそが私Iであると言えるようになること。
別に誰しもがこんなに強くあるべきとは思わないし、常にこういう生き方をできるわけでもないが、おそらく誰もが人生で一度はこういう「逃げちゃダメだ」な局面に立ち会うことになることはたしかだろう。私も本を書きながら、最近そういう気分なのだ。私は成功を求めているつもりでいたが、本当にその覚悟ができているか。私は本当には何を欲望しているか。「夢を見る誰もが目指す場所」(ANARCHY)。この有名な歌詞を聴いて勇気づけられてから10年以上が立っているが、私もそこを目指して今まで生きていたはずだ。だがそこに本当にまっすぐに手を伸ばしているか。それが近づくと怖気づく。私は今度は、かつてのクズのケースとは正反対に、ポジティヴな方向の欲望を実現しなくてはならない。そっちの方が震え上がるほどに怖いことである。
体制が押し付ける自己責任論からは逃げて、しかしリベラルの自己責任批判を超えて、高次の自己責任論者へと生成すること。それが欲望の実現という論理を踏破しようとすることで引き出される結論であるだろう。

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