相手を前にわくわくしたように舌を出しながら、伸脚や屈伸運動をするソアレ。彼女は現在ショートパンツを履いている。動くたびに健康的な脚が陽光にきらめき、二人を取り囲む男性陣からは歓声があがる。
俺の口から舌打ちが漏れた。
——コツ。
瞬間、ソアレと対峙する金髪の青年が、一歩彼女に歩み寄る。途端に静まり返る野次馬。一気に場を緊張が支配する。宣戦布告の合図か、はたまた相手を挑発する愚弄か。
「僕が勝ったらそこのドーナツを奢ってくれる…君が勝っても何も無し。本当にそれでいいんだね?」
そんな周囲の想像は、180度裏切られる。
「はい?」
そんな弛緩した声を誰かが漏らした。というか、俺だった。
「戦ってくれるお礼なんだから、別に勝敗関係なく買ってあげるのにー!これでもボク、結構お金持ちなんだよ?」
「いいや、それだけは僕のプライドが許さない。必ず君に勝利して、君にドーナツを買わせてみせる」
ひどく真剣な青年の整った顔。
全然格好良くなかった。思わず、隣で曖昧な表情をするキキョウに耳打ちをする。
「あの、訳わからんのだけど」
「……ソアレが
「最悪のナンパ師かよ」
幸運にも?ソアレは俺たちの存在には気づいていないようで、青年の宣言に対して楽しそうに笑っている。
「じゃあ残念だなぁ。えーっと、リルさん、だよね?貴方は絶対にドーナツを食べられないよ」
「…ずいぶんと挑発的だね」
リルと呼ばれた青年は、ソアレの目の前で二本指を立てた。
「一つ。僕は決闘で女性だから手加減するのは真摯ではないと考える。そしてもう一つ。———僕は、非常にお腹が空いている」
刹那、リルの姿が掻き消えた。僅かに遅れて聞こえてくる鈍い金属音。…………金属音?
「すごい、速いね!」
「……本当に言ってる?」
嬉しそうなソアレの顔とは対照的に、リルの額には冷や汗が垂れている。
瞬きのうちにソアレとリルの間の数メートルは消えていて、リルの足をソアレが掴んでいる。訳が分からなかった。
助けを求めようとキキョウの方を見て、一瞬呼吸が止まる。彼女もまた、戦いにのめり込んでいた。猛禽類の目である。
掴まれた足を軸に体ごと回転して拘束から逃れ、リルは後ろへと飛び退く。ソアレがわざと彼を逃したように見えた。
緊張を追い出すように溜め息を一つ吐いて、またもやリルが駆ける。先ほどよりも遅く、俺でもぎりぎり見える。独特の軌道だった。姿勢を低くし、片足を交互に軸にしてふらふらと進む。まるで躓いたかのような自然さで重心を落としたかと思うと、また彼の姿が残像になって金属音が響く。今度は三度連続だった。
「…あの、キキョウ?今、何が起こったか教えてくれないか?」
説明を求めて、というよりはキキョウにその怖い目をやめて欲しくてそう尋ねると、彼女は二人から視線を外さずに言う。
「珍しい戦い方ですね。足技を主体としたまるで舞踊のような動き。彼はソアレに近づいて、回し蹴りをしました。それも頭の位置が非常に低い。あれで全く崩れない体幹には賞賛すべきです。それをソアレが弾いた瞬間、彼は逆立ちの状態のまま、地面についた手を軸にして追って蹴りを放ちました。それも二度。…良い。さぞ、楽しいでしょうね」
すっとキキョウの目が細められる。めちゃくちゃ怖い。「……なるほどなぁ」なんて、か細く答えることしか出来なかった。その解説を聞く限りだと、彼はカポエイラのような動きをしているのだろうか。もし俺が彼と対峙したなら、訳もわからず首の骨を捻じ切られてしまうことは必至だろう。
何が何だかという顔をしている周りの集団を見て安心しながらも、その場から動かずにリルの猛攻をさばくソアレを見る。
その笑顔に一切の影は無かった。その紅潮した頬に、輝く琥珀の瞳に、胸が激しくずきりと痛んだ。
「……?」
俺の不調に気づく者はいない。自分でさえも、
状況は変わらない。
正直、ソアレと俺の戦闘力の差はあまりにも隔絶しているため、実際に彼女がどれほど強いのかは分かっていない。しかし彼女は間違いなく強い。そんなソアレと拮抗しているということは、リルもかなりの実力なのだろう。
僅かに見える残像は縦横無尽で、宙に浮いているがごとき身軽さだ。………というか。
「浮いてない?」
「何かの魔術でしょうか。器用なものですね」
「ハイネがいたら分かったでしょうに」と残念そうに語るキキョウ。その発言とは裏腹に、彼女は観戦の集中を解いていた。すでに試合に満足したかのように。その様子に疑問を覚える。戦況が傾いているようには思えなかったから。
肉弾戦のはずなのに何故か響き渡る金属音をBGMに、よくよく考えてみる。
「あれ?」
そして違和感を得た。
「…リルの動きは全然見えないのに、ソアレの動きは見える」
足技をいなしたり弾いたりする時でさえ、彼女の動きが俺でも見えたのだ。漏らした気づきが示すこと。
彼女には、最小限の緩慢な動きだけで十分だった。
ぞくりと背筋が粟立つ。
「ものすごい機動力だね!………それを封じたら、何をしてくるのかな?」
ソアレの腕が、足が、リルの片足を完全に捕らえていた。いつ掴んだのか分からない。むしろ、初めからあの体勢だったのではと思うほど自然に、ソアレの体はリルの足を固定している。
「お見事」
キキョウの感心する声と全く同時に、リルの口から「あっ」と半ば諦めた吐息が漏れた。
「ッあああぁぁぁぁ!!!降参降参降参!!!」
膝十字固めが完全に決まっている。
柔道等では禁じ手となっている技だが、何でもありの決闘で使うものとしてはむしろ優しい方である。………その割には、技を喰らっている相手の声がいたく悲痛だが。
「……どこであんな完璧な技術を?ソアレが剣術以外を習ってるところ、見たことないんだけど」
「ただ動体視力と運動神経が優れているだけですよ」
「うぇ?」
「そもそも、組み合ってもないのに突然寝技に持ち込むなんていうのがおかしいのですが。私の知る限り、そんな所業は彼女にしかできません」
再度間抜けな声を発するしか出来ない。理解を諦めて試合の行く末を見守ることに徹する。
眼下では、リルの悲鳴を聞いて慌てて拘束を解いたソアレが、崩れ落ちている彼を見ておろおろとしていた。
「えーっと、ごめんね、痛かった?大丈夫?」
「ゔゔぅ……!!おかしいって!僕知らないんだけど!人間ってこんなに強いの?!わざわざ神都まで来たのにこれ!?」
何かを訴えているように聞こえるが、うずくまっていてよく分からない。典型的な敗北者の姿を晒すリルの背中を、ソアレが優しくさすっている。
「リルさん、ドーナツ食べる?それで元気だして!」
ソアレよ、それは追い討ちである。
彼女の言葉がまっすぐな善意であることが伝わってしまったのか、彼の悪態はだんだんと鼻声になってくる。しだいに声と息の割合が逆転してゆき、その息に咳が混じり、痰が絡む。
「……リルさん?」
彼の手は自身の胸を押さえ、肩が激しく上下する。彼の息にえずきのようなものが混じる。
ふっとリルは力を失った。石畳に響く重い音と、それを目の前で見ていたソアレの悲鳴————が、聞こえる前に俺は走り出していた。
「っ!ラスタ!?」
「ソアレ、さっきぶり。こっそり見物させてもらったよ」
対戦相手の急変に動揺するソアレ。安心させるように彼女の頭にぽんと手を置いて、リルの身体を仰向けにする。
意識を失っている、というよりは、苦しさで体を動かせない、といった様子。彼の口からは「ヒュー、ヒュー」と掠れた音が漏れていた。
先ほどの激しい咳き込みや呼吸困難といった、
確証もなかったが、原因はピンと来た。
入国の際に門番から聞いた流行り病。症状から推測するに、おそらく気管支や肺に細菌だかウイルスだかが入り込んだのだろう。
つまり、
「瘴気じゃない」
目に見えて怯えを見せる大切な少女に、自信満々で伝える。
「感染に気づかずに激しく呼吸して、発作が起こっただけだ。これならすぐに治せる」
ただの病。ならば俺の独擅場は確定している。
「うばいとれ」
詠唱を終えた刹那、自身の喉の奥に、彼から迎え入れた痛みがズキズキと走る。しかし、我が自慢の身体がすぐに治してくれるだろう。
発作が止まり、やや呼吸が穏やかになったリルを傍目に立ち上がる。俺にとっては歯牙にもかけない
「教会へ行ってくる」
立ち上がる。ちょうどよかった。どちらにせよ、女神様の元へは絶対に行かなくてはならないから。仕組みはよく分からないが、神都の教会のほうが女神様と圧倒的にコンタクトが取りやすいのだ。
ソアレは僅かに顔を歪めながらも俺を止めない。彼女はもう、俺の能力の特性を理解している。
それでも心配だったのだろう。
「…介抱ならできる。ボクも連れてって」
俺なんかには勿体無い仲間だ。申し出を受け入れて、ハイネに事情を伝えてくれ、とキキョウに頼む。さあ行こう。久しぶりの無差別治療だ。不謹慎ながら、俺はほんの少しだけ高揚していた。
◇
大聖堂の別棟、療養所となっている建物の中には30人ほどの患者が横たわっており、誰もが喉から掠れた音を漏らしている。
「治癒師ラスタ」は神都でもある程度の知名度があったようで、事情を話すとすぐに案内してもらえた。誰もが苦しそうではあるが、死の淵を彷徨っている人は見当たらない。
ほっと息をついて、彼らの元へと歩み寄る。
「うばいとれ」
あとは流れ作業だ。ソアレが俺の後ろについて、症状が治った人に水分を取らせて深呼吸を促す。なんなら詠唱するだけの俺より彼女のほうが大変だろう。教会のシスターにも手伝ってもらって、3人がかりで治療を進める。
「ラスタ、大丈夫?」
時折かけられる心配の声にはサムズアップで返す。……声を出すと、俺も激しく咳き込んでしまうからだ。すぐに治るとはいえ、彼らが持つウイルス等を全部取り込んでいるのだから仕方ない。これで誤魔化せていることを願う。
そうして順調に治療を行なっていく。
多分、21人目か、22人目だったと思う。患者は冒険者だった。まだ
瘴気塗れの傷。
振り向いた。ソアレたち介抱組は、自分から5人分離れている。
これくらいなら辛うじて聖水で治せる。しかし今は聖水の持ち合わせが無い。今ならバレない。一時的に、移すだけ。
「のろいをわがみに」
「うばいとれ」
ひた隠すように、立て続けに唱えた。ソアレとの距離は3人分にまで迫っていた。何食わぬ顔で流れ作業を再開する。俺を呼び止める声は無かった。
これは正しい判断だ。瘴気に侵された部位の上に重ねるように怪我を負うと、その怪我が魔物によるものでなくとも被害は深刻なものになる。たとえ小さな
だから、一時的に奪うだけだから、俺の行動は正しい。それでもやはり心配はかけたくないので、ばれないように行うのに緊張した。だんだんと呼吸が浅くなっていた。あと2人で全員治療できる。
「うばいとれ」
呼吸がしづらくて、思い切り息を吸う。肋骨がベコっとへこむような錯覚がした。あと1人。
「うばいとれ」
言い終わるのと同時に、激しく咳き込んだ。咄嗟に患者にかからないように口を手で押さえてそっぽを向く。
べっとりと、手に何かがついた感触。タールのような、ドス黒い粘液だった。
「ラスタッ!!!」
ソアレがこちらに駆け寄ってくる。不思議とその姿は、ひどく幼く見えて。
場違いな感傷に浸る。
懐かしい。初めて会った時、彼女は病弱で素振りすらまともに出来なかったものだ。
奪ってやると、彼女は途端に咲き始めたんだ。
生まれつき彼女の
「あ」
辛うじて漏れ出た音は、声になっていない。
「ねぇ″っ!!置いてかないでよっっ!!!」
残念なことに、彼女は聡明だ。すぐに気付いてしまう。彼女は誠実だ。その責任を負ってしまう。
目を閉じてしまった。遮光カーテンが下りるように、思考が闇に包まれていく。
はは、ここまで馬鹿だと滑稽だ。ああ、本当に。
「待って!!」
最悪だ。