『聖なるロシアの復興』(光の国の本。ブラヴァツキーの曽祖父がメイソンって日本語で書いている本は本書だけだろう。彼関係とイリーン思想[ロシアの動きの理解に必須]だけでもお読み下されば幸いです) new!!
Posted on 2025.04.14 Mon 00:33:06 edit
光の国(出版社)の本。ブラヴァツキー夫人の曽祖父がメイソンだと日本語で読める本はおそらく『聖なるロシアの復興』のみだろう。なので読んで良かった。当たり本。紹介者(ワクワクさん)に感謝。
最重要箇所を引用↓
”
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。
”
(『聖なるロシアの復興』pp.315-316)
(ノヴィコフと、ブラヴァツキー夫人の曽祖父はメーソン)
”
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。
”
(『聖なるロシアの復興』p.320)
本記事で最重要なのは上記の個所とその関連個所。
次に重要なのがイリーン思想。ロシア(特にプーチンとその背後にいる集団)の思想の根幹の1つだろうからだ。
『聖なるロシアの復興―東ローマ帝国(ビザンチン)からプーチンへ引き継がれるその理念・歴史・オカルト思想』
(ラックマン【著】/堀江 広行【訳】、ヒカルランド、2024年4月30日に第一刷)
値段が6,600だ(笑)(本体価格は6,000円)。
いっそのこと6666円にしたらいいのに(笑)
出版社はヒカルランド。ランドには国って意味もあるので、光の国というマニ教の影響があるであろう会社。
マニ教じゃねーか。ウルトラシリーズかよ。光の国は、M78星雲・ウルトラの星の唯一の国家。ウルトラの星には光の国以外の国家は存在らしい(笑) ワンワールド(笑) 統一政府(笑)
ヒカルランド / ありがとうさくらももこさん
https://www.hikaruland.co.jp/user_data/sakura.php
”ありがとう!さくらももこさん
ほんとうに人思いの愛の深い方でした
良かれ星人のももこさん
人のことは人一倍心配するのに自分はだれにも心配かけたくない
まさにそんなももこさんらしいサヨナラ
探究心が旺盛で死後の世界のことも知り尽くしてましたからいまをめいっぱい楽しんでいるに違いありません
2010年の3月
独立して出版社を立ち上げたいと伝えたところ
「いいわね。会社の名前は?」
とつぜん突っ込まれて思わず答えた社名が自分のメルアドに使っていたヒカルランド
由来も聞かれたので携帯に保存していた当時小学生だった三男坊の写真を見せたところ1週間も経たないうちにいまのロゴマークの王子さまが社名入りで携帯に届いたのです
まさかまさかの特大プレゼント
やばいッ〜まだ登記もしてない
あわてて動き出したあの時が夢のようです
このロゴマークが葵の御紋のように効いて難しいと言われる取次からもOKが出てすべてが順調に
3月末に長年お世話になった徳間書店を退社
4月に会社を立ち上げると7月にはヒカルランドの創刊本が書店に並んでいたのです
こんな奇跡的な宇宙の追い風でヒカルランドを支えてくださった一番の恩人がさくらももこさんでした
謹んでご冥福をお祈りいたします
ヒカルランド 石井健資
” ※着色は引用者
ねえ、なんでメアドが「光の国」なの? (笑)
当時小学生だった三男坊の名前がもしかしてヒカルなの? じゃあランドは何だよ(笑)
さくらももこが『そういうふうにできている』で
帝王切開のために局部麻酔キメて神秘体験し
宗教じゃないアピールしつつ
バラモン教そっくりのスピ思想を主張してたよ(笑)
局部麻酔で神秘体験するさくらももこの思想が
肉体は機械であり意識(魂、自分の本体)の乗り物であり、
生命は宇宙から来るという典型的なスピ思想。
ブラフマン(宇宙)から来るアートマン("意識")が地球上の
直立二足歩行用ホモサピエンスの肉体に宿るってバラモン教思想そっくり。
さくらももこの本はよく読まれるから支配層にとって実に都合がいいな!
彼女が最初からケツ社員なのか、
たまたま都合が良いこと言っているから宣伝されただけか不明なんだが、少なくとも思想はスピ系だ。ヒカルランドを支援しているし(笑)
"魂"は宗教的だから"意識"と換言するなど科学のフリをする彼女だが主張が完全に宗教。
スピ系が好きな「疑似科学で覆って宗教ではないアピール」。
無自覚なら宗教に無知だと暴露しているのだが
自覚的なら世俗主義=宗教と思わせずに宗教で洗脳
なのでどちらにせよ悪質。
詳しくは、
ニー仏(魚川祐司)さんの動画と著作と言及された本のメモ。『悟らなくたって、いいじゃないか』、『感じて、ゆるす仏教』、『宗教的経験の諸相』、『そういうふうにできている』。 さくらももこが『そういうふうにできている』で局部麻酔キメて神秘体験しバラモン教そっくりのスピ思想を主張!
Posted on 2018.11.17 Sat 19:10:20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-259.html
で書いた。
)
この会社の本は当たり外れが大きいだろうな。
今回の本は大当たりだったよ。ワクワクさんがオススメしているんだからそりゃ当たりだよ。大当たりかどうかは読んでみないと分からない。
冒頭でいきなりシュタイナー出てきたよ(笑)
それと、ブラヴァツキーの曽祖父がメイソンって書いていた。しかも曽祖父の解説まである。この箇所だけでも読む価値あり。
そもそもロシア思想を多く紹介している本って貴重だよね。著者はロシアのメイソンについて暴露しまくっているけど大丈夫なのかな。まあ、大丈夫な立場なのだろう(ケツ社員かもしれない)。
本書に書いている著者と翻訳者紹介欄の一部を記す。
ゲイリー・ラックマン
米国ニュージャージー州生まれ。作家。ヨーロッパオカルト思想史、60年代対抗文化史、変性意識などをテーマに多くの著作をもち、公演活動を行っている。その著書は多数の言語に翻訳されている。
堀江広行(ほりえ ひろゆき)
専門はロシア思想史。
ヒカルランド / 聖なるロシアの復興 東ローマ帝国からプーチンへ引き継がれる その理念・歴史・オカルト思想
https://www.hikaruland.co.jp/products/detail.php?product_id=4365
”プーチンに影響を与えた哲学者たちの思想を追った本書を読めば、
なぜ今、ロシアとウクライナの間で戦争が起きているのかが分かる!
脈々と続いてきたロシア的理念の歴史をひもとく待望の書全訳!
ロシアは本当に「悪者」なのか?
ニュースで知るロシアのすがたは本当のものなのか?
ウクライナとの戦争で注目を浴びるロシアのその理念。
ロシアの隠された歴史とその思想を知れば、
なぜロシアが「国際秩序」と戦っているかがわかる!
ヨーロッパ・オカルト思想史研究者ラックマンがいどむロシア思想のすがた。
プーチンが信じる強固なアイデンティティーの淵源はここにあった!
ロシアの目指すものを知るための必読書!
ナロードニキとレーニンからグルジェフ、ラスプーチン、ドゥーギンまで
気鋭のオカルト思想史研究家ラックマンによる待望のロシア・オカルト思想史。
”
はじめに
「銀の時代」(1890~1920)へようこそ、魔術と神秘主義の時代
1906年、パリ郊外のパッシーで、心霊研究家で神智学協会の当時のドイツ支部長、ルドルフ・シュタイナーによる連続講演がおこなわれた。講演の聴講者の大半を占めていたのは、ロシア人とドイツ人だった。もともとシュタイナーは、マリー・フォン・シヴェルス―シュタイナーの後妻でバルト地方出身のロシア人―が企画する講演旅行で、前年にロシアに寄って講演する予定だった。だが、1905年に勃発した第一次ロシア革命のせいでそれが無理になり、講演がキャンセルされたままになっていたのである。
ロシアの皇帝に楯突いて国をあとにしたロシアの急進主義者の多くが、この1905年革命の後に目指したのが、ヨーロッパのあらゆる政治亡命者たちの都、パリだった。1906年の夏、シュタイナーは、その年に催された神智学協会の大会に参加するためにちょうどパリに来ていた。このため、いったんキャンセルされた講義をシュタイナーとロシア人たちの双方がパリにいるあいだにパリで実施するのは筋の通った話だった。当初、シュタイナーは、個人宅でこのレクチャーをおこなった。だが、彼はたいへんな人気者だったので大勢の聴衆がつめかけるようになり、フランスの現地の神智学協会員たちは、彼のスターぶりを苦々しく思いながらも、ついにはシュタイナーに講堂の使用を申し出ないわけにはいかなかった。シュタイナーは神智学協会でそのリーダーのアニー・ベサントに次ぐスターだったのである。
神智学協会の共同設立者ブラヴァツキー夫人はロシア人だった。だが、彼女は、秘教的な叡智が東洋に端を発することを強調して、キリスト教に批判的な発言をくりかえしていたので、結果として、同胞である多くのロシア人たちを自分から遠ざけてしまっていた。かたわら、シュタイナーのめだって「キリスト教化」された神智学の解釈は、ロシア人たちにもっと親しみを抱かせるものだった。人々が今、知っているロシアという国が生まれたのは、西暦989年に、キエフ・ルーシのウラジーミル大公が、その民の公式の宗教として、東方正教会を受け入れたときのことである。まさにそのとき、その顔貌を現しはじめたロシアの民族的な魂と正教的なキリスト教の融合が起こって、それ以来、この融合は綿々と維持されてきたのである。そしてまた、ロシア人たちがシュタイナーのキリスト教風にアレンジされたオカルト・サイエンスを楽に受け入れることができたのは、この正教的なキリスト教が、西欧のカトリックとプロテスタントのどちらと比べてもより神秘的な性格を帯びていたからにほかならなかった[1]。
(
もういちいち、[1]という注釈の数字は書かないかもしれない。
冒頭でいきなりシュタイナー登場(笑)
シュタイナーの人智学は、神智学と違ってよりキリスト教的なのが重要だよ。
「今のキリスト教は嫌だけど、批判しまくって否定しまくるのは嫌だなあ」って人にウケるよね。
持田保
@clearbody
ゲイリー・ラックマンの新著「聖なるロシアの復興」ようやく入手!ロシア話なのにいきなり冒頭シュタイナー話から始まるの最高!
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午後6:14 · 2024年5月4日
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ワクワクさん
@uxskf
古代ギリシャのリアルが面白かったのと古代ギリシャの魔術ってのが気になるんよなぁ🙃
この聖なるロシアの復興とかいうヒカルランドから出る怪しすぎる本も興味ある
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午後4:34 · 2024年4月23日
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(「より神秘的な性格を帯びていたからにほかならなかった[1]。」直後からの続き)
シュタイナーを演壇に迎えた聴衆の顔ぶれも瞠目にあたいした。聴衆の中には、ロシア文学と心霊主義的なアヴァンギャルドの選り抜きのエリートたちが混じっていた。そこには、小説家、歴史家、そして神秘主義者で、アトランティスと黙示録について論じたドミートリ―・メレシュコフスキーがいて、その妻で、多くの神秘主義者やアーチストのたまり場であったサンクト・ペテルブルグの悪名高いカフェ「野良犬の穴倉」の常連だったジナイーダ・ギッピウスが混じり、またロシア象徴主義運動の重要なメンバーで詩人のコンスタンチン・バリモント、ニコライ・ミンスキーが顔を出していた。彼らは、そのほかの詩人や小説家、哲学者、アーチスト、そして音楽家たちとともに「銀の時代」と呼ばれる当時のロシアの強力な文化的、霊性的な「文芸復興(ルネッサンス)」の一翼を成していた。それは、魔術と神秘主義の時代であり、ルネッサンスこのかた、西欧が聞いたこともないような強烈な創造力の発露であると同時に、オカルトにたいする生き生きとした関心がよみがえり、霊性的、そして宗教的な価値観への深い回帰を経験した時代であった。それは、魂の巡礼者、芸術と思想による世界救済を求める霊性の探求者たち、すなわち探神主義者(ボゴイスカーチェリ)(二十世紀初頭ロシア思想における宗教的理念の新たな探求者たちのこと。後述参照)たちの時代であった。
シュタイナーがその講義で語った内容は、聴衆たちの心をゆさぶり、彼らがすでにずっとむかしから心の底であたためていた多くの信念に太鼓判を押した。シュタイナーは、宇宙と意識の進化―彼にとってこの二つはひとつである―について語り、アトランティスの沈没このかた、地球上に交錯したさまざまな文明、そしてすくなくとも彼の計算によれば数万年前に起こったという惑星的な大惨事について語った。彼は集まった聴衆に、人類は今、西欧文明に代表される第五の「後アトランティス文明期」の終幕に向かっていると告げた。シュタイナーが教えるところによれば、それぞれの「文化期」が、意識の進化の上での独特の「使命」、あるいは「課題」をもち、この第五文明期の課題とは、知性、個人的な「私」、エゴを発達させることにあった。そしてこの課題はすでに終了したばかりか、実のところあまりに完璧に実行されすぎており、もっぱら個人主義的な西欧のエゴは、さまざまな霊性的な力の内部にあるその源泉との接触を完全に喪失するという危機に直面しているというのであった。
だが、シュタイナーが聴衆に語ったところによれば、今、出現しつつあるのは、次の「文化期」の兆候であり、西欧的な「私」の分裂性を超克し、世界と「私」のつながりを回復する新しい意識の上昇であった。この第六の「後アトランティス文化期」が完全に打ち立てられるには、西暦3500年を待たなければならないというのだが、シュタイナーが説くところによれば、この新文化期のしるし、その前途を用意するきざしと成長はすでに出現していて、その多くがほかならぬロシアで見出されるだろうというのであった。
この新しい来たるべき文化期がその課題としてもつ発達させなければならない性質とは、シュタイナーによれば、共同体の意識、無私の姿勢、忍耐能力、より高次の真実への開かれた態度であった。彼が信じるところでは、これらすべてがロシアの民の中に胎生的な状態で含まれていて、彼らの内にこそ新しい世紀(ニューエージ)の種子、すなわち「銀の時代」の人々がやはり信じていたなにかがあった。ロシア的な性格とは一種の「子ども」であって、「未来を勝ちとるために全人類が答えなければならない問いが、ロシアの魂の中に隠されている」とシュタイナーは説いた。ロシアの魂は、互いに矛盾する理念、対極物を、西欧の論理的精神が見出しえない方法で、その内に収めることができる。たとえば、ロシア人にとって「合理的神秘主義」とか「神秘的合理主義」といった概念は矛盾でなく、より高次の意識のしるしだというのであった。
女性的な東方と男性的な西欧は、この二極を統合し、その双方を乗り越える新時代の「子ども」を出産するために統合しなければならない。そうシュタイナーは聴衆に語りかけた。「第六文化期の多くの性格は、私たちの時代の性格とはまるで異なり」、人々は他者の苦しみを自分のものとして受け止め、誰だろうと兄弟や姉妹として受け入れる。彼ないし彼女が愛おしむいかなる真理や信念も、彼ないし彼女自身の内省の結果となって、彼らの魂に根を張るようになり、個人の幸福は全体の幸福に依拠するようになる。第六文化期における知識は、どのようなものであれ霊性的な要素を現実的に含むようになるというのであった。
シュタイナーが告げたところでは、これらの可能性はすでにロシアの人々のあいだに現れており、ロシア人たちの課題とは「今彼らの中で横たわるエレメンタルな力にはっきりとした表現を与える」ことであった。
(
シュタイナーについて長いな(笑) 作者が好きなのかもな(笑)
シュタイナーってロシア重視なんだ。ブラヴァツキーがロシア人だもんな(笑)
)
2001年からロシアの与党の座にある統一ロシア党の2014年の年次大会で、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは、地方知事たちに、ありきたりの党政策のレトリックにならんで、いくつかの「課題図書」のリストを与えた。
プーチンたちが知事たちに読むように求めたいくつかの本とは、哲学の著作にほかならなかった。それらは「ロシア的理念」についての著作であった。
プーチンが知事たちに目を通すように求めた三人の思想家たちとは、アメリカのロシア学者ジェームズ・スキャンランの表現によれば、「ロシアでもっとも偉大で影響力ある哲学的思想家」で小説家ドストエフスキーの友人だったウラジーミル・ソロヴィヨフ、そして、貴族出身のキリスト教実存主義者で「自由の哲学者」と呼ばれたニコライ・ベルジャーエフ、さらに、この二人よりもずっと政治的な思想家で、その思想をある種の「ロシア的ファシズム」とも呼ぶことのできるイヴァン・イリーンであった。
この三人とも銀の時代の重要な立役者で、1991年のソ連崩壊まで、彼らの著作の大部分は彼らの故国では読むことができなかった。
プーチンがその知事たちに読むように求めた本、すなわちソロヴィヨフの『善の弁証』、ベルジャーエフの『不平等の哲学』、そしてイリーンの遺作『われわれの課題』は、思想びいきでないかぎり、軽く読み通せるようなたぐいの著作ではない。
前著『暗黒の星のぼる』(邦訳『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』、ヒカルランド刊)で、私は、新しいロシアにかんしてプーチンが打ち込んでいるある理念を論じた。それは「ユーラシア」の理念である。これは、1920年代にロシアの反ボリシェヴィキの亡命者たちが作り上げた概念で、「ロシア的理念」の一形態である。この白系ロシアの亡命者たちは、1917年の革命が世界史の終焉を呼び起こしうるような「神秘的なカタルシス」だと信じた。そして、彼らは、ボリシェヴィキの「実験」が瓦解した暁には、自分たちが用意したロシアについての新しいヴィジョンをたずさえて故国に戻るつもりだった。しかも、彼らはそれがかなり早く起こるだろうと楽観していた。
赤いテロルによってヨーロッパに追い出されたこれらの知識人たちは、ロシアの民衆のための新たな国家の個性とアイデンティティーを心に思い描いていた。彼らはこう考えた。もし自分たちが帝政主義者でもマルクス主義者でもないなら、いったい自分たちは何者なのか。彼ら知識人たちが出した結論とは、自分たちはユーラシア人、すなわちいっさいの大陸の母である広大な祖国に現れる新たな固有の文明に誕生する者たちだ、というものだった。ロシアは、その進歩的なヨーロッパの従妹たちに遅れまいと、いつもあくせくして、それでいてけっしてヨーロッパの最下段にさえ足を踏み入れることのできない、ヨーロッパの哀れな親戚ではない。ロシアは、別の価値観と別の信念、そしてもっとも重要なことに、異なる【運命】をもつ、まったく異なる文化であって、今やその本領を発揮しつつあるというのであった。
(
【 】は傍点の代役。
題名変えすぎ(笑) でも魔術とオカルトパワーって言葉を入れる方が売れるよね(笑)
)
拙著『暗黒の星のぼる』(『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』)で示したように、このときユーラシアの理念をきわめて真剣に取り上げたひとりが、旧ソ連のパンクの異論派で、それからエリート地政学者に転身したアレクサンドル・ドゥーギンである。1997年、ドゥーギンの著書『地政学の基礎』が書店にならび、その成功についての評価が正しいのであれば、大ベストセラーとなった。同書成功のひとつの理由は、来たるべき惑星規模のハルマゲドン、すなわち世界に残った二つの超勢力のあいだの最終的かつ決定的な衝突によって生じる全地球的な黙示録についてのドゥーギンの展望であった。ドゥーギンによれば、この二大超勢力とは、世界を無国境の巨大な市場に変える決心をした大西洋的西欧(アトランティック・ウエスト)、そして地球の「商業主義化」に抵抗しようと決意するユーラシアの伝統主義的、かつ霊性的な文明であった。
(
ドゥーギン流の終末論だな
)
それほど「千年王国主義的」でない意味で考察するなら、勃興するユーラシア文明についてのドゥーギンの青写真には、以前はソ連の一部で今や分離して新たな道を歩む、ロシアで現在「近い外国(ブリジュニエエ・ザルベジエ)」として知られる諸国をなす地域が含まれている。私は、拙著『暗黒の星のぼる』で、2014年のクリミアとウクライナの事件は、ドゥーギンの地政学的な予見に教唆されたと信じる理由がすくなからずあることを示したつもりである。
暗黒政治とこれみよがしのオリガルヒ(ロシアの資本主義移行後に登場した巨大な権力をもった新興財閥)たちの故郷であるロシアを、西欧よりも道徳的にもっと繊細な国であると考えることは、およそつじつまが合わないことのように思えるかもしれない。だが、プーチンのロシアにとっては、西欧社会の特徴となっている極端な自由主義と放任主義―「何でもあり」の感性―は退廃以上のなにものにも映らず、西欧における事実上いっさいのものの「商品」への変身は、利己主義と自己満足の悪臭を放ち、シュタイナーの語った西欧の自律的な「私」は、消費主義の飽くことを知らぬミーイズムに転じている。
[
ミーイズム(meism):自分の幸福や満足を求めるが、他には関心を持たない考え。自己中心主義。
]
たいするプーチンのロシアは「伝統主義」的な基準を堅持し、セックス、家族、そしてジェンダーにたいするその姿勢は「進歩的」な西欧には、抑圧的ではないとしても、いちじるしく保守的であるように映る。
プーチンがその伝統的価値観を見出したその場所とは、彼の正教の信仰であった。そして、この真実の信仰の守り手としてのロシアの役割の中にこそ、ユーラシア主義と銀の時代の思想家とたちとならんで、「聖なるロシア」の理念が復活を果たしつつあるように見える。この理想は、ロシアとその「神を抱ける民」が、事実上その幕開けの日々から、つまり、彼らの最初の正教的キリスト教の受け入れの時代から抱いていたアイデンティティーであった。それは、中世後期のモスクワ公国時代の神権政体の挑戦、そしてローマ帝国の崩壊と1453年のトルコによるコンスタンティノープルの陥落に続いてロシアが「第三のローマ帝国」となるという構想に受け継がれた。「第三のローマ」とは、十六世紀初頭にロシアのプスコフの修道士フィロフェイが提示した理念である。1511年のヴァシーリー三世への書簡にフィロフェイは「二つのローマは陥落した。第三のローマが立ち上がりつつある。そして第四のローマはありえない」としたためた。ローマ帝国は蛮族の手に、そしてビザンチン帝国はトルコの手に落ち、今やモスクワこそが真のキリスト教の教えの灯をひとり守り続けているというのである。そして、おそらくここにこそ、ロシアがひとつの「使命」、特別な「運命」をもつという概念の起源を見つけることができるのであり、それが、さまざまなバージョンの「ロシア的理念」の源泉となった。
正教会をその西欧の対抗する教会と隔てるもののひとつは、世界の終末、黙示録、そしてキリストの再臨にたいする姿勢である。たしかに、これらの教えは、西の教会の一部をもなす。ただ一般に、西の教会は、あらゆる千年王国主義的な情熱に冷水を浴びせる傾向があり、日々の生活上のさまざまな問題と挑戦に対処することにより精を出してきた。西方では「罪人たちよ、悔い改めよ、終わりの日は近い」という呼びかけは、街角の預言者たちと「エホヴァの証人」たちの領分にすぎない。西の教会はずっと現世的で世俗権力にたいする西の教会の執着は、その東の対抗者がいつも声を大にしてきた非難の的である。
一方、東の教会にとって「終末の日」はつねに重大な意義をもち続けた。この教会は、神秘主義とエソテリックな知識にたいして、いつももっと開けた姿勢を維持してきた。東方正教会は西の教会よりももっと終末論的な関心をあたため続け、キリストの再臨への渇望、そして地上における天の王国の樹立への期待は、ロシアの民が、東方正教会を自分たちの宗教として採り入れたときに、全身全霊で吸収したものである。ロシア人は、復活の理念をとても真剣に受け止めた。これは、正教会の一年の暦の中で、復活祭がクリスマスよりもずっと重要な祭日である理由のひとつである。彼らはまた黙示録にたいしても口先だけの敬意をささげたりはしない。
ロシア史におけるエソテリズムの重要な影響のひとつが、フリーメーソンであった。「ヨーロッパへの窓」であるサンクト・ペテルブルクにその名を残した西欧化されたツァーリであるピョートル大帝は、1698年のイングランド滞在の折に、メーソン・ロッジへの入門の儀式を受けたと信じられている。エカテリーナ女帝の治世になると、フリーメーソンはロシア中に広まり、フリーメーソンにかかわりをもつ「進歩的」な社会・宗教思想は、十九世紀におけるロシアの魂の大いなる芸術と霊性の覚醒の素地を用意した。
エソテリズム思想の影響は、ナポレオン戦争におけるヨーロッパの救済者で、神聖同盟の主導者であったアレクサンドル一世にさえたっし、皇帝は、皇位を退いてその最後の日々を霊性的な黙想にふけるために自分の死を擬装したのだ、とささやかれた。ロマノフ王朝の落日が、神秘主義的、かつ黙示録主義的な期待に満たされていたことはよく知られている。そこではラスプーチンが、そのもっとも悪名を馳せた登場人物だったが、死を運命づけられた王朝に助言を与えた神秘家は、彼ひとりではなかった。そして、探神主義者(ボゴイスカーチェリ)は、建神主義者(ボゴストロイーチェリ)(同じく進歩する人類そのものを神として崇めようと考えた当時のロシア思想の一派。後述参照)になり、ソヴィエト体制の日々も、オカルト的、神秘主義的、そして魔術的な人物のアイディアが、ボリシェヴィキの壮大な実験を進める人民委員や同志たちに影響をふるい続けた。そして、まさしくロシア思想の千年王国主義的な潮流こそが、来たるべき無階級社会についてのマルクス主義の展望を、ロシアにより受け入れやすいものにしたのだと指摘する歴史家はひとりにとどまらない。
(
探神主義者:二十世紀初頭ロシア思想における宗教的理念の新たな探求者たちのこと。
「チェリ」と書いたが「チエリ」かもしれない
)
神秘主義的、そして黙示録的な事象にたいするロシア人たちの関心は、ユーラシアのような概念や銀の時代の哲学者たちの思想へのプーチンの関心、そして「聖なるロシア」にまつわるプーチンの言動とともに、今日もロシアに脈々と引き継がれているようである。
p.35
私は、私たちの現在の困難を克服する手がかりとなりうる意識の進化にたいする洞察が、銀の時代の思想家たちの理念とヴィジョンに見出されるかもしれないということを、本書の結末までに示したいと思う2。
2
エサレン研究所とリンディスファーン出版社はこのことを理解し、ニコライ・ベルジャーエフ、ウラジーミル・ソロヴィヨフなどの銀の時代の重要人物の著作の英訳を1990年代に「ロシア哲学叢書」として協力して出版した。
(
エサレン研究所と歴史 | GROUNDWORK(グラウンドワーク)
https://groundwork-care.com/esalen-institute-and-history/
”
エサレン研究所は、アメリカのサンフランシスコから車で約3時間ほどのカリフォルニア州・ビッグサーという海岸沿いにあり、「人間の潜在的可能性を探求する、滞在型の宿泊施設」として1962年に誕生しました。 研究所は、断崖絶壁の太平洋と緑豊かな森に囲まれ、温泉が湧き出る風光明媚な場所。 ここでボディワークを始め、心理学、ヨガやダンス、太極拳、音楽、アートなど様々なワークショップが開かれ、世界各国から集まった人々が学んでいます。 「エサレン」という名前は、この地に暮らしていたネイティブ・アメリカンである、エサレン(エスリン)族の名をとって命名されました。 研究所の始まりは、スタンフォード大学時代に友人同士であったリチャード・プライスとマイケル・マーフィーが出会い、 東洋と西洋の様々な考え方を取り入れながら、『文化や習慣にとらわれず、私たちが本来、潜在的に持っている可能性を伸ばしていくことができるか』ということ(人間性回復運動=ヒューマン・ポテンシャル運動)を探求する滞在型コミュニティーセンターをこの地に立ち上げたことに始まります。 以来、多くの哲学者や文学者、心理療法家、身体技法研究家、アーティストなどが研究所を訪れて交流し、様々な実験的・体験的なワークショップが繰り広げられるようになりました。 その中の一つとしてボディワークがあり、「エサレンⓇマッサージ」は生まれました。 エサレンマッサージ(エサレンボディワーク)は、こうした歴史や様々なメソッド、そして豊かな自然に育まれながら、『ゆっくりと、呼吸とともに、今ここの気づきをもって、あるがままを受け入れ、全体を繋げる』という独特のスタイル・哲学として創り上げられてきたのです。 そして、現在もなお新しい手法と組み合わされ、発展し続けています。
❖エサレン研究所に滞在し、ワークショップを行ったことのある著名人
フリッツ・パールズ(ゲッシュタルト心理療法の創始者)
アブラハム・マズロー(人間性心理学とトランスパーソナル心理学の創始者)
アーノルド・ミンデル(プロセス思考心理学の創始者)
カール・ロジャース(臨床心理学者/クライアント中心療法の創始者)
ロロ・メイ(精神科医)
アイダ・ロルフ(ストラクシュアル・インテグレーション=ロルフィングの創始者)
シャーロット・セルバー(センサリー・アウェアネスの創始者)
フレデリック・M・アレクサンダー(アレクサンダー・テクニークの創始者)
モーシェ・フェルデンクライス(フェルデンクライス・メソッドの創始者)
ミルトン・トレガー(トレガー・アプローチの創始者)
etc… 参考文献 「エスリンとアメリカの覚醒 – 人間の可能性への挑戦 」 <W.T アンダーソン著、伊藤博訳、(誠信書房) Esalen and American Awakening
” ※着色は引用者
ヒッピー的でニューエイジ的な研究所だな
)
第1章 「ロシア的人間」─天使にして悪魔
p40
ヘッセをもっとも憂慮させた没落は、経済的なものでも、軍事的なものでもなかった。それはまた、物質的なものでもなかった。そういうものをイギリス人は第二次ボーア戦争(1899~92年)(備忘録者注:「~1902年」の間違いだろう)
の年月に味わったことがある―このとき補充兵の半数以上が軍務適合審査に落ち、それが1910年のロバート・ベーデン=パウエルによるボーイスカウトの設立につながった。そうではなくて、ヘッセが憂いた没落とは、霊性的なものだった。
(
ヘッセもケツ社員だろうし、ボーイスカウトはメイソンと人脈がかぶる。
ケツ社員だろう人がたくさん出て来るのが本書だ(笑)
)
p.54から
三人の「ロシア的人間」、ブラヴァツキー夫人、グルジェフ、そしてラスプーチン
ロシア人の聴衆に向けた講義で、ルドルフ・シュタイナーは、ロシア的性格についてふれながら、ヘルマン・ヘッセのように「ロシア的人間」について語った。だが、その例をあげるときにシュタイナーが選んだのは、ある「ロシア的女性」であった。このエレーナ・ベトローヴナ・ブラヴァツキー夫人は、先に触れたように神智学協会の共同設立者だった。ブラヴァツキー夫人、あるいは彼女が好んだ流儀にならうなら「HPB」は、ロシア的人間がもつものいっさいを体現し、かつそれ以上のものだった。彼女は、当時ロシアの一部だったウクライナのエカテリノスラーフ(現在のドニプロペトロフスク)に1833年に生まれた―今日もそうであるようにウクライナが誰のものなのかはロシア史の根本的な問題である[33]。シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人を「火花」―それはある種のオカルト的な真実である―を散らすことのできる「蓄電されたライデン瓶」と呼んだ。彼女は「傍若無人」で「対人関係における一貫性の欠如」を示した。もっとも、これすらが、冷静さそのものの具現である穏やかなシュタイナー博士だけが言い得たような。ごく控えめな評価である[34]。シュタイナーにとって、ブラヴァツキーは、幾人もの批評者たちが看破したロシア人についての真実の完璧な一例であった。すなわち、彼らは、形を与えることを拒否することで獲得したような、なにか原初的でエレメンツ的な力をもち、ヘッセをまごつかせたその「原始的なアジア的理念」をもっている。コリン・ウィルソンがその『オカルト』で記したように、ブラヴァツキーは「爆発的な無鉄砲娘」であった。『ブラヴァツキー夫人の気球』の著者ピーター・ワシントンは、彼女を「ごくまれにしか同じことを二度口にしない」「無造作な包み紙に入ったすばらしいクリスマス・プレゼント」と評している。
(
「火花」を散らすことのできる「蓄電されたライデン瓶」で、「傍若無人」で「対人関係における一貫性の欠如」を示す、「爆発的な無鉄砲娘」。
直接関りたくないよ(笑)
「ごくまれにしか同じことを二度口にしない」「無造作な包み紙に入ったすばらしいクリスマス・プレゼント」。
危ないプレゼントだな(笑)
)
霊的な教師としてのブラヴァツキーはまた戦士の魂をもっていた。彼女の人生をあやつる運命の女神は、彼女を、メンターナでローマ教皇軍と戦うマッツィーニの軍団とともに、バリケードの向
(ここからp.56)
こう側に置いた。純朴なヘンリー・スチール・オルコット大佐を虜にして、神智学協会を結成させたのも、まさしく彼女の従軍の記念である「ガリバルディのブラウス」、その豪快な生き方によるものであった。彼女は煙突のようにタバコを吹かし、作法などはおかまいなしで、多彩な語彙をもっていた。彼女は、理解しがたい荒々しい怒り、または人を啞然とさせるような自己犠牲を突発的に表すことで有名で、奔放なユーモア感覚をもっていた。彼女が、事実上自分の身の回りの誰をも帯電させるような効果を周囲に及ぼしたのも驚くにはあたいしない。人種や性別、信条、肌の色を超えた人間の友朋団を作るという彼女の目標―のちに触れるように彼女の曽祖父はロシアのフリーメーソンの立役者のひとりだった―は、ロシア人は「われら」という主語でものを考えるという、のちのシュペングラーの洞察と響き合う。こういってよければ、彼女は、奇抜だが霊感的で、良き目的のためであれば、いくらかのごまかしをすることなど厭わない「狂気のグル」の原型であった。そういうグルの「教育的ふるまい」は、イニシエーションを受けていない入門者の理解をえてして超越しているものである。
エソテリックな詐欺師、いんちき霊媒、神がかりのいかさま師というブラヴァツキー夫人の風評が、彼女をロシア的人間の隊列に組み入れている一方で、彼女に「聖なる愚者」としてロシアで知
(ここからp.57)
られてきたイメージを見出す人もいる。「佯狂(ユローストヴォ)」は「キリストのために愚者たること」を意味するが、ブラヴァツキー夫人は、キリストの名においてこの役割を演じたのではないのかもしれないが―先述のようにキリスト教についての彼女の言説が彼女にロシアの友人がすくなった一因である―たしかに喜んでこの「愚者」の役割を演じた。
(
ユローストヴォというように、小さいオで表記したが、本のルビだと小さいオなのか、通常の大きさのオなのか分からない。
ブラヴァツキー夫人の曽祖父がメイソンだと日本語で書いている唯一の本かもしれない。
煙突のようにタバコを吹かし、作法などはおかまいなしで、多彩な語彙をもっていて、理解しがたい荒々しい怒り、または人を啞然とさせるような自己犠牲を突発的に表す、奔放なユーモア感覚がある人って創作物のキャラなら人気が出るかもしれないが、現実の人なので関わりたくないよ。
)
p.59から
図5 ゲオルギー・グルジェフ
G・I・グルジェフはロシア人ではない。彼はギリシャ人とアルメニア人の出自である。だが、彼が生まれたとされる―彼の生年について正確な結論はない7―ころ、
【同ページの欄外注より。7 推定される出生年は1866年、1872年、1877年である。】
彼の両親の家は、トルコかロシア領にあった[39]。やがて彼は「真理の探求者たち」として知られる仲間たちの一団とともにエソテリックな知識を求めてエジプト、聖地エルサレム、中央アジアで数年を過ごし、それから、銀の時代のロシアで霊性的な教師として頭角を現した[40]。ブラヴァツキー夫人のように、グルジェフはいくぶん「狂気のグル」であった。彼の風変わりで、かつ人を困惑させるかのような行状は、彼の弟子たちをつねに身構えさせていたが、彼はそれでもしばしば彼らの警戒の裏をかいた。彼は、弟子たちに尋常ならない要求をして、わざと困難な状況を作り出した。作家フリッツ・ピータースのグルジェフとの道中のエピソード―グルジェフは列車の出発をひどく遅らせ、すべての乗客を叩き起こし、不快な匂いのする食べ物をとって、特別待遇を要求して、最低の俗物としてふるまった―は、古いコメディー映画に出てくる登場人物が「ふつふつと怒りをたぎらせる」という場面を思わせる[41]。これは、ブラヴァツキー夫人のマルクス兄弟風のおどけた仕草のように、ひとつの教育的な戦略であり、彼の弟子たちを揺り動かして目覚めさせておくためのものであった。それは、彼らの「眠り」を妨げ、彼らのいわゆる「機械的」な限界を押し動かして「真実の意識」を手に入れることを助けるためのものだった。
だが、この手法はいつもうまく働いたわけではない。グルジェフを世界に紹介したのは、銀の時代のオカルトとエソテリズム界の有名人だったP・D・ウスペンスキーの功績である。ウスペンスキーは、形而上学的なテーマにかんする人気の書き手で、カフェ「野良犬の穴倉」の常連だったが―彼の講義にはベルジャーエフも参加したことがある―期待はずれのエジプト、インド、近東への「奇蹟を求める」旅のあとで、モスクワでグルジェフと知り合った。グルジェフとともに過ごしたウスペンスキーの数年間の記録『奇蹟を求めて』(1949)は、「神秘的ロシア」の背景と見なしうるもの、歴史の混沌に抗った霊性的な真理の探求を、凝縮された姿で見せてくれる。
p61から
長い従属節と挿入句をはてしなくちりばめたグルジェフの長大な傑作『ベルゼバブの孫への話』(1950)は、ルドルフ・シュタイナーが、ロシアは大いなる力を秘めているが整然として形にとぼしいと言ったとき、シュタイナーがなにか真実を突いていたということを証明するものであるように思われる。それはグルジェフその人が純粋なロシア人ではなかったことを勘定に入れても、なおあてはまることである。グルジェフとブラヴァツキー夫人には、まだまだ多くの共通点がある。彼女の『ベールを脱いだイシス』(1877)と『秘密教義』(1888)は、グルジェフの著作がそうであるように、しばしばその継ぎ目が破れて、今にも破裂しそうに見せる。そして二人ともそのディオニュソス的な変幻自在の人物像に、いくらかの論理と秩序をもたらす西欧精神の持ち主―ブラヴァツキー夫人の場合ならオルコット大佐―を得ることで大きな恩恵をこうむった。
この三人の探求者たちは、その誰をとっても、強烈な霊性的な探求を、それを満足させるための物理的な試み、つまり、シンボリックな「奇蹟」の探求ではない地理的な具体的な探求の企てと合体させた。ブラヴァツキー夫人は、彼女自身の主張を受け入れるなら、ヨーロッパ人が訪問を許されていない時代にチベットへ旅した―あるいは、許されるかぎりチベットに近い場所まで行った。グルジェフも、中央アジアのどこかの天然の要塞にあるサルムング友朋団の秘密の修道院に潜入したと主張した。ウスペンスキーもその失われた知識の探求の旅で、アシュラムや回教修道士(ダルヴィシュ)の祈禱場で「スクール」の師たちに出会った。こういう「巡礼」の旅は、ロシア特有のもので、彼らは神が彼らのところにやって来るのを待つのではなく、自分の家を捨てて街道に出て、神の足跡をたどるのである。
p64から
ロシアの巡礼者たちの謙(へりくだ)りと否定の道
ラスプーチンは、ブラヴァツキー夫人のように「罵倒の道」を歩き、「ユローストヴォ」を実践した。彼は、まさしく「キリストのための愚者」であった。
(
ユローストヴ「ォ」で合ってた
)
地上の生涯をとおしてひとりの「巡礼者」たらんとすることは、ロシア的な人生の特徴であり、現世の限界を受け入れることを拒み、聖なる目的地、来たるべき天の国を目指そうという決意をもたらす。
だから、ロシアの十九世紀、そして二十世紀初頭のいちばん人気のある修養書のひとつが、無名の著者による『ある巡礼の道』(1884)であったことに驚かされるような必要はない―同書は1990年代からふたたび人気を集めている。これは「主イエスよ、我を憐み給え」という「イエスの祈り」を絶えず心の中で唱えながらウクライナ、ロシア、そしてシベリアを旅する貧しい遍歴者の記録で、おそらくこれも、ロシア的人間による究極的なるものの追及の一例である。
第2章 母なる大地─桁外れな国
p.78から
ドヴォヨヴェーリエ、すなわち「二重信仰」というからくりによって、「ロシア人」は、一方で、過酷な大地が生み出した「強烈な霊性」、すなわち永遠の世界で彼を待ち受ける「もうひとつの」世界への力強い確信と、そして他方で、おのれが今この場所で「湿れる母なる大地」に根ざしているのだという深いきずなの感覚をともに満足させることができた。
そこには、宇宙をなりたたせる両極の力を具現する高位の神々があった。全能の創造神「ロッド」は光と闇、清浄と不浄の霊の対立から出現した。彼が生み出した最初の双極は、白神と黒神、すなわち男神ベロボーグと女神チェルノボーグである。ちなみに、ボーグ(ボーフ)はスラブ人の言葉で神を意味し、したがって、銀の時代の「探神論者」は【ボゴ】イスカーチェリと呼ばれている。
(
【 】は傍点の代役。以下同様。チエリではなくチェリね
)
この二元性は、世界が光と闇の勢力の大いなる宇宙的な闘争の中にあると考えたゾロアスター教に起源をもっているのかもしれない。もうひとつの二元論的な宗教で、ゾロアスター教と重要な違いをもつものの、多く共通するものももっていたマニヘイ教は、紀元三世紀には、スラブ人に到達したと考えられている。
(
マニヘイ教のヘイって何だろう。マニ教のことのはず
)
バルカン地方からフランスまで、ヨーロッパ中に十世紀から十二世紀にかけて広まった異端のキリスト教セクトであったボゴミール派―カタリ派はその最後の名残である―の名称は、彼らが自分たちは神に慈しまれていると信じていたことに由来する。彼らの二元論的な信条も、やはりマニヘイ教とかかわりをもっていた。
月は古代スラブの宗教でとても重要だった。それは豊穣と健康をもたらすもので、人類の創造者だとすら見なされていた。月神は、ウクライナの一部では十九世紀になるまで農夫たちの円舞によって崇拝された。
第3章 「美は世界を救う」─イコンの起源
p108から
コンスタンティヌスはキリスト教徒にたいしてある種の好感を抱いていた。彼の母はキリスト教徒で、聖地エルサレムにも巡礼していた―おそらくは息子の罪を贖うためであろう。
何年も続いた内戦の末、コンスタンティヌスは自分にたいする最後の挑戦者であるリキニウスを倒し、324年に、帝国唯一の支配者となった。実にディオクレティアヌスが40年前に権力を握って以来初めての単独皇帝であった。コンスタンティヌスは、自分に勝利をもたらした天恵に感謝して、帝国の諸宗教の中でキリスト教に特別な地位を与えた。313年には、彼は、キリスト教徒にたいする寛容を呼びかけ殉教と虐待の時代を終わらせるミラノ勅令を発布する。
(
ミラノで勅令が出された歴史的事実はないらしい。
ミラノ勅令(ミラノチョクレイ)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%AE%E5%8B%85%E4%BB%A4-3172477
”
ミラノ勅令
みらのちょくれい
313年、ミラノMilanoにおいてローマ帝国のコンスタンティヌス大帝とリキニウス帝との両皇帝が発布した、キリスト教公認の勅令。キリスト教迫害の根本的廃止、教団の法人としての認知、迫害中に没収された不動産の原状回復などを内容とする。
厳密にいえば、ミラノでそのような勅令が出された歴史的事実はなく、ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいてリキニウスが同年ニコメディアで両皇帝の名において発した訓令の内容の記録が伝わるにすぎないが、後世の史家がこれをミラノ勅令とよんだのである。ローマ帝国のキリスト教迫害政策は4世紀の初期には行き詰まりがみえ、寛容への動きも出ていた(311年のガレリウス帝の寛容勅令など)。しかし、このいわゆるミラノ勅令は、帝国が単なる寛容の域を超えて、キリスト教との融合の方向へ決定的な一歩を踏み出したことを象徴する点において、歴史の転換点ともいうべき重要な位置を占めている。
[出崎澄男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
(略)
世界大百科事典(旧版)内のミラノ勅令の言及
【キリスト教】より
…なお,大迫害の原因は不明である。キリスト教徒迫害 313年,コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝が出した〈ミラノ勅令〉によって,キリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。これをキリスト教の勝利とするのは早計に過ぎる。…
【キリスト教徒迫害】より
…しかし帝国西方ではさほどはげしい迫害はみられず,とくに西方にマクセンティウス,コンスタンティヌスが立って寛容策をうち出して,迫害は東西の政治抗争の具となった。迫害帝ガレリウスは311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ,その後の抗争に勝ち残ったコンスタンティヌスとリキニウスが312年のミラノ会談の合意に基づいて313年に東方に勅令(ミラノ勅令)を発して宗教自由の原則をみとめ,キリスト教会への没収財産返還を命じた結果,ローマ帝国の迫害政策は終りを告げた。以後リキニウスや〈背教者〉ユリアヌスによる短期間の迫害は行われたが,キリスト教徒は皇帝の庇護を受け,国家宗教への道を歩んでゆくのである。…
” ※着色は引用者
311はキリスト教にとって特別な数字だ。
)
H・G・ウエルズが『世界史概観』で記しているように、コンスタンティヌスはキリスト教を「人々の意志を使ってコントロールする手段」としたのかもしれない。だが、宗教を好まなかったウエルズにとって、コンスタンティヌスの治世は、「戦争、こっぴどい神学、そして人類の相変わらずの悪徳」のいまひとつの事例にすぎなかった。
アリウスは、イエスは神と同本質ではないと教えたアレクサンドリアの司祭である。彼は、聖なる三位一体をネオプラトニズム的な見地から捉えようとした。これは初期の教父たちにもさかのぼる考えで、父なる神はあらゆる属性を超えたなにかまったく異なる性質をもち、子なる神はなにかずっと人間的なものだ、と考える一見まったくもって合理的な見解であった。このアリウス説は、公会議で異端と宣言され、アリウスは破門を宣言され、追放された。コンスタンティヌスの妹のコンスタンチアは、アリウスをコンスタンティノープルに呼び戻すことに成功しかけたが、運命はやはり彼に味方しなかった。アリウスは、彼が教会に戻ることを許可する妥協的な合意に署名するために戻る道中で、路上に倒れ、亡くなった。
第4章 失われた王国─キエフ陥落ののち
第5章 モンゴルからモスクワ国家へ─宗教的植民とロシアの建設者たち
第6章 雷帝とその苦渋の時代─黙示録的期待
第7章 西欧への窓─近代化への使命
p.296から
図29 ピョートル大帝(画家デラロシュによる肖像画)
ピョートルの成功は、彼の西ヨーロッパへの旅、すなわち1697年から翌年にかけて彼が企てた「大使節団」の旅のあいだに彼が学んだことに多くを負っている。この視察旅行によって、彼は、西ヨーロッパを訪れた最初のロシアの支配者となった。ピョートルは変装して旅し、オランダとイギリスで一年を過ごし、造船を研究した。工場や武器庫、学校、図書館、博物館を訪問し、できるかぎり実際に手を使って技術を学んだ。
西ヨーロッパへの視察旅行のあいだに、彼が遭遇したらしきもうひとつのものは、彼がロシアに導入したと言われるフリーメーソンであった。多くの歴史家がこの物語は神話だとしているが、彼が英国滞在中にメーソンの支部(ロッジ)に入門したという説は、根強い支持を受けている。いくつかの説によれば、ピョートルは建築家クリストファー・レンからイニシエーションを受けたとされる。もっとも、レンがメーソン員だったことにも、ピョートルがそうだったのと同じくらいの疑問の余地がある。この説を批判する人々は、1698年には、英国のメーソン本部(グランド・ロッジ)がまだ存在していなかったことを指摘している。英国グランド・ロッジが設立されたのは、ピョートルによる訪問のずっとあとの1717年だった。だが、ピョートルがロンドンでメーソン員に出会った可能性は高いとほのめかす者たちもいる。彼らの指摘によれば、英国グランド・ロッジが設立される以前の「受け入れられた」58 メーソン員たちのロッジにピョートルが入会したという可能性がありえる。このようなメーソン員たちは「1688年の名誉革命ののち隆盛を極めていた」とある歴史家は指摘している。
(
グランドロッジができたことを公式に宣言したのが1717年ってだけでしょ。隠れる必要が完全になくなったから宣言しただけでしょ。なのでメーソン員はそれ以前からいる
)
そうであれば、驚くべきことはない。フリーメーソンは、中世の聖堂建築家たちのギルドから発展したものであった。フリーメーソンが宣言していた啓蒙主義的価値観がピョートルを惹きつけたであろうように、石を「まっすぐ」にし「四角く」するための技術の力の理念―そしてこの力の人間という素材への適用の理念―がピョートルをフリーメーソンに惹きつけたのかもしれない。
58 訳注:伝統的な石工中心のメーソン団にたいして、石工ではなく、哲学的・思弁的な関心から入団する外来者である「受け入れられた」メンバーが中心となった当時の英国で一般的な思弁的なメーソン団のことを指す。英国グランド・ロッジが1717年に成立するまで、英国には複数のそのようなロッジが併存していたらしい。
(訳注終わり)
ロシアに戻るとピョートルは、参事のフランツ・レフォルト(フランソワ・ルフォール)に、みずからが建設しようとしていたサンクト・ペテルブルクにメーソン・ロッジを創設する指示を与えたと言われている。もしこれが本当ならば、ロシアの辛抱強く、かつ惰性的な民衆に、西欧の啓蒙主義的理念を注入し、教会が彼らに対してもっている支配力を削ごうとするピョートルの目標に、メーソンの価値観はうってつけのものだっただろう。科学者のヤーコフ・ブリュス(ジェームス・ダニエル・ブリュス)やスコットランド出身の雇われ軍人パトリック・ゴルドンのような、ピョートルの側近グループの人々も、フリーメーソンとよく一致する関心をもっていた。彼らもロシアにおけるロッジの設立におそらく関与していたようである。
ロシア最初の天文学者であったブリュスは、スコットランドの血を引き、名誉革命にたいする反対勢力であったジャコバイトの陰謀にもなんらかの絡みをもっていた、彼は、錬金術を実践する博物学者で、モスクワでは魔術師としてその名を馳せていた。
[
ジャコバイト:名誉革命(1688-89年)で追放されたイギリス国王ジェームズ2世を支持し、スチュアート王朝の復活を望んだ人々のこと。
スコットランド高地地方がジャコバイトの最有力地盤だった。
ジャコバイトは、1688年のイングランドで起こった名誉革命の反革命勢力。
ワクワクさん
@uxskf
ジャコバイトとジャコバンて名前似てるだけだけどメーソン目線なら繋がってるね
ジャコバイト→ステュアート朝 スコティッシュメーソン ゴルフ シンクレア
ジャコバンはそのまんまグラントリアン
で エリザベスのいとこのケント公は英国メーソンのボスでしょ
午後5:03 · 2024年7月1日
·
605
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ーーー
ワクワクさん
@uxskf
https://en.wikipedia.org/wiki/Serena_Rothschild
最近亡くなったジェイコブロスチャイルドの奥さんがそもそもシンクレア家の人だったはずよ
シンクレア家自体がスコティッシュメーソンの大物一家なわけでロスチャのスタンスもこういうとこで分かる
さらに表示
en.wikipedia.org
Serena Rothschild - Wikipedia
午前3:20 · 2024年7月14日
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396
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(「Parent(s) Sir Philip Gordon Dunn, 2nd Baronet
Lady Mary Sybil St. Clair-Erskine」とある)
あとはロバートブルースで分かる通りステュアート朝とかね
ロバートブルースの子孫がメーソンの大ボスだったような
ローマ倶楽部のメンバーのドイツのメーソン研究のトップが「スコットランド位階、30階級は赤のフリーメイソンと呼ばれる 赤はステュアート朝の色である」 なんて教えてくれてたりする
午前3:22 · 2024年7月14日
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ワクワクさん
@uxskf
エルギン伯爵の赤い服で草どころか
そもそもフリーメイソンのスコットランド位階33
青に対して上位階級の色である赤はステュアート朝の色って解説していた本があったはず
午前2:18 · 2024年4月30日·1,465 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
赤色なんだよなぁ
ステュアート朝、ジャコバイト、仏メーソンで分かるように赤色ってグラントリアン系が当然大好きなんだけど
午後11:31 · 2024年5月16日
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1,355
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ワクワクさん
@uxskf
メーソンのオランダ商館の医者シーボルトが地図持ち出したらメーソンのペリーがやってきて開国へみたいなのは当然として
日英修好通商条約のイギリス代表ってテンプル騎士団伝説とかスコティッシュメーソンの大物一族のエルギン伯爵 ブルース家なんだよね
午後7:23 · 2025年2月3日
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それでやって来た初代駐日総領事のラザフォード・オールコックもちゃんとフリーメイソン
結局長崎のオランダ商館がフリーメイソンの活動を開始 コンパス蘭学
明治維新メーソン革命やメーソンのペリー来航からさらにフリーメイソンが活動
西周もオランダ商館が手引きしただろうし
午後7:30 · 2025年2月3日
·
385
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ーーー
https://twitter.com/uxskf/status/1785195764345672110
”ワクワクさん
@uxskf
画像
午後3:33 · 2024年4月30日·891 件の表示”
(画像より:
スコットランド位階:フリーメイソンの歴史においては、伝統的な「ヨハネの位階」の3つの位階(徒弟、職人、親方。これらは「青のフリーメイソンと呼ばれた)にさらに上位の位階を付け加えた位階を持った組織が現れる。それらは伝統的なスコットランド位階に基づいて3位階に30の位階を付け加えたり、スウェーデン式位階とよばれる12位階であったり、場合によっては90以上の上位位階を持つ組織もでてくる。図はスコットランド位階の33位階図で、それぞれの位階が独自のシンボルを持っているが仕組みは複雑である。これらの上位位階は「赤のフリーメイソン」と呼ばれた。なお赤はスチュアート朝の色である。
画像の文章は以上。着色は引用者。
「出典は何でしょうか? 教えて下されば幸いです」と昔聞いたら答えてくれて感謝↓)
https://twitter.com/uxskf/status/1785267216730263838
”ワクワクさん
@uxskf
著者はみんな大好き人口削減でお馴染みのローマクラブやオカルト女とウェルズが初期に会長やってたペンクラブのメンバーにしてメーソン研究の第一人者
欧州科学アカデミーという事で間違いなくグラントリアンによる陰謀論批判の本である
画像
午後8:17 · 2024年4月30日
·73 件の表示”
(ヘルムート・ラインアルター『フリーメイソンの歴史と思想――「陰謀論」批判の本格的研究――』の和訳の表紙の画像。
ありがとうございます! メイソンの解説本って玉石混交だろうし、その内ワクワクさんが紹介しているものが知りたいのでありがたいです。
「バリュエル製陰謀論とかの基礎的な話も載ってる」。やっぱりイエズス会は嫌いなんだ(笑))
(上記の続き:)
https://twitter.com/uxskf/status/1785268380783829208
”まぁメーソンが直接書いている陰謀論批判本である
当然バリュエル製陰謀論とかの基礎的な話も載ってるので個人的には初心者にもおすすめ
ただこれを読んであぁフリーメイソンってただの良い組織で陰謀なんてないのね
と思わされる事はないように笑
午後8:22 · 2024年4月30日
·
22 件の表示”
https://twitter.com/uxskf/status/1785268521657872401
"本書は、フリーメイソンの運動が始まったイギリスやフランスの歴史分析から出発しているが、その中心はドイツ語地域のフリーメイソンの分析に当てられている。その理由はフリーメイソン攻撃の陰謀論はとくにドイツにおいて展開していったという歴史があるためだ。
さらに表示
午後8:22 · 2024年4月30日
·
20
件の表示"
https://twitter.com/uxskf/status/1785268693565661229
”本書では、自らフリーメイソンであったフリードリヒ2世(大王)から19世紀における陰謀論の成立についての分析、ナチ時代のフリーメイソンの弾圧にいたるまでが解説されている。
ドイツ中心のメーソン本て日本だと珍しいからそれだけでも読む価値あるよ
午後8:23 · 2024年4月30日
·
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”
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フリーメーソンは、のちにエカテリーナ女帝の治世にひとつの政治的な争点となり、ロシアのフリーメーソンたちは、政府に自分たちの活動を禁止しないように請願するために、ピョートルその人がロシア・フリーメーソンの創始者なのだとしばしば主張することになった。
p.312から
ロシアで「唯一の精神的・社会的な運動」としてのフリーメイソンがもたらしたもの
エカテリーナがそれにたいして考えを改めたもうひとつの西欧の影響とは、フリーメーソンの流行であった。フリーメーソンがピョートル大帝によってロシアにもたらされたと言ってよいのなら、エカテリーナの治世には、それはたしかに根を下ろしたと言うべきであろう。ピョートル大帝の入会が疑わしいものであり続ける一方で、ほとんどの歴史家たちは、ロシアのフリーメーソンの発端を、外国に派遣されてそこでフリーメーソンに出会い、それを持ち帰ったロシアの士官たちに結びつけている。そして、その公式の受容の功績は、1731年に英国グランド・ロッジによってロシア支部の長に任命されたジョン・フィリップ大尉の名前に帰されている。1740年には、さらにロシア地方本部長(グランド・マスター)としてジェームズ・キースが華やかに就任すると、その会員名簿はいっそう大きなものになった。
だが、貴族の同好クラブのようなものでない、なにか重大な霊性的、そして倫理的な探求としてのフリーメーソンは、エカテリーナの治世の初期まで、ロシアに根付くことはなかった。それまでそれは社会的なステータス以上のものではないと考えられていたのである。ベルジャーエフは「ロシアの最良の人々がメーソン員だった」と記している。だが、1770年代になると、フリーメーソンにたいする態度は、ヨーロッパでもロシアでも変化していた。ロシアでのこの変化にもっとも寄与した人物は、しばしばロシア最初のジャーナリストとして紹介されるニコライ・ノヴィコフである。彼は、篤志家、教育家、そして出版者であり、ロシアにおける啓蒙主義の代表的人物のひとりであった。
すくなくともベルジャーエフの記すところによれば、18世紀に生じた教会の影響力と権威の減退につれて、フリーメーソンはロシアで「唯一の精神的・社会的な運動」となった。民衆を伝統的な宗教が支配し続けるかたわら、勃興しつつあった「啓蒙された」貴族階級のあいだでは、フリーメーソンの理念は、彼らの啓蒙的な霊性への欲求、そして教会がもはや彼らに与えてくれないようななにか高貴な理想と道徳的な指導にたいする欲求を満たすようになった。そして、初期のフリーメーソンのロッジは、ベルジャーエフが指摘するように、国家や教会に押しつけられたものでないロシアにおける最初の自由に結成された結社であった。そこで人々を結びつける力は、法やドグマ的教義による拘束ではなく、思想の魅力であり、また生活にたいするより高貴なヴィジョンへの欲求であった。そういう自由や好奇心はロシアではなにか新しいもので、権力はすぐにそれに憂
(ここからp.314)
慮の念を抱くようになった。常に権力がそうであるように、彼らは自分たちにチェックされていないものは、遅かれ早かれ危険なものになるにちがいないと信じたのである。
ニコライ・ノヴィコフは、エリザヴェータ女帝の教養への情熱の産物である。ノヴィコフは、モスクワに近いブロンニッツァ村の近くに1744年に生まれた。彼は、エリザヴェータの命令で科学者ミハイル・ロモノーソフによって1755年に開設されたモスクワ大学に付属するギムナジウムで学んだ。官途についたノヴィコフは、1767年、エカテリーナがロシアの法を啓蒙主義の精神で改革したいと願って開いた立法委員会に参加した。エカテリーナの「訓令」に見出した進歩的理念に鼓舞されて役職を退くと、彼は出版業に乗り出し、有名な雑誌『働き蜂(トルチエニ)』をはじめとする自分自身の風刺雑誌をスタートさせた。また『モスクワ報知(モスコフスキエ・ヴエドモスチ)』紙の編集者にもなった。ノヴィコフはエカテリーナのあらゆる改革の実行の失敗、宮廷の虚飾、そしてエカテリーナの「フランスかぶれ」を辛辣に批評し、ロシア社会の深刻な後進性を論じた[39]。当初は、彼の知性とひらめき、そして情熱がエカテリーナの好意的な反応を引き出し、エカテリーナは論争を楽しんだ。彼女は、彼と機知を競うために自分の雑誌すらスタートさせた。だが、エカテリーナの反応が好ましいものでなくなるのに、それほどの時間はかからなかった。
(ここからp.315)
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十
62 訳注:一七七九年、ノヴィコフは「モスクワ報知」紙とモスクワ大学付属印刷所を十年契約で借り受け、新聞の部数を数倍に倍増させ、さまざまな付録を刊行し、同紙の黄金時代を築いた。
(ここまでp.315
ここからp.316)
五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。エカテリーナがフリーメーソンに疑惑を抱いた
(ここまでp.316。
原注
第7章
p.694
40 Lachman, The Dedalus Book of Literary Suicides, pp. 50-52.
p.693(左から右なので頁数は減っていく)
41 Blavatsky, H.P.B Speaks, vol. Ⅱ, p. 63.
42 Goodrick-Clarke, Helena Blavatsky, p. 3.
43 Lachman, The Dedalus Book of Literary Suicides, pp. 50-52.
44 Lachman, Madame Blavatsky, p. 20.
参考文献一覧
p.709
Blavatsky, Helena Petrovna. H.P.B. Speaks. Vol. 2. Edited by C. Jinarajadasa.
Adyar: Theosophical Publishing House, 1951.
p.708
Goodrick-Clarke, Nicholas, ed. Helena Blavatsky. Western Esoteric Masters Series.
Berkeley, Cal. : North Atlantic Books, 2004
ここからp.317)
理由のひとつは、まさしくこのフリーメーソンの政治的な関与であった。
もっとも、ノヴィコフ自身は、革命より改革により関心をもっていた。彼は、エカテリーナが正しいとわかっているが国政に反映させようとはしない啓蒙主義の理念を広げる啓蒙活動家であるとみずから任じていた。彼はこの活動を新聞や雑誌をつうじて、そして自分が女性や子どものために創刊した雑誌をつうじて進めた 63 。シュヴァルツやイヴァン・ロプーヒン、セミョーン・ガマレヤ、そしてとくにアレクサンドル・ラブジンのようなほかのフリーメーソンのメンバーがフリーメーソンのエソテリックな奥義を追及した一方で、ベルジャーエフが指摘しているように、フリーメーソンの神秘的側面は、その道徳的、社会的側面ほどにはノヴィコフの関心を引かなかった。フリーメーソンの進歩的で人文主義的な側面こそがノヴィコフの欲求に応えたのであり、このような環境にこそ、次の世紀のインテリゲンツィアたちが生まれる種が蒔かれることになった。
ノヴィコフの活動がもたらした成果のひとつは、批評家アレクサンドル・ラジシチェフが著した『ペテルブルクからモスクワへの旅』であった。この著作は一七九〇年に世に出されたが、エカテリーナがそれを読むやいなや禁書となり、それがふたたび出版されるには一九〇五年を待たねばならなかった。ラジンチェフは、ノヴィコフの出版活動にこそきっかけを得たのであり、彼のこの想
63 ある意味で彼は、ボヘミアの知識人のひとりチェコのヨハネス・コメニウスに似ているように見える。コメニウスは十七世紀初頭に「普遍的改革」への薔薇十字団の特別の呼びかけに応え、中央ヨーロッパで「普遍教育の父」と呼ばれている。
(ここまでp.317)
(ここからp.318)
像上の旅は、エカテリーナがなにもしようとはせず、それどころかある意味で、いっそう悪化させている膨大な社会的、経済的、政治的な問題に苦しむロシアの本当の姿を描いていた。彼女はこの著作を没収し、ラジシチェフを逮捕した。彼は最初死刑を言い渡されたが、その後、シベリア送りに減刑された。のちに彼は、ロシアでは、どのような改革もおこなえないことに打ちのめされて、みずから命を断った 64 。
ノヴィコフは当時の哲学者たちの無神論に当惑し、フリーメーソンの理念の中に、教会のドグマと伝統に縛られず、かつ啓蒙主義的な合理主義に対抗するうえで役に立つ霊性的な信念を見出した。ノヴィコフにとって、宗教と科学はひとつの真理の二つの側面であり、両者のあいだに葛藤はないはずであった。これは、十六世紀初頭の最初の薔薇十字団を奮い立たせた理念であり、多くの人々が信じるところによれば、フリーメーソンはこの薔薇十字団の残骸から生まれた。この信条はまた、ブラヴァツキー夫人の神智学協会の中心的なドクトリンでもある。公式の教会は、多くの人々にとって真の霊性の源泉としての威信を失っており、フリーメーソンは教養ある階級の人々にとって、異端的セクトが無学な大衆のあいだでそうだったように、この霊性的な隙間を埋めるものとして登場したのである。
ノヴィコフは、哲学者たちとはちがって、宗教そのものを攻撃するような意図はまったくもっていなかった。モスクワ府主教プラトンは、エカテリーナに「ノヴィコフのようなタイプのキリスト教徒が世界中にいるように」祈っている、と告げた。ノヴィコフは、彼のフリーメーソン的な
(ここまでp.318。ここからp.319)
信条が、いかなる意味でも自分のキリスト教的信条に矛盾しないことを証明しようとして骨を折った。彼によれば、ロシアのフリーメーソンに影響を与えたヤーコブ・ベーメやエマニュエル・スウェーデンボリが教えたように、自然の世界と霊的な世界のあいだに「照応」や「象徴」を読み込むことによって、一種の「内的な光」―先に言及したソラ川の聖ニールやそのほかのヘシカストたちが見たもの―を見ることができるのであった。ある意味で、ノヴィコフにとってフリーメーソンは、キリスト教に代わって、ベルジャーエフが「ロシアの魂」の一部分だと見なしたロシア的な「聖なる真実の探求」の中心になるものであった。当時のほかの人々も、フリーメーソンにそういう役割を求めていた。また、ノヴィコフの活動はモスクワを基盤にして展開され、そうすることでサンクト・ペテルブルクが広げる価値観にも対抗していた。この特徴は、この対立が、ロシアの魂を二極化する緊張の反映であり、それが、境界を超えた向こう側の世界に手を伸ばそうとするロシアの魂の根本的な欲求、自分たちが現世の向こう側の世界とつながっていると感じたいという欲求の地理的な現れであることを示していた。そして、このなにか「向こう側」にあるものへの欲求は、次の
64 訳注:アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ラジシチェフ(一七四九~一八〇二)は、シベリア流刑ののちも哲学、化学、民俗学の活発な研究活動を続け、ロシアで最初の世俗的哲学書と呼ばれる『人間について、その死と不死について』などの著作を執筆した。エカテリーナ女帝の死後、パーヴェル帝に許され、シベリアから帰還し、さらにアレクサンドル一世のもとで首都居住を許されて、新法立案委員会に招かれた。しかし、委員会で提案した農奴制廃止論を危険視されたことから、再逮捕を恐れ、自殺した。
(ここからp.320)
世紀にはもっと切迫したものになろうとしていた。
だが、フリーメーソンにたいする姿勢は変わりつつあった。イルミナティの活動をとおしてヨーロッパの王政を転覆し、理性と啓蒙の光の王国を打ち立てようとするアダム・ヴァイスハウプトの野望―現実的な脅威にはついにならなかった野望―が「摘発」されると、それは、各国の政府に、政治的動機のいかんを問わず、あらゆる結社にたいして疑いの目を向ける姿勢を根づかせた。一七八四年、バヴァリア政府は、イルミナティ、そしてそのほかいっさいの「秘密結社」を非合法化し、ヨーロッパにおけるフリーメーソンの活動に暗雲が立ち込めた。そして、その数年後にフランス革命が起こると、エカテリーナは、ノヴィコフとその著作をはっきりと危険視するようになった。
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。一七九六年にエカテリーナが崩御すると、王座を継承し、フリーメーソンに同情的だったパーヴェル一世は、ノヴィコフを釈放した。だが、彼はその仕事を続けるうえで
(ここからp.321)
の困難にあまりにひどく打ちひしがれていた。彼は、残った人生の時間を抜け殻のような人間として過ごし、一八一八年に亡くなった。
だが、エカテリーナにおける迫害はノヴィコフを狙ったものではなかった。もともとヴォルテールの徹底的な合理主義に啓発を受けた彼女の進歩的見解は、オカルトにかかわるいっさいの事柄にたいする弾圧のきっけになった。何年ものあいだエカテリーナは、オカルト、とくに錬金術の影響が宮廷を腐敗させているという確信を心に抱いていた。そのせいで、彼女は、カリオストロをモデルにした悪漢の登場する戯曲を書きすらした。伝えられるところによれば、エカテリーナは、この悪漢を、彼女の宮廷にその影響力を浸透させようという企てのゆえに「絞め殺したい」と思った。今や、あらゆる魔術、錬金術、ヘルメス学、そして、そのほかどんなオカルト的な実践も、厳しく禁じられた。とくに占いは非合法とされ、ロシアの国民は夢の意味を尋ねさせることも許されなくなった。これは教会すらが試みなかったような、ロシアの魂の魔術的な側面にたいする厳しい抑圧であった。これに似た、同じくらいの規模での試みは、霊性的なものや内的生活を匂わせるいっさいのものを抑圧しようとした一世紀後のボリシェヴィキの政策ぐらいのものであろう。だが、そのどちらの場合にも、その弾圧の対象はけっしてなくならず、それまでもそうだったように、それらはただ地下へ潜っただけだった。
(以上で、p.321までのメモは終わり)
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”
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。
(『聖なるロシアの復興』pp.315-316)
(ノヴィコフと、ブラヴァツキー夫人の曽祖父はメーソン)
”
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。
”
(『聖なるロシアの復興』p.320)
p.315とp.316の、ブラヴァツキーと彼女の曽祖父とメイソン関連の箇所は気合を入れてメモり間違いが無いか何度も確認した。
p.320の引用箇所もしっかり何度も確認した。
啓蒙主義の影響力が強すぎる。帝政ロシアはフランス語が重視されていたからそりゃそうか。
『働き蜂(トルチエニ)』。ケツ社は蜂が好きなので、名前で「この雑誌はケツ社系だよ」って教えてくれている。
p.315と316のブラヴァツキー夫人の曽祖父(メイソン)の日本語情報が読めて本当に良かった。ブラヴァツキー夫人の曽祖父がメイソンだと日本語で読める本はおそらく本書のみだろうな。
ワクワクさん「ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人」。
逃れられたのは、運が良かっただけなのか、特別に地位が高かったので見逃されたのか不明。逃れたのが完全に歴史の分岐点だな。逃れられなかったら神智学が誕生してないだろうし。
厳「格」派じゃなくて、厳「修」派だったよ。これは見間違えるよね。
ドイツで設立されたのに、「ストリクト・オプセルヴァンス」という英語をドイツっぽく読んだ感じにしている。
ストリクト(厳格な)オプセルヴァンス(順守、宗教的儀式、カトリック修道会の規則)なので訳すと「厳守」とも訳せる。
なぜ厳「修」なのだろうかと思って調べると、フランチェスコ会厳修派(オッセルヴァンツァ)というのが実在するらしいのでこれを参考にしたのかもしれない。
厳しい修行という意味かもしれない。
英語なのは原著が英語だからだろうな。オブザーヴァンス(英語読み)ではなく、オプセルヴァンスなのは和訳の際にドイツ語読みにしたのだろうな。
ドイツ語だと、bが「プ」読み。実例の1つが、Obst(オープスト。果物)。
「strict observance」をドイツ語訳すると、「strenge Einhaltung」。
なので、ドイツ語に全く同じ単語があるのではない。
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日
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ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
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ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日
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”
シーア兄貴(来世触手)2024/12/13~2025/1/10。あのフラワー(対応人物編)。50ジャー。ブラヴァツキーが元ネタのキャラがいる作品集[悪エリアン時代(TCG)等]
Posted on 2024.12.21 Sat 21:51:58
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-583.html
”たらのめ
@metarano
イランに旅行しているYouTuberとか見てるとあたたかすぎて泣けてくるよ
そしてなんだか自分が恥ずかしくなってくる、日本のおもてなしってなんなんだ…
懐かしい人情味、これも神学が関係しているんだよねきっと
フリーメイソンの手が入ると冷え切ってしまうだろう…思想を残すとはそういうことか
午前4:11 · 2024年12月18日
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1,557
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https://x.com/metarano/status/1869699270070431915
”たらのめ
@metarano
ねここねこさんの分け方が正確なのかな
菊池さんのだと神との合一を英国左派と括ってしまうから混乱する
午後8:00 · 2024年12月19日
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”
https://x.com/uxskf/status/1869703386960187516
”ワクワクさん
@uxskf
ねここねこさんと菊池さんの分け方
ってどんな感じだっけ?
英国左派ってスピリチュアルくさいのに白人至上主義とかそこら辺?
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午後8:16 · 2024年12月19日
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”
たらのめ
@metarano
菊池さんは、「理性主義(大東社)、神秘主義(英国左派)」=赤、「一神教(英国右派)」=青、で人種観は特に関係ないって姿勢かな?
ねここねこさんは青組も神秘主義なことは前提のような
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午後8:32 · 2024年12月19日
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260
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神秘主義を右派左派分けたほうが良いんじゃないかなと思った次第
ナチス的ニューエイジやロシアの工作を英国左派(反米右派=世界連邦)とすることも一神教とすることもおかしいですから
まあそもそも菊池さんは両建ありきですし、あとロシアには少し甘めですね
午後9:30 · 2024年12月19日
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Qアノンを大本教(英国左派)とも分析されていましたしね
これは日本の特殊事例ではなく、英米でもニューエイジ、スピリチュアル、ウェルネスな右翼が台頭しているので単純な誤り
神秘主義の右派左派を区別できていれば、簡単な話
ロシアを見落としたりもしないはず
午後10:33 · 2024年12月19日
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ワクワクさん
@uxskf
スピリチュアルは右派も左派もいるし基本的には現状明確に批判できてるとこはいないよね
たらのめさんはもう調べてると思うけどブラバッキーからシュタイナーまで色んなのが混在してるでしょ
そもそもナチスがそういうものだったし
午後10:53 · 2024年12月19日
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とはいえ明確にキリ右派はスピを嫌うからそこら辺どう折り合いつけてるのかは思うけど
ロシア関連はそもそもウクライナ=ネオナチ論に注目してるだけじゃ何もわからないからね
そもそもプーチンのウクライナに対するイデオロギーなんて千年以上前からのものだし
クリミアの時のウラジミール像とかね
午後10:56 · 2024年12月19日
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ウクライナ=ネオナチってインサイドザリーグって有名な本があるように地理的にもそうなんだけどもう捨てられた側だろうし
ネオどころかそのままナチスが背後の共和党はプーチン側だし石油戦争財閥もウクライナなんかもうゴミ扱いだろうし
元々トランプなんてロシアの傀儡なのは有名だけどね
午後11:00 · 2024年12月19日
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(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1869746389359698123
”ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人
その彼の大量のオカルト、メーソン蔵書を見つけるところからブラバッキーがオカルトの道へ
午後11:07 · 2024年12月19日
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”
(マジで? 出典が知りたいです。ブラヴァツキーが突然出現した異常個体ではないってことじゃん
)
って感じだから神智学もメーソンもロシアは必修分野なんだけどあんま開拓されてない
ロシア関係の話はこの界隈も少ないかもね
大本は左右の闇鍋だけど赤側でQアノンはロシアと同じ枠の青 そんな感じかなぁ
ネオナチに終始しなきゃいいよね
露のトラやアメリカへの工作員などすぐ分かるはずだし
午後11:12 · 2024年12月19日
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「ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人
その彼の大量のオカルト、メーソン蔵書を見つけるところからブラバッキーがオカルトの道へ」が気になりすぎる。
「菊池さんは、「理性主義(大東社)、神秘主義(英国左派)」=赤、「一神教(英国右派)」=青、で人種観は特に関係ないって姿勢かな?
ねここねこさんは青組も神秘主義なことは前提のような」
「明確にキリ右派はスピを嫌う」
私はロシアについてはマジで分からない。今現在は特に動きが激しいので更に分からない。
ロシア、正教、イスラームはわからないので私は扱わない方針。
多少知っている程度では、責任をもって言えないからね。
断片的にはブログで扱うけど、ご支援用記事に書いている勢力図に組み込めるほどには理解できていないよ。
改造版キリスト教=新キリスト教。
青組の福音派などの聖書維持派(改造版キリスト教の霊性進化論などを否定)は、赤による青潰しですでにかなり弱っていると考えている(とはいえ無視はできない)。
霊性進化論肯定派が青でも主流になっているだろうな。霊性進化論を肯定ってことは神智学肯定だし、神秘主義も肯定。
大雑把に言うと、赤も青もスピ(改造版キリスト教)だらけ。
青系の創作物も霊性進化論肯定ばかり(欧米はともかく、日本では赤も青も神智学肯定)。
青系の有名作品の一部を列挙:
ドラゴンボ-ル、龍クエスト、ク□ノトリガ-、
海賊王、ブリー血、運命巻戻シ、
忍者ナルト叙事詩、チェンソ-男、H(ハイル)×H(ヒトラ-)、
呪術海鮮、FG○、徐々の奇妙冒険、
汚(お)しの子、葬送フリ-レン、あのフラワー(あの日見た花のネームをオルコット大佐達はまだ知らない)
など。
上記は全て、改造版キリスト教系であり、聖書絶対維持思想ではない(福音派は日本ではウケないだろう)。
例えば、海賊王とチェンソー男って「悪魔の力で戦う」からどう見ても福音派など聖書維持派閥ではないよ。改造版キリスト教(青)だよ。
『海賊王』の主人公のルフィの最強形態が白いハヌマーンだからどーみてもアーリア白人妄想(青く染めた神智学)。
ブリー血は、ユーハバッハ(YHVH。ヤハウェ)が強敵だから露骨にグノーシス主義だ。
ショッカー(青組)に脳改造手術を施された、霊性進化論肯定派
対
トウエイ(赤組)に脳改造手術を施された、霊性進化論肯定派
ショッカーもトウエイも源流は、元祖 霊性進化論 女(ブラヴァツキー)なので、思想と構造(システム)が支配層の本体。
支配層の本体=思想・システムの核はバラモン・ゾロアスター教を その子孫である耶蘇と新ヤソ神学。
福沢諭キチと渋沢帰一(栄一のこと。帰一協会)の極悪さを合わせてもブラバツキー(神智学協会の創設者の1人。元祖 霊性進化論 女)の極悪さには及ばないから恐ろしいよ。
ブラヴァツキー生存時代の神智学は赤か青かというと赤寄りであることには注意ね(初期はエジプト強調。『ヴェールを脱いだイシス』。既存の伝統的なキリスト教を否定。科学を強調)。
明確に赤くなったのはベサントが強くなった後だろうね。
ベサントとリードビーターは一組なので、ついでにリードビーター(レッドビーター)について書いておく。
[魔術人名録の、リードビーター(レッドビーター。1847-1934)の日本語解説記事↓]
Leadbeater, C.W.
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/LEADBEAT.htm
肛門とかアナルとか露骨な表現をせずに表現しているが、糞さを隠せてないな。こいつって霊視(特にオーラ観察)の達人だったから、霊的階級(レベル)が神智学内では上の方。よって「性加害者であることと、神智学的に霊的地位が高いことは両立する」って証になる。嫌な証だな。
ブラヴァツキーは人類史でも有数の極悪思想を生んだが、リードビーターは彼女とは別の方向で糞すぎるな。せっかく退会させることに成功したのに復帰させたベサントもまた糞である。ミード派は性加害者に反発しているという意味ではまともである(思想的にはこちらも極悪なんだけどな)。
https://x.com/uxskf/status/1788812856655487243
”ワクワクさん
@uxskf
チャクラと言えばのリードビーターさんのありがたいメーソン流肉体の秘技
画像
画像
午後3:06 · 2024年5月10日·3,379 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788813431832973472
”ワクワクさん
@uxskf
ちなみにこのリードビーターさん
チャクラの7色やオーラの流行で分かるようにヨガやスピリチュアル界隈でとてつもない影響を及ぼしているのだがジャニー喜多川疑惑を神智学内部からかけられたりしている
午後3:08 · 2024年5月10日·647 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788814480639713489
”そんな彼は少年達にエッチな事をしていた疑惑からか下から2番目の生殖器付近のチャクラに関する部分を捏造していたり結構大変な事をしている
彼によるとスワーディシュターナ・チャクラは極めて危険らしく目覚めると性欲が暴走したりするらしい
(カルト宗教の教祖の性欲暴走かな?)
午後3:13 · 2024年5月10日·661 件の表示
”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788815459732844717
”なのでこの生殖器付近のチャクラ関連はとりあえずちゃんとした指導者の下でやりましょうというのがとりあえず言われてるみたいだが
まぁそんな事知られる事もなくチャクラを開く!だかやってるのが多いね
さらに表示
午後3:16 · 2024年5月10日·966 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788815851917017563
”そんな彼もアニーベサントの右腕で分かる通り共同メイソンに加入していたはず グラントリアン系でしょうけどね
午後3:18 · 2024年5月10日·800 件の表示
”
[魔術人名録の、アニー・ベザント(1847-1933)の日本語解説記事]
Besant, Annie
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/BESANT.htm
を読むとベサントは赤属性が強いと分かる。
ベサントって神智学信者になる前は無神論者だから最初からグラントリアン思想傾向。
ベザントを嫌う神智学協会員が多かったせいで神智学協会分裂の原因になっている。
ベザントはリードビーターと共に、世界的宗教を目標として動く。それはブラヴァッキー型神智学から脱することでもあるので、そりゃ分裂するよね。
女権論者のベサントは、女性の参入を認めるメイソン組織を作っている(この組織の認可状はフランスのグランドロッジが出した。英国のユナイテッド・グランドロッジは認めていない)。
フランス系(赤傾向)と英国系(青傾向)の対立がここに見られる。
1909年2月、ミードと神智学協会の英国支部の約700人の会員は、アニー・ベサントがリードビーターを協会の会員に復帰させたことに抗議して辞めた。
リードビーター(レッドビーター)は1906年にアメリカの神智学徒の息子らにオカルト訓練と称し自慰をさせたことで糾弾されたりもしているから反発は当然だな。
1909年3月にミードは150人の神智学協会からの脱会者と新たに加わった100人で
クエスト協会(Quest Society)を設立。
おそらく、ドラゴンクエストの元ネタ。ゲーム漫画アニメ業界は神智学が大好き。
以上を踏まえたうえで、『あのフラワー』について重要なことが分かったことを伝えておくよ。
この作品は、ブラヴァツキー(めんま)の死後に分裂が激しくなった神智学界に「仲良くして」って伝える内容だ。
めんまにロシア人の血が混じっているから露骨だよ。
「あなる」ってかわいそうなあだ名の女の子がいるじゃん?
アナルで神智学といったらリードビーターだよね。
おかげで、それぞれ誰が元ネタか(確定ではないけど)分かったよ。
どうみてもこの人に対応しないと思ったら、教えて下さい。
リードビーターによる性加害の被害者もクエスト協会にはいただろうから、あなるはミードとミード派が元ネタなのだろうな。
リードビーターに対応するのはゆきあつ。
つるこの没設定に腐女子というのがある。腐女子って男同士のあれやこれやが好きってことだ。没設定だが、ゆきあつがリードビーター説を補強するものとなっている。
あのフラワーにおいて、ゆきあつとつるこは一組として描かれているから、リードビーターとベサント。リードビーターとベサントは一組なので。
めんま(メインヒロイン)はブラヴァツキー。
主人公(じんたん)はオルコット。
オルコットもジャッジも神智学協会の創設に関わっている。オルコットとジャッジは弁護士仲間。神智学協会創設や弁護士仲間だったことが、未来のじんたんとぽっぽが二人で会社を作って経営していることの元ネタだろう。
オルコットの生存期間(1832-1907年)と、ジャッジの生存期間(1851-96年)を比較すると、オルコットが年上。ぽっぽが弟分であることの元ネタだろう。
神智学協会第1号はアメリカで設立された。オルコットとブラヴァッキーがインドに移ると、米国神智学協会を任されたのがジャッジ。
ぽっぽが秘密基地で暮らしていることの元ネタだろう(神智学ができたアメリカが拠点という意味)。ぽっぽは秘密基地に残った。ジャッジはアメリカに残った。
秘密基地は単に神智学協会第1号だけでなく、「ブラヴァツキーの死後に起きた分裂前の神智学協会」を象徴しているのだろうな。
ぽっぽが世界中を放浪している設定は、ジャッジが色々な国に行っていることが元ネタだろう(ジャッジ以外の神智学の重鎮も色々な国に行っているけどね)。
以上より対応は、
めんま…ブラヴァツキー
じんたん…オルコット
ぽっぽ…ジャッジ
あなる…ミード(派。クエスト協会)、リードビーターの被害者
ゆきあつ(めんまに女装する変態)…リードビーター
つるこ…ベサント
主にワクワクさん宛てにあのフラワーについて書いたのだが、ワクワクさんってあのフラワーを視聴済みか分からないんだよな。
ワクワクさんなら、もっと露骨に当てはまる大物がいる場合、気づいてくれそうなので公開記事で書いたよ。
略称は『あの花』↓
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A6%8B%E3%81%9F%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%82%92%E5%83%95%E9%81%94%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
https://x.com/anohimita_bot/status/1632134536023912448
”あの花雑学bot
@anohimita_bot
めんまの花=勿忘草(ワスレナグサ):花言葉は「私を忘れないで、真実の愛、真実の友情」。
画像
午前6:42 · 2023年3月5日
·
67
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”
あのフラワーについては終わり。
[中略]
https://x.com/uxskf/status/1875588408929874186
”ワクワクさん
@uxskf
ブラバッキーが元ネタのキャラってほぼ知らないね
神智学影響下のキャラなら腐るほど居るけど
やっぱ直接的には扱いにくいと思うなぁ
FGOはそのまんま出したみたいだけど
大物だし本人が特殊すぎるのもあって難しいと思うなぁ
午前2:01 · 2025年1月5日
·
35
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”
[
FGOはよくそのまま出せたなあと思うが、ブラヴァツキー時代は本格的に赤組や青組の政治活動はしてない(はず)だからいけたのかもね。どちらかというとブラヴァツキーって思想的には赤寄りだよなあ。
赤は青よりも積極的に聖書思想を改造すると私は考えているので。
最初の方のブラヴァツキーは明らかにエジプト重視なのも、赤寄りと判断している理由。
明らかに赤いベサントはさすがにFGOには出ないだろうな
]
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日
·
44
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”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1875591846749204538
”ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
·
48 件の表示”
https://x.com/uxskf/status/1875594045885714735
”ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日
·
20
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”
[
情報感謝!
ブラヴァツキーは突然発生した例外個体じゃないってことだな。
神智学という極悪思想が誕生したのは結局メイソンのせいじゃねーか!
英語版ウィキでブラヴァツキーの両親の記事を読んだことがあるのだが、ブラヴァツキーって貴族の血筋だよね。
ロシデレの主要キャラの社会的地位が高い理由だろうね。
ブラヴァツキーと久世氏と岸信介と佐藤栄作について学ばないと深く考察できないラブコメってなんだよ!(笑)
「ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて」って本人も隠す気がないな。
リンク先の一部のDeepL和訳を先に示す。原文は後。
「彼女の曽祖父であるパーヴェル・ワシリエヴィチ・ドルゴルーコフ公は、エカテリーナ大帝の治世の少将であった。彼は神秘主義者であると同時にフリーメーソンでもあり、ロシアでは厳格遵守の儀式のメンバーだった。この儀式は1750年代にカール・ゴットリープ・フォン・フント男爵によってドイツで創設されたもので、18世紀の出来事を密かに指揮していた謎めいた人物である特定の「未知の上位者」への信仰と服従を中心に組織されていた。」。
いきなりすごいな(笑)
「ヘレナ・ブラヴァツキーが育ったのは曽祖父の家であり、彼女が多くの時間を読書と学習に費やしたのは彼の書斎であった。
「彼は、錬金術、魔術、その他のオカルト科学に関する何百冊もの本を収めた奇妙な図書館を持っていた。私は15歳になる前に、それらを熱心に読みました。やがてパラケルススもクンラートもC.アグリッパも、私に何も教えてくれなくなった」。
彼女は神話学、グノーシス主義、薔薇十字教、占星術、神学、その他多くのオカルト的主題に触れた。」
神学は誤訳だな。Theurgyだから接神術(テウルギア。theourgia)だろうな。
神学だとtheologyだ。
「3ヵ月後、ブラヴァツキーは結婚生活に不満を抱き、夫に解放を求めた。夫はこれを受け入れ、妻を武装した護衛とともにクリミアに送り、家族のもとに帰した。冒険への欲求に駆られた彼女は、旅の仲間から逃れ、船の船長を買収し、若い頃に読んだ古代の探検家たちの足跡を追ってコンスタンチノープルまで船旅をした。コンスタンチノープルからカイロに向かったブラヴァツキーは、そこで偶然にもブラザー・アルバート・ローソンと出会った。
アメリカの有名なフリーメーソンであり秘教主義者であったローソンは、ブラヴァツキーと同じようにオカルトに傾倒していた。彼は自由思想協会のメンバーであっただけでなく、神秘宮貴族騎士団の創設者の一人でもあった。ブラヴァツキーは生涯を通じて、ブラザー・ローソンのようなメーソンの知的で神秘主義的なエリートの著名なメンバーと交際した。」。
コンビニみたいな名前だなと思ったが、Brother Albert Rawsonなので、LAWSONではない。
「その後、彼女は数年間ロシアに戻り、最終的にイタリアに渡って、著名なフリーメイソンであり、イタリアのグランド・オリエントのグランド・マスターであったカリスマ的なブラザー、ギゼッピ・マッツィーニと出会った。二人はすぐに親しくなり、フリーメーソンの深い秘教的起源について深い理解を共有した。マッツィーニの弟子たちの中で、ブラヴァツキーは、同じくアメリカのフリーメイソンで、スコティッシュ・ライトの南部管区の事務総長補佐であったブラザー・チャールズ・ソザランと出会った可能性が高い。」
the Grand Master of the Grand Orient of Italyなので確かにイタリアのグラントリアン。
あ、チャールズ・サザランだ。サザランはthe Scottish Rite。スコットランド系。
ということは、ブラヴァツキーは明らかに赤属性が強い組織の影響を受けている。
ギゼッピ・マッツィーニはグラントリアンだが別にオカルト否定ではなさそうだな。でないとブラヴァツキーと親しくはならないだろう。
グーグル検索より
”
闇戦争と隠秘主義 : マダム・ブラヴァツキーと不可視の聖地 ...
みんぱくリポジトリ
https://minpaku.repo.nii.ac.jp › record › files
PDF
杉本良男 著 · 2015 — ... チャールズ・サザランの影響. が大きく,実質的な著者をサザランに帰するむきもある(Washington 1946: 52)。また,. 長年の知己であるローソンや ...
44 ページ
”
リンク先より、
”
こうして,『ヴェールを脱いだイシス』は 1877 年 9 月に J. W. Bouton から出版された。『イシス』は,2 分冊 1,200 ページあまりの著作で,基本的に古代ヘルメス哲学の
復権を図ったものとされ,西欧の秘教や隠秘主義の伝統をひいている。そこでは,世
界の全ての宗教には共通の源泉,古代叡智宗教があるとされ,それがヘルメス哲学に
求められている(Lachman 2012: 155–156; Goodrick-Clarke 2004)。この共通の源泉を
「失われた」古代の叡智に求める姿勢は終始一貫しているが,それが次第にヘルメス哲学からチベットへと移っていく。
『イシス』は,全体にエジプト・オカルティズムの解説が中心になっていることから,薔薇十字会員にしてフリーメーソンリーでもあったチャールズ・サザランの影響が大きく,実質的な著者をサザランに帰するむきもある(Washington 1946: 52)。また,長年の知己であるローソンや,英語の校閲を担当したというオールコット,同じく英文校閲を行ったアレクサンダー・ワイルダー(Alexander Wilder, 1823–1908)教授などが実質的な著者だとする説も有力であった。さらに,同時期のブリテン女史の『人
工魔術 Art Magic』と同一のソースに基づいていたことも指摘される(Ransom 1938:
96–97; Godwin 1995: 305; cf. Wilder 1908)
” ※着色は引用者
サザランが思ったよりも重要人物だな。
Isis Unveiledが出たのは1877年って覚えやすいね。18も77もケツ社好みの数字だ。77年は狙ったかもな。
「数々のオカルト的実践や伝統の入門者であり弟子であったブラヴァツキーは、フリーメーソンの養子儀礼のブラザーにもなった。1877年、当時の著名なフリーメーソンでありオカルティストであったジョン・ヤーカー大管長(Sovereign Grand Master John Yarker)は、ブラヴァツキーにメイソンリーの古代原始儀礼の学位を授与した。
1877年11月24日付のブラヴァツキーのメーソン証書には、次のように記されている:
「われら、三位一体の神聖なるグランド・マスター・ジェネラルは...われらの輝かしい啓蒙の兄、H.P.ブラヴァツキーが、アプレンティス、コンパニオン、パーフェクト・ミストレス、崇高なるエレクト・スコッチ・レディ、グランド・エレクト、シュヴァリエール・ド・ローズ・クロワ、アドナイト・ミストレス、パーフェクト・ヴェネラブル・ミストレス、そして養子縁組の儀式の戴冠されたプリンセスであることを宣言し、宣言する」
これらの養子縁組の位階は、女性がスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの謎を研究し、解き明かすために特別に設けられたものである。旅行、勉強、曽祖父の蔵書へのアクセス、そして多くの著名なメイソンとの親しい交友関係から、ブラヴァツキーはこれらの学位を受ける前から、おそらく当時のほとんどのメイソンよりも多くのことを学んでいたと思われる。」
ブラヴァツキーって、女性なのにスコティッシュ・ライト系の位階持ちなんだ。特別待遇なのは、曽祖父がメイソンなのも理由なんだろうな。
以下の原文のクラフトってメイソンって意味だよ。
『「魔術」は英語の家庭教師』にそう書いている。
『高等魔術実践マニュアル』(入門書)、『黄金の夜明け魔術全書』(教科書)、『「魔術」は英語の家庭教師』(入門書)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
”Craft 技術、手際、フリーメーソン、魔女術
通常、the Craftときた場合は、フリーメイソンリーを示します。ようするに職人さんのイメージからくるのですが、最近ではウィッチクラフトのクラフトを示すことが多くなりました。
temple 儀式場、支部 通例「聖堂」「寺院」
魔術結社の組織の全体をThe Orderと称し、その中にいくつもの支部Templeがあるのです。団の本部があるテンプルを特にMother Templeといい、そこから派生する支部を当然ドーター・テンプルといいます。
フリーメーソンのほうでは支部のことをロッジと称しますが、魔術でもこの言葉を使用することがあります。
” ※着色は引用者
リンク先は、
Masonic Stories| Who was Helena Blavatsky?
https://www.universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
”Helena Blavatsky had a profound impact upon the world, but who was she and where did she come from?
Helena Petrovna Blavatsky was born Helena Petrovna von Hahn, on August 12, 1831 into a military family in the Ukrainian town of Yekaterinoslav, which was then part of the Russian Empire under the Romanov Dynasty.
Her childhood was an unusual one for her time. Her grandmother was Princess Helena Pavlovna Dolgorukov, a linguist, botanist, and woman of science who took an interest in the education of Blavatsky, imparting her love of knowledge and philosophy to the young girl. Her great-grandfather, Prince Pavel Vasilyievich Dolgorukov, was a major general during the reign of Catherine the Great. He was both a Mystic and a Freemason having been a member of the Rite of Strict Observance in Russia. This Rite, founded in Germany in the 1750s by Baron Karl Gottlieb von Hund, was organized around the Order’s belief in and obedience to certain “Unknown Superiors” - mysterious figures who were secretly directing the events of the 18th century.
It was in her great-grandfather’s home that Helena Blavatsky grew up and it would be in his library that she spent much time reading and learning.
“[He] had a strange library containing of hundreds of books on alchemy, magic, and other occult sciences. I read them with keenest interest before the age of fifteen…soon neither Paracelsus, Kunrath, nor C. Agrippa would have anything to teach me.”
She was exposed to a host of esoteric subjects such as Mythology, Gnosticism, Rosicrucianism, Astrology, Theurgy, and many other occult subjects.
In fact, it was in this same library that she supposedly discovered a manuscript containing the exploits and prophecies of the enigmatic Count of Saint-Germain. This discovery and her great-grandfather’s connection to the “Unknown Superiors” no doubt inflamed her imagination of mysterious adepts directing the occult undercurrents of the world. But who were these Masters and Adepts who were seeking the perfection of Humanity? Where were they and what knowledge did they possess? Her thirst for answers to these early questions would cause her to search for the rest of her life for the “Masters of the Ancient Wisdom.” It can be speculated that her interaction with the Freemasonry of her great-grandfather was one of the first clues in her quest.
Blavatsky’s early education was typical of a girl of her rank and fortune. She was prepared for the role of a noble wife whose destiny included a life spent in drawing rooms, afternoon recitals, and dinner banquets. She was groomed to be an entertaining companion and lovely accent to the already vast accolades of an accomplished gentleman. This was the fate of a young woman of her stature.
In 1849, at the tender age of seventeen, Helena Petrovna von Hahn was betrothed to Nikifor Vladimirovich Blavatsky, the vice Governor of the province of Erivan, who was more than twenty years her senior. Yet, as soon as the marriage came into being, she awakened to a suffocating realization: she was never meant for the traditional role of a high society wife.
After three months Blavatsky was so unhappy with marriage that she demanded that her husband release her. He acquiesced and sent his wife, alongside an armed escort, to Crimea and back to her family. Overpowered by her desire for adventure, she fled her traveling companions, bribed a ship’s captain, and traveled by sea to Constantinople pursuing the footsteps of the ancient explorers she had read about in her youth. From Constantinople, Blavatsky made her way to Cairo, where she fortuitously encountered Brother Albert Rawson.
A renowned American Freemason and esotericist, Rawson had a similar inclination towards the occult as Blavatsky. Not only was he member of the Free Thought Society, but he was one of the founders of the Order of the Nobles of the Mystic Shrine. Throughout her life, Blavatsky would surround herself with prominent members of the Masonic intellectual and mystical elite such as Brother Rawson.
Together they traveled and explored the exotic places of Old Egypt and eventually discovered the Coptic magician Paulos Metamon. Some believe that this occultist was none other than Master Serapis, who communicated to them the ways of Egyptian Esotericism.
“Ah! There was the key to the occult mysteries of old Cairo. The chief – the shayk of the magicians – had discovered the secret of the Philosopher’s stone that turned things into gold. He was enriched by us, and we were enlightened…”
From Cairo, Blavatsky traveled throughout the Middle East with Brother Rawson, seeking out occultists, Freemasons, and magicians to broaden her esoteric knowledge. Once she had learned all she could, she set her sights on Europe to continue her search for Truth. It was in London in 1851, that she had her first encounter with “Master Morya,” a mysterious figure who would serve as Blavatsky’s spiritual mentor and master for the rest of her life.
From London, Blavatsky traveled to America on her way to Asia, exploring the vast countryside and investigating the spiritual practices of the Native Americans. After reaching California she set sail for India, where she attempted to enter Tibet for the first time, following instructions in a letter from Master Morya. She was unfortunately intercepted at the border by the British Army and denied entry to the mysterious kingdom.
Returning west in 1856 after this failure, Blavatsky was shipwrecked off the Cape of Good Hope, one of two shipwrecks she would miraculously survive during her travels. Upon her return to the United States, she again connected with Brother Rawson, who gave her a much grander tour of the United States than her previous visit, showing her various Masonic Temples and sites of occult interest.
Afterwards she returned to Russia for several years, finally making her way to Italy where she met the charismatic Brother Guiseppi Mazzini, a prominent Freemason, and the Grand Master of the Grand Orient of Italy. They quickly grew close to one another, sharing a profound understanding of the deeply esoteric origins of Freemasonry. It was among the disciples of Mazzini that Blavatsky most likely met Brother Charles Sotheran, another American Freemason, and the Assistant Grand Secretary-General of the Southern Jurisdictions of the Scottish Rite – a gentleman that would be play a key role at the founding of the Blavatsky’s Theosophical Society. Many were called to the idealism and desire of Brother Mazzini to spread the Masonic ideals of Freedom and Equality throughout the world, and it was during the War of Italian Unification that Blavatsky was wounded while assisting Brother Mazzini's forces at the Battle of Mentana, a brutal but heroic loss for the forces attempting to forge the nation of Italy.
After her wounding on the battlefield, Blavatsky received another letter from Master Morya, summoning her again to Tibet. She traveled overland, entering the mysterious land of Tibet in 1868, though the facts of this journey are unknown to history. It was in the high Himalayas that she finally found the Brotherhood of the Great White Lodge – the Masters of Wisdom and Unknown Superior of her youth. At the feet of her Masters she learned the ancient language of Senzar and was given access the most ancient of all texts; the Stanzas of Dzyan. It is this ancient philosophy that would be the basis of her magnus opus - the Secret Doctrine.
Leaving Tibet with a mission from the “Masters of the Wisdom” to share the knowledge of the East with the societies of the West, she was nearly killed in an explosive shipwreck off the coast of Egypt. Of the 400 passengers on the S.S. Eumonia, she was one of only 16 survivors. As she was unable to swim, Blavatsky would later explain the mystery surrounding her improbable rescue by saying that she was pulled from the water by a strong, unknown individual who she never saw again.
After reaching New York City, Blavatsky connected with a reporter named Henry Steel Olcott who would join her as a lifelong companion. Together with Brother Charles Sotheran, and an Irish Occultist named William Quan Judge, they founded the Theosophical Society on November 17th, 1875, a name that was suggested by Brother Sotheran.
Initially, Blavatsky wanted to form the society as a ritualistic and occult center based on the ancient model of Freemasonry. She believed that the Craft was a survival of the Ancient Mystery Schools and that by fusing the Western Esoteric Tradition of Freemasonry with Eastern Mysticism, the true Universal Religion of the Atlanteans would emerge to guide the world to understanding and peace.
Henry Olcott wrote:
“On the 17th of April we began to talk with Sotheran, General T., and one or two other high Masons about constituting our Society into a Masonic body with a Ritual and Degrees; the idea being that it would form a natural complement to the higher degrees of the Craft, restoring to it the vital element of Oriental mysticism which it lacked or had lost. At the same time, such an arrangement would give strength and permanency to the Society, by allying it to the ancient Brotherhood whose lodges are established throughout the whole world. Now that I come to look back at it, we were in reality but planning to repeat the work of Cagliostro, whose Egyptian Lodge was in his days so powerful a center for the propagation of Eastern occult thought.”
But the Society had already attracted many members outside the circle of Freemasonry and the idea of a Co-Masonic Order based on the ideas of the Ancient Wisdom died. Nevertheless, the emerging Theosophical Society became the perfect vehicle for Blavatsky to disseminate the esoteric information she had gathered from both the East and West. For her and for all Theosophists there was no religion higher than the Truth. Although hampered by her decision not to found the Theosophical Society as a Freemasonic order, her and circle of disciples began to spread the Light of Theosophy.
An initiate and disciple of numerous occult practices and traditions, Blavatsky was also made a Brother of the Adoptive Rite of Freemasonry. In 1877, Sovereign Grand Master John Yarker, a prominent Freemason and Occultist of the time, conferred upon Blavatsky the degrees of the Ancient and Primitive Rite of Masonry.
Blavatsky’s Masonic Diploma, dated the 24th of November 1877, reads:
“We, the Thrice-Illustrious Sovereign Grand Master Generals… do declare and proclaim our illustrious and enlightened Brother, H. P. Blavatsky, to be an Apprentice, Companion, Perfect Mistress, Sublime Elect Scotch Lady, Grand Elect, Chevalière de Rose Croix, Adonaite Mistress, Perfect Venerable Mistress, and a crowned Princess of the Rite of Adoption.”
These degrees of the Rite of Adoption were created specifically for women to study and unveil the mysteries of Scottish Rite Freemasonry. Between her travels, her studies, access to her great-grandfather’s library, and her close friendships with many prominent Masons, Blavatsky probably knew more of the Craft even prior to receiving these degrees than most Masons of her day
As the years passed on and Blavatsky’s life was coming to an end, she focused her energy in the finalization of the The Secret Doctrine and the Voice of the Silence. In 1890, a year before her death, she met Annie Besant who had begun writing a literary review of The Secret Doctrine. This meeting formed the next link in the Theosophical chain as Besant would take over the leadership of the society soon after Blavatsky’s death, supervising a period of unprecedented expansion.
It would be Besant who would continue the work of Blavatsky creating a Freemasonry that joined the ideas of the West with those of the East. The new head of the Theosophical Society became not only a Freemason, but the Most Puissant Grand Commander of the British Federation of Le Droit Humain – the precursor of Universal Co-Masonry. She would spread Co-Masonry throughout the world, infusing spirituality and esotericism into this restoration of the true mysteries of Freemasonry. Perhaps she did this in hopes of fulfilling the dreams of Blavatsky and honoring the life and example of her mentor.
Blavatsky died in 1891 in Besant’s house in London but her immortal words remain with us to this day guiding us ever onward towards the Perfection of Humanity.
“There is a road, steep and thorny, beset with perils of every kind, but yet a road, and it leads to the very heart of the Universe: I can tell you how to find those who will show you the secret gateway that opens inward only, and closes fast behind the neophyte for evermore.”
” ※画像省略。着色は引用者
]
(「ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日」から6分後の呟き:
)
https://x.com/uxskf/status/1875595621580861743
”ワクワクさん
@uxskf
ここら辺の内容は前に紹介した気がする聖なるロシアの復興にも載ってたはずなのでとりあえず必読
そんなに直接メーソンやブラバッキー関連の内容は無かったと思うけど
数ページあったかな? 内容は重要だった
ロシアの歴史や思想にオカルト関係をサラッと知るという意味でも読むと良いよ
午前2:30 · 2025年1月5日
·
56
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”
https://x.com/uxskf/status/1875596138537218149
”出版社がヒカルランドって説明不要なとこなのは察して下さい
そもそもこの本くらいしかそんなの載ってるの日本じゃないからさ・・・
めっちゃ分厚いのと高額なので図書館かなぁ
午前2:32 · 2025年1月5日
·
25
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”
[
ロシア中心でオカルトの話をするならブラヴァツキーが一切出ないのはあまりないと思う。まだ読んでないけどね。
マニ教的な光の国の会社から出てるんだ(笑)
「いきなり冒頭シュタイナー話から始まる」らしいよ(笑)
ヒカルランド / 聖なるロシアの復興 東ローマ帝国からプーチンへ引き継がれる その理念・歴史・オカルト思想
https://www.hikaruland.co.jp/products/detail.php?product_id=4365
”著者:ラックマン
訳:堀江 広行
四六判ソフト
-2024年4月25日発売-
☆好評発売中☆
通常価格(税込):
6,600 円
ポイント: 132 Pt
販売価格(税込):
6,600 円
(
注:高価だね。まさか66を入れるためじゃないだろうな(笑)
中略
)
プーチンに影響を与えた哲学者たちの思想を追った本書を読めば、
なぜ今、ロシアとウクライナの間で戦争が起きているのかが分かる!
脈々と続いてきたロシア的理念の歴史をひもとく待望の書全訳!
ロシアは本当に「悪者」なのか?
ニュースで知るロシアのすがたは本当のものなのか?
ウクライナとの戦争で注目を浴びるロシアのその理念。
ロシアの隠された歴史とその思想を知れば、
なぜロシアが「国際秩序」と戦っているかがわかる!
ヨーロッパ・オカルト思想史研究者ラックマンがいどむロシア思想のすがた。
プーチンが信じる強固なアイデンティティーの淵源はここにあった!
ロシアの目指すものを知るための必読書!
ナロードニキとレーニンからグルジェフ、ラスプーチン、ドゥーギンまで
気鋭のオカルト思想史研究家ラックマンによる待望のロシア・オカルト思想史。
目次紹介
第1章 「ロシア的人間」─天使にして悪魔
第2章 母なる大地─桁外れな国
第3章 「美は世界を救う」─イコンの起源
第4章 失われた王国─キエフ陥落ののち
第5章 モンゴルからモスクワ国家へ─宗教的植民とロシアの建設者たち
第6章 雷帝とその苦渋の時代─黙示録的期待
第7章 西欧への窓─近代化への使命
第8章 美しき魂─「幼子のような無垢」への回帰
第9章 「新しい人々」─新しいリアリティーの創造
第10章 「銀の時代」─真理の探求者、哲人、聖人、そして罪人たち
第11章 聖なるロシアの終焉─人民を動かす力
第12章 ソヴィエトにおけるオカルト─精神と一般大衆
第13章 聖なるロシアの復興か─オカルト・リバイバル
エピローグ 第三の道か│もうひとつの知への道
謝辞
訳者跋文 「聖なるロシア」とその「知」について
訳者あとがき
原注
参考文献一覧
図版典拠一覧
”
聖なるロシアの復興―東ローマ帝国(ビザンチン)からプーチンへ引き継がれるその理念・歴史・オカルト思想
ラックマン【著】/堀江 広行【訳】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784867423639
”著者等紹介
ラックマン,ゲイリー[ラックマン,ゲイリー] [Lachman,Gary]
米国ニュージャージー州生まれ。作家。ヨーロッパオカルト思想史、60年代対抗文化史、変性意識などをテーマに多くの著作をもち、公演活動を行っている。その著書は多数の言語に翻訳されている
堀江広行[ホリエヒロユキ]
専門はロシア思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
”
]
ワクワクさん
@uxskf
ロシア関係は下斗米伸夫の第三のローマあたりを最低限読むべきで
ロシアのウクライナ侵攻をNATOへの拡大だとかアメリカ黒幕説で終わらせると微妙
そんな私はラックマンの聖なるロシアの復興をようやく読み始めたけどこれは非常に面白い
午後5:19 · 2024年11月24日
·
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まぁそれでも当然陰謀関係のネットワークやメーソンの話なんかは当然出てこないんだけどね
なぜロスチャイルド系のNYタイムズに暴露された組織と被るとこが親露なのかとか
なぜキリスト教右派と繋がっているのかとか
なぜロシアの工作員とQあたりが仲良しなのかとか
午後5:24 · 2024年11月24日
·
643
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[中略]
ロシア語ロシア文学研究 47
さくらのレンタルサーバ
2014/12/15(なのだが、PDFでは2015 年なので発表自体は2015年なのだろうな)
http://yaar.sakura.ne.jp/danet/robun/RLL_No47.pdf
”
ゲーリー・マーカー著(白倉克文訳)
『ロシア出版文化史:18 世紀の印刷業と知識人』
成文社,2014 年,400 頁
巽 由 樹 子
本書は,1985 年にアメリカ人研究者ゲーリー・マーカーによって著された,18
世紀ロシア出版史研究の邦訳である。著者の執筆の動機は,ロシアの出版史を社
会史,思想史と関係づけて,それが通史から孤立している研究状況を解決するこ
とだったという。18 世紀ロシアの書物の歴史を概観するそうした貴重な研究が,
今回,翻訳された意義はきわめて大きい。だがあらためて読み返すと,マーカー
が出版史と通史との接合に成功しているかはやや疑問も残る。以下,各章の内容
を紹介したうえで,その理由について考えたい。
まず序章では,18 世紀ロシア出版史を通史に結びつけるための方法が論じら
れる。著者は,セルゲイ・ルッポフをはじめとするロシアの書誌学者たちを歴史
意識が希薄だと批判し,西欧出版史の諸研究にヒントを求める。ただし,フラン
スのロベール・マンドルーやイギリスのロバート・アルティックが採用したよう
な,人々の関心が出版動向に影響を与えたとする「読者牽引型」の分析枠組み,
およびユルゲン・ハバーマスのように,ブルジョワジーが市民社会の政治的指導
階級としてメディアを支配した,と主張する「権力主導型」の分析枠組みには,
疑問符をつける。なぜなら著者は,著述によって世論にアピールしようとした知
識人たちこそ出版動向を決定する主役だったという,レヴィス・コウザーやヤ
ン・ワットらの主張に説得力を覚えるからである。ただしロバート・ダーントン
によれば,知識人はしばしば経済的に無力であり,印刷業者や書籍商の営利主義
的要求に従属を余儀なくされた。またエリザベス・アイゼンステインが論証した
ように,印刷術はルネサンス以来,知の体系を刷新した革命的な情報伝達技術で
もあった。それゆえ著者は,エリート知識人層と印刷業者に焦点をあて,その対
峙を軸に出版史をたどること,そして,そこからいかに 18 世紀ロシアの知的生
活が発展したかを示すことを本書の課題と定めた。
こうした前提のもと,本書前半の 4 章では,時系列に沿って 18 世紀ロシアで
の書物の普及が考察される。第 1 章はピョートル 1 世の西欧化改革が,印刷所の
設置,世俗活字の導入,新聞『報知(ヴェードモスチ)』の刊行など,出版分野
にも及んだことを紹介する。ただし著者は,ピョートル改革による世俗書普及の
衝撃は従来言われてきたほど大きくなかった,という見解を示す。なぜなら,修
道院印刷所やモスクワ印刷所による,17 世紀の伝統を受け継いだ宗教的印刷物が
依然として多かったため,また,ピョートルが読者層を想定せず,『報知』を最
大 4,000 部も刷ってしまうほど経営に無知,無関心だったことから,彼の印刷体
制が破綻へと向かったためである。
第 2 章では,ピョートル没後に再編された公的印刷体制が説明される。1720 年
代から 1750 年代半ばまで,出版は科学アカデミー印刷所と宗務院印刷所が担当
した。当初,科学アカデミーでは外国人研究者によるラテン語出版が行われてい
たが,ヴァシーリー・トレジャコフスキーらがロシア語協議会を結成して以降,
人文主義的書籍のロシア語訳を刊行するようになった。他方,宗務院印刷所は旧
来のスラヴ活字を世俗活字に切り替えて印刷物を刊行し,そうした西欧由来の近
代思想を内容とする書籍に対抗した。科学アカデミーが出版物の全国的伝達網を
欠いていたのに対して,教会は印刷物を用いて民衆に説教する場を持っており,
依然,影響力を保持したのだった。
しかし第 3 章がとりあげる 1750 年代半ばから 1770 年代には,人文主義的な世
俗的出版物が刊行規模を拡大した。これは,教育機関の再編と新設によって中高
等教育の修了者が増大し,知識人読者層が現れたためである。新しい学校は,印
刷機材を所有し,在校生・卒業生という人材が集ったことで,出版の拠点とも
なった。代表例がモスクワ大学印刷所である。ただし,その活動を担った知識人
エリートが立法委員会への勤務でペテルブルクに移ったため,モスクワの拠点化
は一時的なものに終わった。1770 年代以降,ペテルブルクの科学アカデミー印刷
所が再び出版活動の中心となり,エカテリーナ二世は両首都から合流した知識人
たちと諷刺雑誌を刊行したのである。
第 4 章は,民間人が政府からの特権なしに印刷機を所有,操業することを認め
た,1783 年の勅令の影響が論じられる。国家の財政事情を一因としたエカテリー
ナ二世のこの命令は,個人出版業者の登場を可能にした。こうした業者は,ドイ
ツ系の商人・職人からなる「実務家出版者集団」と,教養人からなる「知識人出版者集団」に分類できる。後者の中心的存在がニコライ・ノヴィコフであり,フリーメーソンの人脈を利用してモスクワ大学印刷所を賃借すると,優れた経営感覚と良書普及の使命感とを両立させ,1780 年代のロシア出版業において質量ともに大きな足跡を残した。
つづく後半の 4 章では,「両首都の出版」以外のトピックに目が向けられる。
第 5 章がとりあげるのは,地方における出版である。先述のエカテリーナ二世の
勅令が出されて以降,1774 年から 1801 年にかけて地方 23 県に 26 軒のロシア語印
刷所が現れた。主たる発注者が県庁や貴族団だったため,その刊行物は行政的な
性格が強かった。だが少数ながら,グレゴリー・ポチョムキンの移動印刷所や,
シベリアの突出した文化拠点トボリスクの印刷業,首都での勤務義務から解放さ
れた領主貴族たちの著作刊行,クリンツィ村の旧教徒による出版活動など,個人
出版の興味深い逸話も残されている。
本書がここまでとりあげてきた「出版」とは,印刷業のことを指した。第 6 章
はそこから漏れる,書籍商という存在に焦点をあてる。18 世紀の前半には宗務院
と科学アカデミーが書籍販売や外国語書籍の取扱をおこなったが,後半には首都
にドイツ出身商人やグラズノフ一族らによる個人経営の書店が現れた。だが,地
方書店はニジニ・ノヴゴロド,クルスク,オリョール,アルハンゲリスク,キエ
フにそれぞれ数軒あった程度で,書籍販売がビッグビジネスになっていた同時代
の西欧と比べると市場規模は相当小さかった。
第 7 章では,18 世紀ロシアの読書の目的が考察される。需要があったのは,祈
祷書,暦,読み書きの教本など,実用目的の出版物だった。ただし,フィロゾー
フたちの著作の翻訳,ヴォルテール,モリエール,スマローコフ,カラムジンら
の戯曲,そして雑誌など,余暇のための読み物も現れていた。しかし読者の具体
的な姿を知らせる史料はほとんどないため,実際に何が読まれたかは,書籍商の
カタログに見られる在庫数の増減といった数値から推測するしかないという。
最後に,第 8 章でとりあげられるのは検閲である。検閲はピョートル時代には
存在せず,その後は宗務院が担当したが非効率的だった。エカテリーナ二世は当
初寛容だったが,個人の印刷業を許可した 1783 年の勅令以降に厳格化し,フラ
ンス革命後の 1796 年,83 年勅令より前に許可を得ていた出版業者を除く,民間
人の印刷操業を禁止した。ソ連期の書誌学者たちはこれを抑圧的政策として批判
したが,著者は情報伝達を管理できないゆえに全面禁止せざるをえなかった,絶
対主義的政府の無策の現れと見做す。そして,アレクサンドル一世が 1801 年に
こうした規制を撤廃したことで,知識人と印刷業者はついに政治権力の外側に知
的活動の領域を確立した。著者は,やがて 19 世紀にはインテリゲンツィヤの活
動領域が社会から孤立することを展望し,本書の結語としている。
以上のように,本書は 18 世紀ロシア出版史の全体像を詳しく解説する。本書
からは近世ロシアで出版に関わった主体や刊行物のジャンル,数値データなど
を,時系列に沿って包括的に理解できるだろう。
だが一方で,最初に述べたように,本書が語る出版史は書物中心の歴史であ
り,社会史,思想史に接合されている印象はあまり受けない。その一因は,著者
が人物や書物をごく外形的に分析したことだと考えられる。上に見たように,本
書では知識人や印刷業者が類型化され,刊行物はジャンル名や数値から分析され
た。そのこと自体は決して不適切ではない。だが,これは著者が批判したロシア
書誌学の正統的な分析方法なのである。それゆえ本書は,ルッポフの 18 世紀ロ
シア出版史研究 1 と,分析方法,四半世紀ごとの時代区分,提示されるデータや
その解釈,結論において,それほど大きな差違がない 2。(英語の一巻本で読める
というアドバンテージはあるが。)つまり分析方法が書誌学の枠内にとどまった
ため,知識人に注目して出版史を思想史,社会史に接合しようとした著者の意図
は,必ずしも実現されなかったのではないだろうか。
ではマーカーの成果を摂取して,今,通史と結びついた 18 世紀ロシア出版史
を書くならば我々は何に留意すべきだろうか。評者が考えるのは次の三点であ
る。
第一に分析の射程を,ロシア語書籍の印刷から,読書行為や書物の流通,外国
語書籍の文化的影響にまで広げることである。というのは,著者が共感したアイ
ゼンステインの印刷革命論は,印刷という技術が人の行為,文化を決定するとい
う図式がやや単線的だと批判されて久しいからだ 3。もちろんロジェ・シャルチ
エのように読書行為を論じるには,18 世紀ロシアの史料は限られる。だがそれで
も,アレクサンドル・サマーリンの定期購読者研究はいくつかの新しいデータを
掘り起こしている 4。また,商人層の読書についての研究 5 やフランス語翻訳書
の研究 6 など,この 30 年のあいだに現れた他の成果も新しい知見を与えてくれる
だろう。
第二に,啓蒙主義研究の進展をふまえる必要がある。1993 年に書かれたウルリ
ヒ・イム・ホーフ『啓蒙のヨーロッパ』が,合理主義的な啓蒙運動とキリスト教
会との衝突に叙述の力点を置いたのに対して,2001 年に著されたロイ・ポーター
『啓蒙主義』はフィロゾーフが信仰心を保持し,時代にふさわしい宗教を創り出
そうとしたことを強調した 7。これは近年の啓蒙主義研究が,世俗化と宗教を対
立的に捉えるのではなく,その混交に関心を向けていることの反映である。この
ような研究動向をふまえるならば,18 世紀ロシアの書物を「世俗的」,「宗教的」
の二分法以外によって考察する可能性が生じるだろう。
第三に,国家が出版に果たした役割を考えることである。出版は,社会が国家
に対抗するためのツールとして捉えられることが多い。だが,本書も言及するマ
ルク・ラエフが示したように,18 世紀ロシアは自立した知識人となるはずの貴族
を勤務に組み込み,国家が社会を包摂する特異な体制をとった。それゆえロシア
では,西欧に類例を見ないほど国家が出版事業を先導したのであり,また,国家
と未分化の社会に対して検閲は不要だったのだ。18 世紀ロシア出版史の特質を明
らかにするには,国家の主導性を必ずしも抑圧としてではなく(あるいは皇帝の
個人的資質に帰するのでもなく),より積極的に評価することが必要だろう。
以上,様々な検討を加えたが,本書が今も研究上の重要性を失っていないこと
は言うまでもない。こうした著作が邦訳されたことは,日本の研究環境を大いに
豊かにする成果である。
原 題: Gary Marker, Publishing, Printing, and the Origins of the Intellectual Life in
Russia, 1700― 1800 (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1985).
(たつみ ゆきこ)
” ※着色は引用者
ニコライ・カラムジン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3
”ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジン(ロシア語: Никола́й Миха́йлович Карамзи́н、ラテン文字: Nikolay Mikhailovich Karamzin、1766年12月12日(旧暦:12月1日) - 1826年6月3日(旧暦:5月22日))は、ロシア帝国(現:ロシア)シンビルスク県出身の貴族、小説家、詩人、歴史家、評論家。文章語の改革に尽力した[1][2]。大著に1816年からカラムジンが亡くなるまで著された全12巻からなる『ロシア国家史』(ru:История государства российского)がある[2]。
(中略)
フリーメーソンであったロシアのジャーナリスト、作家のニコライ・ノヴィコフ(英語版)に影響され、ドイツの劇作家、思想家のゴットホルト・エフライム・レッシングやイギリスの劇作家、詩人のウィリアム・シェイクスピアの作品を翻訳する傍らに詩や小説を著した[3][4]。
1789年から1790年にかけて[5]西欧を旅行し、フランス革命を目の当たりにし、衝撃を受ける[3]。
(中略)
最終更新 2024年11月8日 (金) 23:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
「フリーメーソンであったロシアのジャーナリスト、作家のニコライ・ノヴィコフ(英語版)」から飛ぶと、
Nikolay Novikov - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolay_Novikov
(This page was last edited on 10 January 2025, at 21:43 (UTC). )
DeepL和訳より:
「ニコライ・イワーノヴィチ・ノヴィコフ(ロシア語: Никола́й Ива́нович Новико́в; 1744年5月8日(西暦1744年4月27日)、モスクワ総督府 - 1818年8月12日(西暦1818年7月31日)、モスクワ総督府)は、啓蒙主義を代表するロシアの作家、慈善家である。ロシア初のジャーナリストとも言われ、ロシア国民の文化的・教育的水準の向上を目指した。
ノヴィコフは、1755年のモスクワ大学創設の恩恵を受けたロシア人の第一世代に属する。彼は1767年の立法議会に積極的に参加し、新しい法典の制定を目指した。このような自由思想的な活動に触発された彼は、『モスクワ公報』の編集を引き継ぎ、『タトラー』や『スペクテイター』に倣った『ジヴォピセッツ』などの風刺雑誌を創刊した[1]。既存の社会風習に対する彼の攻撃は、エカテリーナ大帝の諧謔に満ちた反論を招き、エカテリーナ大帝はノヴィコフの記事にコメントするために『ヴシャカヤ・ヴシャチナ』という独自の雑誌を創刊したほどであった。
ノヴィコフは、ヨハン・ゲオルク・シュヴァルツ、イワン・ロプヒン、セミヨン・ガマレヤらとともに、ロシアにマルティニズムとバラ十字教をもたらした[2]。1780年代までに、ノヴィコフはロシア・フリーメーソン[1]の最高位に上り詰め、フリーメーソンは彼の野心的な書籍出版事業に潤沢な資金を提供した。ノヴィコフの出版社は、現代ロシアの書籍の3分の1を生産し、いくつかの新聞を発行した。ノヴィコフは、シェイクスピアをロシア国民に広める大規模なプロジェクトなど、さまざまな崇高な目的のために影響力を行使した。
フランス革命が始まると、カトリーヌはノヴィコフに対する態度を変えた。彼の印刷所は没収された。3年後、彼は正式な裁判を受けることなく、シュリセルブルク要塞に15年間投獄された。エドワード・ヤングの『最後の日』(1713年)1,000部をはじめ、彼の印刷物の多くはパルプ化された。皇帝パウロはノヴィコフを解放したが、ノヴィコフは恐怖と失意のあまり、ジャーナリストとしての活動を再開することはできなかった。」
※着色は引用者
”
※着色は引用者
「Her great-grandfather, Prince Pavel Vasilyievich Dolgorukov, was a major general during the reign of Catherine the Great. He was both a Mystic and a Freemason having been a member of the Rite of Strict Observance in Russia. 」。
Strict Observance。英語はカタカナからの予測だったが、合っていたようだ。
]
第8章 美しき魂─「幼子のような無垢」への回帰
p.328から
ロシアにおけるマルティニズム
またもうひとつの神秘的な教義が、エカテリーナの治世の最後の日々の頭痛の種となり、こちらは結果的に、王座のすぐ膝下にまで入り込むことができた。それがマルティニズムであった。
マルティニズムは一種の神秘的なフリーメーソンで、ロシアではいちじるしい影響力を振るった。マルティニズムは、厳密には、フリーメーソンの分派ではないものの、位階や儀式、入門儀礼の面でフリーメーソンと多く重なり、個人的な道徳と倫理的な完成を、オカルト的な秘密の洞察と統合する自己完成の理念を発達させた。それは、フリーメーソンと同じく「騎士たち」のエソテリックな結社であった。その影響力は、不穏な時代、すなわち十九世紀をつうじて、ロシアの中で感じられ、ボリシェヴィキの時代になるまで、ロシアの宮廷でなんらかの形で見え隠れし、おそらくその後も生き残った。
マルティニズムの発端は、フランスの碩学で、存命中にすでに「知られざる哲人」として知られたルイ・クロード・ド・サン=マルタン(1743~1803)に結びついている。サン=マルタンは、フランスのアンボワーズに生まれ、1767年に、ボルドーでドン・マルティネス・ド・パスカリ・ド・ラ・トゥール、別名マルティネズ・パスカルに出会ったことから、その神秘家としての道を歩み始めた。パスカリは、スウェーデンボリの信奉者で、ニコライ・ノヴィコフやその仲間がそうだったように、薔薇十字団の信徒であった。彼はまた「エリュ・コーエン」(選ばれたコーエンたち)と称される神秘主義的結社のリーダーでもあった(「コーエン」はヘブライ語で祭司を意味する)。
パスカリが、サン=マルタンに人生の目的を与えた。サン=マルタンは、パスカリが実践していた儀式と典礼魔術の研究に全身全霊で打ち込んだ。これら実践には、神聖な諸力を喚起するためのある種の魔術が含まれていた。
サン=マルタンは、啓蒙主義の哲学者たちの浅薄な合理主義にたいする哲学的、そして霊性的な反駁となる一連の著作を発表した。それは、ときにそう評されるようなたんなる「ヴォルテール批判」以上のものであった。実際のところ、サン=マルタンは、ローマ教皇批判の面では、ヴォルテールと意見をひとつにしていたほどだった。というわけで、二人の名前は、皮肉なことに、ともにヴァチカンの禁書目録に載っている。
(
啓蒙主義と神秘主義の対立。どの程度オカルトを認めるかどうかは当時から結社における問題だったんだろうな。
ヴォルテールもサン=マルタンもカトリックを批判する側
)
サン=マルタンは、その年下の同時代人で、詩人、かつ画家だったウィリアム・ブレイクと同じように、エカテリーナの宮廷にひどく浸透していたヴォルテール風の無神論と合理主義を嫌い、それを、ブレイクが「単眼的なヴィジョンとニュートンの眠り」と呼んだところのものの産物だと考えていた。ブレイクによれば、この「眠り」は、彼が「ウルロの国」と呼ぶ物質的な世界以外の世界にまったく気がつかない狭隘な意識を意味している。サン=マルタンは、人々がこういう状態に陥ったのは、私たちが神的なものと一体であった一種の原初的な「結合」の状態から、空間と時間の世界へ私たちが落下して、追放されることになった、なにかの原初的な宇宙的大災害のせいだと信じていた。サン=マルタンが信じるところでは、人間の課題は、世界を「修繕する」こと、すなわち私たちの堕ちた自己を「復興」し、それによって、やはり堕ちた宇宙を「復興」させることにあった―この主題は、世界を救う美の役割についての理念を思い起こさせる。
「復興」のメッセージは、革命を目前にした日々に、フランスの政治家たちの耳にも届いた。それは、フリーメーソン、スウェーデンボリの霊的教義、ドイツの科学者で治癒師だったフランツ・アントン・メスメルの動物磁気などの教えが、焦眉の社会変革をうったえる情熱的な政治的信条と入り混じって、めまいがするような発酵物を作り上げた時代であった。
サン=マルタンは、メスメルの考え方に啓発された「調和の会」という革命的グループのメンバーだった。これは「磁気的」なトランスの状態で「知られざる使者」と呼ぶ存在から彼らが受け取るメッセージを解読しようとするものであった―この「知られざる使者」という称号はフント男爵の「長上者」を思い起こさせる。だが、サン=マルタンは、革命の犠牲者でもあった。まもなく彼は、彼の推測によればメスメルの仮説から生まれた一種の「物質主義的」な魔術にたいする関心を失った。メスメルは、触ることはできないが宇宙にゆきわたり、自分がその制御の手立てを学んだと主張する生き生きとした一種の物質的「流体」について教えていた。サン=マルタンの真の関心は、もっと精神的なものであった。
サン=マルタンは、宇宙において人間が特別の使命と責任を帯びていると信じていた。
p.332から
サン=マルタンは、十六世紀のボヘミアの靴屋ヤーコブ・ベーメの著作を愛読していた。ベーメは、錫の皿に反射した陽光が呼び起こした「自然の署名」のヴィジョンを見て、リアリティーの真の本性について、一連の明瞭ではないにせよ瞠目にあたいする作品を著した。それは、パラケルススに強く影響を受けた複雑な錬金術的な言語によって語られたものであった。ベーメの難解な著作をつらぬくひとつのテーマとは、対立物のあいだの闘争 65 、すなわち存在の二つの極のあいだに保たれる創造的な緊張のヴィジョンであり、その一方は、聖なる光と愛、もう一方は暗黒と激情であり、人間の生は、あやしくその中間にゆらめくものであった。二つの極を超える、そのどちらでもないなにかを生み出すために結合する相争う対立物の力についての理念は、ロシア精神をして、まもなくロシアをとりこにする理想に向かって準備させた。
65 ベルジャーエフの著作はヤーコブ・ベーメの暗い形而上学から深く影響を受けている。
「プロシア狂」パーヴェル
エカテリーナ女帝が崩御すると、彼女のもっとも恐れた悪夢が現実となった。息子パーヴェルが即位したのである。エカテリーナは、息子の統治は卑劣な夫ピョートル三世の再来と変わらないと確信しており、どうひいき目に見ても、彼女は正しかった。エカテリーナは、これを阻止するためにできることはなんでもし、孫アレクサンドルを両親から取り上げた、しかるべき教育をほどこし、この孫に王座が譲られるべきだとはっきり宣言した書類を残しさえした。だが、彼女のいっさいの努力にもかかわらず、悲劇は起こった。アレクサンドルは、自分を統治者として定める書類の存在に気がついていたようだが、この文書を公にすることに、なんらかの理由で失敗した。そして、ツァーリになったパーヴェルが最初におこなったことは、この文書を手に入れて処分することだった。
パーヴェルは、プロシアと軍事趣味にとりつかれており、彼のそのこだわりようは、ボタンが正しく付けられていないと言ってある男をシベリア送りにしたほどであった。
だが、彼は母よりもフリーメーソンにたいして好意的で―ノヴィコフを釈放したのは彼である―また一度は、スコプツィ派の指導者コンドラチイ・セリヴァノフに接見した。
p.335から
孫の教師になってほしいというエカテリーナの要請を、百科全書学派のフランスの哲学者ドゥニ・ディドロがうやうやしくも辞退すると、彼女は、かわりにスイスの共和主義者のフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプからこの任務の遂行をとりつけた。アレクサンドルは機敏で開明的な精神の持ち主になり、二十四歳で即位したとき、多くの人々が彼の改革に期待した。
アレクサンドル一世がおこなった改革に向けたジェスチャーは、エカテリーナの試みの奇妙な蒸し返しであった。彼は、秘書官でフリーメーソンでもあるスペランスキー伯爵に憲法草案を作成するよう要請した。
p.340から
伝えられているところによれば、アレクサンドル一世は、ナポレオン戦争のあいだ、ヴァルヴァーラ・ユーリヤ・フォン・クリュデネル伯爵夫人に何度か接見した。彼女は一時期、アレクサンドルのほとんど絶対的な信頼を勝ちとり、アレクサンドルの助言者であり、ほとんど告解司祭役であった。彼女はバルト系ドイツ人の神秘家、かつ神学者で、彼女の思想は「モラヴィア兄弟団」に深い影響を受けており、彼女を「霊的冒険家」と呼ぶ人もいる。この団体は、1723年「からしの種粒」団という結社を設立したニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵の尽力によって生まれた。ロシアの外交官の妻であったこのクリュデネル夫人は、また心霊主義者でもあり、スウェーデンボリの信奉者でもあった 67 。
67 スウェーデンボリも一時期ロンドンのモラヴィア兄弟団に加わっていた。
p342から
アレクサンドル一世とその神秘主義的補佐官たち
ツァーリの保守的な宗務・文部大臣で長年の友人であったアレクサンドル・ゴリーツィンは、ロシアが、新しい普遍的なキリスト教会の誕生の場になるだろうと信じていた。これは、これまで見てきたように、ロシアの政治意識から今もって完全には消えていないアイディアである。ゴリーツィン―彼の孫のもうひとりのアレクサンドル・ゴリーツィンはブラヴァツキー夫人の神秘家としてのキャリアを助けることになる―には、ロシア人らしい予測不能なところがあった。若き日々を百科全書派の礼賛と放蕩に過ごしたあと、生まれて初めて新約聖書を読み。深い精神的、人格的な変容を経験した。この変容の結果のひとつは、1813年に彼が設立したロシア聖書協会であって、その使命は、農民たちのあいだにまん延する迷信と戦い、福音を広めることで、それはまた、教会がそのためにどうしたら良いのか手立てを見失っていた課題であった。もうひとつのこの彼の変容の結果は、ゴリーツィンの励ましにより、ツァーリが聖書を読んだことで―これも初めてだった―アレクサンドル一世は、ゴリーツィンがそうであったように、聖書に深く感動した。
p.344から
ゴリーツィンも、アレクサンドル一世の多くの者がそうだったように、フリーメーソンであった。また、ピョートル大帝の場合がそうであるように、アレクサンドル一世についても、彼がフリーメーソンの入門儀礼を受けていたかどうかについて多くの議論がある。だが、彼がフリーメーソンの理念に通じていなかったということはおよそ考えにくい。アレクサンドル一世は、ナポレオン戦争のとき、フランスのフリーメーソンと親しく交わるようにロシアの将校たちに奨励したのである。フリーメーソンの集まりで当時盛んに議論された理念のひとつは、新しい「普遍的なキリスト教会」についての思想であって、これは、すでに触れたように、ゴリーツィンが興味をもっていたテーマであった。
当時、ツァーリにたいして影響を与えたもうひとりの人物は、ゴリーツィンの友人で同僚であり、またフリーメーソンでもあったロジオン・コシェレフであった(一説によれば、ツァーリに入団の入門儀礼を授けたのは彼だった。むろんアレクサンドル一世が実際にフリーメーソンに入門していたとしての話である)。コシェレフは、駐デンマーク大使で、その欧州滞在のあいだにエッカルツハウゼン、サン=マルタン、そしてそのほかの神秘主義的啓明の哲学者たちと接触した。ツァーリがこの二人の著作を読むようになったのは、コシェレフを介してであった。
p.350から
いつもアレクサンドル一世の性質の一部だった矛盾的な言動が彼を支配し始めたのは、神聖同盟の熱気が冷めてしばらくのちのことだった。彼は退位の考えに取り憑かれ、スイスや修道院についての夢想―これは国全体が囚われていた二つの対極のシンボルでもある―が彼の心をさまよった。彼のパラノイアはいっそう激しくなり、古い友人たちも今や敵であるように見えた。そして、陰謀にたいする恐怖から、彼は1822年にフリーメーソンの非合法化に踏み切った。公式の記録によれば、彼は、遠方のアゾフ海の港町のタガンローグで1825年に四十七歳でマラリアに罹って亡くなった。
ヨーロッパの憲兵、ニコライ一世
アレクサンドル一世の弟であったニコライ一世は、典型的なロシアの大騒動を経て即位した。
p.355から
ロシア史に影響したドイツの哲学と言えば、まずはマルクスをあげることができるだろうし、わずかでも思想史の知識のある者ならば、マルクスがヘーゲルに深い影響を受けたことも知っている。マルクスは、ヘーゲルの思想を正すために、それを「逆立ちさせた」と宣言した。だが、ロシアの思想と生活に強いインパクトを与えたドイツの哲学者がシェリングだったということは、それほどには知られていない。シェリングの思想は、マルクスやヘーゲルの思想ほどにはよく知られていないが、公式の「科学的」姿勢と異なるリアリティーについての見解にたいし好意的な近年の「オルタナ」的なコミュニティーは、シェリングにたいしいっそうの関心を払っている。このような好意をロシア思想も共有している。
シェリングは、十八世紀末のテュービンゲン大学の輝かしい若き学生たちのグループに属した栄才のひとりであった。このグループにはヘーゲル、そして先に触れた詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが含まれている。シェリングは一種の神童であった。彼は当初いちじるしい影響力を振るったが、その後、彼の著作は。彼の友人でのちに哲学的な好敵手となった「世界史の哲学者」、ヘーゲルの人気の陰に隠れ、事実上忘れ去られた。
自然は、精神となにか「もちつもたれつ」と呼ぶことのできるような関係にあると論じた「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然であるにちがいない」とシェリングは論じた。こうして、シェリング思想における根源的な双極性の思想が打ち立てられる。これは、すでに私たちにおなじみのモチーフである。この対立物のあいだの「弁証法的」な緊張がシェリング思想の基本的なエンジンになり、それが、シェリングが哲学的なその擁護の一番手となったロマン主義の根本的テーマのひとつとなった。
ロマン主義は、啓蒙主義のますます強まる機械論的、還元主義的な傾向にたいする回答として成長した。またこの回答は、とくに、この啓蒙主義が知識の唯一の担い手としての理性と合理性の役割を一方的に強調することにたいして、そして、抽象的な普遍性のせいでユニークな個性の概念が失われることにたいしての反応であった。ロマン主義はそういう知識ではなくて、ひと目見ただけでいっさいを取り込み、その観照の対象に「参入する」ことのできる、なにか直観的で、包括的な知識が存在すると主張した。シェリングはこれを「絶対的知識」と呼んだ。
このタイプの知識がもつ問題、そして、それをなぜ合理主義的伝統が否定するのかという理由は、そういう知覚があきらかにする知識をこの知覚を体験していない誰かに伝えることが難しいということにある。この知識は、象徴やメタファーやイメージ、アナロジーによって、別の言い方をするのであれば、論理や演繹によってではなく、芸術やそのほかの創造的活動によってでしか伝えることができない。そして、シェリングの思想がもっともインパクトをもつのも、芸術や神話の世界においてである。こういうシェリングの「絶対的知識」の思想こそが、まさしく一団のロシア人たちがそれを介することで自分たちのアイデンティティーを見出そうと追い求めたその方法であった。
ロマン主義のひとつの産物は、民族主義(ナショナリズム)であった。この事実は、ロシアの天才たちや、ドヴォルザーク、グリーグ、シベリウス、そしてそのほかの十九世紀の作曲家たちの音楽が示しているとおりである。
p.359
「ロシアのファウスト」オドエフスキーとその愛智会
オドエフスキーは、英米圏の読者にはあまり知られていない。だが、彼はその著作がもっと注意を払われるべき注目すべきロシア・ルネッサンスの思想家である。
オドエフスキーは、想像力をかきたてるドイツ・ロマン主義の文学や哲学の理念を論じたり、その著作を読んだりするために集まる友人たちのグループを自分のまわりに集めた。しばしば話題にのぼったのは、シェリングだった。オドエフスキーは、この夜会で黒い服をまとい、ファウストと名乗った―これは『ロシアの夜』の中心的な登場人物の名前である。このグループは愛智者(リユボムードルイ)の会と呼ばれた。
p.363
オドエフスキーは「利益」―アイン・ランド 73 なら賛成するだろう個人的な損得という意味での「利益」―こそがすべての人の行動の根本動機であるという原理を受け入れた社会が「長続きしなかった」ようすを描いている。
73 訳注:アイン・ランド(1905~1982)は、米国で現在も強い影響力をもつロシア系米国人の作家、映画脚本家で思想家。個人主義と合理的利己主義にもとづく自由放任型の資本主義を徹底的に擁護し、過激な反共主義を唱導した。
(
へー、過激な反共主義なんだ。青組が喜ぶ思想だ
)
第9章 「新しい人々」─新しいリアリティーの創造
第10章 「銀の時代」─真理の探求者、哲人、聖人、そして罪人たち
p.434から
ソロヴィヨフは九歳のとき、聖なるソフィア、神の聖なる叡智の最初のヴィジョンを味わった。
ソロヴィヨフは聖なるソフィア―彼が信じるところではその女性はソフィアだった―にさらにすくなくとも二回出会うことになる。その第一の出会いは、1875年のロンドンの大英博物館読書室でのものだった。彼はそこで、グノーシス主義やインド哲学の研究に没頭していた。
このソフィアが、ソロヴィヨフの哲学の核にあり、また一連のエソテリックな伝統、すなわち「ソフィア学(ソフィオロジー)」(セルゲイ・ブルガーコフやパーヴェル・フロレンスキーのような銀の時代の思想家に結びつけられ、初期キリスト教のグノーシス主義者たちにもさかのぼる伝統)が「彼女」にささげられているという事実である。
p.437
訳注
101
ソロヴィヨフの著作『神人論講義』によれば、宇宙の進化は神が所有するソフィアと神自身の一連の対話的なドラマとして理解される。これによると、被造のソフィア的原理としての人類、あるいは宇宙が、神の意向に自由に賛成し、キリストを中心に戴くことによって、神との自発的で有機的な結合に入る。このようにして地上における原初的な全一的関係をより豊かに復興することがソロヴィヨフによっての神化であり、人類と宇宙は、このようにしてキリストを中心に戴く神人体となる。人間が神に似るようになるというニュアンスはすくないように見える。
102
正教神学において、「神が人になったように人が神になる」(神に似た者になる)とは、人間がキリストの「神人」としてのあり方を「真似る」ことを意味する。すなわち、子なる神は肉化において人間の本性を受け入れ、完全な神で完全な人間、つまり神の本性と人間の本性を兼ねもち、神の位格をもち続ける「神人」となり、贖いにより両性を不離不融に結合させることによって、神と人間の結合と人間救済の可能性を切り開いた。人間は教会に入り、みずからを謙らせ、このキリストを受け入れることで、人間の人格(位格)と本性を維持したまま、神の本性、あるいはその現れとしてのエネルゲイアにまみえ、それによって神に結合しうる。
(
人がゴッドになるのはいわゆる一神教[ゴッド教]では絶対に駄目だからな。似ることができるだけ
)
103
公式の正教会の見解では、ソフィア学(ソフィオロジー)は異端と考えられており、通常「ソフィアニズム」としてあつかわれていることを、私は指摘しておかなくてはならない。正教会の見地からすると、ソロヴィヨフのソフィアは、誤れる第四の女性的な位格、男性的だと考えられた神の三つの位格に追加された異端的な位格である。
(訳注は以上だ)
第11章 聖なるロシアの終焉─人民を動かす力
p.483
ウラジーミル・レーニンは、やはりナロードニキから多くを学んだと言える。彼は、権力を握って、それを維持するために必要なだけのことをする覚悟があり、そうすることを厭わない優秀な急進的な組織である「革命のエリート」の意義を信じていた。彼はそういう風にふるまうように人々に教え、彼らはそういうふうにふるまった。ドストエフスキーの『悪霊』のように「新しい人々」が町にやってきた。それは偉大な人民革命の始まりだったかもしれない。だが、それはたしかに「聖なるロシア」の終焉であった。
p.493から
ニコライ・フョードロフとその死者復活のプロジェクト
ニコライ・フョードロフは、ロシアの魂を形作っているいっさいの極端さを体現しているという点において、ロシアにしか出現しないような人物である。
その世界像は文句なしに全体主義的であった。彼は、ロシア思想における宇宙主義(コスミズム)派の大家として認められている。「宇宙主義」という用語は、彼の時代には用いられておらず、それが一般に使用されるようになったのは比較的最近である。だが「宇宙的」という言葉は、彼の思考をたしかにうまく表現している。
フョードロフは、巨大なスケールで、人類や惑星全体、あるいはそれをもこえる視点から考えた。彼は1960年代に「宇宙船地球号」という理念が人口に膾炙するずっと前にこの概念を考え出し、しかも、それをきわめて文字通りにイメージした。彼の信じたところによれば、人々はこの惑星を太陽から切り離し、この星を宇宙を旅するために使うことを学ばなくてはならない。彼にとっては死すら克服できないものではなかった。実際、この「死の克服」はフョードロフの「唯一の重大事」だったと言ってもよい。だが、ソロヴィヨフのような宗教思想家が「死者の復活」にかんするキリスト教的な理念をなによりも霊性的な変容の観点から見たのにたいし、フョードロフはそれをきわめて文字通りに受け止めた。彼が語るところによれば、全人類の使命―いわゆる彼の「共同事業」―とは、私たちの祖父たち、そしてまたそれ以前のいっさいの世代の人々をよみがえらせることにある。
フョードロフの祖父で、当時のフリーメーソンのリーダーのひとりであったイヴァン・アレクセイエヴィチ・ガガーリン公爵は、息子パーヴェルを結婚させることに決め、ニコライはその兄とともに母親から引き離されて、ある屋敷に引っ越しをさせられた。
p.501から
フョードロフの「唯一の重大事」は、見方しだいで、高貴で深遠な呼びかけであるようにも、また幼年時代の家族の喪失によって生まれた病的な固定観念のようにも見える。
彼(フョードロフ)にとって、それ(死)は、不可避ではなかった。もし人間の精神が本気で死との戦いを課題にして、全人類がその事業に参加するなら、死は征服しうるのであった。
ただ、具体的にどうやって征服するのかというと、フョードロフは答えることができなかった。
それぞれの人が「共同事業」のために努力することがすべての人にとって利益になるということを誰もが理解するようになれば、さまざまな強制的な手段、警察、そして階級の区別の必要はなくなる。それぞれの人が、死を征服する惑星レベルの事業における彼、あるいは彼女自身のふさわしい場所を見出すだろう。
この死の征服は全世界の資源が注ぎ込まれる目標になる。「共同事業」は、地球のさまざまな国民が団結するきっかけになる。
(
「共通の敵を作って団結」の手法だ。敵が死。
)
死が克服されれば、自己保存のための争奪戦は余計なものになる。そして、共通の目標をめざして、それぞれが互いに助け合うようになる。
(
死が克服されても争うと思うよ。
)
そういう世界は、能動的に復活させた最初の人間によって幕が切って落とされるとフョードロフは信じていた。この復活にまた次の者たちの復活が続く。そして先祖にたいする自分たちの責任の感覚につき動かされ、誰もが復活の必要性を受け入れるようになると、死者たちが生き返り、彼らの体が本来あるべき状態を取り戻す。このプロセスは、最終的に「抽出された先祖たちの死骸のわずかな痕跡からすべての人が再創造される」まで続く―これはクローン技術への驚くべき予見であるように見える。
共通の課題を果たすために必要な「先祖の遺骸」の再生は、共同の事業を必要とし、すべての人々がそれにたずさわる必要がある。ひとつにはそれは、宇宙を旅することを意味していた。こうしてフョードロフの思想はもうひとりのエキセントリックな見者(原文ママ)、その仲間のコスミストで、ロシア宇宙開発の父、コンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857~1935)にも影響をおよぼすことになる。フョードロフによれば、星々に塵となって散らばった私たちの先祖の遺骸の微粒子を集めて再生するため、そして、別の世界に入植して復活させた先祖たちに住む場所を与えるために、宇宙旅行が必要となる。だが、地上でもなすべきことはたくさんある。共同事業は、戦争のような無駄で破壊的な活動から人々のエネルギーを解放し、それをこのもっとも有意義な目標の達成に振り向ける。
フョードロフは、ロマン主義者たちのあいだで見られる自然への愛のようなものはまったくもっていなかった。
自然にたいする彼の姿勢はもっぱら実利的なものだった。
人間は自然を克服し、その敵対的な力を「人類の道具と器官」に変容させることができる。まずは、収穫を増大させ、飢餓を撲滅するために天候をコントロールしたり、そのほかの食糧増産の手段を発達させたりすることからそれを始めることができる。フョードロフは、再生可能なエネルギーへの私たちの関心を何十年も先取りして、石炭への人類の依存を軽減する手段として、太陽のエネルギーを使用するように呼びかけた。フョードロフはさらに先を行き、地球の地磁気をコントロールして、すでに触れたように、銀河系をめぐる航海に「宇宙船地球号」を出発させることができるだろうと主張した。最終目標は、理論と実践を統合して、一種の合理的な神的魔術(テウルギヤ)、すなわち「科学的魔術」と名づけうるようなものにし、人類が「宇宙の理性」になることであった。
(
フョードロフの思想がケツ社の計画書みたいだな。ケツ社員っぽい人だ。
ケツ社の計画の作成に関わっていたかもね
)
p512から
ベルジャーエフは、個人の「人格」の絶対的価値にたいする確信をキリスト教とカント主義と共有していた。だが、このことは彼を「個人主義者」にはしなかった。なぜなら、真の「人格主義(ペルソナリズム)」は、他者が存在するという基盤においてしか成立しないからであり、ベルジャーエフが、社会の基礎としてのソボールノスチの概念を強調したからである。このペルソナリズムは、彼ののちの自由の哲学の核となり、ついにはヤーコブ・ベーメの神秘的な深淵、すなわちウングルント(無底)の概念、あるいは神自身がそこから出現するという名状しがたい「非合理的な自由」の概念に到達した。
[
ソボールノスチ(集団性。全一性)って全体主義と相性が良すぎ。
ペテルブルグ印象記 第2回
2023年3月6日
https://magazine.boid-s.com/article/series/--id/25218
”ロシアのサンクト・ペテルブルグに留学中の映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」。今回はロシア正教の暦においてクリスマスにあたる1月7日に参加した晩祷、通っているシネクラブで観た作品やシネクラブ運営者との会話など、太陽がほとんど姿を見せない1月の空の下で綴られた日記です。
(略)
ロシアの公式的なクリスマスというのはロシア正教会が採用しているユリウス暦に基づいている。日本に暮らしているときにはまったく意識していなかった日付である。この日の直前、ロシア側からクリスマス時期は休戦しましょうという宣言が出されていた。こんな一方的な宣言を俟たずとも、プーチン政権とロシア正教会の癒着は清々しいほど明らかである。目抜きのネフスキー大通りをはじめ、11月末頃からずっと大規模なイルミネーションに装飾されてきらびやかに輝いていたペテルブルグの町にいて、この浮かれた光をどう受けとめればいいのか分からなかったが、にわかに宗教、というよりも聖なるものという文字が意識の内で明滅しはじめた。ナショナリズムと聖なるもの。ロシア思想には「Соборность(ソボールノスチ)」という、一般的に「全一性」と訳される言葉がある。「Собор(ソボール)」とは聖堂を指している。宗教哲学やユーラシア主義などにも流入する語で厳密な定義を拒むのだが、遠大な概念史を棚上げして短絡を恐れずまとめると、一堂に会して祈りを捧げるという行為と信仰心によって信徒たちは有機的に一体化する――神の身体である教会が一つに調和してあまねくすべてを包み込むがごとく、というわけである。わけであるなどと書いてみたがよく分かっていない。
(略)
小手川 将
主に映画を研究・制作。2022年に監督作品『籠城』が完成。大学院での専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。
” ※着色は引用者
東洋経済オンライン
@Toyokeizai
ロシア思想には「ソボールノスチ」という概念があります。集団性と訳されますが、全体の中で個人が自由な動きを徹底的に規制されることで、集団全体が大きな自由を得るのです。
↓【「集団性」というシステムをロシアは構築した】
toyokeizai.netから
午後7:02 · 2025年1月25日
·
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(全体主義すぎる)
]
自分の国に押し付けられた暴力的な平等主義にたいするベルジャーエフの抗議は、どこがまちがっているかを明言したひとつの著作に結実した。この著作『不平等の哲学』―ウラジーミル・プーチンの推薦書の一冊―は、革命の混沌と国内戦のさなかに書かれたが、その出版は1923年を待たねばならず、そのときベルジャーエフはもう祖国にはいなかった。
ベルジャーエフは、古代的なミクロコスモスの概念を復活させた。彼にとって、個人は宇宙の反映ではなく、宇宙を内に含む世界であった。
第12章 ソヴィエトにおけるオカルト─精神と一般大衆
p.548から
研究者のレナータ・フォン・メイデルは、革命の初期、多くのロシアの人智学徒が来たるべき新しい社会にシュタイナーの理念を適用できると信じていたと指摘している。
多くの者が、革命は、ロシアが新たな文化世紀の生まれる地であるというシュタイナーの予見を証明していると信じた。
1923年、人智学は、ほかのエソテリズムの教義がそうなったように、ソ連で非合法化された。それから十年を経たころには、多くの人智学徒がすでに国中のたくさんの矯正(原文ママ)収容所に向かう道をたどっていた。
151 訳注:歴史的にユーラシア主義は、(略)選集『東方への脱出。予感と終幕。ユーラシア主義者の主張』のソフィアでの1921年の刊行をもって始まったが、1930年代の半ばには、運動としては終息した。ユーラシア主義者たちは、革命後の亡命ロシア人社会で一般的だった帝政復古による旧秩序の回復を志向するのではなく、革命成立の合理性をある程度認め、すでに確立したソヴィエト体制を利用して、イデオクラシー(原文ママ)的な原理に基づく新国家を建設しようとした。そのためのイデオロギーとしてヨーロッパでもアジアでもない文明の単位としてのユーラシア文化とロシア正教をその基盤に置こうと考えた。
p.550から
ローゼンターリは「ボリシェヴィキは、政治的なプロパガンダにオカルト的な理念、象徴、技巧を応用した」と書いている。
そもそも根底(原文ママ)的な意味では、魔術と政治は共通の目的、すなわち、パワーを手に入れて、それを世界に変革を起こすために使うことを追及している。
象徴主義は、魂に分け入り、微妙で、しばしばサブリミナルな作用によって魂を変容させる象徴とシンボルの力にその基盤を置いている。
象徴主義のテクニックは、革命の初期に、観客の意識に正しいメッセージを植え込む手段として、扇動宣伝部(アギトプロプ)の舞台劇で用いられた。だがそのかたわら、象徴主義そのものは、このころにはすでにフランスのキュービズムとイタリアの未来派の美術が合同したものであってボリシェヴィキと手を握って台頭したクボ・フトリズムへと移行し始めていた。
(
着色は引用者。本書に赤文字の個所は無いので当然であるからいちいち書かないかも。
クボ・フトリズムって、久保って人が太りそうな名前だな
)
153 訳注:クボ・フトリズム(立体未来派)は1910年代前半にロシアに登場した芸術運動。
p556から
「苦い」を意味する「ゴーリキー」というペンネームを使うようになった。
ゴーリキーが革命思想に出会ったのはナロードニキをとおしてであった。のちにサンクト・ペテルブルクに暮らすようになってから、今度はマルクス主義に転向し、すぐにボリシェヴィキに加わった。
ゴーリキーは若いころからオカルト的な現象に興味をもっていた。彼は、ショーペンハウアー、そしてドイツのオカルチスト(原文ママ)のカール・デュ・プレルの著作を読んだことで、オカルト的な現象の存在を信じるようになった。
ゴーリキーは、のちには、神智学文献、さらにはスウェーデンボルグやルネッサンスの錬金術師パラケルススの著作を読んで、思考は外部世界の青白い反映―レーニンが唱えた考え―というよりも現実的な一種の「物」であって、力強いものだという信念をさらに固めた。思考はしかるべく集中され、方向付けられることによって、世界に現実的に作用できるというのであった。
ロシアでは、多くの研究者たちが超常的なサイ現象を現実として受け入れつつも、それをより自分たちに親しみ深い唯物論的な説明の枠に収めようとしたのである。サイ現象研究におけるこの唯物論的アプローチの初期の支持者のひとりが、モスクワの超心理学者ナウム・コーチクだった。コーチクは、サイ現象が物質的な基盤をもち、彼が「N線」と呼んだ一種の放射の一形態として理解できると確信していた。このN線が、1895年に発見され世界的に有名になっていたX線の概念にヒントを得たものであったことは容易に想像できる。
ベフチェレフは、コーチクの研究をさほど評価しておらず、サイ現象やそれにかかわるそのほかの現象をもっと心理学的なアプローチで解明しようとした。彼は集団ヒステリーの現象に魅了され、催眠の分野における草分け的な研究をおこなっていた。一時期、彼はフランスの碩学で催眠研究のパイオニア、ジャン・シャルコーの学生でもあった。
サイ的な意識状態は人から人になんらかの方法で伝わる。これはあきらかに思考転移に類似性をもつ現象である。どのようにしてそれが生じるのかはわからなかったが、ベフチェレフはこの現象は「N線」やそのほかの唯物論的な説明にはまったくかかわりがないと確信していた。
ゴーリキーはコーチクとベフチェレフの研究を知っていた。それは、彼が何年も魅了されていた考えを多くの点で立証するものだった。ある種のサイ・エネルギーが人から人へ送信されうるというアイディアは、彼のいくつかの小説に登場する。それがもっとも顕著に表現されている小説は『告白』(1916)である。この小説では、ある女性の身体麻痺が、群衆が生み出す集団的なサイ・エネルギーによって治る。人々の精神的なエネルギーをなんらかの方法で利用できるというこのアイディアは、神を「建造する」という彼の思想―建神主義―にもヒントを与えた。
(
今更だが、本書はダッシュは1つのみで、2連続で記さない
)
「建神主義」は、人間は抽象的な実在しないような神ではなくて、人間自身を崇拝するべきだというフォイエルバッハの理念から生まれたもので、十九世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントの「人類教」とも結びついている。コントはその『実証政治学体系』(1851)で、この人類教の儀式、祭礼、祝日、祈禱、聖人について詳しく語っている。コントは「新しい人々」を奮い立たせた「実証主義」の元祖だった。この実証主義は、霊性のニュアンスのあるものならなんだろうと斥けたレーニンの思想の核にとくに急進的で厳しい姿をまとって存在していた。これにたいして、建神主義は宗教から「悪いもの」はいっさい投げ捨てつつも、その「ポジティブ」なところはとっておこうと考える道であった。レーニンが宗教には良いところなどまったくないと信じていたことを考慮すれば、彼がこの思想を嫌ったことに驚かされる理由はない。神を建設することに反対したもうひとりの人物は、ベルジャーエフであり、彼は、建神主義に人間による人間自身の聖化のひとつの現れを見出した。それは、ベルジャーエフによれば、とどのつまりは全体主義と非人間的体制に向かう思想であった。
建神主義の中心的人物のひとりは、ルナチャルスキーであった。彼はひととき神智学を擁護し、1925年にレーリフに差し迫った逮捕をほのめかして警告したソヴィエトの教育人民委員であった。彼はシュタイナーも読んでいて、革命の宗教的側面に関心をもっていた。革命闘争の初期の時代、彼は、ボリシェヴィキの勝利までレーニンのライバルで科学者、哲学者、そして小説家でもあったアレクサンドル・ボグダーノフの陣営に与していた。ボグダーノフは未来の宗教として科学を信仰し、輸血による若返りという注目すべき研究をおこなった思想家だった。
ボグダーノフは、輸血によってどうやら生気をよみがえらせ、視力を向上させることにも成功したらしい―禿の進行が止まりさえした。その結果、ボグダーノフは、フョードロフの最大の敵、つまり、死にたいする勝利をつかんだのだと信じるにいたった。ボグダーノフは一般的には、コスミストに結びつけられている。だが、彼の奇蹟は悲惨な結末をむかえた。マラリアに感染した学生を自分の血液を交換したのである。学生は回復したが、ボグダーノフは亡くなった。
ルナチャルスキーは、宗教の社会的、そして心理的な側面を革命のために利用できると信じていた。人類は、儀式やシンボル、祈禱を必要としていて、マルクスが主張したように人々を黙らせておく麻薬としてそれらを投げ捨てるより、むしろ社会主義の大義にそれらを転用できる。この意味で、神が人間を創造するのでなく、むしろその反対である。つまり、人類は自己自身を創造する途上にあり、「神の建造」は、人類の内にある巨大な潜在的な可能性を理解するひとつの道である。ルナチャルスキーはこう信じた。
ゴーリキーも建神主義を奉じ、彼によれば、この「神の建造」に利用されるべき材料のひとつが、サイ現象の探求によって彼がその存在を受け入れるようになった精神エネルギーであった 159。
159 ゴーリキーの友人で初期のソ連への訪問者でもあったH・G・ウエルズは自著『神、見えない王』(1917)で建神主義に似た理念を表明している。社会主義者で科学的無神論者であったウエルズは、実際にはこの宇宙の誕生に責任を負っているような神がいないのだとしても、人類の集団的労働を介してひとつの神が誕生すると言えると考えるようになった。ウエルズは、コントと同じように「人間性」は個人を超越したより大いなる存在だとして、個人の不死を否定しながら、私たちの一人ひとりが、自分たちを引き継ぐ者たちをつうじて自分たちの死後も存在しつづけると信じた。建神主義者たちは同様の考えをもっていた。だが、ウエルズが「見えない王」にたいする儀礼をより私的な観点から眺めたのにたいし、建神主義者たちは自分たちの信仰のためにもっと詳細な儀礼を考案していた。
(
ウエルズやコントの勉強もできるのが本書だ。
建神主義者(ボゴストロイーチェリ):進歩する人類そのものを神として崇めようと考えた、ロシア思想の一派。
)
p.574から
宇宙主義者ツィオルコフスキーと「宇宙の意志」
新しい体制の中で比較的うまく持ちこたえたひとつの集団は、宇宙主義者(コスミスト)たちだった。もちろん、フョードロフはとうのむかしに亡くなっていた―彼の遺骸は今も彼の墓にあった復活の日を待っている。
160
すでに触れたように、フョードロフがルミャンツェフ図書館で「モスクワのソクラテス」として教えていたころ、十代の若者だったコンスタンチン・ツィオルコフスキーは何年かフョードロフに師事していた。だが、フョードロフの思想において、人類の過去の亡くなった先祖たちの粒子を回収するために宇宙へ向かうという計画こそが―新しくよみがえらせた者たちが暮らせるように諸惑星に植民する計画はいうまでもなく―もっとも重要な課題だったにもかかわらず、ツィオルコフスキーは、自分とフョードロフが宇宙旅行について論じたことは一度もなかったと言い張った。
ツィオルコフスキーは貪欲な読書家となり、ほかの人とよりも本と多くの時間を過ごした。
そしてジュール・ベルヌを愛読した―ベルヌの幻想的な冒険はつねに科学的な理屈にかなっているか、それともすくなくともそういう印象を与える。宇宙飛行についてのツィオルコフスキーの初期のファンタジーは、ベルヌに刺激を受けたもので、ツィオルコフスキーの説明によれば、自分の数学的な考察に形を与えて、自分を含め誰だろうと納得がいくようにしたものであった。
十六歳になると彼はモスクワに出て、三年のあいだフョードロフの指導を受けた。
彼(ツィオルコフスキー)はロシアで初めて風洞を建造し、さまざまな形状の表面がもつ空気抵抗の効果を研究した。空気力学における彼の研究とそのモデルは、のちの1957年にはソヴィエトの人工衛星のスプートニクを軌道に乗せる上での参考になり、さらには、ソヴィエトの宇宙ロケットが月に到達するうえで役立った。彼の論文「ジェット装置による世界空間の調査」は、1903年という早い時期に、今日のロケット科学が達成した多くのことを予見している。
(
第1回「風洞とは何か」
https://www.aero.jaxa.jp/spsite/wind-tunnel/001.html
”風洞とは、固定した模型の周りに空気を流し、大気中を飛んでいる状態を模擬し、その模型に働く力やその周りの風の流れを計測する試験設備です。風洞には100年以上の歴史があります。風洞試験をして、機体の形を決める。これは、人類初の有人動力飛行に成功したライト兄弟の時代から、繰り返し行われてきた方法です。そして現在では、航空機や宇宙機、ロケットなどの機体設計に限らず、自動車や鉄道、高層ビルや橋梁設計などの分野でも、風洞は幅広く使われています。
”
)
今日、ツィオルコフスキーはロシアの宇宙開発の父として認められており、彼はその死後、多くの栄誉を手にした。
1928年、ツィオルコフスキーは『宇宙の意志』と題した著書を出版し、その中で、現代の哲学者デイヴィッド・チャーマーズが主張しているように、宇宙のいっさいは、ある意味で意識だと論じた。これはいわゆる汎心論という立場である。このアイディアは、古代のヘルメス思想や新プラトン主義にさかのぼり、アンリ・ベルクソンのような近代の哲学者も支持していた考え方で、それ自体はとくに人を戸惑わせるものではない。だが、ツィオルコフスキーにあっては、それは、優生学的な「繁殖」の理念に刺激を受けた宇宙的植民の構想をともなっていた。
ツィオルコフスキーは、物質を統べる、いっさいの物質に浸透しているある種の宇宙的知性の存在を信じていた。だが、この知性は人間の意志決定には無関心で、人間は、自分の意志の自由についてなにを考えていようとも、この知性の手中であやつられる人形のようなものでしかないというのであった。
地球は三つの「圏域(スフェア)」からなりたっている―ウラジーミル・ヴェルナツキー
彼(ヴェルナツキー)は、ソヴィエト政権にうまく順応することができ、1943年には、スターリン賞を受賞すらしている。また原子爆弾開発計画におけるアドバイザーでもあり、原子力をエネルギー源として利用するように働きかけた。
第13章 聖なるロシアの復興か─オカルト・リバイバル
p.603から
エサレン研究所のソヴィエト・プロジェクト
1970年代と80年代をとおして、カリフォルニアのビッグサー海岸の有名なエサレン研究所の設立者のひとりマイケル・マーフィーは、CIAとKGB、そしてFBIをも巻き込むことになった米ソ間の交換プログラムに取り組んだ。エサレンは、1962年にマーフィーとリチャード・プライス(1985年死去)が「人間の可能性」を発見して応用するというオルダス・ハックスリ―の思想を現実に移したいと考えたことに、その端を発している。その努力の成果は、さまざまな「オルタナティブ」な哲学者や実践家たちが、東洋の宗教やヨーガ、代替治療、意識の変性状態、そしてシャーマニズム、幻覚剤の霊的側面にいたるまでのあらゆる事象、そしてそのほかの多岐にわたるテーマを精力的に探求する、美しい自然に囲まれた「隠れ家」としてのエサレン研究所となって実った。
p628から
イヴァン・イリーンとその「聖なるロシア」
プーチンの新ロシアで新しい読者を見出したもうひとりの銀の時代の哲人について私はまだ記していない。ベルジャーエフ等を追放した「哲学の汽船」の乗客のひとりに、政治哲学者のイヴァン・イリーンがいた。ベルジャーエフやソロヴィヨフとならび、イリーンは、プーチンが2014年の統一ロシア党の年次集会でその著作を紐解くように、各地の指導者たちに迫った哲学者のひとりである。そして、イリーンはこの三人のうちもっとも政治的な思想家である。ロシアについて、そして世界においてロシアが占める位置についてのイリーンの見解は、プーチンにもっとも強力な影響力を振るうことになった。
彼は「ロシアの愛国者」から「ロシアのキリスト教的ファシスト」まで、あらゆる形容辞(原文ママ)を引き寄せる「もっとも矛盾したロシアの忘れられた哲学者」と呼ばれている。
イリーンこそが、プーチン自身を含む多くの人々にとって、まさしく「プーチンの哲学者」だとされているということは、その思想が私たちの参照にあたいすることをものがたっている。
1901年から1906年まで―イリーンは、カントを信奉し、このケーニヒスベルクの哲人とともに、その道徳的な「定言的命令」を啓明(原文ママ)する理性の力を信頼していた。これは、彼が「法意識」と呼ぶ生涯のテーマへと彼をみちびくことになった。これは。基本的には「法の支配」の必要性と、その正当性について個人がもつ自覚である。一度こういう啓蒙が達成されれば、人々はおのれを統制することができるようになり、強制の必要はなくなる。
だが、イリーンは、まもなくこのような性善説的な「たわ言」から「解放」され、傷ついたロマン主義者にいつも起こるように、まったく別の方向へ転回した。
イリーンは、人間の現実が手に負えないものだと悟ると―1905年革命は彼にとってその裏づけであった―ヘーゲルの精読、フロイトのもとでの分析の体験、そして実存主義を生んだ現象学の創始者であるフッサールのもとでの研究を経て、しだいにまったく異なった見解を受け入れるようになった。「法意識」は、たしかに自己のコントロールをもたらすかもしれないし、一部の個人にあっては、それが達成される。だが、人類の大半はそのような能力を欠いている。だから、彼ら自身の利益のために、より高位に立つ人間が彼らを正道にみちびかなくてはならない。こういう特別な指導的な個人は。真理に身をささげる者で、彼らこそが規範を示すことができる。彼らに牧される大衆の方は。この規範に一致することこそけっしてないかもしれないが、それでもこの規範は、彼らの努力を呼び起こすであろう。
レーニンも民衆をその解放にみちびくための「革命的エリート」の必要性を肯定しており、二人とも政治行動のために暴力を用いることの正当性を、それぞれ違ったやり方で発見していた。イリーンは、悪に抗うために暴力を用いる必要性について本を書き、トルストイの無抵抗主義を糾弾した。この非難をイリーンはソロヴィヨフとも共有していて、ソロヴィヨフは、自分のその見解を『戦争、進歩、世界史の終末についての三つの対話』で表明していた。イリーンも、レーニンも、社会の瓦解が不可避的にもたらした混沌の中で民衆をみちびくための一時的な独裁、あるいは強力な「手」の必要性を肯定していた―もっとも、ウスペンスキーは「プロレタリアート独裁」がすみやかに「犯罪分子」による独裁になったことに気がついていた。そしてまた、イリーンであれレーニンであれ、個人の選択、あるいは決定の余地をほとんど個人に与えない、社会の上から下まで浸透するような政府が必要だと感じていた。唯一の違いは、レーニンにとっては、革命と来たるべき無階級社会―すぐにそれは来るはずだった―こそが、そういう理念なしではアナーキーに陥る民衆をひとつにまとめる理想だったことにある。イリーンによれば、それは正しくなかった。
イリーンは正教に心酔していて、そこにはスラブ派的な傾倒以上のものがあった。彼がロシアを「有機体」とみなし、西欧における民族国家(ネーション)のようなものではない「歴史の外」に立つような一種の神秘的な一体性と見ていたことには、どこかシェリング風のものがあり、それぞれの文明がもつという「生物学的」性格にまつわるシュペングラーの思想も彷彿とさせる。そして、今日のネオ・ユーラシア主義者たちも、このアイディアを採り入れている。
一体性は、イリーンの政治的、そして社会的な見解の根底にある概念であった。多くのロシア思想家にとってそうだったように、イリーンにとって、個人はそれ自体としては無にひとしい。個人は、共同体の抱擁の中にあってこそ「解放」される。共同体の中でこそ、人々は自分たちの仲間の中にあって、自分の本当の場所を見つけ、自分を見出すことができる。ニコライ二世にたいして批判的だったにもかかわらず、イリーンは、君主主義者で、人々の「父なるツァーリ」である皇帝の父権的な役割を信じていた。彼は、フョードロフのような人物や「スラブの土着信仰」の「父」たちとともに、ロシア哲学の「家父長主義」的な系譜に連なっている。
彼の理解しにくいその理想が、法の支配を自発的に人々が自覚するという「法意識」だったにもかかわらず、イリーンは、スラブ派のように、独裁制とその権力の独断的な行使の必要性を受け入れ、この二つのものを和解させるために、それらをヘーゲル的な弁証法の階梯に組み込んだ。
イリーンは、最初はムッソリーニ、それからヒトラーの政治的躍進にイデオロギー的、そして歴史的な拠り所を見出した。この彼の選択は、彼の同世代人であるユリウス・エヴォラが選んだ道に重なるもので、ファシズムとナチズムの霊性的、政治的な「同伴者」が選んだ運命である。この二人のどちらにとっても、ファシズムとナチズムは英雄的な行為であった。それは、伝統的な価値観を守る霊性的な抵抗運動であり「西欧民主主義の腐敗」と無神論的共産主義の勃興に抗うものであった。
イリーンがムッソリーニを評価したところは、ムッソリーニにおける「偉大な男」の理想、すなわち凡庸さを超越し、おのれの意志と決心を世界と文化に刻みつける英雄の概念であった。
イリーンは、ファシズムのもつコーポラティズム的な性格を肯定し、社会で果たす役割に応じて、すべての者に「場所」―ひとつの有機体の中の細胞のように―が与えられるというコーポラティズムの理想を高く評価していた。だが、エヴォラもそう考えたように、最終的にはイリーンも、ムッソリーニのファシズムが徹底的でないと考えた。ナチスはもっと良い賭けであるように、イリーンには思えた。この点でも彼はエヴォラに重なる。
(
全体主義:個人の利益よりも全体の利益を優先させる思想。全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという思想。個よりも、全体(国家、民族、階級など)が優位に立つ思想。
世界史の窓 ファシズム
https://www.y-history.net/appendix/wh1502-119_1.html
”イタリアなど帝国主義の後進地域に生まれた全体主義国家。ドイツのナチス、日本の軍国主義なども該当する。1930年代に侵略行為を展開し、第二次世界大戦の要因をつくった。1945年、敗戦とともに主要なファシズム国家は消滅した。
ファシズムとは、20世紀前半の帝国主義時代に現れた国家体制の一類型で、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制を言う。全体主義ともいわれるが、第一次世界大戦後に生まれたイタリア=ファシズムに見られる特徴は、反ブルジョワ、反資本主義を掲げた革新性を装うこと、議会政治での政党間の争いを克服すると称して、カリスマ的な指導者が大衆宣伝を行って選挙という民主主義を装うこと、などである。
ファシズムは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、ワシントン体制という国際社会の矛盾を突く形で生まれ、世界恐慌という資本主義の矛盾という中で育った。イタリアで、ムッソリーニが結成したファシスト党が1922年に権力をにぎったのを最初として、他に典型例としてはドイツのヒトラーのナチ党=国家(国民)社会主義労働者党によるナチス=ドイツがある。また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置き、天皇信仰をテコに国民を動員した1930~40年代前半の日本型ファシズム(天皇制)国家もある。
ファシズムを狭い意味でイタリアのファシスト党の独裁政権に限定した場合は、ドイツのナチズム、日本の軍国主義との違いが論じられるが、世界史の大きな理解ではドイツ、日本もファシズム国家と規定した方が良いと思われる。
ファシズムの語源
ムッソリーニの創設したファシスト党に始まるが、その言葉は古代ローマのファッショに由来する。ファッショは古代ローマの執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたもの。権力の象徴とされ、人民を「束ねる」意味があるところから、全体主義を意味する言葉として蘇った。そこから、ファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生した。ムッソリーニはいたるところで古代ローマを賞賛し、学校ではローマの歴史を重視し、ローマ建国の日とされる4月21日は祭日となり、盛んにラテン語を引用した。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.319->
ファシズム台頭の背景
第一次世界大戦後もさらに激しくなった列強の帝国主義の利害対立の中で、1929年に世界恐慌が起きると、ドイツやイタリア、日本のような後発的ないわゆる「持たざる国」は、イギリス・フランス・アメリカという「持てる国」を主体としたヴェルサイユ体制・ワシントン体制を打破し、世界再分割を要求するようになり、軍事力による生存圏の拡張を図ろうとする風潮が生まれた。そのファシズム指導者を国内的に支持したのは、特に世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派であった。
ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の社会革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優越を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、特にユダヤ人を排除した。各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用しようという姿勢を変え、容認し、提携するようになった。それがファシズムが権力を握った理由である。それがもっとも顕著に表れたのが、ドイツのヒトラーの主張であり、それを実現したのが、ナチス=ドイツであった。
(略)
ファシズム国家の諸相
ファシズム国家のもとではナショナリズムが強調され、国家元首への敬礼や国旗・国歌への拝礼が強要され、国家利益が優先されて国民の人権や自由は奪われる。政治においては議会や政党は否定されるか、あっても一党独裁のもとで形骸化して民主主義は行われなくなる。また、学校教育や情報宣伝でも愛国心や家族愛が強調され、そこから異質なものは排除されていく。民族同一性に価値観が偏重し、少数民族や周辺の民族を排撃あるいは蔑視するようになる。
なお、注意しなければいけないのはファシズムはドイツ、イタリア、日本の三国に特有の現象ではない、ということである。いわゆる先進的とされるイギリスやフランスにもファシズム運動は出現している。アメリカにも極端な愛国主義(ショーヴィニズム)や白人優越主義を唱える団体も存在した。これらはいずれも大衆的な広がりにはならず、国家権力を奪うほどにはならなかったが、大衆の支持がファシズムに傾く危険性はどの国にもあったと言える。
” ※着色は引用者
イリーンにとって、個人はそれ自体としては無にひとしい。つまり全体主義的な思想だ。
ファシズムとナチズムは英雄的な行為であった。そりゃそうだよ。全体主義的な思想だもんな。成程、イリーン思想はナチっぽいな。ファシズムとの相性が良いだろうな。
あ、イリーンは、ファシズムのもつコーポラティズム的な性格を肯定しているからそりゃそうだよ。
コーポラティズム:独占的代表権を与えられた利益団体(企業など)が、公共政策の形成や施行過程に協調的に参画する利益代表システム。特に、頂上団体と政府の結び付きが強い場合を指す。
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新たな利益代表システムの可能性 -国家コーポラティズムを ...
Institute of Developing Economies
https://www.ide.go.jp › Reports › pdf › C15_ch3
PDF
コーポラティズムとは、独占的代表権を与えられた利益団体が、公共政策の形成・. 施行過程に協調的に参画する利益代表システムを指す(中野[2007: 31])。ただし、ここ. で ...
11 ページ
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コーポラティズムとは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%93%E3%83%BC%E3%81%BD%E3%82%89%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%80-3189975
”
コーポラティズム
corporatism
協調主義。多元主義あるいは二元主義 (デュアリズム) に対抗する概念。特にヨーロッパの政治に見られる現象で,特に頂上団体と政府の結び付きが強いケースを指す。 P.シュミッターによれば,コーポラティズムの特徴は,(1) 数の限定,(2) (分野内の) 単一性,(3) (加入) 義務性,(4) 非競争性,(5) 階等的秩序,(6) 職能的分化,(7) 国家による承認,(8) 独占的代表,(9) 指導者の選択や利益表明に関する統制,などである。多元主義が,「対立・競争」などに注目してきたのに対して,コーポラティズムでは「協調」に注目した。 G.レームブルッフにおいては政策形成の一つの型と考え,「巨大な利益組織の表出 (もしくは媒体) のみならず,価値の権威的配分と,そのような政策の執行においても,相互にかつ公的権威と協力する」と定義している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
” ※着色は引用者
プーチンというかロシアの中核思想の1つはイリーン思想なのだろうな。
「ロシアは成功版ナチになろうとしているのではないか?」と今まで思ってきたが、正確にはイリーン的思想(ナチっぽさがある)国家になろうとしているのだろうな。
よって、ネオナチなど、ナチ属性の人や集団とつながるのはおかしくない。
ナチ思想そのものではなくイリーン思想[つまり似て非なるもの]なので、一時的にネオナチなどと協力することはあっても、目的を達すれば使い捨てにするのだろうな。
そもそもナチス・ドイツは正教を重視していないからな。
イリーン思想を知らないとロシア[の内、特にプーチンとその背後の集団]の動きは理解できないな。
)
p636から
1933年、ヒトラーが首相になると、イリーンはこの新政権を歓迎した。「汚れた30年代」に多くの人々がそうだったように、イリーンは、ナチスの国家社会主義を共産主義の拡散を止めることのできるヨーロッパ唯一の勢力であるととらえていた。1934年、彼は、ヒトラーだけが世界をボリシェヴィキから救済することができるという確信を表明した手紙をヒトラーに書き送った。イリーンが返信をもらったかどうかわからない。
だが、第三帝国の黎明の日々にナチスが世の中になにか良いものをもたらすと信じ込んだ多くの者は結局はそうなったように、イリーンもまもなく失意を味わうことになった。
今日、彼(イリーン)は、ロシアのアイデンティティー探求において、矛盾した人物であるにせよ、中心的な人物のひとりである。その評価は、ヒトラーを賞賛したが「全体主義体制にたいする不屈の敵」であるというものから「二十世紀における旧約の預言者」―ソルジェニーツィンと重なる人物評価である―というものまで多岐にわたっている。
(
本書に書いているイリーン思想を読むに、全体主義にたいする不屈の敵とは思えないんだけど……
)
近年、プーチンが地方リーダーたちが読むべき読書リストに追加したのはこの著作(『われわれの課題』と題したエッセイ集)である。
イリーンはユーラシア主義を「容共的」として嫌悪したばかりでなく、ベルジャーエフやブルガーコフを始めほとんどの在外のロシア思想家たちを罵って批判し、亡命界の「最右翼」にあった。
イリーンは、この解体の跡地になにが起こるかについての見解の面でも正しかった。そこには混沌があった。ロシアは、秩序と統一を回復するために―もちろん「法の秩序」が確立されるまでの一時的なことであるが―なにを必要とするのか。それは、ひとりの英雄、強い人、歴史の外に立ちつつも事態に介入して、権力の手綱を握り、一時的な「国家独裁」によってこの大地にたいするコントロールを取り戻すことのできる人物にほかならなかった。
誰かのことを思い起こさないだろうか。
思想家としてのプーチン
元KGB の職員でロシア大統領となったウラジーミル・プーチンは、2005年、イリーンの遺骸をスイスから運ばせて、モスクワのドンスコイ修道院に改葬した。同じ年、人々はイリーン名前とその理念が、連邦議会にたいするプーチンの演説やマスコミとの彼のインタビューに登場することに気がついた。
イリーンブームはさらに続いた。2015年には、プーチン大統領の在任期間の成果に関する二時間半のドキュメンタリー番組がその六分間をイリーンとその思想にささげた。
(
イリーン重視すぎる
)
クレムリンのすぐ傍にプーチンが設置したキエフのウラジーミル大公の像は、プーチンがイリーンのようにウクライナをロシアの正真正銘の一部分だと見ていることをものがたっている。
イリーンは「高貴な嘘」の概念、あるいはもっと一般的に言うなら、人々をひとつにして偉大なものに向かわせるために必要な神話の概念を信じていた。
イリーンにとってそうだったように、宗教はプーチンにとっても重要である。2016年、彼は、聖山アトスに巡礼し、その模様は、億万長者の正教国粋主義者コンスタンチン・マロフェイエフが経営するツァリグラード・チャンネルで放映された。このチャンネルは、俗悪さにおいてやや負けるロシア版のFOXニュース(米国の共和党寄りのテレビ局で民主党への批判的姿勢で知られる)といったところの放送局で、宗教にひとつの焦点を絞っている。
クリミア併合を肯定したプーチンの演説から読み取ることのできる、薄くベールをかけられた「第三のローマ」論への暗示も、この彼の信仰家としての側面を表すものであるように見える。
すくなくともプーチンの展望によれば、「聖なるロシア」は復興を遂げつつある。
エピローグ 第三の道か│もうひとつの知への道
p.653
181 私がロシア文学と思想を知っているのは翻訳をとおしてにすぎないことを、断っておくべきだろう。私はロシア語を読んだり話したりしない。それができるこの本の読者は、多分このことに気づいていると思う。
ロンドン、2019年2月
謝辞
訳者跋文 「聖なるロシア」とその「知」について
p665から
「聖なるロシア」、すなわちキリスト教の歴史観に基づき、自分の国を歴史的に一定の役割を果たす聖なる国とみなすロシアの理念の起源について、ロシア史の大家、中村喜和は、この概念が、キエフ・ルーシの時代にすでにその兆しが見出されるとしつつも、具体的になったのは、やはりモスクワがビザンチン帝国の崩壊を目にしたモスクワ公国の時代であるとしている。
訳者あとがき
p677から
本書はThe Return of the Holly Russia 2020の訳である。ラックマンは、意識の変性状態、西欧のエソテリズムの伝統などを専門にした文筆家だが、80年代初頭に一世を風靡したロック・グループの『ブロンディ』の設立メンバーのひとりでもあるという異色の経歴をもった人物である。1968年に設立された東西の精神性の研究のための研究所であるカリフォルニア綜合研究学院の准教授でもあるようである。
シュタイナーやウスペンスキー、ブラヴァツキー夫人などにかんする単著も著している。
ただ、ラックマン自身が認めているように、ロシア語を知っているわけではなく、本書のテーマは、ロシア、かつオカルト、あるいは神秘主義ということで、二重にも三重にも誤解が多い領域である。歴史的な年号や人名などのあきらかな誤りが見られた場合、気がついた範囲で修正をほどこしてある。また、そのほかにも、あきらかな誤解と思われる場合には多少の微修正をほどこし、あるいは訳注にその旨をやんわりと記した。
著者の独自判断と思われるところは、もちろん、多くの違和感がある場合でもそのままにしてある。
本書から引用を行う場合には、十分に注意されたい。もっとも歴史書にかんしてはこのような注意は一般に必要なものかもしれない。
(
今のところはブラヴァツキー夫人の曽祖父の情報は合っていると判断している。
ワクワクさんが紹介してくれた英語記事にも書いているので。
なので冒頭にも引用を載せた。
)
ロシア思想家の引用文などは、英文ではなく可能な限り原文にあたることで正確な記述をこころがけた。
2023年9月
(メモは以上だ。
ロシアのメーソンって本当に重要だな。様々な思想が紹介されていて、しかも知らない思想ばかりで面白かった。
『ブロックチェーンと法』(赤組の本。仮想通貨は通貨発行権側にとって敵)
Posted on 2025.04.04 Fri 00:58:34
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-593.html
”オンラインプラットフォームがブロックチェーン技術を用いるようになるにつれて、これらのプロトコルが個人に対して――あるいは、より広く社会に対して――行使する権力が消えてなくなる、ということはない。むしろ権力は、これらのシステムを支えるコードやプログラマに移行するのである。
インターネットの出現以前、階層的で官僚主義的なモデルに基づく政府や公的制度がルールを押しつけていた。政府当局は、コントロールの中心を担う上級の公務員の名で活動するエージェントや組織、個人に権力を委譲してきた。これらの官僚組織は――マックス・ウェーバーが述べたように――政府や行政の裁量権を限定する、明文の法や規制に基づく特別のルールに従って活動する*71。
ミシェル・フーコーは、人々を取り巻く制度――学校や大学、工場、病院、保養所、刑務所を含む制度――を規制することによって、人々の振る舞いをコントロールし、形作る社会を「規律社会」と名づけた。これらの「規律制度」は、大規模な政府の監督や監視を必要とする精密な抑制均衡システムを用いて*73、既存のルールや法をすべての者が尊重することを保証する。しかし、制度が人々の振る舞いをコントロールする能力は当時、官僚主義的なルールが支配する公的空間と、政府の制度によるコントロールから大きく逃れた私的空間との明確な境界があったという点で、限定されていた。
*71 マックス・ウェーバーは、選挙された政治家と組織化された利害の介入から離れて任務を遂行する公務員は法と憲法秩序の担い手であると述べる。ウェーバーによれば、官僚組織内部で機能的に分化した権力機構は。ある行政機構が他の行政機構の協力なしにその権限の範囲を超えて行動することのないようにする可能性をよりよく保証しうる。
*73 ジェレミー・ベンサムの「パノプティコン」――誰からも見られずに、ありとあらゆる人や物を監視できる中央集権的な統制点をもつ監視構造――は、この権力構造をとてもよく描いている。
[
パノプティコンとフーコーに言及したってことは、赤組が〈暗号の法〉による支配について考えたのが本書ってことなんだろうな。
ワクワクさん
@uxskf
https://lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/3/yoshimura.pdf
田園都市ってそもそもフランス大東社製だしハワード=神智学みたいな
グラントリアンと神智学のハイブリッド監獄都市なんだよ
ハワードの初期タイトルのマスターキーってのがそもそもブラバッキーのヴェールを脱いだイシスのサブタイトル
午後3:08 · 2024年8月3日
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監獄の誕生でフーコーも書いてるようだが
田園都市の源流のルドゥーの製塩工場
この中心部の監視塔 ここ実はルドゥーの時からメーソンのプロビデンスの目を意識されて設計されている
実際にこの管理と支配を司る中央部分にはメーソンの目玉やらが認められるのは割と建築界だと有名なネタ
午後3:13 · 2024年8月3日
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ま、田園都市=中央のメーソンの目玉による管理と支配の都市形態
だからスマートシティだかデジタル田園都市だかは堂々とメーソンの目玉よる監獄都市を目指してますって宣言すれば良いと思うよ
源流からメーソンなのに無視するのはおかしいだろ?
そもそもこれ田園都市についてなら常識の話だし
午後3:16 · 2024年8月3日
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ーーー
ワクワクさん
@uxskf
http://jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2011/10/murakami.html
ここには無いけどベンサムのパノプティコンなんかもそうだね
円形のメーソンシンボリズム監視塔を中心とする最大多数の最大幸福実現のための監獄都市
午後3:42 · 2024年8月3日·711 件の表示
この教授の
都市の未来は『ユートピア』ではなく、『ディストピア』に他ならない
で草
あ、ブレードランナーも当然メーソン製ですよ 新百科全書運動の賜物のSFの流れ
どこもかしこもメーソンやがな
午後3:44 · 2024年8月3日
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(リンク先は
解体/ 集合住宅モダニズム
第3回
理想都市とは?
http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2011/10/murakami.html
”1.ショーの理想都市 クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas Ledoux)
1804年の"L'architecture considérée sous le rapport de l'art, des moeurs et de la législation" で、かつて設計した製塩工場を中心にした理想都市像を描いた。製塩工場は半円形をしており、円弧の頂点に門、中心に所長の館を置き、その両腕に工場の建物、そして円弧状に労働者の宿舎が配置されている。計画では、全体として円形をなし、後ろの半円にも同様の建物が建ち、さらに外周にも規則的な配置を守りながら建物が並ぶように構想されていた。そして、この円形をした全体のなかで,所長を頂点とした共同生活が営まれることになっていた。これらの構想は、ルソーやフリーメーソンの社会思想を実際の都市計画に反映させた試みと言われる。
[略]
2.ユートピア トマス・モア(Thomas More)
ユートピアという国は、回りは暗礁に囲まれた、500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。ユートピアでの生活は集団生活で、ラッパの合図で一斉に食堂で食事をする。その後、音楽や訓話を聞いたりして、6時間程度の労働がある。労働は主として農作業で、自給自足の生活であり、全ての住民は労働に従事しなければならない。私有財産は禁止され、貨幣もないため、必要なものがある時は共同の貯蔵庫のものを使う。労働に従事しない日は、芸術や科学、音楽などを研究する。住民は質素、快適、安穏な生活を営んでいる。しかし、実際には着る衣装や食事、就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守るため相互に監視し合い、社会になじめない者は奴隷とされる。トマス・モアは、この社会は理想的であるため住民は何の苦悩も持っていないとしているが、非人間的な管理社会の色彩が強い。
[略]
3.明日の田園都市 エベネーザー・ハワード(Ebenezer Howard)
ハワードの主張は、「人々を都市に牽引するなんらかの力に対して政策はうち勝つことができないので、人を都市に引きつけるモノ以上の力を持って都市集中を阻止しなければならない」というもので、彼はそれを磁石を使って表現した。それが三つの磁石である。ハワードは現況をふまえ、都市を否定するのではなく、都市と農村の「結婚」をすべきだとした。ハワードは都市と農村の融合した都市のダイアグラムを提示した。彼の構想によると、都市の大きさは小都市の場合、約2,400ha、中央部の400haは居住地、商業地、工業地を配置し、周囲の2,000haは農業地として開発し、中央部に人口最高30,000人、農業地の人口2,000人と想定し、人口5.3万人の母都市を中心に適当な距離(30 ~50km)を置き、鉄道でその間を結ぶ。田園都市は農村に囲まれ食料を供給し、農村に都市の利便性を提供し、さらには都市の発展を抑制する。中心部に公共施設を配備し、中央公園がそれを覆う。中心から放射状に伸びる並木道路と環状道路に囲まれて、5,000人ずつの居住地が6つに分断されている。まちを二分するのが幅130mの大街路(グランドアベニュー)であり、その中に学校、教会などのコミュニティ施設が設けられている。まち全体を取り囲む環状鉄道に面して、工業用地や市民農園が確保され、その外側の農村地域へと続いている。
[略]
4.人口300万人の理想都市 ル・コルビジュエ(Le Corbusier)
ル・コルビジェの理想とした大都市は、ニューヨーク・マハッタンの高層建築群のもつ長所と短所、つまり機能的で効率的ではあるが反面において空間が少ないところをヒントに発想したもので、大都市に機能的な面と開放的な空間を積極的に取り入れたものとなっている。都心部は24棟の60階の高層建築で構成されており、この地区は3,000人/haの高密度をもつが建ぺい率はわずか5%である。都心部の中央には地下鉄道・近郊鉄道・遠距離鉄道の各駅、地上2階には都市高速道路、ビルの屋上にはヘリポートを立体的にまとめた交通センターが設置されている。この地区の外周は板状の8階建マンション(人口密度300人/ha、建ぺい率15%)の地区で、さらにその外周の郊外部は独立住居地区にしている。公園と都心部の間には公共施設群が配置されており、工業地域や飛行場は市街地と緑地で明確に隔てられている。
[略]
5.輝く都市 ル・コルビジュエ
ル・コルビュジエは,1931年の第3回CI AMで「輝く都市」を発表した。「これまでの研究の論理的帰結」であり「人間性の問いとなった」と述べられ、「輝く都市」は都市計画の研究の成果として普遍的な都市モデルへと昇華したものであるといえる。そして、1935年に出版された『輝く都市』にて結実した。この著作のなかで、太陽、緑、空間の「自然の条件」、住居、仕事、心身の鍛錬、交通の「4つの機能」などのアテネ憲章で提唱された近代の都市計画の「基本原理」が述べられている。高層ビルを建設して空地(オープンスペース)を確保し、街路を整備して自動車道と歩道を分離し(歩車分離)。それに基づき都市問題の解決を図ろうと提唱している。
[略]
ディストピアの可能性
一方で、「都市の未来は『ユートピア』ではなく、『ディストピア』に他ならない」という提示も多く見られる。例えば、映画「ブレードランナー」で描かれた未来都市像(図5-1、5-2ハ参照)は有名である。論理的な理想都市像を提示してきた混沌としたアジア都市を示したことは興味深い事実である。前稿のワングサマジュ団地の再生行為に関して、ルールや規制に縛られるだけではない空間づくりのプロセスの可能性が意識されている。
村上研究室が行った「高蔵寺ニュータウンの空地・空家調査」では、マスハウジング期に計画されたベッドタウン型理想都市での衰退期への前兆である空地・空家が確認された。空地が増えることは「悪」であると決めつけがちであるが、自然へ還すことも含めた環境的活用再生行為の可能性は、未来にとって「良い」ことであるとも言えよう。
” ※着色は引用者
)
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ワクワクさん
@uxskf
功利主義のベンサムのパノプティコンがそもそもそれより10年前のルドゥーによるメーソン監獄からのものだろうからね
円の中心部分の監督官の部屋がモデル
ルドゥーがメーソン建築家なのは有名な話だし
フランス留学してた三宅理一なんかも本にまとめてた
午後9:05 · 2024年8月3日·527 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
wikiの
pan-は「すべてを」(all)、-opticonは「みる」(observe) の意で、全展望監視システムなどとも訳される。
ってルドゥーからにしろプロビデンスの目のことだろw 全てを見通す目
重要なのは中心部の監視塔
フリメの目からは全てを見通せるってこと
午後9:10 · 2024年8月3日
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犯罪者を恒常的な監視下に置く
少ない運営者でもって多数の収容者を監督
社会に不幸をもたらす犯罪者を自力で更生させるための教育
ってことだが真ん中をメーソンの目玉にしたら面白い
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午後9:11 · 2024年8月3日
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まぁそのまんまフリーメイソンの監獄都市なんだけどね
こわい
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午後9:12 · 2024年8月3日
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しずのパパ
@ShihTzu_papa
あれ
つい先月網走監獄でそんな構造を見たような
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引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月3日
返信先: @uxskfさん
犯罪者を恒常的な監視下に置く
少ない運営者でもって多数の収容者を監督
社会に不幸をもたらす犯罪者を自力で更生させるための教育
ってことだが真ん中をメーソンの目玉にしたら面白い
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午後9:33 · 2024年8月3日
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ワクワクさん
@uxskf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
日本での監獄・刑務所のシステムは、明治時代にフランスを手本として構築されたため、旧金沢監獄(現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移築)や、旧網走監獄の「五翼放射状平屋舎房」に、パノプティコンの思想をみることができる。
らしいよん
ja.wikipedia.org
パノプティコン - Wikipedia
午後9:57 · 2024年8月3日
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当然フリーメイソンの思想を基盤とした監視システムだろうね
私も見に行きたいなぁ 今後のスマートシティとかデジタル田園都市とかの予習に(恐怖)
午後9:58 · 2024年8月3日
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しずのパパ
@ShihTzu_papa
あっやっぱり…
なるほど国民全員囚人みたいな扱いになるようなもんですな
午後10:23 · 2024年8月3日
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ワクワクさん
@uxskf
説明不要の陰謀アニメのPSYCHO-PASS
ガリバー以外も1984とか出てくるが
ベンサムのパノプティコンも当然入ってきてたんだよね
フーコーとかの監獄の話もあるけど
ま、ルドゥーのメーソンによる監獄建築みたいなとこは当然話さないけどね
午後9:45 · 2024年8月3日
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ーーーーー
https://x.com/uxskf/status/1840024739051655328
”
”
簡単な話 ベンサムは元々ロシアのフリーメイソン の繋がりが強い
まぁ正確にはパノプティコンも弟の発案で確定でメーソンのサミュエルからなんだけどね
つまり最初からメーソンありき
午後10:53 · 2024年9月28日·465 件の表示
あのカリオストロが大暴れしていたミタウにベンサム弟が入れ違いで登場
カリオストロの後ろ盾でもあったメーデム伯爵のとこにベンサム弟も歓迎され
そのままメーデムによってフリーメーソンに入会してる
カリオストロ→ベンサム(弟)というめちゃくちゃ面白い繋がりがここにある
午後10:57 · 2024年9月28日·399 件の表示
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ワクワクさん
@uxskf
まぁメイソンの話もカリオストロの後にやってきたベンサムの話も一切スルーした上で有名になってるのがフーコーの寸止めの監獄の誕生なんだけどね
それから百科全書派のタイムマシン属性持った衛宮切嗣がトロッコ問題みたいな事やってたら聖杯に精神ボコボコにされるどっかの0があったりする
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午後11:00 · 2024年9月28日
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ワクワクさん
@uxskf
ミルのフリメ要素満載のフランス留学の大きな助力をしてたのもサミュエルベンサムだね
パノプティコンもそうだしその後の動きもフリメから有名な方のベンサムになんらかの指示してるのも
ロシアのメーソンだろうね
だからフリメのマークの監視装置のアイデアを首相に手紙でお送りしたりしてる
午後11:10 · 2024年9月28日
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ワクワクさん
@uxskf
ルパン三世カリオストロの城の続編
ルパン三世ベンサムのパノプティコン
通貨発行権の次は何をやろうかなぁ
カントもカントでメーソン界のアイドルだぜ!
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午後11:12 · 2024年9月28日
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ワクワクさん
@uxskf
アルケスナン王立製塩所をフリーメイソンの目線で見たり現地調査する人は極めて珍しい
中央からの監視 すなわち"目"
というのはパノプティコンを想起させるが
午後7:22 · 2025年2月21日
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ワクワクさん
@uxskf
功利主義やらベンサムやらパノプティコンの話をするときにフリーメイソンの話をしない奴は寸止め
パノプティコンの中心部分にプロビデンスの目があった事
設計者がフリーメイソンである事を言わなくてはダメ
ルドゥーも同じ 共通してるのはフリーメイソンの思想って事
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午後7:24 · 2025年2月21日
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ワクワクさん
@uxskf
田園都市って何?って聞かれたら
仏フリーメイソン影響下のルドゥーのメーソン建築を源流として
神智学のハワードが提唱したメーソンの管理と支配に適した都市形態
って答えたら100点💮
午後3:30 · 2024年8月3日
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トリトリ。
@ToriTori_atom
田園都市 wikiを読んで、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%9C%92%E9%83%BD%E5%B8%82
多摩ニュータウンを思い出した自分は、影響受けまくっていたのを実感しました。
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午後5:09 · 2024年8月3日
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アル=ケ=スナンの王立製塩所
ページ内の画像を組み合わせてみました。
監視塔と監獄都市のイメージ
なんとなく伝わるかしら?
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引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月3日
http://architecturalwatercolors.blogspot.com/2012/03/ledoux-all-seeing-eye.html
中央の円形=プロビデンスの目だし監視塔自体がピラミッドに目玉なんだよね
星の巡りまで計算して設計したりメーソンの通過儀礼、儀式とかもてんこ盛りなんだけどとりあえずメーソンによる監獄都市形態って覚えとけば良い
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午後3:18 · 2024年8月4日
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ワクワクさん
@uxskf
いいね笑 この中央もメーソンの目玉にしてあげて笑
これ監視者の目からは全てを見通せるけど囚人には監視者が見えないと言うのがミソ
とにかく管理しやすいかたちなんだね
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午後3:23 · 2024年8月4日
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https://x.com/travelers1006/status/1892879192670310556
”
”
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ワクワクさんさんがリポスト
青龍
@Agito_Ryuki
いよいよ以って利用出来ると自民"ですら"思ってるのでだからこそのあからさまな工作の繰り返しですし。
裏の構造を知るきっかけがそもそもないのがダメ過ぎますね。というかイコロジー分析を学ばせないようにしてるというのはマジでデカい。メイソン云々以前の問題ですは
午後7:18 · 2025年3月28日
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ワクワクさん
@uxskf
イコノロジー=メーソンによる研究みたいなもの 超重要
アビ・ヴァールブルクはFRB設立にも関わったロスチャイルドと並ぶようなユダヤ銀行家の人間です
そこから大英博物館を挟む感じでフリーメイソンホールがある象徴的な場所にウォーバーグ研究所がある
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午後8:24 · 2025年3月28日·165 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
パノフスキーというのもこのユダヤ金融一族ウォーバーグやフリーメイソンの話を一切無視した『啓蒙主義の哲学』でお馴染みのカッシーラーなどの流れの人です
実際にこのイコノロジーや古代秘教関係は基本的にAPSやらCNRSやらに握られています
午後8:27 · 2025年3月28日
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ワクワクさん
@uxskf
象徴図像学や芸術理論は基本的にフリーメイスンリーが発展させてきたものなので現代においても彼らの理念や思想の理解が必須である
例えばメーソンが崇拝するアルベルティの本はウォーバーグ研究所、APSの人間が白水社(フランス)から出していたりする
午後8:31 · 2025年3月28日
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フラクタル
@sjmwuj
ベンサムのミイラがあるUCLのページにパノプティコンの説明あるけどなかなか良いと思う
英語版のWikipediaにはパノプティコンの本来の意図、パノプティコンとルドゥの製塩場の関係やその後のパノプティコンに当たるもの(監視カメラやSNS)などあって読むのもいいかと思う
午後8:18 · 2025年3月28日
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サンクトペテルブルクに現存はしないがパノプティコンを美術展示に使われているおり、はたまたベンサムの弟の作品として有名
ベンサムの弟が兄に相談されてパノプティコン作ったと言ってもいいだろうに
午後8:18 · 2025年3月28日
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ベンサムの弟はロシアのポチョムキンの下で仕事していた訳だけど、ポチョムキンの非公式な嫁は女王でその女王は啓蒙主義かぶれてたりなんとも面白い
午後8:38 · 2025年3月28日
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[
Panopticon - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Panopticon
]
ワクワクさん
@uxskf
本格的な美術に関する話は密教的な側面があるからね
そこに取り入ったり取り入ろうとして学ぶという所が大きい
ベンサムやパノプティコンの話なら本来は根底がフリーメイソンの哲学なのにそれを無視したフーコーの監獄の誕生などが人気というね
あんなの読んだとこでほとんど意味ないよ
午後9:42 · 2025年3月28日
·
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結局の所(パノプティコンだけに)中心の部分を隠した状態
監獄の誕生はあの本そのものが中心部の見えざる支配者 フリーメイソンの目玉を隠すために機能している
午後9:45 · 2025年3月28日
·
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ーーーーー
苦行むり
@exa_desty
ブロックチェーン上でRWA=現実資産のマンションや自動車等の分割資産化で所有権の取引状態、誰が今持ってるかとか全部見れるけどそれだと安全とは言えないよね。それを隠せる技術があるけどまぁ社会的に潰されたって事だな。常に銀行口座やいつ資金移動したとか他者に見られる仕組みって嬉しいか?
午後1:05 · 2025年3月29日
·
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]
” ※強調は引用元と同じ。
ゆる哲学ラジオ
@yuru_philosophy
パノプティコン、ベンサムの弟がロシア海軍の労働者管理装置として概念化したのを、兄が牢獄とか学校とかに使えるね!って著作で紹介したんですよね。で、近代以降の権力を研究したフーコーが「規律権力」のモデルとして挙げるに至った…という流れだったと記憶しています。
午後3:38 · 2024年12月24日
·
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https://x.com/uxskf/status/1840027149786333359
”ワクワクさん
@uxskf
簡単な話 ベンサムは元々ロシアのフリーメイソン の繋がりが強い
まぁ正確にはパノプティコンも弟の発案で確定でメーソンのサミュエルからなんだけどね
つまり最初からメーソンありき
午後10:53 · 2024年9月28日
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https://x.com/uxskf/status/1840031281557692901
”ワクワクさん
@uxskf
ミルのフリメ要素満載のフランス留学の大きな助力をしてたのもサミュエルベンサムだね
パノプティコンもそうだしその後の動きもフリメから有名な方のベンサムになんらかの指示してるのも
ロシアのメーソンだろうね
だからフリメのマークの監視装置のアイデアを首相に手紙でお送りしたりしてる
午後11:10 · 2024年9月28日
·
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”
技術革新と不平等の1000年史 著)ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソンーPower and Progressー
INDY
2025年1月28日 13:32
https://note.com/indy2024/n/na34d34fd7997
”昨年(2024年)のノーベル経済学賞の受賞者「ダロン・アセモグル」の本ということで、興味を持って読んでみた。
(1)新たな技術や機械は、空から自然に降ってくる贈り物ではない。こうした技術や機械は、オートメーション化や監視に焦点を当て、人件費を削減することもできる。あるいは、新たな仕事を生み出し、労働者に力を与えることもできる。より大局的に見れば、新しい技術や機械がどう使われるか、新たな革新的努力がどこに向けられるかによって、繁栄の共有が実現することもあれば、容赦ない不平等が生み出されることもある。
原則として、これらの決定は社会が共同して行うべきものである。ところが実際には、起業家、経営者、先見者、そして時には政治的リーダーによって決定がなされ、テクノロジーの進歩によって誰が勝ち、誰が負けるかを大きく左右するのだ。
(2)現代社会では説得する力がものを言う。大統領であれ、将軍であれ、族長であれ、兵士に戦いを強制できるほどの力のある者は多くない。法律の改正をただ命じられる政治指導者もほとんどいない。これらのリーダーに人々が従うのは、制度、規範、信念によって高い地位と威信が与えられているからだし、人々が彼らについていくのは、ついていくよう説得されているからなのだ。
という内容が、印象的だった。
(略)
プロローグー進歩とは何か
毎日のように、経営者、ジャーナリスト、政治家、さらにはマサチューセッツ工科大学(MIT)の同僚からさえ、こんな声が聞こえてくる。前例のないテクノロジーの発達のおかげで、我々はより良い世界へ向かって絶え間なく前進しているのだ、と。ほら、新しい携帯電話だ。最新の電気自動車もある。次世代のソーシャルメディアへようこそ。近い将来、科学の発達によって、がん、地球温暖化、貧困すら解決できるかもしれない。
もちろん、世界中に蔓延る不平等、公害、過激主義といった問題は依然として残っている。だが、こうした問題はより良い世界へ至るための産みの苦しみだ。いずれにせよ、テクノロジーの力は止めようがないと言われている。止めたくても止められないし、そんな試みは到底勧められない。それよりも、たとえば将来有望なスキルに投資するなどして、自分自身を変える方が得策だ。問題が継続するようなら、才能あふれる起業家や科学者が、より高性能なロボット、人間並の人工知能、必要とあらばその他いかなるブレイクスルーであれ、解決策を生み出してくれるだろう。
ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、あるいはスティーブ・ジョブズの約束であっても、全てが実現するわけではないことは誰もが知っている。だが、一つの世界として、われわれはテクノ楽観主義を吹き込まれてきた。あらゆる場所のあらゆる人が、できる限り多くのイノベーションを起こし、何が有効かを見極め、その後、荒削りな部分を取り除くべきなのだ。
われわれは、こうした状況を何度も経験してきた。ある生々しい事例が始まったのは1791年のことだった。この年、ジェレミー・ベンサムがパノプティコンという監獄を設計した。ベンサムによれは、円形の建物に適切な照明を配置することによって、中央に陣取る看守は、相手から見られることなく、あらゆる囚人を絶えず監視しているという印象を生み出すことができる、つまり、囚人に行儀よく振る舞わせるための実に効率的(で低コスト)な方法だというわけだ。
このアイデアは当初、イギリス政府から支持されたものの、十分は資金を得られなかつたため、設計通りの監獄が建設されることはなかった。それでも、パノプティコンは現代人の想像力を掻き立てた。フランスの哲学者ミシェル・フーコーにとって、それは産業社会の核となる抑圧的な監視のシンボルだった。ジョージ・オーウェルの『1984年』の作中では、社会統制の手段として至る所に存在している。マーベルの映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では、その設計に欠陥があり、監獄からの脱走を促すことになる。
監獄として提案される前、パノプティコンは工場だった。そのアイディアを出したのは、ジェレミーの弟にして熟練の造船技師であり、当時はロシアのグリゴリー・ポチョムキン皇太子のもとで働いていたサミュエル・ベンサムだった。サミュエルのアイデアは、少数の監督者によってできるだけ多くの労働者を監視できるようにするためのものだった。ジェレミーの貢献は、その原理を多様な組織に拡大したところにある。彼はある友人にこう説明している。「この単純で一見わかりやすい仕組みが、学校、工場、監獄、さらには病院の業務を間違いなく効率化することを知れば、君は驚くはずだ…」
パノプティコンの魅力は、管理者の立場にあればすぐ分かるし、当時の人々がそれを見損なうこともなかった。より良い監視がより従順な行動を導き、より広範な利益を社会におたらすことは容易に想像できた。ジェレミー・ベンサムは博愛主義者であり、社会の効率を改善し、誰もがいっそう幸福になれるスキームに突き動かされていたー少なくとも本人の見解によれば。こんにち、ベンサムは功利主義哲学の創始者として知られている。功利主義とは、社会に含まれるあらゆる人々の幸福の総計を最大化しようという考え方だ。ある人々を少しばかり搾取する代わりに、少数の人々が多大な利益を手に入れられるとすれば、それは考慮に値する改善だとされていた。
とはいえ、パノプティコンは効率性や公益だけを目的としていたわけではない。工場における監視が意図していたのは、労働者に最も熱心に働くよう促すことであり、賃金を上げずにやる気を引き出すことだった。
19世紀のイギリスにおいて、選挙競争、労働組合の台頭、労働者の権利を守る立法などを通じて、生産の組織化と賃金設定の方法が変わった。アメリカ合衆国からイノベーションの新たな波が到来したことも重なり、テクノロジーの新しい方向性が形作られた。かつて労働者が行なっていた作業を機械で代替したり、彼らを監視する新たな方法を発明したりするだけでなく、労働者の生産性向上に焦点が当てられたのだ。その後1世紀に渡り、こうしたテクノロジーは西欧に、続いて世界に広がっていった。
こんにち、地球上の大半の人々が自らの先祖よりも豊かに暮らしているのは、初期の産業社会において組織化された市民と労働者が、テクノロジーや労働条件についてエリートの支配する選択に意を唱え、技術の進歩がもたらす利益をより公平に分かち合うよう強制したおかげだ。
” ※着色は引用者
)
参考資料
睂/麻賦世博
@kgk_hk
時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん
第1話「ロシア語でデレるアーリャさん」
最終話「聖なるロシアの復興を願うドゥーギンさん」
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午後0:38 · 2024年7月5日·3,075 件の表示
https://x.com/uxskf/status/1860599201127891111
”ワクワクさん
@uxskf
ロシア関係は下斗米伸夫の第三のローマあたりを最低限読むべきで
ロシアのウクライナ侵攻をNATOへの拡大だとかアメリカ黒幕説で終わらせると微妙
そんな私はラックマンの聖なるロシアの復興をようやく読み始めたけどこれは非常に面白い
午後5:19 · 2024年11月24日·1,453 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1860600324421222802
”まぁそれでも当然陰謀関係のネットワークやメーソンの話なんかは当然出てこないんだけどね
なぜロスチャイルド系のNYタイムズに暴露された組織と被るとこが親露なのかとか
なぜキリスト教右派と繋がっているのかとか
なぜロシアの工作員とQあたりが仲良しなのかとか
午後5:24 · 2024年11月24日·786 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1861362645745684508
”ワクワクさん
@uxskf
斎藤知事の件でここんとこずっとTwitterは盛り上がってんなぁ
とりあえず勝共系が斎藤擁護してて左側が斎藤叩いてる傾向なのは分かった
まぁ個人的にあんまり興味ないな
午後7:53 · 2024年11月26日·4,679 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1861363585991221549
”マスゴミだとか言ってる人の大半が自分に都合の悪いニュースを流したから騒いでたりするだけでお察し
アホくさいわぁ
そんな事より聖なるロシアの復興はめちゃくちゃ面白かったから気になる人読んでみてね
買うには高くて借りたけど
ネットもテレビも大半は見る価値ないよ 本も闇鍋だけど
午後7:57 · 2024年11月26日·953 件の表示”
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日·44件の表示
”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1875591846749204538
”ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
·48 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875594045885714735
”ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日·20件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875595621580861743
”ワクワクさん
@uxskf
ここら辺の内容は前に紹介した気がする聖なるロシアの復興にも載ってたはずなのでとりあえず必読
そんなに直接メーソンやブラバッキー関連の内容は無かったと思うけど
数ページあったかな? 内容は重要だった
ロシアの歴史や思想にオカルト関係をサラッと知るという意味でも読むと良いよ
午前2:30 · 2025年1月5日·1,300 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875596138537218149
”出版社がヒカルランドって説明不要なとこなのは察して下さい
そもそもこの本くらいしかそんなの載ってるの日本じゃないからさ・・・
めっちゃ分厚いのと高額なので図書館かなぁ
午前2:32 · 2025年1月5日·783 件の表示”
(備忘録の準備のため『聖なるロシアの復興』についていろいろRTした後)
https://x.com/uxskf/status/1893151775513026813
”ワクワクさん
@uxskf
ラックマンの本なら聖なるロシアとあわせてトランプ時代の魔術も読んだ方がいいよ というかセット
どっちもヒカルのランド出版
表のやつではリベラルを潰せとかNYタイムズの何冊かがあるけどやっぱラックマンの方が面白い
午後1:12 · 2025年2月22日·296 件の表示
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1579033510819823616 と続き
”菊池
@kikuchi_8
より広い視野で分析してみる。プーチンの知恵袋とされるのがアレクサンドル・ドゥーギンという思想家である。ドゥーギンの掲げる政治理念はロシアを中心にユーラシア大陸に多極的な体制を作るというもの。国家主権を無くして単一政府を作るというタイプのNWO構想と対照をなす、ある種のNWO構想である。
午後5:58 · 2022年10月9日
今の世界情勢の大枠は、裏権力の中でも、戦争を含む強硬手段で一気にNWOを実現しようとする一派と、中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派による両建抗争だと分析している。後者はキッシンジャーが典型だが、彼らはドゥーギンの理論にも乗っかる形でNWOを推進しているのかもしれない。
午後6:05 · 2022年10月9日
若い頃に西洋神秘主義に傾倒したとされるドゥーギンの多極化理論は、中露を取り込む形での世界連邦を構想する裏権力派閥には相性のよいイデオロギーといえる。最近はイーロン・マスクがドンバス地域やクリミアの帰属を決める住民投票を行うべきと主張したが、これも前述の陣営寄りの発言と思われる。
午後6:23 · 2022年10月9日
#ワクチン薬害 がトレンドに。イーロン・マスクがTwitterを買収した影響だろうか?現今国際情勢の大枠は「裏権力AチームVS裏権力Bチーム」両建抗争と見ている。マスク氏はBチーム寄りと見ているので、Twitterの変化も期待せず冷静に観察する。我がシャドウバンがどうなるかを個人的指標としたい(笑)
午後5:53 · 2022年10月30日
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1586658083333296128
”菊池
@kikuchi_8
「裏権力Aチーム」「裏権力Bチーム」について説明。前者は「戦争を含む強硬手段で一気にNWOを実現しようとする一派」で、後者は「中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派」である。欧米の権力者はそのいずれかの陣営に属し両建抗争していると分析する。これが今の国際情勢の大枠と見る。
午後6:55 · 2022年10月30日”
https://x.com/kikuchi_8/status/1733844509476409775
菊池
@kikuchi_8
日本の裏権力支配構造の変化を分析するには、日本の(と世界の)裏権力支配構造を理解する事が重要である。その為には「青組」「赤組」という概念を用いて整理すると分かり易い。裏権力の派閥分けをAチーム・Bチームと便宜的に呼んでいるが、長いので、前者を「青組」、後者を「赤組」と呼ぶのが便利。
午後10:41 · 2023年12月10日·4,401 件の表示”
(「赤組」=Bチーム=「中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派」。
「マスク氏はBチーム寄りと見ている」[2022年10月30日時点]。
トランプが大統領になった後の動きを見るに、完全にトランプ側なのがイーロンだ。つまり青組=Aチームだ)
菊池
@kikuchi_8
若い頃に西洋神秘主義に傾倒したとされるドゥーギンの多極化理論は、中露を取り込む形での世界連邦を構想する裏権力派閥には相性のよいイデオロギーといえる。最近はイーロン・マスクがドンバス地域やクリミアの帰属を決める住民投票を行うべきと主張したが、これも前述の陣営寄りの発言と思われる。
午後6:23 · 2022年10月9日
(上記への返信)
https://x.com/yoshimichi0409/status/1579042583564939269
”よーすけ
@yoshimichi0409
プーチンの政策には、ドゥーギンの他に20世紀初頭に基督教神秘主義の立場から西欧近代の進歩主義を批判したロシアの思想家ベルジャーエフの影響が強く見られます。
午後6:34 · 2022年10月9日
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1579056333554593792
”菊池
@kikuchi_8
ご教示頂きありがとうございますm(_ _)mさすがはよーすけさんです。勉強になります。「ベルジャーエフ」は初耳です。調べてみますね。明治期に来日して西洋近代文明を批判したロシア系ドイツ人のケーベルと思想的立場が近そうだなと思いました。
午後7:29 · 2022年10月9日
”
https://x.com/uxskf/status/1893909773994561637
”ワクワクさん
@uxskf
左翼が叩きまくってるドゥーギンてのはプーチンの頭脳ってよりQアノンのロシア版みたいに思っておけば良いよ
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午後3:24 · 2025年2月24日·896 件の表示”
https://x.com/kikuchi_8/status/1873055877160468755
”菊池
@kikuchi_8
「日本のQアノン系は基本的に旧大本教系で最近は統一系(親米右派)も参入している」と書いております。また、「特殊事情」は新左翼から偽史・オカルトにシフトした系譜がある事やプロテスタント系と大東社系が明治以来政治勢力として近い位置にいる事について述べたものです。https://x.com/metarano/status/1869737775349772565
午前2:18 · 2024年12月29日
·
2,363
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”
(続き)
https://x.com/kikuchi_8/status/1873056139098927274
”菊池
@kikuchi_8
ロシアを見落としている訳ではない事は先述の通りです。ただ、これまでは優先順位が低かっただけです。今後中露が優勢になれば、そちらの分析批判を優先させる事になると思います。中国はデジタル・レーニン主義が直接日本に影響するのでちょくちょく分析批判しておりますが。
引用
菊池
@kikuchi_8
·
2022年10月9日
返信先: @kikuchi_8さん
より広い視野で分析してみる。プーチンの知恵袋とされるのがアレクサンドル・ドゥーギンという思想家である。ドゥーギンの掲げる政治理念はロシアを中心にユーラシア大陸に多極的な体制を作るというもの。国家主権を無くして単一政府を作るというタイプのNWO構想と対照をなす、ある種のNWO構想である。
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午前2:19 · 2024年12月29日
·
2,414
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”
https://x.com/kikuchi_8/status/1873056780462506476
”菊池
@kikuchi_8
私とねここねこさんが意見対立しているという前提でお話されているように見えますが、実際には違う事を説明します。青赤分析にしても、ねここねこさんがアニメ・漫画・ゲームなどサブカル領域を主なフィールドとして論じておられるのに対して、私は政治経済社会を含むトータルな視点で論じています。
午前2:21 · 2024年12月29日
·
1,454
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873057326678327432
”フォーカスする領域や視点がそもそも異なるので矛盾も意見対立もないんです。私もアニメなどでは青組も神秘主義が前提だと思いますし。国際政治の領域で見ると、青組は一神教論理を前面に出す場面がまだまだ多いと思います。例えば、ネオコンが正義を振りかざす十字軍的な論理で侵略戦争をしたりなど。
午前2:24 · 2024年12月29日
·
1,622 件の表示
”
菊池
@kikuchi_8
英米の戦争は自らを「正義」とし「敵」を「悪魔化」して正当化します。これは十字軍の論理そのものですし、米国の基督教に由来する「マニフェストディスティー=明白な使命」なる独善的な信仰にも通じます。表の国際政治の場面ではこうしたゴリゴリの一神教論理がまだまだ幅を利かせていると思います。
午前2:25 · 2024年12月29日
·
3,325
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訂正 ×最優先出来ました → ○最優先で来ました
引用
菊池
@kikuchi_8
·
2024年12月29日
返信先: @kikuchi_8さん
私の陰謀追及者としての基本的な姿勢として、その時々で最も優勢な勢力を優先して分析・批判するというのがあります。国内だと自公批判が優先で、野党への言及は少なめ、など。国際情勢でも同じで、これまではネオコン・シオニスト批判が最優先出来ました。今後中露優勢になれば優先順位が変わります。
さらに表示
午前2:33 · 2024年12月29日
·
1,998
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873068959421088034
”菊池
@kikuchi_8
先述の通り神秘主義を右派左派に分ける事は難しいと思いますが、神秘主義系人脈を右派左派に分類する事は中々良い考えだと思います。しかし、神秘主義系人脈≒英国系石屋人脈なので、それだとほぼほぼ私と同じ構図理解になります。右派左派の分類は便利ではありますが、その枠を絶対視すると、かえって
午前3:10 · 2024年12月29日
·
1,437
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873070251338018959
”事実と齟齬を来したり矛盾が出て来たりするので、あくまでも「目安」程度に捉えるのが良いと思います。私の構図理解もあくまで現時点での分析・解釈・構図理解に過ぎず、絶対的とも正解だとも思っていません。なんとか裏権力の権力構造を理解する為に事実に徴しながら自分なりに分類をしただけです。
午前3:15 · 2024年12月29日
·
1,686
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873071182242844707
”菊池
@kikuchi_8
アニメなどの青組系シンボリズムは神秘主義が前提という見方は私も同意です。そもそも裏権力の中枢自体が神秘主義や秘教主義が中核で、一神教や理性主義は人々を操る為の道具に過ぎないのかもしれません。アニメに神秘主義が出やすいのはアニメと言う媒体の性質にもよると見ます。アニメーションの語源
午前3:19 · 2024年12月29日
·
3,280
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873072771712074062
”の「アニマ」は「魂」や「生命」を意味する古代ギリシャの「プシュケー」に相当する概念であり、一神教より神秘主義の方が馴染み易いのだと思われます。そのためアニメのシンボリズムでは赤組系だけでなく青組系も“偶像崇拝”を嫌う一神教ではなく神秘主義や秘教主義が前面に出て来るのだと分析します。
午前3:25 · 2024年12月29日
·
2,164
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菊池
@kikuchi_8
考察の続き。ここからは特定の方に向けた返信ではないので、いつもの独り言スタイルで書きます(笑)
さらに表示
午前0:54 · 2024年12月30日
·
1,104
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菊池
@kikuchi_8
英国系石屋(フリーメイソン)人脈を右派・左派に分ける分類はあくまで目安に過ぎず相対的なものでしかない。絶対的な分類だと見ると、色々齟齬や矛盾が生じて来る。例えば、左派のフェビアン協会員の殆どは大英帝国主義に反対しなかったし、逆に右派のチャーチルは世界連邦運動の初期の賛同者だった。
午前0:58 · 2024年12月30日
·
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「赤組青組」という分類も同様であると思う。フェビアン主義者は世界連邦構想を推進し社会主義的な体制変革を志向する点では赤組的だが、大英帝国主義に反対しなかったり推進に関わっていたりするのは青組的な振る舞いと言える。TPPに加盟した英国の現政権はフェビアン協会と密接な労働党政権である。
午前1:09 · 2024年12月30日
·
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神秘主義を右派左派に分ける案についてあれから少し考えてみたが、「科学主義により近いのが神秘主義左派、一神教により近いのが神秘主義右派」という基準はどうかと思った。例えば、前者の例がトランスヒューマニズム、後者の例がカバラや基督教神秘主義、中間がオーソドックスな新プラトン主義など。
午前2:21 · 2024年12月30日
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1,393
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ロシアが世界連邦主義の構想に組み込まれている説だが、ドゥーギンの多極化理論は世界連邦主義に通ずる面はあると思う。あと、プーチンがKGB諜報員時代に英国のロイヤル・アーチ・フリーメイソンに加入していたと元MI6エージェントのリチャード・トムリソンという人物が述べたそうだが、真偽は不明。
午前3:03 · 2024年12月30日
·
1,917
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真偽は不明だが、プーチンと英国系フリーメイソン・MI6の接点を示唆する情報ではあるので心には留めておきたいと思う。「英国系石屋とロシアの工作には関係がない」と言い切るには早いと思う。その可能性も考慮し十分に考察すべきであろう。反証が無い限りあらゆる可能性を考え分析考察すべきと思う。
午前3:06 · 2024年12月30日
·
1,747
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(本記事の公開後にさらに追加予定)
お読み下さり感謝‼
最重要箇所を引用↓
”
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。
”
(『聖なるロシアの復興』pp.315-316)
(ノヴィコフと、ブラヴァツキー夫人の曽祖父はメーソン)
”
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。
”
(『聖なるロシアの復興』p.320)
本記事で最重要なのは上記の個所とその関連個所。
次に重要なのがイリーン思想。ロシア(特にプーチンとその背後にいる集団)の思想の根幹の1つだろうからだ。
『聖なるロシアの復興―東ローマ帝国(ビザンチン)からプーチンへ引き継がれるその理念・歴史・オカルト思想』
(ラックマン【著】/堀江 広行【訳】、ヒカルランド、2024年4月30日に第一刷)
値段が6,600だ(笑)(本体価格は6,000円)。
いっそのこと6666円にしたらいいのに(笑)
出版社はヒカルランド。ランドには国って意味もあるので、光の国というマニ教の影響があるであろう会社。
マニ教じゃねーか。ウルトラシリーズかよ。光の国は、M78星雲・ウルトラの星の唯一の国家。ウルトラの星には光の国以外の国家は存在らしい(笑) ワンワールド(笑) 統一政府(笑)
ヒカルランド / ありがとうさくらももこさん
https://www.hikaruland.co.jp/user_data/sakura.php
”ありがとう!さくらももこさん
ほんとうに人思いの愛の深い方でした
良かれ星人のももこさん
人のことは人一倍心配するのに自分はだれにも心配かけたくない
まさにそんなももこさんらしいサヨナラ
探究心が旺盛で死後の世界のことも知り尽くしてましたからいまをめいっぱい楽しんでいるに違いありません
2010年の3月
独立して出版社を立ち上げたいと伝えたところ
「いいわね。会社の名前は?」
とつぜん突っ込まれて思わず答えた社名が自分のメルアドに使っていたヒカルランド
由来も聞かれたので携帯に保存していた当時小学生だった三男坊の写真を見せたところ1週間も経たないうちにいまのロゴマークの王子さまが社名入りで携帯に届いたのです
まさかまさかの特大プレゼント
やばいッ〜まだ登記もしてない
あわてて動き出したあの時が夢のようです
このロゴマークが葵の御紋のように効いて難しいと言われる取次からもOKが出てすべてが順調に
3月末に長年お世話になった徳間書店を退社
4月に会社を立ち上げると7月にはヒカルランドの創刊本が書店に並んでいたのです
こんな奇跡的な宇宙の追い風でヒカルランドを支えてくださった一番の恩人がさくらももこさんでした
謹んでご冥福をお祈りいたします
ヒカルランド 石井健資
” ※着色は引用者
ねえ、なんでメアドが「光の国」なの? (笑)
当時小学生だった三男坊の名前がもしかしてヒカルなの? じゃあランドは何だよ(笑)
さくらももこが『そういうふうにできている』で
帝王切開のために局部麻酔キメて神秘体験し
宗教じゃないアピールしつつ
バラモン教そっくりのスピ思想を主張してたよ(笑)
局部麻酔で神秘体験するさくらももこの思想が
肉体は機械であり意識(魂、自分の本体)の乗り物であり、
生命は宇宙から来るという典型的なスピ思想。
ブラフマン(宇宙)から来るアートマン("意識")が地球上の
直立二足歩行用ホモサピエンスの肉体に宿るってバラモン教思想そっくり。
さくらももこの本はよく読まれるから支配層にとって実に都合がいいな!
彼女が最初からケツ社員なのか、
たまたま都合が良いこと言っているから宣伝されただけか不明なんだが、少なくとも思想はスピ系だ。ヒカルランドを支援しているし(笑)
"魂"は宗教的だから"意識"と換言するなど科学のフリをする彼女だが主張が完全に宗教。
スピ系が好きな「疑似科学で覆って宗教ではないアピール」。
無自覚なら宗教に無知だと暴露しているのだが
自覚的なら世俗主義=宗教と思わせずに宗教で洗脳
なのでどちらにせよ悪質。
詳しくは、
ニー仏(魚川祐司)さんの動画と著作と言及された本のメモ。『悟らなくたって、いいじゃないか』、『感じて、ゆるす仏教』、『宗教的経験の諸相』、『そういうふうにできている』。 さくらももこが『そういうふうにできている』で局部麻酔キメて神秘体験しバラモン教そっくりのスピ思想を主張!
Posted on 2018.11.17 Sat 19:10:20
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-259.html
で書いた。
)
この会社の本は当たり外れが大きいだろうな。
今回の本は大当たりだったよ。ワクワクさんがオススメしているんだからそりゃ当たりだよ。大当たりかどうかは読んでみないと分からない。
冒頭でいきなりシュタイナー出てきたよ(笑)
それと、ブラヴァツキーの曽祖父がメイソンって書いていた。しかも曽祖父の解説まである。この箇所だけでも読む価値あり。
そもそもロシア思想を多く紹介している本って貴重だよね。著者はロシアのメイソンについて暴露しまくっているけど大丈夫なのかな。まあ、大丈夫な立場なのだろう(ケツ社員かもしれない)。
本書に書いている著者と翻訳者紹介欄の一部を記す。
ゲイリー・ラックマン
米国ニュージャージー州生まれ。作家。ヨーロッパオカルト思想史、60年代対抗文化史、変性意識などをテーマに多くの著作をもち、公演活動を行っている。その著書は多数の言語に翻訳されている。
堀江広行(ほりえ ひろゆき)
専門はロシア思想史。
ヒカルランド / 聖なるロシアの復興 東ローマ帝国からプーチンへ引き継がれる その理念・歴史・オカルト思想
https://www.hikaruland.co.jp/products/detail.php?product_id=4365
”プーチンに影響を与えた哲学者たちの思想を追った本書を読めば、
なぜ今、ロシアとウクライナの間で戦争が起きているのかが分かる!
脈々と続いてきたロシア的理念の歴史をひもとく待望の書全訳!
ロシアは本当に「悪者」なのか?
ニュースで知るロシアのすがたは本当のものなのか?
ウクライナとの戦争で注目を浴びるロシアのその理念。
ロシアの隠された歴史とその思想を知れば、
なぜロシアが「国際秩序」と戦っているかがわかる!
ヨーロッパ・オカルト思想史研究者ラックマンがいどむロシア思想のすがた。
プーチンが信じる強固なアイデンティティーの淵源はここにあった!
ロシアの目指すものを知るための必読書!
ナロードニキとレーニンからグルジェフ、ラスプーチン、ドゥーギンまで
気鋭のオカルト思想史研究家ラックマンによる待望のロシア・オカルト思想史。
”
はじめに
「銀の時代」(1890~1920)へようこそ、魔術と神秘主義の時代
1906年、パリ郊外のパッシーで、心霊研究家で神智学協会の当時のドイツ支部長、ルドルフ・シュタイナーによる連続講演がおこなわれた。講演の聴講者の大半を占めていたのは、ロシア人とドイツ人だった。もともとシュタイナーは、マリー・フォン・シヴェルス―シュタイナーの後妻でバルト地方出身のロシア人―が企画する講演旅行で、前年にロシアに寄って講演する予定だった。だが、1905年に勃発した第一次ロシア革命のせいでそれが無理になり、講演がキャンセルされたままになっていたのである。
ロシアの皇帝に楯突いて国をあとにしたロシアの急進主義者の多くが、この1905年革命の後に目指したのが、ヨーロッパのあらゆる政治亡命者たちの都、パリだった。1906年の夏、シュタイナーは、その年に催された神智学協会の大会に参加するためにちょうどパリに来ていた。このため、いったんキャンセルされた講義をシュタイナーとロシア人たちの双方がパリにいるあいだにパリで実施するのは筋の通った話だった。当初、シュタイナーは、個人宅でこのレクチャーをおこなった。だが、彼はたいへんな人気者だったので大勢の聴衆がつめかけるようになり、フランスの現地の神智学協会員たちは、彼のスターぶりを苦々しく思いながらも、ついにはシュタイナーに講堂の使用を申し出ないわけにはいかなかった。シュタイナーは神智学協会でそのリーダーのアニー・ベサントに次ぐスターだったのである。
神智学協会の共同設立者ブラヴァツキー夫人はロシア人だった。だが、彼女は、秘教的な叡智が東洋に端を発することを強調して、キリスト教に批判的な発言をくりかえしていたので、結果として、同胞である多くのロシア人たちを自分から遠ざけてしまっていた。かたわら、シュタイナーのめだって「キリスト教化」された神智学の解釈は、ロシア人たちにもっと親しみを抱かせるものだった。人々が今、知っているロシアという国が生まれたのは、西暦989年に、キエフ・ルーシのウラジーミル大公が、その民の公式の宗教として、東方正教会を受け入れたときのことである。まさにそのとき、その顔貌を現しはじめたロシアの民族的な魂と正教的なキリスト教の融合が起こって、それ以来、この融合は綿々と維持されてきたのである。そしてまた、ロシア人たちがシュタイナーのキリスト教風にアレンジされたオカルト・サイエンスを楽に受け入れることができたのは、この正教的なキリスト教が、西欧のカトリックとプロテスタントのどちらと比べてもより神秘的な性格を帯びていたからにほかならなかった[1]。
(
もういちいち、[1]という注釈の数字は書かないかもしれない。
冒頭でいきなりシュタイナー登場(笑)
シュタイナーの人智学は、神智学と違ってよりキリスト教的なのが重要だよ。
「今のキリスト教は嫌だけど、批判しまくって否定しまくるのは嫌だなあ」って人にウケるよね。
持田保
@clearbody
ゲイリー・ラックマンの新著「聖なるロシアの復興」ようやく入手!ロシア話なのにいきなり冒頭シュタイナー話から始まるの最高!
画像
午後6:14 · 2024年5月4日
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ワクワクさん
@uxskf
古代ギリシャのリアルが面白かったのと古代ギリシャの魔術ってのが気になるんよなぁ🙃
この聖なるロシアの復興とかいうヒカルランドから出る怪しすぎる本も興味ある
画像
午後4:34 · 2024年4月23日
·
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)
(「より神秘的な性格を帯びていたからにほかならなかった[1]。」直後からの続き)
シュタイナーを演壇に迎えた聴衆の顔ぶれも瞠目にあたいした。聴衆の中には、ロシア文学と心霊主義的なアヴァンギャルドの選り抜きのエリートたちが混じっていた。そこには、小説家、歴史家、そして神秘主義者で、アトランティスと黙示録について論じたドミートリ―・メレシュコフスキーがいて、その妻で、多くの神秘主義者やアーチストのたまり場であったサンクト・ペテルブルグの悪名高いカフェ「野良犬の穴倉」の常連だったジナイーダ・ギッピウスが混じり、またロシア象徴主義運動の重要なメンバーで詩人のコンスタンチン・バリモント、ニコライ・ミンスキーが顔を出していた。彼らは、そのほかの詩人や小説家、哲学者、アーチスト、そして音楽家たちとともに「銀の時代」と呼ばれる当時のロシアの強力な文化的、霊性的な「文芸復興(ルネッサンス)」の一翼を成していた。それは、魔術と神秘主義の時代であり、ルネッサンスこのかた、西欧が聞いたこともないような強烈な創造力の発露であると同時に、オカルトにたいする生き生きとした関心がよみがえり、霊性的、そして宗教的な価値観への深い回帰を経験した時代であった。それは、魂の巡礼者、芸術と思想による世界救済を求める霊性の探求者たち、すなわち探神主義者(ボゴイスカーチェリ)(二十世紀初頭ロシア思想における宗教的理念の新たな探求者たちのこと。後述参照)たちの時代であった。
シュタイナーがその講義で語った内容は、聴衆たちの心をゆさぶり、彼らがすでにずっとむかしから心の底であたためていた多くの信念に太鼓判を押した。シュタイナーは、宇宙と意識の進化―彼にとってこの二つはひとつである―について語り、アトランティスの沈没このかた、地球上に交錯したさまざまな文明、そしてすくなくとも彼の計算によれば数万年前に起こったという惑星的な大惨事について語った。彼は集まった聴衆に、人類は今、西欧文明に代表される第五の「後アトランティス文明期」の終幕に向かっていると告げた。シュタイナーが教えるところによれば、それぞれの「文化期」が、意識の進化の上での独特の「使命」、あるいは「課題」をもち、この第五文明期の課題とは、知性、個人的な「私」、エゴを発達させることにあった。そしてこの課題はすでに終了したばかりか、実のところあまりに完璧に実行されすぎており、もっぱら個人主義的な西欧のエゴは、さまざまな霊性的な力の内部にあるその源泉との接触を完全に喪失するという危機に直面しているというのであった。
だが、シュタイナーが聴衆に語ったところによれば、今、出現しつつあるのは、次の「文化期」の兆候であり、西欧的な「私」の分裂性を超克し、世界と「私」のつながりを回復する新しい意識の上昇であった。この第六の「後アトランティス文化期」が完全に打ち立てられるには、西暦3500年を待たなければならないというのだが、シュタイナーが説くところによれば、この新文化期のしるし、その前途を用意するきざしと成長はすでに出現していて、その多くがほかならぬロシアで見出されるだろうというのであった。
この新しい来たるべき文化期がその課題としてもつ発達させなければならない性質とは、シュタイナーによれば、共同体の意識、無私の姿勢、忍耐能力、より高次の真実への開かれた態度であった。彼が信じるところでは、これらすべてがロシアの民の中に胎生的な状態で含まれていて、彼らの内にこそ新しい世紀(ニューエージ)の種子、すなわち「銀の時代」の人々がやはり信じていたなにかがあった。ロシア的な性格とは一種の「子ども」であって、「未来を勝ちとるために全人類が答えなければならない問いが、ロシアの魂の中に隠されている」とシュタイナーは説いた。ロシアの魂は、互いに矛盾する理念、対極物を、西欧の論理的精神が見出しえない方法で、その内に収めることができる。たとえば、ロシア人にとって「合理的神秘主義」とか「神秘的合理主義」といった概念は矛盾でなく、より高次の意識のしるしだというのであった。
女性的な東方と男性的な西欧は、この二極を統合し、その双方を乗り越える新時代の「子ども」を出産するために統合しなければならない。そうシュタイナーは聴衆に語りかけた。「第六文化期の多くの性格は、私たちの時代の性格とはまるで異なり」、人々は他者の苦しみを自分のものとして受け止め、誰だろうと兄弟や姉妹として受け入れる。彼ないし彼女が愛おしむいかなる真理や信念も、彼ないし彼女自身の内省の結果となって、彼らの魂に根を張るようになり、個人の幸福は全体の幸福に依拠するようになる。第六文化期における知識は、どのようなものであれ霊性的な要素を現実的に含むようになるというのであった。
シュタイナーが告げたところでは、これらの可能性はすでにロシアの人々のあいだに現れており、ロシア人たちの課題とは「今彼らの中で横たわるエレメンタルな力にはっきりとした表現を与える」ことであった。
(
シュタイナーについて長いな(笑) 作者が好きなのかもな(笑)
シュタイナーってロシア重視なんだ。ブラヴァツキーがロシア人だもんな(笑)
)
2001年からロシアの与党の座にある統一ロシア党の2014年の年次大会で、ロシア大統領ウラジーミル・プーチンは、地方知事たちに、ありきたりの党政策のレトリックにならんで、いくつかの「課題図書」のリストを与えた。
プーチンたちが知事たちに読むように求めたいくつかの本とは、哲学の著作にほかならなかった。それらは「ロシア的理念」についての著作であった。
プーチンが知事たちに目を通すように求めた三人の思想家たちとは、アメリカのロシア学者ジェームズ・スキャンランの表現によれば、「ロシアでもっとも偉大で影響力ある哲学的思想家」で小説家ドストエフスキーの友人だったウラジーミル・ソロヴィヨフ、そして、貴族出身のキリスト教実存主義者で「自由の哲学者」と呼ばれたニコライ・ベルジャーエフ、さらに、この二人よりもずっと政治的な思想家で、その思想をある種の「ロシア的ファシズム」とも呼ぶことのできるイヴァン・イリーンであった。
この三人とも銀の時代の重要な立役者で、1991年のソ連崩壊まで、彼らの著作の大部分は彼らの故国では読むことができなかった。
プーチンがその知事たちに読むように求めた本、すなわちソロヴィヨフの『善の弁証』、ベルジャーエフの『不平等の哲学』、そしてイリーンの遺作『われわれの課題』は、思想びいきでないかぎり、軽く読み通せるようなたぐいの著作ではない。
前著『暗黒の星のぼる』(邦訳『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』、ヒカルランド刊)で、私は、新しいロシアにかんしてプーチンが打ち込んでいるある理念を論じた。それは「ユーラシア」の理念である。これは、1920年代にロシアの反ボリシェヴィキの亡命者たちが作り上げた概念で、「ロシア的理念」の一形態である。この白系ロシアの亡命者たちは、1917年の革命が世界史の終焉を呼び起こしうるような「神秘的なカタルシス」だと信じた。そして、彼らは、ボリシェヴィキの「実験」が瓦解した暁には、自分たちが用意したロシアについての新しいヴィジョンをたずさえて故国に戻るつもりだった。しかも、彼らはそれがかなり早く起こるだろうと楽観していた。
赤いテロルによってヨーロッパに追い出されたこれらの知識人たちは、ロシアの民衆のための新たな国家の個性とアイデンティティーを心に思い描いていた。彼らはこう考えた。もし自分たちが帝政主義者でもマルクス主義者でもないなら、いったい自分たちは何者なのか。彼ら知識人たちが出した結論とは、自分たちはユーラシア人、すなわちいっさいの大陸の母である広大な祖国に現れる新たな固有の文明に誕生する者たちだ、というものだった。ロシアは、その進歩的なヨーロッパの従妹たちに遅れまいと、いつもあくせくして、それでいてけっしてヨーロッパの最下段にさえ足を踏み入れることのできない、ヨーロッパの哀れな親戚ではない。ロシアは、別の価値観と別の信念、そしてもっとも重要なことに、異なる【運命】をもつ、まったく異なる文化であって、今やその本領を発揮しつつあるというのであった。
(
【 】は傍点の代役。
題名変えすぎ(笑) でも魔術とオカルトパワーって言葉を入れる方が売れるよね(笑)
)
拙著『暗黒の星のぼる』(『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』)で示したように、このときユーラシアの理念をきわめて真剣に取り上げたひとりが、旧ソ連のパンクの異論派で、それからエリート地政学者に転身したアレクサンドル・ドゥーギンである。1997年、ドゥーギンの著書『地政学の基礎』が書店にならび、その成功についての評価が正しいのであれば、大ベストセラーとなった。同書成功のひとつの理由は、来たるべき惑星規模のハルマゲドン、すなわち世界に残った二つの超勢力のあいだの最終的かつ決定的な衝突によって生じる全地球的な黙示録についてのドゥーギンの展望であった。ドゥーギンによれば、この二大超勢力とは、世界を無国境の巨大な市場に変える決心をした大西洋的西欧(アトランティック・ウエスト)、そして地球の「商業主義化」に抵抗しようと決意するユーラシアの伝統主義的、かつ霊性的な文明であった。
(
ドゥーギン流の終末論だな
)
それほど「千年王国主義的」でない意味で考察するなら、勃興するユーラシア文明についてのドゥーギンの青写真には、以前はソ連の一部で今や分離して新たな道を歩む、ロシアで現在「近い外国(ブリジュニエエ・ザルベジエ)」として知られる諸国をなす地域が含まれている。私は、拙著『暗黒の星のぼる』で、2014年のクリミアとウクライナの事件は、ドゥーギンの地政学的な予見に教唆されたと信じる理由がすくなからずあることを示したつもりである。
暗黒政治とこれみよがしのオリガルヒ(ロシアの資本主義移行後に登場した巨大な権力をもった新興財閥)たちの故郷であるロシアを、西欧よりも道徳的にもっと繊細な国であると考えることは、およそつじつまが合わないことのように思えるかもしれない。だが、プーチンのロシアにとっては、西欧社会の特徴となっている極端な自由主義と放任主義―「何でもあり」の感性―は退廃以上のなにものにも映らず、西欧における事実上いっさいのものの「商品」への変身は、利己主義と自己満足の悪臭を放ち、シュタイナーの語った西欧の自律的な「私」は、消費主義の飽くことを知らぬミーイズムに転じている。
[
ミーイズム(meism):自分の幸福や満足を求めるが、他には関心を持たない考え。自己中心主義。
]
たいするプーチンのロシアは「伝統主義」的な基準を堅持し、セックス、家族、そしてジェンダーにたいするその姿勢は「進歩的」な西欧には、抑圧的ではないとしても、いちじるしく保守的であるように映る。
プーチンがその伝統的価値観を見出したその場所とは、彼の正教の信仰であった。そして、この真実の信仰の守り手としてのロシアの役割の中にこそ、ユーラシア主義と銀の時代の思想家とたちとならんで、「聖なるロシア」の理念が復活を果たしつつあるように見える。この理想は、ロシアとその「神を抱ける民」が、事実上その幕開けの日々から、つまり、彼らの最初の正教的キリスト教の受け入れの時代から抱いていたアイデンティティーであった。それは、中世後期のモスクワ公国時代の神権政体の挑戦、そしてローマ帝国の崩壊と1453年のトルコによるコンスタンティノープルの陥落に続いてロシアが「第三のローマ帝国」となるという構想に受け継がれた。「第三のローマ」とは、十六世紀初頭にロシアのプスコフの修道士フィロフェイが提示した理念である。1511年のヴァシーリー三世への書簡にフィロフェイは「二つのローマは陥落した。第三のローマが立ち上がりつつある。そして第四のローマはありえない」としたためた。ローマ帝国は蛮族の手に、そしてビザンチン帝国はトルコの手に落ち、今やモスクワこそが真のキリスト教の教えの灯をひとり守り続けているというのである。そして、おそらくここにこそ、ロシアがひとつの「使命」、特別な「運命」をもつという概念の起源を見つけることができるのであり、それが、さまざまなバージョンの「ロシア的理念」の源泉となった。
正教会をその西欧の対抗する教会と隔てるもののひとつは、世界の終末、黙示録、そしてキリストの再臨にたいする姿勢である。たしかに、これらの教えは、西の教会の一部をもなす。ただ一般に、西の教会は、あらゆる千年王国主義的な情熱に冷水を浴びせる傾向があり、日々の生活上のさまざまな問題と挑戦に対処することにより精を出してきた。西方では「罪人たちよ、悔い改めよ、終わりの日は近い」という呼びかけは、街角の預言者たちと「エホヴァの証人」たちの領分にすぎない。西の教会はずっと現世的で世俗権力にたいする西の教会の執着は、その東の対抗者がいつも声を大にしてきた非難の的である。
一方、東の教会にとって「終末の日」はつねに重大な意義をもち続けた。この教会は、神秘主義とエソテリックな知識にたいして、いつももっと開けた姿勢を維持してきた。東方正教会は西の教会よりももっと終末論的な関心をあたため続け、キリストの再臨への渇望、そして地上における天の王国の樹立への期待は、ロシアの民が、東方正教会を自分たちの宗教として採り入れたときに、全身全霊で吸収したものである。ロシア人は、復活の理念をとても真剣に受け止めた。これは、正教会の一年の暦の中で、復活祭がクリスマスよりもずっと重要な祭日である理由のひとつである。彼らはまた黙示録にたいしても口先だけの敬意をささげたりはしない。
ロシア史におけるエソテリズムの重要な影響のひとつが、フリーメーソンであった。「ヨーロッパへの窓」であるサンクト・ペテルブルクにその名を残した西欧化されたツァーリであるピョートル大帝は、1698年のイングランド滞在の折に、メーソン・ロッジへの入門の儀式を受けたと信じられている。エカテリーナ女帝の治世になると、フリーメーソンはロシア中に広まり、フリーメーソンにかかわりをもつ「進歩的」な社会・宗教思想は、十九世紀におけるロシアの魂の大いなる芸術と霊性の覚醒の素地を用意した。
エソテリズム思想の影響は、ナポレオン戦争におけるヨーロッパの救済者で、神聖同盟の主導者であったアレクサンドル一世にさえたっし、皇帝は、皇位を退いてその最後の日々を霊性的な黙想にふけるために自分の死を擬装したのだ、とささやかれた。ロマノフ王朝の落日が、神秘主義的、かつ黙示録主義的な期待に満たされていたことはよく知られている。そこではラスプーチンが、そのもっとも悪名を馳せた登場人物だったが、死を運命づけられた王朝に助言を与えた神秘家は、彼ひとりではなかった。そして、探神主義者(ボゴイスカーチェリ)は、建神主義者(ボゴストロイーチェリ)(同じく進歩する人類そのものを神として崇めようと考えた当時のロシア思想の一派。後述参照)になり、ソヴィエト体制の日々も、オカルト的、神秘主義的、そして魔術的な人物のアイディアが、ボリシェヴィキの壮大な実験を進める人民委員や同志たちに影響をふるい続けた。そして、まさしくロシア思想の千年王国主義的な潮流こそが、来たるべき無階級社会についてのマルクス主義の展望を、ロシアにより受け入れやすいものにしたのだと指摘する歴史家はひとりにとどまらない。
(
探神主義者:二十世紀初頭ロシア思想における宗教的理念の新たな探求者たちのこと。
「チェリ」と書いたが「チエリ」かもしれない
)
神秘主義的、そして黙示録的な事象にたいするロシア人たちの関心は、ユーラシアのような概念や銀の時代の哲学者たちの思想へのプーチンの関心、そして「聖なるロシア」にまつわるプーチンの言動とともに、今日もロシアに脈々と引き継がれているようである。
p.35
私は、私たちの現在の困難を克服する手がかりとなりうる意識の進化にたいする洞察が、銀の時代の思想家たちの理念とヴィジョンに見出されるかもしれないということを、本書の結末までに示したいと思う2。
2
エサレン研究所とリンディスファーン出版社はこのことを理解し、ニコライ・ベルジャーエフ、ウラジーミル・ソロヴィヨフなどの銀の時代の重要人物の著作の英訳を1990年代に「ロシア哲学叢書」として協力して出版した。
(
エサレン研究所と歴史 | GROUNDWORK(グラウンドワーク)
https://groundwork-care.com/esalen-institute-and-history/
”
エサレン研究所は、アメリカのサンフランシスコから車で約3時間ほどのカリフォルニア州・ビッグサーという海岸沿いにあり、「人間の潜在的可能性を探求する、滞在型の宿泊施設」として1962年に誕生しました。 研究所は、断崖絶壁の太平洋と緑豊かな森に囲まれ、温泉が湧き出る風光明媚な場所。 ここでボディワークを始め、心理学、ヨガやダンス、太極拳、音楽、アートなど様々なワークショップが開かれ、世界各国から集まった人々が学んでいます。 「エサレン」という名前は、この地に暮らしていたネイティブ・アメリカンである、エサレン(エスリン)族の名をとって命名されました。 研究所の始まりは、スタンフォード大学時代に友人同士であったリチャード・プライスとマイケル・マーフィーが出会い、 東洋と西洋の様々な考え方を取り入れながら、『文化や習慣にとらわれず、私たちが本来、潜在的に持っている可能性を伸ばしていくことができるか』ということ(人間性回復運動=ヒューマン・ポテンシャル運動)を探求する滞在型コミュニティーセンターをこの地に立ち上げたことに始まります。 以来、多くの哲学者や文学者、心理療法家、身体技法研究家、アーティストなどが研究所を訪れて交流し、様々な実験的・体験的なワークショップが繰り広げられるようになりました。 その中の一つとしてボディワークがあり、「エサレンⓇマッサージ」は生まれました。 エサレンマッサージ(エサレンボディワーク)は、こうした歴史や様々なメソッド、そして豊かな自然に育まれながら、『ゆっくりと、呼吸とともに、今ここの気づきをもって、あるがままを受け入れ、全体を繋げる』という独特のスタイル・哲学として創り上げられてきたのです。 そして、現在もなお新しい手法と組み合わされ、発展し続けています。
❖エサレン研究所に滞在し、ワークショップを行ったことのある著名人
フリッツ・パールズ(ゲッシュタルト心理療法の創始者)
アブラハム・マズロー(人間性心理学とトランスパーソナル心理学の創始者)
アーノルド・ミンデル(プロセス思考心理学の創始者)
カール・ロジャース(臨床心理学者/クライアント中心療法の創始者)
ロロ・メイ(精神科医)
アイダ・ロルフ(ストラクシュアル・インテグレーション=ロルフィングの創始者)
シャーロット・セルバー(センサリー・アウェアネスの創始者)
フレデリック・M・アレクサンダー(アレクサンダー・テクニークの創始者)
モーシェ・フェルデンクライス(フェルデンクライス・メソッドの創始者)
ミルトン・トレガー(トレガー・アプローチの創始者)
etc… 参考文献 「エスリンとアメリカの覚醒 – 人間の可能性への挑戦 」 <W.T アンダーソン著、伊藤博訳、(誠信書房) Esalen and American Awakening
” ※着色は引用者
ヒッピー的でニューエイジ的な研究所だな
)
第1章 「ロシア的人間」─天使にして悪魔
p40
ヘッセをもっとも憂慮させた没落は、経済的なものでも、軍事的なものでもなかった。それはまた、物質的なものでもなかった。そういうものをイギリス人は第二次ボーア戦争(1899~92年)(備忘録者注:「~1902年」の間違いだろう)
の年月に味わったことがある―このとき補充兵の半数以上が軍務適合審査に落ち、それが1910年のロバート・ベーデン=パウエルによるボーイスカウトの設立につながった。そうではなくて、ヘッセが憂いた没落とは、霊性的なものだった。
(
ヘッセもケツ社員だろうし、ボーイスカウトはメイソンと人脈がかぶる。
ケツ社員だろう人がたくさん出て来るのが本書だ(笑)
)
p.54から
三人の「ロシア的人間」、ブラヴァツキー夫人、グルジェフ、そしてラスプーチン
ロシア人の聴衆に向けた講義で、ルドルフ・シュタイナーは、ロシア的性格についてふれながら、ヘルマン・ヘッセのように「ロシア的人間」について語った。だが、その例をあげるときにシュタイナーが選んだのは、ある「ロシア的女性」であった。このエレーナ・ベトローヴナ・ブラヴァツキー夫人は、先に触れたように神智学協会の共同設立者だった。ブラヴァツキー夫人、あるいは彼女が好んだ流儀にならうなら「HPB」は、ロシア的人間がもつものいっさいを体現し、かつそれ以上のものだった。彼女は、当時ロシアの一部だったウクライナのエカテリノスラーフ(現在のドニプロペトロフスク)に1833年に生まれた―今日もそうであるようにウクライナが誰のものなのかはロシア史の根本的な問題である[33]。シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人を「火花」―それはある種のオカルト的な真実である―を散らすことのできる「蓄電されたライデン瓶」と呼んだ。彼女は「傍若無人」で「対人関係における一貫性の欠如」を示した。もっとも、これすらが、冷静さそのものの具現である穏やかなシュタイナー博士だけが言い得たような。ごく控えめな評価である[34]。シュタイナーにとって、ブラヴァツキーは、幾人もの批評者たちが看破したロシア人についての真実の完璧な一例であった。すなわち、彼らは、形を与えることを拒否することで獲得したような、なにか原初的でエレメンツ的な力をもち、ヘッセをまごつかせたその「原始的なアジア的理念」をもっている。コリン・ウィルソンがその『オカルト』で記したように、ブラヴァツキーは「爆発的な無鉄砲娘」であった。『ブラヴァツキー夫人の気球』の著者ピーター・ワシントンは、彼女を「ごくまれにしか同じことを二度口にしない」「無造作な包み紙に入ったすばらしいクリスマス・プレゼント」と評している。
(
「火花」を散らすことのできる「蓄電されたライデン瓶」で、「傍若無人」で「対人関係における一貫性の欠如」を示す、「爆発的な無鉄砲娘」。
直接関りたくないよ(笑)
「ごくまれにしか同じことを二度口にしない」「無造作な包み紙に入ったすばらしいクリスマス・プレゼント」。
危ないプレゼントだな(笑)
)
霊的な教師としてのブラヴァツキーはまた戦士の魂をもっていた。彼女の人生をあやつる運命の女神は、彼女を、メンターナでローマ教皇軍と戦うマッツィーニの軍団とともに、バリケードの向
(ここからp.56)
こう側に置いた。純朴なヘンリー・スチール・オルコット大佐を虜にして、神智学協会を結成させたのも、まさしく彼女の従軍の記念である「ガリバルディのブラウス」、その豪快な生き方によるものであった。彼女は煙突のようにタバコを吹かし、作法などはおかまいなしで、多彩な語彙をもっていた。彼女は、理解しがたい荒々しい怒り、または人を啞然とさせるような自己犠牲を突発的に表すことで有名で、奔放なユーモア感覚をもっていた。彼女が、事実上自分の身の回りの誰をも帯電させるような効果を周囲に及ぼしたのも驚くにはあたいしない。人種や性別、信条、肌の色を超えた人間の友朋団を作るという彼女の目標―のちに触れるように彼女の曽祖父はロシアのフリーメーソンの立役者のひとりだった―は、ロシア人は「われら」という主語でものを考えるという、のちのシュペングラーの洞察と響き合う。こういってよければ、彼女は、奇抜だが霊感的で、良き目的のためであれば、いくらかのごまかしをすることなど厭わない「狂気のグル」の原型であった。そういうグルの「教育的ふるまい」は、イニシエーションを受けていない入門者の理解をえてして超越しているものである。
エソテリックな詐欺師、いんちき霊媒、神がかりのいかさま師というブラヴァツキー夫人の風評が、彼女をロシア的人間の隊列に組み入れている一方で、彼女に「聖なる愚者」としてロシアで知
(ここからp.57)
られてきたイメージを見出す人もいる。「佯狂(ユローストヴォ)」は「キリストのために愚者たること」を意味するが、ブラヴァツキー夫人は、キリストの名においてこの役割を演じたのではないのかもしれないが―先述のようにキリスト教についての彼女の言説が彼女にロシアの友人がすくなった一因である―たしかに喜んでこの「愚者」の役割を演じた。
(
ユローストヴォというように、小さいオで表記したが、本のルビだと小さいオなのか、通常の大きさのオなのか分からない。
ブラヴァツキー夫人の曽祖父がメイソンだと日本語で書いている唯一の本かもしれない。
煙突のようにタバコを吹かし、作法などはおかまいなしで、多彩な語彙をもっていて、理解しがたい荒々しい怒り、または人を啞然とさせるような自己犠牲を突発的に表す、奔放なユーモア感覚がある人って創作物のキャラなら人気が出るかもしれないが、現実の人なので関わりたくないよ。
)
p.59から
図5 ゲオルギー・グルジェフ
G・I・グルジェフはロシア人ではない。彼はギリシャ人とアルメニア人の出自である。だが、彼が生まれたとされる―彼の生年について正確な結論はない7―ころ、
【同ページの欄外注より。7 推定される出生年は1866年、1872年、1877年である。】
彼の両親の家は、トルコかロシア領にあった[39]。やがて彼は「真理の探求者たち」として知られる仲間たちの一団とともにエソテリックな知識を求めてエジプト、聖地エルサレム、中央アジアで数年を過ごし、それから、銀の時代のロシアで霊性的な教師として頭角を現した[40]。ブラヴァツキー夫人のように、グルジェフはいくぶん「狂気のグル」であった。彼の風変わりで、かつ人を困惑させるかのような行状は、彼の弟子たちをつねに身構えさせていたが、彼はそれでもしばしば彼らの警戒の裏をかいた。彼は、弟子たちに尋常ならない要求をして、わざと困難な状況を作り出した。作家フリッツ・ピータースのグルジェフとの道中のエピソード―グルジェフは列車の出発をひどく遅らせ、すべての乗客を叩き起こし、不快な匂いのする食べ物をとって、特別待遇を要求して、最低の俗物としてふるまった―は、古いコメディー映画に出てくる登場人物が「ふつふつと怒りをたぎらせる」という場面を思わせる[41]。これは、ブラヴァツキー夫人のマルクス兄弟風のおどけた仕草のように、ひとつの教育的な戦略であり、彼の弟子たちを揺り動かして目覚めさせておくためのものであった。それは、彼らの「眠り」を妨げ、彼らのいわゆる「機械的」な限界を押し動かして「真実の意識」を手に入れることを助けるためのものだった。
だが、この手法はいつもうまく働いたわけではない。グルジェフを世界に紹介したのは、銀の時代のオカルトとエソテリズム界の有名人だったP・D・ウスペンスキーの功績である。ウスペンスキーは、形而上学的なテーマにかんする人気の書き手で、カフェ「野良犬の穴倉」の常連だったが―彼の講義にはベルジャーエフも参加したことがある―期待はずれのエジプト、インド、近東への「奇蹟を求める」旅のあとで、モスクワでグルジェフと知り合った。グルジェフとともに過ごしたウスペンスキーの数年間の記録『奇蹟を求めて』(1949)は、「神秘的ロシア」の背景と見なしうるもの、歴史の混沌に抗った霊性的な真理の探求を、凝縮された姿で見せてくれる。
p61から
長い従属節と挿入句をはてしなくちりばめたグルジェフの長大な傑作『ベルゼバブの孫への話』(1950)は、ルドルフ・シュタイナーが、ロシアは大いなる力を秘めているが整然として形にとぼしいと言ったとき、シュタイナーがなにか真実を突いていたということを証明するものであるように思われる。それはグルジェフその人が純粋なロシア人ではなかったことを勘定に入れても、なおあてはまることである。グルジェフとブラヴァツキー夫人には、まだまだ多くの共通点がある。彼女の『ベールを脱いだイシス』(1877)と『秘密教義』(1888)は、グルジェフの著作がそうであるように、しばしばその継ぎ目が破れて、今にも破裂しそうに見せる。そして二人ともそのディオニュソス的な変幻自在の人物像に、いくらかの論理と秩序をもたらす西欧精神の持ち主―ブラヴァツキー夫人の場合ならオルコット大佐―を得ることで大きな恩恵をこうむった。
この三人の探求者たちは、その誰をとっても、強烈な霊性的な探求を、それを満足させるための物理的な試み、つまり、シンボリックな「奇蹟」の探求ではない地理的な具体的な探求の企てと合体させた。ブラヴァツキー夫人は、彼女自身の主張を受け入れるなら、ヨーロッパ人が訪問を許されていない時代にチベットへ旅した―あるいは、許されるかぎりチベットに近い場所まで行った。グルジェフも、中央アジアのどこかの天然の要塞にあるサルムング友朋団の秘密の修道院に潜入したと主張した。ウスペンスキーもその失われた知識の探求の旅で、アシュラムや回教修道士(ダルヴィシュ)の祈禱場で「スクール」の師たちに出会った。こういう「巡礼」の旅は、ロシア特有のもので、彼らは神が彼らのところにやって来るのを待つのではなく、自分の家を捨てて街道に出て、神の足跡をたどるのである。
p64から
ロシアの巡礼者たちの謙(へりくだ)りと否定の道
ラスプーチンは、ブラヴァツキー夫人のように「罵倒の道」を歩き、「ユローストヴォ」を実践した。彼は、まさしく「キリストのための愚者」であった。
(
ユローストヴ「ォ」で合ってた
)
地上の生涯をとおしてひとりの「巡礼者」たらんとすることは、ロシア的な人生の特徴であり、現世の限界を受け入れることを拒み、聖なる目的地、来たるべき天の国を目指そうという決意をもたらす。
だから、ロシアの十九世紀、そして二十世紀初頭のいちばん人気のある修養書のひとつが、無名の著者による『ある巡礼の道』(1884)であったことに驚かされるような必要はない―同書は1990年代からふたたび人気を集めている。これは「主イエスよ、我を憐み給え」という「イエスの祈り」を絶えず心の中で唱えながらウクライナ、ロシア、そしてシベリアを旅する貧しい遍歴者の記録で、おそらくこれも、ロシア的人間による究極的なるものの追及の一例である。
第2章 母なる大地─桁外れな国
p.78から
ドヴォヨヴェーリエ、すなわち「二重信仰」というからくりによって、「ロシア人」は、一方で、過酷な大地が生み出した「強烈な霊性」、すなわち永遠の世界で彼を待ち受ける「もうひとつの」世界への力強い確信と、そして他方で、おのれが今この場所で「湿れる母なる大地」に根ざしているのだという深いきずなの感覚をともに満足させることができた。
そこには、宇宙をなりたたせる両極の力を具現する高位の神々があった。全能の創造神「ロッド」は光と闇、清浄と不浄の霊の対立から出現した。彼が生み出した最初の双極は、白神と黒神、すなわち男神ベロボーグと女神チェルノボーグである。ちなみに、ボーグ(ボーフ)はスラブ人の言葉で神を意味し、したがって、銀の時代の「探神論者」は【ボゴ】イスカーチェリと呼ばれている。
(
【 】は傍点の代役。以下同様。チエリではなくチェリね
)
この二元性は、世界が光と闇の勢力の大いなる宇宙的な闘争の中にあると考えたゾロアスター教に起源をもっているのかもしれない。もうひとつの二元論的な宗教で、ゾロアスター教と重要な違いをもつものの、多く共通するものももっていたマニヘイ教は、紀元三世紀には、スラブ人に到達したと考えられている。
(
マニヘイ教のヘイって何だろう。マニ教のことのはず
)
バルカン地方からフランスまで、ヨーロッパ中に十世紀から十二世紀にかけて広まった異端のキリスト教セクトであったボゴミール派―カタリ派はその最後の名残である―の名称は、彼らが自分たちは神に慈しまれていると信じていたことに由来する。彼らの二元論的な信条も、やはりマニヘイ教とかかわりをもっていた。
月は古代スラブの宗教でとても重要だった。それは豊穣と健康をもたらすもので、人類の創造者だとすら見なされていた。月神は、ウクライナの一部では十九世紀になるまで農夫たちの円舞によって崇拝された。
第3章 「美は世界を救う」─イコンの起源
p108から
コンスタンティヌスはキリスト教徒にたいしてある種の好感を抱いていた。彼の母はキリスト教徒で、聖地エルサレムにも巡礼していた―おそらくは息子の罪を贖うためであろう。
何年も続いた内戦の末、コンスタンティヌスは自分にたいする最後の挑戦者であるリキニウスを倒し、324年に、帝国唯一の支配者となった。実にディオクレティアヌスが40年前に権力を握って以来初めての単独皇帝であった。コンスタンティヌスは、自分に勝利をもたらした天恵に感謝して、帝国の諸宗教の中でキリスト教に特別な地位を与えた。313年には、彼は、キリスト教徒にたいする寛容を呼びかけ殉教と虐待の時代を終わらせるミラノ勅令を発布する。
(
ミラノで勅令が出された歴史的事実はないらしい。
ミラノ勅令(ミラノチョクレイ)とは? 意味や使い方
https://kotobank.jp/word/%E3%81%BF%E3%82%89%E3%81%AE%E5%8B%85%E4%BB%A4-3172477
”
ミラノ勅令
みらのちょくれい
313年、ミラノMilanoにおいてローマ帝国のコンスタンティヌス大帝とリキニウス帝との両皇帝が発布した、キリスト教公認の勅令。キリスト教迫害の根本的廃止、教団の法人としての認知、迫害中に没収された不動産の原状回復などを内容とする。
厳密にいえば、ミラノでそのような勅令が出された歴史的事実はなく、ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいてリキニウスが同年ニコメディアで両皇帝の名において発した訓令の内容の記録が伝わるにすぎないが、後世の史家がこれをミラノ勅令とよんだのである。ローマ帝国のキリスト教迫害政策は4世紀の初期には行き詰まりがみえ、寛容への動きも出ていた(311年のガレリウス帝の寛容勅令など)。しかし、このいわゆるミラノ勅令は、帝国が単なる寛容の域を超えて、キリスト教との融合の方向へ決定的な一歩を踏み出したことを象徴する点において、歴史の転換点ともいうべき重要な位置を占めている。
[出崎澄男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
(略)
世界大百科事典(旧版)内のミラノ勅令の言及
【キリスト教】より
…なお,大迫害の原因は不明である。キリスト教徒迫害 313年,コンスタンティヌス大帝とリキニウス帝が出した〈ミラノ勅令〉によって,キリスト教は帝国内の公認宗教の地位を得た。これをキリスト教の勝利とするのは早計に過ぎる。…
【キリスト教徒迫害】より
…しかし帝国西方ではさほどはげしい迫害はみられず,とくに西方にマクセンティウス,コンスタンティヌスが立って寛容策をうち出して,迫害は東西の政治抗争の具となった。迫害帝ガレリウスは311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ,その後の抗争に勝ち残ったコンスタンティヌスとリキニウスが312年のミラノ会談の合意に基づいて313年に東方に勅令(ミラノ勅令)を発して宗教自由の原則をみとめ,キリスト教会への没収財産返還を命じた結果,ローマ帝国の迫害政策は終りを告げた。以後リキニウスや〈背教者〉ユリアヌスによる短期間の迫害は行われたが,キリスト教徒は皇帝の庇護を受け,国家宗教への道を歩んでゆくのである。…
” ※着色は引用者
311はキリスト教にとって特別な数字だ。
)
H・G・ウエルズが『世界史概観』で記しているように、コンスタンティヌスはキリスト教を「人々の意志を使ってコントロールする手段」としたのかもしれない。だが、宗教を好まなかったウエルズにとって、コンスタンティヌスの治世は、「戦争、こっぴどい神学、そして人類の相変わらずの悪徳」のいまひとつの事例にすぎなかった。
アリウスは、イエスは神と同本質ではないと教えたアレクサンドリアの司祭である。彼は、聖なる三位一体をネオプラトニズム的な見地から捉えようとした。これは初期の教父たちにもさかのぼる考えで、父なる神はあらゆる属性を超えたなにかまったく異なる性質をもち、子なる神はなにかずっと人間的なものだ、と考える一見まったくもって合理的な見解であった。このアリウス説は、公会議で異端と宣言され、アリウスは破門を宣言され、追放された。コンスタンティヌスの妹のコンスタンチアは、アリウスをコンスタンティノープルに呼び戻すことに成功しかけたが、運命はやはり彼に味方しなかった。アリウスは、彼が教会に戻ることを許可する妥協的な合意に署名するために戻る道中で、路上に倒れ、亡くなった。
第4章 失われた王国─キエフ陥落ののち
第5章 モンゴルからモスクワ国家へ─宗教的植民とロシアの建設者たち
第6章 雷帝とその苦渋の時代─黙示録的期待
第7章 西欧への窓─近代化への使命
p.296から
図29 ピョートル大帝(画家デラロシュによる肖像画)
ピョートルの成功は、彼の西ヨーロッパへの旅、すなわち1697年から翌年にかけて彼が企てた「大使節団」の旅のあいだに彼が学んだことに多くを負っている。この視察旅行によって、彼は、西ヨーロッパを訪れた最初のロシアの支配者となった。ピョートルは変装して旅し、オランダとイギリスで一年を過ごし、造船を研究した。工場や武器庫、学校、図書館、博物館を訪問し、できるかぎり実際に手を使って技術を学んだ。
西ヨーロッパへの視察旅行のあいだに、彼が遭遇したらしきもうひとつのものは、彼がロシアに導入したと言われるフリーメーソンであった。多くの歴史家がこの物語は神話だとしているが、彼が英国滞在中にメーソンの支部(ロッジ)に入門したという説は、根強い支持を受けている。いくつかの説によれば、ピョートルは建築家クリストファー・レンからイニシエーションを受けたとされる。もっとも、レンがメーソン員だったことにも、ピョートルがそうだったのと同じくらいの疑問の余地がある。この説を批判する人々は、1698年には、英国のメーソン本部(グランド・ロッジ)がまだ存在していなかったことを指摘している。英国グランド・ロッジが設立されたのは、ピョートルによる訪問のずっとあとの1717年だった。だが、ピョートルがロンドンでメーソン員に出会った可能性は高いとほのめかす者たちもいる。彼らの指摘によれば、英国グランド・ロッジが設立される以前の「受け入れられた」58 メーソン員たちのロッジにピョートルが入会したという可能性がありえる。このようなメーソン員たちは「1688年の名誉革命ののち隆盛を極めていた」とある歴史家は指摘している。
(
グランドロッジができたことを公式に宣言したのが1717年ってだけでしょ。隠れる必要が完全になくなったから宣言しただけでしょ。なのでメーソン員はそれ以前からいる
)
そうであれば、驚くべきことはない。フリーメーソンは、中世の聖堂建築家たちのギルドから発展したものであった。フリーメーソンが宣言していた啓蒙主義的価値観がピョートルを惹きつけたであろうように、石を「まっすぐ」にし「四角く」するための技術の力の理念―そしてこの力の人間という素材への適用の理念―がピョートルをフリーメーソンに惹きつけたのかもしれない。
58 訳注:伝統的な石工中心のメーソン団にたいして、石工ではなく、哲学的・思弁的な関心から入団する外来者である「受け入れられた」メンバーが中心となった当時の英国で一般的な思弁的なメーソン団のことを指す。英国グランド・ロッジが1717年に成立するまで、英国には複数のそのようなロッジが併存していたらしい。
(訳注終わり)
ロシアに戻るとピョートルは、参事のフランツ・レフォルト(フランソワ・ルフォール)に、みずからが建設しようとしていたサンクト・ペテルブルクにメーソン・ロッジを創設する指示を与えたと言われている。もしこれが本当ならば、ロシアの辛抱強く、かつ惰性的な民衆に、西欧の啓蒙主義的理念を注入し、教会が彼らに対してもっている支配力を削ごうとするピョートルの目標に、メーソンの価値観はうってつけのものだっただろう。科学者のヤーコフ・ブリュス(ジェームス・ダニエル・ブリュス)やスコットランド出身の雇われ軍人パトリック・ゴルドンのような、ピョートルの側近グループの人々も、フリーメーソンとよく一致する関心をもっていた。彼らもロシアにおけるロッジの設立におそらく関与していたようである。
ロシア最初の天文学者であったブリュスは、スコットランドの血を引き、名誉革命にたいする反対勢力であったジャコバイトの陰謀にもなんらかの絡みをもっていた、彼は、錬金術を実践する博物学者で、モスクワでは魔術師としてその名を馳せていた。
[
ジャコバイト:名誉革命(1688-89年)で追放されたイギリス国王ジェームズ2世を支持し、スチュアート王朝の復活を望んだ人々のこと。
スコットランド高地地方がジャコバイトの最有力地盤だった。
ジャコバイトは、1688年のイングランドで起こった名誉革命の反革命勢力。
ワクワクさん
@uxskf
ジャコバイトとジャコバンて名前似てるだけだけどメーソン目線なら繋がってるね
ジャコバイト→ステュアート朝 スコティッシュメーソン ゴルフ シンクレア
ジャコバンはそのまんまグラントリアン
で エリザベスのいとこのケント公は英国メーソンのボスでしょ
午後5:03 · 2024年7月1日
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ワクワクさん
@uxskf
https://en.wikipedia.org/wiki/Serena_Rothschild
最近亡くなったジェイコブロスチャイルドの奥さんがそもそもシンクレア家の人だったはずよ
シンクレア家自体がスコティッシュメーソンの大物一家なわけでロスチャのスタンスもこういうとこで分かる
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en.wikipedia.org
Serena Rothschild - Wikipedia
午前3:20 · 2024年7月14日
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(「Parent(s) Sir Philip Gordon Dunn, 2nd Baronet
Lady Mary Sybil St. Clair-Erskine」とある)
あとはロバートブルースで分かる通りステュアート朝とかね
ロバートブルースの子孫がメーソンの大ボスだったような
ローマ倶楽部のメンバーのドイツのメーソン研究のトップが「スコットランド位階、30階級は赤のフリーメイソンと呼ばれる 赤はステュアート朝の色である」 なんて教えてくれてたりする
午前3:22 · 2024年7月14日
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ワクワクさん
@uxskf
エルギン伯爵の赤い服で草どころか
そもそもフリーメイソンのスコットランド位階33
青に対して上位階級の色である赤はステュアート朝の色って解説していた本があったはず
午前2:18 · 2024年4月30日·1,465 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
赤色なんだよなぁ
ステュアート朝、ジャコバイト、仏メーソンで分かるように赤色ってグラントリアン系が当然大好きなんだけど
午後11:31 · 2024年5月16日
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ワクワクさん
@uxskf
メーソンのオランダ商館の医者シーボルトが地図持ち出したらメーソンのペリーがやってきて開国へみたいなのは当然として
日英修好通商条約のイギリス代表ってテンプル騎士団伝説とかスコティッシュメーソンの大物一族のエルギン伯爵 ブルース家なんだよね
午後7:23 · 2025年2月3日
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それでやって来た初代駐日総領事のラザフォード・オールコックもちゃんとフリーメイソン
結局長崎のオランダ商館がフリーメイソンの活動を開始 コンパス蘭学
明治維新メーソン革命やメーソンのペリー来航からさらにフリーメイソンが活動
西周もオランダ商館が手引きしただろうし
午後7:30 · 2025年2月3日
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https://twitter.com/uxskf/status/1785195764345672110
”ワクワクさん
@uxskf
画像
午後3:33 · 2024年4月30日·891 件の表示”
(画像より:
スコットランド位階:フリーメイソンの歴史においては、伝統的な「ヨハネの位階」の3つの位階(徒弟、職人、親方。これらは「青のフリーメイソンと呼ばれた)にさらに上位の位階を付け加えた位階を持った組織が現れる。それらは伝統的なスコットランド位階に基づいて3位階に30の位階を付け加えたり、スウェーデン式位階とよばれる12位階であったり、場合によっては90以上の上位位階を持つ組織もでてくる。図はスコットランド位階の33位階図で、それぞれの位階が独自のシンボルを持っているが仕組みは複雑である。これらの上位位階は「赤のフリーメイソン」と呼ばれた。なお赤はスチュアート朝の色である。
画像の文章は以上。着色は引用者。
「出典は何でしょうか? 教えて下されば幸いです」と昔聞いたら答えてくれて感謝↓)
https://twitter.com/uxskf/status/1785267216730263838
”ワクワクさん
@uxskf
著者はみんな大好き人口削減でお馴染みのローマクラブやオカルト女とウェルズが初期に会長やってたペンクラブのメンバーにしてメーソン研究の第一人者
欧州科学アカデミーという事で間違いなくグラントリアンによる陰謀論批判の本である
画像
午後8:17 · 2024年4月30日
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(ヘルムート・ラインアルター『フリーメイソンの歴史と思想――「陰謀論」批判の本格的研究――』の和訳の表紙の画像。
ありがとうございます! メイソンの解説本って玉石混交だろうし、その内ワクワクさんが紹介しているものが知りたいのでありがたいです。
「バリュエル製陰謀論とかの基礎的な話も載ってる」。やっぱりイエズス会は嫌いなんだ(笑))
(上記の続き:)
https://twitter.com/uxskf/status/1785268380783829208
”まぁメーソンが直接書いている陰謀論批判本である
当然バリュエル製陰謀論とかの基礎的な話も載ってるので個人的には初心者にもおすすめ
ただこれを読んであぁフリーメイソンってただの良い組織で陰謀なんてないのね
と思わされる事はないように笑
午後8:22 · 2024年4月30日
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https://twitter.com/uxskf/status/1785268521657872401
"本書は、フリーメイソンの運動が始まったイギリスやフランスの歴史分析から出発しているが、その中心はドイツ語地域のフリーメイソンの分析に当てられている。その理由はフリーメイソン攻撃の陰謀論はとくにドイツにおいて展開していったという歴史があるためだ。
さらに表示
午後8:22 · 2024年4月30日
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https://twitter.com/uxskf/status/1785268693565661229
”本書では、自らフリーメイソンであったフリードリヒ2世(大王)から19世紀における陰謀論の成立についての分析、ナチ時代のフリーメイソンの弾圧にいたるまでが解説されている。
ドイツ中心のメーソン本て日本だと珍しいからそれだけでも読む価値あるよ
午後8:23 · 2024年4月30日
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”
]
フリーメーソンは、のちにエカテリーナ女帝の治世にひとつの政治的な争点となり、ロシアのフリーメーソンたちは、政府に自分たちの活動を禁止しないように請願するために、ピョートルその人がロシア・フリーメーソンの創始者なのだとしばしば主張することになった。
p.312から
ロシアで「唯一の精神的・社会的な運動」としてのフリーメイソンがもたらしたもの
エカテリーナがそれにたいして考えを改めたもうひとつの西欧の影響とは、フリーメーソンの流行であった。フリーメーソンがピョートル大帝によってロシアにもたらされたと言ってよいのなら、エカテリーナの治世には、それはたしかに根を下ろしたと言うべきであろう。ピョートル大帝の入会が疑わしいものであり続ける一方で、ほとんどの歴史家たちは、ロシアのフリーメーソンの発端を、外国に派遣されてそこでフリーメーソンに出会い、それを持ち帰ったロシアの士官たちに結びつけている。そして、その公式の受容の功績は、1731年に英国グランド・ロッジによってロシア支部の長に任命されたジョン・フィリップ大尉の名前に帰されている。1740年には、さらにロシア地方本部長(グランド・マスター)としてジェームズ・キースが華やかに就任すると、その会員名簿はいっそう大きなものになった。
だが、貴族の同好クラブのようなものでない、なにか重大な霊性的、そして倫理的な探求としてのフリーメーソンは、エカテリーナの治世の初期まで、ロシアに根付くことはなかった。それまでそれは社会的なステータス以上のものではないと考えられていたのである。ベルジャーエフは「ロシアの最良の人々がメーソン員だった」と記している。だが、1770年代になると、フリーメーソンにたいする態度は、ヨーロッパでもロシアでも変化していた。ロシアでのこの変化にもっとも寄与した人物は、しばしばロシア最初のジャーナリストとして紹介されるニコライ・ノヴィコフである。彼は、篤志家、教育家、そして出版者であり、ロシアにおける啓蒙主義の代表的人物のひとりであった。
すくなくともベルジャーエフの記すところによれば、18世紀に生じた教会の影響力と権威の減退につれて、フリーメーソンはロシアで「唯一の精神的・社会的な運動」となった。民衆を伝統的な宗教が支配し続けるかたわら、勃興しつつあった「啓蒙された」貴族階級のあいだでは、フリーメーソンの理念は、彼らの啓蒙的な霊性への欲求、そして教会がもはや彼らに与えてくれないようななにか高貴な理想と道徳的な指導にたいする欲求を満たすようになった。そして、初期のフリーメーソンのロッジは、ベルジャーエフが指摘するように、国家や教会に押しつけられたものでないロシアにおける最初の自由に結成された結社であった。そこで人々を結びつける力は、法やドグマ的教義による拘束ではなく、思想の魅力であり、また生活にたいするより高貴なヴィジョンへの欲求であった。そういう自由や好奇心はロシアではなにか新しいもので、権力はすぐにそれに憂
(ここからp.314)
慮の念を抱くようになった。常に権力がそうであるように、彼らは自分たちにチェックされていないものは、遅かれ早かれ危険なものになるにちがいないと信じたのである。
ニコライ・ノヴィコフは、エリザヴェータ女帝の教養への情熱の産物である。ノヴィコフは、モスクワに近いブロンニッツァ村の近くに1744年に生まれた。彼は、エリザヴェータの命令で科学者ミハイル・ロモノーソフによって1755年に開設されたモスクワ大学に付属するギムナジウムで学んだ。官途についたノヴィコフは、1767年、エカテリーナがロシアの法を啓蒙主義の精神で改革したいと願って開いた立法委員会に参加した。エカテリーナの「訓令」に見出した進歩的理念に鼓舞されて役職を退くと、彼は出版業に乗り出し、有名な雑誌『働き蜂(トルチエニ)』をはじめとする自分自身の風刺雑誌をスタートさせた。また『モスクワ報知(モスコフスキエ・ヴエドモスチ)』紙の編集者にもなった。ノヴィコフはエカテリーナのあらゆる改革の実行の失敗、宮廷の虚飾、そしてエカテリーナの「フランスかぶれ」を辛辣に批評し、ロシア社会の深刻な後進性を論じた[39]。当初は、彼の知性とひらめき、そして情熱がエカテリーナの好意的な反応を引き出し、エカテリーナは論争を楽しんだ。彼女は、彼と機知を競うために自分の雑誌すらスタートさせた。だが、エカテリーナの反応が好ましいものでなくなるのに、それほどの時間はかからなかった。
(ここからp.315)
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十
62 訳注:一七七九年、ノヴィコフは「モスクワ報知」紙とモスクワ大学付属印刷所を十年契約で借り受け、新聞の部数を数倍に倍増させ、さまざまな付録を刊行し、同紙の黄金時代を築いた。
(ここまでp.315
ここからp.316)
五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。エカテリーナがフリーメーソンに疑惑を抱いた
(ここまでp.316。
原注
第7章
p.694
40 Lachman, The Dedalus Book of Literary Suicides, pp. 50-52.
p.693(左から右なので頁数は減っていく)
41 Blavatsky, H.P.B Speaks, vol. Ⅱ, p. 63.
42 Goodrick-Clarke, Helena Blavatsky, p. 3.
43 Lachman, The Dedalus Book of Literary Suicides, pp. 50-52.
44 Lachman, Madame Blavatsky, p. 20.
参考文献一覧
p.709
Blavatsky, Helena Petrovna. H.P.B. Speaks. Vol. 2. Edited by C. Jinarajadasa.
Adyar: Theosophical Publishing House, 1951.
p.708
Goodrick-Clarke, Nicholas, ed. Helena Blavatsky. Western Esoteric Masters Series.
Berkeley, Cal. : North Atlantic Books, 2004
ここからp.317)
理由のひとつは、まさしくこのフリーメーソンの政治的な関与であった。
もっとも、ノヴィコフ自身は、革命より改革により関心をもっていた。彼は、エカテリーナが正しいとわかっているが国政に反映させようとはしない啓蒙主義の理念を広げる啓蒙活動家であるとみずから任じていた。彼はこの活動を新聞や雑誌をつうじて、そして自分が女性や子どものために創刊した雑誌をつうじて進めた 63 。シュヴァルツやイヴァン・ロプーヒン、セミョーン・ガマレヤ、そしてとくにアレクサンドル・ラブジンのようなほかのフリーメーソンのメンバーがフリーメーソンのエソテリックな奥義を追及した一方で、ベルジャーエフが指摘しているように、フリーメーソンの神秘的側面は、その道徳的、社会的側面ほどにはノヴィコフの関心を引かなかった。フリーメーソンの進歩的で人文主義的な側面こそがノヴィコフの欲求に応えたのであり、このような環境にこそ、次の世紀のインテリゲンツィアたちが生まれる種が蒔かれることになった。
ノヴィコフの活動がもたらした成果のひとつは、批評家アレクサンドル・ラジシチェフが著した『ペテルブルクからモスクワへの旅』であった。この著作は一七九〇年に世に出されたが、エカテリーナがそれを読むやいなや禁書となり、それがふたたび出版されるには一九〇五年を待たねばならなかった。ラジンチェフは、ノヴィコフの出版活動にこそきっかけを得たのであり、彼のこの想
63 ある意味で彼は、ボヘミアの知識人のひとりチェコのヨハネス・コメニウスに似ているように見える。コメニウスは十七世紀初頭に「普遍的改革」への薔薇十字団の特別の呼びかけに応え、中央ヨーロッパで「普遍教育の父」と呼ばれている。
(ここまでp.317)
(ここからp.318)
像上の旅は、エカテリーナがなにもしようとはせず、それどころかある意味で、いっそう悪化させている膨大な社会的、経済的、政治的な問題に苦しむロシアの本当の姿を描いていた。彼女はこの著作を没収し、ラジシチェフを逮捕した。彼は最初死刑を言い渡されたが、その後、シベリア送りに減刑された。のちに彼は、ロシアでは、どのような改革もおこなえないことに打ちのめされて、みずから命を断った 64 。
ノヴィコフは当時の哲学者たちの無神論に当惑し、フリーメーソンの理念の中に、教会のドグマと伝統に縛られず、かつ啓蒙主義的な合理主義に対抗するうえで役に立つ霊性的な信念を見出した。ノヴィコフにとって、宗教と科学はひとつの真理の二つの側面であり、両者のあいだに葛藤はないはずであった。これは、十六世紀初頭の最初の薔薇十字団を奮い立たせた理念であり、多くの人々が信じるところによれば、フリーメーソンはこの薔薇十字団の残骸から生まれた。この信条はまた、ブラヴァツキー夫人の神智学協会の中心的なドクトリンでもある。公式の教会は、多くの人々にとって真の霊性の源泉としての威信を失っており、フリーメーソンは教養ある階級の人々にとって、異端的セクトが無学な大衆のあいだでそうだったように、この霊性的な隙間を埋めるものとして登場したのである。
ノヴィコフは、哲学者たちとはちがって、宗教そのものを攻撃するような意図はまったくもっていなかった。モスクワ府主教プラトンは、エカテリーナに「ノヴィコフのようなタイプのキリスト教徒が世界中にいるように」祈っている、と告げた。ノヴィコフは、彼のフリーメーソン的な
(ここまでp.318。ここからp.319)
信条が、いかなる意味でも自分のキリスト教的信条に矛盾しないことを証明しようとして骨を折った。彼によれば、ロシアのフリーメーソンに影響を与えたヤーコブ・ベーメやエマニュエル・スウェーデンボリが教えたように、自然の世界と霊的な世界のあいだに「照応」や「象徴」を読み込むことによって、一種の「内的な光」―先に言及したソラ川の聖ニールやそのほかのヘシカストたちが見たもの―を見ることができるのであった。ある意味で、ノヴィコフにとってフリーメーソンは、キリスト教に代わって、ベルジャーエフが「ロシアの魂」の一部分だと見なしたロシア的な「聖なる真実の探求」の中心になるものであった。当時のほかの人々も、フリーメーソンにそういう役割を求めていた。また、ノヴィコフの活動はモスクワを基盤にして展開され、そうすることでサンクト・ペテルブルクが広げる価値観にも対抗していた。この特徴は、この対立が、ロシアの魂を二極化する緊張の反映であり、それが、境界を超えた向こう側の世界に手を伸ばそうとするロシアの魂の根本的な欲求、自分たちが現世の向こう側の世界とつながっていると感じたいという欲求の地理的な現れであることを示していた。そして、このなにか「向こう側」にあるものへの欲求は、次の
64 訳注:アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ラジシチェフ(一七四九~一八〇二)は、シベリア流刑ののちも哲学、化学、民俗学の活発な研究活動を続け、ロシアで最初の世俗的哲学書と呼ばれる『人間について、その死と不死について』などの著作を執筆した。エカテリーナ女帝の死後、パーヴェル帝に許され、シベリアから帰還し、さらにアレクサンドル一世のもとで首都居住を許されて、新法立案委員会に招かれた。しかし、委員会で提案した農奴制廃止論を危険視されたことから、再逮捕を恐れ、自殺した。
(ここからp.320)
世紀にはもっと切迫したものになろうとしていた。
だが、フリーメーソンにたいする姿勢は変わりつつあった。イルミナティの活動をとおしてヨーロッパの王政を転覆し、理性と啓蒙の光の王国を打ち立てようとするアダム・ヴァイスハウプトの野望―現実的な脅威にはついにならなかった野望―が「摘発」されると、それは、各国の政府に、政治的動機のいかんを問わず、あらゆる結社にたいして疑いの目を向ける姿勢を根づかせた。一七八四年、バヴァリア政府は、イルミナティ、そしてそのほかいっさいの「秘密結社」を非合法化し、ヨーロッパにおけるフリーメーソンの活動に暗雲が立ち込めた。そして、その数年後にフランス革命が起こると、エカテリーナは、ノヴィコフとその著作をはっきりと危険視するようになった。
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。一七九六年にエカテリーナが崩御すると、王座を継承し、フリーメーソンに同情的だったパーヴェル一世は、ノヴィコフを釈放した。だが、彼はその仕事を続けるうえで
(ここからp.321)
の困難にあまりにひどく打ちひしがれていた。彼は、残った人生の時間を抜け殻のような人間として過ごし、一八一八年に亡くなった。
だが、エカテリーナにおける迫害はノヴィコフを狙ったものではなかった。もともとヴォルテールの徹底的な合理主義に啓発を受けた彼女の進歩的見解は、オカルトにかかわるいっさいの事柄にたいする弾圧のきっけになった。何年ものあいだエカテリーナは、オカルト、とくに錬金術の影響が宮廷を腐敗させているという確信を心に抱いていた。そのせいで、彼女は、カリオストロをモデルにした悪漢の登場する戯曲を書きすらした。伝えられるところによれば、エカテリーナは、この悪漢を、彼女の宮廷にその影響力を浸透させようという企てのゆえに「絞め殺したい」と思った。今や、あらゆる魔術、錬金術、ヘルメス学、そして、そのほかどんなオカルト的な実践も、厳しく禁じられた。とくに占いは非合法とされ、ロシアの国民は夢の意味を尋ねさせることも許されなくなった。これは教会すらが試みなかったような、ロシアの魂の魔術的な側面にたいする厳しい抑圧であった。これに似た、同じくらいの規模での試みは、霊性的なものや内的生活を匂わせるいっさいのものを抑圧しようとした一世紀後のボリシェヴィキの政策ぐらいのものであろう。だが、そのどちらの場合にも、その弾圧の対象はけっしてなくならず、それまでもそうだったように、それらはただ地下へ潜っただけだった。
(以上で、p.321までのメモは終わり)
[
”
一七七五年、ノヴィコフは、フリーメーソン・ロッジに入会した。当時のロシアでもっとも重要なロッジのひとつは、一七五〇年代にドイツでカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立された「ストリクト・オプセルヴァンス(厳修派)」のもので、英国由来の穏健なフリーメーソンよりもいっそうエソテリックな性格をもっていた[40]。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、「不可知の長上者」と称される者たちへの絶対的服従の誓いを要求することからこの名を得ている。この神秘的な「長上者」たちは、フント男爵の主張によれば、テンプル騎士団にさかのぼるフリーメーソンの高位のマスターたちであった。「ストリクト・オプセルヴァンス」は、錬金術や魔術、カバラ、そしてヘルメス学の研究を含む、より高位のエソテリックな位階を発展させた。宮廷とそのフランスかぶれの機知の軽薄さ、皮相さ、そして不道徳に倦み疲れていた貴族たちの多くがこの理念に惹きつけられ、そこに道徳的な指導のある種の源泉を探し求めた。そういう貴族たちのひとりパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ・ドルゴルーキー公爵は、とくに歴史的な意義をもっていたと言うことができるかもしれない。というのは、彼こそがブラヴァツキー夫人として知られるようになるエレーナ・ペトローヴナ・フォン・ガーンの曽祖父にあたるからである。ブラヴァツキー夫人の語るところによれば、秘教的な叡智を求める彼女の旅の出発点となったのは、まさしく彼女が十五歳のときに発見したこの曽祖父の蔵書だった。そこには「錬金術、魔術、そのほかのオカルト学についての数百冊の書物」[41]が含まれていた。
ブラヴァツキー夫人のこの曽祖父、パーヴェル公爵は、エカテリーナ時代の軍司令官で、ノヴィコフがフリーメーソンの入門儀礼を受けたのとほぼ同じ、一七七〇年代に「ストリクト・オプセルヴァンス」のロッジに入門している。また、パーヴェル公爵が入会したのは、ノヴィコフのモスクワの「ラトナ」ロッジであって、ノヴィコフがモスクワ大学教授で哲学者のイヴァン・シュヴァルツとともに一七八一年に設立したさらに秘密のベールに隠されたグループで、薔薇十字団様式のフリーメーソンをめざした「ガルモニヤ」ロッジにも入っていたかもしれないと推測する根拠もある。それは、秘密結社が栄華を誇った時代であり、カリオストロやサン・ジェルマン伯爵―パーヴェル公爵も彼らに会っていたかもしれない―のようななかば伝説的な人物が方々でイニシエーションを授けながら大陸を駆け巡った時代であった。アダム・ヴァイスハウプトが、ドイツのバヴァリアに設立した啓明結社(イルミナティ)のようなグループが、フリーメーソンの同志たちから多くの要素をその政治的理念に取り込んだのもこの時代であった[42]。そして「ストリクト・オプセルヴァンス」派のフリーメーソンそのものが、失敗したジャコバイト運動に含まれていた急進的で破壊活動的なロッジから出現したものであった[43]。ブラヴァツキー夫人も、フリーメーソンが重要な役割を果たし、フランス革命の前触れとなった「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変容」に絡む政治的陰謀に彼女の曽祖父自身がかかわっていたとほのめかしている[44]。
(『聖なるロシアの復興』pp.315-316)
(ノヴィコフと、ブラヴァツキー夫人の曽祖父はメーソン)
”
エカテリーナは、バスティーユ監獄の襲撃の知らせ、そしてそれにフリーメーソンやそのほかの秘密結社がそれに責任があるという疑いに危惧の念をつのらせて、フリーメーソンを非合法化し、ノヴィコフとそのほかの指導的なメーソン員を逮捕した(もしブラヴァツキー夫人の曽祖父の「ほぼヨーロッパ全域の徹底的な変貌」への関与が実際にあったとしたら、この嫌疑は正当化されるかもしれない)。ノヴィコフの印刷所、彼の膨大な個人的な蔵書、オカルト、ヘルメス学、錬金術などのエソテリックな文献が没収された(すくなくともブラヴァツキー夫人の曽祖父の蔵書はこの迫害を免れたのであろう)。
”
(『聖なるロシアの復興』p.320)
p.315とp.316の、ブラヴァツキーと彼女の曽祖父とメイソン関連の箇所は気合を入れてメモり間違いが無いか何度も確認した。
p.320の引用箇所もしっかり何度も確認した。
啓蒙主義の影響力が強すぎる。帝政ロシアはフランス語が重視されていたからそりゃそうか。
『働き蜂(トルチエニ)』。ケツ社は蜂が好きなので、名前で「この雑誌はケツ社系だよ」って教えてくれている。
p.315と316のブラヴァツキー夫人の曽祖父(メイソン)の日本語情報が読めて本当に良かった。ブラヴァツキー夫人の曽祖父がメイソンだと日本語で読める本はおそらく本書のみだろうな。
ワクワクさん「ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人」。
逃れられたのは、運が良かっただけなのか、特別に地位が高かったので見逃されたのか不明。逃れたのが完全に歴史の分岐点だな。逃れられなかったら神智学が誕生してないだろうし。
厳「格」派じゃなくて、厳「修」派だったよ。これは見間違えるよね。
ドイツで設立されたのに、「ストリクト・オプセルヴァンス」という英語をドイツっぽく読んだ感じにしている。
ストリクト(厳格な)オプセルヴァンス(順守、宗教的儀式、カトリック修道会の規則)なので訳すと「厳守」とも訳せる。
なぜ厳「修」なのだろうかと思って調べると、フランチェスコ会厳修派(オッセルヴァンツァ)というのが実在するらしいのでこれを参考にしたのかもしれない。
厳しい修行という意味かもしれない。
英語なのは原著が英語だからだろうな。オブザーヴァンス(英語読み)ではなく、オプセルヴァンスなのは和訳の際にドイツ語読みにしたのだろうな。
ドイツ語だと、bが「プ」読み。実例の1つが、Obst(オープスト。果物)。
「strict observance」をドイツ語訳すると、「strenge Einhaltung」。
なので、ドイツ語に全く同じ単語があるのではない。
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595 と続き
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日
·
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ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
·
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ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日
·
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”
シーア兄貴(来世触手)2024/12/13~2025/1/10。あのフラワー(対応人物編)。50ジャー。ブラヴァツキーが元ネタのキャラがいる作品集[悪エリアン時代(TCG)等]
Posted on 2024.12.21 Sat 21:51:58
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-583.html
”たらのめ
@metarano
イランに旅行しているYouTuberとか見てるとあたたかすぎて泣けてくるよ
そしてなんだか自分が恥ずかしくなってくる、日本のおもてなしってなんなんだ…
懐かしい人情味、これも神学が関係しているんだよねきっと
フリーメイソンの手が入ると冷え切ってしまうだろう…思想を残すとはそういうことか
午前4:11 · 2024年12月18日
·
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https://x.com/metarano/status/1869699270070431915
”たらのめ
@metarano
ねここねこさんの分け方が正確なのかな
菊池さんのだと神との合一を英国左派と括ってしまうから混乱する
午後8:00 · 2024年12月19日
·
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”
https://x.com/uxskf/status/1869703386960187516
”ワクワクさん
@uxskf
ねここねこさんと菊池さんの分け方
ってどんな感じだっけ?
英国左派ってスピリチュアルくさいのに白人至上主義とかそこら辺?
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午後8:16 · 2024年12月19日
·
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”
たらのめ
@metarano
菊池さんは、「理性主義(大東社)、神秘主義(英国左派)」=赤、「一神教(英国右派)」=青、で人種観は特に関係ないって姿勢かな?
ねここねこさんは青組も神秘主義なことは前提のような
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午後8:32 · 2024年12月19日
·
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神秘主義を右派左派分けたほうが良いんじゃないかなと思った次第
ナチス的ニューエイジやロシアの工作を英国左派(反米右派=世界連邦)とすることも一神教とすることもおかしいですから
まあそもそも菊池さんは両建ありきですし、あとロシアには少し甘めですね
午後9:30 · 2024年12月19日
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Qアノンを大本教(英国左派)とも分析されていましたしね
これは日本の特殊事例ではなく、英米でもニューエイジ、スピリチュアル、ウェルネスな右翼が台頭しているので単純な誤り
神秘主義の右派左派を区別できていれば、簡単な話
ロシアを見落としたりもしないはず
午後10:33 · 2024年12月19日
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ワクワクさん
@uxskf
スピリチュアルは右派も左派もいるし基本的には現状明確に批判できてるとこはいないよね
たらのめさんはもう調べてると思うけどブラバッキーからシュタイナーまで色んなのが混在してるでしょ
そもそもナチスがそういうものだったし
午後10:53 · 2024年12月19日
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とはいえ明確にキリ右派はスピを嫌うからそこら辺どう折り合いつけてるのかは思うけど
ロシア関連はそもそもウクライナ=ネオナチ論に注目してるだけじゃ何もわからないからね
そもそもプーチンのウクライナに対するイデオロギーなんて千年以上前からのものだし
クリミアの時のウラジミール像とかね
午後10:56 · 2024年12月19日
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ウクライナ=ネオナチってインサイドザリーグって有名な本があるように地理的にもそうなんだけどもう捨てられた側だろうし
ネオどころかそのままナチスが背後の共和党はプーチン側だし石油戦争財閥もウクライナなんかもうゴミ扱いだろうし
元々トランプなんてロシアの傀儡なのは有名だけどね
午後11:00 · 2024年12月19日
·
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(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1869746389359698123
”ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人
その彼の大量のオカルト、メーソン蔵書を見つけるところからブラバッキーがオカルトの道へ
午後11:07 · 2024年12月19日
·
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”
(マジで? 出典が知りたいです。ブラヴァツキーが突然出現した異常個体ではないってことじゃん
)
って感じだから神智学もメーソンもロシアは必修分野なんだけどあんま開拓されてない
ロシア関係の話はこの界隈も少ないかもね
大本は左右の闇鍋だけど赤側でQアノンはロシアと同じ枠の青 そんな感じかなぁ
ネオナチに終始しなきゃいいよね
露のトラやアメリカへの工作員などすぐ分かるはずだし
午後11:12 · 2024年12月19日
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[
「ついでにロシアとスピリチュアルの話だとブラバッキーの曽祖父はメーソンで厳格派とかノヴィコフとかそこらへんの人だったんだけど
当時エカテリーナのメーソン弾圧の時にも逃れたりしてる人
その彼の大量のオカルト、メーソン蔵書を見つけるところからブラバッキーがオカルトの道へ」が気になりすぎる。
「菊池さんは、「理性主義(大東社)、神秘主義(英国左派)」=赤、「一神教(英国右派)」=青、で人種観は特に関係ないって姿勢かな?
ねここねこさんは青組も神秘主義なことは前提のような」
「明確にキリ右派はスピを嫌う」
私はロシアについてはマジで分からない。今現在は特に動きが激しいので更に分からない。
ロシア、正教、イスラームはわからないので私は扱わない方針。
多少知っている程度では、責任をもって言えないからね。
断片的にはブログで扱うけど、ご支援用記事に書いている勢力図に組み込めるほどには理解できていないよ。
改造版キリスト教=新キリスト教。
青組の福音派などの聖書維持派(改造版キリスト教の霊性進化論などを否定)は、赤による青潰しですでにかなり弱っていると考えている(とはいえ無視はできない)。
霊性進化論肯定派が青でも主流になっているだろうな。霊性進化論を肯定ってことは神智学肯定だし、神秘主義も肯定。
大雑把に言うと、赤も青もスピ(改造版キリスト教)だらけ。
青系の創作物も霊性進化論肯定ばかり(欧米はともかく、日本では赤も青も神智学肯定)。
青系の有名作品の一部を列挙:
ドラゴンボ-ル、龍クエスト、ク□ノトリガ-、
海賊王、ブリー血、運命巻戻シ、
忍者ナルト叙事詩、チェンソ-男、H(ハイル)×H(ヒトラ-)、
呪術海鮮、FG○、徐々の奇妙冒険、
汚(お)しの子、葬送フリ-レン、あのフラワー(あの日見た花のネームをオルコット大佐達はまだ知らない)
など。
上記は全て、改造版キリスト教系であり、聖書絶対維持思想ではない(福音派は日本ではウケないだろう)。
例えば、海賊王とチェンソー男って「悪魔の力で戦う」からどう見ても福音派など聖書維持派閥ではないよ。改造版キリスト教(青)だよ。
『海賊王』の主人公のルフィの最強形態が白いハヌマーンだからどーみてもアーリア白人妄想(青く染めた神智学)。
ブリー血は、ユーハバッハ(YHVH。ヤハウェ)が強敵だから露骨にグノーシス主義だ。
ショッカー(青組)に脳改造手術を施された、霊性進化論肯定派
対
トウエイ(赤組)に脳改造手術を施された、霊性進化論肯定派
ショッカーもトウエイも源流は、元祖 霊性進化論 女(ブラヴァツキー)なので、思想と構造(システム)が支配層の本体。
支配層の本体=思想・システムの核はバラモン・ゾロアスター教を その子孫である耶蘇と新ヤソ神学。
福沢諭キチと渋沢帰一(栄一のこと。帰一協会)の極悪さを合わせてもブラバツキー(神智学協会の創設者の1人。元祖 霊性進化論 女)の極悪さには及ばないから恐ろしいよ。
ブラヴァツキー生存時代の神智学は赤か青かというと赤寄りであることには注意ね(初期はエジプト強調。『ヴェールを脱いだイシス』。既存の伝統的なキリスト教を否定。科学を強調)。
明確に赤くなったのはベサントが強くなった後だろうね。
ベサントとリードビーターは一組なので、ついでにリードビーター(レッドビーター)について書いておく。
[魔術人名録の、リードビーター(レッドビーター。1847-1934)の日本語解説記事↓]
Leadbeater, C.W.
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/LEADBEAT.htm
肛門とかアナルとか露骨な表現をせずに表現しているが、糞さを隠せてないな。こいつって霊視(特にオーラ観察)の達人だったから、霊的階級(レベル)が神智学内では上の方。よって「性加害者であることと、神智学的に霊的地位が高いことは両立する」って証になる。嫌な証だな。
ブラヴァツキーは人類史でも有数の極悪思想を生んだが、リードビーターは彼女とは別の方向で糞すぎるな。せっかく退会させることに成功したのに復帰させたベサントもまた糞である。ミード派は性加害者に反発しているという意味ではまともである(思想的にはこちらも極悪なんだけどな)。
https://x.com/uxskf/status/1788812856655487243
”ワクワクさん
@uxskf
チャクラと言えばのリードビーターさんのありがたいメーソン流肉体の秘技
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画像
午後3:06 · 2024年5月10日·3,379 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788813431832973472
”ワクワクさん
@uxskf
ちなみにこのリードビーターさん
チャクラの7色やオーラの流行で分かるようにヨガやスピリチュアル界隈でとてつもない影響を及ぼしているのだがジャニー喜多川疑惑を神智学内部からかけられたりしている
午後3:08 · 2024年5月10日·647 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788814480639713489
”そんな彼は少年達にエッチな事をしていた疑惑からか下から2番目の生殖器付近のチャクラに関する部分を捏造していたり結構大変な事をしている
彼によるとスワーディシュターナ・チャクラは極めて危険らしく目覚めると性欲が暴走したりするらしい
(カルト宗教の教祖の性欲暴走かな?)
午後3:13 · 2024年5月10日·661 件の表示
”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788815459732844717
”なのでこの生殖器付近のチャクラ関連はとりあえずちゃんとした指導者の下でやりましょうというのがとりあえず言われてるみたいだが
まぁそんな事知られる事もなくチャクラを開く!だかやってるのが多いね
さらに表示
午後3:16 · 2024年5月10日·966 件の表示”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1788815851917017563
”そんな彼もアニーベサントの右腕で分かる通り共同メイソンに加入していたはず グラントリアン系でしょうけどね
午後3:18 · 2024年5月10日·800 件の表示
”
[魔術人名録の、アニー・ベザント(1847-1933)の日本語解説記事]
Besant, Annie
http://www.elfindog.sakura.ne.jp/BESANT.htm
を読むとベサントは赤属性が強いと分かる。
ベサントって神智学信者になる前は無神論者だから最初からグラントリアン思想傾向。
ベザントを嫌う神智学協会員が多かったせいで神智学協会分裂の原因になっている。
ベザントはリードビーターと共に、世界的宗教を目標として動く。それはブラヴァッキー型神智学から脱することでもあるので、そりゃ分裂するよね。
女権論者のベサントは、女性の参入を認めるメイソン組織を作っている(この組織の認可状はフランスのグランドロッジが出した。英国のユナイテッド・グランドロッジは認めていない)。
フランス系(赤傾向)と英国系(青傾向)の対立がここに見られる。
1909年2月、ミードと神智学協会の英国支部の約700人の会員は、アニー・ベサントがリードビーターを協会の会員に復帰させたことに抗議して辞めた。
リードビーター(レッドビーター)は1906年にアメリカの神智学徒の息子らにオカルト訓練と称し自慰をさせたことで糾弾されたりもしているから反発は当然だな。
1909年3月にミードは150人の神智学協会からの脱会者と新たに加わった100人で
クエスト協会(Quest Society)を設立。
おそらく、ドラゴンクエストの元ネタ。ゲーム漫画アニメ業界は神智学が大好き。
以上を踏まえたうえで、『あのフラワー』について重要なことが分かったことを伝えておくよ。
この作品は、ブラヴァツキー(めんま)の死後に分裂が激しくなった神智学界に「仲良くして」って伝える内容だ。
めんまにロシア人の血が混じっているから露骨だよ。
「あなる」ってかわいそうなあだ名の女の子がいるじゃん?
アナルで神智学といったらリードビーターだよね。
おかげで、それぞれ誰が元ネタか(確定ではないけど)分かったよ。
どうみてもこの人に対応しないと思ったら、教えて下さい。
リードビーターによる性加害の被害者もクエスト協会にはいただろうから、あなるはミードとミード派が元ネタなのだろうな。
リードビーターに対応するのはゆきあつ。
つるこの没設定に腐女子というのがある。腐女子って男同士のあれやこれやが好きってことだ。没設定だが、ゆきあつがリードビーター説を補強するものとなっている。
あのフラワーにおいて、ゆきあつとつるこは一組として描かれているから、リードビーターとベサント。リードビーターとベサントは一組なので。
めんま(メインヒロイン)はブラヴァツキー。
主人公(じんたん)はオルコット。
オルコットもジャッジも神智学協会の創設に関わっている。オルコットとジャッジは弁護士仲間。神智学協会創設や弁護士仲間だったことが、未来のじんたんとぽっぽが二人で会社を作って経営していることの元ネタだろう。
オルコットの生存期間(1832-1907年)と、ジャッジの生存期間(1851-96年)を比較すると、オルコットが年上。ぽっぽが弟分であることの元ネタだろう。
神智学協会第1号はアメリカで設立された。オルコットとブラヴァッキーがインドに移ると、米国神智学協会を任されたのがジャッジ。
ぽっぽが秘密基地で暮らしていることの元ネタだろう(神智学ができたアメリカが拠点という意味)。ぽっぽは秘密基地に残った。ジャッジはアメリカに残った。
秘密基地は単に神智学協会第1号だけでなく、「ブラヴァツキーの死後に起きた分裂前の神智学協会」を象徴しているのだろうな。
ぽっぽが世界中を放浪している設定は、ジャッジが色々な国に行っていることが元ネタだろう(ジャッジ以外の神智学の重鎮も色々な国に行っているけどね)。
以上より対応は、
めんま…ブラヴァツキー
じんたん…オルコット
ぽっぽ…ジャッジ
あなる…ミード(派。クエスト協会)、リードビーターの被害者
ゆきあつ(めんまに女装する変態)…リードビーター
つるこ…ベサント
主にワクワクさん宛てにあのフラワーについて書いたのだが、ワクワクさんってあのフラワーを視聴済みか分からないんだよな。
ワクワクさんなら、もっと露骨に当てはまる大物がいる場合、気づいてくれそうなので公開記事で書いたよ。
略称は『あの花』↓
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A6%8B%E3%81%9F%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%82%92%E5%83%95%E9%81%94%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82
https://x.com/anohimita_bot/status/1632134536023912448
”あの花雑学bot
@anohimita_bot
めんまの花=勿忘草(ワスレナグサ):花言葉は「私を忘れないで、真実の愛、真実の友情」。
画像
午前6:42 · 2023年3月5日
·
67
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”
あのフラワーについては終わり。
[中略]
https://x.com/uxskf/status/1875588408929874186
”ワクワクさん
@uxskf
ブラバッキーが元ネタのキャラってほぼ知らないね
神智学影響下のキャラなら腐るほど居るけど
やっぱ直接的には扱いにくいと思うなぁ
FGOはそのまんま出したみたいだけど
大物だし本人が特殊すぎるのもあって難しいと思うなぁ
午前2:01 · 2025年1月5日
·
35
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”
[
FGOはよくそのまま出せたなあと思うが、ブラヴァツキー時代は本格的に赤組や青組の政治活動はしてない(はず)だからいけたのかもね。どちらかというとブラヴァツキーって思想的には赤寄りだよなあ。
赤は青よりも積極的に聖書思想を改造すると私は考えているので。
最初の方のブラヴァツキーは明らかにエジプト重視なのも、赤寄りと判断している理由。
明らかに赤いベサントはさすがにFGOには出ないだろうな
]
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日
·
44
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”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1875591846749204538
”ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
·
48 件の表示”
https://x.com/uxskf/status/1875594045885714735
”ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日
·
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”
[
情報感謝!
ブラヴァツキーは突然発生した例外個体じゃないってことだな。
神智学という極悪思想が誕生したのは結局メイソンのせいじゃねーか!
英語版ウィキでブラヴァツキーの両親の記事を読んだことがあるのだが、ブラヴァツキーって貴族の血筋だよね。
ロシデレの主要キャラの社会的地位が高い理由だろうね。
ブラヴァツキーと久世氏と岸信介と佐藤栄作について学ばないと深く考察できないラブコメってなんだよ!(笑)
「ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて」って本人も隠す気がないな。
リンク先の一部のDeepL和訳を先に示す。原文は後。
「彼女の曽祖父であるパーヴェル・ワシリエヴィチ・ドルゴルーコフ公は、エカテリーナ大帝の治世の少将であった。彼は神秘主義者であると同時にフリーメーソンでもあり、ロシアでは厳格遵守の儀式のメンバーだった。この儀式は1750年代にカール・ゴットリープ・フォン・フント男爵によってドイツで創設されたもので、18世紀の出来事を密かに指揮していた謎めいた人物である特定の「未知の上位者」への信仰と服従を中心に組織されていた。」。
いきなりすごいな(笑)
「ヘレナ・ブラヴァツキーが育ったのは曽祖父の家であり、彼女が多くの時間を読書と学習に費やしたのは彼の書斎であった。
「彼は、錬金術、魔術、その他のオカルト科学に関する何百冊もの本を収めた奇妙な図書館を持っていた。私は15歳になる前に、それらを熱心に読みました。やがてパラケルススもクンラートもC.アグリッパも、私に何も教えてくれなくなった」。
彼女は神話学、グノーシス主義、薔薇十字教、占星術、神学、その他多くのオカルト的主題に触れた。」
神学は誤訳だな。Theurgyだから接神術(テウルギア。theourgia)だろうな。
神学だとtheologyだ。
「3ヵ月後、ブラヴァツキーは結婚生活に不満を抱き、夫に解放を求めた。夫はこれを受け入れ、妻を武装した護衛とともにクリミアに送り、家族のもとに帰した。冒険への欲求に駆られた彼女は、旅の仲間から逃れ、船の船長を買収し、若い頃に読んだ古代の探検家たちの足跡を追ってコンスタンチノープルまで船旅をした。コンスタンチノープルからカイロに向かったブラヴァツキーは、そこで偶然にもブラザー・アルバート・ローソンと出会った。
アメリカの有名なフリーメーソンであり秘教主義者であったローソンは、ブラヴァツキーと同じようにオカルトに傾倒していた。彼は自由思想協会のメンバーであっただけでなく、神秘宮貴族騎士団の創設者の一人でもあった。ブラヴァツキーは生涯を通じて、ブラザー・ローソンのようなメーソンの知的で神秘主義的なエリートの著名なメンバーと交際した。」。
コンビニみたいな名前だなと思ったが、Brother Albert Rawsonなので、LAWSONではない。
「その後、彼女は数年間ロシアに戻り、最終的にイタリアに渡って、著名なフリーメイソンであり、イタリアのグランド・オリエントのグランド・マスターであったカリスマ的なブラザー、ギゼッピ・マッツィーニと出会った。二人はすぐに親しくなり、フリーメーソンの深い秘教的起源について深い理解を共有した。マッツィーニの弟子たちの中で、ブラヴァツキーは、同じくアメリカのフリーメイソンで、スコティッシュ・ライトの南部管区の事務総長補佐であったブラザー・チャールズ・ソザランと出会った可能性が高い。」
the Grand Master of the Grand Orient of Italyなので確かにイタリアのグラントリアン。
あ、チャールズ・サザランだ。サザランはthe Scottish Rite。スコットランド系。
ということは、ブラヴァツキーは明らかに赤属性が強い組織の影響を受けている。
ギゼッピ・マッツィーニはグラントリアンだが別にオカルト否定ではなさそうだな。でないとブラヴァツキーと親しくはならないだろう。
グーグル検索より
”
闇戦争と隠秘主義 : マダム・ブラヴァツキーと不可視の聖地 ...
みんぱくリポジトリ
https://minpaku.repo.nii.ac.jp › record › files
杉本良男 著 · 2015 — ... チャールズ・サザランの影響. が大きく,実質的な著者をサザランに帰するむきもある(Washington 1946: 52)。また,. 長年の知己であるローソンや ...
44 ページ
”
リンク先より、
”
こうして,『ヴェールを脱いだイシス』は 1877 年 9 月に J. W. Bouton から出版された。『イシス』は,2 分冊 1,200 ページあまりの著作で,基本的に古代ヘルメス哲学の
復権を図ったものとされ,西欧の秘教や隠秘主義の伝統をひいている。そこでは,世
界の全ての宗教には共通の源泉,古代叡智宗教があるとされ,それがヘルメス哲学に
求められている(Lachman 2012: 155–156; Goodrick-Clarke 2004)。この共通の源泉を
「失われた」古代の叡智に求める姿勢は終始一貫しているが,それが次第にヘルメス哲学からチベットへと移っていく。
『イシス』は,全体にエジプト・オカルティズムの解説が中心になっていることから,薔薇十字会員にしてフリーメーソンリーでもあったチャールズ・サザランの影響が大きく,実質的な著者をサザランに帰するむきもある(Washington 1946: 52)。また,長年の知己であるローソンや,英語の校閲を担当したというオールコット,同じく英文校閲を行ったアレクサンダー・ワイルダー(Alexander Wilder, 1823–1908)教授などが実質的な著者だとする説も有力であった。さらに,同時期のブリテン女史の『人
工魔術 Art Magic』と同一のソースに基づいていたことも指摘される(Ransom 1938:
96–97; Godwin 1995: 305; cf. Wilder 1908)
” ※着色は引用者
サザランが思ったよりも重要人物だな。
Isis Unveiledが出たのは1877年って覚えやすいね。18も77もケツ社好みの数字だ。77年は狙ったかもな。
「数々のオカルト的実践や伝統の入門者であり弟子であったブラヴァツキーは、フリーメーソンの養子儀礼のブラザーにもなった。1877年、当時の著名なフリーメーソンでありオカルティストであったジョン・ヤーカー大管長(Sovereign Grand Master John Yarker)は、ブラヴァツキーにメイソンリーの古代原始儀礼の学位を授与した。
1877年11月24日付のブラヴァツキーのメーソン証書には、次のように記されている:
「われら、三位一体の神聖なるグランド・マスター・ジェネラルは...われらの輝かしい啓蒙の兄、H.P.ブラヴァツキーが、アプレンティス、コンパニオン、パーフェクト・ミストレス、崇高なるエレクト・スコッチ・レディ、グランド・エレクト、シュヴァリエール・ド・ローズ・クロワ、アドナイト・ミストレス、パーフェクト・ヴェネラブル・ミストレス、そして養子縁組の儀式の戴冠されたプリンセスであることを宣言し、宣言する」
これらの養子縁組の位階は、女性がスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの謎を研究し、解き明かすために特別に設けられたものである。旅行、勉強、曽祖父の蔵書へのアクセス、そして多くの著名なメイソンとの親しい交友関係から、ブラヴァツキーはこれらの学位を受ける前から、おそらく当時のほとんどのメイソンよりも多くのことを学んでいたと思われる。」
ブラヴァツキーって、女性なのにスコティッシュ・ライト系の位階持ちなんだ。特別待遇なのは、曽祖父がメイソンなのも理由なんだろうな。
以下の原文のクラフトってメイソンって意味だよ。
『「魔術」は英語の家庭教師』にそう書いている。
『高等魔術実践マニュアル』(入門書)、『黄金の夜明け魔術全書』(教科書)、『「魔術」は英語の家庭教師』(入門書)
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-346.html
”Craft 技術、手際、フリーメーソン、魔女術
通常、the Craftときた場合は、フリーメイソンリーを示します。ようするに職人さんのイメージからくるのですが、最近ではウィッチクラフトのクラフトを示すことが多くなりました。
temple 儀式場、支部 通例「聖堂」「寺院」
魔術結社の組織の全体をThe Orderと称し、その中にいくつもの支部Templeがあるのです。団の本部があるテンプルを特にMother Templeといい、そこから派生する支部を当然ドーター・テンプルといいます。
フリーメーソンのほうでは支部のことをロッジと称しますが、魔術でもこの言葉を使用することがあります。
” ※着色は引用者
リンク先は、
Masonic Stories| Who was Helena Blavatsky?
https://www.universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
”Helena Blavatsky had a profound impact upon the world, but who was she and where did she come from?
Helena Petrovna Blavatsky was born Helena Petrovna von Hahn, on August 12, 1831 into a military family in the Ukrainian town of Yekaterinoslav, which was then part of the Russian Empire under the Romanov Dynasty.
Her childhood was an unusual one for her time. Her grandmother was Princess Helena Pavlovna Dolgorukov, a linguist, botanist, and woman of science who took an interest in the education of Blavatsky, imparting her love of knowledge and philosophy to the young girl. Her great-grandfather, Prince Pavel Vasilyievich Dolgorukov, was a major general during the reign of Catherine the Great. He was both a Mystic and a Freemason having been a member of the Rite of Strict Observance in Russia. This Rite, founded in Germany in the 1750s by Baron Karl Gottlieb von Hund, was organized around the Order’s belief in and obedience to certain “Unknown Superiors” - mysterious figures who were secretly directing the events of the 18th century.
It was in her great-grandfather’s home that Helena Blavatsky grew up and it would be in his library that she spent much time reading and learning.
“[He] had a strange library containing of hundreds of books on alchemy, magic, and other occult sciences. I read them with keenest interest before the age of fifteen…soon neither Paracelsus, Kunrath, nor C. Agrippa would have anything to teach me.”
She was exposed to a host of esoteric subjects such as Mythology, Gnosticism, Rosicrucianism, Astrology, Theurgy, and many other occult subjects.
In fact, it was in this same library that she supposedly discovered a manuscript containing the exploits and prophecies of the enigmatic Count of Saint-Germain. This discovery and her great-grandfather’s connection to the “Unknown Superiors” no doubt inflamed her imagination of mysterious adepts directing the occult undercurrents of the world. But who were these Masters and Adepts who were seeking the perfection of Humanity? Where were they and what knowledge did they possess? Her thirst for answers to these early questions would cause her to search for the rest of her life for the “Masters of the Ancient Wisdom.” It can be speculated that her interaction with the Freemasonry of her great-grandfather was one of the first clues in her quest.
Blavatsky’s early education was typical of a girl of her rank and fortune. She was prepared for the role of a noble wife whose destiny included a life spent in drawing rooms, afternoon recitals, and dinner banquets. She was groomed to be an entertaining companion and lovely accent to the already vast accolades of an accomplished gentleman. This was the fate of a young woman of her stature.
In 1849, at the tender age of seventeen, Helena Petrovna von Hahn was betrothed to Nikifor Vladimirovich Blavatsky, the vice Governor of the province of Erivan, who was more than twenty years her senior. Yet, as soon as the marriage came into being, she awakened to a suffocating realization: she was never meant for the traditional role of a high society wife.
After three months Blavatsky was so unhappy with marriage that she demanded that her husband release her. He acquiesced and sent his wife, alongside an armed escort, to Crimea and back to her family. Overpowered by her desire for adventure, she fled her traveling companions, bribed a ship’s captain, and traveled by sea to Constantinople pursuing the footsteps of the ancient explorers she had read about in her youth. From Constantinople, Blavatsky made her way to Cairo, where she fortuitously encountered Brother Albert Rawson.
A renowned American Freemason and esotericist, Rawson had a similar inclination towards the occult as Blavatsky. Not only was he member of the Free Thought Society, but he was one of the founders of the Order of the Nobles of the Mystic Shrine. Throughout her life, Blavatsky would surround herself with prominent members of the Masonic intellectual and mystical elite such as Brother Rawson.
Together they traveled and explored the exotic places of Old Egypt and eventually discovered the Coptic magician Paulos Metamon. Some believe that this occultist was none other than Master Serapis, who communicated to them the ways of Egyptian Esotericism.
“Ah! There was the key to the occult mysteries of old Cairo. The chief – the shayk of the magicians – had discovered the secret of the Philosopher’s stone that turned things into gold. He was enriched by us, and we were enlightened…”
From Cairo, Blavatsky traveled throughout the Middle East with Brother Rawson, seeking out occultists, Freemasons, and magicians to broaden her esoteric knowledge. Once she had learned all she could, she set her sights on Europe to continue her search for Truth. It was in London in 1851, that she had her first encounter with “Master Morya,” a mysterious figure who would serve as Blavatsky’s spiritual mentor and master for the rest of her life.
From London, Blavatsky traveled to America on her way to Asia, exploring the vast countryside and investigating the spiritual practices of the Native Americans. After reaching California she set sail for India, where she attempted to enter Tibet for the first time, following instructions in a letter from Master Morya. She was unfortunately intercepted at the border by the British Army and denied entry to the mysterious kingdom.
Returning west in 1856 after this failure, Blavatsky was shipwrecked off the Cape of Good Hope, one of two shipwrecks she would miraculously survive during her travels. Upon her return to the United States, she again connected with Brother Rawson, who gave her a much grander tour of the United States than her previous visit, showing her various Masonic Temples and sites of occult interest.
Afterwards she returned to Russia for several years, finally making her way to Italy where she met the charismatic Brother Guiseppi Mazzini, a prominent Freemason, and the Grand Master of the Grand Orient of Italy. They quickly grew close to one another, sharing a profound understanding of the deeply esoteric origins of Freemasonry. It was among the disciples of Mazzini that Blavatsky most likely met Brother Charles Sotheran, another American Freemason, and the Assistant Grand Secretary-General of the Southern Jurisdictions of the Scottish Rite – a gentleman that would be play a key role at the founding of the Blavatsky’s Theosophical Society. Many were called to the idealism and desire of Brother Mazzini to spread the Masonic ideals of Freedom and Equality throughout the world, and it was during the War of Italian Unification that Blavatsky was wounded while assisting Brother Mazzini's forces at the Battle of Mentana, a brutal but heroic loss for the forces attempting to forge the nation of Italy.
After her wounding on the battlefield, Blavatsky received another letter from Master Morya, summoning her again to Tibet. She traveled overland, entering the mysterious land of Tibet in 1868, though the facts of this journey are unknown to history. It was in the high Himalayas that she finally found the Brotherhood of the Great White Lodge – the Masters of Wisdom and Unknown Superior of her youth. At the feet of her Masters she learned the ancient language of Senzar and was given access the most ancient of all texts; the Stanzas of Dzyan. It is this ancient philosophy that would be the basis of her magnus opus - the Secret Doctrine.
Leaving Tibet with a mission from the “Masters of the Wisdom” to share the knowledge of the East with the societies of the West, she was nearly killed in an explosive shipwreck off the coast of Egypt. Of the 400 passengers on the S.S. Eumonia, she was one of only 16 survivors. As she was unable to swim, Blavatsky would later explain the mystery surrounding her improbable rescue by saying that she was pulled from the water by a strong, unknown individual who she never saw again.
After reaching New York City, Blavatsky connected with a reporter named Henry Steel Olcott who would join her as a lifelong companion. Together with Brother Charles Sotheran, and an Irish Occultist named William Quan Judge, they founded the Theosophical Society on November 17th, 1875, a name that was suggested by Brother Sotheran.
Initially, Blavatsky wanted to form the society as a ritualistic and occult center based on the ancient model of Freemasonry. She believed that the Craft was a survival of the Ancient Mystery Schools and that by fusing the Western Esoteric Tradition of Freemasonry with Eastern Mysticism, the true Universal Religion of the Atlanteans would emerge to guide the world to understanding and peace.
Henry Olcott wrote:
“On the 17th of April we began to talk with Sotheran, General T., and one or two other high Masons about constituting our Society into a Masonic body with a Ritual and Degrees; the idea being that it would form a natural complement to the higher degrees of the Craft, restoring to it the vital element of Oriental mysticism which it lacked or had lost. At the same time, such an arrangement would give strength and permanency to the Society, by allying it to the ancient Brotherhood whose lodges are established throughout the whole world. Now that I come to look back at it, we were in reality but planning to repeat the work of Cagliostro, whose Egyptian Lodge was in his days so powerful a center for the propagation of Eastern occult thought.”
But the Society had already attracted many members outside the circle of Freemasonry and the idea of a Co-Masonic Order based on the ideas of the Ancient Wisdom died. Nevertheless, the emerging Theosophical Society became the perfect vehicle for Blavatsky to disseminate the esoteric information she had gathered from both the East and West. For her and for all Theosophists there was no religion higher than the Truth. Although hampered by her decision not to found the Theosophical Society as a Freemasonic order, her and circle of disciples began to spread the Light of Theosophy.
An initiate and disciple of numerous occult practices and traditions, Blavatsky was also made a Brother of the Adoptive Rite of Freemasonry. In 1877, Sovereign Grand Master John Yarker, a prominent Freemason and Occultist of the time, conferred upon Blavatsky the degrees of the Ancient and Primitive Rite of Masonry.
Blavatsky’s Masonic Diploma, dated the 24th of November 1877, reads:
“We, the Thrice-Illustrious Sovereign Grand Master Generals… do declare and proclaim our illustrious and enlightened Brother, H. P. Blavatsky, to be an Apprentice, Companion, Perfect Mistress, Sublime Elect Scotch Lady, Grand Elect, Chevalière de Rose Croix, Adonaite Mistress, Perfect Venerable Mistress, and a crowned Princess of the Rite of Adoption.”
These degrees of the Rite of Adoption were created specifically for women to study and unveil the mysteries of Scottish Rite Freemasonry. Between her travels, her studies, access to her great-grandfather’s library, and her close friendships with many prominent Masons, Blavatsky probably knew more of the Craft even prior to receiving these degrees than most Masons of her day
As the years passed on and Blavatsky’s life was coming to an end, she focused her energy in the finalization of the The Secret Doctrine and the Voice of the Silence. In 1890, a year before her death, she met Annie Besant who had begun writing a literary review of The Secret Doctrine. This meeting formed the next link in the Theosophical chain as Besant would take over the leadership of the society soon after Blavatsky’s death, supervising a period of unprecedented expansion.
It would be Besant who would continue the work of Blavatsky creating a Freemasonry that joined the ideas of the West with those of the East. The new head of the Theosophical Society became not only a Freemason, but the Most Puissant Grand Commander of the British Federation of Le Droit Humain – the precursor of Universal Co-Masonry. She would spread Co-Masonry throughout the world, infusing spirituality and esotericism into this restoration of the true mysteries of Freemasonry. Perhaps she did this in hopes of fulfilling the dreams of Blavatsky and honoring the life and example of her mentor.
Blavatsky died in 1891 in Besant’s house in London but her immortal words remain with us to this day guiding us ever onward towards the Perfection of Humanity.
“There is a road, steep and thorny, beset with perils of every kind, but yet a road, and it leads to the very heart of the Universe: I can tell you how to find those who will show you the secret gateway that opens inward only, and closes fast behind the neophyte for evermore.”
” ※画像省略。着色は引用者
]
(「ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日」から6分後の呟き:
)
https://x.com/uxskf/status/1875595621580861743
”ワクワクさん
@uxskf
ここら辺の内容は前に紹介した気がする聖なるロシアの復興にも載ってたはずなのでとりあえず必読
そんなに直接メーソンやブラバッキー関連の内容は無かったと思うけど
数ページあったかな? 内容は重要だった
ロシアの歴史や思想にオカルト関係をサラッと知るという意味でも読むと良いよ
午前2:30 · 2025年1月5日
·
56
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”
https://x.com/uxskf/status/1875596138537218149
”出版社がヒカルランドって説明不要なとこなのは察して下さい
そもそもこの本くらいしかそんなの載ってるの日本じゃないからさ・・・
めっちゃ分厚いのと高額なので図書館かなぁ
午前2:32 · 2025年1月5日
·
25
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”
[
ロシア中心でオカルトの話をするならブラヴァツキーが一切出ないのはあまりないと思う。まだ読んでないけどね。
マニ教的な光の国の会社から出てるんだ(笑)
「いきなり冒頭シュタイナー話から始まる」らしいよ(笑)
ヒカルランド / 聖なるロシアの復興 東ローマ帝国からプーチンへ引き継がれる その理念・歴史・オカルト思想
https://www.hikaruland.co.jp/products/detail.php?product_id=4365
”著者:ラックマン
訳:堀江 広行
四六判ソフト
-2024年4月25日発売-
☆好評発売中☆
通常価格(税込):
6,600 円
ポイント: 132 Pt
販売価格(税込):
6,600 円
(
注:高価だね。まさか66を入れるためじゃないだろうな(笑)
中略
)
プーチンに影響を与えた哲学者たちの思想を追った本書を読めば、
なぜ今、ロシアとウクライナの間で戦争が起きているのかが分かる!
脈々と続いてきたロシア的理念の歴史をひもとく待望の書全訳!
ロシアは本当に「悪者」なのか?
ニュースで知るロシアのすがたは本当のものなのか?
ウクライナとの戦争で注目を浴びるロシアのその理念。
ロシアの隠された歴史とその思想を知れば、
なぜロシアが「国際秩序」と戦っているかがわかる!
ヨーロッパ・オカルト思想史研究者ラックマンがいどむロシア思想のすがた。
プーチンが信じる強固なアイデンティティーの淵源はここにあった!
ロシアの目指すものを知るための必読書!
ナロードニキとレーニンからグルジェフ、ラスプーチン、ドゥーギンまで
気鋭のオカルト思想史研究家ラックマンによる待望のロシア・オカルト思想史。
目次紹介
第1章 「ロシア的人間」─天使にして悪魔
第2章 母なる大地─桁外れな国
第3章 「美は世界を救う」─イコンの起源
第4章 失われた王国─キエフ陥落ののち
第5章 モンゴルからモスクワ国家へ─宗教的植民とロシアの建設者たち
第6章 雷帝とその苦渋の時代─黙示録的期待
第7章 西欧への窓─近代化への使命
第8章 美しき魂─「幼子のような無垢」への回帰
第9章 「新しい人々」─新しいリアリティーの創造
第10章 「銀の時代」─真理の探求者、哲人、聖人、そして罪人たち
第11章 聖なるロシアの終焉─人民を動かす力
第12章 ソヴィエトにおけるオカルト─精神と一般大衆
第13章 聖なるロシアの復興か─オカルト・リバイバル
エピローグ 第三の道か│もうひとつの知への道
謝辞
訳者跋文 「聖なるロシア」とその「知」について
訳者あとがき
原注
参考文献一覧
図版典拠一覧
”
聖なるロシアの復興―東ローマ帝国(ビザンチン)からプーチンへ引き継がれるその理念・歴史・オカルト思想
ラックマン【著】/堀江 広行【訳】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784867423639
”著者等紹介
ラックマン,ゲイリー[ラックマン,ゲイリー] [Lachman,Gary]
米国ニュージャージー州生まれ。作家。ヨーロッパオカルト思想史、60年代対抗文化史、変性意識などをテーマに多くの著作をもち、公演活動を行っている。その著書は多数の言語に翻訳されている
堀江広行[ホリエヒロユキ]
専門はロシア思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
”
]
ワクワクさん
@uxskf
ロシア関係は下斗米伸夫の第三のローマあたりを最低限読むべきで
ロシアのウクライナ侵攻をNATOへの拡大だとかアメリカ黒幕説で終わらせると微妙
そんな私はラックマンの聖なるロシアの復興をようやく読み始めたけどこれは非常に面白い
午後5:19 · 2024年11月24日
·
1,178
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まぁそれでも当然陰謀関係のネットワークやメーソンの話なんかは当然出てこないんだけどね
なぜロスチャイルド系のNYタイムズに暴露された組織と被るとこが親露なのかとか
なぜキリスト教右派と繋がっているのかとか
なぜロシアの工作員とQあたりが仲良しなのかとか
午後5:24 · 2024年11月24日
·
643
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[中略]
ロシア語ロシア文学研究 47
さくらのレンタルサーバ
2014/12/15(なのだが、PDFでは2015 年なので発表自体は2015年なのだろうな)
http://yaar.sakura.ne.jp/danet/robun/RLL_No47.pdf
”
ゲーリー・マーカー著(白倉克文訳)
『ロシア出版文化史:18 世紀の印刷業と知識人』
成文社,2014 年,400 頁
巽 由 樹 子
本書は,1985 年にアメリカ人研究者ゲーリー・マーカーによって著された,18
世紀ロシア出版史研究の邦訳である。著者の執筆の動機は,ロシアの出版史を社
会史,思想史と関係づけて,それが通史から孤立している研究状況を解決するこ
とだったという。18 世紀ロシアの書物の歴史を概観するそうした貴重な研究が,
今回,翻訳された意義はきわめて大きい。だがあらためて読み返すと,マーカー
が出版史と通史との接合に成功しているかはやや疑問も残る。以下,各章の内容
を紹介したうえで,その理由について考えたい。
まず序章では,18 世紀ロシア出版史を通史に結びつけるための方法が論じら
れる。著者は,セルゲイ・ルッポフをはじめとするロシアの書誌学者たちを歴史
意識が希薄だと批判し,西欧出版史の諸研究にヒントを求める。ただし,フラン
スのロベール・マンドルーやイギリスのロバート・アルティックが採用したよう
な,人々の関心が出版動向に影響を与えたとする「読者牽引型」の分析枠組み,
およびユルゲン・ハバーマスのように,ブルジョワジーが市民社会の政治的指導
階級としてメディアを支配した,と主張する「権力主導型」の分析枠組みには,
疑問符をつける。なぜなら著者は,著述によって世論にアピールしようとした知
識人たちこそ出版動向を決定する主役だったという,レヴィス・コウザーやヤ
ン・ワットらの主張に説得力を覚えるからである。ただしロバート・ダーントン
によれば,知識人はしばしば経済的に無力であり,印刷業者や書籍商の営利主義
的要求に従属を余儀なくされた。またエリザベス・アイゼンステインが論証した
ように,印刷術はルネサンス以来,知の体系を刷新した革命的な情報伝達技術で
もあった。それゆえ著者は,エリート知識人層と印刷業者に焦点をあて,その対
峙を軸に出版史をたどること,そして,そこからいかに 18 世紀ロシアの知的生
活が発展したかを示すことを本書の課題と定めた。
こうした前提のもと,本書前半の 4 章では,時系列に沿って 18 世紀ロシアで
の書物の普及が考察される。第 1 章はピョートル 1 世の西欧化改革が,印刷所の
設置,世俗活字の導入,新聞『報知(ヴェードモスチ)』の刊行など,出版分野
にも及んだことを紹介する。ただし著者は,ピョートル改革による世俗書普及の
衝撃は従来言われてきたほど大きくなかった,という見解を示す。なぜなら,修
道院印刷所やモスクワ印刷所による,17 世紀の伝統を受け継いだ宗教的印刷物が
依然として多かったため,また,ピョートルが読者層を想定せず,『報知』を最
大 4,000 部も刷ってしまうほど経営に無知,無関心だったことから,彼の印刷体
制が破綻へと向かったためである。
第 2 章では,ピョートル没後に再編された公的印刷体制が説明される。1720 年
代から 1750 年代半ばまで,出版は科学アカデミー印刷所と宗務院印刷所が担当
した。当初,科学アカデミーでは外国人研究者によるラテン語出版が行われてい
たが,ヴァシーリー・トレジャコフスキーらがロシア語協議会を結成して以降,
人文主義的書籍のロシア語訳を刊行するようになった。他方,宗務院印刷所は旧
来のスラヴ活字を世俗活字に切り替えて印刷物を刊行し,そうした西欧由来の近
代思想を内容とする書籍に対抗した。科学アカデミーが出版物の全国的伝達網を
欠いていたのに対して,教会は印刷物を用いて民衆に説教する場を持っており,
依然,影響力を保持したのだった。
しかし第 3 章がとりあげる 1750 年代半ばから 1770 年代には,人文主義的な世
俗的出版物が刊行規模を拡大した。これは,教育機関の再編と新設によって中高
等教育の修了者が増大し,知識人読者層が現れたためである。新しい学校は,印
刷機材を所有し,在校生・卒業生という人材が集ったことで,出版の拠点とも
なった。代表例がモスクワ大学印刷所である。ただし,その活動を担った知識人
エリートが立法委員会への勤務でペテルブルクに移ったため,モスクワの拠点化
は一時的なものに終わった。1770 年代以降,ペテルブルクの科学アカデミー印刷
所が再び出版活動の中心となり,エカテリーナ二世は両首都から合流した知識人
たちと諷刺雑誌を刊行したのである。
第 4 章は,民間人が政府からの特権なしに印刷機を所有,操業することを認め
た,1783 年の勅令の影響が論じられる。国家の財政事情を一因としたエカテリー
ナ二世のこの命令は,個人出版業者の登場を可能にした。こうした業者は,ドイ
ツ系の商人・職人からなる「実務家出版者集団」と,教養人からなる「知識人出版者集団」に分類できる。後者の中心的存在がニコライ・ノヴィコフであり,フリーメーソンの人脈を利用してモスクワ大学印刷所を賃借すると,優れた経営感覚と良書普及の使命感とを両立させ,1780 年代のロシア出版業において質量ともに大きな足跡を残した。
つづく後半の 4 章では,「両首都の出版」以外のトピックに目が向けられる。
第 5 章がとりあげるのは,地方における出版である。先述のエカテリーナ二世の
勅令が出されて以降,1774 年から 1801 年にかけて地方 23 県に 26 軒のロシア語印
刷所が現れた。主たる発注者が県庁や貴族団だったため,その刊行物は行政的な
性格が強かった。だが少数ながら,グレゴリー・ポチョムキンの移動印刷所や,
シベリアの突出した文化拠点トボリスクの印刷業,首都での勤務義務から解放さ
れた領主貴族たちの著作刊行,クリンツィ村の旧教徒による出版活動など,個人
出版の興味深い逸話も残されている。
本書がここまでとりあげてきた「出版」とは,印刷業のことを指した。第 6 章
はそこから漏れる,書籍商という存在に焦点をあてる。18 世紀の前半には宗務院
と科学アカデミーが書籍販売や外国語書籍の取扱をおこなったが,後半には首都
にドイツ出身商人やグラズノフ一族らによる個人経営の書店が現れた。だが,地
方書店はニジニ・ノヴゴロド,クルスク,オリョール,アルハンゲリスク,キエ
フにそれぞれ数軒あった程度で,書籍販売がビッグビジネスになっていた同時代
の西欧と比べると市場規模は相当小さかった。
第 7 章では,18 世紀ロシアの読書の目的が考察される。需要があったのは,祈
祷書,暦,読み書きの教本など,実用目的の出版物だった。ただし,フィロゾー
フたちの著作の翻訳,ヴォルテール,モリエール,スマローコフ,カラムジンら
の戯曲,そして雑誌など,余暇のための読み物も現れていた。しかし読者の具体
的な姿を知らせる史料はほとんどないため,実際に何が読まれたかは,書籍商の
カタログに見られる在庫数の増減といった数値から推測するしかないという。
最後に,第 8 章でとりあげられるのは検閲である。検閲はピョートル時代には
存在せず,その後は宗務院が担当したが非効率的だった。エカテリーナ二世は当
初寛容だったが,個人の印刷業を許可した 1783 年の勅令以降に厳格化し,フラ
ンス革命後の 1796 年,83 年勅令より前に許可を得ていた出版業者を除く,民間
人の印刷操業を禁止した。ソ連期の書誌学者たちはこれを抑圧的政策として批判
したが,著者は情報伝達を管理できないゆえに全面禁止せざるをえなかった,絶
対主義的政府の無策の現れと見做す。そして,アレクサンドル一世が 1801 年に
こうした規制を撤廃したことで,知識人と印刷業者はついに政治権力の外側に知
的活動の領域を確立した。著者は,やがて 19 世紀にはインテリゲンツィヤの活
動領域が社会から孤立することを展望し,本書の結語としている。
以上のように,本書は 18 世紀ロシア出版史の全体像を詳しく解説する。本書
からは近世ロシアで出版に関わった主体や刊行物のジャンル,数値データなど
を,時系列に沿って包括的に理解できるだろう。
だが一方で,最初に述べたように,本書が語る出版史は書物中心の歴史であ
り,社会史,思想史に接合されている印象はあまり受けない。その一因は,著者
が人物や書物をごく外形的に分析したことだと考えられる。上に見たように,本
書では知識人や印刷業者が類型化され,刊行物はジャンル名や数値から分析され
た。そのこと自体は決して不適切ではない。だが,これは著者が批判したロシア
書誌学の正統的な分析方法なのである。それゆえ本書は,ルッポフの 18 世紀ロ
シア出版史研究 1 と,分析方法,四半世紀ごとの時代区分,提示されるデータや
その解釈,結論において,それほど大きな差違がない 2。(英語の一巻本で読める
というアドバンテージはあるが。)つまり分析方法が書誌学の枠内にとどまった
ため,知識人に注目して出版史を思想史,社会史に接合しようとした著者の意図
は,必ずしも実現されなかったのではないだろうか。
ではマーカーの成果を摂取して,今,通史と結びついた 18 世紀ロシア出版史
を書くならば我々は何に留意すべきだろうか。評者が考えるのは次の三点であ
る。
第一に分析の射程を,ロシア語書籍の印刷から,読書行為や書物の流通,外国
語書籍の文化的影響にまで広げることである。というのは,著者が共感したアイ
ゼンステインの印刷革命論は,印刷という技術が人の行為,文化を決定するとい
う図式がやや単線的だと批判されて久しいからだ 3。もちろんロジェ・シャルチ
エのように読書行為を論じるには,18 世紀ロシアの史料は限られる。だがそれで
も,アレクサンドル・サマーリンの定期購読者研究はいくつかの新しいデータを
掘り起こしている 4。また,商人層の読書についての研究 5 やフランス語翻訳書
の研究 6 など,この 30 年のあいだに現れた他の成果も新しい知見を与えてくれる
だろう。
第二に,啓蒙主義研究の進展をふまえる必要がある。1993 年に書かれたウルリ
ヒ・イム・ホーフ『啓蒙のヨーロッパ』が,合理主義的な啓蒙運動とキリスト教
会との衝突に叙述の力点を置いたのに対して,2001 年に著されたロイ・ポーター
『啓蒙主義』はフィロゾーフが信仰心を保持し,時代にふさわしい宗教を創り出
そうとしたことを強調した 7。これは近年の啓蒙主義研究が,世俗化と宗教を対
立的に捉えるのではなく,その混交に関心を向けていることの反映である。この
ような研究動向をふまえるならば,18 世紀ロシアの書物を「世俗的」,「宗教的」
の二分法以外によって考察する可能性が生じるだろう。
第三に,国家が出版に果たした役割を考えることである。出版は,社会が国家
に対抗するためのツールとして捉えられることが多い。だが,本書も言及するマ
ルク・ラエフが示したように,18 世紀ロシアは自立した知識人となるはずの貴族
を勤務に組み込み,国家が社会を包摂する特異な体制をとった。それゆえロシア
では,西欧に類例を見ないほど国家が出版事業を先導したのであり,また,国家
と未分化の社会に対して検閲は不要だったのだ。18 世紀ロシア出版史の特質を明
らかにするには,国家の主導性を必ずしも抑圧としてではなく(あるいは皇帝の
個人的資質に帰するのでもなく),より積極的に評価することが必要だろう。
以上,様々な検討を加えたが,本書が今も研究上の重要性を失っていないこと
は言うまでもない。こうした著作が邦訳されたことは,日本の研究環境を大いに
豊かにする成果である。
原 題: Gary Marker, Publishing, Printing, and the Origins of the Intellectual Life in
Russia, 1700― 1800 (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1985).
(たつみ ゆきこ)
” ※着色は引用者
ニコライ・カラムジン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%B3
”ニコライ・ミハイロヴィチ・カラムジン(ロシア語: Никола́й Миха́йлович Карамзи́н、ラテン文字: Nikolay Mikhailovich Karamzin、1766年12月12日(旧暦:12月1日) - 1826年6月3日(旧暦:5月22日))は、ロシア帝国(現:ロシア)シンビルスク県出身の貴族、小説家、詩人、歴史家、評論家。文章語の改革に尽力した[1][2]。大著に1816年からカラムジンが亡くなるまで著された全12巻からなる『ロシア国家史』(ru:История государства российского)がある[2]。
(中略)
フリーメーソンであったロシアのジャーナリスト、作家のニコライ・ノヴィコフ(英語版)に影響され、ドイツの劇作家、思想家のゴットホルト・エフライム・レッシングやイギリスの劇作家、詩人のウィリアム・シェイクスピアの作品を翻訳する傍らに詩や小説を著した[3][4]。
1789年から1790年にかけて[5]西欧を旅行し、フランス革命を目の当たりにし、衝撃を受ける[3]。
(中略)
最終更新 2024年11月8日 (金) 23:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
” ※着色は引用者
「フリーメーソンであったロシアのジャーナリスト、作家のニコライ・ノヴィコフ(英語版)」から飛ぶと、
Nikolay Novikov - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolay_Novikov
(This page was last edited on 10 January 2025, at 21:43 (UTC). )
DeepL和訳より:
「ニコライ・イワーノヴィチ・ノヴィコフ(ロシア語: Никола́й Ива́нович Новико́в; 1744年5月8日(西暦1744年4月27日)、モスクワ総督府 - 1818年8月12日(西暦1818年7月31日)、モスクワ総督府)は、啓蒙主義を代表するロシアの作家、慈善家である。ロシア初のジャーナリストとも言われ、ロシア国民の文化的・教育的水準の向上を目指した。
ノヴィコフは、1755年のモスクワ大学創設の恩恵を受けたロシア人の第一世代に属する。彼は1767年の立法議会に積極的に参加し、新しい法典の制定を目指した。このような自由思想的な活動に触発された彼は、『モスクワ公報』の編集を引き継ぎ、『タトラー』や『スペクテイター』に倣った『ジヴォピセッツ』などの風刺雑誌を創刊した[1]。既存の社会風習に対する彼の攻撃は、エカテリーナ大帝の諧謔に満ちた反論を招き、エカテリーナ大帝はノヴィコフの記事にコメントするために『ヴシャカヤ・ヴシャチナ』という独自の雑誌を創刊したほどであった。
ノヴィコフは、ヨハン・ゲオルク・シュヴァルツ、イワン・ロプヒン、セミヨン・ガマレヤらとともに、ロシアにマルティニズムとバラ十字教をもたらした[2]。1780年代までに、ノヴィコフはロシア・フリーメーソン[1]の最高位に上り詰め、フリーメーソンは彼の野心的な書籍出版事業に潤沢な資金を提供した。ノヴィコフの出版社は、現代ロシアの書籍の3分の1を生産し、いくつかの新聞を発行した。ノヴィコフは、シェイクスピアをロシア国民に広める大規模なプロジェクトなど、さまざまな崇高な目的のために影響力を行使した。
フランス革命が始まると、カトリーヌはノヴィコフに対する態度を変えた。彼の印刷所は没収された。3年後、彼は正式な裁判を受けることなく、シュリセルブルク要塞に15年間投獄された。エドワード・ヤングの『最後の日』(1713年)1,000部をはじめ、彼の印刷物の多くはパルプ化された。皇帝パウロはノヴィコフを解放したが、ノヴィコフは恐怖と失意のあまり、ジャーナリストとしての活動を再開することはできなかった。」
※着色は引用者
”
※着色は引用者
「Her great-grandfather, Prince Pavel Vasilyievich Dolgorukov, was a major general during the reign of Catherine the Great. He was both a Mystic and a Freemason having been a member of the Rite of Strict Observance in Russia. 」。
Strict Observance。英語はカタカナからの予測だったが、合っていたようだ。
]
第8章 美しき魂─「幼子のような無垢」への回帰
p.328から
ロシアにおけるマルティニズム
またもうひとつの神秘的な教義が、エカテリーナの治世の最後の日々の頭痛の種となり、こちらは結果的に、王座のすぐ膝下にまで入り込むことができた。それがマルティニズムであった。
マルティニズムは一種の神秘的なフリーメーソンで、ロシアではいちじるしい影響力を振るった。マルティニズムは、厳密には、フリーメーソンの分派ではないものの、位階や儀式、入門儀礼の面でフリーメーソンと多く重なり、個人的な道徳と倫理的な完成を、オカルト的な秘密の洞察と統合する自己完成の理念を発達させた。それは、フリーメーソンと同じく「騎士たち」のエソテリックな結社であった。その影響力は、不穏な時代、すなわち十九世紀をつうじて、ロシアの中で感じられ、ボリシェヴィキの時代になるまで、ロシアの宮廷でなんらかの形で見え隠れし、おそらくその後も生き残った。
マルティニズムの発端は、フランスの碩学で、存命中にすでに「知られざる哲人」として知られたルイ・クロード・ド・サン=マルタン(1743~1803)に結びついている。サン=マルタンは、フランスのアンボワーズに生まれ、1767年に、ボルドーでドン・マルティネス・ド・パスカリ・ド・ラ・トゥール、別名マルティネズ・パスカルに出会ったことから、その神秘家としての道を歩み始めた。パスカリは、スウェーデンボリの信奉者で、ニコライ・ノヴィコフやその仲間がそうだったように、薔薇十字団の信徒であった。彼はまた「エリュ・コーエン」(選ばれたコーエンたち)と称される神秘主義的結社のリーダーでもあった(「コーエン」はヘブライ語で祭司を意味する)。
パスカリが、サン=マルタンに人生の目的を与えた。サン=マルタンは、パスカリが実践していた儀式と典礼魔術の研究に全身全霊で打ち込んだ。これら実践には、神聖な諸力を喚起するためのある種の魔術が含まれていた。
サン=マルタンは、啓蒙主義の哲学者たちの浅薄な合理主義にたいする哲学的、そして霊性的な反駁となる一連の著作を発表した。それは、ときにそう評されるようなたんなる「ヴォルテール批判」以上のものであった。実際のところ、サン=マルタンは、ローマ教皇批判の面では、ヴォルテールと意見をひとつにしていたほどだった。というわけで、二人の名前は、皮肉なことに、ともにヴァチカンの禁書目録に載っている。
(
啓蒙主義と神秘主義の対立。どの程度オカルトを認めるかどうかは当時から結社における問題だったんだろうな。
ヴォルテールもサン=マルタンもカトリックを批判する側
)
サン=マルタンは、その年下の同時代人で、詩人、かつ画家だったウィリアム・ブレイクと同じように、エカテリーナの宮廷にひどく浸透していたヴォルテール風の無神論と合理主義を嫌い、それを、ブレイクが「単眼的なヴィジョンとニュートンの眠り」と呼んだところのものの産物だと考えていた。ブレイクによれば、この「眠り」は、彼が「ウルロの国」と呼ぶ物質的な世界以外の世界にまったく気がつかない狭隘な意識を意味している。サン=マルタンは、人々がこういう状態に陥ったのは、私たちが神的なものと一体であった一種の原初的な「結合」の状態から、空間と時間の世界へ私たちが落下して、追放されることになった、なにかの原初的な宇宙的大災害のせいだと信じていた。サン=マルタンが信じるところでは、人間の課題は、世界を「修繕する」こと、すなわち私たちの堕ちた自己を「復興」し、それによって、やはり堕ちた宇宙を「復興」させることにあった―この主題は、世界を救う美の役割についての理念を思い起こさせる。
「復興」のメッセージは、革命を目前にした日々に、フランスの政治家たちの耳にも届いた。それは、フリーメーソン、スウェーデンボリの霊的教義、ドイツの科学者で治癒師だったフランツ・アントン・メスメルの動物磁気などの教えが、焦眉の社会変革をうったえる情熱的な政治的信条と入り混じって、めまいがするような発酵物を作り上げた時代であった。
サン=マルタンは、メスメルの考え方に啓発された「調和の会」という革命的グループのメンバーだった。これは「磁気的」なトランスの状態で「知られざる使者」と呼ぶ存在から彼らが受け取るメッセージを解読しようとするものであった―この「知られざる使者」という称号はフント男爵の「長上者」を思い起こさせる。だが、サン=マルタンは、革命の犠牲者でもあった。まもなく彼は、彼の推測によればメスメルの仮説から生まれた一種の「物質主義的」な魔術にたいする関心を失った。メスメルは、触ることはできないが宇宙にゆきわたり、自分がその制御の手立てを学んだと主張する生き生きとした一種の物質的「流体」について教えていた。サン=マルタンの真の関心は、もっと精神的なものであった。
サン=マルタンは、宇宙において人間が特別の使命と責任を帯びていると信じていた。
p.332から
サン=マルタンは、十六世紀のボヘミアの靴屋ヤーコブ・ベーメの著作を愛読していた。ベーメは、錫の皿に反射した陽光が呼び起こした「自然の署名」のヴィジョンを見て、リアリティーの真の本性について、一連の明瞭ではないにせよ瞠目にあたいする作品を著した。それは、パラケルススに強く影響を受けた複雑な錬金術的な言語によって語られたものであった。ベーメの難解な著作をつらぬくひとつのテーマとは、対立物のあいだの闘争 65 、すなわち存在の二つの極のあいだに保たれる創造的な緊張のヴィジョンであり、その一方は、聖なる光と愛、もう一方は暗黒と激情であり、人間の生は、あやしくその中間にゆらめくものであった。二つの極を超える、そのどちらでもないなにかを生み出すために結合する相争う対立物の力についての理念は、ロシア精神をして、まもなくロシアをとりこにする理想に向かって準備させた。
65 ベルジャーエフの著作はヤーコブ・ベーメの暗い形而上学から深く影響を受けている。
「プロシア狂」パーヴェル
エカテリーナ女帝が崩御すると、彼女のもっとも恐れた悪夢が現実となった。息子パーヴェルが即位したのである。エカテリーナは、息子の統治は卑劣な夫ピョートル三世の再来と変わらないと確信しており、どうひいき目に見ても、彼女は正しかった。エカテリーナは、これを阻止するためにできることはなんでもし、孫アレクサンドルを両親から取り上げた、しかるべき教育をほどこし、この孫に王座が譲られるべきだとはっきり宣言した書類を残しさえした。だが、彼女のいっさいの努力にもかかわらず、悲劇は起こった。アレクサンドルは、自分を統治者として定める書類の存在に気がついていたようだが、この文書を公にすることに、なんらかの理由で失敗した。そして、ツァーリになったパーヴェルが最初におこなったことは、この文書を手に入れて処分することだった。
パーヴェルは、プロシアと軍事趣味にとりつかれており、彼のそのこだわりようは、ボタンが正しく付けられていないと言ってある男をシベリア送りにしたほどであった。
だが、彼は母よりもフリーメーソンにたいして好意的で―ノヴィコフを釈放したのは彼である―また一度は、スコプツィ派の指導者コンドラチイ・セリヴァノフに接見した。
p.335から
孫の教師になってほしいというエカテリーナの要請を、百科全書学派のフランスの哲学者ドゥニ・ディドロがうやうやしくも辞退すると、彼女は、かわりにスイスの共和主義者のフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプからこの任務の遂行をとりつけた。アレクサンドルは機敏で開明的な精神の持ち主になり、二十四歳で即位したとき、多くの人々が彼の改革に期待した。
アレクサンドル一世がおこなった改革に向けたジェスチャーは、エカテリーナの試みの奇妙な蒸し返しであった。彼は、秘書官でフリーメーソンでもあるスペランスキー伯爵に憲法草案を作成するよう要請した。
p.340から
伝えられているところによれば、アレクサンドル一世は、ナポレオン戦争のあいだ、ヴァルヴァーラ・ユーリヤ・フォン・クリュデネル伯爵夫人に何度か接見した。彼女は一時期、アレクサンドルのほとんど絶対的な信頼を勝ちとり、アレクサンドルの助言者であり、ほとんど告解司祭役であった。彼女はバルト系ドイツ人の神秘家、かつ神学者で、彼女の思想は「モラヴィア兄弟団」に深い影響を受けており、彼女を「霊的冒険家」と呼ぶ人もいる。この団体は、1723年「からしの種粒」団という結社を設立したニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵の尽力によって生まれた。ロシアの外交官の妻であったこのクリュデネル夫人は、また心霊主義者でもあり、スウェーデンボリの信奉者でもあった 67 。
67 スウェーデンボリも一時期ロンドンのモラヴィア兄弟団に加わっていた。
p342から
アレクサンドル一世とその神秘主義的補佐官たち
ツァーリの保守的な宗務・文部大臣で長年の友人であったアレクサンドル・ゴリーツィンは、ロシアが、新しい普遍的なキリスト教会の誕生の場になるだろうと信じていた。これは、これまで見てきたように、ロシアの政治意識から今もって完全には消えていないアイディアである。ゴリーツィン―彼の孫のもうひとりのアレクサンドル・ゴリーツィンはブラヴァツキー夫人の神秘家としてのキャリアを助けることになる―には、ロシア人らしい予測不能なところがあった。若き日々を百科全書派の礼賛と放蕩に過ごしたあと、生まれて初めて新約聖書を読み。深い精神的、人格的な変容を経験した。この変容の結果のひとつは、1813年に彼が設立したロシア聖書協会であって、その使命は、農民たちのあいだにまん延する迷信と戦い、福音を広めることで、それはまた、教会がそのためにどうしたら良いのか手立てを見失っていた課題であった。もうひとつのこの彼の変容の結果は、ゴリーツィンの励ましにより、ツァーリが聖書を読んだことで―これも初めてだった―アレクサンドル一世は、ゴリーツィンがそうであったように、聖書に深く感動した。
p.344から
ゴリーツィンも、アレクサンドル一世の多くの者がそうだったように、フリーメーソンであった。また、ピョートル大帝の場合がそうであるように、アレクサンドル一世についても、彼がフリーメーソンの入門儀礼を受けていたかどうかについて多くの議論がある。だが、彼がフリーメーソンの理念に通じていなかったということはおよそ考えにくい。アレクサンドル一世は、ナポレオン戦争のとき、フランスのフリーメーソンと親しく交わるようにロシアの将校たちに奨励したのである。フリーメーソンの集まりで当時盛んに議論された理念のひとつは、新しい「普遍的なキリスト教会」についての思想であって、これは、すでに触れたように、ゴリーツィンが興味をもっていたテーマであった。
当時、ツァーリにたいして影響を与えたもうひとりの人物は、ゴリーツィンの友人で同僚であり、またフリーメーソンでもあったロジオン・コシェレフであった(一説によれば、ツァーリに入団の入門儀礼を授けたのは彼だった。むろんアレクサンドル一世が実際にフリーメーソンに入門していたとしての話である)。コシェレフは、駐デンマーク大使で、その欧州滞在のあいだにエッカルツハウゼン、サン=マルタン、そしてそのほかの神秘主義的啓明の哲学者たちと接触した。ツァーリがこの二人の著作を読むようになったのは、コシェレフを介してであった。
p.350から
いつもアレクサンドル一世の性質の一部だった矛盾的な言動が彼を支配し始めたのは、神聖同盟の熱気が冷めてしばらくのちのことだった。彼は退位の考えに取り憑かれ、スイスや修道院についての夢想―これは国全体が囚われていた二つの対極のシンボルでもある―が彼の心をさまよった。彼のパラノイアはいっそう激しくなり、古い友人たちも今や敵であるように見えた。そして、陰謀にたいする恐怖から、彼は1822年にフリーメーソンの非合法化に踏み切った。公式の記録によれば、彼は、遠方のアゾフ海の港町のタガンローグで1825年に四十七歳でマラリアに罹って亡くなった。
ヨーロッパの憲兵、ニコライ一世
アレクサンドル一世の弟であったニコライ一世は、典型的なロシアの大騒動を経て即位した。
p.355から
ロシア史に影響したドイツの哲学と言えば、まずはマルクスをあげることができるだろうし、わずかでも思想史の知識のある者ならば、マルクスがヘーゲルに深い影響を受けたことも知っている。マルクスは、ヘーゲルの思想を正すために、それを「逆立ちさせた」と宣言した。だが、ロシアの思想と生活に強いインパクトを与えたドイツの哲学者がシェリングだったということは、それほどには知られていない。シェリングの思想は、マルクスやヘーゲルの思想ほどにはよく知られていないが、公式の「科学的」姿勢と異なるリアリティーについての見解にたいし好意的な近年の「オルタナ」的なコミュニティーは、シェリングにたいしいっそうの関心を払っている。このような好意をロシア思想も共有している。
シェリングは、十八世紀末のテュービンゲン大学の輝かしい若き学生たちのグループに属した栄才のひとりであった。このグループにはヘーゲル、そして先に触れた詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが含まれている。シェリングは一種の神童であった。彼は当初いちじるしい影響力を振るったが、その後、彼の著作は。彼の友人でのちに哲学的な好敵手となった「世界史の哲学者」、ヘーゲルの人気の陰に隠れ、事実上忘れ去られた。
自然は、精神となにか「もちつもたれつ」と呼ぶことのできるような関係にあると論じた「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然であるにちがいない」とシェリングは論じた。こうして、シェリング思想における根源的な双極性の思想が打ち立てられる。これは、すでに私たちにおなじみのモチーフである。この対立物のあいだの「弁証法的」な緊張がシェリング思想の基本的なエンジンになり、それが、シェリングが哲学的なその擁護の一番手となったロマン主義の根本的テーマのひとつとなった。
ロマン主義は、啓蒙主義のますます強まる機械論的、還元主義的な傾向にたいする回答として成長した。またこの回答は、とくに、この啓蒙主義が知識の唯一の担い手としての理性と合理性の役割を一方的に強調することにたいして、そして、抽象的な普遍性のせいでユニークな個性の概念が失われることにたいしての反応であった。ロマン主義はそういう知識ではなくて、ひと目見ただけでいっさいを取り込み、その観照の対象に「参入する」ことのできる、なにか直観的で、包括的な知識が存在すると主張した。シェリングはこれを「絶対的知識」と呼んだ。
このタイプの知識がもつ問題、そして、それをなぜ合理主義的伝統が否定するのかという理由は、そういう知覚があきらかにする知識をこの知覚を体験していない誰かに伝えることが難しいということにある。この知識は、象徴やメタファーやイメージ、アナロジーによって、別の言い方をするのであれば、論理や演繹によってではなく、芸術やそのほかの創造的活動によってでしか伝えることができない。そして、シェリングの思想がもっともインパクトをもつのも、芸術や神話の世界においてである。こういうシェリングの「絶対的知識」の思想こそが、まさしく一団のロシア人たちがそれを介することで自分たちのアイデンティティーを見出そうと追い求めたその方法であった。
ロマン主義のひとつの産物は、民族主義(ナショナリズム)であった。この事実は、ロシアの天才たちや、ドヴォルザーク、グリーグ、シベリウス、そしてそのほかの十九世紀の作曲家たちの音楽が示しているとおりである。
p.359
「ロシアのファウスト」オドエフスキーとその愛智会
オドエフスキーは、英米圏の読者にはあまり知られていない。だが、彼はその著作がもっと注意を払われるべき注目すべきロシア・ルネッサンスの思想家である。
オドエフスキーは、想像力をかきたてるドイツ・ロマン主義の文学や哲学の理念を論じたり、その著作を読んだりするために集まる友人たちのグループを自分のまわりに集めた。しばしば話題にのぼったのは、シェリングだった。オドエフスキーは、この夜会で黒い服をまとい、ファウストと名乗った―これは『ロシアの夜』の中心的な登場人物の名前である。このグループは愛智者(リユボムードルイ)の会と呼ばれた。
p.363
オドエフスキーは「利益」―アイン・ランド 73 なら賛成するだろう個人的な損得という意味での「利益」―こそがすべての人の行動の根本動機であるという原理を受け入れた社会が「長続きしなかった」ようすを描いている。
73 訳注:アイン・ランド(1905~1982)は、米国で現在も強い影響力をもつロシア系米国人の作家、映画脚本家で思想家。個人主義と合理的利己主義にもとづく自由放任型の資本主義を徹底的に擁護し、過激な反共主義を唱導した。
(
へー、過激な反共主義なんだ。青組が喜ぶ思想だ
)
第9章 「新しい人々」─新しいリアリティーの創造
第10章 「銀の時代」─真理の探求者、哲人、聖人、そして罪人たち
p.434から
ソロヴィヨフは九歳のとき、聖なるソフィア、神の聖なる叡智の最初のヴィジョンを味わった。
ソロヴィヨフは聖なるソフィア―彼が信じるところではその女性はソフィアだった―にさらにすくなくとも二回出会うことになる。その第一の出会いは、1875年のロンドンの大英博物館読書室でのものだった。彼はそこで、グノーシス主義やインド哲学の研究に没頭していた。
このソフィアが、ソロヴィヨフの哲学の核にあり、また一連のエソテリックな伝統、すなわち「ソフィア学(ソフィオロジー)」(セルゲイ・ブルガーコフやパーヴェル・フロレンスキーのような銀の時代の思想家に結びつけられ、初期キリスト教のグノーシス主義者たちにもさかのぼる伝統)が「彼女」にささげられているという事実である。
p.437
訳注
101
ソロヴィヨフの著作『神人論講義』によれば、宇宙の進化は神が所有するソフィアと神自身の一連の対話的なドラマとして理解される。これによると、被造のソフィア的原理としての人類、あるいは宇宙が、神の意向に自由に賛成し、キリストを中心に戴くことによって、神との自発的で有機的な結合に入る。このようにして地上における原初的な全一的関係をより豊かに復興することがソロヴィヨフによっての神化であり、人類と宇宙は、このようにしてキリストを中心に戴く神人体となる。人間が神に似るようになるというニュアンスはすくないように見える。
102
正教神学において、「神が人になったように人が神になる」(神に似た者になる)とは、人間がキリストの「神人」としてのあり方を「真似る」ことを意味する。すなわち、子なる神は肉化において人間の本性を受け入れ、完全な神で完全な人間、つまり神の本性と人間の本性を兼ねもち、神の位格をもち続ける「神人」となり、贖いにより両性を不離不融に結合させることによって、神と人間の結合と人間救済の可能性を切り開いた。人間は教会に入り、みずからを謙らせ、このキリストを受け入れることで、人間の人格(位格)と本性を維持したまま、神の本性、あるいはその現れとしてのエネルゲイアにまみえ、それによって神に結合しうる。
(
人がゴッドになるのはいわゆる一神教[ゴッド教]では絶対に駄目だからな。似ることができるだけ
)
103
公式の正教会の見解では、ソフィア学(ソフィオロジー)は異端と考えられており、通常「ソフィアニズム」としてあつかわれていることを、私は指摘しておかなくてはならない。正教会の見地からすると、ソロヴィヨフのソフィアは、誤れる第四の女性的な位格、男性的だと考えられた神の三つの位格に追加された異端的な位格である。
(訳注は以上だ)
第11章 聖なるロシアの終焉─人民を動かす力
p.483
ウラジーミル・レーニンは、やはりナロードニキから多くを学んだと言える。彼は、権力を握って、それを維持するために必要なだけのことをする覚悟があり、そうすることを厭わない優秀な急進的な組織である「革命のエリート」の意義を信じていた。彼はそういう風にふるまうように人々に教え、彼らはそういうふうにふるまった。ドストエフスキーの『悪霊』のように「新しい人々」が町にやってきた。それは偉大な人民革命の始まりだったかもしれない。だが、それはたしかに「聖なるロシア」の終焉であった。
p.493から
ニコライ・フョードロフとその死者復活のプロジェクト
ニコライ・フョードロフは、ロシアの魂を形作っているいっさいの極端さを体現しているという点において、ロシアにしか出現しないような人物である。
その世界像は文句なしに全体主義的であった。彼は、ロシア思想における宇宙主義(コスミズム)派の大家として認められている。「宇宙主義」という用語は、彼の時代には用いられておらず、それが一般に使用されるようになったのは比較的最近である。だが「宇宙的」という言葉は、彼の思考をたしかにうまく表現している。
フョードロフは、巨大なスケールで、人類や惑星全体、あるいはそれをもこえる視点から考えた。彼は1960年代に「宇宙船地球号」という理念が人口に膾炙するずっと前にこの概念を考え出し、しかも、それをきわめて文字通りにイメージした。彼の信じたところによれば、人々はこの惑星を太陽から切り離し、この星を宇宙を旅するために使うことを学ばなくてはならない。彼にとっては死すら克服できないものではなかった。実際、この「死の克服」はフョードロフの「唯一の重大事」だったと言ってもよい。だが、ソロヴィヨフのような宗教思想家が「死者の復活」にかんするキリスト教的な理念をなによりも霊性的な変容の観点から見たのにたいし、フョードロフはそれをきわめて文字通りに受け止めた。彼が語るところによれば、全人類の使命―いわゆる彼の「共同事業」―とは、私たちの祖父たち、そしてまたそれ以前のいっさいの世代の人々をよみがえらせることにある。
フョードロフの祖父で、当時のフリーメーソンのリーダーのひとりであったイヴァン・アレクセイエヴィチ・ガガーリン公爵は、息子パーヴェルを結婚させることに決め、ニコライはその兄とともに母親から引き離されて、ある屋敷に引っ越しをさせられた。
p.501から
フョードロフの「唯一の重大事」は、見方しだいで、高貴で深遠な呼びかけであるようにも、また幼年時代の家族の喪失によって生まれた病的な固定観念のようにも見える。
彼(フョードロフ)にとって、それ(死)は、不可避ではなかった。もし人間の精神が本気で死との戦いを課題にして、全人類がその事業に参加するなら、死は征服しうるのであった。
ただ、具体的にどうやって征服するのかというと、フョードロフは答えることができなかった。
それぞれの人が「共同事業」のために努力することがすべての人にとって利益になるということを誰もが理解するようになれば、さまざまな強制的な手段、警察、そして階級の区別の必要はなくなる。それぞれの人が、死を征服する惑星レベルの事業における彼、あるいは彼女自身のふさわしい場所を見出すだろう。
この死の征服は全世界の資源が注ぎ込まれる目標になる。「共同事業」は、地球のさまざまな国民が団結するきっかけになる。
(
「共通の敵を作って団結」の手法だ。敵が死。
)
死が克服されれば、自己保存のための争奪戦は余計なものになる。そして、共通の目標をめざして、それぞれが互いに助け合うようになる。
(
死が克服されても争うと思うよ。
)
そういう世界は、能動的に復活させた最初の人間によって幕が切って落とされるとフョードロフは信じていた。この復活にまた次の者たちの復活が続く。そして先祖にたいする自分たちの責任の感覚につき動かされ、誰もが復活の必要性を受け入れるようになると、死者たちが生き返り、彼らの体が本来あるべき状態を取り戻す。このプロセスは、最終的に「抽出された先祖たちの死骸のわずかな痕跡からすべての人が再創造される」まで続く―これはクローン技術への驚くべき予見であるように見える。
共通の課題を果たすために必要な「先祖の遺骸」の再生は、共同の事業を必要とし、すべての人々がそれにたずさわる必要がある。ひとつにはそれは、宇宙を旅することを意味していた。こうしてフョードロフの思想はもうひとりのエキセントリックな見者(原文ママ)、その仲間のコスミストで、ロシア宇宙開発の父、コンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857~1935)にも影響をおよぼすことになる。フョードロフによれば、星々に塵となって散らばった私たちの先祖の遺骸の微粒子を集めて再生するため、そして、別の世界に入植して復活させた先祖たちに住む場所を与えるために、宇宙旅行が必要となる。だが、地上でもなすべきことはたくさんある。共同事業は、戦争のような無駄で破壊的な活動から人々のエネルギーを解放し、それをこのもっとも有意義な目標の達成に振り向ける。
フョードロフは、ロマン主義者たちのあいだで見られる自然への愛のようなものはまったくもっていなかった。
自然にたいする彼の姿勢はもっぱら実利的なものだった。
人間は自然を克服し、その敵対的な力を「人類の道具と器官」に変容させることができる。まずは、収穫を増大させ、飢餓を撲滅するために天候をコントロールしたり、そのほかの食糧増産の手段を発達させたりすることからそれを始めることができる。フョードロフは、再生可能なエネルギーへの私たちの関心を何十年も先取りして、石炭への人類の依存を軽減する手段として、太陽のエネルギーを使用するように呼びかけた。フョードロフはさらに先を行き、地球の地磁気をコントロールして、すでに触れたように、銀河系をめぐる航海に「宇宙船地球号」を出発させることができるだろうと主張した。最終目標は、理論と実践を統合して、一種の合理的な神的魔術(テウルギヤ)、すなわち「科学的魔術」と名づけうるようなものにし、人類が「宇宙の理性」になることであった。
(
フョードロフの思想がケツ社の計画書みたいだな。ケツ社員っぽい人だ。
ケツ社の計画の作成に関わっていたかもね
)
p512から
ベルジャーエフは、個人の「人格」の絶対的価値にたいする確信をキリスト教とカント主義と共有していた。だが、このことは彼を「個人主義者」にはしなかった。なぜなら、真の「人格主義(ペルソナリズム)」は、他者が存在するという基盤においてしか成立しないからであり、ベルジャーエフが、社会の基礎としてのソボールノスチの概念を強調したからである。このペルソナリズムは、彼ののちの自由の哲学の核となり、ついにはヤーコブ・ベーメの神秘的な深淵、すなわちウングルント(無底)の概念、あるいは神自身がそこから出現するという名状しがたい「非合理的な自由」の概念に到達した。
[
ソボールノスチ(集団性。全一性)って全体主義と相性が良すぎ。
ペテルブルグ印象記 第2回
2023年3月6日
https://magazine.boid-s.com/article/series/--id/25218
”ロシアのサンクト・ペテルブルグに留学中の映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」。今回はロシア正教の暦においてクリスマスにあたる1月7日に参加した晩祷、通っているシネクラブで観た作品やシネクラブ運営者との会話など、太陽がほとんど姿を見せない1月の空の下で綴られた日記です。
(略)
ロシアの公式的なクリスマスというのはロシア正教会が採用しているユリウス暦に基づいている。日本に暮らしているときにはまったく意識していなかった日付である。この日の直前、ロシア側からクリスマス時期は休戦しましょうという宣言が出されていた。こんな一方的な宣言を俟たずとも、プーチン政権とロシア正教会の癒着は清々しいほど明らかである。目抜きのネフスキー大通りをはじめ、11月末頃からずっと大規模なイルミネーションに装飾されてきらびやかに輝いていたペテルブルグの町にいて、この浮かれた光をどう受けとめればいいのか分からなかったが、にわかに宗教、というよりも聖なるものという文字が意識の内で明滅しはじめた。ナショナリズムと聖なるもの。ロシア思想には「Соборность(ソボールノスチ)」という、一般的に「全一性」と訳される言葉がある。「Собор(ソボール)」とは聖堂を指している。宗教哲学やユーラシア主義などにも流入する語で厳密な定義を拒むのだが、遠大な概念史を棚上げして短絡を恐れずまとめると、一堂に会して祈りを捧げるという行為と信仰心によって信徒たちは有機的に一体化する――神の身体である教会が一つに調和してあまねくすべてを包み込むがごとく、というわけである。わけであるなどと書いてみたがよく分かっていない。
(略)
小手川 将
主に映画を研究・制作。2022年に監督作品『籠城』が完成。大学院での専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。
” ※着色は引用者
東洋経済オンライン
@Toyokeizai
ロシア思想には「ソボールノスチ」という概念があります。集団性と訳されますが、全体の中で個人が自由な動きを徹底的に規制されることで、集団全体が大きな自由を得るのです。
↓【「集団性」というシステムをロシアは構築した】
toyokeizai.netから
午後7:02 · 2025年1月25日
·
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(全体主義すぎる)
]
自分の国に押し付けられた暴力的な平等主義にたいするベルジャーエフの抗議は、どこがまちがっているかを明言したひとつの著作に結実した。この著作『不平等の哲学』―ウラジーミル・プーチンの推薦書の一冊―は、革命の混沌と国内戦のさなかに書かれたが、その出版は1923年を待たねばならず、そのときベルジャーエフはもう祖国にはいなかった。
ベルジャーエフは、古代的なミクロコスモスの概念を復活させた。彼にとって、個人は宇宙の反映ではなく、宇宙を内に含む世界であった。
第12章 ソヴィエトにおけるオカルト─精神と一般大衆
p.548から
研究者のレナータ・フォン・メイデルは、革命の初期、多くのロシアの人智学徒が来たるべき新しい社会にシュタイナーの理念を適用できると信じていたと指摘している。
多くの者が、革命は、ロシアが新たな文化世紀の生まれる地であるというシュタイナーの予見を証明していると信じた。
1923年、人智学は、ほかのエソテリズムの教義がそうなったように、ソ連で非合法化された。それから十年を経たころには、多くの人智学徒がすでに国中のたくさんの矯正(原文ママ)収容所に向かう道をたどっていた。
151 訳注:歴史的にユーラシア主義は、(略)選集『東方への脱出。予感と終幕。ユーラシア主義者の主張』のソフィアでの1921年の刊行をもって始まったが、1930年代の半ばには、運動としては終息した。ユーラシア主義者たちは、革命後の亡命ロシア人社会で一般的だった帝政復古による旧秩序の回復を志向するのではなく、革命成立の合理性をある程度認め、すでに確立したソヴィエト体制を利用して、イデオクラシー(原文ママ)的な原理に基づく新国家を建設しようとした。そのためのイデオロギーとしてヨーロッパでもアジアでもない文明の単位としてのユーラシア文化とロシア正教をその基盤に置こうと考えた。
p.550から
ローゼンターリは「ボリシェヴィキは、政治的なプロパガンダにオカルト的な理念、象徴、技巧を応用した」と書いている。
そもそも根底(原文ママ)的な意味では、魔術と政治は共通の目的、すなわち、パワーを手に入れて、それを世界に変革を起こすために使うことを追及している。
象徴主義は、魂に分け入り、微妙で、しばしばサブリミナルな作用によって魂を変容させる象徴とシンボルの力にその基盤を置いている。
象徴主義のテクニックは、革命の初期に、観客の意識に正しいメッセージを植え込む手段として、扇動宣伝部(アギトプロプ)の舞台劇で用いられた。だがそのかたわら、象徴主義そのものは、このころにはすでにフランスのキュービズムとイタリアの未来派の美術が合同したものであってボリシェヴィキと手を握って台頭したクボ・フトリズムへと移行し始めていた。
(
着色は引用者。本書に赤文字の個所は無いので当然であるからいちいち書かないかも。
クボ・フトリズムって、久保って人が太りそうな名前だな
)
153 訳注:クボ・フトリズム(立体未来派)は1910年代前半にロシアに登場した芸術運動。
p556から
「苦い」を意味する「ゴーリキー」というペンネームを使うようになった。
ゴーリキーが革命思想に出会ったのはナロードニキをとおしてであった。のちにサンクト・ペテルブルクに暮らすようになってから、今度はマルクス主義に転向し、すぐにボリシェヴィキに加わった。
ゴーリキーは若いころからオカルト的な現象に興味をもっていた。彼は、ショーペンハウアー、そしてドイツのオカルチスト(原文ママ)のカール・デュ・プレルの著作を読んだことで、オカルト的な現象の存在を信じるようになった。
ゴーリキーは、のちには、神智学文献、さらにはスウェーデンボルグやルネッサンスの錬金術師パラケルススの著作を読んで、思考は外部世界の青白い反映―レーニンが唱えた考え―というよりも現実的な一種の「物」であって、力強いものだという信念をさらに固めた。思考はしかるべく集中され、方向付けられることによって、世界に現実的に作用できるというのであった。
ロシアでは、多くの研究者たちが超常的なサイ現象を現実として受け入れつつも、それをより自分たちに親しみ深い唯物論的な説明の枠に収めようとしたのである。サイ現象研究におけるこの唯物論的アプローチの初期の支持者のひとりが、モスクワの超心理学者ナウム・コーチクだった。コーチクは、サイ現象が物質的な基盤をもち、彼が「N線」と呼んだ一種の放射の一形態として理解できると確信していた。このN線が、1895年に発見され世界的に有名になっていたX線の概念にヒントを得たものであったことは容易に想像できる。
ベフチェレフは、コーチクの研究をさほど評価しておらず、サイ現象やそれにかかわるそのほかの現象をもっと心理学的なアプローチで解明しようとした。彼は集団ヒステリーの現象に魅了され、催眠の分野における草分け的な研究をおこなっていた。一時期、彼はフランスの碩学で催眠研究のパイオニア、ジャン・シャルコーの学生でもあった。
サイ的な意識状態は人から人になんらかの方法で伝わる。これはあきらかに思考転移に類似性をもつ現象である。どのようにしてそれが生じるのかはわからなかったが、ベフチェレフはこの現象は「N線」やそのほかの唯物論的な説明にはまったくかかわりがないと確信していた。
ゴーリキーはコーチクとベフチェレフの研究を知っていた。それは、彼が何年も魅了されていた考えを多くの点で立証するものだった。ある種のサイ・エネルギーが人から人へ送信されうるというアイディアは、彼のいくつかの小説に登場する。それがもっとも顕著に表現されている小説は『告白』(1916)である。この小説では、ある女性の身体麻痺が、群衆が生み出す集団的なサイ・エネルギーによって治る。人々の精神的なエネルギーをなんらかの方法で利用できるというこのアイディアは、神を「建造する」という彼の思想―建神主義―にもヒントを与えた。
(
今更だが、本書はダッシュは1つのみで、2連続で記さない
)
「建神主義」は、人間は抽象的な実在しないような神ではなくて、人間自身を崇拝するべきだというフォイエルバッハの理念から生まれたもので、十九世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントの「人類教」とも結びついている。コントはその『実証政治学体系』(1851)で、この人類教の儀式、祭礼、祝日、祈禱、聖人について詳しく語っている。コントは「新しい人々」を奮い立たせた「実証主義」の元祖だった。この実証主義は、霊性のニュアンスのあるものならなんだろうと斥けたレーニンの思想の核にとくに急進的で厳しい姿をまとって存在していた。これにたいして、建神主義は宗教から「悪いもの」はいっさい投げ捨てつつも、その「ポジティブ」なところはとっておこうと考える道であった。レーニンが宗教には良いところなどまったくないと信じていたことを考慮すれば、彼がこの思想を嫌ったことに驚かされる理由はない。神を建設することに反対したもうひとりの人物は、ベルジャーエフであり、彼は、建神主義に人間による人間自身の聖化のひとつの現れを見出した。それは、ベルジャーエフによれば、とどのつまりは全体主義と非人間的体制に向かう思想であった。
建神主義の中心的人物のひとりは、ルナチャルスキーであった。彼はひととき神智学を擁護し、1925年にレーリフに差し迫った逮捕をほのめかして警告したソヴィエトの教育人民委員であった。彼はシュタイナーも読んでいて、革命の宗教的側面に関心をもっていた。革命闘争の初期の時代、彼は、ボリシェヴィキの勝利までレーニンのライバルで科学者、哲学者、そして小説家でもあったアレクサンドル・ボグダーノフの陣営に与していた。ボグダーノフは未来の宗教として科学を信仰し、輸血による若返りという注目すべき研究をおこなった思想家だった。
ボグダーノフは、輸血によってどうやら生気をよみがえらせ、視力を向上させることにも成功したらしい―禿の進行が止まりさえした。その結果、ボグダーノフは、フョードロフの最大の敵、つまり、死にたいする勝利をつかんだのだと信じるにいたった。ボグダーノフは一般的には、コスミストに結びつけられている。だが、彼の奇蹟は悲惨な結末をむかえた。マラリアに感染した学生を自分の血液を交換したのである。学生は回復したが、ボグダーノフは亡くなった。
ルナチャルスキーは、宗教の社会的、そして心理的な側面を革命のために利用できると信じていた。人類は、儀式やシンボル、祈禱を必要としていて、マルクスが主張したように人々を黙らせておく麻薬としてそれらを投げ捨てるより、むしろ社会主義の大義にそれらを転用できる。この意味で、神が人間を創造するのでなく、むしろその反対である。つまり、人類は自己自身を創造する途上にあり、「神の建造」は、人類の内にある巨大な潜在的な可能性を理解するひとつの道である。ルナチャルスキーはこう信じた。
ゴーリキーも建神主義を奉じ、彼によれば、この「神の建造」に利用されるべき材料のひとつが、サイ現象の探求によって彼がその存在を受け入れるようになった精神エネルギーであった 159。
159 ゴーリキーの友人で初期のソ連への訪問者でもあったH・G・ウエルズは自著『神、見えない王』(1917)で建神主義に似た理念を表明している。社会主義者で科学的無神論者であったウエルズは、実際にはこの宇宙の誕生に責任を負っているような神がいないのだとしても、人類の集団的労働を介してひとつの神が誕生すると言えると考えるようになった。ウエルズは、コントと同じように「人間性」は個人を超越したより大いなる存在だとして、個人の不死を否定しながら、私たちの一人ひとりが、自分たちを引き継ぐ者たちをつうじて自分たちの死後も存在しつづけると信じた。建神主義者たちは同様の考えをもっていた。だが、ウエルズが「見えない王」にたいする儀礼をより私的な観点から眺めたのにたいし、建神主義者たちは自分たちの信仰のためにもっと詳細な儀礼を考案していた。
(
ウエルズやコントの勉強もできるのが本書だ。
建神主義者(ボゴストロイーチェリ):進歩する人類そのものを神として崇めようと考えた、ロシア思想の一派。
)
p.574から
宇宙主義者ツィオルコフスキーと「宇宙の意志」
新しい体制の中で比較的うまく持ちこたえたひとつの集団は、宇宙主義者(コスミスト)たちだった。もちろん、フョードロフはとうのむかしに亡くなっていた―彼の遺骸は今も彼の墓にあった復活の日を待っている。
160
すでに触れたように、フョードロフがルミャンツェフ図書館で「モスクワのソクラテス」として教えていたころ、十代の若者だったコンスタンチン・ツィオルコフスキーは何年かフョードロフに師事していた。だが、フョードロフの思想において、人類の過去の亡くなった先祖たちの粒子を回収するために宇宙へ向かうという計画こそが―新しくよみがえらせた者たちが暮らせるように諸惑星に植民する計画はいうまでもなく―もっとも重要な課題だったにもかかわらず、ツィオルコフスキーは、自分とフョードロフが宇宙旅行について論じたことは一度もなかったと言い張った。
ツィオルコフスキーは貪欲な読書家となり、ほかの人とよりも本と多くの時間を過ごした。
そしてジュール・ベルヌを愛読した―ベルヌの幻想的な冒険はつねに科学的な理屈にかなっているか、それともすくなくともそういう印象を与える。宇宙飛行についてのツィオルコフスキーの初期のファンタジーは、ベルヌに刺激を受けたもので、ツィオルコフスキーの説明によれば、自分の数学的な考察に形を与えて、自分を含め誰だろうと納得がいくようにしたものであった。
十六歳になると彼はモスクワに出て、三年のあいだフョードロフの指導を受けた。
彼(ツィオルコフスキー)はロシアで初めて風洞を建造し、さまざまな形状の表面がもつ空気抵抗の効果を研究した。空気力学における彼の研究とそのモデルは、のちの1957年にはソヴィエトの人工衛星のスプートニクを軌道に乗せる上での参考になり、さらには、ソヴィエトの宇宙ロケットが月に到達するうえで役立った。彼の論文「ジェット装置による世界空間の調査」は、1903年という早い時期に、今日のロケット科学が達成した多くのことを予見している。
(
第1回「風洞とは何か」
https://www.aero.jaxa.jp/spsite/wind-tunnel/001.html
”風洞とは、固定した模型の周りに空気を流し、大気中を飛んでいる状態を模擬し、その模型に働く力やその周りの風の流れを計測する試験設備です。風洞には100年以上の歴史があります。風洞試験をして、機体の形を決める。これは、人類初の有人動力飛行に成功したライト兄弟の時代から、繰り返し行われてきた方法です。そして現在では、航空機や宇宙機、ロケットなどの機体設計に限らず、自動車や鉄道、高層ビルや橋梁設計などの分野でも、風洞は幅広く使われています。
”
)
今日、ツィオルコフスキーはロシアの宇宙開発の父として認められており、彼はその死後、多くの栄誉を手にした。
1928年、ツィオルコフスキーは『宇宙の意志』と題した著書を出版し、その中で、現代の哲学者デイヴィッド・チャーマーズが主張しているように、宇宙のいっさいは、ある意味で意識だと論じた。これはいわゆる汎心論という立場である。このアイディアは、古代のヘルメス思想や新プラトン主義にさかのぼり、アンリ・ベルクソンのような近代の哲学者も支持していた考え方で、それ自体はとくに人を戸惑わせるものではない。だが、ツィオルコフスキーにあっては、それは、優生学的な「繁殖」の理念に刺激を受けた宇宙的植民の構想をともなっていた。
ツィオルコフスキーは、物質を統べる、いっさいの物質に浸透しているある種の宇宙的知性の存在を信じていた。だが、この知性は人間の意志決定には無関心で、人間は、自分の意志の自由についてなにを考えていようとも、この知性の手中であやつられる人形のようなものでしかないというのであった。
地球は三つの「圏域(スフェア)」からなりたっている―ウラジーミル・ヴェルナツキー
彼(ヴェルナツキー)は、ソヴィエト政権にうまく順応することができ、1943年には、スターリン賞を受賞すらしている。また原子爆弾開発計画におけるアドバイザーでもあり、原子力をエネルギー源として利用するように働きかけた。
第13章 聖なるロシアの復興か─オカルト・リバイバル
p.603から
エサレン研究所のソヴィエト・プロジェクト
1970年代と80年代をとおして、カリフォルニアのビッグサー海岸の有名なエサレン研究所の設立者のひとりマイケル・マーフィーは、CIAとKGB、そしてFBIをも巻き込むことになった米ソ間の交換プログラムに取り組んだ。エサレンは、1962年にマーフィーとリチャード・プライス(1985年死去)が「人間の可能性」を発見して応用するというオルダス・ハックスリ―の思想を現実に移したいと考えたことに、その端を発している。その努力の成果は、さまざまな「オルタナティブ」な哲学者や実践家たちが、東洋の宗教やヨーガ、代替治療、意識の変性状態、そしてシャーマニズム、幻覚剤の霊的側面にいたるまでのあらゆる事象、そしてそのほかの多岐にわたるテーマを精力的に探求する、美しい自然に囲まれた「隠れ家」としてのエサレン研究所となって実った。
p628から
イヴァン・イリーンとその「聖なるロシア」
プーチンの新ロシアで新しい読者を見出したもうひとりの銀の時代の哲人について私はまだ記していない。ベルジャーエフ等を追放した「哲学の汽船」の乗客のひとりに、政治哲学者のイヴァン・イリーンがいた。ベルジャーエフやソロヴィヨフとならび、イリーンは、プーチンが2014年の統一ロシア党の年次集会でその著作を紐解くように、各地の指導者たちに迫った哲学者のひとりである。そして、イリーンはこの三人のうちもっとも政治的な思想家である。ロシアについて、そして世界においてロシアが占める位置についてのイリーンの見解は、プーチンにもっとも強力な影響力を振るうことになった。
彼は「ロシアの愛国者」から「ロシアのキリスト教的ファシスト」まで、あらゆる形容辞(原文ママ)を引き寄せる「もっとも矛盾したロシアの忘れられた哲学者」と呼ばれている。
イリーンこそが、プーチン自身を含む多くの人々にとって、まさしく「プーチンの哲学者」だとされているということは、その思想が私たちの参照にあたいすることをものがたっている。
1901年から1906年まで―イリーンは、カントを信奉し、このケーニヒスベルクの哲人とともに、その道徳的な「定言的命令」を啓明(原文ママ)する理性の力を信頼していた。これは、彼が「法意識」と呼ぶ生涯のテーマへと彼をみちびくことになった。これは。基本的には「法の支配」の必要性と、その正当性について個人がもつ自覚である。一度こういう啓蒙が達成されれば、人々はおのれを統制することができるようになり、強制の必要はなくなる。
だが、イリーンは、まもなくこのような性善説的な「たわ言」から「解放」され、傷ついたロマン主義者にいつも起こるように、まったく別の方向へ転回した。
イリーンは、人間の現実が手に負えないものだと悟ると―1905年革命は彼にとってその裏づけであった―ヘーゲルの精読、フロイトのもとでの分析の体験、そして実存主義を生んだ現象学の創始者であるフッサールのもとでの研究を経て、しだいにまったく異なった見解を受け入れるようになった。「法意識」は、たしかに自己のコントロールをもたらすかもしれないし、一部の個人にあっては、それが達成される。だが、人類の大半はそのような能力を欠いている。だから、彼ら自身の利益のために、より高位に立つ人間が彼らを正道にみちびかなくてはならない。こういう特別な指導的な個人は。真理に身をささげる者で、彼らこそが規範を示すことができる。彼らに牧される大衆の方は。この規範に一致することこそけっしてないかもしれないが、それでもこの規範は、彼らの努力を呼び起こすであろう。
レーニンも民衆をその解放にみちびくための「革命的エリート」の必要性を肯定しており、二人とも政治行動のために暴力を用いることの正当性を、それぞれ違ったやり方で発見していた。イリーンは、悪に抗うために暴力を用いる必要性について本を書き、トルストイの無抵抗主義を糾弾した。この非難をイリーンはソロヴィヨフとも共有していて、ソロヴィヨフは、自分のその見解を『戦争、進歩、世界史の終末についての三つの対話』で表明していた。イリーンも、レーニンも、社会の瓦解が不可避的にもたらした混沌の中で民衆をみちびくための一時的な独裁、あるいは強力な「手」の必要性を肯定していた―もっとも、ウスペンスキーは「プロレタリアート独裁」がすみやかに「犯罪分子」による独裁になったことに気がついていた。そしてまた、イリーンであれレーニンであれ、個人の選択、あるいは決定の余地をほとんど個人に与えない、社会の上から下まで浸透するような政府が必要だと感じていた。唯一の違いは、レーニンにとっては、革命と来たるべき無階級社会―すぐにそれは来るはずだった―こそが、そういう理念なしではアナーキーに陥る民衆をひとつにまとめる理想だったことにある。イリーンによれば、それは正しくなかった。
イリーンは正教に心酔していて、そこにはスラブ派的な傾倒以上のものがあった。彼がロシアを「有機体」とみなし、西欧における民族国家(ネーション)のようなものではない「歴史の外」に立つような一種の神秘的な一体性と見ていたことには、どこかシェリング風のものがあり、それぞれの文明がもつという「生物学的」性格にまつわるシュペングラーの思想も彷彿とさせる。そして、今日のネオ・ユーラシア主義者たちも、このアイディアを採り入れている。
一体性は、イリーンの政治的、そして社会的な見解の根底にある概念であった。多くのロシア思想家にとってそうだったように、イリーンにとって、個人はそれ自体としては無にひとしい。個人は、共同体の抱擁の中にあってこそ「解放」される。共同体の中でこそ、人々は自分たちの仲間の中にあって、自分の本当の場所を見つけ、自分を見出すことができる。ニコライ二世にたいして批判的だったにもかかわらず、イリーンは、君主主義者で、人々の「父なるツァーリ」である皇帝の父権的な役割を信じていた。彼は、フョードロフのような人物や「スラブの土着信仰」の「父」たちとともに、ロシア哲学の「家父長主義」的な系譜に連なっている。
彼の理解しにくいその理想が、法の支配を自発的に人々が自覚するという「法意識」だったにもかかわらず、イリーンは、スラブ派のように、独裁制とその権力の独断的な行使の必要性を受け入れ、この二つのものを和解させるために、それらをヘーゲル的な弁証法の階梯に組み込んだ。
イリーンは、最初はムッソリーニ、それからヒトラーの政治的躍進にイデオロギー的、そして歴史的な拠り所を見出した。この彼の選択は、彼の同世代人であるユリウス・エヴォラが選んだ道に重なるもので、ファシズムとナチズムの霊性的、政治的な「同伴者」が選んだ運命である。この二人のどちらにとっても、ファシズムとナチズムは英雄的な行為であった。それは、伝統的な価値観を守る霊性的な抵抗運動であり「西欧民主主義の腐敗」と無神論的共産主義の勃興に抗うものであった。
イリーンがムッソリーニを評価したところは、ムッソリーニにおける「偉大な男」の理想、すなわち凡庸さを超越し、おのれの意志と決心を世界と文化に刻みつける英雄の概念であった。
イリーンは、ファシズムのもつコーポラティズム的な性格を肯定し、社会で果たす役割に応じて、すべての者に「場所」―ひとつの有機体の中の細胞のように―が与えられるというコーポラティズムの理想を高く評価していた。だが、エヴォラもそう考えたように、最終的にはイリーンも、ムッソリーニのファシズムが徹底的でないと考えた。ナチスはもっと良い賭けであるように、イリーンには思えた。この点でも彼はエヴォラに重なる。
(
全体主義:個人の利益よりも全体の利益を優先させる思想。全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという思想。個よりも、全体(国家、民族、階級など)が優位に立つ思想。
世界史の窓 ファシズム
https://www.y-history.net/appendix/wh1502-119_1.html
”イタリアなど帝国主義の後進地域に生まれた全体主義国家。ドイツのナチス、日本の軍国主義なども該当する。1930年代に侵略行為を展開し、第二次世界大戦の要因をつくった。1945年、敗戦とともに主要なファシズム国家は消滅した。
ファシズムとは、20世紀前半の帝国主義時代に現れた国家体制の一類型で、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制を言う。全体主義ともいわれるが、第一次世界大戦後に生まれたイタリア=ファシズムに見られる特徴は、反ブルジョワ、反資本主義を掲げた革新性を装うこと、議会政治での政党間の争いを克服すると称して、カリスマ的な指導者が大衆宣伝を行って選挙という民主主義を装うこと、などである。
ファシズムは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、ワシントン体制という国際社会の矛盾を突く形で生まれ、世界恐慌という資本主義の矛盾という中で育った。イタリアで、ムッソリーニが結成したファシスト党が1922年に権力をにぎったのを最初として、他に典型例としてはドイツのヒトラーのナチ党=国家(国民)社会主義労働者党によるナチス=ドイツがある。また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置き、天皇信仰をテコに国民を動員した1930~40年代前半の日本型ファシズム(天皇制)国家もある。
ファシズムを狭い意味でイタリアのファシスト党の独裁政権に限定した場合は、ドイツのナチズム、日本の軍国主義との違いが論じられるが、世界史の大きな理解ではドイツ、日本もファシズム国家と規定した方が良いと思われる。
ファシズムの語源
ムッソリーニの創設したファシスト党に始まるが、その言葉は古代ローマのファッショに由来する。ファッショは古代ローマの執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたもの。権力の象徴とされ、人民を「束ねる」意味があるところから、全体主義を意味する言葉として蘇った。そこから、ファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生した。ムッソリーニはいたるところで古代ローマを賞賛し、学校ではローマの歴史を重視し、ローマ建国の日とされる4月21日は祭日となり、盛んにラテン語を引用した。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.319->
ファシズム台頭の背景
第一次世界大戦後もさらに激しくなった列強の帝国主義の利害対立の中で、1929年に世界恐慌が起きると、ドイツやイタリア、日本のような後発的ないわゆる「持たざる国」は、イギリス・フランス・アメリカという「持てる国」を主体としたヴェルサイユ体制・ワシントン体制を打破し、世界再分割を要求するようになり、軍事力による生存圏の拡張を図ろうとする風潮が生まれた。そのファシズム指導者を国内的に支持したのは、特に世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派であった。
ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の社会革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優越を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、特にユダヤ人を排除した。各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用しようという姿勢を変え、容認し、提携するようになった。それがファシズムが権力を握った理由である。それがもっとも顕著に表れたのが、ドイツのヒトラーの主張であり、それを実現したのが、ナチス=ドイツであった。
(略)
ファシズム国家の諸相
ファシズム国家のもとではナショナリズムが強調され、国家元首への敬礼や国旗・国歌への拝礼が強要され、国家利益が優先されて国民の人権や自由は奪われる。政治においては議会や政党は否定されるか、あっても一党独裁のもとで形骸化して民主主義は行われなくなる。また、学校教育や情報宣伝でも愛国心や家族愛が強調され、そこから異質なものは排除されていく。民族同一性に価値観が偏重し、少数民族や周辺の民族を排撃あるいは蔑視するようになる。
なお、注意しなければいけないのはファシズムはドイツ、イタリア、日本の三国に特有の現象ではない、ということである。いわゆる先進的とされるイギリスやフランスにもファシズム運動は出現している。アメリカにも極端な愛国主義(ショーヴィニズム)や白人優越主義を唱える団体も存在した。これらはいずれも大衆的な広がりにはならず、国家権力を奪うほどにはならなかったが、大衆の支持がファシズムに傾く危険性はどの国にもあったと言える。
” ※着色は引用者
イリーンにとって、個人はそれ自体としては無にひとしい。つまり全体主義的な思想だ。
ファシズムとナチズムは英雄的な行為であった。そりゃそうだよ。全体主義的な思想だもんな。成程、イリーン思想はナチっぽいな。ファシズムとの相性が良いだろうな。
あ、イリーンは、ファシズムのもつコーポラティズム的な性格を肯定しているからそりゃそうだよ。
コーポラティズム:独占的代表権を与えられた利益団体(企業など)が、公共政策の形成や施行過程に協調的に参画する利益代表システム。特に、頂上団体と政府の結び付きが強い場合を指す。
ーーーー
新たな利益代表システムの可能性 -国家コーポラティズムを ...
Institute of Developing Economies
https://www.ide.go.jp › Reports › pdf › C15_ch3
コーポラティズムとは、独占的代表権を与えられた利益団体が、公共政策の形成・. 施行過程に協調的に参画する利益代表システムを指す(中野[2007: 31])。ただし、ここ. で ...
11 ページ
ーーーー
コーポラティズムとは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%81%93%E3%83%BC%E3%81%BD%E3%82%89%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%80-3189975
”
コーポラティズム
corporatism
協調主義。多元主義あるいは二元主義 (デュアリズム) に対抗する概念。特にヨーロッパの政治に見られる現象で,特に頂上団体と政府の結び付きが強いケースを指す。 P.シュミッターによれば,コーポラティズムの特徴は,(1) 数の限定,(2) (分野内の) 単一性,(3) (加入) 義務性,(4) 非競争性,(5) 階等的秩序,(6) 職能的分化,(7) 国家による承認,(8) 独占的代表,(9) 指導者の選択や利益表明に関する統制,などである。多元主義が,「対立・競争」などに注目してきたのに対して,コーポラティズムでは「協調」に注目した。 G.レームブルッフにおいては政策形成の一つの型と考え,「巨大な利益組織の表出 (もしくは媒体) のみならず,価値の権威的配分と,そのような政策の執行においても,相互にかつ公的権威と協力する」と定義している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
” ※着色は引用者
プーチンというかロシアの中核思想の1つはイリーン思想なのだろうな。
「ロシアは成功版ナチになろうとしているのではないか?」と今まで思ってきたが、正確にはイリーン的思想(ナチっぽさがある)国家になろうとしているのだろうな。
よって、ネオナチなど、ナチ属性の人や集団とつながるのはおかしくない。
ナチ思想そのものではなくイリーン思想[つまり似て非なるもの]なので、一時的にネオナチなどと協力することはあっても、目的を達すれば使い捨てにするのだろうな。
そもそもナチス・ドイツは正教を重視していないからな。
イリーン思想を知らないとロシア[の内、特にプーチンとその背後の集団]の動きは理解できないな。
)
p636から
1933年、ヒトラーが首相になると、イリーンはこの新政権を歓迎した。「汚れた30年代」に多くの人々がそうだったように、イリーンは、ナチスの国家社会主義を共産主義の拡散を止めることのできるヨーロッパ唯一の勢力であるととらえていた。1934年、彼は、ヒトラーだけが世界をボリシェヴィキから救済することができるという確信を表明した手紙をヒトラーに書き送った。イリーンが返信をもらったかどうかわからない。
だが、第三帝国の黎明の日々にナチスが世の中になにか良いものをもたらすと信じ込んだ多くの者は結局はそうなったように、イリーンもまもなく失意を味わうことになった。
今日、彼(イリーン)は、ロシアのアイデンティティー探求において、矛盾した人物であるにせよ、中心的な人物のひとりである。その評価は、ヒトラーを賞賛したが「全体主義体制にたいする不屈の敵」であるというものから「二十世紀における旧約の預言者」―ソルジェニーツィンと重なる人物評価である―というものまで多岐にわたっている。
(
本書に書いているイリーン思想を読むに、全体主義にたいする不屈の敵とは思えないんだけど……
)
近年、プーチンが地方リーダーたちが読むべき読書リストに追加したのはこの著作(『われわれの課題』と題したエッセイ集)である。
イリーンはユーラシア主義を「容共的」として嫌悪したばかりでなく、ベルジャーエフやブルガーコフを始めほとんどの在外のロシア思想家たちを罵って批判し、亡命界の「最右翼」にあった。
イリーンは、この解体の跡地になにが起こるかについての見解の面でも正しかった。そこには混沌があった。ロシアは、秩序と統一を回復するために―もちろん「法の秩序」が確立されるまでの一時的なことであるが―なにを必要とするのか。それは、ひとりの英雄、強い人、歴史の外に立ちつつも事態に介入して、権力の手綱を握り、一時的な「国家独裁」によってこの大地にたいするコントロールを取り戻すことのできる人物にほかならなかった。
誰かのことを思い起こさないだろうか。
思想家としてのプーチン
元KGB の職員でロシア大統領となったウラジーミル・プーチンは、2005年、イリーンの遺骸をスイスから運ばせて、モスクワのドンスコイ修道院に改葬した。同じ年、人々はイリーン名前とその理念が、連邦議会にたいするプーチンの演説やマスコミとの彼のインタビューに登場することに気がついた。
イリーンブームはさらに続いた。2015年には、プーチン大統領の在任期間の成果に関する二時間半のドキュメンタリー番組がその六分間をイリーンとその思想にささげた。
(
イリーン重視すぎる
)
クレムリンのすぐ傍にプーチンが設置したキエフのウラジーミル大公の像は、プーチンがイリーンのようにウクライナをロシアの正真正銘の一部分だと見ていることをものがたっている。
イリーンは「高貴な嘘」の概念、あるいはもっと一般的に言うなら、人々をひとつにして偉大なものに向かわせるために必要な神話の概念を信じていた。
イリーンにとってそうだったように、宗教はプーチンにとっても重要である。2016年、彼は、聖山アトスに巡礼し、その模様は、億万長者の正教国粋主義者コンスタンチン・マロフェイエフが経営するツァリグラード・チャンネルで放映された。このチャンネルは、俗悪さにおいてやや負けるロシア版のFOXニュース(米国の共和党寄りのテレビ局で民主党への批判的姿勢で知られる)といったところの放送局で、宗教にひとつの焦点を絞っている。
クリミア併合を肯定したプーチンの演説から読み取ることのできる、薄くベールをかけられた「第三のローマ」論への暗示も、この彼の信仰家としての側面を表すものであるように見える。
すくなくともプーチンの展望によれば、「聖なるロシア」は復興を遂げつつある。
エピローグ 第三の道か│もうひとつの知への道
p.653
181 私がロシア文学と思想を知っているのは翻訳をとおしてにすぎないことを、断っておくべきだろう。私はロシア語を読んだり話したりしない。それができるこの本の読者は、多分このことに気づいていると思う。
ロンドン、2019年2月
謝辞
訳者跋文 「聖なるロシア」とその「知」について
p665から
「聖なるロシア」、すなわちキリスト教の歴史観に基づき、自分の国を歴史的に一定の役割を果たす聖なる国とみなすロシアの理念の起源について、ロシア史の大家、中村喜和は、この概念が、キエフ・ルーシの時代にすでにその兆しが見出されるとしつつも、具体的になったのは、やはりモスクワがビザンチン帝国の崩壊を目にしたモスクワ公国の時代であるとしている。
訳者あとがき
p677から
本書はThe Return of the Holly Russia 2020の訳である。ラックマンは、意識の変性状態、西欧のエソテリズムの伝統などを専門にした文筆家だが、80年代初頭に一世を風靡したロック・グループの『ブロンディ』の設立メンバーのひとりでもあるという異色の経歴をもった人物である。1968年に設立された東西の精神性の研究のための研究所であるカリフォルニア綜合研究学院の准教授でもあるようである。
シュタイナーやウスペンスキー、ブラヴァツキー夫人などにかんする単著も著している。
ただ、ラックマン自身が認めているように、ロシア語を知っているわけではなく、本書のテーマは、ロシア、かつオカルト、あるいは神秘主義ということで、二重にも三重にも誤解が多い領域である。歴史的な年号や人名などのあきらかな誤りが見られた場合、気がついた範囲で修正をほどこしてある。また、そのほかにも、あきらかな誤解と思われる場合には多少の微修正をほどこし、あるいは訳注にその旨をやんわりと記した。
著者の独自判断と思われるところは、もちろん、多くの違和感がある場合でもそのままにしてある。
本書から引用を行う場合には、十分に注意されたい。もっとも歴史書にかんしてはこのような注意は一般に必要なものかもしれない。
(
今のところはブラヴァツキー夫人の曽祖父の情報は合っていると判断している。
ワクワクさんが紹介してくれた英語記事にも書いているので。
なので冒頭にも引用を載せた。
)
ロシア思想家の引用文などは、英文ではなく可能な限り原文にあたることで正確な記述をこころがけた。
2023年9月
(メモは以上だ。
ロシアのメーソンって本当に重要だな。様々な思想が紹介されていて、しかも知らない思想ばかりで面白かった。
『ブロックチェーンと法』(赤組の本。仮想通貨は通貨発行権側にとって敵)
Posted on 2025.04.04 Fri 00:58:34
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-593.html
”オンラインプラットフォームがブロックチェーン技術を用いるようになるにつれて、これらのプロトコルが個人に対して――あるいは、より広く社会に対して――行使する権力が消えてなくなる、ということはない。むしろ権力は、これらのシステムを支えるコードやプログラマに移行するのである。
インターネットの出現以前、階層的で官僚主義的なモデルに基づく政府や公的制度がルールを押しつけていた。政府当局は、コントロールの中心を担う上級の公務員の名で活動するエージェントや組織、個人に権力を委譲してきた。これらの官僚組織は――マックス・ウェーバーが述べたように――政府や行政の裁量権を限定する、明文の法や規制に基づく特別のルールに従って活動する*71。
ミシェル・フーコーは、人々を取り巻く制度――学校や大学、工場、病院、保養所、刑務所を含む制度――を規制することによって、人々の振る舞いをコントロールし、形作る社会を「規律社会」と名づけた。これらの「規律制度」は、大規模な政府の監督や監視を必要とする精密な抑制均衡システムを用いて*73、既存のルールや法をすべての者が尊重することを保証する。しかし、制度が人々の振る舞いをコントロールする能力は当時、官僚主義的なルールが支配する公的空間と、政府の制度によるコントロールから大きく逃れた私的空間との明確な境界があったという点で、限定されていた。
*71 マックス・ウェーバーは、選挙された政治家と組織化された利害の介入から離れて任務を遂行する公務員は法と憲法秩序の担い手であると述べる。ウェーバーによれば、官僚組織内部で機能的に分化した権力機構は。ある行政機構が他の行政機構の協力なしにその権限の範囲を超えて行動することのないようにする可能性をよりよく保証しうる。
*73 ジェレミー・ベンサムの「パノプティコン」――誰からも見られずに、ありとあらゆる人や物を監視できる中央集権的な統制点をもつ監視構造――は、この権力構造をとてもよく描いている。
[
パノプティコンとフーコーに言及したってことは、赤組が〈暗号の法〉による支配について考えたのが本書ってことなんだろうな。
ワクワクさん
@uxskf
https://lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/3/yoshimura.pdf
田園都市ってそもそもフランス大東社製だしハワード=神智学みたいな
グラントリアンと神智学のハイブリッド監獄都市なんだよ
ハワードの初期タイトルのマスターキーってのがそもそもブラバッキーのヴェールを脱いだイシスのサブタイトル
午後3:08 · 2024年8月3日
·
1,425
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監獄の誕生でフーコーも書いてるようだが
田園都市の源流のルドゥーの製塩工場
この中心部の監視塔 ここ実はルドゥーの時からメーソンのプロビデンスの目を意識されて設計されている
実際にこの管理と支配を司る中央部分にはメーソンの目玉やらが認められるのは割と建築界だと有名なネタ
午後3:13 · 2024年8月3日
·
749
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ま、田園都市=中央のメーソンの目玉による管理と支配の都市形態
だからスマートシティだかデジタル田園都市だかは堂々とメーソンの目玉よる監獄都市を目指してますって宣言すれば良いと思うよ
源流からメーソンなのに無視するのはおかしいだろ?
そもそもこれ田園都市についてなら常識の話だし
午後3:16 · 2024年8月3日
·1,192 件の表示
ーーー
ワクワクさん
@uxskf
http://jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2011/10/murakami.html
ここには無いけどベンサムのパノプティコンなんかもそうだね
円形のメーソンシンボリズム監視塔を中心とする最大多数の最大幸福実現のための監獄都市
午後3:42 · 2024年8月3日·711 件の表示
この教授の
都市の未来は『ユートピア』ではなく、『ディストピア』に他ならない
で草
あ、ブレードランナーも当然メーソン製ですよ 新百科全書運動の賜物のSFの流れ
どこもかしこもメーソンやがな
午後3:44 · 2024年8月3日
·
413
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(リンク先は
解体/ 集合住宅モダニズム
第3回
理想都市とは?
http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2011/10/murakami.html
”1.ショーの理想都市 クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas Ledoux)
1804年の"L'architecture considérée sous le rapport de l'art, des moeurs et de la législation" で、かつて設計した製塩工場を中心にした理想都市像を描いた。製塩工場は半円形をしており、円弧の頂点に門、中心に所長の館を置き、その両腕に工場の建物、そして円弧状に労働者の宿舎が配置されている。計画では、全体として円形をなし、後ろの半円にも同様の建物が建ち、さらに外周にも規則的な配置を守りながら建物が並ぶように構想されていた。そして、この円形をした全体のなかで,所長を頂点とした共同生活が営まれることになっていた。これらの構想は、ルソーやフリーメーソンの社会思想を実際の都市計画に反映させた試みと言われる。
[略]
2.ユートピア トマス・モア(Thomas More)
ユートピアという国は、回りは暗礁に囲まれた、500マイル×200マイルの巨大な三日月型の島にある。元は大陸につながっていたが、建国者ユートパス1世によって切断され、孤島となった。ユートピアには54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されている。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われる。首都はアーモロートという。ユートピアでの生活は集団生活で、ラッパの合図で一斉に食堂で食事をする。その後、音楽や訓話を聞いたりして、6時間程度の労働がある。労働は主として農作業で、自給自足の生活であり、全ての住民は労働に従事しなければならない。私有財産は禁止され、貨幣もないため、必要なものがある時は共同の貯蔵庫のものを使う。労働に従事しない日は、芸術や科学、音楽などを研究する。住民は質素、快適、安穏な生活を営んでいる。しかし、実際には着る衣装や食事、就寝の時間割まで細かく規定され、市民は安全を守るため相互に監視し合い、社会になじめない者は奴隷とされる。トマス・モアは、この社会は理想的であるため住民は何の苦悩も持っていないとしているが、非人間的な管理社会の色彩が強い。
[略]
3.明日の田園都市 エベネーザー・ハワード(Ebenezer Howard)
ハワードの主張は、「人々を都市に牽引するなんらかの力に対して政策はうち勝つことができないので、人を都市に引きつけるモノ以上の力を持って都市集中を阻止しなければならない」というもので、彼はそれを磁石を使って表現した。それが三つの磁石である。ハワードは現況をふまえ、都市を否定するのではなく、都市と農村の「結婚」をすべきだとした。ハワードは都市と農村の融合した都市のダイアグラムを提示した。彼の構想によると、都市の大きさは小都市の場合、約2,400ha、中央部の400haは居住地、商業地、工業地を配置し、周囲の2,000haは農業地として開発し、中央部に人口最高30,000人、農業地の人口2,000人と想定し、人口5.3万人の母都市を中心に適当な距離(30 ~50km)を置き、鉄道でその間を結ぶ。田園都市は農村に囲まれ食料を供給し、農村に都市の利便性を提供し、さらには都市の発展を抑制する。中心部に公共施設を配備し、中央公園がそれを覆う。中心から放射状に伸びる並木道路と環状道路に囲まれて、5,000人ずつの居住地が6つに分断されている。まちを二分するのが幅130mの大街路(グランドアベニュー)であり、その中に学校、教会などのコミュニティ施設が設けられている。まち全体を取り囲む環状鉄道に面して、工業用地や市民農園が確保され、その外側の農村地域へと続いている。
[略]
4.人口300万人の理想都市 ル・コルビジュエ(Le Corbusier)
ル・コルビジェの理想とした大都市は、ニューヨーク・マハッタンの高層建築群のもつ長所と短所、つまり機能的で効率的ではあるが反面において空間が少ないところをヒントに発想したもので、大都市に機能的な面と開放的な空間を積極的に取り入れたものとなっている。都心部は24棟の60階の高層建築で構成されており、この地区は3,000人/haの高密度をもつが建ぺい率はわずか5%である。都心部の中央には地下鉄道・近郊鉄道・遠距離鉄道の各駅、地上2階には都市高速道路、ビルの屋上にはヘリポートを立体的にまとめた交通センターが設置されている。この地区の外周は板状の8階建マンション(人口密度300人/ha、建ぺい率15%)の地区で、さらにその外周の郊外部は独立住居地区にしている。公園と都心部の間には公共施設群が配置されており、工業地域や飛行場は市街地と緑地で明確に隔てられている。
[略]
5.輝く都市 ル・コルビジュエ
ル・コルビュジエは,1931年の第3回CI AMで「輝く都市」を発表した。「これまでの研究の論理的帰結」であり「人間性の問いとなった」と述べられ、「輝く都市」は都市計画の研究の成果として普遍的な都市モデルへと昇華したものであるといえる。そして、1935年に出版された『輝く都市』にて結実した。この著作のなかで、太陽、緑、空間の「自然の条件」、住居、仕事、心身の鍛錬、交通の「4つの機能」などのアテネ憲章で提唱された近代の都市計画の「基本原理」が述べられている。高層ビルを建設して空地(オープンスペース)を確保し、街路を整備して自動車道と歩道を分離し(歩車分離)。それに基づき都市問題の解決を図ろうと提唱している。
[略]
ディストピアの可能性
一方で、「都市の未来は『ユートピア』ではなく、『ディストピア』に他ならない」という提示も多く見られる。例えば、映画「ブレードランナー」で描かれた未来都市像(図5-1、5-2ハ参照)は有名である。論理的な理想都市像を提示してきた混沌としたアジア都市を示したことは興味深い事実である。前稿のワングサマジュ団地の再生行為に関して、ルールや規制に縛られるだけではない空間づくりのプロセスの可能性が意識されている。
村上研究室が行った「高蔵寺ニュータウンの空地・空家調査」では、マスハウジング期に計画されたベッドタウン型理想都市での衰退期への前兆である空地・空家が確認された。空地が増えることは「悪」であると決めつけがちであるが、自然へ還すことも含めた環境的活用再生行為の可能性は、未来にとって「良い」ことであるとも言えよう。
” ※着色は引用者
)
ーーーーー
ワクワクさん
@uxskf
功利主義のベンサムのパノプティコンがそもそもそれより10年前のルドゥーによるメーソン監獄からのものだろうからね
円の中心部分の監督官の部屋がモデル
ルドゥーがメーソン建築家なのは有名な話だし
フランス留学してた三宅理一なんかも本にまとめてた
午後9:05 · 2024年8月3日·527 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
wikiの
pan-は「すべてを」(all)、-opticonは「みる」(observe) の意で、全展望監視システムなどとも訳される。
ってルドゥーからにしろプロビデンスの目のことだろw 全てを見通す目
重要なのは中心部の監視塔
フリメの目からは全てを見通せるってこと
午後9:10 · 2024年8月3日
·
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犯罪者を恒常的な監視下に置く
少ない運営者でもって多数の収容者を監督
社会に不幸をもたらす犯罪者を自力で更生させるための教育
ってことだが真ん中をメーソンの目玉にしたら面白い
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午後9:11 · 2024年8月3日
·
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まぁそのまんまフリーメイソンの監獄都市なんだけどね
こわい
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午後9:12 · 2024年8月3日
·
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ーーーー
しずのパパ
@ShihTzu_papa
あれ
つい先月網走監獄でそんな構造を見たような
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引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月3日
返信先: @uxskfさん
犯罪者を恒常的な監視下に置く
少ない運営者でもって多数の収容者を監督
社会に不幸をもたらす犯罪者を自力で更生させるための教育
ってことだが真ん中をメーソンの目玉にしたら面白い
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午後9:33 · 2024年8月3日
·
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ワクワクさん
@uxskf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3
日本での監獄・刑務所のシステムは、明治時代にフランスを手本として構築されたため、旧金沢監獄(現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移築)や、旧網走監獄の「五翼放射状平屋舎房」に、パノプティコンの思想をみることができる。
らしいよん
ja.wikipedia.org
パノプティコン - Wikipedia
午後9:57 · 2024年8月3日
·
763
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当然フリーメイソンの思想を基盤とした監視システムだろうね
私も見に行きたいなぁ 今後のスマートシティとかデジタル田園都市とかの予習に(恐怖)
午後9:58 · 2024年8月3日
·
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しずのパパ
@ShihTzu_papa
あっやっぱり…
なるほど国民全員囚人みたいな扱いになるようなもんですな
午後10:23 · 2024年8月3日
·
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ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
説明不要の陰謀アニメのPSYCHO-PASS
ガリバー以外も1984とか出てくるが
ベンサムのパノプティコンも当然入ってきてたんだよね
フーコーとかの監獄の話もあるけど
ま、ルドゥーのメーソンによる監獄建築みたいなとこは当然話さないけどね
午後9:45 · 2024年8月3日
·
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ーーーーー
https://x.com/uxskf/status/1840024739051655328
”
簡単な話 ベンサムは元々ロシアのフリーメイソン の繋がりが強い
まぁ正確にはパノプティコンも弟の発案で確定でメーソンのサミュエルからなんだけどね
つまり最初からメーソンありき
午後10:53 · 2024年9月28日·465 件の表示
あのカリオストロが大暴れしていたミタウにベンサム弟が入れ違いで登場
カリオストロの後ろ盾でもあったメーデム伯爵のとこにベンサム弟も歓迎され
そのままメーデムによってフリーメーソンに入会してる
カリオストロ→ベンサム(弟)というめちゃくちゃ面白い繋がりがここにある
午後10:57 · 2024年9月28日·399 件の表示
ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
まぁメイソンの話もカリオストロの後にやってきたベンサムの話も一切スルーした上で有名になってるのがフーコーの寸止めの監獄の誕生なんだけどね
それから百科全書派のタイムマシン属性持った衛宮切嗣がトロッコ問題みたいな事やってたら聖杯に精神ボコボコにされるどっかの0があったりする
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午後11:00 · 2024年9月28日
·
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ワクワクさん
@uxskf
ミルのフリメ要素満載のフランス留学の大きな助力をしてたのもサミュエルベンサムだね
パノプティコンもそうだしその後の動きもフリメから有名な方のベンサムになんらかの指示してるのも
ロシアのメーソンだろうね
だからフリメのマークの監視装置のアイデアを首相に手紙でお送りしたりしてる
午後11:10 · 2024年9月28日
·
463
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ワクワクさん
@uxskf
ルパン三世カリオストロの城の続編
ルパン三世ベンサムのパノプティコン
通貨発行権の次は何をやろうかなぁ
カントもカントでメーソン界のアイドルだぜ!
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午後11:12 · 2024年9月28日
·
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ーーーー
ワクワクさん
@uxskf
アルケスナン王立製塩所をフリーメイソンの目線で見たり現地調査する人は極めて珍しい
中央からの監視 すなわち"目"
というのはパノプティコンを想起させるが
午後7:22 · 2025年2月21日
·
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ワクワクさん
@uxskf
功利主義やらベンサムやらパノプティコンの話をするときにフリーメイソンの話をしない奴は寸止め
パノプティコンの中心部分にプロビデンスの目があった事
設計者がフリーメイソンである事を言わなくてはダメ
ルドゥーも同じ 共通してるのはフリーメイソンの思想って事
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午後7:24 · 2025年2月21日
·
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ワクワクさん
@uxskf
田園都市って何?って聞かれたら
仏フリーメイソン影響下のルドゥーのメーソン建築を源流として
神智学のハワードが提唱したメーソンの管理と支配に適した都市形態
って答えたら100点💮
午後3:30 · 2024年8月3日
·
8,830
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トリトリ。
@ToriTori_atom
田園都市 wikiを読んで、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%9C%92%E9%83%BD%E5%B8%82
多摩ニュータウンを思い出した自分は、影響受けまくっていたのを実感しました。
画像
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午後5:09 · 2024年8月3日
·
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アル=ケ=スナンの王立製塩所
ページ内の画像を組み合わせてみました。
監視塔と監獄都市のイメージ
なんとなく伝わるかしら?
画像
引用
ワクワクさん
@uxskf
·
2024年8月3日
http://architecturalwatercolors.blogspot.com/2012/03/ledoux-all-seeing-eye.html
中央の円形=プロビデンスの目だし監視塔自体がピラミッドに目玉なんだよね
星の巡りまで計算して設計したりメーソンの通過儀礼、儀式とかもてんこ盛りなんだけどとりあえずメーソンによる監獄都市形態って覚えとけば良い
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午後3:18 · 2024年8月4日
·
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ワクワクさん
@uxskf
いいね笑 この中央もメーソンの目玉にしてあげて笑
これ監視者の目からは全てを見通せるけど囚人には監視者が見えないと言うのがミソ
とにかく管理しやすいかたちなんだね
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午後3:23 · 2024年8月4日
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https://x.com/travelers1006/status/1892879192670310556
”
ーーーーーーー
ワクワクさんさんがリポスト
青龍
@Agito_Ryuki
いよいよ以って利用出来ると自民"ですら"思ってるのでだからこそのあからさまな工作の繰り返しですし。
裏の構造を知るきっかけがそもそもないのがダメ過ぎますね。というかイコロジー分析を学ばせないようにしてるというのはマジでデカい。メイソン云々以前の問題ですは
午後7:18 · 2025年3月28日
·
199 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
イコノロジー=メーソンによる研究みたいなもの 超重要
アビ・ヴァールブルクはFRB設立にも関わったロスチャイルドと並ぶようなユダヤ銀行家の人間です
そこから大英博物館を挟む感じでフリーメイソンホールがある象徴的な場所にウォーバーグ研究所がある
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午後8:24 · 2025年3月28日·165 件の表示
ワクワクさん
@uxskf
パノフスキーというのもこのユダヤ金融一族ウォーバーグやフリーメイソンの話を一切無視した『啓蒙主義の哲学』でお馴染みのカッシーラーなどの流れの人です
実際にこのイコノロジーや古代秘教関係は基本的にAPSやらCNRSやらに握られています
午後8:27 · 2025年3月28日
·
190
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ワクワクさん
@uxskf
象徴図像学や芸術理論は基本的にフリーメイスンリーが発展させてきたものなので現代においても彼らの理念や思想の理解が必須である
例えばメーソンが崇拝するアルベルティの本はウォーバーグ研究所、APSの人間が白水社(フランス)から出していたりする
午後8:31 · 2025年3月28日
·
266
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ーーーー
フラクタル
@sjmwuj
ベンサムのミイラがあるUCLのページにパノプティコンの説明あるけどなかなか良いと思う
英語版のWikipediaにはパノプティコンの本来の意図、パノプティコンとルドゥの製塩場の関係やその後のパノプティコンに当たるもの(監視カメラやSNS)などあって読むのもいいかと思う
午後8:18 · 2025年3月28日
·
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サンクトペテルブルクに現存はしないがパノプティコンを美術展示に使われているおり、はたまたベンサムの弟の作品として有名
ベンサムの弟が兄に相談されてパノプティコン作ったと言ってもいいだろうに
午後8:18 · 2025年3月28日
·
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ベンサムの弟はロシアのポチョムキンの下で仕事していた訳だけど、ポチョムキンの非公式な嫁は女王でその女王は啓蒙主義かぶれてたりなんとも面白い
午後8:38 · 2025年3月28日
·
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[
Panopticon - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Panopticon
]
ワクワクさん
@uxskf
本格的な美術に関する話は密教的な側面があるからね
そこに取り入ったり取り入ろうとして学ぶという所が大きい
ベンサムやパノプティコンの話なら本来は根底がフリーメイソンの哲学なのにそれを無視したフーコーの監獄の誕生などが人気というね
あんなの読んだとこでほとんど意味ないよ
午後9:42 · 2025年3月28日
·
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結局の所(パノプティコンだけに)中心の部分を隠した状態
監獄の誕生はあの本そのものが中心部の見えざる支配者 フリーメイソンの目玉を隠すために機能している
午後9:45 · 2025年3月28日
·
22
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ーーーーー
苦行むり
@exa_desty
ブロックチェーン上でRWA=現実資産のマンションや自動車等の分割資産化で所有権の取引状態、誰が今持ってるかとか全部見れるけどそれだと安全とは言えないよね。それを隠せる技術があるけどまぁ社会的に潰されたって事だな。常に銀行口座やいつ資金移動したとか他者に見られる仕組みって嬉しいか?
午後1:05 · 2025年3月29日
·
56
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]
” ※強調は引用元と同じ。
ゆる哲学ラジオ
@yuru_philosophy
パノプティコン、ベンサムの弟がロシア海軍の労働者管理装置として概念化したのを、兄が牢獄とか学校とかに使えるね!って著作で紹介したんですよね。で、近代以降の権力を研究したフーコーが「規律権力」のモデルとして挙げるに至った…という流れだったと記憶しています。
午後3:38 · 2024年12月24日
·
1,797
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https://x.com/uxskf/status/1840027149786333359
”ワクワクさん
@uxskf
簡単な話 ベンサムは元々ロシアのフリーメイソン の繋がりが強い
まぁ正確にはパノプティコンも弟の発案で確定でメーソンのサミュエルからなんだけどね
つまり最初からメーソンありき
午後10:53 · 2024年9月28日
·
574
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https://x.com/uxskf/status/1840031281557692901
”ワクワクさん
@uxskf
ミルのフリメ要素満載のフランス留学の大きな助力をしてたのもサミュエルベンサムだね
パノプティコンもそうだしその後の動きもフリメから有名な方のベンサムになんらかの指示してるのも
ロシアのメーソンだろうね
だからフリメのマークの監視装置のアイデアを首相に手紙でお送りしたりしてる
午後11:10 · 2024年9月28日
·
567
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”
技術革新と不平等の1000年史 著)ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソンーPower and Progressー
INDY
2025年1月28日 13:32
https://note.com/indy2024/n/na34d34fd7997
”昨年(2024年)のノーベル経済学賞の受賞者「ダロン・アセモグル」の本ということで、興味を持って読んでみた。
(1)新たな技術や機械は、空から自然に降ってくる贈り物ではない。こうした技術や機械は、オートメーション化や監視に焦点を当て、人件費を削減することもできる。あるいは、新たな仕事を生み出し、労働者に力を与えることもできる。より大局的に見れば、新しい技術や機械がどう使われるか、新たな革新的努力がどこに向けられるかによって、繁栄の共有が実現することもあれば、容赦ない不平等が生み出されることもある。
原則として、これらの決定は社会が共同して行うべきものである。ところが実際には、起業家、経営者、先見者、そして時には政治的リーダーによって決定がなされ、テクノロジーの進歩によって誰が勝ち、誰が負けるかを大きく左右するのだ。
(2)現代社会では説得する力がものを言う。大統領であれ、将軍であれ、族長であれ、兵士に戦いを強制できるほどの力のある者は多くない。法律の改正をただ命じられる政治指導者もほとんどいない。これらのリーダーに人々が従うのは、制度、規範、信念によって高い地位と威信が与えられているからだし、人々が彼らについていくのは、ついていくよう説得されているからなのだ。
という内容が、印象的だった。
(略)
プロローグー進歩とは何か
毎日のように、経営者、ジャーナリスト、政治家、さらにはマサチューセッツ工科大学(MIT)の同僚からさえ、こんな声が聞こえてくる。前例のないテクノロジーの発達のおかげで、我々はより良い世界へ向かって絶え間なく前進しているのだ、と。ほら、新しい携帯電話だ。最新の電気自動車もある。次世代のソーシャルメディアへようこそ。近い将来、科学の発達によって、がん、地球温暖化、貧困すら解決できるかもしれない。
もちろん、世界中に蔓延る不平等、公害、過激主義といった問題は依然として残っている。だが、こうした問題はより良い世界へ至るための産みの苦しみだ。いずれにせよ、テクノロジーの力は止めようがないと言われている。止めたくても止められないし、そんな試みは到底勧められない。それよりも、たとえば将来有望なスキルに投資するなどして、自分自身を変える方が得策だ。問題が継続するようなら、才能あふれる起業家や科学者が、より高性能なロボット、人間並の人工知能、必要とあらばその他いかなるブレイクスルーであれ、解決策を生み出してくれるだろう。
ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、あるいはスティーブ・ジョブズの約束であっても、全てが実現するわけではないことは誰もが知っている。だが、一つの世界として、われわれはテクノ楽観主義を吹き込まれてきた。あらゆる場所のあらゆる人が、できる限り多くのイノベーションを起こし、何が有効かを見極め、その後、荒削りな部分を取り除くべきなのだ。
われわれは、こうした状況を何度も経験してきた。ある生々しい事例が始まったのは1791年のことだった。この年、ジェレミー・ベンサムがパノプティコンという監獄を設計した。ベンサムによれは、円形の建物に適切な照明を配置することによって、中央に陣取る看守は、相手から見られることなく、あらゆる囚人を絶えず監視しているという印象を生み出すことができる、つまり、囚人に行儀よく振る舞わせるための実に効率的(で低コスト)な方法だというわけだ。
このアイデアは当初、イギリス政府から支持されたものの、十分は資金を得られなかつたため、設計通りの監獄が建設されることはなかった。それでも、パノプティコンは現代人の想像力を掻き立てた。フランスの哲学者ミシェル・フーコーにとって、それは産業社会の核となる抑圧的な監視のシンボルだった。ジョージ・オーウェルの『1984年』の作中では、社会統制の手段として至る所に存在している。マーベルの映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では、その設計に欠陥があり、監獄からの脱走を促すことになる。
監獄として提案される前、パノプティコンは工場だった。そのアイディアを出したのは、ジェレミーの弟にして熟練の造船技師であり、当時はロシアのグリゴリー・ポチョムキン皇太子のもとで働いていたサミュエル・ベンサムだった。サミュエルのアイデアは、少数の監督者によってできるだけ多くの労働者を監視できるようにするためのものだった。ジェレミーの貢献は、その原理を多様な組織に拡大したところにある。彼はある友人にこう説明している。「この単純で一見わかりやすい仕組みが、学校、工場、監獄、さらには病院の業務を間違いなく効率化することを知れば、君は驚くはずだ…」
パノプティコンの魅力は、管理者の立場にあればすぐ分かるし、当時の人々がそれを見損なうこともなかった。より良い監視がより従順な行動を導き、より広範な利益を社会におたらすことは容易に想像できた。ジェレミー・ベンサムは博愛主義者であり、社会の効率を改善し、誰もがいっそう幸福になれるスキームに突き動かされていたー少なくとも本人の見解によれば。こんにち、ベンサムは功利主義哲学の創始者として知られている。功利主義とは、社会に含まれるあらゆる人々の幸福の総計を最大化しようという考え方だ。ある人々を少しばかり搾取する代わりに、少数の人々が多大な利益を手に入れられるとすれば、それは考慮に値する改善だとされていた。
とはいえ、パノプティコンは効率性や公益だけを目的としていたわけではない。工場における監視が意図していたのは、労働者に最も熱心に働くよう促すことであり、賃金を上げずにやる気を引き出すことだった。
19世紀のイギリスにおいて、選挙競争、労働組合の台頭、労働者の権利を守る立法などを通じて、生産の組織化と賃金設定の方法が変わった。アメリカ合衆国からイノベーションの新たな波が到来したことも重なり、テクノロジーの新しい方向性が形作られた。かつて労働者が行なっていた作業を機械で代替したり、彼らを監視する新たな方法を発明したりするだけでなく、労働者の生産性向上に焦点が当てられたのだ。その後1世紀に渡り、こうしたテクノロジーは西欧に、続いて世界に広がっていった。
こんにち、地球上の大半の人々が自らの先祖よりも豊かに暮らしているのは、初期の産業社会において組織化された市民と労働者が、テクノロジーや労働条件についてエリートの支配する選択に意を唱え、技術の進歩がもたらす利益をより公平に分かち合うよう強制したおかげだ。
” ※着色は引用者
)
参考資料
睂/麻賦世博
@kgk_hk
時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん
第1話「ロシア語でデレるアーリャさん」
最終話「聖なるロシアの復興を願うドゥーギンさん」
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午後0:38 · 2024年7月5日·3,075 件の表示
https://x.com/uxskf/status/1860599201127891111
”ワクワクさん
@uxskf
ロシア関係は下斗米伸夫の第三のローマあたりを最低限読むべきで
ロシアのウクライナ侵攻をNATOへの拡大だとかアメリカ黒幕説で終わらせると微妙
そんな私はラックマンの聖なるロシアの復興をようやく読み始めたけどこれは非常に面白い
午後5:19 · 2024年11月24日·1,453 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1860600324421222802
”まぁそれでも当然陰謀関係のネットワークやメーソンの話なんかは当然出てこないんだけどね
なぜロスチャイルド系のNYタイムズに暴露された組織と被るとこが親露なのかとか
なぜキリスト教右派と繋がっているのかとか
なぜロシアの工作員とQあたりが仲良しなのかとか
午後5:24 · 2024年11月24日·786 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1861362645745684508
”ワクワクさん
@uxskf
斎藤知事の件でここんとこずっとTwitterは盛り上がってんなぁ
とりあえず勝共系が斎藤擁護してて左側が斎藤叩いてる傾向なのは分かった
まぁ個人的にあんまり興味ないな
午後7:53 · 2024年11月26日·4,679 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1861363585991221549
”マスゴミだとか言ってる人の大半が自分に都合の悪いニュースを流したから騒いでたりするだけでお察し
アホくさいわぁ
そんな事より聖なるロシアの復興はめちゃくちゃ面白かったから気になる人読んでみてね
買うには高くて借りたけど
ネットもテレビも大半は見る価値ないよ 本も闇鍋だけど
午後7:57 · 2024年11月26日·953 件の表示”
https://x.com/uxskf/status/1875590724760301595
”ワクワクさん
@uxskf
ロシアメーソンやブラヴァッキー関係だとニコライ・ノヴィコフという人物が重要だよ
https://universalfreemasonry.org/en/stories/blavatsky
曽祖父の話はそもそもブラヴァッキー自身も話してる
パーヴェルって人ね
この大量のメーソン本からブラヴァッキーのオカルトへの道が始まってるから最初から神智学はメーソンありき
universalfreemasonry.org
Universal Co-Masonry | Who was Helena Blavatsky?
Who was Helena Blavatsky?
午前2:10 · 2025年1月5日·44件の表示
”
(上記の続き)
https://x.com/uxskf/status/1875591846749204538
”ここら辺の話は情報がほとんどない
少なくともブラバッキーの曽祖父がメーソンでその何百冊もの大量のフリーメイソン関連の書物が弾圧から逃れていた事によってブラバッキーの神智学なんてものが生まれてしまったのは間違いない
午前2:15 · 2025年1月5日
·48 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875594045885714735
”ブラヴァッキー本人がフリーメーソンである曽祖父が残していた蔵書が自身のオカルトへの始まり、きっかけであると語っていて
その曽祖父のパーヴェル公爵がなんらかのフリーメイソンによる陰謀に関与していたことも匂わせてる
その蔵書の内容は当然あの時代の薔薇十字、メーソン、錬金術、魔術関連
午前2:24 · 2025年1月5日·20件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875595621580861743
”ワクワクさん
@uxskf
ここら辺の内容は前に紹介した気がする聖なるロシアの復興にも載ってたはずなのでとりあえず必読
そんなに直接メーソンやブラバッキー関連の内容は無かったと思うけど
数ページあったかな? 内容は重要だった
ロシアの歴史や思想にオカルト関係をサラッと知るという意味でも読むと良いよ
午前2:30 · 2025年1月5日·1,300 件の表示
”
https://x.com/uxskf/status/1875596138537218149
”出版社がヒカルランドって説明不要なとこなのは察して下さい
そもそもこの本くらいしかそんなの載ってるの日本じゃないからさ・・・
めっちゃ分厚いのと高額なので図書館かなぁ
午前2:32 · 2025年1月5日·783 件の表示”
(備忘録の準備のため『聖なるロシアの復興』についていろいろRTした後)
https://x.com/uxskf/status/1893151775513026813
”ワクワクさん
@uxskf
ラックマンの本なら聖なるロシアとあわせてトランプ時代の魔術も読んだ方がいいよ というかセット
どっちもヒカルのランド出版
表のやつではリベラルを潰せとかNYタイムズの何冊かがあるけどやっぱラックマンの方が面白い
午後1:12 · 2025年2月22日·296 件の表示
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1579033510819823616 と続き
”菊池
@kikuchi_8
より広い視野で分析してみる。プーチンの知恵袋とされるのがアレクサンドル・ドゥーギンという思想家である。ドゥーギンの掲げる政治理念はロシアを中心にユーラシア大陸に多極的な体制を作るというもの。国家主権を無くして単一政府を作るというタイプのNWO構想と対照をなす、ある種のNWO構想である。
午後5:58 · 2022年10月9日
今の世界情勢の大枠は、裏権力の中でも、戦争を含む強硬手段で一気にNWOを実現しようとする一派と、中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派による両建抗争だと分析している。後者はキッシンジャーが典型だが、彼らはドゥーギンの理論にも乗っかる形でNWOを推進しているのかもしれない。
午後6:05 · 2022年10月9日
若い頃に西洋神秘主義に傾倒したとされるドゥーギンの多極化理論は、中露を取り込む形での世界連邦を構想する裏権力派閥には相性のよいイデオロギーといえる。最近はイーロン・マスクがドンバス地域やクリミアの帰属を決める住民投票を行うべきと主張したが、これも前述の陣営寄りの発言と思われる。
午後6:23 · 2022年10月9日
#ワクチン薬害 がトレンドに。イーロン・マスクがTwitterを買収した影響だろうか?現今国際情勢の大枠は「裏権力AチームVS裏権力Bチーム」両建抗争と見ている。マスク氏はBチーム寄りと見ているので、Twitterの変化も期待せず冷静に観察する。我がシャドウバンがどうなるかを個人的指標としたい(笑)
午後5:53 · 2022年10月30日
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1586658083333296128
”菊池
@kikuchi_8
「裏権力Aチーム」「裏権力Bチーム」について説明。前者は「戦争を含む強硬手段で一気にNWOを実現しようとする一派」で、後者は「中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派」である。欧米の権力者はそのいずれかの陣営に属し両建抗争していると分析する。これが今の国際情勢の大枠と見る。
午後6:55 · 2022年10月30日”
https://x.com/kikuchi_8/status/1733844509476409775
菊池
@kikuchi_8
日本の裏権力支配構造の変化を分析するには、日本の(と世界の)裏権力支配構造を理解する事が重要である。その為には「青組」「赤組」という概念を用いて整理すると分かり易い。裏権力の派閥分けをAチーム・Bチームと便宜的に呼んでいるが、長いので、前者を「青組」、後者を「赤組」と呼ぶのが便利。
午後10:41 · 2023年12月10日·4,401 件の表示”
(「赤組」=Bチーム=「中露を取り込む形で漸進的にNWOを実現しようとする一派」。
「マスク氏はBチーム寄りと見ている」[2022年10月30日時点]。
トランプが大統領になった後の動きを見るに、完全にトランプ側なのがイーロンだ。つまり青組=Aチームだ)
菊池
@kikuchi_8
若い頃に西洋神秘主義に傾倒したとされるドゥーギンの多極化理論は、中露を取り込む形での世界連邦を構想する裏権力派閥には相性のよいイデオロギーといえる。最近はイーロン・マスクがドンバス地域やクリミアの帰属を決める住民投票を行うべきと主張したが、これも前述の陣営寄りの発言と思われる。
午後6:23 · 2022年10月9日
(上記への返信)
https://x.com/yoshimichi0409/status/1579042583564939269
”よーすけ
@yoshimichi0409
プーチンの政策には、ドゥーギンの他に20世紀初頭に基督教神秘主義の立場から西欧近代の進歩主義を批判したロシアの思想家ベルジャーエフの影響が強く見られます。
午後6:34 · 2022年10月9日
”
https://x.com/kikuchi_8/status/1579056333554593792
”菊池
@kikuchi_8
ご教示頂きありがとうございますm(_ _)mさすがはよーすけさんです。勉強になります。「ベルジャーエフ」は初耳です。調べてみますね。明治期に来日して西洋近代文明を批判したロシア系ドイツ人のケーベルと思想的立場が近そうだなと思いました。
午後7:29 · 2022年10月9日
”
https://x.com/uxskf/status/1893909773994561637
”ワクワクさん
@uxskf
左翼が叩きまくってるドゥーギンてのはプーチンの頭脳ってよりQアノンのロシア版みたいに思っておけば良いよ
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午後3:24 · 2025年2月24日·896 件の表示”
https://x.com/kikuchi_8/status/1873055877160468755
”菊池
@kikuchi_8
「日本のQアノン系は基本的に旧大本教系で最近は統一系(親米右派)も参入している」と書いております。また、「特殊事情」は新左翼から偽史・オカルトにシフトした系譜がある事やプロテスタント系と大東社系が明治以来政治勢力として近い位置にいる事について述べたものです。https://x.com/metarano/status/1869737775349772565
午前2:18 · 2024年12月29日
·
2,363
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”
(続き)
https://x.com/kikuchi_8/status/1873056139098927274
”菊池
@kikuchi_8
ロシアを見落としている訳ではない事は先述の通りです。ただ、これまでは優先順位が低かっただけです。今後中露が優勢になれば、そちらの分析批判を優先させる事になると思います。中国はデジタル・レーニン主義が直接日本に影響するのでちょくちょく分析批判しておりますが。
引用
菊池
@kikuchi_8
·
2022年10月9日
返信先: @kikuchi_8さん
より広い視野で分析してみる。プーチンの知恵袋とされるのがアレクサンドル・ドゥーギンという思想家である。ドゥーギンの掲げる政治理念はロシアを中心にユーラシア大陸に多極的な体制を作るというもの。国家主権を無くして単一政府を作るというタイプのNWO構想と対照をなす、ある種のNWO構想である。
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午前2:19 · 2024年12月29日
·
2,414
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”
https://x.com/kikuchi_8/status/1873056780462506476
”菊池
@kikuchi_8
私とねここねこさんが意見対立しているという前提でお話されているように見えますが、実際には違う事を説明します。青赤分析にしても、ねここねこさんがアニメ・漫画・ゲームなどサブカル領域を主なフィールドとして論じておられるのに対して、私は政治経済社会を含むトータルな視点で論じています。
午前2:21 · 2024年12月29日
·
1,454
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873057326678327432
”フォーカスする領域や視点がそもそも異なるので矛盾も意見対立もないんです。私もアニメなどでは青組も神秘主義が前提だと思いますし。国際政治の領域で見ると、青組は一神教論理を前面に出す場面がまだまだ多いと思います。例えば、ネオコンが正義を振りかざす十字軍的な論理で侵略戦争をしたりなど。
午前2:24 · 2024年12月29日
·
1,622 件の表示
”
菊池
@kikuchi_8
英米の戦争は自らを「正義」とし「敵」を「悪魔化」して正当化します。これは十字軍の論理そのものですし、米国の基督教に由来する「マニフェストディスティー=明白な使命」なる独善的な信仰にも通じます。表の国際政治の場面ではこうしたゴリゴリの一神教論理がまだまだ幅を利かせていると思います。
午前2:25 · 2024年12月29日
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3,325
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訂正 ×最優先出来ました → ○最優先で来ました
引用
菊池
@kikuchi_8
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2024年12月29日
返信先: @kikuchi_8さん
私の陰謀追及者としての基本的な姿勢として、その時々で最も優勢な勢力を優先して分析・批判するというのがあります。国内だと自公批判が優先で、野党への言及は少なめ、など。国際情勢でも同じで、これまではネオコン・シオニスト批判が最優先出来ました。今後中露優勢になれば優先順位が変わります。
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午前2:33 · 2024年12月29日
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1,998
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873068959421088034
”菊池
@kikuchi_8
先述の通り神秘主義を右派左派に分ける事は難しいと思いますが、神秘主義系人脈を右派左派に分類する事は中々良い考えだと思います。しかし、神秘主義系人脈≒英国系石屋人脈なので、それだとほぼほぼ私と同じ構図理解になります。右派左派の分類は便利ではありますが、その枠を絶対視すると、かえって
午前3:10 · 2024年12月29日
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873070251338018959
”事実と齟齬を来したり矛盾が出て来たりするので、あくまでも「目安」程度に捉えるのが良いと思います。私の構図理解もあくまで現時点での分析・解釈・構図理解に過ぎず、絶対的とも正解だとも思っていません。なんとか裏権力の権力構造を理解する為に事実に徴しながら自分なりに分類をしただけです。
午前3:15 · 2024年12月29日
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1,686
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873071182242844707
”菊池
@kikuchi_8
アニメなどの青組系シンボリズムは神秘主義が前提という見方は私も同意です。そもそも裏権力の中枢自体が神秘主義や秘教主義が中核で、一神教や理性主義は人々を操る為の道具に過ぎないのかもしれません。アニメに神秘主義が出やすいのはアニメと言う媒体の性質にもよると見ます。アニメーションの語源
午前3:19 · 2024年12月29日
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3,280
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https://x.com/kikuchi_8/status/1873072771712074062
”の「アニマ」は「魂」や「生命」を意味する古代ギリシャの「プシュケー」に相当する概念であり、一神教より神秘主義の方が馴染み易いのだと思われます。そのためアニメのシンボリズムでは赤組系だけでなく青組系も“偶像崇拝”を嫌う一神教ではなく神秘主義や秘教主義が前面に出て来るのだと分析します。
午前3:25 · 2024年12月29日
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2,164
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菊池
@kikuchi_8
考察の続き。ここからは特定の方に向けた返信ではないので、いつもの独り言スタイルで書きます(笑)
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午前0:54 · 2024年12月30日
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1,104
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菊池
@kikuchi_8
英国系石屋(フリーメイソン)人脈を右派・左派に分ける分類はあくまで目安に過ぎず相対的なものでしかない。絶対的な分類だと見ると、色々齟齬や矛盾が生じて来る。例えば、左派のフェビアン協会員の殆どは大英帝国主義に反対しなかったし、逆に右派のチャーチルは世界連邦運動の初期の賛同者だった。
午前0:58 · 2024年12月30日
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1,753
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「赤組青組」という分類も同様であると思う。フェビアン主義者は世界連邦構想を推進し社会主義的な体制変革を志向する点では赤組的だが、大英帝国主義に反対しなかったり推進に関わっていたりするのは青組的な振る舞いと言える。TPPに加盟した英国の現政権はフェビアン協会と密接な労働党政権である。
午前1:09 · 2024年12月30日
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1,762 件の表示
神秘主義を右派左派に分ける案についてあれから少し考えてみたが、「科学主義により近いのが神秘主義左派、一神教により近いのが神秘主義右派」という基準はどうかと思った。例えば、前者の例がトランスヒューマニズム、後者の例がカバラや基督教神秘主義、中間がオーソドックスな新プラトン主義など。
午前2:21 · 2024年12月30日
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1,393
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ロシアが世界連邦主義の構想に組み込まれている説だが、ドゥーギンの多極化理論は世界連邦主義に通ずる面はあると思う。あと、プーチンがKGB諜報員時代に英国のロイヤル・アーチ・フリーメイソンに加入していたと元MI6エージェントのリチャード・トムリソンという人物が述べたそうだが、真偽は不明。
午前3:03 · 2024年12月30日
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1,917
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真偽は不明だが、プーチンと英国系フリーメイソン・MI6の接点を示唆する情報ではあるので心には留めておきたいと思う。「英国系石屋とロシアの工作には関係がない」と言い切るには早いと思う。その可能性も考慮し十分に考察すべきであろう。反証が無い限りあらゆる可能性を考え分析考察すべきと思う。
午前3:06 · 2024年12月30日
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(本記事の公開後にさらに追加予定)
お読み下さり感謝‼
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