頭部だけで1メートル近くある土龍の生首を、ソアレが片手で引きずっている。
討伐証明に必要な頭部は、同時に非常に価値の高い素材でもある。眼は魔道具の材料に、牙は短剣に、舌は高級食材に。
だから通常は傷がつかないように丁寧に運ぶ。しかしそれをまるで
ソアレの傷を
幼子のようにひたすらに泣いていた彼女は、やがてゆっくりと無言で立ち上がった。治った上半身を確認することも無く、ラスタの方を向くことも無く、ただ機械的に剣を握り直す。
「…ハイネは土龍にボクごと『
言うが早いか、ソアレの姿が掻き消える。その直後に、硬質な業物が擦れ合う不協和音。
瞬きの内に土龍の懐へ潜り込んだ彼女は、敵の爪に消えない傷をつけていた。
土龍は自慢の爪につけられた傷を確認し、不快そうに絶叫のような鳴き声をあげる。
その咆哮さえも、最後まで放つことができない。
傷をつけた「敵」へ逆襲しようとソアレに躍りかかった瞬間、土龍はまるで糸に絡め取られたかのように体を硬直させた。
剛糸のように細く、それでいて濃密な鋭い
チン、という微かな納刀音が響いた時、すでに土龍の体には、横一閃に真っ赤な線が入っていた。
『
キキョウの居合に土龍が僅かに怯んだ瞬間、ハイネの羊角が光り出す。禍々しく脈打ちながら広がる堅牢な帷は、ソアレ共々土龍を完全に包み込んだ。
また土龍が耳をつんざく絶叫を上げる。爬虫類じみた縦長の瞳が憤怒に燃えている。
思ったとおりに動けない鬱憤を晴らすように、土龍は自分と一緒に檻へと入った
しかし、その先には誰もいない。
「さよなら」
土龍のはるか高く頭上、幽閉魔法の効果ぎりぎりの位置へ跳んでいた金髪の少女は、一つの霹靂となって避雷針の中心に
天がそのまま地に堕ちたかのような凄まじい衝撃に包まれる。その音に、ハイネは少し肩を跳ねさせながら恐る恐る魔法を解く。
そこにあったのは、断面が綺麗に焼け焦げて、血の一滴も垂れていない土龍の生首。
そして、剣先から残った電気を放電させながら、空虚な目でぼんやりと地面を見るソアレの姿だった。
その後ソアレは俺を見た。途端に彼女は壊れそうな表情を浮かべる。こちらに一歩歩み寄ろうとして、自分を押さえつけるように足を止めた。
耐えようとしていた。
「…ごめん。帰ろっか」
たったそれだけ言って、彼女は身を翻した。噛み切られた唇から無視できないほどの血が流れていることを、俺は見逃すことは出来なかった。
土龍の血で固まった少女の金髪は、光を受けてもきらめかない。彼女の足取りは、土龍の首の重さを鑑みても明らかに遅く、このペースだと街へ辿り着く頃には日がてっぺんに昇っていることだろう。
もし、ソアレに歩み寄って彼女が引き摺る生首を指し、「俺が運ぶよ」なんて言えたら、どれだけ気持ちが楽になるだろう。
もし、その申し出に対し、ただ首を横に振られたら、どれだけ俺は死にたくなるだろう。
その苦痛さえも、今のソアレに比べたらずっとちっぽけなものに違いない。
自分の懺悔が、後悔が、俺の心を沈ませることを知っているから。それを吐き出すことができず、彼女は苦痛を抱え続けている。
「ソアレ。…その首、私の空間魔法の中に入れようか」
重苦しい沈黙を、ハイネの控えめな声が破る。
空間魔法は保存する対象の体積によって必要魔力量が決まる。いつもなら魔力の節約のために物理的な輸送を選ぶサイズである土龍の首に対し、ハイネはソアレにそう提案した。
少しでもソアレの負担を和らげたいと、普段は感情の読めない目が強く語っていた。
自分も命を削ったにも関わらず。
あと何回分、俺は生きることができるだろうか。ハイネを殺す未来を遠ざけることが、俺にできるのだろうか。
俺は重症を負ったソアレを、彼女の意志を踏みにじって「治癒」をした。それと同時に、俺はハイネを死へと近づけたのだ。
あの傷は重かった。何年
なんとなく、あと十数年だという確信がある。たとえ生の価値に俺が気づいたところで、その事実は変わらない。
ふとイメージが湧いた。
悲しみを心の底から絞り出すように泣いて俺を引き止める仲間の姿。それに応えず、寿命を使い切る俺の姿。その隣では、ハイネもまた静かに息を引き取る。
ぞっとした。その未来に、やけに現実味を感じてしまったから。
その時。陰惨な思考の渦に呑まれた俺の耳に、長い沈黙のあとのソアレの返答が入ってくる。
「あぁ………ごめん。もうちょっとだけ、持っていてもいいかな。…その、手が空いてたら、抑えきれそうになくて」
脳天を、深く貫かれたような気分だった。しかし俺を襲ったのは、後悔でも気づきでもない。ただ、ひたすらに深い絶望。
俺が死んだら、皆悲しんでくれるだろう、なんて、愚かなことを俺は度々考えた。
それどころじゃない。
彼女は、彼女たちは、俺がいなくなったあと
その疑問を、すぐに否定することができない。
胃液の味がする。
「あ、ああ、……違う、ちがうんです」
力なく笑おうと努めるソアレに、血に紅く染まった和装を身に纏った少女が近づく。
「私があの時気づけなかったから、貴女はただ私を庇って、私が背負わないといけなかったのに、私は、また……!」
金髪の少女の肩に伸ばしかけた右手。まるで触れることを恐れるように、その手をキキョウは左手で握って止めた。
下を向いて何も言えなくなった彼女の肩に、代わりにソアレが手を置く。そして優しく首を振って、
「あれはボクのせい。……キキョウは優しすぎるよ。だから、そんな顔…しない、で」
最後の最後で言い淀む。
「………あれ?…あれ?」
拭っても拭っても湧いてくる。抑えきれなかった思いが洪水のようにソアレの頬を濡らす。
涙を隠そうと、ソアレが手で目を覆った。
その手さえも、震えていて。
もう限界だった。俺たちには、切実に休息が必要だった。
◇
「……神都に?」
弱々しい
「女神様への礼拝も兼ねて、旅行に行けたらと思って、な」
この街から馬車で二日ほど移動した所に、一つの都市だけで独立した国家を持つ国がある。
神都フロース。
女神様が創成した世界に初めて降り立った場所と言われており、女神教の聖地となっている。
また、治癒師が国の中枢を握る、この世界では珍しい完全宗教国家でもあるのだ。
女神教の穏やかな雰囲気がそのまま反映された都市であり、単に観光するのにも適していると思っている。
それに、神都の周りには魔物はまず存在し得ない。
その理由は、ひとえに女神の加護による結界の存在だ。
結界と言っても、実際にバリアのようなものが神都を包み込んでいるわけではない。領域に近づいた魔物に潜在的に働きかけて、魔物を目的地に辿り着くことを拒否する、どこか
「その…どう思う?」
もう一度尋ねる。口を
この惨状で。この歪んだ心理状態で。
何が休息だ、旅行だなんて叫びたい気持ちもあるだろう。しかしそれと同時に、彼女たちも気づいているはずだ。
このままだと潰れてしまうことを。
ただ一日でもいい。俺のことを忘れて欲しい。そして、気を抜いて欲しい。無力にも、俺に彼女たちを癒す力は無い。だから過去に縋った。あの憂いの存在しない、穏やかな幸せに、ひと時でも浸って休んで欲しかった。
「いいんじゃない」
その時、ハイネが手の中の文庫本をぱたりと閉じて言った。皆の視線が一点へと集まる。そしてふと気づいた。先程から、ページをめくる音が微塵も聞こえないことに。
「今私たちが一番怖いのは魔物。神都ならその心配はない。…それに、ソアレもキキョウも。そして、ラスタも。あなたたちには一度落ち着く時間が必要」
なんて年長者ぶって。彼女の横に細い瞳孔が円く開く。
そんな姿が、まるで弱っているのを隠すために羽を膨らませる小鳥のように見えた。
「…それでも、このパーティのリーダーはソアレ。あなたが行かないと言うなら私はそれに従う。…本当に、気は遣わなくていいから」
「……」
長考の後。
ゆっくりと、控えめに。しかし確かに、彼女は首を縦に振る。
「そう、だね。いつまでもこのままじゃ、ダメだよね」
両手の人差し指を唇の端にあてて、ソアレはぐっと指を上に押した。口角が不恰好に上がる。
「…よし!今週は、旅行しよっか!」
その空元気までも、ひどく痛々しい。
繕いに気が付かないふりをして、俺も下手な笑顔を作った。