「雷霆への祈り」。
2年前にソアレと俺とで設立した冒険者パーティであり、この街で二つしか無い「A級」の称号を持つ。
国からの承認を得る必要がある例外的な等級のS級を除けば、最高ランクのパーティ。俺たちはその恩恵を利用して、良い仕事を斡旋してもらったり、素材の買取値に色をつけてもらったりしていた。
その対価として、俺たち高ランク冒険者には義務がある。
その最たる物が、高危険度の魔物の討伐である。
晴天に鋭い鐘の音が響く。その警鐘を無視することができず、彼女たちの方へと向けた足を止めた。
ソアレの視線が、俺とギルドの間で忙しなく揺れている。
きっと今、俺たちの思考は一つになっていることだろう。
最悪のタイミングだ、と。
現に、ソアレとキキョウの顔は真っ青だ。ハイネも無表情を維持できず、その顔に固さが見える。俺も弱々しい顔を浮かべているに違いない。
にわかに騒ぎ出す街の人々とは対照的に、俺たちの間はあまりにも重い沈黙で押し潰されている。
「……早く行かないとね」
その沈黙を、ハイネがぽつりと破った。一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
躊躇いがちに彼女の方へ顔を向ける。そして認識した。ハイネの眼が俺を捉えていることに。
心臓を射抜かれたような痛みが走った。
駄目だ。
危険度Aの魔物と戦ってしまえば、無傷での勝利などあり得ない。そもそも、俺たちは
しかし今それをしてしまえば、ハイネは……そして、俺も。
思考が強制的に止まる。しかし事態はそれを許してくれない。
人々がひと固まりのどよめきとなって、俺たちの
無理もない。
魔物が街の近くに発生したのだ。それも、A級。対処できる者はごく限られている。
早く行かないといけない。守らなくてはいけない。戦わなくてはいけない。
今度は意識して思考を強制的に遮断する。自棄であることは自覚していた。それでも身体は冒険者として動く。足が戦闘装備のある自室へと向く。
「………ソアレ」
その歩みが止められる。法衣の袖の端が、強く握りしめられていた。
「行かないでよ」
激しく揺れる声をかろうじて聞きとった。
こちらを見つめる琥珀色の瞳。怯えを孕んだその眼に、もはや戦意は存在していない。
その負の感情に圧倒される。
なんとなく、袖を掴むソアレの手に自分の手を重ねた。
彼女の手は少し乾燥していて、爪の付け根が荒れていることに気づく。
『彼女は生きている』。
そして、『彼女の中に俺は確かに生きている』。
そんな当たり前のことを意識する。夢の中にいるような気分がクリアになる。
「う……ぁ、」
つい先日までは「大丈夫だ」と根拠無く払いのけたその手から、逃れることができない。
その瞳から、目を逸らすことができない。
「……はぁ」
「「ッ!!」」
その時。止まってしまった時間に、キキョウの疲れたような声が
「ソアレ。貴女はここで待機しておいて下さい。ラスタを頼みましたよ」
「……え?」
そう言って装備を取りに宿屋の中へと入っていく。我に返ったソアレが、迷いのない歩みを見せるキキョウを慌てて静止する。
「ま、待ってよ。あ、その…どこ、行くの?」
「?…決まってるじゃないですか。討伐ですよ……私たちの参戦は、必須ですから」
聞き捨てならない言葉が、俺の耳にも入った。石のように固まったソアレを尻目に、ずいと前に出る。
「
疑問を最後まで口にすることはできなかった。キキョウの目に宿った感情は、俺を黙らせるには充分すぎた。
強く俺を睨みつけて、自分の手首を音が鳴るくらいに乱暴に握りしめる。彼女の表情からは、甚だしい自己嫌悪が見えた。
「……私がっ!!…どんな気持ちで……!!」
必死に何かを抑え込むキキョウ。彼女の肩に、ハイネがぽんと手を置いた。
「無駄だよ」
たった一言、シンプルな
その静かな諦念は、俺を明確に突き落とした。
過剰に心配されていた時は罪悪感で心労を募らせていたのに、いざ放任されるともう見捨てられたような気分になる。
その行動でさえ、気を遣ってくれた結果なのかもしれない。しかし彼女たちの行動の全てが、俺に情けない気持ちを宿らせる。
「どうせここで置いて行っても、ラスタは一人で来るよ。それなら最初から一緒に行った方がまだマシ」
「!!……だめ。ラスタが行ったら、危ないよ。だってラスタは———」
「ソアレ」
ハイネの目が細められる。彼女の遮りに、ソアレはびくりと肩を跳ねさせた。
「冒険者になって、何がしたかったの?」
「……ボク、は」
「…
「!」
目を見開いたソアレの傍を、ハイネは無表情のままに通り過ぎる。そして装備を取りに、自室へと戻っていった。
下を向いたまま動かなくなったソアレの手を、歩み寄ったキキョウが優しく包み込む。彼女は先ほどよりも幾分か冷静さを取り戻しており、ソアレに対して心配を向けられるほどには落ち着いていた。
「……私が間違っていました。確かに万が一を思えば、ラスタが居ないのは危険すぎます」
「ッ!でも治しちゃったらラスタが!!」
「えぇ、私もそれは断固として起こしたくありません。だから私たちは、傷を負ってはいけない」
ひどく緊張した様子で、キキョウはソアレと目を合わせる。
不可能だ。
そう言いかけて、俺は言葉を止めた。それを言う資格は俺に無く、言ったところで彼女たちを傷から守る
「……わかった。ボクも行く」
いつも自信に満ち溢れていたはずの声。今のソアレは、まるでソアレじゃないみたいで。
弱々しい足取りで部屋へと戻っていく二人を、俺は黙って見ていることしかできなかった。
◇
かちゃり、かちゃりと。手甲が擦れる金属音が、金髪の少女の手元から聞こえる。
街の門を出て、「雷霆への祈り」は進軍する。いつも戦闘前に俺たちを包み込んでくれる高揚感は微塵も無い。ただ針のような鋭く冷たい緊張感が、俺たちの間を満たしていた。
街の外周から数キロ先。そこに
「…みんな。いつ来てもおかしくない。ここからはもう戦闘が始まってる気持ちで」
ソアレの声に、俺たちは頷く。多少は折り合いをつけたのか、それとも無理やり気持ちを抑え込んだのか。
ソアレはいつもとさほど変わらない声色で、
疲労回復用の
落ち着いた声色に反し、その顔は石像のように固くて、色濃い緊張と不安が感じられた。
———結局、この討伐戦に参加できる冒険者は、現在俺たちしか居なかった。そもそもA級のパーティは俺たちを除けばこの街に一つしか無く、彼らは度々遠征に出かけている。S級なんてもってのほかだ。
つまり、この戦闘の責任は全て「雷霆への祈り」、ひいてはそのパーティリーダーであるソアレに注がれることとなる。
普段なら、飴でも投げて冗談を言って、彼女に柔らかい顔を作らせてから戦いに臨む。
そんな簡単なことさえ今の俺にはできない。彼女の緊張の原因は、ひとえに「ラスタ」に違いないから。
彼女の苦痛を堪える顔を見ると、俺の胸も罪悪感に押し潰されそうになる。
俺は、「たまたま生き永らえた転生者」の体を好き勝手していたつもりだった。しかし俺は「ソアレの大切な人」を弄んでいたのだと、今ならわかる。
泣いて謝りたい気持ちだった。でもそれをしたところで、何も変わらない。むしろ彼女たちの心労を大きくしてしまうだけだ。
気持ちと一緒に頭が項垂れる。その時、前を歩くソアレの足が止まった。思わずつんのめりそうになり、足に力を入れて転ばないように踏ん張る。
なんとか体勢を立て直し、ほっと息をついた瞬間、前方からぽつりと声が響いた。
「………
その震え混じりに発された言葉に、信じられないような気持ちで勢いよく顔を上げる。
ここから数百メートルの位置、ちょうど俺たちの視線の真っ直ぐ先で。
前世で言う、コモドドラゴンを数倍に大きくしたような魔物が悠然と体を起こしていた。
単にA級と言っても、その危険性は様々である。自在に姿を変えるため殺すのが非常に困難であったり、単体での強さはそこまでだが、疫病を媒介することで大きな害を与えたり。
その中でも、「
その理由は、ひとえに戦闘能力の高さである。
最悪。かなり最悪に近い相手だった。思わず動きを止めてしまう。土龍はそんな俺たちに気づいたのか、鷹揚な仕草でこちらを見据えた。
「——ッ!!散開!!」
ソアレの焦ったような声が響く。それと全く同時に、土龍はこちらへ向けて走り出していた。俺たちが四方に飛び退いたちょうど中心を、土龍は数秒もしないうちに通り抜ける。
豪、となる風切り音に、冷や汗が巻き込まれて空中に飛んだ。
「ソアレッ!指示を!!」
キキョウが叫ぶ。しかし、少女は応えない。ただ焦点の合わない眼で剣を両手に握り、ぶつぶつと何かを呟き続けている。
「…ボクがやらないと、ボクが倒さなきゃ、ボクが守らないと、そうじゃなきゃ、ボクは」
「…ソアレ?」
キキョウは怪訝な顔を浮かべ、もう一度ソアレの名前を呼ぶ。その瞬間、彼女は弾かれたように土龍へと駆け出した。
「ッ!?ソアレ、待って!!」
ハイネの静止も聞かず、ソアレは剣を大きく振りかぶる。剣の根本が淡く光を纏ったかと思うと、落雷が起こったかのような凄まじい
「——ボクはっ!!」
黄金の雷霆を嵐のごとく放ちながら、ソアレは満身の力を込めて土龍に剣を振り下ろした。
文字通り、雷が落ちたかのような爆発的な音で世界が埋まる。
土煙によって完全に閉ざされた視界。
そのどこかで、何かがぶつかり合う硬質な金属音と共に苦悶の声が響いた。
土煙から吹き飛ばされたように飛び出したのは、刀を前に構えた和装の少女。
避けられた。
そう思う間も無く、体勢を崩した彼女に追い討ちをかけるように、キキョウの眼前に飛び出した土龍は鋭い爪を振りかぶる。
『
その瞬間、ハイネの羊角が淡く光り、土龍の動きが目に見えて遅くなった。それによって鈍重になった爪撃を、キキョウは寸前のところで転がって避ける。
ハイネに目線で感謝を示して大きく息を吐くと、キキョウはソアレに向かって呼びかける。
「落ち着いてください!この相手だと皆で協力しないと勝てません!!」
その声に、ソアレは錆びた機械のようにぎこちなく振り返る。昏い目に僅かに光が戻った。
「———あっ。…そうだよね、違うの、今ボク……ごめんなさいごめんなさい」
「ソアレッ!!」
キキョウが前まで歩み寄って、彼女の両肩を強く掴んだ。ソアレはまるで親に叱られるのを怯える子供のように、びくりと肩を跳ねさせる。
「反省会なら後でできます!!今を見てください、お願いですから落ち着いて——」
そうして生まれた明らかな隙。それを魔物が待ってくれる道理なんて無い。
「!」
その殺意にギリギリで気づいたソアレが、肩を掴むキキョウの身体を強く押して遠ざける。
その瞬間、ソアレの上半身を、あまりにも大きな爪が袈裟に斬り裂いた。
虚ろな目で空を見ながら、呆然と寝転がっている重症の少女。
彼女の肩から腰にかけてつけられた斜めの傷は驚くほどに深くて、内臓にまで損傷があることは明白だった。
短めに切り揃えられた髪は重力に従って地面に触れており、先に土がついて折角の美しい金髪が台無しになっている。
俺はソアレに対して、なんの言葉もかけることができなかった。
彼女は間違いなく致命傷だ。今すぐに治癒をしなければならない。そう考える俺の頭に、ふと含みを持ったハイネの笑顔が浮かぶ。
貴方が死ねば、私も一緒に。
思わず動きを止めてしまった。
「……もう、いいよ」
その時。焦点を俺に合わせて、力無く横たわりながら、ソアレは弱々しく言った。
「…もういいよ。このまま、殺してよ」
「ッ!!??」
呼吸ができなかった。ソアレの前に膝をついて目を見開きながら、俺は何もすることが出来なかった。
彼女は俺から視線を外し、涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭って顔を隠しながら、嗚咽混じりに言葉を紡ぐ。
「……らすた″ぁ……しんじゃやだよ″ぉ″……」
自分を殺したくなった。
死なないで、と希われているにも関わらず、俺は死ぬべきであると真に思う。彼女を泣かせた自分の存在が、許せない。
俺はすぐにソアレの言葉を否定することができなかった。それほどまでに、彼女の言葉が本音であることが伝わったから。
「ラスタッ!!」
そんな俺を叱責するかのようにハイネが叫ぶ。その声色からは、いつもの無感情な平坦さは微塵も感じられない。
「早くッ!!!」
彼女は今キキョウと二人で土龍を抑えている。こちらを見る余裕が無いほどの焦燥したハイネの声を聞いて、淀んでいた頭が少しだけ晴れる。
俺は何を躊躇っているんだ。ソアレを見捨てるなんてできるはずが無い。泣いている今も、ソアレは痛みに苦しんでいる。それにソアレがいなければ、土龍による俺たちの被害はもっと大きくなることは必至。
感情的にも合理的にも、治さない選択肢は無い。
早く治癒をしないといけない。
たとえその選択がソアレをより傷つけることになろうとも。
「………のろいを、わがみに」
「やめて」という、か細い声は、俺の手から広がった白い光に塗りつぶされた。
その光が止んだ時、俺の眼前に映ったのは。
治癒をする前よりもずっと大きな声で泣きじゃくる、大切な少女の姿だった。
「……………わたしの、せいだ」
平衡感覚を失いそうなほど、濁りの無い完全な白の空間。
その中に、背景の白色に負けないほどに美しい純白の衣を身に纏った一人の少女が虚空に腰掛けている。
彼女の手のひらには、握り拳よりも一回りほど大きい透き通った水晶玉。
それはまるで
今、彼女の手の中で、水晶玉に映し出されていたものは、地面に横たわって泣きじゃくる金髪の少女。そして、その少女の前に
———俺の前で誰も死んでほしくないんです。
彼がまだラスタではなかった頃に、重々しい雰囲気を隠しもせずに言った言葉。
その真摯な願いに少女は胸を打たれた。だから、彼の望みを可能な限り認めた。
二度目くらいは報われてもいいと思ったから。
しかし、このざまだ。彼の生きる希望である少女たちは、もはや生きる希望をなくしている。
いくら彼に感情移入したからと言って、四六時中彼のことを視ているわけにはいかない。むしろ最近は視るのを忘れていて、久しぶりに彼に
そうして観測してしまった圧倒的な悲劇。
もう黙って視ていることは出来なかった。
水晶玉を両手で包み込んで収納し、唇を引き結んで立ち上がる。何もない空間をさらりと撫でて、そこから外用の衣服を取り出し、今着ている衣と切り替えた。
そして、また虚空に手を伸ばす。その手の中にはシンプルな装飾のブローチが握られていた。
ブローチを額に当てて、宝石の部分に力を詰め込む。満杯になったことを確認して、少女は満足そうに頷いた。
あ、と思い至って、もう一つの宝石をネックレスにして首にかけた。万が一の保険だ。地上に降りてしまったら、力の大部分が制限されてしまうから。
これで準備はできた。
「待っててね、ラスタ」
腰まで届く長い銀髪をたなびかせて、女神フィオーレは穴の中へと飛び込んだ。