「な、なんで」
カメリアが身を乗り出し、料理が一つテーブルから床へと落とされる。
クインスは目を見開いたまま硬直し、ロサは何か縋るような視線を向けてきていた。そんな彼らを見て、リリウムが何かを言おうとし、なにも思いつかなかったのか閉口した。
「や、やだ……いや、やだ、なんで、そん、な……やだ、やだやだやだやだ――ッ!!」
「お、落ち着けって――」
テーブルの上を這って、カメリアが俺の目の前まで来る。
そしてそのまま、切羽詰まった表情を浮かべて抱き着いてきた。暴走していた時の甘えるようなものじゃなく、怯えるような、それでいて力強く。震えているのが分かった。
「なんで、なんで……? へ、平和になったのよ? もう戦わなくていいのに……!」
「か、カメリア、その、話を――」
「ず、ずっとずっと傷ついて、戦いたくなくても戦ってきて、頑張ってきたのに……! みんなのために、ボロボロになってまで、我慢して!」
違う、違うんだ。
「…………。……誤解してる! その、俺も最初ショックすぎて酒に逃げたけどさ、別に聖女に直接言われたわけじゃないんだ! 俺も勘違いしたから分かるけど、死ぬと決まったわけじゃ……」
「お、お前が」
今度はロサが、その瞳いっぱいに涙を携えて。
「お前が、その意味を知らないはずがないだろ! 他の誰でもない、ホワイトクラウンの……『勇者』が……!」
「いや、ああ、頼む、泣かないでくれ」
どうして、ああクソ、なんで。
先ほどまでの楽しい空気はどこへやら、沈鬱な空気で満たされている。誰一人として笑顔を浮かべることは無く、それどころか死人を見るような、悲痛な表情が張り付いていた。
「……お前たちにそんな顔をさせたかったわけじゃない。こんなことなら、泣いた理由についてちゃんと聞いておくべきだったよ」
そりゃあ、知っているさ。
聖女、アイリス・ラエビガータ――彼女が泣くということ。
涙の意味。
かつていた、ホワイトクラウンの英傑たちは、彼女の『涙の予言』と呼ばれるものを受け、先の大戦で散っていった。
それだけじゃない。ホワイトクラウンが宣戦布告した、数々の異種族の王の死すらも彼女は涙を流して言い当てた。
『慈悲深き死神』。絶対の未来。でも……信じ切れていない部分もある。
予言通り王は死に、ホワイトクラウンは勝利した。
俺は指示に従って国のために動いていたが、その全てが予言のおかげとも思えなかった。
細い糸を辿るような、いや、だからこその予言なのかもしれない。ただ俺は、俺が手繰り寄せた未来のように思えていた。
だからあまり重くとらえないでいられた。リリウムが気を遣ってくれたのもある。
でも、そうか。他の人にとっては『結果』が浮き彫りになっているから、過程を知っている俺と違って、聖女が絶対的な存在に思えているんだ。
「もう一度言うが、『お前は死にます!』なんて予言を貰ったわけじゃない。泣くことそのものが色々言われてはいるが、それは予言込みでの話。そうだろ?」
「……」
「あー、なんか恥ずかしくなってきたな。あの時の俺はこんな感じだったのか……」
笑いながら言ってみても、空気は軽くならない。
空っぽのジョッキを見つめても、どうしてももう一杯飲もうなんて気は起きなかった。
「第一、本人が気にしてないんだから、な? ほら、カメリアも。人目集めてるけどいいのか~? またロサにいじめられるぞ~?」
そしてこっちも、まったく離れてくれないな。
「君は――」
クインスが口を開いて、それからかぶりをふった。立ち上がり、いつも通りの微笑を見せる。
「今日はもう解散したほうがいいかもね」
「それは……」
「アッハッハ! なに、落ち着いたら飲み直そう! たとえそれがどれぐらいかかっても、6年に比べれば一瞬だろうからね!」
そう言って、クインスは床に落ちてしまった料理を片付けようとする。ただ、テーブルに皿を置こうとした瞬間、今度はジョッキを肘で押して落としてしまう。彼らしくない失敗だった。
「そうしましょう」
リリウムがジョッキを拾う。その際、どことなく申し訳なさそうな視線を俺に向けてきた。
……この国の人たちにとって絶対的な聖女。リリウムがあれだけ普段通りでいられるのは、あいつが元は違う国で生きていたからなのだろうか?
「クインスさんたちは普段どこで寝泊まりしているんですか?」
「こことは反対側、それなりに離れた位置にある宿で生活してるよ。ここからだと、そこそこ歩くことになりそうだ」
そう話す2人の視線は、俺に抱き着いたままのカメリアへ向けられていた。
「……一応、すぐ近くにオレたちの宿があります」
「すまないね、頼めるかい? 今の彼女を彼と離すのは良くなさそうだから」
「な、ならロサも――」
クインスはロサの頭を撫でて制止する。
「なんで、兄様!」
「大丈夫。また明日会える」
「そう言って、あの時みんなしていなくなったじゃないか!」
……そうだな。ロサを手招きして、それから俺も頭を撫でてやる。
「約束するよ、ちゃんと明日顔を出すから」
「……ロータス」
「もう二度と、お前たちを――」
――裏切るようなことはしない。
「…………泣かせたく、ないからな」
そう誓えなかったのがなぜか、俺にはわからなかった。
宿に戻る。喧騒はほとんど聞こえてこない、静かな夜だった。
カメリアと2人でベッドに腰かけていると、次第に彼女の力が緩まっていく。すぐそばにいるリリウムも、心配そうにカメリアを見つめていた。
「怖い」
顔を真っ青にしたカメリアは、かすれる声でそう漏らす。
「怖いよ……あなたはずっと、死と隣り合わせで生きていたから。独りにしてしまえば、どこかへ飛んで行ってしまいそうな危うさがあって……」
「信用無いな……そんなフラッとどこかに行きそうな軽い男に見えるのか?」
「うん」
……ないんだな、信用。6年の溝は深いね、なんて。
「情けないや……。強くなったつもりだけど、結局、こうして、あの頃と何も変わらない」
「そんなことは無い。俺だって、親しい奴が『死ぬかも』ってなったら普通じゃいられない。俺の配慮が全く足りてなかっただけだ」
リリウムが、カメリアが、クインスが、ロサが――もし死ぬとなったら、そりゃ平静とはしていられない。そんな様子を見て弱い奴だ、なんて思うはずがないんだ。それだけ想ってくれていたってことなんだから。
「死なないで。どこにも行かないで。私を――置いてかないで」
「……」
「も、もう二度と、あ、あんな、光景は、見たくないの」
月の光が、カメリアの表情に影を差す。
「ち、血だらけで……うでが、なくて、おなかが、えぐれてて……顔が、ただれてて、傷口が沸騰して、肉の焼ける臭いがして……」
煌めくそれは涙に他ならなかった。
「手遅れ、なんだって、思ったのが、ずっと、ずっと、頭から離れないの」
6年前の記憶。
「お願い。ずっと、私の傍にいて。絶対に死なせない、あんなことには、させないから。強くなったのよ、ロータス。あなたを守れるように、戦えるように。私の視界から、出ていかないで」
「カメリア……」
「なんで……あなたばっかり、こんな……! 私なら、不幸にはさせない。辛い目には遭わせない。望むことならなんだってするから、だから、ロータス――」
その先を言わせないように、笑いかける。
ひどい顔だ。鼻水と涙、よだれ。俺の肩から糸がかかってる。ばっちいな、全く。
「……言ったよな、ずっと後ろめたかった、って」
「……?」
「6年前のあの日のことを忘れはしない。お前に罪を背負わせてしまったときから、ずっと、そのことを気にしていた」
「あれは、あなたのせいじゃない……」
「ああ……お前はいつも通り接してくれていたよな。肉親を――お前の手にかけさせて、その張本人である俺に対して、何も変わらないままでいてくれた」
カメリアは強い。ずっとずっと前から強かった。
確かに不安定なところはあるだろうけど、カメリアには、
「乗り越えていけるだけの強さがあるんだよ」
「――」
「だから、俺がいなくなっても――」
俺のため、彼女は6年間もの間自分の腕を磨いていた。
6年――9歳だったロサもお酒が飲めるようになって、ひよっこだったこいつらが白金等級になって、それだけの長い月日、彼女は。
俺はたくさんの物を奪ってきた。
だというのに、この血まみれの手には得難いもので溢れている。
それらが、俺なんかに縛られているというのなら、それは……嫌だ。
死ぬ時に、後悔するだろうから――
「ロータス……?」
不安げなリリウムの瞳に射抜かれて、息を吞む。
「あ、ち、違う、今のは……!」
なんだ、今の。
まるで俺自身、そう遠くないうちに死ぬと思ってるかのような。
「…………」
聖女に泣かれたことを引きずっているわけじゃない。だけど確かに、
死ぬのは怖かった。死ぬと思ったときはショックだった。でも――ああ、生きたいと願ったことは無かったんだ。
そうか。
彼らがこの6年間で変わったのにもかかわらず。
俺は……あの時から、なにも。
「な、なんで、そんなこと――」
それをどう受け取ったのかはわからない。
ただカメリアはしゃくり上げ――
「――う、ぐ、うぁぁあああああああ……っ!!」
決壊した。