「通夜の席で消毒」「突然いなくなった母」 北海道のハンセン病元患者が明かした差別と非人道的対応

 ハンセン病の元患者が暮らす群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉(くりうらくせん)園に入所する函館市と樺太(現ロシア・サハリン)出身の女性2人が、隔離政策の実態や世間からの偏見について、北海道新聞の取材に明らかにした。保健所職員らに通夜の席でも自宅を消毒された経験や、家族にも長期間病気を隠し、孤立してきた境遇などを証言。患者を療養所に隔離するらい予防法の廃止から来年で30年を迎える今、ハンセン病患者への非人道的な対応があらためて浮き彫りとなった。

道内出身の女性らが入所する国立療養所栗生楽泉園


 ハンセン病 らい菌によって末梢(まっしょう)神経や皮膚のまひ、障害などが起きる感染症。手足の切断や失明に至ることもある。感染力は極めて弱く、遺伝もしない。顔や手足など外見に症状が出るため古来、差別や偏見の対象とされた。国は1996年のらい予防法の廃止まで約90年間、患者を療養所に隔離する政策を続けた。2001年、元患者本人による国家賠償請求訴訟で熊本地裁は隔離政策を違憲と判断。国は控訴を断念して謝罪し、補償や検証を進めた。1960年前後には全国の療養所で計1万人以上が暮らしたが、2022年に千人を切り、24年5月1日時点で720人となっている。
 2人は函館市出身の女性(98)と、樺太出身で苫小牧市に引き揚げた後に療養所に入所した米塚雉杜子(ちずこ)さん(90)。ハンセン病を巡っては、元患者による国家賠償請求訴訟で熊本地裁は2001年、隔離政策を違憲と判断し、国の責任を認めた。国は控訴を断念し、謝罪した。ただ、元患者は今も、差別や家族と引き離された記憶が刻まれたまま。2人は同園で3月13、14日、取材に応じた。

76年にわたる療養所での暮らしなどについて語る函館市出身の女性

 「ここに来る前の方が大変だった。こんなに長くいるとは思っていなかった」。22歳で入所して以来76年同園で過ごしてきた函館市出身の女性は報道機関の取材に初めて応じ、過去を振り返りながら静かに語った。

草津町の郊外にある栗生楽泉園

 女性は1927年(昭和2年)、函館市で生まれた。家族は両親と兄、姉2人、妹3人の7人きょうだい。戦前に亡くなった父がハンセン病で、その後、兄や末の妹が発症した。女性自身も戦後、函館近郊の水産会社に勤めていた頃に手首のやけどが治らず、長く病院にかかった結果、病気が分かったという。この頃、保健所職員がたびたび自宅を訪れて消毒などをしており、周囲からハンセン病ではないかと疑いの目で見られるようになっていた。

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ハンセン病元患者 重い沈黙 道内出身の7人が生活 青森の療養所ルポ
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