或る狐のをかしき紀行 — 終末を語り継ぐ者、或いは夢と現実の狭間に立つ者 —

磯崎雄太郎

第一頁 最初の読み手は目覚めの社にて

第一筆 生くるためと、足掻くように

 書けなかった。

 けれど書かねばならなかった。


 書いては消して、その繰り返し。でも俺がやっているのは再構築スクラップ・アンド・ビルドではなく、ただの破壊デリートだ。

 最初の一文が、全然浮かんでこない。自分ごとなのに、いつも途中まで書いて、「どうせ読まれないのに何の価値があるんだ」なんて、枯れた花を放り捨てるように。


 ——蕾花らいか。捨てられていた俺が握っていた木札に刻まれていた名前。

 聞いて呆れる。花開く前に、根腐れしているじゃないか。


「ちくしょう……」


 夜は深く、森は黒く、風は筆を凍らせるほどに冷たかった。

 夏の夜といえど、この夜の静寂しじまは冷える。その昔の温暖化なんてなんのその。大氾濫した緑は・・・・・・・、この玄慈球げんじきゅうの平均気温を大幅に下げた。


 思考による現実逃避が始まる。

 逃げるな、逃げるな。


「……今夜こそ、書け」


 鼻を啜りながら、俺の尻尾・・・・・で眠っていた狸のような化獣ばけものを膝に抱えて、巻物を開いた——。


 霊力ランタンは、光源というより化獣避けであるが、この狸は平気な顔で寄ってきた。たまにいるのだ、対化獣光や、特殊音波が平気な、変わり者が。

 霊力の光は化獣ばけものという自然の体現者たる生物が嫌う輝きであり、邪悪な「魔」を退ける退魔の輝きでもあった。


「夜風に紛れ、……いや。紛れては、いない。木陰——夜に影もへったくれもあるか。……霊力の淡い輝きが闇を祓うように……これだ」


 筆を走らせる。


 霊石というものがある。この大陸で取れる、霊素れいそという「をかしきもの」が石化し、霊力というエネルギーを含有した石になったものである。

 その霊石を動力にしたのが、霊技製品で——その一つが、この霊力ランタンだ。


 そして膝の上には、古びた巻物。

 その名を「文車ノ巻物ふぐるまのまきもの」と言う。

 霊力を通すことでぺーじを展開し、記された文は、幾百、幾千——星の数ほど言葉を呑みこんでもなお、決してその巻物は終わらない。無限といえる容積を持つのだ。


 いわばそれは、「霊力の術式」で形成される、古の時代の電子タブレットだ。「霊力タブレット」、と言い換えてもいいかもしれない。

 巻物を開けば、紙ではなく光の書面が広がる。青白い頁がホログラムのようにして空間に浮かびあがって、揺らめきながら俺の手元を照らした。


 そこに俺は、「文車ノ筆ふぐるまのふで」を走らせる。

 これもまた、ただの筆ではない。筆管の奥に宿る小さな霊石が、俺の意志に呼応し、筆先が墨を滲ませる。すずりも木炭も、石墨もいらない。

 筆先は俺の感情に呼応するかのように息づき、微かな淡い、青色の光を灯す。


 この光は俺の魂の光。

 肉体を蝕むことのない、電子的な輝きとは違うものだ。暗闇だろうが、寝る前だろうが——なんら障りはない。

「書き記し、文を綴る者」のために作られた呪具——いや、霊具だ。


「…………辞書検索。「瀑布」の正しい書き順」


 光の書面に浮かぶ、瀑布の書き順。俺はそれを見つつ、今日の昼に見た、木々の間を流れ落ちる瀑布の情景を書き記す。


 まるで、生きた巻物。無限の墨が通う筆。

 けれどどんなに便利でも、この呪具がすべてを助けてくれるわけじゃない。

 書くことは、俺の中から何かを削る行為だ。それはメンタルとか、マインドとも言えるし、もっと実際的に言えば体力や時間とも言える。


 自分の無力さを噛みしめながら、けれど、それでも俺は前を向いて文字を綴る。他所を向いてちゃ、文字なんて書けやしない。筆が狂うだけだ。


 崩れかけた木の根元に背を預け、夜をしのぐ綿入れの衣を羽織りながら、俺はまた一文を紡ぎだした。一言一言、一文字一文字を丁寧丁寧、丁寧に綴って描いていく。


 それは俺自身の鼓動だ。書く。書き記す。

 自分を、自分が見てきた世界を、自分の言葉で。

 風が揺れるたび、頁が淡く波打った。まるで、それもまた生きているかのように。あるいは——女神の比礼ひれのように。


 ——誰にでもない、どこでもない、自分のために。

 ——書けないと苦しいから。書いていないと死んでしまうという焦燥があって、俺は、でも。


 みんなに記憶されたい。何者にもなれない、捨てられた妖狐の俺を、その歩みとどこにも届かなかった幾千幾億もの慟哭を。


 俺は書く。過ぎ去った出来事を、痛みを、忘れたくないと思ったから。あるいは、そうすることが己の役目であるように感じられたから。

 それが誰かの記憶に一行でも残るなら、書く意味はきっとある。

 少なくとも俺は、生きるために書いていた。食っていくためではない、食うだけなら、狩猟採取で事足りる。


 “ずっと昔に緑に没し、文明が崩壊したこの世界”では、むしろ作家で食っていくより狩りをした方が安定して暮らせる。


「水の飛沫が舞い上がり、霧のように舞っていた。吸い込むと、呼吸をしているだけで喉が潤う感覚がして、まるで大地から、滝から、命を分け与えられているようだった——」


 死にたくない。生きていたい。生きた証を、この世界で息づき鼓動を刻んだその証を、何度心が折れそうになっても残したいと——。

 だから旅をしている。この足で歩いて、この目で見て魂に刻み、そして、俺自身というフィルターでし取り、この手で文字を書き記す。


 なんの才能もない、頭も良くない、運動だって人並みにできる方ではない。喧嘩だけは人並みに強いが、そんなの何の自慢にもなりはしない。到底かっこいいことではない。

 そんな俺が唯一できることは、紡ぐこと、綴ること。文章を、へたっぴな挿絵を添えながら。少しずつ。ときどきたくさん。

 それだけが、小さな頃からただひとつ、ずっと続けてこられたことだ。


 そろそろ寝なければ明日に響く——。

 俺は巻物を丸めて筆を差し、紐で括って懐に入れた。巻物の表紙には淡く、「蕾花らいかノをかしき紀行」とある。

 恐ろしくシンプルだ。


 俺は神津垓かみつがい——「集うた神の行く果ての土地」であるこの大陸を旅する。

 滅多に見られない、聞けないような「をかしき事」をたくさん経験して、それを書き記す。


 なぜ俺はここに生まれたのか。

 半年前の化獣ばけものたちの襲来による、キャラバンの仲間の死。俺を拾い、育ててくれた人々との死別。それを契機に旅立ったのだ。


 何も成し遂げられない自分。あるいは——「生きているという実感のない、のっぺりとした灰色の日々」に辟易していたのかもしれない。


 俺はそのキャラバンではやや抑圧されていた。

 妖怪ようかい——妖狐ようこである俺は非常に珍しく、特殊で、珍鳥か何かのように扱われていた。


 決して、彼らが死んでしまって良かったとは言えない。死ねばみんな同じ、黄泉の国の住民だ。けれど——。

 少しだけだ……ほんの少し。俺は……正直、清々している。

 もちろんそれ以上に感謝もしている、愛情もある。捨てられていた俺を拾い、育ててくれたのだから。

 ……だが、だからといってそれを棚に上げて自由を制限され、「生かしてやっているんだぞ」なんて顔をされれば——、……そんなの、誰だって嫌になるだろう。


 思い出すと、顔をしかめてしまいかねないほどに苦い毒液のようなものが心に滲んできた。

 俺はたまらなくなって文車ノ巻物と筆をとり、感情を別のぺーじを展開し、荒々しく書き殴る。

 藍色の髪が揺れる。右目を意図的に隠している俺の前髪と、左のサイドの一房だけ白い髪。後ろで結った、長い髪の束。


 幼い頃から俺の顔には「常闇様」の呪印が藍色に浮かび上がっていたという。

 キャラバンで出会った人々は口々に呪いの子、あるいは神の子と言って、俺を買い取ろうとすらした。

 ——俺は、モノかよ。

 俺は妖怪だ。俺はヒトだ。


 ——ネガティブなことだけは嫌というほど、濁流のように書けるのに。


 思考の整理、感情のデトックス——俺はこれを「書き記す御霊鎮みたましずめ」と読んでいた。

 未だに根付く神闇道、という古い神の教え。常闇様という混沌と黒闇、月を象徴する最強の荒神を祀るもの。

 実際に神闇道は「迷い悩んだら書き記せ」と説いているという。


 俺は別段、神闇道の熱心な参詣者ではないが、神津垓大陸かみつがいたいりく人らしく人並みに神社仏閣は好きだし、出向いた先に社があれば例えそれが廃墟でも拍手を打ち、手を合わせる。

 まあ、あれだ。先人が言うところの言葉を借りれば「心が洗われる」のだ。


 もちろん、神社なんて当然だが持ち歩けない。俺は山を掬い取って大陸を作ったというダイダラボッチではないのだ。

 だから俺は、書いて、記し、御霊鎮めを行う。俺にとっての拝殿、そして御神体は、この巻物と筆だった。


 実際、ただ書くだけでもだいぶ違う。

 手を動かし言語化すると、その多くが「自分では制御のできない問題、もしくは直近ではやる必要のないもの」で、本当に今することがはっきりするのだ。


 とっくに死んでしまった人々の、生前の振る舞いで苦しめられている——なんて、つくづく制御不能な事柄であり、気にするだけ無駄なのだ。

 支配的な人間からは逃げればいい。あるいは、そんな命令なんか無視すればいい。俺たちは誰かの奴隷ではない。


 そして死んだ支配者なんかをいつまでも気にしていては、俺は、死者の奴隷という意味不明な人形に終始するのだ。


 過ぎ去った過去は、ただ記す。思い返し、感情を馳せ、そして——積み上げてきたものを確かな経験と言い聞かせ、再び歩き出す。

 物語とは歴史であり、ヒトには一人一人に、物語と歴史がある。

 この巻物は、俺の歴史、その全てを記すものであった。


 かなり雑な乱文になったが、感情のこもった荒い文字は、それ自体が俺の怒りや、憎悪——そういった毒を抽出したものであった。

 だからこそ書き出したおかげで、俺の中から黒いものがうっすらとだが消え去り、楽になった。


 一呼吸つく。

 書物に夢中になると眠ることを忘れるのは、俺の悪い癖だ。いや、きっと何かを作ることが好きな者ならば、きっとわかってもらえる……うん、悪癖だろう。


 今度こそ巻物を片付けて、俺はその巻物と筆をまとめてしまっている「筆記袋」と、そしてザックを抱き枕のように寄せた。

 孤独を抱きしめるように。あるいは、書き記した過去の中の、辛かった時の自分に寄り添うように。狸が「もきゅ」と鳴いて、俺の腕から飛び出した。どうやら充分休めたらしい。


 俺は寝袋がわりの大きな綿入れのふすまを体に巻き付けると、霊力ランタンを化獣が嫌う高周波モードに切り替え、眠ることにした。

 もちろんこれで十全な安全を得られるわけではない。俺は自分の腰から生える三本の太長い尻尾をザックとの間に入れて、自分と背負う全てを包み込むようにしながら、目蓋を閉ざした。

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