<100年の残響 昭和のうた物語>(6)
「悲しい酒」「みだれ髪」「柔」…。名だたる代表曲に交じり、ある一曲がかけられた。美空ひばりさん(1937~89年)自らが選ぶ「人生のベスト10」。女王が6番目に挙げたのが「一本の鉛筆」だった。
「悲しい酒」「みだれ髪」「柔」…。名だたる代表曲に交じり、ある一曲がかけられた。美空ひばりさん(1937~89年)自らが選ぶ「人生のベスト10」。女王が6番目に挙げたのが「一本の鉛筆」だった。
亡くなる3カ月前の1989年3月に自宅から出演したラジオの生放送番組。メディアでの最後の肉声となった。長男でひばりプロダクション社長の加藤和也さん(52)は「反戦への思いから母がとても大切にしてきた曲。それを伝えることができた」と振り返る。
◆自身も横浜大空襲を経験、ステージからメッセージ
この曲が発表されたのは今から半世紀前、1974年8月の第1回広島平和音楽祭だった。総合演出を担当した映画監督の松山善三さん(1925~2016年)が作詞を手がけ、歌は「あなたに聞いてもらいたい…あなたに歌ってもらいたい…」という訴えかけから始まる。
「一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く」
「一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいと書く 一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと…」
「一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く 一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く」
ひばりさんはこの曲を歌うに当たり、ステージでメッセージを読み上げた。「昭和12年5月29日、私は横浜で生まれました。本名、加藤和枝です。戦時中、幼かった私にも、あの戦争の恐ろしさは忘れることができません…」
その誕生日は、8年後の横浜大空襲の日と重なる。
◆広島で涼しい控え室を拒んだ理由は…
当時、ひばりさんの父は出征中で、自宅近くが焼夷弾(しょういだん)を浴びて燃え上がる中、一家は母親がつくった防空壕(ごう)に逃れ、命を取り留めた。和也さんは「私が小学校の宿題で『戦争について』の作文を出された時、公演で忙しかった母は、空襲での体験をテープに克明に吹き込み、私に教えてくれました。強調していたのは『戦争は二度とやってはならない』でした」と明かす。
広島平和音楽祭では待機の際にスタッフが涼しい部屋に案内しようとしたが、「広島の人たちはもっと熱かったんでしょう」と猛暑の中で控えていたという。
◆作詞・松山善三さんが込めた犠牲者の無念さ
このステージでもう一つ、広島への思いを込めて歌った曲がある。「八月五日の夜だった」。原爆投下前夜の男女を描いた曲だ。
「橋の畔(たもと)で 影法師 二つ重ねた指切りの 八月...
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