奥村社長の車に招き入れられた僕と明智君だったけれど、明智君は「取引が成立したんだ。僕も踊ってやるさ」と言い残して車を降りていってしまい、後部座席には僕と奥村社長の二人だけになる。
「随分と苦労したと見える」
「その価値はありました」
「それなら私も出てきた甲斐があった」
短いながらも様々な意味を含んだ奥村社長の言葉に、僕も言葉少なに返す。言葉に嘘は無い。間違いなく、僕は苦労に見合うものを手に出来たと感じていた。
そのことが奥村社長にも伝わったのか、彼も目を伏せてそうかと呟いてそれ以上は何も聞いて来なかった。
「私が目を覚ましたことは早晩相手にも知れる。私はこのまま検察の手を借りて潜むことになるだろう」
「窮屈な思いをさせます」
「生きているだけでも十分だ。償いもせねばならん」
負けるなと言われたのでな。そう言って静かに笑う奥村社長は、かつての理想を志した経営者の姿を思わせる。あのとき掛けた言葉は僅かなりとも彼の心に残っていた。それが知れただけで、僕が奥村社長とあの時話せたことは無駄ではなかったのだ。
「会見場で意識を失い、次に目を覚ますと病院のベッドの上だった。そこにやって来たのが新島検事の部下という男だ。てっきり始末されるものだと思っていたのだがな」
「そうならないように冴さんが手を回して下さったんですね」
「君もだろう?」
その言葉に僕は何のことかとキョトンとする。それを見た奥村社長は笑みを浮かべたまま口を開いた。
「あの時君が言ったのだろう。精神暴走のターゲットになるかもしれない、だがそんなことにはさせないと。君は約束を果たした。だから私も約束を果たすのだよ」
「……ありがとうございます」
僕はもう一度奥村社長に深く頭を下げる。冴さんの取り計らいがあったとはいえ、彼が危険を冒してまでこうして出て来てくれたのは僕の頼みを聞き入れてくれたからだ。頭を下げた僕に気にするなと言うように手を振った奥村社長は、視線を前に向ける。
「さて、話はここまでにしよう。君はどこへ向かうかね?」
「それでは四軒茶屋に」
僕の言葉に奥村社長は頷くと、運転席に座る男へと合図を送る。バックミラー越しにこちらを観察していた運転手の男は、それを見て頷くと車を発進させた。
「……それで、私のところに転がり込んできたと?」
「ご迷惑をお掛けします」
四軒茶屋駅で降ろしてもらった僕は、そのまま馴染み、というほどでも無いけれど知り合いの医院へと足を運んだ。受付の奥に座ってこちらを胡乱な目で見つめてくるのはこの医院の女主人、武見先生だ。
「フラフラで、見るからに何かあったみたいな疲れ切った顔。厄介事を持ち込んできたわね」
「こういう時に頼れそうな人というと武見先生が思いついたものですから」
僕の言葉にため息を吐きながら、武見先生はとりあえず座りなさいと待合室のソファを勧めてくれる。そのお言葉に甘えてソファに腰掛ければ、隣に来た武見先生が僕の顔を両手で挟んで強引に彼女の方へと顔を向けさせる。
「……目の下の隈、充血、肌の荒れ。パッと見た限り以前のような外傷は無さそうだけど、あなたしばらくまともに寝てないんじゃないの?」
「寝てない、というか寝させてもらえなかったと言いますか」
「…………色気のある話って訳じゃ無さそうね」
武見先生はそう言うと僕の顔から手を離し、立ち上がる。
「とりあえず温かいお茶でも淹れるから、それ飲んで少しでも寝なさい。奥のベッド使う?」
厄介事だと分かっていながら、武見先生は僕を受け入れてくれるつもりのようだ。今日の診察は終了しましたと書かれた札を扉に掛け、診察室への扉を開けてくれる。
とてもありがたい申し出ではあるのだけれど、僕は首を横に振ってそれを拒否した。武見先生はもちろん一流の医者だ。けれどこの診察室のベッドは一つだけ。それを使うことになるのは僕ではない。
「多分後からもう一人来ると思うんです。出来ればその娘にベッドを使わせてあげて下さい。僕よりもひどい目に遭っているかもしれないので」
「君より……?」
僕の言葉に首を傾げて訝し気な様子だったが、武見先生は何も言わずに一度診察室の奥に姿を消すと、ブランケットと小さな枕を持って戻ってきた。
「ま、君がそれで良いって言うなら構わないけど」
「自分で言っておいて何ですが、何も言わないんですね」
「普通なら家に帰れば良いのにわざわざウチに来るって時点で訳アリでしょ。君がここに来るなんていつもそういう事情があるときだし」
「……お世話をお掛けします」
便利に使っている自覚はあるのでそう言われては頭が上がらない。武見先生は僕にブランケットと枕を渡すとお茶を淹れてくると言ってまた診察室の奥へと引っ込んでいってしまった。
ブランケットを膝に掛け、待合室の天井をぼんやりと眺めながらここ最近のことを思い返す。そういえば、後夜祭を一緒に回ろうという真との約束をすっぽかしてしまった。次に会ったら何を言われるだろう、いや、それよりも先にキチンと謝らないといけないかな。蓮はどうなっただろう。明智君が言っていた踊ってやるという言葉、僕と明智君の取引が成立したのなら蓮も生きて帰って来ると思う。それでも心配なものは心配だ。
「蓮にも真にも、謝らない……と……」
ようやく少しでも気を抜ける場所に来られたこと、これまでの疲労、色々なものが積み重なったせいか、天井の照明がぼやけて二重に見える。自分の思考を口に出しても紛らわすことの出来ない眠気に、僕の意識は眠りの底へと落ちていってしまったのだった。
どれだけの間眠っていたのかも分からない。けれど、朝目覚めるときのような、目を閉じているけれど明るさを感じ、周囲の音が耳を通り抜けて少しずつ意識が覚醒していく感覚を覚えた。
ペラリ、ペラリと僕の頭上で紙を捲るような音が聞こえる。気が付けば僕の身体は横たえられていて、僕の頭は何か温かいもので支えられていた。誰かが寝落ちしてしまった僕の頭の下に枕を敷いてくれたのだろうか。多分武見先生なんだろう。
ずっと同じ姿勢で眠っていたようで、少し体勢を変えよう身動ぎをする。
「ん……」
すると、僕の頭上から誰かの声。そういえば誰か他にも人がいるんだろうか。まだ少しだけ重たい瞼を上げれば、視界には何かに遮られて半分だけ見える待合室の照明。
「目が覚めたのね」
僕が起きたのが分かったのか、そんな声がまた頭上から降ってくる。この声には聞き覚えがある。
「冴さん、ですか?」
「ええ。協力者からここにあなたが向かったと聞いたの。ここの先生と彼女は協力関係にあったのね。それもあなたの予想通りかしら?」
捜査資料だろう紙の束を手に僕を見下ろしていたのは、いつもの黒いスーツに身を包んだ冴さんだった。薄く微笑んでいたけれど、僕と目が合うと心配そうに表情を曇らせる。
「痛むところはない? 怪盗団のリーダーは自白剤の投与や暴力まで受けていた。あなたの方は」
「確証が無いままそんなことをする勇気は警察にも無かったみたいですよ」
それより、と僕は思う。どうして冴さんの顔が僕の真上にあるんだろうか。まさかとは思うけれど僕が枕だと思っているこれは……。
「っと、すみません。重いですよね」
「構わないわ。あなたの方が疲れているんだし」
自分がどんな状態にあるのか理解してしまった僕は起き上がろうとしたけれど、それより前に冴さんに手で押し留められてしまった。僕の額に冴さんの手が添えられ、そのまま僕の髪を撫でつける。まさかこの歳になって頭を撫でられることになるなんて思いもしなかった。
「怪盗団のリーダー、雨宮さんは奥の診察室で休んでいるわ。武見先生が診てくれてるから、安心して」
「そう、ですか。良かったです。冴さんなら、蓮と協力出来ると思っていました」
「ええ。あなたのメモのお陰ね。それで疲れていると思うのだけど、今回のことはどこまであなたの計画通りだったの?」
冴さんにそう問われ、僕は視線を宙に彷徨わせる。どう答えたものか分からなかったからだ。
「明智君は怪盗団を利用しようとする敵側で、それを出し抜くためにあなたは奥村社長を精神暴走から救った。その過程であなたに怪盗団の嫌疑がかかり、明智君が怪盗団に取り入ろうとする切っ掛けになると同時に私が怪盗団と直接話をするチャンスにもなった」
「……全部、運が良かっただけですよ」
冴さんが挙げた内容で、僕が直接コントロール出来た事なんてそれこそ一つも無い。全て、文字通り運が良かっただけだ。
「明智君が黒幕と繋がっていると気付いたのはいつ?」
「彼が認知訶学のことを引っ張り出してきたことを、知り合いから忠告されたんです。既に下火になったマイナー学問。それを的確に情報として引き出せるのは少し出来すぎだと」
「私が明智君から貰った資料のことね」
「はい。そしてもし認知訶学が改心手段だったとして、自分の無意識に知らぬ間に干渉される可能性を考えても尚怪盗団や精神暴走事件を追っていると公言出来る人間が何の対抗手段も無いとは思えませんでした」
「それがあなたが私と明智君にいつか言ったことに繋がるのね」
まさに砂漠の中に落ちた一本の針を探すような感覚だ。見つかりっこない、繋がりっこない。だけどどうしても頭の中に生じた疑念を消し切れず、そうだと仮定して話を進めると合点が行くところもある。
「だから探りを入れました。そしたら僕の突拍子もない想像が当たってしまったんです」
「そして私に累が及ばないようにそれを秘密にしたのね」
「取引はあくまで僕と彼の間だけのものでした」
だから冴さんを巻き込むわけにはいかなかった。検察にも敵の手が入っている可能性は容易に考えられたから。そういう意味では、学生という身分は社会的なしがらみが社会人よりも少なくて身軽だったのだ。
「良いのよ。あなたが私を守ろうとしてくれていたことは分かってる。それで、奥村社長を精神暴走から救ったのは?」
「それも賭けでした。しかもかなり分が悪い」
認知訶学では、認知世界の主がいる。その主は現実世界のその人の無意識であり、その人の認知によって世界は如何様にも変わって見える。
だとすれば、その人にとって薬と心の底から思えるものであったなら、ただの水が認知世界では奇跡の薬になるんじゃないだろうか。人が思い込みで砂糖の錠剤を痛み止めとしてしまえるように。
「どうして怪盗団の改心で人がこれまでの悪事を自白するのか。罪悪感に耐えられなくなるのかを考えてみたんです」
改心という現象の中で、人の心理に一体何が起こっているのだろう。どうして人が自分の口で、罪悪感に耐えかねたように悪事を自白するのだろう。
「改心は、人を無垢にすると思ったんです」
「無垢に……?」
僕の言葉に冴さんが眉根を寄せて首を傾げる。ここからは一色若葉の論文を読み、丸喜先生との会話を通して僕が考えただけの妄想だ。専門家に聞かせれば噴飯ものかもしれない。
「誰だって人の言葉を正面から受け止め続ければ疲れてしまう。だから人は心に仮面を被るじゃないですか。心を守る鎧として、
改心とは、それを剥がしてしまうことなんじゃないかと思った。人の認知を現実世界に戻してしまう。例えば、人を犬か何かだと心底思い込んでいる人がいたとして、その人にとっては他人の言うことが犬が理解できない言葉で吠えているようにしか聞こえない。そんな言葉は心に響かない。そんな心の鎧を、改心が剥がしてしまうのだとしたら。
「改心された瞬間の人の心は、無意識はとても無防備になっているはずです。それこそ、他者から言われた言葉をすんなりと信じ込んでしまうくらいに」
「……まるで洗脳か催眠術ね」
「改心も精神暴走も、ある意味洗脳や催眠術みたいなものですよ」
だから賭けだった。怪盗団から予告状が出た翌日に、改心が成されるのならば。そこに居合わせた時に、僕がその人の認知に干渉出来たとしたら。奥村社長をどうにか救うことが出来るんじゃないかと賭けたのだ。
「奥村社長は既に冴さんのお陰で僕達が怪盗団の改心に対する抵抗手段だという認知があったはずです。僕がやったことは、奥村社長が改心されたであろうタイミングで精神暴走をさせないと奥村社長に言い切ること」
例えば模型の銃が本物だと錯覚されるように、模造刀が真剣だと勘違いされるように。僕という存在が精神暴走に対するカウンターだと思われること。それが奥村社長の無意識の防衛機構として、僕が彼の認知に入り込める方法ではないかと思ったのだ。そしてその方法が最も効果的なのは、改心によって奥村社長の心が無防備になったとき。
「だけどそれが上手くいくかは賭けです。それも過程が目に見えない、どうなったか何一つ観測出来ない分の悪すぎる賭けでした」
それこそ、明智君が僕を騙す為にあえて奥村社長を会見の場で殺さなかった可能性だってあった。むしろ、そうなる可能性の方が高かっただろう。何せ僕は認知訶学を聞きかじっただけの素人で、向こうはその知識を利用して実際に精神暴走を引き起こしていると推定される相手だ。
「針の穴のように細い可能性を、奇跡みたいに潜り抜けた。僕がやれたことなんて、それだけです」
明智君と敵の繋がりに気付いたのも、そこから情報を実際に集めたのも、そして僕を助けてくれたのも、結局は周りの大人に頼った結果だ。僕がしてきたことはただ人に頼って回っただけ。そして口八丁でその場を凌いだだけなのだから。
「それだけ、なんて言わないで。あなたがいなければ、その賭けの舞台を知りすら出来なかったんだもの」
そう言って冴さんは僕の頭に置いた方とは逆の手で、僕の手を握る。じんわりとした温かさがそこから伝わって、人肌の温もりに安心感を覚えた。
「あなたの口八丁で私や怪盗団は敵に良いように利用されなかった。あなたは私達をずっと守ってくれていたのよ」
だからありがとう、と冴さんは僕に言った。じっと目を見つめられ、僕は今の状況も思い出して少し恥ずかしくなって目を逸らす。そんな僕の様子を見て、冴さんはクスクスと笑った。
「あなたでも照れることがあるのね?」
「そりゃ、こんな状態ですし」
そうして視線を逸らしたことで気が付いた。冴さんの傍らに置いている封印されたファイルの存在に。あれは僕がいつかのときに冴さんに渡していたもの。僕達の切り札になると、冴さんに託したものだ。僕の視線に気が付いたのか、冴さんが僕の頭から手を離してファイルを手に取った。
「次に会ったときに、今がそのタイミングで良いわよね?」
「……はい。それが、僕が色んな人に頼って集めた最後の切り札です」
僕が頷くと、冴さんはゆっくりとファイルの封印を解いて中から一冊のスクラップノートを取り出した。
「これは……」
「頼りになる記者さんと、経験豊富な政治家先生のおかげで辿り着いた真実です。精神暴走事件の黒幕は、この人だ」