「先輩、今日の放課後ちょっと大丈夫ですか?」
新島冴のパレスを一旦脱した怪盗団は、明智の提言によって警察の捜査が本格化する11月20日の直前を狙って動くこととなった。その間、彼らは歯痒い思いを抱えたまま学生生活に戻ることとなる。そしてそんな蓮に声を掛けてきたのが深刻そうな表情をした芳澤だった。
「大丈夫。どこに行けば良い?」
「では、屋上に」
それだけを告げて教室を去って行った芳澤を見送る蓮だが、彼女の用向きについてはある程度予想が付いていた。
「その、先輩は怪盗団をこのまま続けるんですか?」
放課後、屋上を訪れた蓮に掛けられた問いは、彼女の予想通りのもの。
「今の怪盗団に対する中傷はあんまりです! それに、副会長も……」
芳澤が続けた言葉に蓮の表情が曇る。ここ数日、警察に連行されたまま帰って来ない徹に対し、学園内には着実に不穏な空気が広がっていた。
今朝も通学路で徹を疑うようなことを言っていた生徒がいるのを蓮は見ている。それが耳に入る度、蓮の中には焦燥が募っていく。
「だからこそ、怪盗団はここで止まっちゃいけない」
「……そう、ですか」
徹の疑いを晴らす為に怪盗団は冴をターゲットとして選んだ。そのことは芳澤も承知しているらしい。芳澤は怪盗団でこそないものの、蓮達と同じくペルソナに覚醒し蓮と一時期ではあるが正体不明のパレスを探索したこともある。それだけに、ターゲットを改心させるための苦労についても少しは理解出来ていた。
「でも苦戦はしている……」
そう言った蓮の表情も曇る。その言葉と共に思い出されるのは昨日も潜入したパレスでのこと。
「苦戦、ですか?」
「今までの敵とは違うから」
パレスの主に挑む権利を得るためにコロッセオでの決闘が課せられた怪盗団。彼らの前に立ちはだかる多種多様な敵。怪盗団の持ち前のコンビネーションに加え、複数のペルソナを扱えるワイルドの素養を持った蓮が全力を尽くすほどの戦い。それが何戦も続くのだから堪ったものではなかった。正々堂々を謳うだけあって戦いの合間にはインターバルが挟まれていることが彼女らにとっての救いだったが、それでも精神的な疲労も重なり、即日パレスの主に挑むまでの連勝を重ねるには至らなかった。
「だけど、負けない。徹のためにも」
「……はい! 頑張ってください」
蓮が小さく、しかしはっきりとそう言ったのを聞き届け、芳澤は笑みを浮かべて頷いた。
「個人的にも負けられない……」
と、今度は目の前に座る芳澤に聞こえるかどうかといった声量で蓮が呟く。僅かに声を聞きつけたのか、首を傾げる芳澤に向かって蓮は何でも無いと頭を振った。
「良かったよ、最終日に君と話すことが出来て」
そう言ってすっかり私物が無くなり寂しくなったカウンセラー室の中、丸喜は蓮と向かい合って穏やかに笑っていた。
芳澤との一幕があった翌日、今日が最終出勤日だという丸喜に誘われ、蓮は昼休みに彼のカウンセラー室を訪れていた。
「本当なら、彼とも話がしたかったんだけどね」
そう言って曇った表情を見せる丸喜が指す人物。それが誰かは蓮にも容易に想像がつく。
「彼と認知訶学について議論を交わしたことは僕の研究には不可欠なものだったんだ」
もちろん、君と話したこともとても貴重な時間だったよ。丸喜はそう言いながら丁寧に綴じられた紙束を指し示す。表紙と思われる一枚目に記載されていたのは『認知訶学における現実の解釈と外的要因によるその変化について』というタイトル。
「君達と交わした言葉、経験も交えたお陰で完成したよ、僕の論文が」
「認知訶学……」
「そう。怪盗としての君達との会話があったからここまで来られた」
「……気付いていたの?」
少し警戒するように目を細めた蓮に向け、丸喜は大丈夫だと言うように片手を上げた。
「誰かに言おうだなんて思ってないよ。そのつもりならとっくに通報しているはずだろう?」
「……いつから?」
「そうだね。鴨志田先生の改心が起こった時には、と言いたいところだけど君達だと確信が持てたのは海藤君のお陰かな」
彼が認知訶学やそれに類することについて調べていたからだね。そう言って丸喜は湯呑のお茶を啜った。
「最初は彼が怪盗だと思っていたんだ。鴨志田先生と真っ向から対立していて、そして彼が改心した後、警察に連行されるまでに最後に話したのは海藤君だ。学園内の大半が思っていたように、僕も海藤君が怪盗だって信じ込んでいたよ。それが勘違いだって分かったのは彼が怪盗団の改心手段について調べ始めたことを知ってからだけど。そしてだからこそ僕も怪盗団の改心手法に思い至った」
認知訶学を利用しているよね、怪盗団は。そう言って蓮を見つめる丸喜の目が鋭い光を放った。
「対象の認知に何らかの手段を用いて干渉し、改変する。それによって対象はこれまでの自分の所業を省みて、結果として改心した。どうやって認知に干渉するかまではまだ分からないけれどね。だけどいつかそれも明らかにするよ。君達の力は、苦しんでいる人を救う希望の力だ」
「希望の力……?」
「認知に干渉し、改変することでトラウマや辛い記憶を改変することだって出来る。それは心的外傷で苦しんでいる人を救う大きな力になり得る。そして僕の論文はその為の一歩になると信じているよ。それはもしかしたら君達とは少し違った道になるのかもしれないけれどね」
「互いの美学を貫くだけ」
「美学を貫く、か。良い言葉だね。正義や悪という単純な単語でなく、ただ自分の信じるものを貫く意志を感じさせる言葉だ」
そう言って丸喜は席を立つと蓮へと右手を差し出す。違った道になる、そう言った丸喜の目に宿った光がいつもの柔らかなそれでないことに気付きながらも蓮はその右手を取った。どういう道を辿るのかは分からない、それでも丸喜と怪盗団のやり方はもしかすると対立するものになるのかもしれない。どこか確信にも似た何かを蓮は感じていた。
「起きろ、囚人!」
その声と共に響く甲高い金属音。段々と聞き慣れてきたその音と共に、蓮は目を覚ます。つい先ほど眠りについたばかりだというのにである。
「ボーっとするな!」
「いつも以上に腑抜けた顔をしていますね」
そんな厳しい声を掛けてくるのは鉄格子の向こう側でこちらを睨みつけているカロリーヌとジュスティーヌ。白黒の囚人服の装いとなった蓮は、足首についた鉄球を引き摺りながら鉄格子へと手を掛けた。
「怪盗団に迫る最大の危機を前に、立ちはだかる敵もまた強大」
静かな、けれど耳に届く低音を響かせるのは鉄格子の先、大きな机に肘をついた長鼻の老人。ベルベットルームの主たるイゴール。
「喜べ、主より貴様に助言を頂く!」
「心して聞きなさい、囚人」
看守の双子が発した言葉に、蓮の中に僅かな疑念が生じる。これまでこの怪しげな老人が自らに助言というものを与えたことは終ぞ無かった。それどころか、蓮が苦戦している様をどこか楽しむように眺めていた節すらあったというのに、それが今になって助言である。
「どういう風の吹き回し?」
「口が過ぎるぞ! 囚人!」
疑問を口にした蓮を咎めるように、カロリーヌが厳しい表情で警棒を鉄格子に打ち付けた。ガンッという鈍い音と共に蓮の手に振動が伝わる。
「主の寛大な措置をありがたく受け取りなさい」
ジュスティーヌも冷たい目で蓮を見上げる。そんな二人を見て蓮はこれ以上反論することを諦め、イゴールの言葉を待つことにする。
そんな三人の様子を見て、話は終わったかと言わんばかりにイゴールは手を組み替えて再び口を開いた。
「以前お前に話した不穏な気配、それが今のパレスには存在していない」
「不確定因子は無い。精々目の前に敵に集中するんだな囚人!」
「何故それを今私に……?」
イゴールが口にしたことを掴みかねた蓮がそう言う。以前、カネシロパレスでもイゴールが示唆していた不穏な気配。それがニイジマパレスには無いと言う。カロリーヌの言う通り、不確定因子が無く、パレスの攻略に集中すればよいだけだとしても、それだけのことをこの不気味な老人が口にするはずが無いと蓮は考えていた。
「お前もよく考えてみるべきだ。何故、このタイミングであの気配が消えているのか。これまでのパレスと異なるのは何か」
「異なるもの……」
その言葉に、蓮の頭に一人の人物が思い浮かぶ。イゴールが口にする不穏な気配は分かりかねるが、それでも他のシャドウや認知存在とは一線を画す存在。これまでのパレスで会ってきた彼と、今は会えていない。
「お前の更生に立ち塞がる最後の壁は、あるいはあの気配の主やもしれんこと。努々、忘れぬことだ」
「立ち塞がる? 徹が私達と敵対するということ?」
イゴールの言葉に蓮が鉄格子に掴みかかる。両手に嵌められた手錠を繋ぐ鎖がじゃらりと揺れ、鉄格子とぶつかって耳障りな音を立てた。
イゴールの言葉を信じるのならば、徹は怪盗団の敵だということになる。だが、パレスで蓮達と出会った徹は自らを怪盗団の敵だとは言わなかった。オクムラパレスでは対峙することになったものの、それでも怪盗団が力を示した結果、認知世界の徹はあっさりと退いたのだ。
「話は以上だ!」
「時間です。戻りなさい、囚人」
後から湧いて出てくる疑問。しかしそれに答えを与えられることなく、カロリーヌとジュスティーヌは鉄格子越しに蓮を睨みつけた。カロリーヌの手に握られた警棒が鉄格子にぶつかって大きな音を立てる。そしてそれを合図とするかのように牢屋を模したベルベットルーム内にサイレンの音が鳴り響く。それはつまり、この空間から蓮が追い出される時間になったことを示していた。
鉄格子の向こうでいつもと変わらぬ不気味な笑顔を浮かべたまま、こちらを見つめるイゴール。助言と称した不可解な彼の発言の真意を問うように蓮は無言で彼を睨みつけるが、それがイゴールに堪えた様子は無い。
「お前が助けるべきもの、あるいは助けぬべきもの。よく見極めることだ」
闇へと落ちていく蓮の意識に、イゴールが投げかけたであろう最後の言葉が延々と木霊していた。