結局、冴さんの助けで奥村氏と顔を合わせられたことだけが9月の主な成果となり、10月を迎えてしまった。
世間は相変わらず怪盗団に熱狂しているし、奥村氏への掲示板でのバッシングは留まるところを知らない。スマホの画面に流れる文字を眺めながら、僕は苦々しい思いでそれを見つめていた。
「あれ、副会長さん?」
昼休み、僕にしては珍しいことに中庭の渡り廊下でぼんやりとしていると、少し久しぶりな気がする声を聞いた。
「や、芳澤さん。今からお昼ごはんかな?」
振り返ってみれば、そこにはお弁当箱であろう大きな包みを抱えた芳澤さん。いや、お弁当にしては大きすぎない?
「そうです!」
僕の言葉に笑顔で包みを掲げて見せる芳澤さん。まさかそれが全部今日の昼ごはんとでも言うのだろうか。出来れば違うと思いたいけれど。
「もしかしてそれ、全部今日のお昼に?」
「食べないと身体がもちませんから!」
僕が恐る恐る尋ねてみれば、彼女は笑顔で頷いた。凄いな、体育会系っていうのは。一応僕も育ちざかりの高校生のはずなんだけど、見ているだけでお腹がいっぱいになりそうだ。
「副会長さんはもうお昼済ませたんですか?」
「そうだね。今日は暖かいから中庭でボーっとしてたんだ」
本当はあまり食べる気もせず、自販機の缶コーヒーだけで済ませてしまっていた。
「そうなんですね……、良ければご一緒にと思ったんですけど」
芳澤さんはそう言って少し残念そうに肩を落とす。
「まだ食後のコーヒーを飲んでなかったんだ。芳澤さんが良ければ、お昼の話し相手になってもらっても良いかな? このままだと日向ぼっこくらいしかすることが無かったから」
「はい! 喜んで!」
僕がそう言えば、芳澤さんはパアッと顔を輝かせて頷いた。前に話したのは夏休みのときだったはずだけど、その時とは打って変わって明るい表情だ。いや、明るすぎる気がする。どこか無理をしているようにも見えるくらい。
「なんだか気を遣わせてしまったみたいですみません……」
「気にしないで、むしろ僕がお邪魔させてもらうんだから」
恐縮したように肩を縮める芳澤さんをそう言って宥めていると、渡り廊下の向こうからこれまた見覚えのある白衣がこちらに向かって来るのが見えた。白衣の主は、僕と芳澤さんを見ると少し目を見開いたかと思うと、すぐに穏やかな笑みを浮かべてこちらへと歩みを進めてくる。
「やあ、海藤君、芳澤さん。今からお昼かい?」
「あ、丸喜先生。こんにちは!」
「こんにちは丸喜先生。先生もお昼ですか?」
彼の手に提げられたコンビニの白いビニール袋を見て言えば、丸喜先生は少しきまり悪そうに笑った。
「コンビニ弁当だから、あまり褒められたものじゃないけどね」
「そうだ、丸喜先生もご一緒にどうですか?」
「おや、良いのかい? それならぜひご一緒させてもらいたいな」
眩しいくらいの笑みを浮かべて丸喜先生を昼食に誘った芳澤さん。そのまま僕達は中庭の一角、自販機とベンチが並んでいる場所まで言って昼食を摂ることになった。僕が自販機で缶コーヒーを買おうとしたら、「それくらいなら僕が出すよ」と丸喜先生がさっさと自販機にお金を入れたのでありがたく甘えることにする。
三段重ねの重箱を広げた芳澤さんが中のおかずやご飯をパクパクと口に運んでいくのを見ながら、僕と丸喜先生は他愛もない雑談に興じていた。
「そういえば丸喜先生は11月までの期限付きで秀尽にいらしてましたよね。この後はまたどこか別の学校に行ったりするんですか?」
「いや、一旦は論文作成に集中しようと思っているよ。ここでカウンセラーをやらせてもらって、色々な人と話していく中で僕も刺激を受けたからね、特に海藤君、君にはね」
「そうなんですか、やっぱり副会長さんは凄いですね!」
「ただ雑談してただけだと思いますけどね」
僕は丸喜先生と相談や雑談をしていただけで、そこから何かを汲み取ったというならそれは丸喜先生が優秀だからだ。ふと芳澤さんを見てみれば、彼女のお弁当箱が半分は空になっていた。食べるの速いね、芳澤さん。
それからもお弁当を食べ進める彼女を時折り交えながら、取り留めのない話を続けていた。その途中途中で、どこか沈んだ表情を一瞬浮かべる彼女に少し気がかりなものを感じながらも、僕がそれを話題に出せたのは彼女がお弁当を食べ終わる頃だった。
「ところで、芳澤さんは何かあったのかい?」
「何か、というのは?」
「なんだか無理しているように見えたから」
僕がそう言えば、芳澤さんだけでなく丸喜先生の顔も曇った。丸喜先生も何か知っているという事だろうか。
「……副会長さんに隠し事は出来ませんね」
「無理に聞こうとは思ってないよ」
僕はそう言ってコーヒーを飲み干した。芳澤さんが浮かない顔をしているのが気になったのは確かだけど、あまりプライバシーに踏み込むものでも無い。
「……すみません」
「謝ることないよ。むしろせっかくのお昼休みに嫌なことを思い出させてごめんね。興味本位で聞くことじゃなかったね」
それに、深く聞かなくともおおよその検討はつく、ついてしまう。夏休みに深刻なスランプに悩んでいた様子の彼女。恐らくは新体操に関係するもの。期待していた成果を得られなかったか、周囲から更なるプレッシャーを掛けられてしまっているか。
そう思って丸喜先生の方を見れば、彼は僕から目を逸らした。まるで、目を合わせたら心を覗かれてしまうと言わんばかりに。
「……最近、少しは新体操が前より辛くはなくなったんです。スランプからもちょっとは抜け出せたとも思ったり」
でも、と彼女は続けた。
「人の期待に応えるってとっても難しいなって思わされたんです」
「芳澤さん、君がそこまで思い詰める必要は無いんだ。以前より前に進めている、それだけで十分だと僕は思うよ」
沈んだ表情の芳澤さんに、丸喜先生が優しく声を掛ける。ともすれば芳澤さん本人以上に心を痛めていそうな表情をしているのは、彼が芳澤さんのカウンセラーをずっと務めていて彼女の努力を知っているからだろうか。
「海藤君、君だってそう思うだろう?」
丸喜先生が僕に同意を求めるように話を振ってくる。確かに彼女はとても努力をしている。夏休みだって自主的に練習をしているし、少しでも前に進もうと足掻き続けている。それを間違っているだなんて言えるわけがない。ないのだけれど、それを肯定する気には何故かなれなかった。
「……以前僕に聞いたよね。快活で明るい君と繊細で暗い君。どっちが芳澤さんらしいかって」
僕の脳裏を過るのは、以前丸喜先生と交わした会話や認知訶学のこと。どうして芳澤さんがここまで自分らしいという言葉に悩まされるのか。そして二つの対極な性格を、自分らしさの選択肢として挙げたのか。既に彼女の中では答えがあるんじゃないだろうか。けれど、それを直視出来ない。それは何故?
「それは……!?」
僕の言葉に、何故か丸喜先生が目を丸くして驚いていた。僕がチラリと丸喜先生に視線を向けてみれば、彼はまたついっと目を逸らした。あまり踏み込むべき領域じゃないということは今の丸喜先生の反応で分かった。けれど、彼も僕を止めようとまではしなかった。なら、もう少しだけ芳澤さんに話をしてみよう。
僕はベンチに座る芳澤さんの前に立つと、視線を合わせる為にしゃがみ込む。俯いてしまっている芳澤さんを下から見上げるような格好だ。
「芳澤さんは、今自分がどっちだと思う?」
「今の私……?」
困惑したように芳澤さんが僕を見つめ返す。快活で、ハキハキとしていて、周りを明るくするような人。芳澤さんに対して周囲が抱いているイメージはそうだと思う。それが本当に芳澤さんがそうあろうと思っていて、無理のない姿なのだとしたらそれに越したことは無い。けれど、それならどうして芳澤さんは今辛そうな顔をしているんだろうか。
「なりたい姿と今の自分にギャップがあるかもしれない。それで苦しんでいるんだとしたら、一旦立ち止まって、今の自分を少しだけ認めてあげても良いんじゃないかと思う」
「でも……でも、それじゃダメなんです……!」
「それじゃダメ?」
「私は、私は明るくて、いつも元気で……」
「明るくて、いつも元気なのが君?」
彼女が発した言葉を繰り返す。今の彼女は僕を見ているようで見ていない。痛みに耐えるような表情で、膝の上に置いている手はきつく拳を握り締めていた。
「だって、だって私は芳澤
絞り出すようなその言葉に、僕は思わず目を見開いてしまう。
「す、すみません。私、戻りますね!」
僕が驚いている間に、芳澤さんはそう言うと慌てたようにお弁当箱を片付け、ベンチを立って行ってしまった。
「やはり、まだ彼女には受け止めきれないんだよ」
それを見送る僕の背中に、丸喜先生の重たく沈んだ声が掛かる。
「前にも言ったかな。皆が君のように強ければ、って」
振り返った視線の先にいた丸喜先生は、僕ではなく地面をじっと見つめていた。自販機の光が彼の眼鏡に反射して、その奥の瞳を窺うことは出来ないけれど、今の彼の表情と同じように痛ましいものを見るような目をしているのだと思う。
「丸喜先生は、以前言いましたよね。トラウマを受け止めやすくするために、少しだけ認知を変える」
「……ああ、言ったよ。やっぱり君は気付いていたんだね」
「あれが、その結果ですか?」
「……そうしないと、彼女の心は壊れてしまっていた」
春先に僕が感じていた違和感、出来れば勘違いであって欲しかったそれは、生憎と勘違いでもなんでも無かったらしい。
「どうして彼女が自分を芳澤
少し調べたいことがあって確認した学生名簿。そこには確かに芳澤の名前はあった。だけど、
「芳澤
「やはり、君はとても優秀だよ。そして強くて、眩しい。僕らみたいな弱い人間じゃとても直視出来ない」
ようやくこちらを見た丸喜先生の顔は、能面のように表情が抜け落ちていた。その目は、普段の彼からは考えられないくらいに冷え込んでいる。
「今の彼女は芳澤かすみなんだよ。少なくとも、彼女の中ではそうなっている」
それが彼女にとっても良い治療になったんだ。と丸喜先生は呟いた。
芳澤かすみと芳澤すみれ。僕がまだ中学生の頃、ニュースにもなっていた。将来を嘱望される新体操界の星、芳澤姉妹。一時期、新聞やニュースがこぞって彼女たちの活躍を取り上げたこともあった。けれど、その活躍は程なくして急速に世間から忘れられていくことになる。
芳澤かすみの交通事故による死。
新体操界の未来を担うとまで言われた彼女の死は、ニュースで数度目にしたこともある。
「死人は生き返らない。ましてや死人と入れ替わることなんて出来るはずが無いんです」
「彼女の認知では、死んだのは芳澤すみれだ」
僕の言葉に、丸喜先生はそう返してくる。だけど僕は知っている。芳澤さんの中では、芳澤すみれも死んだことになんかなっていない。
「彼女は以前言っていましたよ。いつか妹と二人でオリンピックに出るのが夢だと」
彼女は芳澤かすみだと自分を思い込んでいるだけじゃない。彼女の中では芳澤すみれもまだ生きているんだ。だけど、彼女がかすみとして生きる限り、すみれは眠ったままになる。
「いつか夢は覚めます、いやもう覚め始めているかもしれない。そのとき、彼女は芳澤かすみの死だけじゃない。今まで自分が芳澤すみれという存在を殺そうとしていた事実も受け止めなくちゃならなくなる」
「それは……」
「先生は言っていましたよね。トラウマを緩和して、より受け止めやすくするための処置だと。でも、これじゃ逆効果ですよ」
むしろ時を経てしまっているほど、これは彼女にとって消えない傷になりかねない。そして何より、彼女を見ている周囲の人がどれだけ痛ましい思いをしているだろう。
「ご両親はこのことを知っているんですか……?」
「……知らないと思うよ」
ということは、芳澤かすみとして振る舞う彼女を、彼女の両親はどのような気持ちで見守っているのだろうか。
「だけど、今しばらくは彼女には芳澤かすみのままでいさせてあげるべきだ。そうじゃないと、辛すぎるじゃないか」
「それで救われるのは誰なんですか……?」
「皆が君のように強くなれるわけじゃない。それに君だって、もし鈴井さんが本当に取り返しのつかない被害を受けていたとしたら、それでも救うことが出来たと思うかい?」
丸喜先生にそう言われ、僕は言葉に詰まる。
「今の鈴井さんが立ち直れているのは、もちろん彼女自身の頑張りや、周囲の支えがあってのものだ。だけど決定的な事態が起こっていたとき、今の彼女のように立ち直れていたとは……僕には思えないね」
彼の言う通りかもしれない。鈴井さんが今も学校に通うことが出来ているのは、本当にギリギリのタイミングで僕が間に合ったからなのかもしれない。決定的なことが起こってしまっていたときに、僕が彼女を助けることが出来たかと言われると頷くことなんて出来る訳がない。だけど。
「だからって、今の芳澤さんは立ち直る機会すら奪われてる」
「……あの頃の彼女を知らないからそう言えるんだよ、君は」
そう言って僕を睨みつけた丸喜先生は、怒りすら滲ませるような口調だった。
「直視するどころか、意識の片隅に残るだけでも辛い記憶というのもあるんだよ。そんなとき、人の心というのは容易く壊れてしまうんだ」
丸喜先生が口にしたその言葉に滲む怒りは、僕に向けられたものじゃない。それは他ならぬ丸喜先生自身に向けられたものに思える。
「……芳澤すみれを芳澤かすみにすることによって救われているのは、彼女じゃなくて丸喜先生なんじゃないですか?」
「…………彼女にとっても救いになっている。僕のやっていることがその場しのぎでしかないと言うなら。だからこそ君の助けも借りたいんだ」
彼女を真の意味で立ち直らせたいのなら、協力してほしい。
そう言って僕に差し出された右手、それが示す重みは丸喜先生にとってはいかほどのものだろうか。僕を見つめる丸喜先生の瞳に、切実な光を見て取れたような気さえしてしまう。だけど、僕にとってその手はとても遠い距離にあるものだ。
「ごめんなさい、丸喜先生。僕はあなたの手を取るわけにはいきません。あなたのそれは、人の持つ強さを損なってしまうやり方だ」
「そうか……、だけど、僕は君にも分かってもらえると信じ続けるよ」
僕を見つめる丸喜先生は、ずっと僕を正面から捉え続けていた。