「……この前は随分と大変な思いをしたみたいだね」
あの取り調べを受けた日から数日後、僕は放課後になると丸喜先生のところを訪れていた。僕が警察で取り調べを受けたというのは誰の口から漏れたのか校内のある程度の人数には知れ渡っていたらしく、登校してすぐに取り囲まれてあれこれと詮索を受けた。普段はあまり気にしないのだけど、ストレスが多少溜まっていたのか、放課後になる頃には取り調べを受けていたときくらいには疲れを感じていたからだ。
丸喜先生はと言えば、僕の顔を見るなり一言言ったかと思うと、こちらを気遣うように飲み物とお菓子を出してくれた後は何も言わずに自身もカップを傾けている。僕も何も言うことなく、しばらくは沈黙の時間が部屋に流れていた。こういうとき、やはり丸喜先生がカウンセラーとして優れているのだと感じさせられる。相談者の心理的なストレスを見抜き、話すことを強要しない。こうしてゆったりとした時間を過ごさせてくれることが、自分のような人間にとって癒しになることを丸喜先生はしっかりと把握している。
「助かりました」
丸喜先生に甘えてしばしの沈黙に癒された後、僕はそう言って彼に頭を下げた。
「僕はお茶とお菓子を出すくらいしかしてないよ。それに、今は慰めだろうが他人からの言葉が重たく感じられるだろうからね」
「そう、ですね」
校長の死、それから間髪入れずに警察の取り調べと明智君との交渉。あの日のことを思い出すと少し頭が重く感じられるくらいには、僕も精神的にストレスを感じていた。
「君がどんな目に遭ったのかは想像しか出来ないけれど、こうして学校に来ることが出来ているだけでも凄いことだよ」
「どうなんでしょうね。まだ現実感が無い、のかもしれません」
「……出来れば、そのままその記憶が風化していって欲しいね。現実感を伴ってしまうと、君の心にかかる負担は計り知れない」
丸喜先生はそう言って僕の顔を心配そうな表情で覗き込む。
「どうだろう、君さえ良ければ一度僕の治療を受けてみる気は無いかい?」
「治療、というのは?」
今のところ、僕は自分が病んでいるという自覚は無いのだけれど、丸喜先生から見ると僕の様子はそこまで深刻だったのだろうか。
「治療というような大袈裟なものじゃないんだけどね。一種の催眠術のようなものだよ。記憶の言語化を利用して、トラウマの一部をよりインパクトの弱い印象に改変する」
いわば、自分を騙すというのに近いと丸喜先生は説明してくれた。もう少し記憶が風化して、衝撃を受け止められるくらいに心が回復してくるまで、記憶を軟化した形にして置いておくというのが彼の言う治療らしい。
カウンセラーというのはそんなことまで出来るのかと驚いていると、丸喜先生は恥ずかしそうに手で後頭部を掻きながらこれは自分が独自に考えた治療だと言う。
「ほら、一色博士の認知訶学があるだろう。あれの理論を少し応用しているんだ。人は自分の認知で世界を歪んで捉えている部分がある。だったら、意図的に認知を歪めてトラウマ治療にも役立つんじゃないかって思ってね」
「なるほど、そんなことが」
「それで、どうかな? 少しでも君の心労が軽くなるなら、試してみても良いと思う。あっ、もちろん、無理強いはしないよ!」
丸喜先生は最後に慌ててそう付け足す。僕を臨床試験の被験者にするつもりじゃないと言いたいのだろうけど、その焦りようは逆に怪しく思われても仕方ないんじゃないかな。
丸喜先生も混じりっけなしの善意で提案してくれているんだろう。ただの高校生が人の死に目、ショッキングなそれに出くわしてしまったのだ。僕だって友達がそんなことになってしまったら、丸喜先生のような信用できるカウンセラーに連れて行くと思う。だけど、
「厚意は嬉しいんですが、止めておきます」
「そうかい……、無理は禁物だよ? 自分が大丈夫だと思っているときほど、人は疲れているものだから」
「そうですね。でも、覚えておかなくちゃいけないと思いますから」
あの日、僕が見たもの、感じたことを無かったことにしてしまうわけにはいかない。
「……あまりにも辛いことを抱え込もうとするのは、僕は反対だよ」
「それでも、僕はその手段をとるわけにはいきませんから」
目の前で起きたことからも目を逸らしてしまえば、僕は彼と正面から相対する資格を失うだろう。
僕の言葉に、丸喜先生は少し悲しそうな顔をしたかと思うと、次の瞬間には穏やかな表情に戻ってチョコレートを僕に差し出した。
「君は強いね。なら治療は止めておこうか。代わりに、これを食べて欲しいな。甘いものは、生理的にも心理的にも良い効果があることが分かっているからね」
「頑固な性分ですみません。ありがたく頂きます」
丸喜先生から受け取ったチョコレートの包装を開くと、四角いそれを口に運ぶ。口に広がるカカオの香りと、じんわりと沁みるような甘みが丸喜先生の言う通り、心と体をリラックスさせてくれたらしい。この部屋に来るまで感じていた頭の重さは消えていた。
「こうして何気ない話をするだけでも、僕はすごく楽になりました。やっぱり丸喜先生は凄いですね」
「まさか。君自身の力だよ、それは。僕はそれをほんの少し支えただけ。……皆が君のように強ければ、ね」
「僕が強い、ですか?」
彼の言葉に僕は首を傾げる。あまり自分が強い、と思うことは無かった。僕が強ければそれこそ鴨志田先生にあそこまでボロボロにされなかったと思うのだけど。
「強いよ、とても。見ていて眩しいくらいにね」
「そうですか……。あまり自分ではそう思ったことは無いですが」
「弱い人にとっては、眩しくて見ていられない程さ」
丸喜先生は、他ならぬ彼自身が弱いのだと言うように目を細めて僕を見る。
「君には確かに僕のようなカウンセラーは必要が無いのかもしれないね」
「どうなんでしょう。少なくとも僕は今日先生と話が出来て助かりましたが」
「……そう言ってもらえて嬉しいよ。さ、今日はもう遅いし、そろそろ帰った方が良いんじゃないかい?」
丸喜先生が指した時計は、確かにもう夕方を示していた。もうすぐ日も沈んでしまう時間だ。
「そうですね、今日は帰ります。それじゃあ先生、ありがとうございました」
「うん、またいつでもおいで。君とこうして話すのはいつも楽しいからね」
そう言って僕を送り出した丸喜先生の顔は、穏やかな表情のままだったけれど、その目の奥にはどこか強い色の光が宿っていたようにも見えた。それは疲れた僕の勘違いだったのかもしれないけれど、学校を出てしばらくの間、僕の脳裏に残ったのだった。
学校を出た僕は、そのまま真っ直ぐ帰る気分にもなれず、渋谷駅で降りた後はセントラル街をブラブラとアテもなく散歩していた。こんなことをするのは我ながら珍しい、と思いながら歩いていると、肩に圧し掛かる衝撃。
「副店長じゃん。どうしたのさ、もしかしてヘルプ来てくれたり?」
「……副店長じゃないです。最近面倒で訂正もしてませんでしたけど」
誰かと思えばバイト先の店長だ。店の外なんだから当たり前だけどファミレスの制服姿ではなく、Tシャツにジーンズとラフな格好で、けれどぼさっとした髪の毛とどこか間延びしたような雰囲気は間違えようが無い。
「そういえばこの前は急に電話なんかしてごめんね?」
「それほど切羽詰まっていたんでしょう? こちらこそ行けなくてすみませんでした。あの日は大丈夫だったんですか?」
「人を搔き集めて私も久々に本気を出してどうにかしたよぅ。いやぁ、人間やれば出来るね」
肩を組んだまま、店長は最初は、申し訳なさそうに最後は疲れたように笑いながら言う。これは、結構修羅場だったんだろうな。
「ま、君も大変だったんだろうし。こっちは気にしないで」
「店長? それはどういう……」
「違ったかい? 疲れた顔してたし、何かあったのかと思ったけど」
「……意外と店長って人のことよく見てますよね」
「意外ってひどくない……?」
丸喜先生のところでだいぶ回復したつもりだったのだけど、店長には何故かバレているみたいだ。接客業をしているからこその観察眼なのだろうか。この人がホールに出ているところなんてまあ見ないのだけど。
「これでも君とは結構長い付き合いだからねぇ。そりゃ分かるよ。
「店長との付き合いってバイト始めた頃からなんで精々二、三年なんですけど……」
いつから僕と店長は互いに首を刎ねられても後悔しないような仲になったんだろうか。
「あれ、そうだっけ? 副店長って私の親友ベスト4には入ってるんだけど。まあ君以外の三人は最近全然会えてないんだけどさ」
「店長の交友関係って……」
いや、それ以上は何も言うまいと口を噤む。もしかしたら僕だけでも彼女にもう少し優しく接するべきなのかもしれない。
「違うからね? 他の友達は色々飛び回ってたりで会えてないだけだから。私が寂しい奴みたいな目で見るのは止めておくれよう」
「はいはい、そうですね」
その後もやいのやいのと言いながら纏わりついてくる店長をいなしていると、
「────!」
「──や!」
路地の方から何やら言い争うような声が耳に入って僕の足が止まる。店長の方を見れば、彼女も視線をそちらに向けていた。
「今の、男女の声でしたね」
「痴話げんかでもしてるのかもねぇ」
痴話喧嘩、にしては少し声が大きかったが。声のした方向は街灯が少なく薄暗い路地だ。喧嘩の末に何かマズいことでも起こる可能性だってある。
「店長、近くの交番まで行ってきてもらえます?」
「それは良いけど、君はどうするのさ?」
「ちょっと様子を見てこようかと」
「止めなよ、怪我するかもしれないんだから!」
店長にしては珍しく焦ったような口調で僕の肩に回した手に力が籠る。心配してくれているのは分かる。だけど、誰かが見ているという心理的な抵抗感が無いとエスカレートしたときにどこまでも酷いことが起こるかもしれない。そうなったときに、女性である店長を向かわせるという選択肢は僕には無かった。
「すみませんけど、警察お願いしますね!」
「あ、ちょっ、海藤君!?」
僕は店長の腕を振り解くと、そのまま路地に向かって走っていく。もう日もすっかり落ちてしまった時間だ。暗い路地を言い争う声を頼りに走って行けば、暗闇に慣れ始めた目に映るのは白いスーツの後ろ姿とその向こうにいる誰かの二人組。こうして走って向かっている最中にも声のトーンは激しさを増していた。
「楽しいこと、僕にもしてくれよ? なあ?」
「痛っ……!」
白いスーツの男が剣呑な雰囲気で奥にいる女性の腕を掴み上げた。このままだと危惧していた通りのことが起こると思った僕は、思わず男と女性の間に割って入っていた。
「部外者ですみません。ちょっと落ち着きましょう!」
「っ、何だお前!!」
「か、海藤君!?」
急に現れた僕に驚いたのか、男は女性から手を離して僕を睨みつける。そこまでは良かったのだけど、僕の背後から聞こえた声に、妙に聞き覚えがあるのは何故だろう。そう思って振り返ってみれば、そこにいたのはふわりと横に広がった薄茶色のショートボブが特徴的な知り合い、奥村さんその人だった。
「春と知り合い……お前か、春の男は?」
「えっと……?」
僕を親の仇か何かのように睨みつけてくる男。奥村さんと知り合いだから何か誤解されているようだ。
「違う、海藤君は何も……」
奥村さんがそう言って否定しようとしている。痴話喧嘩、にしてはちょっと奥村さんが怯え過ぎてしまっているような気もする。
「関係が無いと言うなら身内の話だ。黙っていて貰いたいな! 春、こっちに来るんだ!」
奥村さんの言葉に男がまた彼女に詰め寄ろうとする。流石にさっきまでの様子を見て黙って通すわけにもいかないのでそれを遮るように間に入れば、男の顔が怒りに歪んだ。
「さっきから……!」
今にも殴りかかって来んばかりの剣幕だけど、鴨志田先生のようなガタイでも無ければ、スーツの仕立ても上等で、あまり運動や格闘技をやっているような雰囲気でも無い。なら一発二発は殴られても構わないかと思っていると、僕の背後からバタバタと複数の足音が迫ってくるのが聞こえた。
「奥村さん!」
聞き覚えのある声が奥村さんの名前を呼ぶ。
「何してやがる、てめぇ!」
これもまた耳馴染みのある声だ。声の方に視線を向ければ、坂本君が怒りに満ちた表情で僕の前に立つ男を睨みつけていた。
奥村さんの名前を呼んだ真は、そのまま彼女を背中に庇っていた。他にも雨宮さんに高巻さん、喜多川君と眼鏡をかけた小柄な女の子も一緒だ。
人数が増えたことで少し頭が冷えたのか、スーツの男は一度咳払いをすると、表情を取り繕ってこちらへと向き直る。
「……お騒がせして悪かったね。フィアンセとの……ただの痴話ゲンカだ」
フィアンセ、という言葉に僕も含めて雨宮さん達の顔が驚きの色を滲ませる。
「フィ……え? で、でも奥村さん嫌がってんじゃん!」
「痴話ゲンカ、にしては穏やかじゃない雰囲気でしたよ」
高巻さんと僕の言葉に形勢が不利なことを悟ったのか、スーツの男はため息を吐くと、真の後ろに庇われている奥村さんを睨んだ。
「……よくも恥をかかせてくれたな。奥村さんにも報告しとかないと」
それからその視線は僕の方にも向けられた。
「それと春の男、カイドウとかって言ったか? 顔、覚えたからな」
そう吐き捨てると、足早にその場を去っていった。何だか誤解されたままだったような気がするけれど、仕方ない。誤解を解く暇だって無かったし。
「真、奥村さんは任せても良いかな? 多分もう少ししたら警察も来ると思うし、僕はそっちに事情を説明しに行くから」
「え、ええ……、って待って、奥村さんの男ってどういう……」
「それについてはまた今度で。今は奥村さんをどこかで休ませてあげて」
奥村さんは真達に任せることにして、僕はそろそろ店長が呼んでくれたであろう警察への事情説明をしなくちゃいけない。最近は何かと警察に縁があるな、僕は。