明くる日、今日が修学旅行最終日でやっと解放される、という真からのメッセージに労いの言葉を返しながら登校した僕は、早々に校長室に呼び出しを受けていた。
彼に呼び出されるのは本当に久しぶりのことだ。鴨志田先生の一件以降、僕は校長に目の仇にされていた。そのお陰と言うべきかそのせいと言うべきか、校長が頼りにしたのは真であり、それも金城の件を境に真からの協力も受けられなくなっていた。校長が今何をしているのか──恐らくは鴨志田先生の件についての説明と謝罪に追われているのだろうけど──を把握しておらず、僕としては今日の呼び出しの理由を図りかねているところがあった。
「お呼びですか、校長先生」
部屋に入れば、相も変わらずふかふかの絨毯に照明を反射して艶やかな光を放つ革張りの椅子。ただ一つ、僕が最後に見たのと異なるのは、その豪華な椅子に腰かける人物の様相だ。
「……よ、ようやく来てくれたね」
丸い身体に、首と顎が完全に一体化してしまっている特徴的に過ぎるフォルム。そんな校長は、過度のストレスからか目は落ち窪み、隈がくっきりとできていた。それでもその目は鋭く僕を睨みつけていたのだけど。
「君はこれで満足か……?」
「満足、とは?」
顔を合わせて早々、校長が何を言いたいのか判然とせずに問い返す。
「あれ以来、ワシはずっと理事会から突き上げを喰らい続け、警察にも何度も事情聴取に呼ばれている。来年の学園への出資額も相当な縮小が決まった。ワシは遠からず首になる。……全て、全て君が企てたことだろう! ワシを陥れようと、怪盗団などというものを立ち上げて!」
僕の返事が気に食わなかったのか、校長は最後はもう叫ぶように捲し立てながら、席を立って僕の胸倉を掴み上げた。校長よりも僕の方が背は高い。けれど、鬼気迫る人間の迫力とでも言うべきか、今の校長は僕をその両手で吊るし上げんばかりの力を込めて襟を締め付ける。
「わ、ワシがここまで来るのにどれほどの犠牲を払ったか! 分かるか! たかが高校生の子どもじゃ想像もつかんような犠牲だ! 金も、時間も、何もかもを費やした! そうして築き上げたワシの今を、すまし顔で足蹴にして満足か、ええッ!?」
「……っ!」
眼前に詰め寄られ、血走って涙で潤んだ校長の目に僕の顔が映り込む。首が絞まり、苦し気に顔を歪める僕の顔。
「鴨志田を止められなかった? ならば他に誰がこの学園を全国区に押し上げることが出来た!? その名声で、その実績でスポンサーからの出資を集められたのは誰のお陰だ!? ワシが、鴨志田を連れて来ることが出来たからだ! その恩恵に与っておきながら、いざ不都合が起きたら全てワシの責任か? どこまで都合の良い身分だ、子どもというのは! そんな血も繋がらない子どもの為に、何故ワシがこんな目に遭わねばならん!」
激情のままに力を籠め続ける両手に、僕の喉は絞め上げられ、ついにはまともに呼吸が出来なくなる。酸欠で目の前の校長の顔がブレて映り、手先が震えるような感覚を覚えながらも、僕は何とか彼に手を上げようとする自分を抑えつけていた。
今ここで手を出すべきじゃない。それはより一層、校長を刺激し、今度こそ取り返しのつかない事態を引き起こしてしまいかねない。僕は震える手を校長の両手に添える。
「ほら、どうした? ワシを殴ってみろ! 鴨志田にしたようにな! そうすれば君だけでも退学に出来る! ワシだけが堕ちると思ったか? ワシだけが、君に良いようにあしらわれて終わるとでも思ったか? いつもいつも全てを見透かしたような態度でこっちを見下して、ワシの何を理解したつもりだ!」
ギリギリ、ギチギチと掴み上げられた服から音が鳴る。そろそろ本格的にマズくなってきた……。これ以上首を絞め続けられると意識を保てなくなる。そうなる前に最悪力づくで抵抗しようと思っても、既に僕の手足はその意思に反して脱力してしまっている。耳の奥でドクドクと音がする。校長を殴ってでも逃げるべきだった、だけど……。
その瞬間、校長の両手で絞め上げられたワイシャツが限界を迎えたのか、第一ボタンが弾け飛び、彼の額に勢いよく当たる。ぺチン、と小さな音が鳴り、その微かな音と衝撃に我に返った校長の手から先ほどまでの剣幕が嘘のように力が抜けた。
「っ! ……げほっ、えほっ!」
床に倒れ込み、空咳と共に肺に必死で空気を取り込む。血がかなり頭に上っていたのか、息を吸いながら熱を持った頭を振る。
「わ、ワシは何を……?」
校長はと言えば、自分がやったことを上手く認識出来ていないのか、僕と自分の両手を見比べて先ほどまでの激昂が嘘のように顔を青くしていた。
「げほっ……、少しは冷静になれましたか……?」
息を落ち着かせながら、校長に問う。まだ視界が揺れているため、膝をつきながらだけれど、校長の目を正面から睨みつけて。
「ヒッ!」
校長はそれに怯えたように後退る。極度のプレッシャー、疲労からの情緒不安定、今は興奮状態が収まり、周囲に際限なく怯えてしまう状態になっているらしい。この分ならまたすぐに襲われることは無いだろう。そう思い、僕は一度深呼吸すると、努めて声音を穏やかにして校長へと話しかけた。
「落ち着いてください。先ほどは錯乱していた、そうでしょう?」
「そ、そうだ……、わ、ワシが生徒を手に掛けたり……など……」
「ええ、そうです。校長がそのようなことをまともな状態のときにしたりするはずが無い。だから落ち着いて、深呼吸をしてから、ゆっくりと椅子に座りましょう」
両手で落ち着くようにジェスチャーをしながら、ふらつきそうな足に鞭打って立ち上がり、校長の肩に手を置く。それに一度大きく身体を震わせた校長だが、僕の言う通りに深呼吸をすると顔中に脂汗を滴らせ、椅子に身を沈めてくれた。
「何があったかは僕には分かりませんが、よほど理事会とやらで追い詰められたのですね」
「……ワシはもう終わりだ」
そう言いながら、校長は今度は僕の手に縋りついてくる。先ほどとは打って変わって泣きそうな表情で。
「どうすれば良かった!? ワシは、一体どうすれば良かったというんだ!」
「……僕を怪盗団の最有力容疑者として理事会や警察に突き出すのではなかったのですか?」
「確たる証拠も無い中でそれをしたとしてどうなる……。間違っていればワシの立場が余計に危うくなるだけ。それにもし君が怪盗団なのだとすれば去年の段階で鴨志田を改心させていただろうに……」
この校長の話しぶりからすると、彼は僕を怪盗団容疑者として警察やその他に話したりはしなかったのだろう。そこには彼自身も語ったように自身の保身もあるだろうが、僅かなりとも教育者としての校長の姿があったとしたいのは、ただの僕の願望だ。
僕の両手を握り締める校長の手が、まるで氷か何かのように冷え切っているのは、彼の立場が今いかに危ういものになっているかを、言葉よりも雄弁に僕に伝えてくれた。
「もう話せることは全て話した……これ以上、何をすればワシは許されるんだ……。ワシに怪盗団の正体を掴むなど、到底不可能なことだった……」
「どうしてそこまで怪盗団のことを?」
憔悴したように呟く校長に、僕はふと浮かんだ疑問を口にする。思えば、校長は鴨志田先生の一件から、ずっと怪盗団の正体に執心していた。もちろん、学園の醜聞をセンセーショナルな形で世間に晒し、大衆の注目を必要以上に惹きつけることになった。それによって秀尽学園のイメージダウンが決定的なものになってしまった。校長としては、怪盗団を目の仇にする理由は十分ある。それにしても、校長の執着の仕方は病的だ。学園の為というよりも、もっと別の何かの為に情報を集めようとしていたみたいに。それは違和感とも呼べないくらいの僕の幼稚な憶測でしか無いけれど。
「……言えない、言えばワシは終わりだ」
今の校長の言葉によって、僕の中にあった違和感が形を為し始める。校長を動かして怪盗団を探っていた者がいる。それは校長を完全に支配下に置いている。警察? いや、警察ならこんな回りくどいことをする必要なんか無い。
「終わり? 校長の背後には誰が、何がいると言うんです?」
「い、言えない……」
僕が聞き返せば、校長は分かりやすくしまったという表情になって目を逸らし、口を噤んだ。その前に回り込み、顔を覗き込む。
「学園関係者ですか? 理事会?」
「……」
縫い付けられたように口を閉ざしてしまう校長。けれど、その目は忙しなくあちらこちらに向けられている。正面にいる僕の目から逃れようとするみたいに。目を合わせてしまうと、そこから何かを見抜かれてしまいそうだと怯えるように。しかし、その手は僕の両手を掴まえたままだ。
「終わり、というのは校長が校長でいられなくなるということですか? それとも……、もっと別の意味ですか?」
別の意味、と言った瞬間に身体が強張った。同時に僕の手がより一層強く握られる。身体を小さく縮めようとする動き、本能的に自分を守ろうとする動きだ。
「怪盗団を追う警察以外の何者かがいる?」
校長の背後にいる何かが、怪盗団と敵対し、明智君が所属しているであろう勢力と同じとは限らない。けれど、警察や芸術界、裏社会にまで根を張っているその何かが、校長ともその一端で繋がっていると考えるのはこじつけだと思うだろうか? 怪盗団を付け狙い、なおかつ大きな影響力を保持する何者かが、そこまで怪盗団に執着するような者が、どれだけの数がいるというのか。
「……わ、ワシはもう終わりだ。こ、殺される……!」
「落ち着いてください! そうと決まったわけじゃないでしょう」
「だ、ダメだ……! もう価値が無くなったワシなど……」
僕の両手を離し、そのまま頭を抱えて椅子の上で丸くなってしまう校長。汗と共に涙を流しながら、終わりだと何度も呟く。
「た、助けてくれ……!」
かと思えば、再び顔を上げて僕の両肩を掴み、がくがくと揺さぶってくる。それを何とか押し留めながら、僕は今取り得る方法について考えを巡らせる。
冴さんに頼る? それで校長の後ろにいる人物に冴さんまで狙われる。冴さんに誰かを守る余裕なんて無い。自身を守ることだけでも大変なはずだ。
怪盗団? 校長をそこまで信用していいとは思えない。今は錯乱し、弱っているけれども、保身が頭を過るだろう。
じゃあ明智君? あり得ない。もし僕の考えが正しければ、それは校長を地獄に叩き落とすのと変わらない。
他にも僕の面識のある人達の顔が浮かんでは消えていく。そのどれも、校長を守るには足りないか、校長自身を信用しきれないために採れない手になる。どこまで自身の身を削って校長を守るべきかという冷徹な思考もまた、僕の中には存在していた。
「……校長、警察に保護を求めましょう」
結局、僕の口から出てきたのは苦し紛れな案。妙案だなんて欠片も思ってない、ただ校長を安心させるためだけの誤魔化しだ。
「む、無理だ……!」
僕の案を校長も信じられないのか、力無く呟いた。
「警察にただ言ったところで無駄かもしれません。ですが、怪盗団に狙われていると言えば保護してもらえる可能性はあります」
毛筋ほどに細い光明だけれど、校長が保護されようと思えばそう言うしか無いと僕は考えた。
怪盗団を追う警察も、その背後にいるであろう勢力も、怪盗団のターゲットになった人物は怪盗団に繋がる貴重な手がかりだ。そのハッタリがどこまで通じるかはやってみないことには分からないけれど、校長の利用価値を見せつつ、保護してもらえるとすればこの手しか今の僕には思いつかなかった。
それを彼に説明すれば、先ほどまでの身体の震えは幾分かマシになる。か細いけれど、可能性を見出したためだ。
「不安なら、放課後になりますが警察まで僕も付き添います。どうせ事情聴取もされた身です。今更それが増えても構いません」
「わ、分かった……、警察に行く……! だからワシを、ワシを助けてくれ……!」
「大丈夫です、大丈夫……」
そう言って校長を宥めていると、僕のポケットからバイブレーション音がする。こんな朝に一体誰がと思い、校長に一言断って画面を見てみれば、そこにはバイト先の店長の名前が表示されていた。
「副店長ぉー!」
「いきなり大声出さないでください。どうしたんですか、こんな時間に。普段は学校のある時間に電話なんかかけてこないじゃないですか」
何か大変なことでもあったのかと電話に出てみれば、店長の悲嘆の声が僕の耳にキーン、という耳鳴りをプレゼントしてくれた。
「それが今日のバイト君達が急に病欠病欠で人数が足りなくなったんだよーぅ! 他の子に連絡しても皆来れそうにないって言われてぇ……。放課後で良いからヘルプで来てぇぇぇ!」
「えぇ……、そう言われましても……」
なるほど、店長が慌てて連絡してきた事情は分かった。けれどこちらはこちらで放っておけない用事があるのだ。
「無理? 無理かなぁ? ほんのちょっとでも良いんだよぅ……」
「あいにくと僕も今日は外せない用事が……」
そう伝えれば、電話口から店長がおいおいと泣く声が響く。そこまで追い詰められていたのか、ちょっと申し訳ないけれど、それでも今の校長を放っておくことは出来ない。
「……ホントに無理?」
「すみません……」
「そっか……。うん、それなら仕方ないね……、君の決めたことなんだもの」
「店長……?」
「……いやー、ごめんね! 急に無理言って! こっちは何とかするよ。一年に三度しかない私の本気を出すしか無いねぇ」
「それは普段からある程度頑張って欲しいんですが」
「言わないでよぅ……」
最後はしょぼくれた声音ながら、こちらは気にしないでと言い残して店長との電話が切れる。どこか普段の店長とは違う様子に思ったけれど、あの人が変なことはいつものことだ。
「さて、気を取り直して。校長、では放課後、またここに来ます」
「あ、ああ……、頼む……」
最後に校長とそう言葉を交わし、僕は部屋を後にした。部屋を出てから気付いたけれど、もう朝のホームルームも終わっている時間だ。それどころか、一時限目の授業も始まっている。思った以上に校長と長く話し込んでしまったらしい。
「……どうか上手く行って欲しいな」
僕はそう呟いて、先ほど出て来た校長室に振り返る。扉の奥では、校長がまた重圧と恐怖に怯えているのだろう。僕と校長の間には確執もあるけれど、だからといって彼に不幸になれだなんて思ってはいない。反りの合わないところがあれど、校長が大人としての責任を果たしてくれるのなら、僕と校長にとって適切な距離感でいればいい。
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「今入りました臨時ニュースです。先ほど、警察署前で男が血を吐いて倒れ、救急搬送されました。男は倒れる前に怪盗団、と呟いたことが近くにいた警官からの証言で分かっています。一緒にいた男子学生と警官の救命活動が行われましたが、現在心肺停止状態となっており──」