「夏休み中なのにごめんね、こんなことお願いして」
「気にしないで。僕に出来ることなら何でも協力するよ」
さて、お盆休みに入ったある日のこと。僕は今日も登校していた。これについては以前からお願いされていたことだし、お盆休みということで学生も教師も殆ど校内に居ないタイミングを狙わないといけなかったことだ。
「無理はしちゃダメだよ、鈴井さん?」
「うん……、だけど避けてばかりじゃいられないから」
隣り合って廊下を歩く僕と鈴井さん。夏休みに入る前に電話で相談されていたのだ。夏休みで生徒が居ないタイミングで、協力して欲しいことがあると。
体育館に足を踏み入れる練習。
鈴井さんに相談されたのは彼女のトラウマ克服の手伝い。鴨志田先生の一件以来、彼女は体育館に近付くことが出来なくなっていた。彼女にとってそこは自身が侵食された記憶しかない場所で、近付くと怖気が走って足が動かなくなるのだという。
けれど、バレーボールを嫌いになれなかった彼女はそのトラウマと向き合うことに決めた。その練習に他の部員達と顔を合わせるのも気まずい為、僕に白羽の矢が立ったというわけだ。
体育館に繋がる中庭の渡り廊下。そこに差し掛かったところで、彼女の足が止まる。部活に向かうときに必ず通ることになるこの渡り廊下は、彼女のトラウマの入り口でもあった。
「っ……! ご、ごめんね」
「大丈夫。ゆっくり深呼吸しようか。吸ってー、吐いてー」
見ていて可哀想になる程に震える鈴井さんの肩に手を置いて、深呼吸を促す。僕の言葉に合わせて何度か吸って吐いてを繰り返した彼女は、まだ青ざめた顔色ながらもう一歩を踏み出した。
「うん、大丈夫……。歩ける」
「強いね、鈴井さんは」
「副会長が居てくれるからだよ。本当にありがとう」
自身のトラウマと正面から向き合い、それを克服する。他人には計り知れないだろうその苦しみを、鈴井さんは今まさに乗り越えようとしている。彼女は僕のお陰だと言うけれど、これは間違いなく彼女自身の強さが成せることだ。
ゆっくりと、しかし確実に彼女は一歩一歩前進していく。トラウマの元凶となった体育館へ。自らの心に刻まれた傷痕へ。踏み出す度に彼女の胸の前で組まれた両手が真っ白になるくらいに強く握り合わされていくけれど、足を止めてしまうこともあるけれど、後退することは無かった。
普段なら一分も掛からずに渡りきれる廊下を、彼女はとてつもない時間を掛けて歩く。だけどそれを馬鹿に出来る人はいないだろう。馬鹿にすることを、僕は許さない。
「鈴井さん、手、痛めちゃうと良くないから握るなら僕の手とかにしない?」
掌に爪が食い込む程に握り込まれた彼女の手が痛ましく、僕はそう言って彼女の肩に置いた手を差し出した。
「え、えっと……」
「ああ、気まずいとかなら服の裾とか肘とか掴んでくれても良いから」
「その……、じゃあ、失礼します」
鈴井さんは少し躊躇したものの、おずおずと僕の手を取った。真夏だというのに、血が通って無いのかと思ってしまいそうなほどに冷たくなってしまった彼女の手を、しっかりと握り返す。こういう時、人の体温というのは案外緊張を和らげてくれたりするものだ。
「て、手汗とかかいてたらごめんなさい……!」
「緊張してても頑張って前に進もうとしてる証拠。気にならないよ」
「な、なんか別の意味で緊張してきちゃいそう……!」
中庭の暑さからか、先ほどよりは血色の良くなった鈴井さんは、握った手にぎゅっと力を込めてまた一歩踏み出す。
そして遂に、体育館の扉の前に辿り着く。後は重い鉄の扉を開くだけだ。また少し、手が強く握られ、僅かな痛みを訴えたけれど僕はそれを無視した。
「ここまで来れただけでも物凄い進歩だよ」
だからここで扉を開けなかったとしても失敗なんかじゃない。そう伝えると彼女はこくりと頷いて、けれど手を扉にしっかりと掛けた。本当に強い。尊敬の念しか覚えない程に。
「手伝おうか?」
震える手で扉を開けようとする鈴井さんにそう申し出たけれども、彼女は首を横に振った。
「ここに来るまで助けられっぱなしで、今も助けられてる。ここから先くらいは自分で乗り越えたいの」
「……うん、分かった」
僕が見守る前で、鈴井さんは遂に体育館に足を踏み入れた。最後は自分の力だけで。
「お疲れさま。本当によく頑張ったね」
「うん……、あれ、誰かいる?」
鈴井さんの言葉に視線を体育館の奥に向けると、確かに先客がいるらしい。その人は、他に誰も居ない体育館の中を縦横に飛び跳ね、駆け回っている。
「……綺麗」
思わず口から漏れ出たであろう鈴井さんの言葉に、僕も内心同意する。手足の先、髪の先に至るまで意識を張り詰めさせたその動作は、軽やかで自由というよりも見る者に真に迫った緊張感を与えるものだった。
活発ではなく厳粛。
軽やかというより重々しく。
それがプロの目から見てどう評価されるのかは分からないけれど、少なくとも素人の僕から見たそれは強い印象を見る者に与える演技だと思えた。
集中しているのか、体育館の入り口に立つ僕達に気付かないまま演技を終えたその人は、肩で息をしながらそこで初めて僕達の存在を認めて目を丸くした。
「副会長さんと、鈴井先輩?」
「邪魔しちゃってごめんね、芳澤さん」
片手を上げて芳澤さんに挨拶すると、彼女は小走りでこちらに向かって来る。
「練習してると思わなくて、ごめんなさい」
「いえいえ、謝らないでください! 私が勝手に体育館を使わせてもらってただけなので!」
申し訳なさそうな鈴井さんに、芳澤さんは慌てたように両手を振った。
「最近ちょっとスランプでして、人目につかないところで練習しようと無理を言って体育館を使わせてもらったんです」
そう言う芳澤さんによると、新体操のコーチから受けたアドバイスをどうにも上手く噛み砕くことが出来ず、試行錯誤していたのだという。とはいえ、教室でも学校でも普段は人の目があって中々静かに集中することも出来ないと、生徒も教師も少ない盆休みを狙って学校の体育館を使用して練習することを思い付いたらしい。
「凄いね、芳澤さんは。そこまで新体操に向き合ってる」
「そんなこと無いです。要領が悪くて……」
鈴井さんの言葉に、芳澤さんは落ち込んだ表情で肩を落とす。どうやらスランプは深刻らしい。
「ところで、先輩達はどうして学校に?」
芳澤さんの質問に僕の口からどう答えたものかと思っていると、鈴井さんが先に口を開いた。
「私がお願いしたの。体育館に入れなくて、勇気が欲しくて」
その言葉で、芳澤さんは事情を察したらしく、気まずそうに頬を掻いた。それを見た鈴井さんは柔らかく笑う。
「大丈夫、気にしないで。もう大丈夫だと思うから。副会長に助けられて、ちょっとは乗り越えられた」
「そう、ですか。凄いですね、鈴井先輩は」
「そんなこと無いよ。芳澤さんの方が凄い。さっきの演技も、凄かった。素人だから大したことは言えないけど」
「ありがとうございます。そう言って貰えて嬉しいです! あ、そうだ。お二人からもアドバイスを貰えませんか?」
芳澤さんは閃いた、とばかりの表情で僕達にそう申し出てくるけれど、新体操について何の知識もない自分達が有用なアドバイスが出来るとは思えない。
「いえ、先輩達から見て私の演技がどうか感想を教えて欲しいんです。コーチから自分らしさを出せと言われて、でもそれが上手く掴めてなくて……」
渋る僕達を前にして、芳澤さんは切羽詰まった表情で言い募る。彼女の悩みはそれほど深刻だということだ。
その表情に気圧されるようにして、僕も鈴井さんも芳澤さんの演技を見学することになった。
「……いきます!」
大きく息を吐いて表情を引き締めた芳澤さんは、その言葉と共に演技を始める。彼女の耳に着けたイヤホンから流れる音楽に合わせて、体育館の中を飛び回る。僕らの耳には音楽は聞こえないけれど、僕ら以外に誰もいない静かな体育館の中、真剣な表情で演技を続ける彼女は、最初に一人で演技をしていた時よりも軽やかな印象を与えた。
それにどうにも違和感を覚えてしまうのは何故だろう。
彼女が演技前に言った自分らしさ。体育館を舞台に、妖精のように楽しげに、軽やかに跳ねる彼女の姿は、何故か無理をしているように見えてしまう。浮かべている表情は笑顔なのに、どうして痛々しく見えるのだろう。先ほどまでのあの繊細で厳粛な演技の方が、僕の目を惹き付ける。
そう思っているうちに、芳澤さんの演技は終わりを告げ、額に汗を浮かべた彼女がこちらに駆け寄ってくる。
「如何でしたか?」
不安げな表情で聞いてくる芳澤さんを見れば、自分でも正解が分からなくなってしまっているのだということが分かる。
「私は、やっぱり凄いなとしか思わなかったけど……」
鈴井さんが少し申し訳なさそうに告げる。
「そうですか……」
芳澤さんが眉をハの字にして困ったような顔になってしまう。うーん、素人が下手なことを言うべきじゃないんだろうけど、このままというのも気が引ける。
「素人意見だけど、良いかな?」
「良いです! どんな些細なことでも!」
僕がそう言えば、芳澤さんは鼻息も荒く詰め寄ってきた。どうしよう、本当に下手なことを言えないんだけど……。
「本当に大したことじゃないよ……? 僕はさっきまで一人で練習してたときの演技の方が好きかなって思ったからさ」
「さっきの演技の方が……」
「何だろうね、今の演技も軽やかで凄かったんだよ? でも、さっきの張り詰めたような、繊細な芳澤さんの演技が僕には印象に残ったんだ」
それは本当に僕の感想でしかない。けれど、芳澤さんは考え込むように少し黙ると、おずおずと上目遣いで僕を見る。
「副会長は、快活で明るい私と繊細で暗い私のどっちが私らしいと思いますか?」
聞かれたのは性格診断のような質問。どっちがと問われても、普段の芳澤さんをよく知っている訳でもないのでどう答えたものかと頭を悩ませる。
明るい彼女と暗い彼女、一般論で言うと暗いよりは明るい人の方が良いんだろう。
「……どっちが芳澤さんらしいかって問いには答えられないかな。それを言える程、芳澤さんを深く理解できていないと思うし」
「……ですよね」
「ただ、普段明るくて活発な女の子が実は繊細で物静かだっていうのも魅力的だと思うよ?」
あんまりにも悄気た顔をしているので、冗談めかして付け足しておく。自分で言っていて歯の浮くような台詞だと思うけれど、こういうのは恥ずかしがった方が余計に気まずい。
僕の言葉に芳澤さんは少し目を見開き、その後照れたように僕から目を逸らした。
「副会長さんってそういうこと言うんですね……」
「普段から言う訳じゃないよ?」
「それって余計に質が悪いと思うよ」
鈴井さんもそう言ってため息をつく。どうしてだろう。何か選択肢を間違えたような気になってきた。
その後、もう少し自主練をしていくという芳澤さんと別れて僕と鈴井さんは校舎を出た。
「今日は本当にありがとう、副会長」
「どういたしまして。また何か手伝えることがあったら言ってね」
「えっと、それじゃあまた頼みたいことがあるんだけど……」
何かと思えば、鴨志田先生の件で色々と助けてくれた高巻さんや雨宮さん、坂本君にお礼をしたいと言う。自分では男の子が好みそうなものは分からないので僕に見繕って欲しいのだとか。坂本君なら何でも喜びそうだけどなぁ。
「そういうことならお安い御用だよ」
「ありがと、それじゃあまた連絡するね」
そう言って鈴井さんは駅に向かっていく。それを見送りながら、さて僕も帰ろうかと足を踏み出したところで、誰かに左腕を掴まれてその歩みを止められた。
一体誰だろうと振り返ってみれば、そこにいたのは特徴的なパーマがかった黒髪の女の子。何故かその目は剣呑な光を宿していて、何もしていないのに僕は犯行現場を押さえられた犯人のような心地になる。
「こんにちは、副会長」
「や、やぁ、奇遇だね、雨宮さん」
「色々と聞きたいことがある。良い?」
「あんまり人のプライバシーに関わることはNGだけど……」
「大丈夫。副会長に関わることだから」
有無を言わさぬ迫力を備えた雨宮さんに連行されながら、これに逆らうのは不可能だと僕は大人しくついて行くことに決めた。