「連日、メジエドによるサイバー攻撃の被害が拡大しており……」
「怪盗団は依然何も動きを見せず……」
「日経平均株価が深刻な下落を示している中……」
「怪盗団を名乗る特殊詐欺の被害も相まって街には不安が広がって……」
街頭モニターから流れるのはあまり景気が良いとは言えないニュースばかりだ。大宅さんに調査をお願いしてから数日、顔も名前も分からないメジエド相手に、怪盗団はいたく苦戦を強いられているらしい。僕はと言えば、今日は珍しい人に呼び出されて学校に来ているところだった。
「急に呼び出してすまないね」
僕を呼びだしたその人は、仕事場でもある空調の効いた部屋の中、氷を浮かべた冷たいお茶を出して僕に椅子に座るように促してくれた。
「構いませんよ。今日は何も無い日でしたし、受験生としては良くないのかもしれないですけど、予備校なんかにも通ってませんしね」
暑い日差しの下を登校してきた僕は、椅子に座るとありがたく冷たいお茶で喉を潤す。それを見ながら部屋の主はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
「それで、今日はどうされたんですか。丸喜先生」
お茶を飲んで一息ついた僕は、今日呼び出された理由を問う。今朝、丸喜先生から突然学校に来て欲しいと連絡を受けた時は驚いた。見せたいものがある、という話だったけれど何を見せてくれるのだろうか。
「そんなに大したものじゃないんだけどね、僕が昔研究していた認知訶学の論文が家にあったから、良ければ少し見せてあげようかと思って」
そう言って丸喜先生が差し出してくれたのはいくつかの綴じられた紙束。ありがたいことに全て日本語で書かれているのは丸喜先生が翻訳してくれたのか。
「オープンソース以外の論文もあるから、君が追っていることのヒントになるかもしれない。流石に持って帰られると困るから、この場で読むだけに留めてほしいけどね」
「いえ、それでも助かります」
僕はそう言って丸喜先生に頭を下げると、早速最初の論文に目を通し始める。丸喜先生が持って来てくれた論文は殆どが一色若葉が著者のものだったけれど、いくつかは別の著者の論文も混じっていた。とはいえ、引用文献を見ると一色若葉のものばかりなあたり、やはり彼女がこの研究においてパイオニアであり、その他とは一線を画す頭脳、理解を持っていたことが窺える。
それからしばらくは沈黙が部屋を支配していた。丸喜先生も本に目を落としており、時折空になったグラスにお茶を注いでくれる。その気遣いに感謝しながら、僕は丸喜先生が持って来てくれた論文を読んでは横に積み上げていった。
人と世界は自分の無意識によって歪んで認知される。それが認知世界。
認知世界は物理法則に加えて認知の影響を強く受ける。人が思い込みで火傷をしてしまうように。それが本物だと思えば認知世界ではおもちゃの銃が本物になるだろう。
認知世界を変化させるには大きなきっかけが必要だ。例えばその認知世界を形成している本人の無意識に影響を与えるような何か。
そしてその認知世界には、それを形成している本人ともう一つ、核となるものが存在している。それは本人の大切なものだったり、特に印象深いものだったりと様々だ。
外敵による変化を阻止する為に自身の認知世界には防衛機構が備わっている。そして無意識が意識に影響を与えるように、意識も無意識に影響を与えられる。
最後の論文を読み終える頃には、グラスに浮かんでいた氷は全て溶けてしまっていた。
「どうだろう、少しは役に立ったかな」
僕が読み終えたことを察した丸喜先生がそう言って手にしていた本を閉じる。
「ええ、とても参考になりました」
「それなら良かった」
僕の答えを聞いた丸喜先生は嬉しそうに表情を緩めた。
「専門的な内容なのに、一度読んである程度理解できる辺り君はやっぱり優秀だね」
「素人の浅い理解なだけですよ」
丸喜先生が感心したように言うが、僕としては研究内容を深く理解することを求めてはおらず、ただ自分が気になった部分を拾い読みしているだけなのだから褒められるようなことじゃない。とはいえ、これを読んで僕の中に新たな疑問が湧いてきたのもまた確かだ。
「丸喜先生。一つ質問しても良いですか?」
「ああ、何でも聞いてくれて構わないよ」
僕が問うと、丸喜先生は嬉しそうにそう言ってお茶のお代わりを注いでくれる。それで少し口を湿らせた僕は、論文を読んでいく中で新たに湧いた疑問を口にした。
「認知世界の他に、集合的無意識の話が出て来てるんですけど、この二つの話って僕の中ではしっくり来ないんです」
「へえ、それはどうして?」
丸喜先生に先を促され、僕はまだ纏まり切っていない疑問をどうにか紡ぎ出していく。
集合的無意識は人々が無意識下で共有している世界、それに対して認知世界はその人が無意識に世界を歪んで捉えているもの。その二つは併存するものなんだろうか。そもそも、歪んで捉えていると言っても多くの人はそこまで歪んだものの見方をしているわけじゃないだろう。誰もが人を怪物のように感じたり、都合の良い人形のように見たりしてることは無いと思う。じゃあ多くの人の認知世界はその人が物理的に目にしている現実世界をそのまま反映しているはずで、尚且つ人は誰もが外からの情報でものの見方をあっさりと変えてしまう。被害者が加害者に、加害者が被害者に見えることだってある。そしてたいていの場合、そうした認識は多くの人に共有される。それが集合的無意識なのだとしたら。
「一色若葉先生が述べている認知世界というのは、限られた人にしか無いものなんじゃないかと思うんです。自分の認知で現実が歪んで見える。そんなに強烈な自我を持った人なんてそう多くないんじゃないかって」
「……逆に多くの人は集合的無意識に影響を受けていると?」
「僕の勝手な妄想ですけど」
だからもっと恐ろしいのは誰か個人の認知世界を恣意的に歪めてしまうことじゃない。集合的無意識そのもの、大衆が影響を受けるものに対して致命的な働きかけを出来てしまうことじゃないだろうか。
「認知訶学は認知世界の存在を示唆していて、その認知世界が複数人に共有される。一部の人間は共有された認知世界に収まらない歪んだ認知を持っていて、それが単体の世界として成立する?」
「認知世界なんて大層な代物を僕が持っているとは思えませんし」
「どうだろうね……。けれど大衆の認知世界か、その認知世界を支配出来た人間がいると恐ろしいことになるね」
丸喜先生は僕の危惧するところを読み取ったらしく、真剣な顔で何やら考えを巡らせている。
「その世界を支配する存在がいたとすれば、それはまさしく神と言っても良いかもしれないね」
「あの男。この世界に足を踏み入れたことも無いのに、この世界のことを知っている」
「あの男? あの男って誰なの、双葉?」
砂漠の中、死したファラオを安置するピラミッドと化した佐倉双葉の認知世界の中、その世界の主である双葉シャドウは蓮達の前に現れてそう告げた。要領を得ない双葉シャドウの言葉に真がそう問いかける。
「あの男は何者だ? 何故お母さんと私のことを調べようとしている?」
真の問いにしかし、双葉シャドウは答えることは無く、独り言のように呟くばかり。怪盗団一行は怪訝な表情を隠せないまま、双葉シャドウに近づこうと足を踏み出す。
「あの男は何かを追っている。それが私とお前達の利になることかは分からない」
「だぁから! あの男って誰なんだよ!」
竜司が我慢の限界だと言わんばかりに声を張り上げた。その声にようやく怪盗団の存在に気が付いたように、双葉シャドウは顔を上げた。
「認知訶学を追っている男。カイドウと名乗っていた」
「副会長!?」
双葉シャドウの告げた名前に杏が驚きの声を上げる。他の面々も仮面の奥で驚きに目を見開いていた。
「気を付けろ。お前達の背後で動く何かに」
そしてその言葉だけを残して双葉シャドウは姿を消し、再び遺跡の中には耳の痛くなるような静寂が訪れるが、誰もが双葉シャドウの言葉に何かを言おうとしながらも何も言葉にならないもどかしさを感じていた。
「徹……何を知っているの……?」
真の脳裏に過る同級生の姿。怪盗団の味方だと言いながら、それを追う存在と協力し、怪盗団とは別の切り口で精神暴走事件を追う人。彼らが思い出したのはカネシロパレスで金城シャドウが発した言葉。
『お前らと同じ力を使って好き放題してる奴がいるんだよ。俺はソイツに見限られた。踏んじゃいけない尾を踏んじまったからな』
怪盗団と同じ力を持っている何者か、そしてその何者かの逆鱗を金城は踏んだと言う。時系列を考えても、カネシロパレスに生じた変化とその直後に現れた徹のシャドウの言葉を考えても、金城が言う踏んではいけない尾とは彼のことだと蓮は確信していた。ただ蓮が解せないのは、何故徹が怪盗団と同じ力を持っているであろう精神暴走事件の犯人が徹と何らかの繋がりを持っているということ。
その表面だけをなぞるのであれば、徹が言った怪盗団の味方という言葉は途端に怪しいものとなる。徹は精神暴走事件に何らかの形で関わっている。それも実行犯とかなり深い関係にあるというオマケつきだ。
「双葉の言っていたことが確かならあの男は俺達の敵ということか?」
「前々から怪しいところは多かったからな」
「いや、でもそうと決まったわけじゃ……」
祐介とモルガナが険しい表情になる中、真が徹を庇おうと口を開く。しかし、真自身も苦しいと感じているのか、その言葉は途中で尻すぼみに消えてしまった。
「でも副会長が本当に敵ならとっくに私達の正体バラされてるんじゃないの?」
「そ、そうよ! 徹は私達の正体に感づいていても黙っていてくれてるわ!」
「それも何か企みがあってのことかもしれない」
「ワガハイ達を利用したいから野放しにしてるのかもしれないぜ」
杏とそれに便乗した真の言葉にも祐介とモルガナの表情は晴れない。真達と違って徹と会話する機会が少なかった今の二人にとって、徹は不可解で怪しげな人物にしか映らなかった。
「……だぁ! もうワケ分かんねえ! とりあえず今はパレスの攻略に集中しようぜ! メジエドの他に怪盗団の偽物探しだってあるんだしよ!」
一行の間に立ち込める不穏な空気は、遂に頭から煙が上がりそうになってしまった竜司の一言で霧散する。
「進もう。まだオタカラへのルートも確保できてない」
そして蓮の一言と共に、一行は再び歩を進める。確かにこの場は収まっただろう。しかし、怪盗団の中には確実に不穏の種が埋め込まれてしまったのだ。