「ほらよ、アイスコーヒー」
「ありがとうございます」
カウンターに座った僕に差し出されたのはグラスにたっぷりの汗をかいて冷たさをアピールするアイスコーヒー。ストローで一口吸い上げてみれば爽やかな酸味と仄かにフルーツのような甘みを感じる香りが鼻に抜ける。
「美味しい……。これは水出しですか?」
「へえ、分かるのかい」
「コーヒーは好きなので、それなりに勉強したりもしてます」
水出しは普通の抽出とは違って苦みよりも酸味が強調され、より華やかな香りを楽しめるのが特徴……だったと思う。何より日中の猛暑で渇いた身体にスッキリとしたこの味は病みつきになると思う。使われている豆や、カウンターから見えるサイフォンなんかをネタに雑談をしていると、佐倉さんは気を遣ってかクッキーも追加で出してくれた。「普段は女にしかやらないサービスだがな」とのことなので、結構レアなサービスなんじゃないだろうか。
「学生でここまで話せる奴がいたとは驚きだな」
「実際に焙煎したことも無い頭でっかちなだけですけどね」
「馬鹿言え、その歳で焙煎機まで持ってたら出来すぎだ」
店内は珍しく僕以外に誰もいないので、自然と佐倉さんとの会話も弾む。このまま話していても楽しいし、何ならこの空気を壊したくないから今日はこのまま帰ってしまおうかという誘惑まで感じるが、今日ほど話を切り出すのに良いタイミングは中々訪れないと自分に言い聞かせ、僕は残ったコーヒーをグイっと飲み干した。
「……佐倉さん」
「なんだ、神妙な顔しやがって」
おかわりのコーヒーを淹れてくれながら、佐倉さんは雰囲気の変わった僕を怪訝な顔で見つめた。
「今から、僕は佐倉さんの触れられたくないことに触れてしまうかもしれません」
「……あの検事の差し金か?」
僕の言葉に、佐倉さんの表情が険しくなる。僕が何を言おうとしているのかを半ば察したのだろう、冴さんとの繋がりを疑ったようだ。
「違います。僕が自分で調べて、その上で佐倉さんにお話を伺いたいと思ったんです。冴さんは無関係です。ただ、もしお話を聞かせていただけたとして、冴さんに聞かれた際は佐倉さんが許す範囲で情報を共有することもあるかもしれません」
でも今回は僕が勝手に推理し、佐倉さんに話を聞こうと思い立ったのだ。その責任を冴さんに被せるのは許されない。もちろん、今言ったように情報共有をすることだってあるかもしれない。だけどそれも佐倉さんが許可したらの話だ。聞いた本人が言いふらしてほしくないことを僕は口にしたりするつもりは無い。
「……ハァ、そこであの検事のせいにしときゃ楽だっつうのによ」
「往々にして正しいやり方は面倒でしんどい方法って相場が決まってますから」
「それで、俺に聞きたいことってのはなんだ? 聞くだけは聞いてやる。答えるかは保証しねえ」
「構いません」
少なくとも佐倉さんに門前払いをされることは無かった。後は僕が頭の中に組み立てた話をするだけ。
佐倉さんが差し出してくれたお代わりのコーヒーで口を湿らせると、僕は話し始める。
一色若葉と認知訶学。その大きな発展を前に非業の死を遂げた稀代の天才は、一般的には育児ノイローゼによる自殺とされている。実際、彼女には当時中学生になる一人娘がいたということは口さがないメディアが暴き立てていた。研究と育児の両立というストレスに耐えきれず、ある日突然車の前に身を投げ出したとされる彼女。だけど僕はそこに違和感を覚えた。
「本当に若葉さんは自殺したんでしょうか?」
「……続けろ」
「彼女が研究していた認知訶学とは人の無意識に意識的に働きかけ、トラウマや精神疾患への治療に応用することを期待されていました。ですが、それは裏を返せば人為的に精神疾患を発症させられる技術とも言えます。使い方によれば巨万の富を築き、大きく言ってしまえば世界を支配することだって出来るかもしれない。そんな技術です」
だから思うのだ。一色若葉の研究は、それを利用、悪用したいと望む勢力によって独占されてしまったのではないかと。それを許さない一色若葉が真っ先にその技術の犠牲になってしまったのではないかと。
「以前、秀尽学園の生徒名簿を確認する機会があって、そのときにたまたま目に入ってしまったんです」
佐倉双葉
同じ姓は偶然の一致だろうか、僕にはそう思えなかった。そして冴さんがしつこく佐倉さんを訪ねたことを聞いて繋がった。
「双葉さんは若葉さんの娘さんじゃないですか? 何らかの理由があって佐倉さんが引き取った」
「……だから双葉に話を聞かせろってか? お前の勝手な推理とやらを補足するためにアイツのトラウマを穿り返せば満足か?」
話の持って行き方がまずかった。佐倉さんがますます険しい表情をして僕を睨みつけている。
「違います。僕が話を聞きたいのはあくまで佐倉さんです」
「俺は何も知らねえ。若葉がどんな研究をしてたかなんて……」
「そこじゃないんです。そんなものは大事じゃない」
「はぁ?」
僕が否定したことが意外だったのか、先ほどまで険しい表情をしていた佐倉さんが今度はポカンとした顔で僕を見つめていた。
だけど本当に僕は一色若葉の研究そのものに興味など無いのだ。それを深く知ったところで、確かに怪盗団や精神暴走事件の手口には近づけるかもしれないけど、僕の知りたい核心には近づけない。
「僕が聞きたいのは佐倉さんから見た若葉さんです」
「俺から見た若葉?」
「はい。佐倉さんから見た若葉さんは育児ノイローゼに見えましたか? 研究と娘さんの板挟みになって自ら命を絶つほど追い詰められて見えましたか? 双葉さんを引き取るくらいには若葉さんと親交があっただろう佐倉さんから見て、どうだったかを聞きたいんです」
佐倉さんはしばし考え込むように額を掻くと、一度大きくため息をついた。
「……いいや、少なくとも俺から見て、若葉は自殺するような状態じゃなかった。うちに来たときはいつも双葉の話をしてたもんだ。研究で疲れてたのは確かだろうがな。それでも、学会が終われば双葉を連れて旅行に行くなんて言ってたんだぞ。誰が自殺するなんて思うんだよ……」
佐倉さんが語ってくれたのは、僕が半ば予想していた内容だった。やはり、一色若葉は自殺するほど追い込まれた精神状態ではなかったのではないかという見方が強まった。もちろん、本当のところはどうだったかは分からない。けれど、この説を採用すれば彼女の死によって下火となった認知訶学研究、入れ替わるように発生し始めた精神暴走事件の関係性について、辻褄が合うこともある。ただの考えすぎ、陰謀論だと言われてしまえばそこまでだけど。
「それだけ聞ければ十分です。僕の中で、若葉さんは彼女自身の研究内容によって狙われた、という仮説の信憑性が高まりました」
「……だがよ、遺書には育児に疲れただの双葉に対する恨み言が書かれてたんだぞ。それで双葉はトラウマを抱えちまったんだ」
「その遺書がご本人の書いたものかどうかは分からないですが。僕がもしも若葉さんの研究内容を狙うとすれば遺書くらいでっち上げますよ。ちょうど良いアリバイができたって思いながらね」
佐倉さんは僕の言葉を聞いて怒りに拳を震わせた。僕自身、言いながら反吐が出そうだが、僕の考えが確かなら双葉さんは体の良いスケープゴートにされたんだろう。ノイローゼだと言ってしまえば突発的な自殺にもっともらしい動機をくっつけることが出来る。それによって幼い少女に耐え難い苦痛を味わわせたとしても、彼女の研究を独占するうま味があると判断したのなら、人によってはやるだろう。
「そんな、そんなことで双葉が、あの子が苦しめられたってのか……?」
「僕の勝手な推理に過ぎません。ですが、ニュースになっている精神暴走事件が若葉さんの研究内容を利用しているものだとすれば、数年前の若葉さんの死、それと入れ替わるように世間を騒がせ始めた精神暴走事件、人がある日突然豹変し、思いもかけない行動を起こす。一致する符号が多すぎると思いませんか?」
もしかしたら若葉さんは本当にノイローゼになってしまっていたのかもしれない。それによって衝動的に自殺に走ってしまった可能性は否定できない。けれど、近しい人の目というのは案外鋭いもので、双葉さんを引き取る程度には若葉さんと親交のあった佐倉さんの目から見てノイローゼには見えなかったというのなら、その見方は割と信用しても良いものだと僕は考えていた。
気が付けば、コーヒーに浮かべられた氷も溶けてしまっていた。少し薄くなったコーヒーで喉の渇きを癒しながら、佐倉さんが落ち着くのを待つ。
「……それで、俺から若葉のことを聞いてこれからどうする?」
ひとしきり毒づいた佐倉さんは先ほどよりは落ち着いた声で僕に問う。
「今回お話を聞けて僕の予想があながち間違いじゃないかもしれないと思えました。だから自分に出来る範囲でもう少し調べを進めてみようと思います。このお話は冴さんとある程度共有しても?」
「構わねえよ。直接家だの店に押しかけて来なくなったが電話はまだ掛かってくるんでな。これで満足してくれるんなら話してもらっても良い」
だがな、と佐倉さんは言葉を続けた。
「お前さんはこれ以上深入りするのは止めとけ」
「……やっぱりそう思いますか?」
「分かってるんなら言わせるんじゃねえ。お前の話が確かならこんなヤマ、高校生のガキ一人の手に負えるもんじゃねえだろ。もし若葉が頭をおかしくされちまったってんならお前さんだってそれをされるかもしれねえ。賢いお前なら分かるだろう」
佐倉さんの言葉は正しい。こんな映画みたいな陰謀、とてもじゃないが高校生が知って良いことじゃない。なんなら、今の僕のポジションは物語の途中で消されてしまうような立場なんだろうとも思う。けれど、僕はここで退くわけにはいかない。
「佐倉さんの言う通り、これ以上は僕の手に余ると思います。でも、もう少し頑張りたいんですよ」
「なんで……!」
「僕の友人が、巻き込まれているかもしれない。僕はそれを放っておけません。それに、双葉さんのことだってあるじゃないですか」
「双葉? 会ったことも無いじゃねえか」
「でも彼女は秀尽の一年、僕の後輩です。後輩は出来るだけ助けてあげたいじゃないですか。お節介かもしれませんけどね」
「……ったく、とことんお人好しだな、お前さんは。損するぜ、その生き方」
佐倉さんはそう言って呆れたようにため息をついた。僕自身、ちょっと自覚していることだ。
僕の頭には、いつも人当たりの良い笑みを浮かべながら、けれど誰に対しても一線を引いて本心を明かそうとしない彼の姿が浮かんでいた。もし、僕の考えがただの飛躍では無いとして、彼が真実、モリアーティだったとしても、僕は歩みを止めたりはしないだろう。
「僕が少し損するくらいで誰かが喜んでくれるならそれはそれで良いじゃないかとも思いますよ」
「……こりゃ付ける薬はねえな」
僕の言葉に今度こそ佐倉さんは笑った。呆れたような様子だけど、先ほどまでの張り詰めた空気は霧散していた。
その後は、再び他愛もないお喋りに興じながら、お客さんが何人か入ってきたところでお会計を済ませて店を出ることにした。佐倉さんから請求されたのは最初に頼んだコーヒー代のみだった。「俺が男にこれだけサービスすんのは稀だからありがたく受け取っとけ」と押し切られてしまい、結局それ以上のお金は受け取ってもらえないままに終わった。相変わらず振る舞いが大人でカッコいい人だ。
さて、聞きたいことも聞けたし、後は過去の精神暴走事件をもう少しだけ洗い直そうかと考えていた矢先、僕のスマホにメッセージが届く。
差出人は……、アリババ?
メッセージアプリを開けば、連絡先に登録した覚えが無いどころか、差出人不明のメッセージが一通。
『お前は怪盗団の一員か?』
そのメッセージに、僕の背中に冷や汗が一粒流れ落ちるのを感じた。