テスト期間中の校内、特に三年生のフロアは少しピリピリとした雰囲気が漂っている。それは夏休み直前ということもあり、大学進学を目指す学生は受験を意識し始めるということもあるが、それ以上に教師陣からプレッシャーを掛けられているからだ。
「今回のテストでは大学入試レベルの問題が前提となります。現役生は夏休みが本番と巷では言われますが既に受験は始まっていますよ。期末テストでまともに点数が取れなければ現役合格は非常に厳しくなると考えてください」
テスト前に学年主任から告げられた宣告に学生たちは大層ビビらされた。鴨志田先生の一件があって以降、今年の三年生に掛けられるプレッシャーは今までの比では無くなった。それは今まで鴨志田先生というブランドで生徒を集めていた学園がそれに胡坐をかいていられなくなった故の焦りともとれる。そのため、先生方の授業進度、レベル共にこれまで以上となった結果、学生に掛かる負担も相応に上がってしまったというわけだ。
僕としては勉強を特に苦と思わない性根のおかげか、普段の予習復習の時間が少し伸びたくらいだと思ったわけだが、遊びたい盛りの高校生にとってはテスト前に勉強する範囲が増えるのは苦痛でしかない。
テスト前に新島さんが僕を勉強会に誘ったのもそういった理由があったのだと思う。
「けどそれも今日で終わりだ」
最後の科目の終了を告げるチャイムと共に、周囲からは悲喜交々、やや喜色の多い声が上がる。僕も歓声を上げることは無かったが、疲れたのも確かなので息を吐いて椅子の背もたれに身体を預ける。
その後、夏休みこそ受験生の天王山だと口酸っぱく繰り返す担任の言葉を聞き流して放課後になると、周囲は担任の言葉など初めから聞いていなかったかのように夏休みの予定について熱心に語り合う。
僕の席にはテストの結果が早くも気になる生徒達が数人集まっては問題を見直し、自分達の出来を確認していた。残念ながら僕の席に集まった子達は夏休みは予備校に通い詰めらしく、周りの子のように遊ぶ予定は無いと肩を落としていたが。予備校には通ってないが僕もバイトや家の予定で自由な時間があまりあるとは言えないので似たようなものだ。
「それじゃ、少し気が早いけど良い夏休みを」
予備校で勉強詰めの同級生達にとっては皮肉かもしれない言葉を掛けて僕は教室を後にする。まだ昼も過ぎたばかりの時間だし、折角テストも終わったので生徒会室で久しぶりにのんびりと本でも読んで過ごそうと思った。
「流石に今日は誰も来てないよね」
生徒会室に足を運んでみれば、予想通り鍵が掛かっていたので予備鍵で開錠して中に入る。夏で暑いけれど、冷房を効かせて熱いインスタントコーヒーを啜りながらの読書というのも乙なものじゃないだろうか、などと思いながらエアコンを起動してポットの湯を沸かす。せっかく私立の良い学校に通っているのだからこういうところは贅沢していかないとね。
「さてと、それじゃ早速……」
そうして手早く準備を終えた僕は本の世界へと没頭する。今日の本は神保町の古書店で見つけた妙に懐かしい印象の本だ。
どれくらいの時間が過ぎたかは分からない。だけど、読書の前に淹れたコーヒーがすっかり冷めてしまうくらいには時間が経っていたらしい。
湯気も立たなくなったそれに視線を移した僕は、そこで初めて僕の前に誰かが座っていることに気付いた。
「っ!? ……って、雨宮さんか」
「……どうも」
僕の前に座っていたのは雨宮さんだった。彼女も机の上に本を広げて読書に勤しんでおり、僕の声に視線を上げた。
「声を掛けてくれたら良かったのに」
「集中していたようだったから、悪いと思って」
どうやら本に集中しすぎて彼女が入って来ていたことに全く気付いていなかったらしい。
「テストも終わったのに、帰らなくて良いの?」
「ちょっと副会長と話がしたかった」
テストから解放された喜びのままに坂本君あたりが彼女らを遊びに連れ出したりしそうなものだけど。そう思っていると彼女の用件は僕らしい。それなら猶更声を掛けてくれればよかったのに。そう伝えれば、雨宮さんは別に待っているのは苦痛じゃないと首を横に振った。
「と、それじゃあ雨宮さんの分もコーヒー淹れようか? それともどこか場所を移す?」
「今日は他に誰も来ないだろうし、ここで良い」
「じゃあコーヒーを淹れるよ。相変わらずインスタントだからルブランのコーヒーには及ばないけどね」
戸棚から余ったマグカップを取り出すと、彼女の分のコーヒーを淹れて差し出す。熱いから氷でも入れて冷やせば良いんだけど、流石に冷蔵庫までは生徒会室に設置することは出来なかったので我慢してもらうしかない。部屋は冷やしているから多少はマシだと思いたい。
「それで、僕に話って? 最近やれてなかった感想会でもまたやる?」
「感想会ももちろんやる。けど、今日の本題は別」
本題は別だけど感想会はやるのか。いや、僕としても楽しいからそれは良いんだけど。
雨宮さんは本をパタリと閉じると、カップに口を付けて少しコーヒーを口に含む。湯気で白く曇った眼鏡の奥で、ほんのわずか、目を閉じたかと思うと僕の目を正面から見据える。
「副会長は怪盗団を追う人の協力をしている、そうだよね?」
「……うん、そうだよ」
雨宮さんが口にしたのはあの日、冴さんがルブランを訪れた日のことだった。あの日のやり取りを見れば、怪盗団を追う冴さんと僕が協力関係にあるのは誰だって分かることだろう。
「副会長なら、怪盗団の正体にも見当がついているはず。なのに検事にそれを伝えないのは何故?」
「……それは半ば怪盗団の正体を自白しているようなものだと思うけど、良いのかい?」
彼女の問いは尤もな疑問ではあるが、それを問うということは今まで触れなかった怪盗団の正体に踏み込んでしまうものだ。
「僕は怪盗団の正体を知らないし、知るつもりもない。それは本当のことだよ」
僕の言葉に雨宮さんは、今更だと言わんばかりに薄っすらと笑みを浮かべていた。
「けれどそれは検事に有力な手掛かりを隠す理由にはならない。特に協力関係にあるならなおさら」
そう言う雨宮さんの目は鋭く細められている。そこには誤魔化しを許さないという彼女の意思がありありと見て取れた。どこかでこの強い光を帯びた目を見た気がすると、記憶を辿れば、金城に脅迫を受けた日、明智君に問い掛けられたときの目と同じなのだと思い至った。
対照的に思える雨宮さんと明智君だけど、似ている所もあるんだなとこんな時に暢気な考えが頭に過る。
「僕は怪盗団のやり方とその力に危惧を覚えてはいるけれど、だからといって怪盗団を捕まえてやろうとか、その正体を暴こうというつもりは無い。怪盗団はこの国の法とは異なる理で、困っている誰かを助けることを信条としているんだろう?」
「法では裁けない、明るみに出てこない悪を怪盗団は裁く。怪盗団は正義だと、私は思っている」
雨宮さんは怪盗団は正義だと言い切った。彼女の信念に照らして怪盗団は間違っていないと、彼女は確信している。
「この話、以前にもしたかもしれないけれど、そうだとしたらそれで良いんだよ、雨宮さん」
「え……?」
僕があっさりと肯定したことが意外だったのか、雨宮さんは驚きに目を丸くした。だけど、僕としては彼女の考えが以前と変わっていないこと、誰に言われるでもなく、彼女が自分で考えた結果として怪盗団を肯定していることに安心した。それは怪盗団が世間に認知され、大衆からの無批判な支持を受けても彼女の根っこには影響を与えていないことが分かったからだ。
「怪盗団の善悪を論じることに意味は無い。この結論は僕が前にも言った時から変わらない。僕はどこまで行っても、怪盗団が意図しない結末を引き起こしてしまったときのことを危惧しているだけだよ」
「それはどういう……?」
「明智くんは怪盗団の改心事件と精神暴走事件が同一の手口で行われたものだと推理していた」
その言葉に、カップを持つ雨宮さんの手がピクリと震えた。その反応が出るということは、彼女も心当たりがあるということなのだろう。ならばやはり怪盗団と精神暴走事件の手口は同じ。怪盗団のような改心を起こせる手口を持ちながら、その結果は似て非なるもの。
「警戒した方が良い。怪盗団の力は誰も知り得ない特別な力、という訳じゃ無いんだ」
ともすればその力は悪用されることもある危険なもの。そして現に悪用されている。
「少なくとも精神暴走事件の犯人は怪盗団のやっていることを理解している。そして、君たちが足を踏み外すのを待っているはずだ」
「怪盗団に罪を被せるため?」
雨宮さんはやはり頭が良いし、勘も鋭い。僕が少しヒントを出すだけで、過去に僕が言った杞憂が杞憂で無くなりつつあることを察したらしい。
「怪盗団の力は危険だ。それは怪盗団だけでなく、それを利用して大勢の人間を苦しめている人もいるからだ。前は言及しなかったけれど、今回は言っておこうか。僕は怪盗団の信念は否定しないけれど、怪盗団の力は否定するよ。誰かの心を歪め、場合によっては死に至らしめる可能性のある力、それは今の人間の手には余る力だ」
「……たとえそうすることでしか救えない人がいるとしても?」
「怪盗団が正義だとしても、その力を誰かを救うために振るうのだとしてもね。その力に頼らないといけないことに情けなさを感じこそすれ、それに依存することはしちゃいけない」
依存した先に待つ結果は、自らの力に溺れ、大衆そのものの心を操ろうとする暴走した怪盗団の姿だろうから。僕はそんな怪盗団を見たくないし、だからといって怪盗団が精神暴走事件の犯人として心無い中傷に晒され、傷ついてしまう姿も見たくはない。
だから怪盗団の力を掣肘する、そんな勢力を一つは作っておきたいと思うのだ。怪盗団に頼らずとも良くなるように。雨宮さんは僕の言葉を聞いて俯き、そしてポツリと呟いた。
「怪盗団はいらない?」
「僕の友達がそれによって傷つくかもしれないのならね。金城の件で僕は怪盗団に助けられた。だけど、無批判で怪盗団を信奉することは出来ないかな」
「……そう」
僕の答えを聞いた雨宮さんは何かを考え込むように再び視線を机に落とす。
「だけど副会長は怪盗団を捕まえようとはしない。やっぱり良く分からない」
「そうだね、我ながら本当に中途半端な人間だと思うよ。まぁ、そういう中途半端なりに怪盗団の味方ではいるつもりだってことも信じてくれると嬉しいかな」
「分かった。今はそれで納得しておく」
煮え切らない回答であったが、雨宮さんはひとまずは納得してくれたらしい。
怪盗団の力を否定しておきながら、怪盗団そのものを捕まえようとはしない。それどころか、怪盗団を庇おうと考えている。かと思えば、怪盗団を追う勢力を支援し、怪盗団の動きを阻害しようとしている。僕がやっていることは一貫性が無く、怪盗団とそれを追う冴さん達どちらの邪魔をしているのかもしれない。だけどそんな中途半端な僕の行動原理はいたって単純だ。
「雨宮さん。僕は怪盗団よりも、君の方が大事だよ」
「──え!?」
今日の会話で一番大きいかもしれない声を出した雨宮さんだけど、そこまで驚くようなことだろうか。
「怪盗団があることで雨宮さん達が傷つくようなことは許容できない。友人が泣いている姿を見たくないと思うのは誰だってそうだろう?」
「……達。そう……達か……」
続けて僕が言ったことの一部を雨宮さんは小さく繰り返し、それから何故かまた鋭く目を細めて僕を睨みつけた。
「副会長はいつか刺される」
「えぇ……?」
唐突に物騒な予言を雨宮さんに告げられた。
「あまりそういうことを言わない方が良い。多分厄介なことになる」
「どういうことを言わない方が良いんだ……」
何を指摘されているんだろう、僕は。困って視線を雨宮さんから逸らすと、壁に掛けられた時計に目が留まる。結構な時間話し込んでいたらしい。話の流れが分からないけれど、僕にとって良くない流れであることに間違いは無いので流れを変えるために口を開く。
「ところで、そろそろ良い時間だけど感想会はどうしようか?」
「それはやる」
僕が言うや否や雨宮さんは自身の鞄から読み終わったのだろう本を取り出した。本のタイトルは、幻の女教皇。
中世ヨーロッパの伝説で九世紀に女教皇として在位したとされるヨハンナを題材とした本だった。
学識高く、優しい人柄で多くの民衆に慕われたとされる女教皇。彼女の人柄を示すエピソードについて語る雨宮さんと、その学識の深さを称えるエピソードに注目した僕。怪盗団についての問答を忘れ、僕と雨宮さんは女教皇についてしばし語り合ったのだった。