認知訶学。寡聞にして覚えの無い学問の名だ。冴さんから受け取った資料をパラパラと捲りながら流し読みする。
「既存の認知科学よりもより心理学、精神分析に寄った内容、といった印象ね」
資料に目を通す僕の横で冴さんが簡単に説明してくれる。確かにこの論文の中にも心理学用語が散見される。そもそも論文のタイトルにもなっている集合的無意識、なんてもろにユング心理学だし。
「人間は物理的な世界とは別に自分だけの認知の世界を有している、ですか。それを心象世界、あるいは認知世界と呼ぶと」
「認知の世界、というのがどういうものかは皆目見当もつかないけれど、認知世界がその人の世界の捉え方と考えればそれを何らかの方法で歪ませることで廃人化、あるいは改心が可能かもしれないでしょう?」
冴さんの言葉になるほど、と呟く。認知世界が想像出来ないけれどその中にも例えば『自分』が存在するとすれば、それに対して働きかけることで現実の『自分』にも影響を与えられる。そしてその方法を探求しているのが認知訶学ということなのだろう。
「その資料は渡しておくから暇な時にでも目を通しておいてちょうだい」
「良いんですか?」
「私はもう読んだし構わないわ。オープンソースの論文だからあなたでも検索すれば見つけられる資料だもの。それにあなたの見解も気になるわ」
冴さんはそう言って佐倉さんが運んできたコーヒーに口を付けると、満足そうに息を吐く。
貰えるものはありがたく貰っておこうとは思うけれど、それよりも僕が最初に感じた疑問はまだ解消されていない。
「ところで冴さん。認知訶学については何となく分かりましたけど、それとこの店に来たことと何の関係が? 佐倉さんにも邪険にされましたし」
「それは……」
僕が聞くと冴さんは少し言い辛そうに言葉を濁した。
「おい、お前さんこの検事さんと知り合いか?」
と、いつの間に来ていたのか佐倉さんが僕の前に立っていた。胡乱な目を冴さんに向けたままであったが。
「ええ、知り合いといえばそうですけど」
「ならお前からも言っといてくれや。あんまり人様の家庭事情に首を突っ込むんじゃねえってな」
佐倉さんの問いを肯定すれば、それに返されたのは苦言。なるほど、詳しいことはさっぱりだけど冴さんと佐倉さんの間に何かゴタゴタがあったことは分かった。
「こちらとしては捜査に協力を願い出たまでなのだけど」
「だからっていきなり家に押しかけてくるような真似するんじゃねえ。追い返したら今度は店にまで来やがって」
「冴さん……」
なるほど、冴さんのことだから怪盗団事件の手掛かりになりそうだからって居ても立っても居られなくなってしまったんだろう。冴さんと明智君が中心になって追っていた金城の件も怪盗団が解決してしまったことで世間は怪盗団に肯定的な声が目立ち始め、警察に向けられる目は厳しいものになった。そんな状況の中、金城事件を追っていた二人の立場が良いものになったとは、表情こそ冷静なまま取り繕っているものの冴さんの膝の上で握り締められた拳を見てもあまり想像できない。
「冴さん、僕が言えたことじゃないですがあまり焦って物事を進めるのは拙いですよ」
「でも、ようやく掴んだ手掛かりを……」
「分かります。冴さんにとって譲れないものがあるということも。けれど、僕らがそんなやり方で進めてしまってはますます怪盗団を支持する理由を与えるだけになります。僕らは正しいやり方で正しい結果を、人々の支持を受けて得ないと意味が無いと思いませんか?」
冴さんが言葉を荒げそうになる前に遮り、言葉を続ける。怪盗団のやり方を認めないのであれば、僕達は正道を行かないといけない。それは難しく、遅々として進めない足下の不安定な道のりだが、そうして出来た足跡はその後に続くものにとって固く舗装された道になっていることだろう。僕の言葉に冴さんは悔しそうな顔で俯き、黙り込んでしまう。
これだけで終わってしまってはただ冴さんの立場を悪くしただけになってしまう。当然、僕はここで終わらせる気は無かった。僕はカウンターの奥に立つ佐倉さんに目を向ける。俯いてしまった冴さんを見て、佐倉さんも先ほどまでの刺々しさが多少は和らいでいるように見えた。
「……佐倉さん。ご迷惑をお掛けしたのはすみませんでした。ですが、もし協力出来ることがあれば協力して頂けると助かります。冴さんが追っている事件はそれだけ難解で、僅かな手掛かりも見逃せない」
「その検事さんを随分と庇うじゃねえか」
「僕は冴さんの協力者ですから」
「……ハァ、何も関係ないお前さんにそこまで言われちゃあな。分かったよ。だが、そう易々と協力出来るなんて言えねえ。詳しいことは言えねえが俺一人の問題じゃねえからな」
ただ、コーヒーを飲みに来るくらいなら邪険にしたりなんかしねえよ。
佐倉さんはため息を吐いて後頭部を掻きながら、諦めたように言った。協力を取り付けることは出来なかったけれど、冴さんが店に来る度に喧嘩する、といったことにはならなさそうだ。
「おい、検事さんよ。俺達もちっと頭を冷やそうや。高校生のガキにここまで言わせてお互い情けねえったら」
「……そうですね。この前はすみませんでした」
佐倉さんと冴さんがお互いに頭を下げてこの場は収まった。幸いにして僕ら以外にお客さんがいなかったのでお店の雰囲気が悪くなって居心地の悪い思いをする人は出なかったので、佐倉さんと冴さんが一旦は和解したことで解決、と言っても良いだろう。
「海藤君も、ごめんなさい。あなたは何も悪くないのに頭を下げさせてしまうなんて。大人として失格だわ」
「気にしないでください。協力できることは協力するって言いましたし。僕の頭を下げるくらい安いものですよ」
冴さんに謝られるが、僕としては何も気にすることではないと思っている。そもそも高校生の子どもが頭を下げたくらいで許してもらえるのだから、佐倉さんの懐が深かったというだけだ。それに今回のことはお互いに引くことが難しかっただけで、少しのきっかけさえあれば僕の謝罪など無くても和解出来ただろうし。
「なあ、海藤君よ。お前さん、いつもそうやって人助けをしてるのかい? 検事さんも言ったが、お前さんが頭を下げる必要は無かっただろ」
僕と冴さんの様子を見ていた佐倉さんがふとそう口にした。
「流石に誰彼構わず、なんてことは無いですよ? でも友人や知り合いは出来る範囲で助けてあげたいじゃないですか」
「こりゃまた……いや、何でもねえ」
僕の答えを聞いた佐倉さんは何故か呆れたような目で僕を見ると、手の付けようがないと言わんばかりに首を左右に振った。
「何ですか? 気になるんで言ってくださいよ」
「……取り敢えず横にいるのを放って話をするのはマズいだろうよ」
そう言って僕の冴さんが座っている方とは逆隣を指差す佐倉さん。そういえば先ほどから雨宮さんを無視して話を進めてしまっていた。いや、雨宮さんからすれば冴さんは初対面なので話に入れなかったのだろうが。確かに申し訳ないことをしたと彼女の方へと顔を向ければ、雨宮さんはいつもと変わらない……、変わらない? 無表情ではあったが、どこか目が据わっているように見えた。
「雨宮さん、ごめんね。急に知らないところで雰囲気悪くなって居心地悪くしちゃって」
「……それについては気にしてない」
気にしてないんだ。それはそれで心が強いな、雨宮さん。というか彼女の鋭い目は冴さんや佐倉さんでは無く僕に向けられているような気もするけれど。
「副会長は真のお姉さんととても仲が良かったと、真には言っておく」
「ちょっと待って欲しい」
そして雨宮さんは空恐ろしいことを口走ったのだった。何故か最近の新島さんは冴さんの話題が出ると露骨に機嫌を傾けるのだ。冴さんを名前呼びしているということで現役の検事も真っ青の追及を受けたというのに、雨宮さんからのタレコミがあったらそれの再来、ないしはそれ以上の追及を受けることになるのは想像がつく。
それだけは思い留まってもらおうとあれやこれやと言葉を並べ立てていると、それを見ていた冴さんがクスクスと笑っているのが目に入った。なんならカウンターの奥の佐倉さんも面白そうな顔でこちらを見ている。
あなた達の仲裁でこうなったんですよ! と言いたい気持ちになったが、今の雨宮さんから注意を逸らせば間違いなく新島さんへのタレコミは避けられなくなるのでどうにも出来ないまま、僕は何故か浮気現場を見つかった不貞の夫の気分で言葉を紡ぐしかなかったのだった。
その後、何とか雨宮さんの機嫌を取り、まだどこかぎこちなさが残るものの、冴さんも交えて他愛ない雑談で時間が過ぎていった。
「さて、私はそろそろ行くわね」
雑談がひと段落したところで、腕時計を確認した冴さんがそう言って席を立つ。気付けば結構な時間が経っていたらしい。
「また資料に目を通したら連絡を頂戴。こちらでも引き続き手掛かりが無いか明智君と協力して探っていくから。とはいえ、現状は明智君頼りになっているけれど。この資料も明智君から貰ったものだし」
冴さんの言葉に僕は再び手元の紙束に視線を落とす。初めて会った日、怪盗団の手口を警察が何も掴めていないと言っていた。あれから明智君も何か手掛かりは無いかと執念深く探っていたらしい。冴さんに共有しておいて僕に言わなかったのはこれ以上巻き込むのはいけないという彼なりの気遣いだろうか、それをふいにしてしまったとしたら少し申し訳なく思う。だけど、この手掛かりは僕にとっても大きなものだ。
「これまでよりは少しはお役に立てるかもしれませんよ、冴さん」
「あら、何か心当たりでもあるの?」
「直接の手掛かりになるものじゃないと思いますけどね」
そう言った僕の脳裏には一人の先生の姿が思い浮かんでいた。
丸喜拓人。カウンセラーとして心理学や精神分析に長けたあの人であれば、認知訶学についても何らかの知見を持っているだろうことは想像に難くない。
怪盗団を捕まえる、正体を暴くつもりは僕には無い。けれど、怪盗団の改心がどのようにして為されているのか、それが本当にこれまで改心のターゲットになった人物に悪影響を与えていないのかについては調べていく必要がある。金城事件が怪盗団によって解決されてしまってから世間の声が怪盗団支持に染まっていくのを見て、その思いは強くなっていた。
精神暴走事件と改心、この二つが本当に同じ手口で、ただ結果だけが違うコインの表裏のような関係であるとするならば。世間からの過熱する期待が怪盗団の面々に何を強いることになるのか、僕の頭の中に最悪の想像が浮かんできてしまう。その想像が現実のものとなったとき、僕はそれでも怪盗団を庇いきれるかと問われれば、すんなりと首を縦に振ることは出来ない。
だとすればそうならないために僕は出来ることをしなきゃいけないのだと思う。
たとえその過程で怪盗団と対立してしまうことになるのだとしても。