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高校生にもなって校舎内を全力疾走することは中々無い。そんな珍しい経験をした僕は大きく肩で息をしながら体育教官室の前に辿り着いていた。
ここまで来たらもう遠慮なんてしていられないし、する必要も無い。僕はポケットにしまっていた体育教官室の予備鍵を取り出すと鍵穴にそれを差し込む。案の定、扉には鍵がかけられていた。この中で今まさに行われようとしていることを想像すれば当然のことだけれど。
「誰だ!」
扉を開けた音に反応して飛んできた声は、やはり鴨志田先生のもの。それは保健室にも置いてあるような移動式の間仕切りの向こう側から聞こえてきていた。その向こうにあるのは鴨志田先生が校長に買わせた豪奢な来客用ソファー。
問いかけには答えず、間仕切りを半ば投げ飛ばすようにして壁際に追いやると、ソファーに押し倒されて泣いている鈴井さんとその上に覆い被さってこちらを睨み付けている鴨志田先生の姿が視界に入った。
「海藤!? キサマ何をしに……!」
鈴井さんの制服がはだけさせられているところまで認識し、僕の思考は一瞬にして白熱した。
「何やってんだ変態野郎!」
次に気がついたときは鴨志田先生、いや鴨志田を両手で床に突き飛ばした後だった。いくらガタイの良いスポーツマンとはいえ、ソファーの上に覆い被さっている不安定な姿勢でかつ横から力一杯押されてしまっては抵抗も出来ない。床に顔面から落下し、鼻を押さえていた。
僕はその隙に鈴井さんを引き起こすと、自分が着ていたブレザーを彼女の肩に掛けて背後に庇う。最悪の事態一歩手前で助かった。もし最中や事後だったら取り返しのつかない傷を彼女に負わせてしまうところだった。いや、今でも十分彼女にとっては大きな傷になっているのは確かなのだろうけども。
「っ、海藤ォ……! 俺にこんなことしてただで済むと思っているのか!?」
「それはこっちの台詞ですよ。未成年淫行に強制猥褻、暴行。越えちゃいけない最後の一線をアッサリ越えてます」
赤くなった鼻を押さえながらユラリと立ち上がった鴨志田はこちらを血走った目で睨み付けている。その眼光に耐えられず、鈴井さんが僕の後ろで身を縮めていた。僕もまあ怖くないわけがないけれど、鈴井さんの手前何とか手の震えを我慢して睨み返す。殴り合いにでもなったら間違いなく負けるな。
「ふん、たかが一生徒のお前らの証言と信頼が厚い俺の言葉、どっちを信じるかなんて比べるまでもない!」
「そうなったら去年までの他のあらゆるデータをSNSやゴシップ記事に売り飛ばしてやりますよ」
鴨志田はそう言って嘲笑うが、そうならないための材料をこちらだって持っている。周囲が騒がしくなり、平穏な学生生活は望むべくもなくなるけれど、その代わりに一人の人生をぶち壊せるのなら安い方だ。
僕が本気だということが伝わったのか、鴨志田の顔が怒りで歪む。これ以上ここで口論を重ねても平和的解決は不可能だ。絶対に僕の血が流れる。となればやるべきことは一つ。
「鈴井さん、早く逃げて。出来ればしばらく学校は休んだ方が良い」
「え、でも……」
「良いから早く逃げて!」
躊躇いを見せた鈴井さんだったが、強い語気に気圧されて身を翻すと体育教官室の外へと駆けていった。よし、これで後は目の前の男をしばらく足止めすればこの場は凌げる。
鴨志田はソファーを乗り越えると僕の目の前に立つ。身長、それと体格差で僕が見上げる格好になり、先程以上の威圧感に身震いしそうになる。
「お姫様を守るナイト気取りか?」
「まさか。精々槍持ち程度の下働きで……」
言葉を最後まで言いきることが出来なかった。それより先に僕の土手っ腹には鴨志田の拳がめり込んでいたからだ。日々のトレーニングで鍛え上げられたその腕力は僕の貧弱な身体に容易く突き刺さり、肺の空気が全て押し出されて言葉を発するどころか満足に呼吸も出来なくなった。
「っ!? げほっ、げほっ!」
「おら、カッコつけたんならもっと踏ん張れ、よ!」
続いて飛んでくるのは平手打ち。平手打ち、と良いながら手のひらと手首の境目付近で打撃を加えてくるそれは最早掌底と言うべきものだ。それが往復で飛んでくるものだから視界がチカチカと明滅する。
「その程度か、え? 一発くらい殴り返してみろよ!」
そう煽りながら攻撃の手は緩めない。そもそも元アスリートに身体能力で勝てるわけがない。それに一度突き飛ばしてしまっているが、これ以上相手にダメージを与えてこちらを殴る正当性を付与してやる必要は無い。僕はただ鈴井さんが逃げる時間を稼ぐ案山子になっていれば良いのだ。もっとも、鴨志田には既に彼女を追いかけるよりも僕を徹底的に痛め付ける方が優先度の高い事項になってしまっているようだが。
身体はこれ以上無く危機を訴えているのに、不思議と頭はクリアだった。一度鴨志田を突き飛ばしたことで煮えた頭が急速冷凍でもされたのだろうか。あるいはアテにならない前世の記憶らしきものの経験値がなせる技なのか。
そして幾度目かの打撃を受け、僕は体勢を崩して床に倒れてしまう。出来るだけ哀れみを誘うような崩れ落ちかたをしたつもりだったけれど、鴨志田の怒りは収まらないのか、そのまま倒れた僕を足蹴にし始めた。
「キサマみたいな! 虫けらが! 俺サマに! 楯突こうなんざ! 百年早いんだよ!」
文節毎に満身の力を込めた蹴りを喰らうものだから僕の口からは意味のある言葉は出ない。というか胃の中の物が出てこないように堪えるだけで精一杯だ。
しばらく蹴り続けて満足したのか、僕の腹を襲う凶悪な衝撃は止み、後には僕のえづく声と鴨志田の息切れだけが残る。
「ハァ……ハァ……。キサマは俺サマを突き飛ばすという暴力を振るった。たかが一生徒が教師に向かってな。理事会で吊し上げて退学にしてやる! それまではその不愉快な面を俺サマの前に出すなよ。またこんなことになりたくなかったらな」
たった一発のお返しにしては十分すぎる報復をした挙げ句、床に倒れ伏す僕に言い渡されたのは無慈悲な退学宣言だった。それに言い返す気力も無く呼吸を整えることに意識を集中させていると、鴨志田は何も言わずに体育教官室を出ていった。大きな音を立てて閉まった扉からは、外から鍵を掛ける音が聞こえてくる。この状態の僕が万が一にも他の生徒に見られないようにするためだろう。こういう小賢しいところには頭が回るのか。
「……はっ、それでも、押さえるべき証拠は、押さえたぞ」
鴨志田の足音が遠ざかっていくのを聞き届けてから僕はポケットにしまっていたスマートフォンを取り出す。画面を点灯させ、体育教官室に向かいながら開始していた録音を停止させる。なぜこちらが無抵抗でされるがままになっているのを許していたのか、最初の一発はこちらが頭に血が上っていた故のミスだが、それ以降は相手が一方的にこちらに暴力を振るっている証拠音声だ。過剰防衛にしてもやり過ぎだということは十分に伝わるだろう。それに暴行に入るまでの会話で何が行われようとしていたかも分かるようになっている。
「たかが一生徒が身体張った甲斐は、あったと信じたいね」
にしてもかなりグロッキーだ。僕の記憶にある限りここまで肉体的にボロボロにされたのは初めてだし、よく泣かなかったと自分で自分を誉めてあげたい。
痛む身体を何とか引き起こし、僕は立ち上がる。
「さて、これを明日校長に聞かせてみるか。最後の手段に出る前に、自浄作用はあると信じてますよ」
僕はこのときまで、まだあの校長にも教育者としての精神が宿っていることを期待していたのだ。
「は? 今なんと言いました」
翌日、朝一番に校長室に飛び込んで昨日の録音データを披露した僕に返ってきた言葉は、僕の耳か頭がおかしくなったのではないかと疑いたくなるようなものだった。
「だから、その録音データはすぐに破棄してくれと言ったのだよ」
「……すみませんが理由を聞かせて頂いても?」
「鴨志田先生も軽挙に走ったかもしれないが、その行為は君によって未然に防がれた。それに昨日の間に私も鴨志田先生から話を聞いたが君は彼に暴力を振るったそうじゃないか。それに対して
「お言葉ですがこの顔の傷を見てもまだ言いますか? なんなら病院の診断書だって提出しますよ?」
僕の言葉に校長先生の目が泳ぐ。自分でも言っていて苦しいと自覚しているのに、そこまでしてあれを庇う理由が分からない。あんなものをいつまでも学校に置いていたら、僕じゃなくとも早晩その蛮行が校外に漏れて学校の評判に致命的な傷がつく。そうなる前に果断な処理をしたとして事態を収めた方がよっぽどマシなはずなのに。
「考えてもみたまえ、確かに君は優秀だ。君の学力なら複数の有名私大に加えて最難関国立大にも合格可能だろう。だがそれによって生まれる合格実績はどれだけ多くとも5、6人分にしかならない。それも君が受験をする一年限りだ。一方で鴨志田先生はバレー部で輝かしい実績を出し、それによって我が校の受験者数は増え、必然的に学生のレベルも上がっている。それも単年度だけでなく複数年度に渡ってな。であれば経営上どちらがより価値を創出しているかなど比べるまでも無いだろう? 更に知名度が上がったことで大学の推薦枠も増えていて学生達にも大きなメリットがある。君たちが少し我慢をしてくれるだけで我々経営陣だけでなく他の学生達も大きく助かるのだよ」
校長先生が持ち出してきたのは冷たい経営理論だった。こちらが学生だからとそれで黙るようであれば大間違いだ。
「鴨志田の蛮行が明るみに出たとき、隠蔽しようとしていたことも必然的にばれます。そうなる前に先に事実を公表し、自浄作用があることを示した方が傷は浅く済むでしょう。既に彼は自身の欲求をコントロール出来ないところまで来ているんですよ!」
「そんなことは起こらない! これまでも、これからも、この学園内では何も問題は起こっていないし、起こらない。故に鴨志田先生にはこれからもバレー部顧問として指導いただく」
僕の言葉に返ってきたのは現実を全く見ていないような言葉だった。ダメだ、校長先生すらも鴨志田の言いなりでしかなかった。鴨志田の輝かしい実績に目を奪われ、幾人もの血と涙を啜って生み出された果実の甘さに溺れてしまっている。
「では僕が個人的に今まで集めた全ての証拠をSNSや記者に公開します。そうすれば僕の危惧が現実になると分かるでしょう?」
「いや、君にそんなことは出来ない」
「出来ますよ。あまりやりたくはありませんでしたが」
「出来ないとも。もちろんそんなことをされれば事態は明るみに出るが、同時にそれは君達3年生にも大きな影響を与えることになる。既に大学から推薦の声がかかっているもの。これからの推薦受験に向けて面接練習を重ねている生徒もいる。そんな子達は全ての推薦が取り消しになり、進学先に窮することになるだろうね。一般受験で大学に行っても出身高校で何を言われるか分かったものじゃない。下手をすれば就職にまで響くことになるかもしれない」
「……同級生を人質に取るつもりですか?」
「いいや。君一人の暴走で生じた結果に、君は責任を取れるのかと問いたいだけだとも」
視線で人を殺せたならば既に10回はそうしているだろう程に怒りを込めて睨み付けた先には、校長先生のねばつくような笑みがあった。
「その責任を取るのは僕じゃない。学校運営の責任者であるあなたですよ」
「そうだとも。だが他の生徒達はそうは思わないかもしれないね。3年生だけじゃない。下級生の未来すらも潰すかもしれないのだよ」
その言葉と共に校長先生の表情が険しくなり、僕を真っ向から睨み付けてくる。
「子供が大人の世界に首を突っ込むんじゃない。それ以上なにか言うようなら鴨志田先生の言う通り退学にしても良いんだぞ」
「……その子供が大人の世界の論理で犠牲にされそうになっていることには目を瞑れと?」
「リスクとリターンを考え、最適な判断を下すのが経営者だ」
それを聞いて僕は校長先生に背を向ける。なるほど、ここまでアテにならない人だったとは思いもしなかった。経営者なのかもしれないが、それ以上に教育者であって欲しいというのは僕の我が儘でしかないのだろうか。怒りで頬がひきつり、昨日の傷がそれに伴って鋭い痛みを訴えた。
「校長先生、あなたの言う子供から僭越ながら指摘させていただきます。経営者としても、教育者としてもその判断は間違っていますよ。……腐りきってます」
「言いたいことはそれだけかね? 私に対する暴言、きちんと理事会で報告しておく」
校長室の扉を乱暴に閉めた僕は、そのまま教室に戻ることも億劫になって生徒会室に閉じ籠り、これも入学以来初めてになるのだけれど、授業を無断欠席した。