女帝からは逃げないと。 作:霧江牡丹
──その日は、当然、訪れる。
幸いだったのはまだ……国同士が、人同士が、大規模な戦争へと舵を切っていなかった頃だった、ということだろう。
彼女のもとには各国からの「教え子」が集い、それを見守るようにして「知り合い」や「友人」が静かに祈る……そんな景色が広がっていた。
参列者の中には彼女への好意だけではない……「ちゃんと死するか」を確認しに来るような邪な者もいたけれど、それも致し方の無いこと。
この高齢になって尚国民への、そして政への影響は計り知れず、その知は天をも揺るがすと言われたほどなのだから……恩恵に与った人間、与れなかった人間の双方が彼女を危険視することもまた、仕方のないことなのだ。
「これは……素直に並んでいたら、辿り着く前に旅立たれてしまいかねないな」
「そう、だな……」
「あまり落ち込むな。いずれ来る結末を全て悲劇だと決めつけていては、ありとあらゆる人生が全て悲劇になってしまう。……行くぞ」
「……ああ」
涙を流す人並みが静止する。否、微かに動いてこそいるけれど、
その中を歩くは二人。掻き分けるでも退かすでもなく、すり抜ける。すり抜けられることを知っている、と言わんばかりに。
だから、なんの苦も無く辿り着けた。
呆然と──起き上がり、己が身体を見つめている彼女のもとへ。
「身体に苦痛を覚えない時間は久方振りか、祭唄」
「……あ、そっか」
気の抜けた返事。
「私、もう……」
「いやまだ死んでいない。神族の扱う精神干渉の術でな。肉体から魂を引き出して、圧縮された時間の中での会話を行うことができる……という、光界ではよく遭遇していた術だ」
「光界……。その名前も、懐かしい。……祆蘭。それに、鈴李も……来てくれたんだ」
「ああ」
少女の姿はずっと変わっていない。相も変わらず尊大な九歳児のまま。
鈴李の姿は、少しばかり歳を重ねた。それでも同年代に比べたら若すぎる。
そして、祭唄の姿は。
「……変なの。私の……曾孫より、幼い、祆蘭」
「お前の一族が繁栄し過ぎなだけだがな」
「あの頃を思い出すたび、祭唄老師と呼ばれているお前が……ふふ、少しだけ可笑しかったものだ」
「酷い。これでも私、本当に頑張ったのに」
知っているさ、と。
祆蘭は、彼女の……祭唄の頭を優しく撫でる。慕われる立場になってから、久しくこうされることはなかったのだろう。少しばかりくすぐったそうに目を細めるその姿は……祆蘭の記憶にある人に危害を加えない方の猫のような、そんな印象を抱かせた。
「私が最初?」
「進んで死に目に遭おうとした者では、だ」
「そっか。……そうだね。風の噂で……みんながそうなっていったこと、私も……聞いていたし」
当然の話だ。
むしろ彼女は長かった方だ。だから、それ以前にいなくなった者は山ほどいる。
ただ……そうなったことを後から聞くのではなく、事前に察知して会いに来た一人目が、彼女。
「何か……何か、話したいことや、言い残したいことはないのか? もっとこう……言葉が溢れてやまないものだとばかり思っていた」
「鈴李は相変わらずだね。……知らないことを想像して勝手に焦って、でもそれは……自分の番が来た時にどうしたらいいのかわからないからで」
「あ、いや……」
「責めているわけじゃない。そういうところが相変わらず可愛い、ってこと」
「お、おい。もうお互いにいい歳なのだから、そういうことを軽々しく言うな」
「そう? この歳になると、"可愛い"の意味が違ってくるから……まだ初心なのは、それも想像通りだけど」
話したいこと。言い残したいこと。
そんなもの。
「私にはもう、ないかな。……伝達が無くても伝わっている。そうでしょ、祆蘭」
「ああ、十二分に」
「……だから、もう、手を離してくれていいよ、祆蘭」
ピタ、と。祆蘭の……彼女の頭を撫でる手が止まる。
「気付いていたのか」
「わかるよ。私、祆蘭の……要人護衛で、友達だったんだから」
罅が入る。
停滞した世界に、明確な罅が。色も体感も熱もない世界に……喧噪が侵入してくる。
「死を摂理だという祆蘭が、それを引き延ばすなんて……私は、あなたにとって、大切……だったのかな」
「今更言葉にさせるのか? だとすれば、変わったな、祭唄」
「ん。……家族を持ったから、かも。……知っちゃった。大切って、どういうことなのか」
「なるほど。──ならば、もう引き留めはしない。鈴李、お前はもう良いか?」
「言いたいことはたくさんあるが、墓前で言うことにする」
「それも良い択だな」
祆蘭が彼女の頭から手を離せば、罅は更に更にと大きく広くなっていく。
完全に割れるまであと数秒と無い。そこに至って……祆蘭は。
「私が好む概念ではないが、生生流転という言葉もある。この開けた世界でそれがどうなるのかは知らない。ただ……そうだな」
世界が崩れ落ちると同時──空が開けた。それに気付いたのは、彼女の最期に立ち会えなかった者だけなのだろう。
天つ火。
「お前には、またな、という言葉を使う。──次会う時、私を忘れていたら……また話も聞かずに斬りかかるから、そのつもりでいろ」
「うん。忘れないよ。──またね、祆蘭、鈴李」
「ああ。また、だ」
突然の事象に誰もが空を向いたその瞬間。
彼女は。
多くから慕われた女性、祭唄は……静かに、息を引き取ったのだった。
高空から見下ろすは、ある尸體處の賑やかさ。
「夜雀には会いに行ってやらんのか?」
「前に会った時、来ないで、と言われてしまったからな」
「なんだ、喧嘩でもしたのか」
「"諦めきれなくなっちゃうって自分でわかるから!"だとさ」
「それは……まぁ、あの子らしいか」
活性での葬儀は静かなものだけど、斉心での葬儀はこうして賑やかにする。
悲しみを吹き飛ばす空元気ではなく、楽土でも楽しく暮らせるように、とする文化だ。
玻璃という存在が、そして私という存在が楽土を肯定したことで……次に行く楽土でも、楽しく、穏やかに、幸せに暮らせるように、と。
旅立ちを祝うのがこの国の文化。
「朝烏さんが亡くなった時の塞ぎ込み様は凄かったからなぁ。あの夕燕が私に相談を入れてきたくらいだ」
「夜雀以外の二人とは関係性が薄い故な、あの、と言われてもあまりわからんが」
「ああそうだったか。……なんというか、玻璃から怪しさ成分を抜いて、悪巧みや嫌がらせ成分の純度を増したようなやつ、と言えば伝わるか」
「……割合最悪な人間ではないか?」
「ただ、己の定めた主と姉妹愛が果てしなく強い、という違いがある」
「それは……お前と仲が良いわけだ」
その夕燕も、彼女が愛した雪妃も、そして今……夜雀も。
時の循環が歩みを止めることはない。次第に一人、また一人と、少女の知り合いは倒れていく。
中には道半ばの者もいた。誰が、ということは明記しないが、思わぬところで命を落としてしまったものもいたにはいたのだ。
摂理。摂理。道理。道理。
あるいはその言葉は、彼女にとっての防御だったのかもしれない。
「……行くぞ、鈴李」
「どこへだ」
「決まっている。玻璃のもとへ、だ」
来ないで、と言われなければ、その死の間際にも立ち会ったのだろう。
けれど彼女はその意志を尊重した。
そして。
「もう一つ言われていてな。──"その時が来たら、玻璃様が安心して眠ることができるように……未練タラタラの男共をぶん殴っちゃって!"だそうだ」
「そうか。……ならば私は行かないでおこう」
「ん、別にいてもいいぞ。玻璃とは話したい事もあるだろう」
「あるが……それも墓前の方が話しやすい。……加えて、そろそろ死にそうな爺がいたことを思い出してな。平均寿命を大きく超えたあ奴のもとへは、元巫女である私が行くべきだろう」
「……ああ、そうか。まだだったか。いや本当に長生きだったな」
「住処を神祆郷に移した故だろうな。あるいは奴の特殊な出生故か。どちらにせよ……こちらは任せよ。口下手同士ではあるが、最後の杯でも酌み交わしてこよう」
であれば、と生成されるは空車。
御者はいない。それでも目的地へ辿り着くそれに鈴李は乗り込んで……一言、祆蘭へと声をかけた。
「ぶっ飛ばしてこい!」
「ハ、いいな、それ。そう言われて送り出されるのは、初めてだ」
彼女は、鋸とトンカチを抜いて。
何事だ、何事だ、と騒がしくなる殿内。
未だ瓦礫のハラハラと落ちるそこで、横たわる女性を見下ろす少女。
「……ああ、祆蘭、ですか。……ふふ、派手なご登場、ですね」
「こうでもしないと気付かんだろう?」
「いえ……この、隱形眼鏡でしたか。……あなたの作ってくれた樹脂と顔料を合成した……凛凛の協力で……」
「ああそういえばそうだったな。コンタクトレンズモドキである程度見えるんだったか。全く、盲目に作用するコンタクトレンズなど、とっくにあちらを超越しているが……」
女性の顔にはもう布は無い。
光の無い目ではあるけれど、優しい笑みが窺える……その可愛らしい顔が見えている。
「あなたが来たということは……この長い夢も、終わりですか」
「流石にな」
ノールックでそれを防御する祆蘭。鋸の腹で受け止めしは、穢れの纏わりついた拳。
陽弥だ。
「何を……しに来たのかな」
「玻璃を看取りにきた」
「その必要はないよ。母はまだ、元気だからね」
騒がしくなった殿内が一気に静まり返る。
気付いたことだろう。陽弥は、己の腕が震えていることに気付いてから……彼自身が恐怖していることに気付いたはずだ。
威圧。それも静かで、凄まじい範囲の。
「負けたか、陽弥」
「……何、を」
「はぁ。
答えずに呼びかけるは、同族である男。
彼は溜息を吐きながら虚空から出現し……けれどその目は、同族に向けるものではなかった。
敵を見る目。
「ンだよ」
「気付かないはずがない。この陽弥はもう、お前の知る陽弥ではない」
「……うるせェ」
「おかしなことを言うものだね、新帝祆蘭……ああいや、この呼び名は今相応しくないか」
「いつからかは知らん。興味も無い。だが……玻璃を生かすという妄執に囚われ、贖罪を願い続けたあいつは食い殺されたらしいな。お前をこの場に留めるためだけに玻璃のそばにあり続け、しかし此奴の中に玻璃への愛など無い」
「うるせェっつってんのが聞こえねェか」
互いより放たれるは剣気。誰もが思わず構えを取ってしまうほどの。
そして──「集合体」である陽弥の中の魂が、それぞれにざわめきだす程の。
それを受けてすぐに顕は剣気を引っ込めたけど、少女は無視だ。
「おい……それ、やめろ。陽弥が苦しがってんだろ」
「以前の陽弥であれば、私の剣気になど屈しなかったさ。……諦めろよ、顕。認めろよ。それができぬというのなら」
「言うのなら?」
左手。逆手に持たれた鋸。
右手。正眼に構えられたトンカチ。
拳を突き出したままだった陽弥を蹴り飛ばした上で、彼女はそれを二人へと向ける。
「理性無き鬼、陽弥。並びに
悲し気な溜息は……勿論、彼女から零れたもの。
こうなってしまうことはわかっていたから。けれど、「もう良いですよ」と言っても……聞き入れてくれることはなくて。
知っていたから。知っていて、でも、輝術を失っている以上、どうしようもできなくて。
"眺めていればいずれ潰える悪事"。
過去に彼女が言い放ったその諦観は、当事者となることで、ようやく。
大切な者同士が争う結果になるくらいなら……彼女は、自ら。
「……待ってくれ、母よ」
目を見開いたのは祆蘭。いや、彼女だけではない。
全てを知っていながらも陽弥の味方をしようとしていた顕もまた、動きを止めた。
「私は……あなたに、そのような顔をさせているのか」
「……はい」
「そうか。……そうか。いつの間にか、そうなっていたのか」
抑えつけられていく。
ギチギチと音を立てて、彼の身体の中にある魂が、自我を、主導権を奪おうとする意識たちが……剣気に当てられ、闘争に染まりつつあった心が。
消えたと思われていた、たった一人の少年に。
「なんだ、つまらん。久方振りの二対一で、友と愛したものから背を押された戦闘なのだ。命数尽き果てるまで戦えるかと思えば、まさか理性を取り戻すとは」
「テメェ……」
「これ以上は親子水入らずだな。──ならば、やろうか顕」
「ンだと?」
「二対一が一対一になっただけだ。ほら、かかってこい」
それは戦狂いの発言にも聞こえる。
けれど違う。祆蘭は知っているだけだ。
次、何が起こるのかを。
「私は……母よ。あなたにそんな顔をさせてしまう存在に、成り果ててしまったんだね」
「そう、ですね」
「それならば……うん。答えは一つだ」
嫌な予感でもしたのだろう。
陽弥を止めんと近づこうとした顕を、祆蘭が止める。激しくぶつかり合うは神族同士の力。かつての輝術。それも州君クラスか、それ以上の力を持つ二人の衝突は……尊瑤を使用せずとも、宮殿へと大きな被害を与える。
「これ以上あなたの悲しむ顔を見たくはない。……私は、死を選ぶよ」
「待ち……待ちやがれ、陽弥!」
「待つのはお前だ顕。これ以上先へは進ません」
鋸が、トンカチが、顕のあらゆる攻撃を防ぐ。
彼とて歴戦の戦士だ。氏族と戦い続けた者だ。
そんな彼の攻撃を、まだ成りたてと言って過言ではない祆蘭が捌き切れているのは……彼が冷静さを欠いていることもあるけれど。
幽谷の少女の存在自体が、「未練を断ち切ること」にあまりにも長けているが故なのだろう。
「申し訳ありません、陽弥。……私は……あなたに、何も返すことができませんでした」
「私を息子と呼んでくれた。私にとってはそれだけで充分だったよ」
「ずっと守っていてくださいましたね」
「利用するために近付いた。謝るべきは私の方だ」
どれだけ激しい猛攻も、少女が全て叩き落す。少女を無視して陽弥のもとへ駆けつけようとしても、全て全て防がれる。
境界線だった。
ここが、ここなるが……生死の境。
そして、どこまで行っても人間でしかなかった二人と、神族の境だ。
「母よ。……
「私もです。永く長い意識の果てに、あなたという息子を持つことができて……母は嬉しく思いますよ」
だから。
「悲しみたく、ありませんので」
「私もだ。……任せてもいいかな、神濫」
制止の声は届かない。
悲痛な声は響かない。
「酷い話だ。二対一かと思えば一対一で、そこに不満を漏らせば三対一とはな。──安心しろ。痛みは無い。全て全て、一度に消し飛ばしてやる」
それは。
名前の付けられたもの……では、なかった。
あるいは光界追放の時のものにも似た……魂の存在感だけであらゆるものを圧し潰す荒業。
「待て、陽弥! まだ……探せば方法はあるはずだ! テメェがテメェを取り戻せたってンなら、それを保ち続ける術を捜せばいいだろ! なンでそっちを選ぶ! テメェは幸福を掴み取るべきだ! 今まで散々苦しんで、外に出た後も休まずに動き続けて……もっと、もっと──穏やかな──!」
「そう、なのかもしれない。けれど……顕」
消し飛ばされる。削り飛ばされる。
その渦中において顕が見たものは。
「私は、あなたと共に過ごした時間も、母と共に過ごした時間も……どちらも幸せで、穏やかだったよ。……私は、ここに至れて良かったんだ。だから……どうか」
母親と手を繋ぎ、どこかへ歩き去っていく青年の後ろ姿。
「負い目を覚えないで欲しい。知っているよ。あの時私に出会いさえしなければ、と……顕がずっとずっと後悔してきたことを。……再びも
白く霞む光の向こうで、横顔だけに振り返った彼の顔。
「生きてきて、良かった」
それが全て塗り潰される。
何もかも、神族の意識すら飛ばす存在感に。
二人は──。
だから、これは、蛇足なのかもしれない。
それでも彼女は。
「ありがとうございました、祆蘭」
「……早く行け、莫迦者」
「けれど……あなたの心に疵を残してしまったのかな、と」
「友を殺した、という疵なら問題はない。もうたくさん見殺しにしている」
どこか拗ねているような少女の声に、彼女は「そうでした」なんて手を打つ。
「此度のことで消し飛ばされてしまっていなければ、ですが……あなたに贈るための元結を用意してあったんです。今度は神を止めるためのものではない、神を結うための元結を。……もし見つけられたら、使ってください」
「そういうことは早く言え、莫迦者……全力で消し飛ばしてしまっただろう……」
「ふふ。初めに言ってしまったら、余計な手加減をしてしまいそうでしたので。……それでは、これで」
「ああ」
真白の中へ。
「祆蘭」
「……」
「後悔は、無きように」
「言われるまでも無いさ。……達者でな、玻璃」
「ええ」
そうして、全てが。
となれば、まぁ。
彼女の順番が来るのも……時間の問題ではあったのだろう。
大きな月の見える山の上。
眼下の樹海と夜闇の星海。月の溺れる真っ暗闇は、けれど二人の顔に影を差すことができない。
「……実感は、湧かぬな」
「だろうな」
「皆……いなくなってしまったな」
「ああ。だから、長生きなんてするもんじゃないんだ。鮮やかに刹那を生きた方が……ずっと良い。……神族になってから、殊更に思うようになったよ」
祆蘭に身を預け、鈴李は……ゆっくりと息を吐く。
長い時間は、けれど限りあるもの。
人であることを決めた日から、これは定められていたこと。
「祆蘭……好きだぞ」
「知っている」
「愛している」
「知っているよ」
確かめるように。
そうであることを、何度も何度も。
「もっと長く……共にいたかった。だが、同時に……充実した人生だった」
「そうか。それなら良かった」
寄りかかる鈴李の、その身体。
少しずつ生命の
上下する胸も、言葉を発するたびに開く口も。
儚く、弱々しく。
「気の利いた言葉は吐けそうにない。……だが、そうだな。鈴李。お前は昔、愛とはなんなのだ、と喚き散らかしていたことがあっただろう。あれの答えは出たか?」
「また……昔も昔の話を、引っ張り出してきたものだな……」
何十年も前の話だ。
けれどどちらも覚えている。
「答えは……出ておらぬ。ただ、この定義のできぬ感情をこそ……愛と、私は呼びたい」
「そうか」
「お前は違うのか?」
「……ああ。私の中に答えはある」
それはあるいは、彼女の知り合い……前の世界を含めた全ての知り合いが聞いて驚くことなのかもしれない。
彼女のその生に、愛など無かったはずだから。
「聞かせて、くれるのか」
「そうだな……そうしようか」
月に手を伸ばして。
「別れを惜しむ、その心。愛とは、ただそれだけだよ、鈴李」
握る。小さな手を。月を掴むようにして閉じる。
「別れを、惜しむ……」
「友愛も親愛も恋愛も、全ての根幹がそうだ。離別、死別……別れというものに必ず発生する寂寥。惜しむのは愛があるからだ。離したくない。離れたくない。……愛が無ければ別れを惜しまない。それは人であれ物であれ同じで、そして……その惜別が迫れば迫るほど、想念は強くなる」
「ああ……ならば」
続きを言おうとした鈴李の口。
それが塞がれる。寄りかかられていたからだろう、素早く腕を回した祆蘭が、彼女の唇を奪ったのだ。
「言葉にするな。陳腐になる」
「……お前は、言葉で生きてきたのではなかったのか?」
「だからこそだよ。……その生き方を変えてもいいと思うほどには、ということだ」
祆蘭の手元に何かが生成される。
出てきたものは……懐かしのもの。
やじろべえ、である。
「どんなところにも立つことができる。二者間のバランスを取り続けている。……私とやじろべえの呼応はそれだけだと思っていた。光界の外へ出てまで"符合の呼応"の話をするのは無粋であるというのは理解しているのだがな。……それでも聞いてくれるか。私の、最後のこじつけを」
「"お互いが惜しみ合っているから、成り立つもの"……ではないか、お前の……言いたいことは」
ほう、と吐かれた呼気。
ああ。そう。その通りだ。
祆蘭は……。
「どちらかが重すぎても、軽すぎてもいけなかった。……私達の関係が、果たして、傍から見て愛と、恋仲と呼べるのかは知らない。だけど……私とお前が互いを惜しみ合う心は等量だと、今にして断言できる」
「初めの頃は、輝術師も敵だ、などと言っていたのになぁ」
「ふふ。また、昔も昔の話を引っ張り出してきたものだな」
光が集い、少女の手から蝶が生成されていく。
生物を生成することはできないはずだから、これは模型の類なのだろう。飛んでいるのは神の御業。
それらは青と黒の蝶。
「
「これは、碧鳳蝶と言う。光界には生息していなかった種だから、見たことなかっただろう。……初めてお前の姿を見た時からな、お前とこれが似ていると思っていた。紫の帯が無くなってからは、さらに似ていった」
「青か。まぁ、確かに……青州と関係なく、私は青が好きだからな。衣服もそういった色合いを好んで着ていたように思う」
「お前の旅路に、これらを供とつける。珍しく見せる私のエゴだ。ああいや、常に見せている、の間違いか」
「祆蘭。……どうして、涙を流す。どうして……そんな目をする」
蝶に乗って。
ああ、蝶に乗っていくのだ。
「鈴李。惜しいよ。……今更になって思う。本当に。沢山時間を過ごしたけれど、もっともっとお前に割けばよかった。もっともっと、色々なことができたはずなのに。……なぁ、鈴李。もう……尊大な返事は、返してくれないのか」
ああ。ようやくだ。
ようやく、鈴李は気付いた。
だっておかしかったから。
祆蘭と鈴李を……目を瞑る鈴李を、彼女自身が眺めている。
そうだ、それは、つまり。
「祆蘭!!」
「……!」
顔を上げる少女。
届くはずがない。この世界に幽鬼はいない。全て解けて消えてしまうから。
だから、肉体の檻を脱せば、魂だけの存在となるはずの彼女は……声を届けられないはずなのだ。
届けてはいけないはずなのだ。
「私は……先に行くから! いつか、追いかけてこい! いつか、いつか、いつかいつか!!」
振り絞る声。振り翳す腕。
「果て無きはずの生に、死という終わりのあらんことを、楽土の畔で待ち侘びている!!」
「……ハ」
呼気は短く。
「逃走を促す前に……逃げられたか。これは……参ったな」
月の向こうへ、無数の碧鳳蝶と共に飛んでいく彼女に。
「いつか、また」
最期の言葉を──。
次で最終話となります。
先んじての挨拶にはなりますが、ご愛読ありがとうございました!