女帝からは逃げないと。   作:霧江牡丹

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後日談「鬼といふもの」

 奔迹(ベンジー)は鬼である。

 彼は「小物な言動をしつつも実は有能」という立ち位置に憧れる一般鬼であり、決して、決して! 氏族研究の権威だとか、神族並みに世界について詳しいとか、この世に起きている「変化」についての理解が高いとか……そういうことは一切ない、流離いの奔迹である。

 

「だからさ、祆蘭ちゃん。俺と二人だけの調査、っていうのは鈴李ちゃんの恨みを買い過ぎるというか……」

「なんだ、私より濁戒や桃湯の方が良かったか?」

「うわ神門様以上に話通じねー……」

 

 そもそもの話、奔迹は人里を遠く離れた大陸中心部と思われる場所にいた。

 そこで、「痕跡」の調査をしていたのだ。そんな彼の背後に突然現れたのが天火の少女で、物凄く恨みの籠った目で二人を見送ったのが空車に乗った鈴李で。加えて、気のせいでなければ空車を引いていたのが彼の敬愛する元鬼子母神こと媧だった気がするのは気がするだけだろう。

 無論、神族がいるだけで捗る部分も多いから、成りたてであるとはいえ天火の少女の参戦はありがたいことではあるのだが……いや、よそう。これ以上の思考は奔迹にとって精神的ストレスにしかならない。

 

「して、これらが"痕跡"か」

「ん。ああ」

 

 彼の前に並べられているのは、複数の壁画。どこかの宮殿の壁に使われていたものなのか、端々に装飾らしき破片が残っている。

 

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「まー……流石に人工物、だよな」

「だろうな。だが文字がない。光界から漂流したもの、というわけではないだろう。……加えて昔、凛凛さんに聞いたのだが、こういった壁画が存在することを神族は知っていたらしい。つまり」

「やっぱり……元々大陸にいた人間、ないしは氏族が描いたもの、ってことか」

 

 これ以外にも大陸の至る所に人工物らしきものが存在している。

 人のいた痕跡があるのだ。ただし……この十五年を経た今でも、先住民らしき存在は見つかっていない。

 絶滅したのか、何か別の理由があるのか。

 氏族研究の傍らでこっちの研究にも手を出していた奔迹は、天火の少女の肉体を再構築し終えた今……どっぷりこの考古学研究に浸かっていた。エンジョイしていた。

 

「どれも天染峰……ああ、テンセンフォンのことを指しているように見える。ただ気になるのは、氏族目線のものとテンセンフォン内部目線のものがある、という点だな」

「だなー。それと、俺には天染峰でも伝わるよ。規格文字については濁戒が形そのものを記憶していたからさ、そっから学び直したんだ」

「ほー。まぁ私がわざわざ規格文字を使う必要はないんだが、固有名詞についてはどうしてもな。そうである方が助かるよ」

 

 規格文字。奔迹らがかつて使っていた文字であり、今では読める者などほとんどいない文字だ。

 言語の勉強をしたからこそわかる。あれら文字をどうしてああいう風に読めていたのかが全く理解できない。文字が音の数に対応しているわけでもないし、音節や発声法にも違和感しかない。文字自体も描き難いものが多く、これを昔は当然の顔をして書いていたのだと思うと末恐ろしいところがあるほどだ。

 奔迹をしてそうなのだから、当時気付いた……半ば事故の形で気付きを得て、それでも持ち直した祭唄という少女の強さもわかろうというもので。

 

 話を戻す。

 

「俺もそこは気になっていたことでさー。壁画っていうのは、文字を持たないやつが歴史を綴るために描くものだろ? 最初の五枚はまだわかるんだよ。天染峰、あるいは光閉峰という場所の状態を示している。これは歴史を綴るものとして理解のできる壁画だ。けど、六枚目のこれは……おかしい」

 

 奔迹がそれの前に立つ。

 

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 この壁画。これだけ、明らかに視点が違うのだ。

 

佩普(ペイプー)が悪戯に流したモンかとも思ったけど……」

「違うだろうな。……これ、描いたのは多分……月織(ユェヂー)なんじゃないか」

「へ? ……いやいや、どうやって」

「どうやって、の部分は知らん。が、光界にてあいつは絵画を描いていてな。なぜか規格文字を絵として扱うことができていて、そして穢れを……氏族を穢神(フェイシュン)と知り、その姿をこの雲の模様で描いていた。もういないやつのことだ、どれほど考えたって推測の域を出ないだろうが、この壁画だけは警告のように見えてならん」

「警告……」

「同時に、適当に描いただけやもしれん。あいつ、先見の明があるとか散々言われていたけど、実際に行動を共にした時はポンコツも良い所だった。行き当たりばったりで当たって砕けろで無計画で……これも、視えたから描いた、程度の理解やもしれん」

 

 どれほど考えたところで推測の域を出ない。

 ──出なかろうと、考えて答えを導き出すのが研究者というものである。

 

「祆蘭ちゃんは、氏族がどういうものであるのか、を知っているんだよな」

「まぁ……なぜそうなのか、は知らんがな」

「今はとりあえず知識が欲しい。与えられるものだけでいいから、俺に色々教えてほしい。どうやったって辿り着けない知識を貰った後は、何万年かかっても自分で解き明かすから」

「……」

 

 この天火の少女は、神族となってから……昔よりもさらに公平を大事にするようになった。

 人間の文明の進みを眺め、渡すべきではない智慧は制限し、教えを乞われても断る。それがどれほど仲の良い相手で、どれほど困窮した状況にあっても、だ。

 だから、この件もそうなる可能性は十二分にあった。

 

「ふん……推理素人が推理を他者に預けるのは、媧以来か。いいぞ、話してやる。どう使うかはお前の自由だ」

 

 薄く笑う彼女の顔は、どこか鬼子母神を……五千年前の彼女を彷彿とさせるもので。

 思わず彼が片膝を突いてしまいそうになったことは、根が真面目でどちらかというと進史タイプである、という彼の性質に関係する極秘情報に繋がるので口外禁止である。

 

 

 

 齎されたのは埃及(エイジー)神話なるもの。

 別に天火の少女も学者ほど詳しいわけではないそうだけど、それにおける神々が、光閉峰に関わっていた氏族であろう、と。

 

「この七枚目の壁画」

 

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 指を差すは真ん中上、水色のなんらかの道具、及び太陽。

 

「水色で天にあるもの。(てんくう)を表すは荷鲁斯(ホルス)……以前(チー)が戦っていたらしい神。今もいるのか知らんが、そういう氏族がまず一人」

 

 次に指差すは赤。穢れと同じ絵のつけられたもの。

 

「赤くて戦いを意味するもの。火の表すは赛特(セト)。緑色で生育を促す雨雲を意味するもの。木を表すは俄西里斯(オシリス)。黒くて死を意味するもの。土を表すは奈芙蒂斯(ネフティス)。そして、青くて豊穣を意味するもの。水の表すは伊西斯(イシス)。……だと、思う。これ以上は正直わからん」

「天染峰の色は、ただの色分け。ただしこれらの"頭となるもの"が俺達を見ていた氏族。……やっぱり、これらを描いたのは氏族じゃないな」

「一応聞いてやる。なぜそう思う?」

「描く意味が無いからだ。記録しておきたいこと、壁画に刻み付けてまでも後世に残したいこと。誰かに事実を伝えたい気持ち。……壁画っていうのはそういうものだと俺は思う。だけど、これらを描いて……氏族にとって何になる? むしろ弱点にもなりかねないものだろう」

「感覚が違う、という可能性は? 氏族はお前の悪事と感じている全てを誇りに思っているやもしれん」

「それは……無いかな。()()()()は、佩普が担っているみたいだから」

 

 奔迹に言われて、ようやく……天火の少女は、「ああ……あいつ『アペプ』か」と呟いた。

 さらにそこから長考へと入る少女。

 

 素直に。本当に素直に……羨ましいと、彼は思う。

 知識とは粘土のようなものだ。あればあるだけ様々な造形に変えられて、大きなものを作り上げられる。

 果たして少女と奔迹とで、どれほどまでに知識の開きがあるのか。彼女のいた楽土において彼女はどのような地位で、どのような教育を受けてきたのか。

 

 ふと気付いた時。

 ──眼前に、トンカチの頭があった。

 

「どわああああ!?」

 

 既のことで回避する奔迹。以前の少女ならいざ知らず、神族となったその力で額をカチ割られようものなら本気で死んでしまいかねない。

 今の「どわああああ!?」はいつもの"焦っているフリ"で出しているそれではなく、素の「どわああああ!?」である。

 

「近道をしようとするな、莫迦者」

「……へ」

「今、私の頭蓋を開いてその知識を啜れたら、とか考えていただろう」

「いやそんな怖いことは考えてないよ!?」

 

 ただ。

 考えそうになっていたのは──事実かもしれないが。

 

「相学者から考古学者になったのだろう。いいか、お前は自分に自信が無さすぎなんだよ。私の肉体を再構築したことも、最後の最後まで私を守り切ったことも、その他諸々……お前には成功体験がこれでもかってほどにある。ならもっと自分を信じて突き進め。他者の中に眠る知識など無いものとして扱え。私の知識など宝の持ち腐れも良い所で、反面、お前が培ってきた全てはお前が使うべくして培われた全てだ」

「いや……そんなことは身に染みてわかってるよ。祆蘭ちゃん、俺が何歳だと思ってるのさ」

「研究者など幾つになっても莫迦者ばかりだ、ということは知っている。ここで近道を選択するくらいなら、新たな壁画でも探したらどうだ。これだけ、ということはあるまいし、これら壁画があっただろう洞窟、あるいは宮殿。そういったものも見つかっていないのだろう。──近道でも回り道でも、別の道を探すのは今歩いている道の涯に辿り着いてからにしろ」

 

 横暴だ。公平を謳い、傍観者気取りで知識の制限をするようになった天火の少女に言われたくはない言葉ばかりだ。

 けれど、それを……怒りや苛立ちを顔に出さないのが流離いの奔迹というもので──。

 

 蹴りが来た。

 腹部に、どす、と。

 思わず蹲る奔迹。

 

「ここまで言われたら怒れ。答えを言わないくせに俺の生き方に口を出してくるな、くらいは言え」

「お、横暴な……」

「だいたいこの世界の神々は……神族も氏族も大人しすぎる。私の知る、というか私の楽土の神々はもっと乱暴だったぞ。基本的に気分と性欲で行動し、だいたいが行き当たりばったり。この世の神の横暴さは全て私が受け持ってやろうか」

 

 知っている。奔迹は知っている。

 彼女がこうやって悪ぶる時は……相手の感情を引き出したい時で、そして前に進んでほしいと願っている時だ。

 

「感情を表に出さない俺のこと、嫌い?」

「苦手ではある。ま、出してないつもりかもしれんが、充分に出ているから安心しろ。……今答えを出してくれなくてもいい。月織のことやこれら前文明のこと。そしてこの世の成り立ち。推理素人では憶測すらたてられんから、お前のような智者を頼っているのだと理解しろ。知識と知恵は違う、なんてお前に説くまでもないことだろうがな。……拝融(パイロン)との約束もあるんだろ。とっとと前を向け」

 

 それは何に対しての「安心しろ」だったのか。

 

 何にせよ──。

 

「君から頼りにされるのは、悪くないね。神族になった以上、もう他の神族や桃湯ちゃん、結衣ちゃんみたいな"ただ力が強いだけのやつ"は頼られないだろうし……特別感がある」

「そうか。今すぐ壁画を何らかの手段で保護することを推奨しよう」

「え」

 

 ──音とか蝕とか、あと神の御業諸々がここに降り注ぐまで、あと十秒。

 

 

 

 実際、どうなの? と。彼女……桃湯(タオタン)は切り出した。

 奔迹への諸々は一旦終わりにして、問う。「まだ帰ってこないのか」と鈴李が桃湯を睨んでいるけれど、どこ吹く風だ。

 

「どうって、何が。頼る頼らないの話か?」

「ええ」

「そりゃまぁ、頼る必要はなくなったな。お前が私より長けていることなんて、楽器の扱いくらいだろうし。それもいつか人間がおいついていくだろうし」

「……そうね」

 

 で、と。

 

「で……頼る頼られるの関係にないことは、それほどまでに落ち込むことか?」

「怖い……のかもしれないわ」

「怖い? お前が?」

 

 あり得ないものを見るような目で彼女を見る幽谷の少女。

 けれど桃湯にとってはそうではない。

 

「私は最後まであなたを利用しようとした。協力関係だって楽器を贈ってもらったから、というもので……あなたの友になったから、とかではないし。最後は同一因子の暴走で、迷惑をかけて……こちらの世界とのリンクを繋いだのだってあなたの周りにいた二人と……鈴李の弟子で、私は何もしていないし」

「だから、それがどうしたんだよ。利用し利用される関係が、役に立つ立たないの関係が、私達のこれからにどれほど作用する。……まさか負い目でも感じているのか? いやまぁ確かにお前達にできることはそれくらいだと言い放ちはしたが、あの時は私が死ぬと思っていたからであってだな」

 

 怖い。やはり怖いのだろう。

 八千の齢の中で桃湯がブレずにあり続けられたのは、目的があったからだ。

 だから、多分、彼女の中に渦巻く感情は、怖いというより。

 

「嫉妬か」

「……そう、みたい」

「まー……お前の音は汎用性がある、とはいえだもんな。人間の前で早々使えるものでもないし……」

「自分の価値が薄れていくこと。それ自体に恐怖があって、そして……目的を持てる者への嫉妬が激しくなっていく。ほら……私って、実は信念を持つ鬼ではなかった、というのは、覚えているでしょう?」

「ああ」

令樹(リンシュ)から受け継いだ想いを"外へ出たい"という気持ちに変えて生きてきて……光界の外に出たあとは、"あなたを見つけ出す"という目的で生きてきて。……それで今、全てを失った。私には今、何も無いの」

 

 神門()に仕えて動く、ということもなくなった。幽谷の少女を鬼子母神にする、という目的も消えた。

 氏族の肉を集めて回る目的が消え──結衣は美味しいから、という理由で続けているが──彼女に残されたものはもう、何も。

 

 そうか、と。

 幽谷の少女は呟く。

 

「殺してやろうか?」

「……!」

 

 それをするだけの力が彼女にはあった。

 神族となった少女であれば、劣化氏族でしかない鬼など簡単に殺し得るだろう。

 

「……一つ。くだらん話をしてやろう」

 

 少女は桃湯の額に指を突きつける。その肌に触れているだけで桃湯にはチリチリとした痛みが走るけれど……彼女は気にせず話に耳を傾けることにした。

 

「私は今、放出する知識を最小限にまで抑えている。それによって飢餓が起きたり流行り病で亡くなる人間が増えるのだとしても、我関せず、というように」

「そういえば……遺物以外で、あなたが新たなものを作り出した、という話を……ほとんど聞かなくなったわね」

「勿体ないと、思ってしまったからだ」

 

 勿体ない。何が、か。

 

「この世は不可思議だ。初めから文字があり、初めから言葉があり、初めから生活基盤の粗方がある。原始時代……進化論を信じるのなら、智慧を有した極一部の猿が手にした石器から始まるはずだった人類の歴史は、前提から塗り替えられた」

「……あなたの、楽土の話?」

「ああ。そしてあるいは、先住民の話」

 

 少女の目は輝いているようにさえ見えた。

 あの……周囲には失望しかない、というような目をしていた幽谷の少女が、だ。

 

「歴史は嫌いだったはずなんだがなぁ。今こうして、新たな前提を手に入れた人類がどう生きていくか。どう変わっていくのかを、傍観者として見ることができる。……これは幸いなことだよ、桃湯。そして……光界で、余計な知識を残さなかった己を褒めている。そして、この思考が人間的でないことも自覚している」

「確かに……少し、鬼に似ているわ」

「そういえば、鬼は人間に与し過ぎない方が良い、みたいなことを昔奔迹が言っていたが、あれは」

「鬼が人間に智慧を与えてしまうと、時代に影響が現れる。忘れられるべきことは忘れられるべきで、況してや鬼になる術なんかを伝えられようものなら初期化が入りかねない。だから、よ」

「成程な」

 

 それと似たようなものだ、と続ける。

 

「変質したのだと思う。私は神族になってしまったことで……人間的視点が持てなくなったのかもしれない」

「それは、悪いこと?」

「今はまだ、悪いことのように思える。光界に居た頃、私自身が燧に感じていたような苛立ち。当事者であるはずなのに自ら何もしようとしない存在。願われなければ動けないというのは……そうである気がするだけで、種族的な特性ではないと知った。けれどそれも……いつかは私も、欲されなければ動けなくなるのか、と思うと……少し恐怖を覚える」

 

 だから、と。また続ける。まだ続ける。彼女は言葉を零し続ける。

 

「くだらん話だ。……私はこういうことをする存在ではなかった。死にたいのならば死ねばいいと思う奴だったはずだ。それが摂理で、道理だから、と。……だがな、桃湯」

 

 指を突きつけたままに、まっすぐ。

 幽谷の少女は桃湯を見つめる。

 

「いつか祭唄も鈴李も玻璃も死ぬだろう。……私を私のままで居させてくれる者は、同じだけの時を生きるものだけだと考える。私に……今ここで殺されるくらいなら、私のために生きてはくれないか。私が今のお前と同じか、それよりも酷い状態になった時、掬い上げるのではなく押し上げる者として」

「……なぁに、それ。告白?」

「だとしたら、鈴李に殺されてしまうな」

 

 超然とした少女だ。どこか浮世離れしていて、どこか桃湯らとは違うと考えていた少女。

 だけど、違うのだとわかった。

 

「あなた……人間だったから、あんなにも鮮烈だったのね。すぐに死ぬ人間だったから、簡単に命数尽き果てる人間だったから」

「どうやらそうらしい」

「今のあなたは、とっても弱く見える。私でも簡単に殺すことができそうなほど」

「あの頃は違ったか?」

「ええ。あの頃のあなたは、目を灼く太陽と見紛うほどに明るくて、その光を失うほどに暗かった」

 

 自嘲するように笑うその少女の名。

 

「祆蘭」

「ん」

「ありがとう。そして、承諾するわ。……私はこれから、変質していくであろうあなたのために生きる。あなたとあなたを愛する人間の関係性が終わって……真に神族となったあなたを、"祆蘭"に引き戻し続けるための存在になる。それを目的に生きる」

「そうか」

 

 指が、離される。

 して……祆蘭は、ニヤリと笑った。

 

「その黒い旗袍(チーパオ)、気に入ってくれたみたいだな」

「……ま、いつもいつもあの長い織物では邪魔なのよ。特に結衣と色んな場所を回る時は、こっちの方が動きやすくていいわ」

「さっきの。本当は告白の方が良かったか?」

「こう見えても純愛好きなのよ、私は。……ほら、鈴李のもとへ戻りなさい。彼女との時間は……他の人間よりは多いかもしれないけれど、限りあるものなのだから」

「ああ。……お前が死なない道を選んでくれて、良かったよ」

 

 そんなことを言って、少女は去っていった。

 

 空車へと昇っていくその背を見送り、桃湯は……胡弓を奏でる。

 

 森の奥から聞こえるは「んぎゃっ!?」という悲鳴。

 そしてソレが音に運ばれてきた。

 

「──覗き見とは、良い趣味を持つようになったじゃない、結衣」

「あ、あはは……な、なんか出づらくて。……で、どうだったの。()()()?」

 

 鬼の身体では青筋が浮かぶことはないけれど。

 その日の夜は、じゃらんじゃらんと胡弓がかき鳴らされ続けた……とか。

 

 

 

 観客席。それは才華競演のために一から設置されたものである。

 その縁で、男女が二人。

 

今並(ジンビン)が審査員とはなぁ。やっぱり十五年は長すぎるな。それで、この十五年間で何が一番良かった?」

「去年のが一番良かったし、多分今年のが一番良くなるよ」

「ん、審査員じゃないのか」

「審査員になっても作品作りはやめない。これは私が父と師から教えられたものだから、ってさ。去年のスピーチで言っていた」

「へぇ。私のこと、まだ師だと言ってくれているのか」

「君の名前は出していないけどね」

 

 男女と言っても親子にしか見えない年齢差だ。

 二人の間にあるのは漬物。男は酒を手に、少女は水を手に。

 

「神族は酔わないんだろう? なら思考も妨害されないんだ、お酒、飲めばいいのに」

「酔わないなら酒も水も同じだろう。人間の酒を消費してまで私が飲む理由にはなるまい」

 

 それに、こういうのは場の空気が一番美味いんだ、と。

 少女は水をごくごくと飲む。

 

「で、話って?」

「君ならわかると思っていたけど」

「殺してほしい、以外だと何も思い浮かばないな」

「それ以外無いからね」

 

 溜め息は、どちらのものか。

 

「今並、もう婚姻も結んだのだろう? だがまだ赤子は生まれていない。その子の顔を見てからでも良いんじゃないか?」

「見てはいけないよ、私は。……だから呼んだんだ」

「それが道理か」

「摂理さ」

 

 ──少女の指の中に、白い円筒状のものが生成される。

 それはまさしく神の御業。輝術における生成。

 

「これは?」

「紙巻き煙草。神族の身体は肺がんにもならんしな。吸い放題だ。……まぁニコチンもタールも入ってこないからあんまり意味ないんだが」

「煙草……。私は吸わなかったねぇ、生前は」

「そうなのか。ならやらん」

 

 少女はそれを持ち、先端に火を点け……口に咥える。

 片膝を立ててそれを持つ腕を膝の上に置き、時折近づけては吸って吐いてを繰り返す。

 あの日今潮が見た光景は、これだったのだろう。

 

「ちなみにこれを人間に卸すつもりはない」

「そうしてくれると助かるよ。それ、毒だろう?」

「ああ、猛毒だ」

 

 口から吐かれた煙は吐かれたそばから消滅している。こんな人の多い場所で吸うものでもないのだろう。神族の力をフル活用しての喫煙らしかった。

 

「殺され方。どれを選ぶ」

「おや。生きろ、とは言わないのかい?」

「桃湯になら言った。他の鬼には言わん」

「特別扱いか」

「お前達は信念に生きる鬼だからな。……陽弥も、今は玻璃を守り通すという信念を有している。そして……信念を失った鬼が。自ら殺されたいと願う鬼が出たのなら、それを叶えることくらいはするさ」

 

 猛毒だというそれを懐かしそうに吸い、ころころ笑って白煙を吐き出す少女。

 偽悪的とか、悪ぶる、とかではない。この少女は……本来の少女だ。

 

「子を捨ててまで死した鬼。幸せになるべきではないのに無理矢理幸せを拝まされた鬼。それが孫の顔を見たくないという気持ちは、まぁ、理解できる。それは道理に反してるし、摂理をかなぐり捨てている。だから死にたいというのなら、殺してくれというのなら、せめて死に方くらいは自分で選べ。それともこんなか弱く幼い少女に生命の摘み取り方を考えさせるのか?」

「か弱く幼い少女は毒煙を肺に溜めて笑わないだろうね」

「娘の出る舞台に呼び出すからどんな自慢事かと思えば、殺してほしい、などと言ってくる馬鹿親よりはか弱かろうさ」

 

 簡単に言えば……もう、鬼である意味が無いのだ。

 桃湯と同じ。いや、桃湯よりも深刻かもしれない。

 彼は今見せつけられているのだ。己がそうしなかった未来を。己がそうしたが故に苦労を重ねる娘たちを。そして。

 

「……上の子がね」

「聞いたよ、祭唄から。……不治の病だそうだな」

「ああ。そして、私が診ても……どんな力も貸せそうにないものだった」

「娘の死に目に遭うのが怖いか」

「私の信念は、妻を助けられなかったところから始まっている。……二度目は、受け入れ難い」

 

 ふぅん、と呟いた少女は。

 くだらなそうに、言葉を吐く。

 

「私がアレの治し方を知っている、と言ったら……お前はどう動く」

「何もしないよ。それは摂理に反する」

「だが、診察しには行ったのだろう。鬼が。医師でもないくせに」

「……」

「心配なんだろう」

「……それはね」

「それでも、摂理に反するからと、苦痛に喘ぐ我が子を無視するか?」

 

 漬物を串で刺して食べながら。

 水を飲みながら。煙草を吸いながら。

 

 天火と幽谷の少女は、選択を迫る。

 今潮。彼の答えは。

 

「──うん、それでもだよ」

 

 変わらなかった。

 迷い、悩みて、悔悟を残して。

 それでも──最後の一線だけは、踏み越えないために。

 

 彼は、弱くある方を選んだ。

 

「そうか」

「怒りもしないのかい」

「怒ってほしかったのか」

「いいや。私は君が無感情で無感動なことを知っていたさ。……だから君に頼んだんだ。他の鬼だと、余計な感傷を入れてくるからね」

 

 少女は……もう一度、「そうか」と呟いて。

 

「場所を変えよう。我が一番弟子の前で殺生を行うのは避けたい」

「それはそうだね」

 

 二人は観客席を降りる。一定範囲内で消える煙を棚引かせながら、路地裏へと、そして森の奥へと入っていく。

 

 道中は無言。

 そして。

 

「遺言は?」

「無いよ」

「そうか。私にはある。──光界の珍妙さに気付けたのは……お前との会話があったからだ。あの日のままの関係性を貫きたかったよ」

「……」

「じゃあな」

 

 ──薄暗い穢れは、木陰の中に、散り行けり。

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